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2010年1月3日日曜日

決断科学ノート-24(決断の要点-1;企業経営)

 組織における決断は何が決め手となるか?何を決め手にすべきか?これを企業経営、軍事作戦、政策選択で考えてみる。いずれも時間的なスパン、波及効果などが影響し、なかなか一義的には“何が決め手”か?を決するのは容易ではない。
 まず企業経営上の支配的な因子は、利益・売上・シェアーなどがその代表的なものとして挙げられる。これらが諸制約条件の下で、期待レベルを超えるか、さらには最適化することで選択肢の採否が決まる。その点では数理的な手法を適用し易い分野と言える。
 しかし、将来の予測が完全に出来ることは少ないので、制約条件の与え方が問題になる。例えば石油・石油化学の場合、省エネルギー投資で将来の原油価格がどうなるかは経済計算に大きく影響するので、企画(長期)・製造(短期)経理部門が予算編成に先立ってその予測を行い、計算のベースを定め、個別案件を検討する工場や技術部門はこれに基づいて予算計上可否を決する。
 新製品の開発や新規プラントの建設などでは特にこの将来予測が決定的で、計画そのものとそれに関するリスク分析やそれ等リスクに対する対処策(オプション)が併せて検討されるので、数理モデルに比べ経験やある種の感性の重みが増す。その一つの例は、東燃が原油処理量に比して潜在的に過大(部分能力増強可)と思われる重質油分解装置(FCC)を有していたことである。直近の市場環境からの予測ではそれほど処理量の大きなFCCは必要なかったが、将来の白物(ガソリン、灯油、軽油)製品と黒物(重油系)製品の需給バランスに対する見通しから、建設時に製造・技術・建設部門が設計処理量を決めているが、その背景には長年大株主であるエクソン・モービル(当時は別の会社)との交流を通じて、経済成長と供に白物需要の比率が高まることと原油の品質と価格動向(ガソリン溜分の多い原油は高くなる)について身近に見聞きしてきたことが影響したに違いない。
 経営における判断、決断もいろいろある。やるか・やらないかは基本的課題だが、それより難しいのは、始めてしまったことを、状況・条件が変わっても継続するか、途中で撤収するかである。これは軍事作戦にもあるが、“ノー”と言う方が“イエス(取り敢えず続ける)より辛い。なかなか常人には言えない。そんな局面も体験した。
 第一次石油危機のしばし後であった。当時の高度成長は更なる石油エネルギーを必要とする趨勢にあり、石油各社は製油所の増強計画を進めていた。東燃も和歌山工場において既存製油所に倍する、新製油所建設計画、有田プロジェクトを進めていた。用地は既に埋め立てが出来上がっており、主要設備はコンピューター、計装設備を含めて発注済だった。そこへ起こったのが1973年10月第四次中東戦争勃発による石油ショックである。原油価格は3倍になり、消費は急速に冷え込んだ。計画の前提条件は根底から覆った。継続推進すべきか否か?
 およそ半年後計画中止が決まる。この間にも機器・設備の製作は継続されており、一部は納入・検収さえされていた。脱硫装置用の高度な特殊加工を要する(従って高価な)高圧反応容器も出来上がっていた。しかし、経営陣は膨大な違約金を払ってこれらを全て(転用の利くものは除く)キャンセルすることを決した。
 ここに至るまで無論社内では甲論乙駁あり、主として経理財務面から種々のケーススターディが行われたが、最後の決め手は経営者の感性・感覚である。
 その後の石油製品需給、さらには会社の収益状況の推移を見てもこの時の決断は正しかったと言える(一部に計画を継続、完成させていれば最新鋭設備を駆使してさらなる競争力強化を図れたという意見もあるが)。
 企業経営には“収益(利益)”と言う広く理解し易い、上位決定基準が在ることが、他の組織が抱える課題に比して、決断をし易いものにしているのではなかろうか。

2009年8月1日土曜日

決断科学ノート-14(12月30日の国際電話)

 仕事柄海外、特にアメリカのソフトウェア会社と接触する機会は多かった。ソフトウェアと言っても、私の場合広い意味でのプロセス工業(化学や石油関連)の工場操業用と言う極めて特殊な分野のものである。大方は、創業者がその道の権威で、社長兼開発リーダー、経理だけ専門家を雇うと言うような規模である。その究極の形態はこのノート-1で紹介した、CDS社で、創業者は開発に専念し、経営推進者(COO)を雇うのである。こんな会社とビジネスの関係を持つ時は、大体先方も「法律家を入れて面倒な契約を交わしたくないなー」となる。こちらも願ったり叶ったりで、ビジネスの詰めをするのに率直な会話で、短期間で合意点に達する。規模が大きくなっても、創業者が株式公開を目論んだり外部から資金導入したりしない場合は、大体こんなペースで話し合いが進められる。
 問題はこのような会社がある程度の大きさになり、株式公開したり他社に吸収合併されたりした場合である。特に、株主や出資者に経営を託された“経営の専門職”と創業者・開発責任者が分離するような経営管理組織になってくると、創業者の理念や技術者同志の共感に基づく意思決定・合意形成が難しくなってくる。
 2000年の暮れも押し迫った12月30日夕刻、大掃除も終わり風呂に入っていると、家内がコードレスの電話を持って「国際電話よ」と言う。「(こんな年の瀬にいったい誰が?しかも自宅に?)」と思いつつ受話器を取った。それはASP社のD・Mと言うCOO(CEOは居るのだが象徴的な人)からだった。用件は「明日(つまり彼らの年度末)までに、ライセンシングしているソフトウェアパッケージをある数(数億円の単位)購入することを今約束してくれ!そうすれば来年度の卸売価格を大幅に値下げするから」と言うものであった。日本人の感覚では、この年末年始、これだけの金額を電話一本でコミットしろと言う要求は信じられない話である(何度か会食もしているが、自宅の電話番号は教えていなかった。日本人スタッフに調べさせたことが後で分かる)。
 ASP社の基は1980年代MITと米エネルギー庁が協力して立ち上げた、米国プロセス製造業強化策のための、プロセス設計・運転最適化ソフトウェア研究開発プロジェクトチームで、その総帥はL・Eと言う著名なMIT化学工学の教授であった。やがて、出来上がったソフトは学会・産業界で高い評価を受けることになる。そこで、このチームを会社化しNASDAQ上場を果たす。米国の典型的なベンチャービジネス成功モデルと言える。人材もデュポン、ダウ、エクソンなどこの分野を代表する企業や大学から集まり、個人経営が主体の他社を圧倒する勢いで業容を拡大して行った。ただ当初の主要顧客は大学や企業の研究所で、売上・利益は手堅く伸びてはいたものの、他のIT分野成功企業のように株主の期待する大化けは無かった。そこで取られたのが、象徴としてのL・Eを祭り上げ、経営の専門家中心の経営形態に改め、個人ベースの優れた企業をM&Aによって吸収する戦略であった。私とはExxon時代からの付き合いあったT・Bの会社、CDS社もこの戦略の中でASP社に取り込まれてしまう。最大の買収目的は当時ブームになりつつあった、サプライチェーン管理ツールとしてCDS社が持っていた生産管理ソフトウェアを取得することである。ASP社はこの分野に適当な道具が無かったのである。
 CDS社の買収価格は当時の日本円で200億円弱、他社のM&Aとは比べものにならぬくらい高額であったから、経営陣にそれだけのプレッシャーがかかっていた。それまでのプロセス・シミュレーション・ソフトとは異なる大量販売戦略が、明らかに拙速と思えるスピードで展開され、その陣頭指揮をしていたのがCOOのD・Mであった。日本マーケットにおける彼らの誤算は、CDS社と私が経営していたSPI社との長い関係に在った。足掛け10年にわたる総代理店(CDSの吸収後単なる代理店に格下げになったが)として、販売も技術も人材は全てSPI社にあったから、日本でのビジネスは嫌でもこちらに頼らざるを得なかった。
 この買収劇来、私はYahooファイナンスでASP社のインサイダー取引(関係者の株式取得、売買が公開されていた)をモニターするようになった。雇われ経営陣はストックオプションを得るのだが、D・Mを始め経営陣の大方はそれを売却し、高額の売却益を手にしていた。関係者の買い手は専ら創業者、L・Eだった。
 そんな時、上記のような電話が掛かってきたわけである。
 電話への第一答は「これだけ重大な案件は一人では決められない。年が明けたら経営会議にかけ、返事をするよ」と言うものだったが、全く納得しない。「お前はSPI社のCEOなんだろう!何故最終意思決定者として決められないんだ?」「承認規定がありCEOと言えども、これだけの金額は一人で即断は出来ない」「その会議はいつ開けるんだ?明日は?」「日本のビジネスは年末・年始の休暇に入っている。早くて1月5日だ」「世界のどこの国でも年末年始にそんな長い休みは取らない!」「今返事をしなければならないならノーだ!これが私のデシジョンだ!」 ほとんど裸に近い身で2~30分続いたやり取りは、意思決定者の義務・責任と決断を考える局面でいつも思い出す。 彼の非常識ともいえる言動には強烈な外圧が在ったのだ。
 D・Mはその後1年余でASP社を去り、後任のCOOもSEC(証券取引委員会)に虚偽報告で訴えられ、有罪になったと聞く。売却金(譲渡時は株式だったが、その後それを売却)の大半を手にし、一旦ASP社の役員に納まったT・Bは数年後そこを去り、ある日「ASP社に売却したことは間違いだった」とメールしてきた。創設者のL・Eもここを去ったが、昔の名声もあり、個人コンサルタントを続けているらしい。

2009年4月26日日曜日

決断科学ノート-6(化学企業の経営戦略)

 化学工学会の経営システム研究委員会の創設メンバーとして、おおよそ20年間活動してきた。工学系学会の研究会としてはかなりユニークなもので、社会科学系や人文科学系の研究者も含めて、化学関連企業の経営活動を掘り下げ、将来の化学工学の在るべき姿を探ることや課題解決を目的に発足した研究会である。その時々に経営手法や経営戦略、研究開発マネジメント、人材育成・教育、市場開発、経営情報システム、環境問題、グローバリゼーションなどの視点から化学企業を見つめてきた。
 この間わが国化学企業の事業変化には著しいものがある。研究会スタート時はバブルの絶頂期ではあったものの、その将来を危惧する声が意外に高かった。例えば、当時当該分野を分析した代表的な本に伊丹敬之一ツ橋大学教授の「なぜ世界に立ち遅れたのか-日本の化学産業」(1991年 NTT出版)がある。これについて伊丹先生を研究会にお呼びし議論を闘わせたこともある。ここで業界側からこの分析に真っ向から反論したのは、合成繊維メーカーとしてスタートした化学会社のメンバーであった。批判のポイントは、この分析が石油化学を代表とする少種大量生産の汎用素材メーカーを対象とするもので、何度も不況を乗り越えながら、研究開発による新製品を世に問い、新規市場を独自に開発し、事業と収益構造を変えてきた化学企業の実態を正しく捉えていないというものであった。それから18年、日本の化学産業は生き残ったばかりでなく、売り上げ規模で製造業のトップクラスにまでなってきている。汎用素材は海外シフト、特殊化学製品は電子産業や自動車産業向けに次々と素材や部材を提供し、それぞれの分野で世界における存在感を増している。つまり新規事業戦略や新製品開発戦略に成功しているということである。
 ところで私の関心事は、経営における意思決定と数理の関わりである。果たしてこのような新規事業戦略や新製品開発戦略策定・推進において数理はどのような使われ方をしているのであろうか?研究会あるいは学会のシンポジュウムなどでこれを探ってきた。特にここ数年学会の年会に併設して“先端化学技術プログラム”なるセミナーが、実業界メンバーを積極的に集めるため開催されており、毎回当研究会が主催するセッションは“新規事業戦略や新製品開発戦略”を主題とするので興味深い話題を身近に聞くことが出来る。また、研究会メンバーには合成ゴムメーカーとしてスタートしながら今では電子部材メーカーに変じた会社の研究開発・技術の総帥だったTさんや総合化学メーカーでありながらITに不可欠な記憶装置HDD事業を揺籃期から推進し、後輩たちがそれを世界規模にまで拡大した元役員のKさんなども居り身近な情報に事欠かない。
 このような事例から分かってきたことは、ノーベル賞化学賞につながる研究によくあるように、理詰めで進める研究開発が行き詰ったり、わき道に迷い込んだ時偶然新しい世界が開けるような話が多いことである。今年の上記年会併設プログラムで紹介された、旭化成が基本特許を抑えているリチュウムイオン二次(充放電可)電池の話などこの典型である(因みにここでは白川博士発明の電導プラスティック、ポリアセチレンも重要な役割を担う)。こういう話は別の製造業では先ず無く((トランジスター効果の発見のように全く無いわけではないが)、“化け”学の特徴と言えるのかもしれない。ここから言えることは、実験データの分析などはともかく、ブレークスルー型あるいは突然変異型事業誕生に数理はほとんど関係ないということである。
 しかし4月の研究会で聞いたS社のHDD(ハードディスク)事業展開の話はこの結論を再度見直すことにつながるものであった。それは“ムーアの法則”、“クリステンセンのモデル”に関することである。
 ムーアはインテルの創設者で、半導体事業の成長を観察して、半導体素子の集積度(性能向上)と時間の関係が対数指数的に発展することを経験的に導き出した。この法則は半導体素子だけでなくIT関連の構成素子・部材に適用できるといわれている。そこからこの業界では次世代製品開発の目標値や達成時期を定めて、研究開発や製品開発を進めることが広く行われている。
 もう一つのクリステンセン・モデルは、ハーバード・ビジネススクールのクレイトン・クリステンセン教授が主唱する、イノベーション(特に破壊的イノベーション)論に基づく、技術的な性能向上進行と適用分野の広がりを時間軸で捉えたモデルである。例えば、汎用大型コンピュータがミニコンに、そしてそのミニコンもパソコンに取って代わられたことがしばしばこのモデルの説明に登場する。
 今回の研究会では総合化学会社S社のHDD事業開発の責任者であったNさんの話を聞いたのだが、Nさんはムーアおよびクリステンセンのオリジナル理論の問題点を指摘しつつもそれを独自に修正して、事業推進の将来像を見据える手がかりとしていた。これは明らかに数理に基づく戦略策定であり、先のメンバーの論(試行錯誤の中から偶然生まれる)とは明らかに異なる新規事業・新製品開発アプローチであった。HDDが本来の化学製品とは全く異なり、これらの法則やモデル誕生の母体ともいえるIT産業のそのものであることから“例外的なもの”という見方もあろうが、そこに使われる素材・部材として化学製品が使われるならば、このような法則・モデルの活用の余地が十分あるのではなかろうか。

2009年4月5日日曜日

決断科学ノート-3

決断科学ノート-3
ビジネススクールにて

 1983年会社の研修制度のひとつであったビジネススクールの短期コースに参加した。派遣先はカリフォルニア大学バークレー校(本校)である。このコースはアメリカ企業の中間管理職向けのもので、約2ヶ月間経営者に必要な知識を一通り教え込むことを目的としていた。この年のテーマは「アメリカ企業を如何に再生(Revitalize)するか?」であり、特に日本の勢いが強かった時だけに、唯一の日本人生徒であった私は何かにつけ注目され、その後の人生に転機をもたらすことになる2ヶ月であった(滞英記-10(1)に関連情報)。
 ビジネススクールのカルキュラムといえば事例研究(ケースメソッド)が有名だが、この短期コースではそれは数例で、それよりも国際政治からエネルギー問題、産業政策(特に日本の)など幅広いテーマの講義とそれに関するディスカッションを中心に構成されていた。“再生”に真に必要なことは小手先の戦術論だけではないと言うことであろう。
 1951年度ノーベル化学賞受賞者のグレン・シーボーグ教授(106番目の元素は彼を讃えて“シーボギウム”と名付けられた)、のちにクリントン政権下で“日本異質論”を展開することになるチャーマーズ・ジョンソン教授(日本の通商産業政策研究に関する世界的権威)、当時の中曽根首相とも親しく東アジアの政治に詳しいロバート・スカラピーノ教授(この人は1941年ドナルド・キーン等と戦争遂行のため日本語を本格的に学んでいる)などアメリカの知性を代表する錚々たる教授陣と少人数(全部で20人)の学生が、文字通り膝を交えて行われた授業は、緊張の連続であるとともに、アメリカのビジネススクール教育の底力を痛感させられる毎日であった。
 そんな中で、ある時教室に8ミリ(ヴィデオだったかもしれない)映写機が用意され、英国の製鉄会社(公社だったかもしれない)の経営会議を延々と映し出し、これについてディスカッションする授業が行われた。学部卒業者向けの長期コースにも使われる、どちらかと言うと“方法論”の授業である。
 ここで取り上げられた経営会議は決して模擬ではなく、実際の会議を初めから終わりまで撮影し、授業に関係ない部分をカットして編集したもので、会議の議題は電気炉の投資案件を決するものだった。映写時間は40分くらいであっただろうか。カメラは冒頭の議長役の開会挨拶(?)から担当者の説明、これに対する議論を、最終決定に至るプロセスを休憩時間の参加者の行動を含めて追っていき、それを観たあと意思決定が如何に行われるかを、分析・学習するものであった。見せるために作られた作品ではないので、あまりストリーに抑揚も無く、率直に言って当時の英語力(特に聴き取り)では、案件が電気炉の採否であること、そしてそれが採用されることになった結論以外にはほとんど理解できなかった。つまり会議参加者の発言内容を理解できぬまま終わったと言うことである。
 しかし、本当の授業はここから始まるのである。教官(比較的若い)はこれを観たあと、「内容に何か質問はあるか?」と切り出し、圧倒的に多い事務系の学生から電気炉や製鉄業についての質問がいくつか続く。それらを片付けると「このフィルムを観て気のついたことを話せ」と学生に発言を促す。「経済評価で議論の対立があったが、確かに説明が理解しにくかった」「Aは他の人の意見をきちんと聞かず自分の主張を繰り返していた」などと同級生が話し始める。教官がそれに対して「経済評価説明のどこが理解しにくかったか?」などと切り込んでくる。クラスの過半のメンバーが発言し終わると、私の顔を見つめる視線が気になってくる。「(お前も何か言えよ)」と言う合図だ。「(議事内容がほとんど解らないのに何を喋ったらいいんだろう?)」。
 実務を通しての経験と勘を基に、意を決して喋ることにした。「正直言って、議事の内容はよく理解できなかったが、BとCの関係について気になることがあった。私の理解ではBは明らかにCよりも地位が上である。しかるにBは自分の発言に対するCの反応をしきりに気にしていたし、他者の発言時にもCを見ていることが多かった。また休憩時間にもBが熱心にCに語りかけていた」「ほかの人間もCに注目している傾向があった」「公式の組織上のリーダーはBかもしれないが、実質的な力関係はCが上ではないか?会議全体のキーパーソンはCではないかと思う」と専ら映像から理解したところを述べてみた。「いいところに気がついた!組織の意思決定ではパワーストラクチャーの把握が大切だ」 それからはこのパワーストラクチャーに関する講義が中心の授業になっていった。
 “トップダウン”があたかも定石のように言われる欧米の意思決定でも、“場(必ずしも会議の場だけではない)”の空気を汲み取りすっきりと決断できることが理想的である。パワーストラクチャーの分析把握を正確に行い、リーダーがこれに基づいて自らの考えを実現するシナリオを用意して、意思決定の場に臨むことの重要性をここで改めて体系的に学んだ。シナリオの中身が単なる“根回し”でないことは言うまでもない。冷徹な論理を、要路に在るキーパーソン向けにどう料理できるかが問われるのである。