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2009年3月17日火曜日

滞英記-18(最終編)

Letter from Lancaster-18(最終編)
2007年11月21日

 10月11日、5ヶ月と3日にわたる滞英生活を滞りなく終え帰国しました。本来の渡英目的である“OR歴史研究”に期待以上の成果を上げることができた上、一度も体調不良・事故(国際免許証一時紛失や大水による計画変更などを除き)なども無く過ごせました。これもこのレポート読者諸氏の温かい励ましがあっての賜物と感謝する次第です。
 1970年の初めての海外出張(アメリカ、フランス)以来、業務・観光で訪れた国の数は23カ国になります。そして英国は24番目の国になりました。回数、滞在期間ともアメリカが圧倒的に多く、通算2年近くになるでしょう。友人も一番多く、彼らの自宅にも何回も宿泊していますし、家族ぐるみの付き合いを続けています。次いで回数が多いのが韓国です。距離的に国内とさほど違いが無いこともあり、滞在日数はトータル2,3ヶ月ですが先方からの訪問も多く、友人としての親密度は一番高いかもしれません。次女が韓国の大学に留学する際はよろこんで身元保証人になってくれた家族もあります。この両国は単なる好奇心や憧憬対象の外国ではではなく、日常生活が繋がった外国と言えます。そして今回それに英国が加わりました。
 帰国出立の朝は快晴。珍しくホテルのロビーで日本人の団体に会いました。若い女性が多く、聞けば千葉県松戸市(私の少年時代過ごした町)にある聖徳女子大の研修旅行とか。これから湖水地帯を経由してエジンバラへ向かうとのことでした。初めての英国旅行に皆興奮気味でした。ランカスターでも紅葉が始まっていましたから、北へ向かう旅はさぞ素晴らしいものになったでしょう。
 9時15分発の短い4両編成マンチェスター空港行き列車は定刻通り発車。やがてランカスター大学の学寮が見え、はじめて来た時と同じように、なだらかな起伏の中に美しい緑が広がっています。「(また来るよー)」と心の中で叫んでいました。歳のせいで感傷的になりやすく涙が出そうでした。しかし緑の美しさは同じでも、来た時と去る時のそれは明らかに違います。緑の足元をこの5ヶ月確り見てしまったからです。そこには家畜の糞が至る所にあり、ハイキングのフットパス(歩道)はぬかるみ、軽装では歩けないほどです。観光で訪れる英国は遠目に見た美しい緑の田園風景、生活してみた英国は緑の足元とも言えます。日常の買い物、休みの過ごし方、犯罪、教育、医療、年金、環境問題、地方や国の政治などを見るにつけ、「彼らも毎日必死で生きているんだなー」との思いを深くした次第です。
 私の滞英生活の結論;研究生活は素晴らしかった。自然環境はや日常生活は穏やかで静かだ。しかし決してうらやむような国ではない。むしろ限りなく我々に近い生活観の国だ、と言うところです。このレポートの結ぶため、二つの主題:一つは日常生活と密着する「政治と政党」、もう一つは研究活動と関わる「Mauriceのこと」を取り上げることとしました。

1.政治課題と二大政党
1)英国の政党 皆さんもご承知のように英国を代表する政党は労働党と保守党の二大政党です。古はホイッグ党(議会派)とトーリー党(王党派)が存在し、議会民主政治のさきがけを成してきた国ですが、王権を巡る争いの中で次第にホイッグ党の存在があいまいになり、それと前後する社会主義の台頭でトーリーの中に埋没し現在のような労働党と保守党の対立構造が出来上がっていったのです。従って保守党は”Conservative Party”と表現されるだけでなく、メディアでは”Tory”もよく使われます。実は労働党側もイデオロギー重視で左傾化が激しかった時代にこれを嫌った分派活動があり、ここから第三の政党“民主党”が生まれています。この民主党は国政では保革接近時以外ほとんど力がありませんが、地方選挙では強く、最近環境問題を中心に存在感が出てきている“緑の党”とともに中央とは異なる政界模様を作り上げています。
 本レポートの現地最終版(17)をお送りした後、民主党、労働党そして保守党の党大会が隔週で開かれました。さらに10月9日(離英前日)労働党内閣のChancellor(副首相格で予算方針策定者)によるPre-Budget Plan(予算3年計画)の下院への説明がありました。これらをTVで視、新聞を読み(この時だけ買った)、Mauriceと話すことによって、英国がどんな問題を抱えそれらにどう取り組もうとしているかが見えてきます。
 政党大会の報道は日本に比べはるかに大衆化しています。BBCでは大会前日(いずれも日曜日)から大きく取り上げ、党首や実力者へのインタビューが行われますし、新聞は支持政党(ほとんどの新聞はどちらを支持するか旗幟鮮明)を盛り上げる記事がいっぱいです。特にBBCの日曜時事特番“Andrew Marr Show”(午前9時~10時)は党首を出演させ、有名ジャーナリストのMarr氏が舌鋒鋭く迫る興味深い番組で、建前ばかりで一向に議論がかみ合わないNHKの日曜討論とは大違いです。
これらの党大会や報道を見ていて感じることは、力点の置き方は違うものの、両党の政治課題に対する取り組み姿勢に大きな違いを感じないことです。労働党と言っても、わが国の嘗ての社会党や共産党のように教条的でただ与党の政策に反対することだけが存在意義のような政党ではなく、「これなら国政を任せても良いかな」と思わせる柔軟性・現実性を持っています。欧州社会主義政党共通の成熟した姿勢を感じ、羨ましくさえ思いえました。
 それでは身近な政治課題に対する両党の取り組みを、私が理解した範囲で解説してみたいと思います。


2)身近な政治課題
①国際関係・外交

 以前お伝えしたように国際関係・外交はあまり頻繁にニュースになりませんが、アフガン・イラク、パレスチナ、EU統合は比較的頻繁に取り上げられます。
 先ずアフガン・イラク問題ですが、アフガンは国連での同意、EUとしての積極参加もあり参戦の意義まで遡って議論することは少なく、個々の作戦やアメリカとの協調の是非が問題になるくらいで、両党の主張に大きな差異を感じません。むしろ、歴史的な背景(ロシアの南下政策を止めるため、インド支配の一環として取り組んだアフガン制圧が上手くいかなかったこと)、さらに陸軍大国ソ連の介入さえ頓挫したことを踏まえ、厭戦気分が広がり、戦死者への同情が高まっていることが政府にとって一番気がかりなことでしょう。そのため、ブラウン首相はこの国への軍事介入の目的である、テロ撲滅に対する強気の姿勢を崩してはいません。
 しかしイラクはアフガンと異なり、ブッシュ・ブレア交友が基になって踏み切ったとの見方が強く、現役の陸軍幹部からさえ誤判断批判続出です。ここでの泥沼からの脱出はある意味で労働党に対して踏み絵になっています。アメリカとの共同歩調か国内世論かの選択です。そんな状況下、保守党大会の最終日、この日は党首キャメロンが総括演説をする日ですが、ブラウンはバスラに飛び兵士を慰問するとともに“来年3月には現在の派兵規模(5000人)を半減する”と発表しました。党大会の仕上げをぶち壊す(メディアの話題をさらわれる)、見え見えの人気取り政策に保守党が怒り狂ったのは当然です。湾岸戦争当時の首相メジャー(保守党)がTV出演し、軍事政策に対する労働党の定見の無さを痛烈に批判していました。この問題はイラク問題の解決策が依然見えないだけに、今後の大きな政争の材料として残りそうです。
 EU統合は、経済的な面(通貨を除く)や域内行動の面では概ね英国でも評価されています。問題は政治統合です。欧州憲法、欧州内閣と元首、統一外交政策などがその具体的懸案事項です。
 この問題に対する労働党と保守党の違いは、どちらかと言えば労働党は積極的、保守党は消極的と言えます。しかし労働党支持者の中にも英国が独自路線(特に、外交とセキュリティ政策)をとることを支持する向きも多く、国民投票(Referendum)をやれば反対票が賛成票を上回るのではないかと推察します。特にEU憲法制定には反対意見が強いようです。フランスがこれにノンを出してから、ドイツは何とか英国の賛同を引き出そうとブラウン首相に積極的に働きかけています。私の滞在中ブラウンは“覚書つき”で通すか、また国民投票をやるか、明確にはしていませんでしたが何とかまとめたい意向のようでした。
 滞英中外交や国際関係で日本が登場するシーンはほとんど無く、日本関係の映像がBBCに現れたのは、中越地震(特に原子力発電所)とビルマ(英国では依然ミャンマーでなくビルマ、ヤンゴンではなくラングーンを使用)における日本人ジャーナリスト射殺くらいでした。一部のインテリは、新聞を通じてアフガン支援の海上補給が参議院選挙の結果国際問題になってきたことを知ってはいますが、これもTVでは全く紹介されていません。無論総理大臣の名前など誰も知らないと言ってもいいでしょう。
帰国してから、英国の政治情勢が一般のTVや新聞でどの程度報道されるかチェックしていますが、ほとんど眼にしません。日英双方とも互いにほとんど相手に無関心なことに変わりはありません。
②医 療 医療と教育に関しては、もっと早い機会に本報告で行いたいと考えていましたが、部外者にはその姿がなかなか分からないため今回まで延び延びになっていました(現時点でもよく分からないことだらけです)。しかし、政治的に極めて大きな課題ですので理解する範囲で解説を試みます。
 優れた英国の福祉政策を代表する言葉に“ゆりかごから墓場まで”があります。その中核を成すのが医療と年金で、医療費は原則タダ行われることになっています。しかし、垣間見た実態は問題だらけであることが分かってきました。肥大化したNHS(National Health Service)と称する医療サービス機構(医師、医療技術者(看護師を含む)、救急隊員、医療事務担当など40万人を超す)とそれに要する費用、サービス内容などがしばしば政治ニュースで取り上げられる他、特定の病気(例えば乳がん)に対する国としての取り組みなども党大会で論じられたりします。システムは立派だが実際のサービスが伴わないと言うのが現状なのです。
 政治問題としての医療を論ずる前に、ここの医療システムについて簡単に述べてみたいと思います。
外国人を含め英国で医療サービスを受けるためには、先ずその地区の担当医(General Practitioner;GP)に登録する必要があります。担当医のいる所は病院ではなく診療所と言っていいでしょう。簡単な診断・治療・処方(比較的手に入れやすい薬をくれる程度)を行い、これで治癒すれば良いのですが“GP”の言葉が示すとおり専門医ではないので、少しややこしい病気だと対応できません。次のステップはこのGPが適当な病院を紹介してくれます。病院を訪れると直ぐに診断・処方に入れることは稀で、診断・処方の“日取り”を決めてくれるだけです。一週間ほど先になることなど当たり前です。「この間に大変なことになるかもしれない(死ぬかもしれない)!」こんな恐怖に慄きながら幸運を祈るしかないのです。無論急患は救急車で病院に直行ですが、日本同様受け入れ拒否も生じています。このような事態が生ずる原因は専門医や施設の不足にあるようですが、“差別(人種)”もあるようです。
 医療荒廃の主因を、保守党(特にサッチャー政権)の医療関連予算圧縮・民営化促進に求める声をよく耳にします。例えばそれ以前(20年以上前)、GPの年収は10万ポンド(現在の為替レートで約2300万円)だったそうです。これは今の英国でもかなりの高額所得者です。サッチャー首相はこのNHS関連予算の大幅削減の中でGPの年収カットを実施しています。結果高い技術を持つ医師達が多数、医師免許が相互に通用するアメリカへ出稼ぎに行ってしまいました(これが現在まで続いている)。また、医療現場という3K職場から英国人(ここでは英国籍の白人)が去り、旧植民地からの安い労働力でここをカバーしなければならない状態になっています。保守党はこのNHS機構の再構築を始めとした医療態勢の改革(当然予算圧縮を伴う)を標榜していますし、労働党も党大会まではかなり厳しい見方しているように感じていました。しかし、保守党大会後ブラウンとキャメロンの支持率が急接近した影響か、10月9日のPre-Budget(3年間予算)では医療関連予算が大幅に増加し、メディアは「今回の予算の最大の勝者は医療」とまで伝えています。果たして、安心して医療サービスが受けられる良き時代が再び来るのかどうか?福祉先進国家の真価が問われるところにきています。
③教 育 この問題も、週報の中でご報告したいと思っていたテーマです。しかし、教育システム、特に中・高(これが一貫制になっている)がよく分からず逡巡してきました(今でもよく理解できていません)。先ず、パブリックスクール(呼称とは違い、私立の有名校;イートンなど)とグラマースクール(公立校)の教育体系や大学進学時の扱いの違い、またこのグラマースクールに“Comprehensive(包括的)”と“Hybrid(混合的)”があること、グラマースクールでは生徒により卒業必要年限に違いのあることなどの実情がよくわかっていないのです(ご存知の方は是非ご一報ください)。そこでこのレポートでは話題になっていることと政治課題について記述することにします。
・小学生の学力(国語・算数)低下:改善傾向にあるのだがEU諸国で最も低い。これを学校の選択と評価により差別化し、良い学校には支援を厚くしようというのが保守党(このような政策はもともとサッチャー政権で生まれた)。これに真っ向から反対するのではなく、全体の底上げ(教職員の増加や処遇改善)をしようというのが労働党です。
・大学入学者の増加:労働党は既に40%を超える同年代大学進学率(’60年代には6%台)をさらに上げるための経済支援策を直近の党大会で打ち出しています。これ対して保守党は質的向上こそ優先すべきで、優秀な大学に予算配分を厚くする政策を掲げています。また労働党はオックス・ブリッジへのグラマースクールからの入学率アップにも熱心で、保守党これに批判的です。
・英語(国語)教育の充実:移民、旧植民地からの移住者対策。これは両党とも重要課題と考えており際立った違いはありません。
・いじめ問題:特に東欧からの英語を話せない移民の子弟がいじめに遭う傾向にある。犯罪対策の一部としてもクローズアップされています。学校でのいじめ問題は決して日本だけの現象ではありません。
④犯罪・テロ対策
・少年犯罪
(被害者、加害者双方)の多発について既に何度かご報告していますが、大きな社会問題の一つです。これに銃器・飲酒・麻薬とエスニック問題が絡んで複雑な様相を呈してきています。
家庭内暴力(父親の子供や妻に対するケースが多い)もしばしばTVで報道されます。傷だらけの女性がそのまま画面に現れるので視るに耐えないほどです。
強盗事件も増加傾向にあります。嘗ての英国の強盗事件は、犯罪小説の格好の題材になるような見事なものもありましたが、最近多発する事件は、窃盗の居直りや一人暮らしの老人襲うもの、日本でよくあるコンビニ強盗の類が多く、弱いものを粗暴な手段で痛めつけ僅かな金を奪うようなものが増えています。
テロに関しては、滞英中ほぼ同じ時期にグラスゴー空港とロンドン中心部で発生(ロンドンは未遂)しました。国際問題でアメリカと同一歩調をとることに対する反抗、旧植民地からの移民の欲求不満、北アイルランド問題など、この国独特のテロ発生要因を抱えていることがテロ対策を複雑なものにしています。
実はEUの統合推進に関して、このテロ対策を含む安全保障政策を一本化することに反対する勢力があり(どちらかと言うと保守党系)、統一推進派(主として労働党、中でもブラウン首相の周辺)との対立がEU問題の度にクローズアップされます。いずれのテロ潜在要因も国防・外交と深く関わるだけに単なる犯罪対策とは異なる、国策絡みの政治課題としての対応が必要になってくるのです。
 以上述べた犯罪・テロに対する対処療法は、警察力の強化と言うことになります。労働党大会ではブラウン党首がこれを具体的に提言していました。保守党も目先は変わりません。しかし、犯罪の病根はもっと深いところにあることは自明です。例えば、少年犯罪の増加は“彼らが将来に希望を持てなくなっている”ことにあります。“何故希望が持てないか?”“それをどう改善すれば良いか?”。経済が大きな役割を担うことは間違いありません。しかし20年近く経済成長を続けてきた国、欧州主要国で失業率が一番低い国で問題が起こっているのです。“格差(保守党の自由化・民営化政策)と既得権(労働党が支えてきた労働慣行、福祉政策)に問題あり”が私の見立てです。根本的な少年犯罪防止策は簡単には見つかりません。
⑤環境問題 既報で、英国の環境問題への取り組みが今ひとつ盛り上がりを欠くようなことを述べました。しかし、政治の季節になって少なくとも両党ともこれを大きな政治課題として取り組もうとしていることを知りました。今年英国を襲った記録的な大雨がそれを加速させたのではないかと推察します。二酸化炭素増加による地球温暖化が異常気象を生じさせ、結果としてあの大雨による洪水が各地で大きな被害をもたらした、と言う論法がかなり説得力を持つようになったのです。“CO2増加の元凶は飛行機だ!”と言う訳で税金をここにかけることは労働党、保守党とも同じです。誰が払うかだけが違うのです。労働党は航空会社。保守党は利用者。しかし航空会社は多分そのツケを利用者に廻すはずだから結局同じになるはずです。この辺は労働党がずるい立ち振る舞いをシャーシャーとするのです。
 環境対策には、別に既に環境税(詳細不明)が適用されていますが、保守党は企業の活力を殺ぐのでこの削減を謳っています。
 日常的な環境問題はリサイクルがもっとも関心が高く、両党(特に地方の)ともこれには同じように力を入れています。
⑥財源と税・選挙民に心地よいスローガンを掲げるのは、どこの国の政党も同じです。労働党大会は冒頭ブラウン党首(首相)の施政方針(マニフェスト)から始まりました。先にご紹介した乳がん対策も含め、あれもこれも直面している社会問題への解決決意表明でした。部外者である私でさえ、「オイオイ素晴らしい決意表明だが、どうやって解決するんだい?お金はどうするんだい?」と質したいほどでした。案の定、翌日のメディア(中立系・保守系の)も保守党もこれを糾す論調で溢れていました。実は、労働党大会に対する最大の関心事は、新任のブラウン首相がいつ総選挙をやるのか(早くやるべし)でしたが、これは完全に無視されてしまいました。この反動もありメディアはブラウン批判を強め、マニフェストの実現策を示すよう声高にこれを求めるようになりました。
・続いて翌週開かれた保守党大会は、当にこの批判に答える形で展開します。党首の施政方針は最終日に行われ、党首キャメロンは財源・税制を核に据えて労働党のマニフェストを批判すると伴に、保守党独自の施策実現を訴えました。法人税を他国(ここでは日本も出てくる)が低減方向にある中当然下げるべきであること、相続税を下げること(これはバブルで不動産価格が上がっていることから目玉)、超富裕税の新設、環境対策に空港税を設けること、足りない財源は肥大化した政府現業や一部福祉政策の見直し(特に医療、教育;言葉では明言しないが首切り、差別化を伴う)でバランスさせることなどを打ち出しました。キャメロンの良さは、若いリーダーによくある、細部を論理的に説明するところにあります(これは時として欠点でもある;放送メディアのように時間が限られると尻切れトンボになる)。施策の中には問題になるところも多々あるが、具体的だったことが評価され、直後の世論調査ではブラウン労働党と五分五分のところまで人気を回復しました。この週の金曜日、ブラウンは総選挙実施を早期には行わないことを明言します。
・次の週(私が帰国する週)、10月9日冒頭ご紹介した、労働党内閣のChancellor(副首相格で予算方針策定者)によるPre-Budget Plan(予算3年計画)の下院への説明がありました。なんと!保守党の財政案;富裕税新設(特に外国籍の超富裕層)、相続税低減(課税対象閾値を30万ポンドから60万ポンに上げる;不動産バブルで効果大)、空港税新設をちゃっかり取り込んでいたのです!議場は野次で大騒ぎになりました。深夜番組で紹介される翌日の新聞第一ページは、どこも大きな字体の“Magpie”と言う言葉が目に付きます(翌日搭乗したBAでもらったTimesにもこれが使われており、お土産に持ち帰りました)。保守党系の新聞にはこれ以外に、“Stolen(盗まれた)”、“Thief(盗賊)”等の単語が至る所に見られます。
 Magpieとは、矢を射る的の真ん中の黒い円の次にある二番目の円形部分のことです。つまり、真ん中が保守党の政策、次が労働党の政策で、この政策は保守党の考えを丸ごと取り込んだで二番煎じと言うことです。抜けぬけと人気挽回の保守党の政策を盗み取る労働党に、わが国の教条的な社会主義政党のイメージは全く重なりません。実は、好景気を持続する英国の経済政策は、基本的にはサッチャー政権時に行って来たことを労働党が若干修正した程度のものなのです。この位のことを平気でできるようにならなければ、政権政党にはなれないでしょう。欧州の社会主義政党がしばしば政権を取れるのも、同じような行動パターンを持つからに違いありません。
 財源に関するトピックスをさらにご紹介すると、大盤振る舞いの労働党予算案では当然先の税制手直し程度では賄えません。どうするか?借金をするのです。ChancellorはBorrow(借りる)と言う表現をしたので、これが国債(Bond)かどうかは分かりません。しかし、労働党よお前もか?!の念を禁じ得ません。金融業に歴史のある英国だからこんな発想になるのでしょうか?!そう言えば、ブラウン首相誕生の折、スーパーカジノでお金を集める案が本人の口から出て、労働党の一部も保守党も唖然とさせられました。保守党が行っていたものを、ブレア労働党が止めたいきさつがあるのに、同じ労働党の新党首が復活するというのです。わが国民主党に、この位のしたたかさ、厚かましさを持った政党になってもらいたいと願うのは私だけでしょうか?
⑦政治家と総選挙政党の特色は党大会を中心にかなり勉強する機会が有りました。しかし、二つの政党の政策に、重なるグレーゾーンがかなり広い中での選挙戦はどうなるのか?残念なが滞英中に体験することは出来ませんでした。断片的に聞いた選挙絡みの話題を列記することで、その実態を垣間見たいと思います。
党内の派閥:ある種の派閥(グループ)はあるようです。ただこれはわが国の派閥のように人間のしがらみで出来上がっているものとは違うようです。政治信条の違いからルーズな結合状態にあるので、個々の政策によっては別行動が当然あります。民主党はそのような状態からスタートし労働党から分離したとのことです(一部は保守党からも参加)。
議員への道:下院に関する限り、わが国の地盤世襲議員のような形は無いようです。若手はほとんど党の下部組織で活動し、それを認められて候補者に選ばれ総選挙で勝って議員になっています。キャメロンはその典型です。
ブラウンのケース;牧師の子、大学院の研究者(歴史)、スコットランド労働党員、スコットランド議会の議員(閣僚も経験)、次いで下院議員と上ってきています。
選挙区での選挙戦:いわゆる小選挙区制で、政策に大きな違いが無いこともあり、かなりえげつない“個人攻撃”が展開されるとのことです。女性関係、飲酒癖、経歴詐称、資産内容(借金を含む)などの暴露合戦でとても紳士の国の選挙イメージでは無さそうです。
・メディアの言動:メディア、特に新聞(一般紙、タプロイドともに)は政党色が強く、選挙時の反対党への攻撃は、とても良識の府とは言えない凄まじい報道になるとのことです。こんな新聞メディアの中で比較的良心的(中庸)なのは、タイムズ、ガーディアン、デイリーテレグラフなどと言われています。タプロイドは総じてセンセーショナルな記事が売り物で、知識人からは胡散臭いものと思われています(しかし、よく売れている!)。
組織:労働党の場合、当然労働組合の支持が影響してきますが、産業構造の変化や民営化推進で組織力は低下しており、ブレアはこれを頼りにしない(つまりサッチャー政策の換骨奪胎)ことで新しい支持層を開拓しました。その意味で労働組合(特に政府系)は両党から距離を置かれるような状況になってきています。滞英中、刑務官(実は民営化されていた)と郵便現業員(集配・仕分け)の待遇改善ストがありましたが、労働党政権は実に冷たくゼロ回答でした。一般の人もほとんど支持していません。
 ただ先に“医療”のところでご紹介したNHS(労働組合ではありませんが)に対して労働党は大変気を遣っているし、予算も増やす方向にあります。それはNHSそのものの組織力に対する気配りではなく、医療サービスを受ける人たちの不安解消とそれによる票獲得が狙いと言えます。

2.Mauriceのこと
 いままで何度もわが師、Maurice W. Kirby教授をレポートに登場させましたが、主として研究中心でした。最終レポートとして、英国で最も親しく付き合った友人そして典型的な中産階級知識人として、彼をあらためてご紹介したいと思います。
 生まれはイングランド中東部ダーリントン(Darlington;1821年初めての商用鉄道がこの町とストックトンを結んで開通した)、英国国教徒、今年11月で64歳。家族はバーバラ夫人(多分57歳)との間に一女一男。父親はクリーブランド橋梁(オーストラリア、シドニーのハーバーブリッジなどを作った当時は大手の橋梁会社)の資材調達担当で教区教会の役員。それもあり日曜日は、朝のミサ、昼の日曜学校、夕方のミサと教会漬けで“Death Day”だったとか。夕方のミサが終わるのを待ちかねて家に飛んで帰り、TVの子供番組を視ることだけが日曜日の楽しみだった少年時代。
 地元のグラマースクール(公立中高一貫校)を出て、イングランド北東部(スコットランドとの国境)の町にあるニューキャッスル大学でBA(経済学)、郷里に近いシェフィールド大学でPhD(英国経済史)を取得しています。どうやらその際博士論文作成をバーバラに伝ってもらったようで、博士号取得直後Maurice27歳、バーバラ20歳の時に結婚したそうです。
 最初の任地はスコットランドのスターリング(Stirling)大学。ここで講師(Lecturer)、准教授(Reader)を務め、その時代書き上げた(1979年出版)「The Decline of British Economic Power Since 1870」で注目され、より知名度の高い大学への転職を可能にしました。この著書の言わんとするところは、“英国病は、巷間言われている1960年代に始まったのではなく、大英帝国絶頂期;ヴィクトリア時代に既に始まっている”と言うもので、この分野の専門家にかなりのインパクトを与えたようです。
スターリング大学は、彼個人にとっては飛躍の機会を掴んだ記念すべき大学でしたが、在職中サッチャー政権が誕生し、大学予算が大幅に圧縮される事態になり、結果として図らずも同僚との激しい生き残りゲームが展開されることになるのです。ここで彼は先の著書もありゲームの勝者となりますが、それが心の痛みにもなりそれが未だに拭いきれないと言っています。心根の優しい男なのです。その後(確か)ノッティング大学を経てランカスター大学に教授として迎えられたのです。
 若い頃は学部や大学院でかなりのコマ数をこなしていたようですが、さすがに定年を来年(65歳が定年)にひかえ、授業は大学院中心の限られたものになってきているとのことです。彼がいま指導している博士課程の院生は2名でそれほど手がかかっているように見えません。一方で古株の教授として管理業務は多くなっており、カレッジ(学寮)のプリンシパル(学寮長)の他にマネージメントスクールと大学の委員を十数務めています。また経済史ではその知名度もあり、8大学の博士課程の審査員をしています。若い時はともかく、今は授業の準備などあまり必要が無いので家では仕事をせず、研究活動は大学に限っており、そのために夏休みでもほとんど大学に来ていました。
 彼の講座、(英国)経済史、は定年後なくなり、計量経済史に変わることが決まっています。この方が時流にあっているようですが経済をマクロな視点で見るためには本当に良いんだろうか?とその効用を疑問視しています。定年後の予定も既に大学との間で話し合われており、無給で残り(研究場所を提供され)共同で“プロジェクト”をやると言っていました。多分大学史(あるいはマネージメント・スクール史)をまとめるのではないかと思います。
 所得税が高いこと(40%)、年金が厚いことで、定年後は税金がかからないこともあり、実質収入にほとんど変化なさそうです。他の優遇処置を考慮すると経済的なゆとりはやや増えるようなことを言っていました。この辺はさすがに福祉国家ですね。こんなうらやましい環境ですから「定年後も是非大学に訪ねて来てくれ」と言えるのでしょう。
政治的な話題が好きで、よく英国の政治を語ってくれましたが、特定の党の党員ではありません。話の内容から、労働党贔屓ですが、何でも国に要求し、既得権を離そうとしない、組織依存の旧来の労働党にはかなり批判的で、経済効率の視点から、経済政策に関しては保守党の政策(例えば民営化推進)にも理解を示しています。しかし、これによって格差が拡大したのは確かで、行き過ぎ是正が必要との考えです。アーノルド・トインビーの孫娘に有名な社会学者がいます。彼女は貧民街に潜り込みその生活実態を体験・調査し、如何にサッチャー政策が貧しい人たちに犠牲を強いるようになったか、それがどれほど悲惨な状態かをレポートしています。Mauriceは彼女のことを「自分の考えに近い人だ」と言っていました。
 アフガン政策なども歴史的視点で捉え、「大英帝国もあそこでは苦労したし(ヴィクトリア朝時代ロシアの南下政策の緩衝地帯としてアフガニスタンを抑えようとした)、あの最強の陸軍国ソ連も制圧に失敗した。時間がかかること必定。それでも日本の海軍(海上自衛隊のこと)はアフガン大義名分でアメリカに付き合うのかね?」などと、民主党が喜びそうな質問をぶつけてきます。イラクへの軍事介入に関する労働党の施策(ブラウン首相は、バスラからの撤退は治安が回復したからで、軍事的勝利とも言えると宣言をしていますが、保守党はとても勝利などと言える状態ではないと反論しています)にも批判的で、ここでは保守党に近い見解を示しています。
 経済・景気についてはお得意の分野だけに、一言質問すると滔々と解説してくれます。20年近く持続している英国の好景気(経済成長)はサッチャー政権時代既にその兆候が現れており、労働党はその手入れをして実りを刈り取っているだけ、と言う見方を肯定しています。ただ民営化の行き過ぎは明らかに在り、社会インフラを支える人たち(教育、医療、警察など現業公務員・公社員)が経済成長の恩恵を受けられず、昔に比べて相対的にも絶対的にも貧しくなってきていることには保守党の政策に批判的な立場をとっています。
 製造業でエンジニアとして働いてきた私の経験、日本人のもの作りへのこだわりなどから、英国の製造業を見ると“惨憺たる状態”に思えます(既報の“自動車産業”で私の見方をご紹介しました)。しかし、彼に言わせれば“製造業が振るわないことと、経済が振るわないこととは別”と言うことになります。長期的視点で経済を見る学者の目は、“第四の波”の著者、アルビン・トフラー同様、ポスト(脱)工業化社会到来は歴史的必然とクールに現状を見ているようです。“EUの中でこれだけ持続的成長をしている国は無い”“失業率も一番低い”“金融業は今降ってわいたものではない。17世紀から英国の得意な産業だ”“製造業がダメと言っても、時代の先端を行く航空宇宙産業、医薬・バイオではトップランナーだ”、工業後進国;ドイツ、アメリカ、日本そしてBRICSに18世紀来新技術・新市場を開拓してはそれを奪われ、克服し今日に至った英国の経験と矜持を痛感させられた経済問答の一場面です。
 しかし、製造業の重要性は彼も解かっているのです。それは、製造業に比べサービス業(金融業もこの範疇)では所得分配の偏りが大きいことです。一部の成功者の所得と大多数(並以下、パートなど)の所得が極端に開きます。平均してしまうとこれが見えなくなります。彼は、成長の中で格差の拡大が続いているとの見方をしています。富の再配分を如何にすべきか?この答えは彼も持ち合わせていないようです(労働党の“超富裕者税”はこれを意識したものでしょうが、実効があるとは思えません)。

 以上は主として表の顔と言って良いでしょう。子供の時代はさて置き、最近の彼の私生活を覗いてみましょう。
先ず家族です。バーバラ夫人は二十歳と言う若さでMauriceと結婚しています。10年間子供が出来ませんでしたが、10年目に娘が生まれその後息子を産んでいます。家事、特に料理が苦手でそれで人を自宅に招待するのが嫌なのだ、と初対面のディナーの時率直に話してくれました。サバサバした気持ちの良いおばさんです。子育てが終わって(息子が7月大学を卒業)彼女が今力を入れているのは保護司(?)の仕事です。少年犯罪者の裁判の際の親代わり(シングルマザーが多く、なかなか警察や裁判所に出頭出来ないので)などを務めるケースが多いようです。
 娘は結婚し現在はドミニカにいます。どんな仕事なのかは不明です。ドミニカの砂浜で撮った水着姿の写真が研究室にありますがなかなかの美人です。息子は今年7月ランカスター大学を卒業しました。専攻はバイオメディカルですが、ご他聞にもれず卒業即失業者です。パートで教会の副牧師をしながら将来計画模索中です。Mauriceに「大学院に進ませるんじゃないのか?」と質したところ、「彼には十分すぎるくらい教育投資したさ」と返事が返ってきました。私のバークレーの友人、ジェフの息子も学部卒業後は失業保険とアルバイトで学費を稼ぎマネージメントスク-ルに入学、今年7月に卒業し本格的な職探しに入るところでした。どうやら大学院は自分で費用を賄うのが英国流のようです。この息子の趣味はマウンテンバイクですが、湖水地帯を控えこの辺では大変人気のある遊びです。このマウンテンバイクを買い与えたのが最後の出費だったようです。「とっても高いって、バーバラがこぼしていたよ」
 若い頃のMauriceの趣味はスカッシュ(六面が閉じた部屋で、二人が壁に向かって球を打ち返すテニスのような球技)だったようですが、いまは歳でとても出来ないそうです。ゴルフは私同様やりません!スポーツカー(BMW Z3)でのドライブが息抜き・気分転換のようです。湖水地帯がホームグランドと言う素晴らしい環境下でこの趣味は羨ましい限りです。この車で南フランス辺りまで出かけることもあったようで「南仏の田舎は素晴らしい(英国の田舎よりも遥かに)」と言っていました。
 海外旅行は、トーマスクック旅行社生みの国だけに、英国でも人気の高いレジャーですが、Kirby夫妻はそれほど海外には出ていないようです。主に学会参加が数少ない機会のようで、この時は必ず夫婦で出かけるそうです。今年は7月初めプラハで開かれた欧州OR学会、11月にシアトルで開かれたアメリカOR学会に参加しています(両方とも発表あり)。今年の学会参加をみると、ほとんど寄り道の観光はなく開催地近くで一泊位余計に泊まる程度です。アジアへは香港に来たことがあるだけで、残念ながら日本は未体験です。何か良い機会があり来日したら、国内の面倒くらいはみてあげたいと思っています。
 服装はいつも紺、黒などダークカラーが基調。偶にスーツでネクタイもありますが、通常はジャケット、替えズボン(ジーンズが多い)に黒シャツや濃紺のTシャツです。決してブランド品など身につけませんが、銀色の目立つ指輪を左手の薬指と中指にしています。

 公私両面からMauriceをご紹介しましたが、彼が真面目な先生で、慎ましく暮らしている姿がご理解いただけたと思います。多分これが英国中産階級知識人の最大公約像ではないでしょうか?日本での生活、日本人の生き方に比べ落ち着きを感じさせます。私には、日本人の同クラスの方がややギンギラ(Glitter)しているように感じます。もっともアスコット競馬に集まってくるような成金は、見るからにGlitteringで上流階級気取りが喜劇的でもあります。しかし、どうも彼等自身それは分かっていて敢えてやっているようなところがあるのがご愛嬌ともいえます。昔は、割合の少なかった中産階級が、本気で上流階級気取りでその世界に姿かたちだけ真似て入り込んだつもりでいました。それに対する上流階級・労働者階級双方からの軽蔑の言葉が“That’s Middle Class!”です。ブランド品を身に付け、海外の観光地で高級ホテルに宿泊する日本人を冷ややかに見ている英国人が居ることを、彼のプラハのお土産話(夏の東欧は日本人だらけ)から学び、身の丈に合った生き方を心がけたいと思った次第です。

3.新たな読者 この第18号をもって私の“滞英記”を終えます。改めて、冗長な雑文に最後までお付き合いいただいたことに深く感謝いたします。この滞英記をここまで続けてこられたのは、毎度皆様から励ましを戴いたことが最大のドライビングフォースです。しかし、もう一つ皆さんに伏せてあった動機があります。初孫の誕生です。2月、長女の懐妊を知りました。5月、“無事に元気な子を産んで欲しい!”そう言って英国へ旅立ちました。6月、It(それ)がHe(彼)であるとの便りを受け取りました。私と彼の関係は、母方の祖父と初孫ということになります。それは私と母方の祖父と同じ関係になります。第17報をお読みの方はご承知のように、その祖父は明治初期にアメリカに渡っています。しかし、物心ついた私が祖父の彼の地での足跡に興味を持ち、それを手繰ろうとしましたが全く手がかりはありませんでした。残念至極です。
 孫は私の帰国を待つように、帰国翌週生まれました。彼が私の人生に関心を持つかどうかは全く不明です。自分の親子関係から推察しても、多分持たない方が可能性としては高いでしょう。しかし、“もし持ってくれたら”の思いがここまで書き続けるエネルギーを燃やしてくれたのです。
 彼の健やかな成長を願いつつ筆を置くことにします。


皆さん!有難うございました!

私報 滞英記 終わり

2009年2月28日土曜日

滞英記-17

Letter from Lancaster-17(現地発最終版)
2007年9月16日

(写真はダブルクリックすると拡大できます)
 前報でお知らせしましたように、既にフラットからの退居日を決め、帰国準備を進めています。まだ、3週間以上ありますが電話料金を完納していきたいので、20日で電話使用を停止します。そんなわけで、毎週お送りしてきた本レポートの送付を、本報をもって“現地発最終版”とさせていただきます。最終版は帰国後あらためてお送りする予定にしておりますが、一ヵ月後くらいになります。悪しからずお許しください。
 この報告は、ビジネスの世界を去るに当ってお世話になった方、また渡英に際してご支援・ご助力いただいた方、壮行会をしていただいた方々を中心にお送りしてきました。本来、自分の滞英記録を残すことを主眼に始めたものですので、整理が行き届かなかったり、個人的な興味が先走ったりし、独断や偏見を書き連ねたり、ジャンクメールに近いものを一方的にお送りしてきたこと、深くお詫びいたします。
 ランカスターという、日本社会とは隔絶した地に在って、孤独な時が長かった私にとって、このメールは“生命線そのもの”でした。いただいたメールは300通以上になります。励ましのお言葉、国内情報、滞英生活に関するご助言など、いずれもこちらでの生活を、活力を持って進めていくために欠かせぬ貴重なものばかりでした。深く感謝いたします。
 当初予定していた、正規の研究員としての英国生活は、研究者ビザ取得不可と言う予期せざる出来事で急遽個人研究に変更、背水の陣で乗り込む結果になりました。しかし皆様の温かい励ましとKirby教授の好意もあり、勉強も私生活の方も充実した時間を過ごすことができ、期待以上の成果が上がりました。現段階は、日本では得られない多くの食材を得た段階で、これをどんな料理に如何に仕立てるか?まだまだ課題は山積みで、今後も変わらぬご支援・ご指導を賜らなければならない状態です。どうか、これからもよろしくお願いいたします。

 研究は、“公刊 空軍OR史”の調査をやっと終えました。以下がその概要・成果です。
①とにかく夥しいOR適用が空軍全域(兵種、地域)で行われている(特に、1943年以降)
②OR適用にネガティブな印象を今まで持っていた、爆撃機軍団も広範に利用している。ただ、他の軍団(戦闘機、沿岸防衛)に比べ、戦域が完全に敵国内となるため信頼性の高いデータ・情報が得にくかったので、中核任務(爆撃戦略)への適用が遅れたとしている。
③OR適用のために、前線部隊にORS(OR Section)がそれぞれの参謀部内に設けられるのだが、人材難で要請に応えられない状況が生じている。
④仕事の内容は圧倒的に現場レベルの戦術的なものが多い。つまり、兵器の稼働率、信頼性、精度向上、それにレーダーを中心とする新兵器操作教育などである(適正人材の選別法などを含む)。
⑤最前線部隊の戦術支援では、実戦に同行することも多く、ノルマンジー作戦では上陸後7日目に連合軍司令部付きのORSも大陸に渡り、ドイツ軍の反攻で戦闘に巻き込まれるケースも出ている。
⑥全般にORSからの改善提案は、上層部(空軍省、空軍参謀本部、軍団司令部)と最前線部隊には好意的に受け入れられる傾向があるが、Senior Staff Officers(中堅参謀;軍学校出身者と推察される)層には「アドバイザーが指揮を執るのか?」と批判的な空気もあった。
⑦当時の最上級指揮官たち(空軍参謀長、各軍団長等)のORSに対する、戦後の評価が出ているが、皆ORとORSの貢献を極めて高く評価しており、将来ますます重要性が高まるとしている。
⑧意外だったのは、爆撃軍団長アーサー・ハリスが最大級の賛辞をORSに与えていることである。インターネット普及の初期、英OR学会のホームページに初めてアクセスした時、ORの紹介にチャーチルの言辞が紹介されていた「ORを何故適用しようかと思ったかって?ハリスが反対したからさ」と。今までORの起源を追ってきても、爆撃機軍団は消極的な印象を拭えなかった。その因はハリスにあると思っていたが、②で見るように、適用環境が他軍団と違うことが遅れの原因の一つであることも分かってきた。では何故ハリスは悪役にみられているか?これは多分彼個人のキャラクターと爆撃戦略思想(夜間都市無差別爆撃の積極推進者)から来ているのではないかと思い始めている。
⑨沿岸防衛軍団長も務めたジョン・スレッサー大将の評価は興味深い。ORSを称えた上で、特に科学者が重要な戦略決定の場に不可欠になってきているとしながら、「科学者を司令官と置き換えることは出来ない。“スライドルース(計算尺)”で戦略は作れない。高度な戦略策定能力は“長年の戦略思考習慣と実戦の経験”から生まれる」としている点である。


 昨年出版された本で、著名な経営学者、マッギール大(カナダ)教授、ミンツバーグが書いた「MBAなんか要らない」(邦訳;日経BP)は、既存のMBA教育を痛烈に批判している。それは実務経験の無い学部卒を、ケーススタディーと分析手法で、いきなり管理者に仕立てる点で、種々のデータを使って現状のMBA教育の問題点を指摘している。彼は、高い経営能力は、“経験とそれに培われる感性(経営センス)そして論理・手法”のバランスによって齎されるとしている。
 両者の考えに共通性があることを知りえたのは、この資料研究最大の成果といえる。

 今回のご報告は、当地を去るにあたりこの地で感じた三つの事柄を<滞英雑感>と題してお送りします。

<滞英雑感>
1)遊学
 研究者の身分は、渡英直前突然消えました。無論留学生ではありません。仕事で来ているわけでもありません。旅行者?近いかもしれませんが、ほとんど旅行はしていません。入国に際してもこれで苦労しました。いったい私は何なんだ?深夜、独りきりになり、ぼんやりしているとよくこんな自問を発しています。
 そんなある夜、フッと湧き上がってきた言葉が<遊学>です。既に死語に近い言葉ですが、私たちが高校生ぐらいまでは比較的目にしました。“欧米に遊学す”などと、有名人・政治家の経歴などに記されていたのを記憶しています。子供心に“遊学って何なんだろう?何か格好いいな!”と思ったものです。今ならさしずめ、然したる目的も無く海外を放浪したり、語学留学などと称してダラダラ海外で遊び暮らしたりしているような状態と同じようなものだったのでしょうが、明治・大正(昭和初期でも)では海外へ出かけられる人など限られていたので、こんな言葉が堂々と通用したのでしょう。もっとも、欧米に“追いつくこと”が全国民の願いだったような時代ですから、遊びばかりでなく“仕事・職業”に関わる見聞を広める目的で送り出された人も決して少なくなかったので“学”の重みもそれなりに有ったとも言えます。
 私は此処に、何か役割や具体的成果を課せられて来ているわけではありません。“ORの起源を学ぶ”と説明しても「いいご趣味ですね」という答えが返ってきます(外国人ですらそう言う)。つまり客観的に外から見れば、自分では今までに無く勉強していると思っているのですが、英国に“遊びに来ている”一年寄りにすぎません。<遊学>は今の自分にピッタリの言葉であると思うようになってきました。これから人前で話したり、書き物を出すようなチャンスがあったら、“英国に遊学”と自己紹介してみようかな?などと考えています。
 母方の祖父は、明治の一桁生まれで東京育ち、西銀座に今もある泰明小学校から府立一中(現日比谷高校)を経て慶応に進んでいます。家は築地の商家で、大学卒業直前に親が亡くなり、まとまったお金が遺産として配分されました。長男ではない彼は、それを元手に卒業を待たずアメリカに渡ったのです。もともと新しモノ好きの性格だったようで、慶応時代は野球部に所属し、その時チームのメンバー全員で撮った写真が我が家に残っています。明治の半ば、まだ維新の余波の残る時代、文明開化の日はやっと東の空に昇り始めた時期です。大学をなげうってアメリカ行きを決断させたものは何だったのか?
 母は彼の長子、結婚が遅かった彼は40を前にして初めて子供を持ちました。大層彼女を可愛がり、すっかり自分好みのモガ(モダン・ガール;これも死語ですね)に仕立ててしまいました。認知症になっても、祖父に連れられて行ったレストランや銀ブラの楽しさだけは忘れず、同じ話をいつもしていたものです。母にとって、理想の男性は祖父だったと思います。その思いを彼女は確り私に刷り込んでいったのです。
 私は母にとって長子、祖父にとっては初孫です。彼に可愛がられた記憶が、微かに残っています。母親の影響は絶大です。やがて、私も祖父を理想の男性像と思い始めていました。
彼がアメリカから帰国し、結婚するまでの経緯は、私には断片的にしか分かっていません。日露戦争に中尉として従軍していること、(多分アメリカ暮らしの経験を生かして)貿易商社に勤務していたこと、この時代に結婚したこと、やがて独立して自分の会社を持ったことなどです。
 長じて、祖父のアメリカ行きとそこでの生活を無性に知りたくなりました。母に、何故出かけたのか?何処に行ったのか?何をしていたのか?を何度も問い質しましたが、家庭人としての祖父については嫌と言うほど語る彼女も、彼のアメリカ生活については全く知らず、「遊んでたんじゃないの?」しか返ってきません。
 19世紀末・20歳前半の<遊学>、21世紀初め・70歳代目前の<遊学>、まるで次元は違いますが、此処に居て、祖父の知られざる過去に近づいているような気分がしています。間もなく当地で、3世紀に跨る二人の<遊学>を繋いでくれた母の3回目の命日を迎えます。

2)英国の英語、そして日本人の英語力 「イギリス英語分かりますか?僕はぜんぜんダメでした」アメリカ留学で博士号を取得した学会の先輩Uさんからのメールです。クウィーンズ・イングリッシュが独特(これが正規なわけですが)のイントネーションをもつことは気がついていました。いつかは英国に行く。そんな思いは随分前からあったので、会社で準備してくれる英会話教室で、個人レッスンが可能な時にはいつも“英国人”を頼むようにしてきました(実は、必ずしも希望通りいかず、カナダ人やオーストラリア人になることも多々ありましたが)。その努力(?)の甲斐も無く率直に言って日常会話に苦労しています。
 40の手習いで始めた英会話能力は決して高くなく、“英国以前の問題”がはるかに大きいこともありますが、ときどき“全く分からない”状態にすらなります。こういう状態になる相手のしゃべり方は、よく例に出る、クックニー(ロンドン下町訛り;典型的なのがAを“アイ”と喋ります。マイフェアーレディーで、下町育ちのイライザをレディに仕立てるために、喋り方のレッスンがあります。「The rain in Spain mainly rain in a plain」を何度も繰り返し“a”の発音を直していくところは、ミュージカルの主題歌の一つになっていますね)ではありません。ここではそれは無いような気がします。フランス語の発音とやや近い、鼻音を使うしゃべり方(これがクウィーンズ・イングリッシュの最大の特徴ではないかと思っているのですが)で分からないと言う訳でもありません。分からないのは、アクセントの強弱(特に強)が極端で、しゃべりの流れが断続的に聞こえるような時です。特に女性に多いような気がします。Mauriceとの会話は、いままで他の外国で経験してきた程度の分からなさです。不動産屋の担当者や、ジェフとの会話も特別不自由を感じず何とかやってきました。BBCを観ていている時も大体アメリカ程度の理解ですからこれもそんなに変わりません。ダイアナ妃10回忌でヘンリー王子がスピーチをしましたが、理解し易い英語でした。
 この妙に強弱が極端で、細切れにしたような話し方は何処から来るのかわかりませんが、結構多くの人が喋っているように感じます。電話でこれだと全くお手上げです。
 分からないといえば、我が家のTVにはBBC Walesが入ります。これはウェールズ語で放映されています。全く!100%分かりません。以前出かけたエジンバラで、バスの後部に座っていた若者たちが話していた言葉も全く分かりませんでした。多分スコットランド語でしょう。ランカスターからスコットランドは間近です。西海岸ですからウェールズとも繋がっています。何か関係があるんでしょうか?
 英国の英語は階級によって違うという話もあります。どうもあのやや鼻にかかる発音は本来上流階級の喋る言葉だったようです(サャッチャー女史は商家の出身、話し方を上流階級風に見事に変えたといわれています)。では、ぶつ切りで躓いたような喋り方はどんな階級の言葉なんでしょうか?羊や牛を追い回しているとあんな喋り方になるのかな?などとも思ったりします。

 日本の国際化(他国との関わりの深まり)が語られる時、いつでも“英会話力”が話題になります。ここではあまり国と国のレベルや企業のビジネス関連ではなく、個人レベルに近いところで外国語問題を考えてみたいと思います。
 「ピストルを頭に突きつけられて覚える外国語」と言う表現が、ヨーロッパにあります。「おまえはドイツ人なのか?(ドイツ語)」「???」バーン!これで終わりです。生き残るためには先ず問いに答えられなければなりません。戦乱の絶えなかったヨーロッパでは始終国境も変わります。難民も発生します。生き残るための必要条件は他国語を話せることでした。
 この国に来てインド系の人が多いことは想像以上です。私の隣家もそうです。小学校低学年の男の子が一人、家族の会話は英語です。BBCのキャスターやTVの対談者にも沢山インド系の人が出てきます。大英帝国の支配した時代、そして今でもましな生活をしようと思えば、英語修得が不可欠なのでしょう。
 初の海外出張は1970年6月エクソンのエンジニアリングセンターでした。出張の話が突然出て、出発まで2週間でした。それまで英会話をきちんと学んだことはありません。ニュージャージーのセンターで、打ち合わせが始まりました。会議を主宰していたエンジニアが、途中で「他の外国語を話せるか?」と聞いてきました。「ドイツ語は?フランス語は?」 あまりに酷い英会話能力の欠如に、助け舟を出したつもりだったのです。彼の名前は、アラ・バーザミアン。典型的なアルメニア人のファミリーネームです(ミコヤン、クリコリアン、コーチャン、ハチャトリアンなど、アン、ヤン、チャンなどが末尾につきます)。アルメニア民族の悲劇は今に続いています。トルコのEU加盟問題を巡り、フランスが100年以上前の虐殺問題を蒸し返したのはつい最近です。ペルシャ、トルコそしてロシアに痛めつけられてきた民族です。私と同年代の彼がどのような経緯でアメリカまでたどり着いたかは知りません。数カ国語を操れる背景には、壮絶な民族の歴史があるのです。
 1988年オリンピック直前、初めて韓国を訪れました。韓国最大の石油会社、油公(ユゴン、現SKコーポレーション、現在蔚山石油・石油化学コンプレックスはエクソンのバトンルージュ製油所と一、二を競う規模に達している)の仕事を受注したため、ソウルの本社と蔚山コンプレックスを訪問したのです。
 本社で情報システム担当のA理事(取締役)と何度か打ち合わせ・会議を持ちました。彼はソウル大学工学部応用化学科出身の秀才です。年齢は2,3歳私より下、日本統治、朝鮮戦争、辛い時代を生きてきた人です。二人の会話は英語です。はるかに彼のほうが達者です。彼の部屋で二人だけで話している時、英語の話題になりまし「韓国の人は英語が上手いですね!TVも英語のチャネルがあるし(駐韓米軍向け)、日本は英語に関してとてもかないません」と私が言うと、「MDN(私)さん、私が大学受験のときに使った参考書は日本のものでした。大学でも、英語が主流でしたが、日本語の文献や専門書を使ったものです。韓国語の教科書などほとんどありませんでした」「自国語で高度な教育を受けられる国をうらやましいと思ったものです」「日本人は、英語は不得意かもしれません。しかし、我われが外国語を勉強していた時間、貴方たちは専門分野の勉強を自国語で進めていたのです。我われの遥か先を行っているのはそのお陰ではありませんか?」と。外国語に関する見方を一新された瞬間です。
 幸い日本人は、これらの例ほど民族として外国語ニーズに追い詰められたことはありません。歴史的に観て、日本を際立たせる特徴があります。“難民体験”の少なさ(他民族・国家から見れば“無し”に等しいでしょう)です。アメリカは難民が作り上げた国です。ロシア革命では大量の難民が世界に散っていきました。英国も例外ではありません。ピューリタンは新大陸に逃れていきました。アイルランドの飢饉は本土への大量流民を生じさせています。また、大英帝国の最盛期、ヴィクトリア時代の国内経済二重構造(貧富の差)は凄まじいもので、苦しさを逃れるためアメリカや植民地世界に向けて、着の身着のままで脱出しています。中国のチャイナタウンが世界各地にあるのも、難民の行き着き先です。そしてユダヤ人、ロマ(ジプシー)。近いところでは、ベトナム、旧ユーゴスラビアも難民発生源です。植民地を拡大した英仏両国には、そこから大量の移民(実態は難民)が流れ込んできています。両国ともその扱いに苦慮しています。既にフランスは移民・就労の条件に自国語修得を義務付けています。英国も同様の処置をとることが進められており、BBCでもこれがしばしば取り上げられています。
 教養として外国語を学んできた日本人が、生き残るために必死で外国語を覚えた人達に遅れをとるのは歴史の必然とも言えます。そんな状態に追い込まれなかったことを、僥倖と思うべきかもしれません。
 問題はこれからの世界です。世界経済における日本の大きさ(輸出入)、証券市場における外国人持ち株比率の増加、製造業における現地生産拡大など考えると、従来の“英語は英語屋さんに任せておけ”では済まない環境がいたるところに出現しています。ビジネスの世界だけでなく、国際政治や国際金融も同様です(高度に機密性を求められる国際金融サミットでは、通訳の同席を許さないセッションがある。ここでわが国担当大臣が日銀総裁を通訳代わりにしたというような話を聞いたことがある)。次元の違う“生き残り”のための外国語(英語)ニーズが身近に、確実に迫ってきています。頭に突きつけられたピストルが発射されない英会話力をどう修得していくか?分からないクウィーンズ・イングリッシュに悩みながら考え続けた5ヶ月です。

3)古典的学習法-万年筆を使う-(ランカスターから、退職慰労会兼英国行き壮行会を開いていただいた横河電機有志各位へ、感謝を込めて)
 年度末も押し迫った3月末のある宵、三鷹の飲み屋で横河電機有志による退職慰労・渡英壮行会をしていただきました。システムプラザが東燃から横河に株式譲渡される際、その最高責任者だったUさん、和歌山工場時代からの仕事仲間、Tさん始め多彩で多数の方に参加していただきました。その時、退職記念としていただいたのが、これからお話しする万年筆です。
 会の発起人の一人で仕事仲間のKさんから「今度の会で退職記念品を贈りたいと思うんですが、何が良いか考えておいてください。出来ればあちらで使える物がいいですね」と嬉しいお話をいただきました。小型電気炊飯器、ディジタルカメラ、携帯用GPSなどいろいろ考えましたが、“長く愛着を持って使う”と言う点で、いまひとつピッタリきません。勉強に行くのだから、文房具で何か適当な物は無いだろうか?ふと思いついたのが万年筆です。
 PCの普及ですっかり書くことをしなくなりました。書く機会があっても、ボ-ルペンかシャープペンシルで間にあいます。しかし、万年筆には骨董的な、言わばクラシックカーのような風格があります。最後に所有した万年筆は60年代後半に、個人海外旅行の魁をした友人に頼んで買ってきてもらったペリカンです。香港で購入したこのペリカンは、果たして本物だったのかどうか?手に馴染まず何処かへ消えてしました。欧米はサイン社会です。万年筆でレポートを書くようなことは無いだろうが、クレジットカードのレシートにサインする時、やおら万年筆を取り出して漢字の名前を書いたら、チョッと話が弾むかもしれない。こんな動機から記念品としてお願いすることになりました。これを告げた時のKさんの顔に一瞬“エッ(今どき)?”と言うような表情が浮かびましたが、快くうけていただきました。
 会も宴たけなわ、記念品贈呈になりました。 Kさんから手渡されたのは、金色のパーカーでした。「これで小切手に沢山サインをしてください」「パーカーを選んだのは、英国製だからです」
 出発前に皮製ケースを買い求め、そこにこの万年筆を中心にし、左右にダイセルさんからいただいた名前入りのセルロイド製のボールペン(黒芯)と大昔シリコンバレーのHP訪問時にいただいた金色のクロスのボールペン(赤芯)を収めて、この地にやってきました。
 最初に泊まったマンチェスターのホテル、レンタカーの事前支払い、ランカスターへ来てからの二つのホテル、いずれもカードの支払いはピンナンバー(暗証番号)入力方式でサインのチャンスがありません。最大の山場は、フラットの契約です。信用問題でややごたついたこともあり、不動産屋で6ヶ月前払いと言う条件を飲み、「それじゃトラベラーチェックで2000ポンド(約50万円)、後はクレジットカードでどうかな?」さすがに交渉相手が目を剥きました。「結構です」、「お宅の取引銀行が近くにあるなら、一緒に行ってチェックにサインしてその場で払い込もう」、「願っても無いことです(Good idea!)」連れだって銀行に行きました。窓口で彼が事情を話すと、銀行員がサッとボールペンを差し出し「これでサインしてください」咄嗟のことで出番を失いました。
 Mauriceとの出会いで沢山の文献コピーが手渡されました。これは貰っていいものです。書き込みや、下線を引くのも自由です。やがて、参考書を貸してくれるようになりました。興味深い情報に満ち溢れています。出来ればコピーを撮りたいところです。正式な身分が無い私には、学校のコピー機が使えません。量が少なければMauriceに頼むことも可能かもしれません。しかし、半端な量ではありません。甘えるわけにはいきません。読むのがほとんど自宅と言うのも何かと不便です。結局解決策はノートをとるほかありません。
 古典的学習がこうして始まりました。読んでは書き、書いては読み、コメントを書き加える。英語の筆記をこんなにやったのはいつが最後だったろうか?果たしてあっただろうか?それにしても、万年筆というのは何と滑らかに字を書ける道具なんだろう!筆記体で文章を書写し続ける楽しさが、孤独な夜を忘れさせてくれます。英語の習い初め、中学生のときあんなに辛かった英語の書き取りが嘘のようです。書くという行為が極めて奥の深い学習法であることを、この年になって初めて気がつきました。単語のスペリングは無論、一語一語書くのではなく、ある長さのセンテンスを覚えこと、冠詞、単数・複数、前置詞、完了形の使い方などの文法、文章の構成、読むだけの勉強では何気なくやり過ごしてきたことが、確りチェック出来るのです。
書き綴った量は、5本入りカートリッジ4箱、既に5箱目に移っています。パーカーを選んでいただいたのは、当に先見の明です。街で一番の文房具屋にあるカートリッジはパーカーだけです。お陰で心置きなく書き捲くれます。唯一の心配は、“こんなに使い込むと芯が傷んでしまうのではないか?”と言うことです。しかし、いまのところ、“名刀”の切れ味は些かも鈍っていません。
 一区切りついた時、やや右に傾いて、下部を罫線にそろえてつながる自分の筆跡を見ていて、“親父が生きていたらなんて言うだろうな?”とあの辛かった中学生時代を思い出しました。
 私が中学生になったのは昭和26年(1951年)、まだ戦争の爪跡がいたるところに残る時代です。発足後間もない新制の中学は自前の校舎が無く、それまで小学校の一部を利用していましたが、我われの年度から、戦災で焼け落ち使用出来なかった別の小学校を一部復旧し独立しました。不足していたのは校舎などのハードウェアばかりでなく、新規に出来た中学(旧制中学は高校になった)のため、教育カリキュラム・教材などのソフトウェアも未整備でした。中でも最大の問題は教員です。小学校は養成機関として古くから師範学校がありました。高校(旧制中学)は高等師範や一般大学の教職課程を終えた有資格者の先生が来ていました。しかし、新制中学は“新制”ゆえに正規の教員養成機関が無く“取り敢えず食べるために”ここへ流れ込んでくるような人もいる混乱状態でした。特に酷かったのが英語教育で、つい数年前まで“敵性言語”として高等教育機関でさえ教えていなかったので、全くの人材不足です。私が入学した中学では、しばらく英語の授業は無く、やがて体操の先生が応急で教え始めるような状態でした。今では信じられないでしょうが、各学校の英語教育のレベルが違い過ぎるため、我われの高校入試時、東京都の公立高校入試共通試験;アチ-ブメントテストに“英語は無かった”のです。
 父は東京外語(仏語)の出身です。当時進駐軍(26年から駐留軍)の基地不動産管理を行う業務を、調達庁と言う役所(現防衛施設庁)で担当していました。英語を、生きるために必要とする現場の近くにいたわけです。英語の必要性の高まり、英語教育の惨状、自分の専門、「よーし、ここはわしが面倒をみてやらねば」の思いで始まったのが私の“英語事始”です。
父の考えは、他の教科は小学校の延長、まずまずの成績をおさめてきたから自分でやらせておいて良いだろう。しかし、英語は中学から始まる。それは将来にわたりきわめて重要な教科だ。初めが肝心!こんなところだったでしょう。書き取りをよくやらされました。「間違えだらけだ!」「こんな汚い書き方じゃダメだ!」時々ビンタが飛んできました。結果は、受験に無かったこともあり、全くの英語嫌い。それが未だにボディブローとして効いています。
 父は1月の寒い日、一人で逝きました。91歳でした。TVの前のコタツの上にはフランス語講座のテキスト、裏紙をメモ用紙にしたものが沢山重ねられ、そこには達筆な筆記体で単語や短い文章が書かれています。罫線も無いのに、横一直線にきれいに揃っているそれを見ていて、拙い書き取りを添削してくれた日々が蘇ってきました。あのビンタの痛さとともに。
私の書いたノートを見て、「少しましな英語を書くようになったな。まあ、万年筆が良いからな」こんな声が聞こえてきそうです。

 -横河電機の皆さん、素晴らしい贈り物を、有難うございました-

 本報をもって、17回(+号外)にわたった、「私報 滞英記(現地版)」を終わります。多くの温かい励ましに深謝いたします。

 枯れ葉散る夕暮れのランカスターより

2009年2月1日日曜日

滞英記-16

Letter from Lancaster-16
2007年9月10日

 7日から大変センセーショナルな報道が始まっています。この地に到着時ニュースを独占していたのは、マドレーヌと言う4歳の幼女が、ポルトガルの避暑地(英国村のような所)で行方不明になったことでした。国中がこの事件に関心をもち、ランカスターの街中でも写真を配るボランティアがいたほどです。ベッカムもTVで協力を呼びかけていました。それが、6日ポルトガル警察が母親を“Suspect(被疑者)”として取調べ(非拘束)を始めたというのです。容疑は“意図せぬ事故死に関与”だそうです。TVで涙ながらに娘を語る彼女の姿が、皆の同情をひと際ひきつけただけに、“なに!?”と言う感じです。
 大学はまだ始まってはいませんが、大分学生が出てきています。留学生が多く、最大のエスニックグループは中国人だそうです。そんな中で、先週のゼミの帰り、大学内のバス停で日本人母子に会いました。子供が突然日本語で話し始めたので分かったのです。サバティカル(大学教員の研究休暇)で来ている家族のようで、4月から市内に住んでいるそうです。少し話をしたかったのですが、来たのが二階バス、私は一階に席を占めましたが、子供は当然二階、残念ながらお母さんとの会話もバス停で終わってしまいました。
 残すところ一ヶ月、ボツボツですが引き揚げ準備にかかっています。不動産屋とチェックアウトの日時を決め、やり方の確認をし、市役所にも出向いて最後の税金の確認、転出届用紙の入手、など始めています。借りた部屋は割と良い物件のようで、早くも次の希望者が下見に来ました。直ぐに次が見つかると、先払いの家賃が幾ばくか帰ってくるとのことです。ユーティリティーの締めは個人でと言われていましたが、チェックアウトの当日不動産屋がメーターを確認し、精算はデポジットの中でやってくれることが分かり、銀行口座の無い私はホッとしました。ただ、電話は依然個人ベースなので、少し早めに(多分9月20日頃)こちらからかけるのは、メールを含めストップする予定です(固定料金は11月まで先払いしてあるので、10月初めに来る請求書で全て精算が済むように)。
 英国出発は、チェックアウト二日後マンチェスターからなので、二晩ホテルで過ごす予定でいましたが、Mauriceが「お金を使うことは無い!うちに泊まれ。ベッドルームが四つもあるから(ただバスルームは一つだけどね)」と言ってくれています。バーバラ夫人に話す前の好意ですから思案中です。
 先週お送りした<世相点描>に関連して、英国の環境問題対応についてご質問がありました。実は、チェックアウトとごみ処理と言う身近な問題もありますので、今回はこの国の環境問題を<英国、環境先進国?>と題してお送りします。

 研究の方は、「Britain’s SHIELD(英国の盾)」を読み終えました。内容は、瀬戸際で英国が持ち堪えた、1940年5月から始まり10月に勝敗が決した、独空軍と英空軍(戦闘機軍団)の戦いを、レーダー開発を中心に、防空対策を“システム”として捉え、これ(システムしての完成)へのORの貢献を掘り下げたものです。チャーチルの一言「これほど少数の人々に、これほど多数の人間がお陰をこうむったことが、歴史上有っただろうか?」と戦闘機パイロットを称えたことから、真の勝利の貢献者“防空システム”の正しい評価が陰に隠れてしまったことを糺す初めての書と言えるものです。
 この書物からの収穫は、①防空システム完成に至るORの役割、②防空システム開発・構築を、信念を持って推進した、空軍省防空委員会(ティザード委員会)を主宰したティザードの考え・行動、③軍の側でこれを支え、戦いに勝利した戦闘機軍団長、ダウディングの人となり(最大の貢献者が、大事な意思決定の場で如何に判断を下したか、最後に左遷に等しい処遇を受けた背景・理由など)、を体系的に理解できたことです。
 先週もチョッとご紹介した次の資料は、空軍省(後に国防省に統合)のORに関する公刊史「The Origins and Development of Operational Research in Royal Air Force」(Mauriceが研究のためにフォトコピーした)です。今までの資料と違い、かなり味気ないものです。しかし軍の組織や軍人の地位・役割が明解なこと、データ・情報の信頼性が高いこと、軍側から科学者を見るという視点、他の軍(陸海軍のOR)との関係など、今までのものにないユニークなものです。そこで従来頭から読んで整理したものを、少しやり方を変えようと思っています。例えば、特定(公史に残る)の人間に着目しその人物がどの局面に現れるか(試しに、“ORの父”と言われるブラッケットをこのやり方で整理してみると、OR適用の嚆矢となる“バトル・オブ・ブリテン(英独航空戦)の具体的なOR活動に全く出てこないことが分かりました。そこでMauriceに「ブラケットは防空システム開発・運用には表立って活躍していないね?」と問うと、「その通りだ」との答えが返ってきました。これによりブラケットのOR活動を、どこからスタートすべきかが整理できます。もう一つは、作戦策定・推進の責任者(軍人)とその科学アドバイザーとの関係を整理することです。特に、個々の“職務と人間関係”が如何様だったかが見えてくれば、“ORと意思決定の関係”が“非数理的”なものと“数理的”ものの組み合わせパターンとして整理できるのではないかと思っています。第三は、前項と関係しますが、官僚機構の中の処遇(階級や職権)に焦点を当て、建前上如何なる扱いを受け、それが意思決定にどう影響したかを考察したいと考えています。
 さらに次の資料が来ています。「The Effect of Science on the Second World War;Guy Hartcup著」です。第二次世界大戦時陸軍に所属した歴史学者の書いたものです。10章から構成される中にORに一章が割かれ、“New Science”として書かれている他、戦時における科学者の組織上の位置づけなどの章があり、かなり私の研究に新たな情報を与えてくれそうです。ユニークなのは“医薬”に関する章で、これにより負傷兵の回復・戦場復帰が如何に高まったかを記述しています。戦争をこういう角度から見ることの重要性は、実はバトル・オブ・ブリテンにもあるのです。英仏海峡で撃墜されたパイロットを救済するシステムまで備えて戦った英国は、士気の面でも、効率の面でもドイツを圧倒できたわけです。
 それにしても次から次に面白い資料が出てきます。意思決定の結果がはっきり出る“戦争と科学の関係”を多くの人が研究し、それを著していることにびっくりします。ここへ出かけてきたのは大正解でした。“戦争と道楽だけは真剣にやる英国人”に感謝です。

<英国、環境先進国?>
 “ロンドンの霧”は映画や歌でお馴染みです。推理小説の舞台にも欠かせません。しかし、これは英国特有の風物を作り出し、メリーポピンズでは重要な仕掛けになる、あのチムニー(煙突)から排出される暖炉からの煙と冬の天候が作り出した、いわば排気ガス公害だったのです。とにかくこの小都市ランカスターでも、ものすごい数のチムニーです。今は全てが使われているわけではありませんが、全盛期はあそこから石炭(田舎では薪ですが)を燃やした煙が、色はともかく(英国の石炭は良質で、無煙炭が多かった)、CO・CO2を煤塵も一緒にモクモクと冷えて湿った大気の中に排出した結果、スモッグ(Smoke+Fog)が発生したわけです。
 家庭だけではありません。産業革命(基本的には動力革命)はこの地から発しましたが、動力の基は蒸気、蒸気を作り出すエネルギーはやはり石炭です。今とは絶対量が違うものの、都市も工場地帯も大気はドロドロに汚染されていたのです。
排出ガスから汚染物質をとり出す技術の無かった当時、唯一の解決策は緑を確保することです。都市に集中する人口が無秩序にスプロールするロンドンで、遠大な緑化計画が始まったのは1938年成立のロンドン・グリーンベルト法以降ですが、その努力が実り環状高速M25の外側に見事な緑地帯が広がっています。
 日本が高度成長期にある時(’60年代)、TV番組で、都心から見渡す限りつづく低層住宅の写真を見て、英国人の都市問題専門家が「Terrible(酷い)!」と叫び、その後にロンドンのグリーンベルトが出てくるシーンを観たことがあります。私も“Terrible”に納得しました。
 このように、英国は環境保全に異常な熱意で取組む国、との思いを抱いてここへ出かけてきました。“家を借りる際、これで苦労しないと良いがな”と。

 今年の“Summer Flooding(洪水)”は私自身も、コッツウォルズで体験しましたが、記録的なものでした。今でも多くの人がトレーラー・ハウス暮らしです。また、あの口蹄疫も、今週明らかにされたところでは、動物伝染病研究機関か隣接する動物向け医薬(ワクチン)研究所の排水施設からリークしたウィルスが、大水で拡散した結果と報じられています。
 この洪水は何処に原因があるのか?多くの専門家が“地球温暖化説”を開陳しています。東南欧の猛暑、特にギリシャの山火事、も“地球温暖化説”と関連付けて話題になっていました。
 ロンドン・ヒースロー空港は欧州でも一、二を争う多忙な空港です。発着便の遅れは常態化しており、私も当地到着時、乗継便が離陸出来ずマンチェスター入りが大幅に遅れました。BAA(British Airport Authority)は滑走路の新設を発表していますが、当然反対運動が起こっています。その中で最も過激なのが“地球温暖化防止”派で、空港の一部を占拠し、家まで作ってしまっています。
 ただ、メディアでの環境関連報道は決して多いとは言えませんし、特集のような番組にもお目にかかっていません(犯罪が多い)。大体、上に書いたような大きな事件との関連として出てきているように感じます。
 政府の取り組みも、メディアで観る限り熱心に取組んでいるようには思えません(大きな政治課題として“Green Tax(環境税)”の問題があるのですが良く理解できていません)。
 製造業が弱いことが幸いして、他の国ほど深刻ではないのかな?と皮肉な見方までしてしまいます。

 さて、それでは身近なところはどうでしょうか?
1)自動車
 自動車の数は、ほぼ一家に一台。タウンハウスが並ぶ街は、道路の両側にびっしり車が並んでいます。みなよく車に乗ります。スーパーではお婆さんが一人で買い物に来ているのを見かけますが、大体車を自分で運転しています。休みの日には、車で出かけるのを楽しみにしている人も多く、いろいろな装備(特に、自転車やキャンピング)を着けて走っています。高速道路もトラック走行規制があるので走り易く、都市の中心部(平日)と観光地の駐車場周辺(休日)を除けば渋滞など殆どありませんから、ドライブを趣味にする環境が整っています。人口は日本の半分ですが、自動車数×走行距離は同じかそれ以上でしょう。
車の種類に、日本および欧州大陸と著しい違いが、それぞれ一点づつあります。
①日本との違い 小型ハッチバック車が圧倒的に多いこと。殆どの家庭が持つ車は、日本ではマーチ、ヴィッツ、フィットに相当する車です。ルノー・クリオ、プジョー207、ボックスホール・アストラ、フォード・フェスタ、VWポロなどが好まれ、エンジンの排気量は1000ccから1400cc程度です。日本では圧倒的にミニバンが多く、エンジン排気量も2リッターを超すものが多くなってきています。この点では英国の方が、環境に優しい自動車の持ち方・使い方をしていると言えます。
 それにしても、ミニバンの異常な普及とエンジン大型化は、自動車先進地域の欧州から見た場合、かなり異形(奇形)な自動車文化と感じます。
②欧州大陸との違い 欧州大陸に出かける機会の少なかった私に、決定的なことは言えませんが、自動車雑誌からの知識や一昨年暮のオランダ、ハンガリー出張での経験に基づけば、小型車の普及に関しては英国と大陸に違いはなさそうです(ドイツは少しドンガラもエンジンも大きい気がしますが)。しかし、全く違うのが、ディーゼル乗用車の少なさです。タクシーを除けばほとんど走っていません。だからと言ってハイブリッドエンジン(BBCで一度プリウスの紹介が短時間ありましたが)や電気自動車に関心が集まっているわけでもありません。

 世界の大きな流れの一つ、小型ディーゼルに何故英国人は関心が薄いのか?は大いに気になるところです。“楽しい走り”は、実用エンジンに関する限り未だガソリンエンジンに分があります。楽しみを取るか、環境を取るか? どうも前者にウェートがかかり、“あまり環境問題に関心が高くは無いのではないか?”と感じているのです。
 英国がイニシアティブを持つF1は依然ガソリンエンジンですが、フランスで開催されるルマン24時間レースはディーゼルに有利なレギュレーション。今年はアウディ(ドイツ)がディーゼルで圧勝しています。「奴らがディーゼルなら、こっちはいつまでもガソリンだ!」頑迷な英国人の声が聞こえてきます。
 でも、ガソリン代がおよそ日本の2倍ですからその面で、当然消費に歯止めはかかっているはずです。
注:ディーゼルが何故環境に優しいか;乱暴な言い方ですが、燃料利用効率がガソリンより良いからです。技術(特に電子制御とコモンレールといわれる混合気圧縮技術)進歩で騒音・振動も著しく改善されています。

2)水道料金と環境問題
 自宅の光熱費すら知らない私ですから、ここでのそれを絶対的な基準で比較することなど出来ません。また水、電気、ガスを同一尺度で比較することは不可能です。そこで、今まで支払ってきた光熱費を相対的に比較し、そこから環境問題に触れてみたいと思います。
 光熱費の支払いは固定部分と使用量比例部分から成ることは請求書からみてとれます。全体に使用量比例部分が大きな割合を占めます(電話は固定部分が大きい)。水代は下水処理を含みます。請求は基本的に四半期ベース(3月末、6月末、9月末、12月末で締め、翌月初めに請求)です。ただ、ガス代は私の手違いで6月末の請求が来ず、8月末と言う中途半端な時期に請求書を受け取っています。
 期間を均して請求金額を単純に比較すると、水:電気:ガス=6:3:1くらいになります。
先ずガスですが、炊事と風呂が主体です。洗濯物の一部を乾かすためや寒さが堪らず短時間生かすことがあります。電気は照明が主で、洗濯機週二回、電子レンジを毎日、掃除機週一回、電気オーブンは月一回くらいです。水は、風呂(バスタブ)に毎晩入っています(多分これは英国人と大きく違うところでしょう)。シャワーが別のバスルームにありますが使いません。他に洗面、トイレ、炊事、洗濯で使います。水代が一日約2ポンド(500円)もかかっています。基準が無いので分からないのですが、これはかなりかかっていると感じています。
 水利用が種々制約をうけていることと料金が高いことは、ガイドブックや滞在記で目にし、実感もしています。特に、ホースによる洗車と庭の水撒きです。どうやらこれは禁止されているようです。先日フラットに、“自動車クリーニング屋”が来ていました。バンに一切の仕掛けを積み、水を外に流さず車をきれいにしていくのです。家庭からの水質汚染と省水資源はこのような制約で、かなりコントロール出来ていると推察します。
 この国には大きな川は流れていません。緑野には木がほとんどありません。牧草地の下は石灰岩です(だから簡単に石材が取り出せる)。つまり表層を除くと、土地にほとんど保水力が無いのです。雨は年間を通じれば先ず先ず降るのですが、牧草地に絶え間なく水撒きをしているような調子で、ドカッと貯めておけるような降り方をしません(貯水地はありますが)。逆に“水に流す”と言う環境が無いとも言えます。そんな訳で、水質汚染に関する環境問題は今度の洪水まで表に出てこなかったようです(炭鉱に関する問題はあったようですが)。大水対策(排水が悪く、汚染が酷かった)はこれから始まる課題です。
 “水と安全はタダ” (日本人とユダヤ人;イダヤ・ペンダサン著)と思い、面倒なことを“水に流す”日本人とは根本的に“水思想”が異なるのはここだけでなく、大河が多くの国を貫く大陸でも共通で、水が資源化する時代、請求書を眺めながら、日本の自宅での、水の浪費を大いに反省しています。

3)ごみ収集とリサイクル
 フラットを借りるとき、一番気になったのはごみの収集です。日本でも最近は分別収集が細かく決められる方向にありますが、その先駆者はドイツです。TVなどで紹介される、分別収集とリサイクリングをみると“よくここまでやるなー”と感心します。  英国も欧州だから同じレベルにあるのだろう。だとするとルールをしっかり理解しておかないといけないが、誰がどのように説明してくれるのだろう?これが最大の心配事でした。下見の際、不動産屋の案内者(おばさん)に「ごみを捨てるのは何処で、どのようにすればいいのかな?」と問うと、「? ごみ?」「あぁ そこのごみ用のビン(ゴミ箱)に何でも一緒に捨てればいいのよ」、とフラットの外れに設けられたごみ箱コーナーに案内してくれました。そこには大きな緑色のゴミ箱(私の背の高さでは底が見えない)が3個置かれ、その中に黒い袋(これは市指定の一般家庭用)やスーパーの買い物用ポリエチレン袋に入ったごみが沢山放り込んでありました。帰りに別の棟のゴミ置き場を見ると、何と!ソファーがごみ箱に入らず、外に置かれています。退居者が捨てていったもののようです(これはさすがに後で問題が出たようで、自治会(?)から警告が出ていました)。
 週に1回(水曜日)、大型のゴミ収集車がやってきて、ごみ置き場近くに後部から接近すると作業員(運転者を含め3人)が、ビン(下部に4つのキャスターが付いており、ごみ置き場から道路へ引き出せる)を車の後部に運びます。それを特殊なクレーンで吊り上げ、逆さまにすると中身が収集車の中にドサッと取り込まれます。空になったビンを元に戻して終わりです。全部で3分位でしょうか。アッという間です。この後の処理は分かりませんが、TVなどで観ていると、野原の広大なゴミ捨て場に、袋に入ったまま捨てられ、ブルドーザーで土を被せていました。
 これは我が家のごみ処理の現状ですが、既にランカスターでも分別収集が始まっています。7月末このフラットの住民宛にその計画書が回ってきました(ただこの計画書はタウンハウスを含む個人住宅向けで、集合住宅に住む我われにはそのまま適用できないと思います)。それによると各家庭にキャスターの付いたグレーの比較的大きなビンを配り、その中にリサイクルごみを入れる、三種類の蓋つきの小型ボックスを入れておく、というものです。小型の三種類は多分、プラスチック、金属、壜用でしょう。そしてグレーの本体にその他のごみを入れることになると思います。これ以外に庭のごみを処理する緑色のビン(グレーと同サイズ)を配るから、希望者は申告するようにとなっています。これらの容器は8月中旬から配られ、分別開始は9月17日からとなっています。そして、近所の個人住宅には既にこのビンが配られます(我が家の周辺のほとんどの個人住宅は、グレーと緑の二つ)。この大きさのビンをフラット各世帯に配ると、自宅内に納められる大きさでは無いので前の道が大変なことになります。何か別の容器が用意されるのではないかと推察します。しかし現時点では何も配られていないので、出来ればチェックアウトが終わってから始めて欲しいと願っています。
 この配布文書によると、リサイクル率は2002年度の6%から現時点で25%に達し、“Huge Success(大成功)だ”と言っています。よく買い物をする、Sainsbury’sと言うスーパーでくれる買い物袋には“This bag is made from 33% recycle material”と印刷してありますし(軽い罪悪感とともに、これにごみを入れ “みんな一緒”にビンに投げ込んでいます)、たまごのパックも紙のリサイクルです。
 田舎の中小都市ということもあるのでしょうが、繁華街を歩いていて道路に目立つごみが捨ててあるのを見かけません。ゴミ箱は何種類かあり、上記の分別基準に従っているようです(ただ、“その他”のゴミ箱に分別すべき物などが見え隠れしていますが)。食べ物の残し方もアメリカほど酷くありません。アメリカの事情を知っている人は、皆あの乱雑な残飯の話をします。食べる物は不味くても、後始末はきちんとしています。アングロサクソンと一括りにされることに抵抗もあるようです。私も、生活感覚は我われと意外に近い感じがしています。

 このレポートを、ラグビー・ワールドカップ;オーストラリア:日本戦を観ながら書いています。初めて、こんなに長く日本人をTVで観られ感激です。残念ながら勝負は一方的です(91-3!)。体格が違いすぎます。大人と子供の戦いです。しかし、体の小さいことはあらゆる資源の節約に繋がるはずです。環境問題が厳しくなればなるほど、我われに有利な世界が出現する可能性を期待しましょう。
以上

2009年1月16日金曜日

滞英記-15

Letter from Lancaster-15
2007年9月2日

 ついにレポートの発行月も9月になりました。結局短い夏も来ず晩春から、秋に入ってしまった感じです。異常な経験です。異常と言えば、今週一番の異常な出来ことは、29日(水)にイングランド・ウェールズの刑務官(Prisoner Officers Association;POA)が一日ストライキを打ったことです。全国ニュースばかりでなく、Northwest版には何と直ぐ近くにあるLancaster Farm(少年刑務所)までTVに登場です。争点は賃上げです。一番困ったのは中にいる囚人達だったようです。過去の労働党政権時代は労組に依存する傾向が強く、それによって経済ががたついてきた歴史もあるので、ブレアは支持基盤を組合依存から一般中産階級向けに切り替える戦略をとり、まずまずやってきましたが、好調な経済はインフレも伴い、現業公務員は厳しい生活環境にあるというのが、彼らの主張のようです。ブラウン首相も厳しい姿勢を示しています。それにしても刑務官が!と驚きました。
 今回はこの最新ニュースはひとまず置き、最近の世相について、あまり日本には伝わっていないと思われる幾つかの話題を集め、<世相点描>としてお送りします。

 研究の方は;
 Waddington「O.R. in World War 2 -Operational Research against the U-boat-」を調べ終わりました。
 この著書から得たものは;
1)OR活動の具体的な内容で、単に手法ばかりでなく適用推進の諸活動が、如何に科学者の評価を高め、次の展開に繋がるか。
2)組織の中で、専門家に如何に持てる力を存分に発揮させるか。と言うことを具体的に知ることが出来た点です。
 英軍においても、科学者と接触の少なかった軍人は、おおむね“be on Tap, but not be on Top(必要なところだけ上手く使い、決してとトップになどに登用してはいけない)”という姿勢が強かったようです。対Uボート作戦中核だった沿岸防衛軍団でも、軍団長・参謀長とその科学顧問の関係は、人によって微妙に違いっています。軍団が抱える個々の問題ばかりでなく、その背景や問題の深刻さを、率直に専門家に理解させたトップの場合の方が、いい結果が出ています。“専門家は必要な時だけ呼べ”では士気があがりません。供に考える場を与えることが大事です。ただ、専門家の方もそれなりの広い見識を持つことが参画の必要条件であることは言うまでもありません。職人、専門馬鹿ではその資格はありません。
 次のテーマに着手しました。カナダの歴史学者が著した「Britain’s SHIELD(英国の盾)」です。これはOR適用の嚆矢となった、“Battle of Britain(英国の戦い;英独航空戦)”における科学者の活動、特にレーダー開発、その防空システムとしての実現、そこでのORの役割、を技術的な見地ではなく、歴史、政治、国防政策、組織管理、人間関係などの面から論じたユニークな本です。まだ三分の一くらいしか読んでいませんが、いままで調べてきたものとは違う、新たな情報が多々得られています。例えば、“ORの父”と言われるブラケットが属していた、通称“ティザード委員会”を主宰していたティザード博士の姿が見えてきたことです。著者はこの人物を“二流の実験物理学者”と決め付ける一方で、「複雑化・細分化してきた科学を、上手く管理出来た、第二次世界大戦時最高の科学マネージャー、アドミニストレータ」と評価しています。OR普及の鍵はどうやらこの男にありそうです。
 さらに、新たな資料が提供されました。これはMauriceに対する私の質問に発するもので、今まで目を通してきた、著書・文献が主として科学者や政治家等に拠っているので、「軍人が書いたものが無いか?」と問うたことに対する回答です。英空軍の公刊史「The Origins and Development of Operational Research in Royal Air Force」で、彼が国防省でフォト・コピーしてきた貴重なものです。遥々出かけて来た甲斐がありました。残る最大の課題“英爆撃機軍団は、何故OR適用に消極的だったか?”もこれから探れそうです。これも楽しみです。

<世相点描>
1)少年犯罪 犯罪(特に殺人がらみ)は、どこの国でもニュースとして頻繁に取り上げられます。この国に来てTVニュースを観ていると、特に少年が関わる事件が極めて多いことに、気がつきました。英国得意の犯罪小説(本屋の“Crime(犯罪)”と言うコーナーのスペースは一番広く、次いで、歴史、伝記)の世界では大人が主役ですが、現状は少年なのです。これと関連して一月くらい前に、BBCが“少年の飲酒”問題を扱った番組を放映しました。それは日本でも観ることが出来たようで、これに関連したメールをいただきました。飲酒・ドラッグ・銃、少年が絡む犯罪の三大助演者です。ここでは最近起こった二つの事件(いずれもランカスターを含むNorth West地区)を、社会の反応を含めてご紹介し、私なりのコメントを加えてみます。
①11歳のフットボール少年射殺
 先週22日(水)夕方、リバプール郊外に住む11歳の少年が友達とフットボールの練習中何者かに射殺されました。目撃者情報では、犯人は13~15歳の少年と言われ、数日後15歳の被疑者が警察に拘束されましたが(2日現在では、他に4人が取調べをうけているようです)、詳しい情報が全く出てこないので、果たしてこれらの中に犯人がいるのかどうか分かりません。
 これに対する社会や警察の反応は、明らかに大人の殺人事件とは異なります。一週間は完全に全国ニュースのトップでしたし(North Westのローカールニュースでは、今でもトップ)、警察のトップがしばしば登場し、全力を尽くして犯人発見・逮捕に努力しているかを縷々説明すると伴に、情報提供を訴えています。一般市民は被害者宅に、お悔やみの言葉を書いたカード添えた花束を捧げに続々と訪れ、警官が整理に当るほどです。また、少年はプロフットボールチームの下部組織のメンバーだったこともあり、キャプテンがTVに出演し情報提供への協力を訴えました。さらに、週末のゲームには両親が招待されグランドに選手と伴に並び、オナーがこの試合を彼への追悼試合にすることを宣言するとともに、さらなる情報提供を呼びかけました。
 警察の捜査も細微を極め、練習していたフットボール場に、横一列に膝間づいて並んだ、作業服姿の警察官が、当に“芝の目を分けても”の姿勢で匍匐前進しています。近くの草むらでも別のグループが、池にはアクアラングを付けたフログマンが、物的証拠を発見すべくそれぞれの持ち場で頑張っています。これによって、直接犯罪とは関係なかったようですが、2丁の拳銃が発見されています。
 動機不明の、少年による銃器を使った年少者殺人。其処此処で起こる類似の事件の中でも、被害者の年齢、場所(他は、繁華街、逆に人通りの少ない場所、車中など)などからこの種の事件の中でも、何故彼が?健全なスポーツのグランドで?と、格別の社会問題として注目されています。
②中年パパの死
 これよりさらに一週間前になりますが、マンチェスター郊外住宅地で、中年の父親が、深夜自宅付近で騒いでいた少年たちを諌めたことから、事件が起こっています。やはり銃器による射殺です。優しそうなお父さんの写真が、毎日映し出され、犯行情報の提供を呼びかけています。監視カメラ社会の英国ですから、この種の行動は一部映像として捉えられているのですが、犯人特定に結びつくところまでは行っていません。少年たちが住宅に向かって物を投げつけ、窓などに当るシーンが映し出されています。自転車でやってきたり、車を近くに置いてこのような騒ぎを起すので、警察がやってきた時には既に何処かへ消えてしまっている。こんなことが全国で、頻々と起こっているのです。そしてこれには飲酒が深く関わっているのです。

 さて、以上はTVで報じられている事件の概要です。少年、飲酒、銃器、殺人。これらを結びつけて、飲酒が問題、銃器が問題と論じていますが、英国人もこれは表面に表れた結果であり、問題の本質はもっと深い所にあると思っているでしょう。統計によれば、11~15歳の飲酒癖は27%を超えています(別のデータで、Children;年齢帯不明の、一週間の飲酒量5パイント;大体大ジョッキで5杯と言うのもあります)。ドラッグも17%を超えています。何故こんなに荒んだ生活を少年達が送るようになったのでしょう?
 (Maurice)Kirby教授夫人、Barbaraは保護司をしています。最近は頻繁に警察からお呼びがかかるそうです。罪を犯した少年(少女)の親代わりをさせられることが多いそうです。「親はどうしているんだい?」「そこが問題なんだ!片親しかいない子が多くなってきているんだ。特に、シングル・マザーの子がね」「母親は働きに出ているため、警察に来られないんだ。それでBarbaraが代理をするんだよ」 英国経済史が専門のMauriceは、正確な年代を刻みながら、結婚年齢の変化(晩婚化)、正式婚姻関係でないカップルの割合(パートナーと称する)の増加、大学進学率の増加(彼の時代は同年齢層の6%、現在は40数%)、女性の自活割合、離婚率の飛びぬけた高さなど、これらと深く関係する家庭崩壊の歴史を語ってくれます。さらに、この背後にある、各政権の労働政策、教育政策、産業構造の変化に及んでいきます。「製造業の衰退は80年代に始まったというのが通説なんだが、実際は60年代から始まっていたんだ」「英国病イコール製造業の衰退なんだ」 彼の言わんとするところは、労働党と保守党のあまりにもかけ離れた産業政策に翻弄され、長期的視点を欠く企業経営・組合運営が個人の経済基盤を不安定なものにし、供稼ぎ・パートをせざるを得なくなり、家庭を確り維持できなくなって、子供たちが荒れてくる、と言う論理なのです。
 今度の刑務官ストについても、「現業公務員の生活は確実に厳しくなって来ている」「刑務官や警察官にはストは認められない代わり、経済情勢を勘案した一定の賃上げが約束されている。刑務官の場合、今年は2.5%なんだ。既に1.5%は引き上げられており、残り1%は10月に行われる」「しかし、最近の政府発表インフレ率は3.5%で、2.5%では実質賃下げなんだ。彼らはこれに抗議しているんだよ」「保守党時代を含めて、15年続く好況などといわれているが、実態は下にしわ寄せがきているんだ」「これに金利引き上げが加わり、彼らは家も持てなくなってきているんだ」(こんな親を見て育つ子供たち、特に片親の、がまともに育つには難しい時代なんだ!)彼に妙案があるわけではありませんが、ここまで掘り下げれば、飲酒や銃器取締りで事態が改善されるわけではないことが、少し具体的に分かってきました。

2)誤爆戦死者
 ブレアの引退、ブラウンの登場の背景には、イラク戦争およびアフガン紛争があります。経済政策は先ず先ずだし、社会改革(教育、医療など)もまだまだ途上です。しかし、確実に二つの戦争に対する厭戦気分が高まっています。特に、イラク戦争への参戦はブッシュ同様核兵器開発に関する誤情報を基にしており、訪英前から問題になっていました。その意味では、既に退陣のシナリオは出来上がっていたのです。
 イラク戦争について、アメリカは、英国の戦略が専ら守勢にあることに不満を表明していますし、英国は、アメリカの政策は破綻したとまで現役の司令官が英マスメディアに語るところまできています。しかし、日常の報道は、このような国家化戦略に絡むものより、派兵されている個々の兵士の動向、特に戦死者に焦点が当てられたものが圧倒的に多く、同情をもって丁寧に紹介されます。相手がゲリラでは、勇ましい決戦の勝利など全く無いわけですから、長く続けば“何のための戦争か?”と言うことになります。
 そんな中で、3週間前アフガニスタンで、アメリカ軍の攻撃ヘリコプターが英陣地をタリバンと間違え誤爆し、3人の若い英軍兵士が戦死しました。国防当局や軍事専門家は、アフガン戦場の難しさ(敵味方支配域のいりくみ、敵味方識別の難しさ)や攻撃ヘリの運用などの面から解説を試み、暗に“不可抗力”に近い状況であるかのような言い方をしていました。しかし、メディアや一般市民は当然それでは納得しません。連日戦場管理のトップの問題、アメリカとの共同作戦の是非、さらにはアフガン参戦への意義を問う方向に報道がエスカレートしていきました。そしてその先には、イラク戦争も含めた国際紛争に関する国策の見直しまで見えてきたのです。
 問題の重要性(深刻さ)を素早く察知したブラウンは、直ぐアフガニスタンに飛び、現地政府や派遣軍に、アフガン紛争解決の重要性とそれへの英軍の協力を表明、その行動が国内世論に微妙な変化を与え、感情論先行を抑える方向に向かってきています。
 ブラウンは就任後間もないので、性急な評価はできませんが、危機管理能力に優れ、姿を見せるべき時と場所を心得、課題対策について“自分の言葉で語っている(党内の意見集約や官僚に頼らず)”との印象を強くしています。

 参議院選挙での自民党敗北で、テロ対策特別法案の継続是非が大きな問題になっていることは、このレポートをお送りしている先輩から詳しく国内動向に関する情報をいただいています。ブレアからブラウンへの政権交代は、同じ労働党内の出来事ですから、政策は基本的に継続されることで、日本とは事情が異なることは承知しています。しかし、去っていったブレアに責任を全て負わせ、国内世論に迎合し、保守党の攻撃をかわすため別の選択肢を選ぶことも可能だったはずです。総選挙の洗礼を受けていない首相だけに、票を睨んだ言動があってもおかしくない状況下でのアフガン行きは、ブラウンが国際問題にきちんとした見識を持つ指導者と評価できる行動だったと思っています。
 テロ対策特別法案は、アフガン紛争対応で出来上がったものです。イラク戦争とは違い、ここではドイツ・フランスも共同戦線を張っています。“国連のお墨付き”だけを意思決定の判断基準にするような他力本願では、世界をリードする役割を担える国家として認めてもらえません。熾烈なグローバル・パワーゲームを、如何に勝ち抜くか?したたかな発想・行動が鍵です。国際問題を、国内の政争の具にするようなことのないよう願っています。

3)ダイアナ妃10周忌
 今年はダイアナ妃が亡くなって10年目になります。7月には彼女が支援していた、小児病に関する活動を記念するチャリティーショウが開かれ、大勢のエンターテイナーが参加していました。ダイアナ人気は今も衰えず、パリでの事故の日が近づいた昨今TVでも盛んに回顧場面が放映されています。住いの在ったケンジントンパレスや墓地は献花や写真などが溢れるほどです。そんな中で、公式の追悼式が8月31日(金)ロンドンのチャペルで、執り行われました。BBCはこれを11時から1時の2時間にわたって実況中継を行いました。そのあらまし、トピックスをお伝えしましょう。
 場所はロンドン市内の近代的なチャペル(小教会;名前は失念しました。後でわかったことですがこの教会は英陸軍のものだと言うことです)です。元々は歴史のあるもののようですが、第二次世界大戦時のロンドン空襲で爆撃に会い焼け落ち、戦後再興されましたが、昔の姿を留めるのは、正面奥祭壇・説教壇後部にある壁に削り込まれるように彫られた半円柱とドームの部分だけだそうです。全体に白の基調で、清楚で明るい感じが彼女を偲ぶ場所としてピッタリでした。チャペルですから収容人員も小規模で、200人程度が座れる大きさです。祭壇(と言っても別に写真などがあるわけではありません。通常の教会の祭壇です。周りには淡い色のばらが沢山飾られていました)の背後は前出の半円柱とそれに繋がる半球ドームで、その部分だけ金色の彩色が施されています。祭壇から出入り口に向かい、左右にベンチ上の椅子が2列に並んでいます。
 11時から始まった中継は45分頃まではチャペルの内部の紹介、付近の情景や、関係者の思い出話、室内楽団の演奏などに費やされましたが、45分頃にウィリアムズ王子、ヘンリー王子(通称;ハリー)が到着すると彼ら二人は入り口に立ち、到着する人々と挨拶をしたり、頬を寄せ合ったりしています。既にブラウン首相は先に到着しているところを見ると、二人より後から来る人達は、王室関係者、特に近親の人達でしょう。
 やがてチャールス皇太子(プリンスオブウェールズ)の到着です。彼は一人でやってきました。カミラ夫人は同行していません。BBCが行ったアンケート調査によれば、参加すべきでないが50%台、参加すべきは30%台でした(こんなに多いのに驚きましたが)。父子は入口で和やかに話し合っています。皇太子が、今日追悼のスピーチを行うハリーに何か言うと、ハリーはポケットのあちこちを探り、やがて何やら原稿らしきものを取り出し、三人で笑っています。
 55分頃いよいよ女王陛下のご到着です。沿道から拍手が沸きあがります。先ず、女官、ついでフィリップ殿下、最後に降り立ったエリザベス女王は明るい紫尽くめのいでたちです。何故かこの時“ロンドンデリー”の演奏が始まります。皇太子、二人の王子に迎えられ、やがて皇太子を真ん中に左右に二人の王子が先頭、二列目が女王陛下とフィリップ殿下、起立してお迎えする参加者の間を最前列まで進みます。席次は、祭壇から見て右側が女王家、左側はダイアナ妃の出身家、スペンサー伯爵一族です。二人の王子がそれぞれの通路側に着きます。ウィリアムが女王側、ハリーはスペンサー側です。ウィリアムズの隣は女王陛下、ついでフィリップ殿下、最後が皇太子です。
 左側は、ハリーの隣にダイアナ妃の姉、次いで兄が着きます。ブラウン首相は右側の3列目か4列目でした。
参加者の服装はまちまちで、男性はほとんど背広、必ずしも黒一色ではありません。ネクタイも黒タイは皆無です。シャツがカラーのひともいます。二人の王子も濃紺のダブル、ネクタイはエンジと黒のストライプのお揃いです。
女性は帽子が目立ちます。女王は服と同色のつばつき帽子です。若い女性の中にはベレーもいます。彩りは男性に比べはるかに華やかです。これが普通なのかどうかは分かりませんが、上品で華やかだったダイアナ妃に相応しい雰囲気が醸し出されています。
 牧師の開会宣言、合唱隊による賛美歌。声変わりする前の少年合唱隊の美しいボーイソプラノが際立ちます。
ウィリアム王子が演壇に立ち、一礼して聖書の一節を朗読します。再び賛美歌です。次に演壇に立ったのはダイアナ妃の姉です。やはり聖書の一節の朗読です(大変険しい表情でした)。終わると、また賛美歌です。
 ここで真打登場です。ハリーが演台に上がります。女王の方に一礼して、語り出します。母が如何に自分たち家族を愛していたか、人々から愛されたかを簡潔に、しかし心をこめて話していきます。ここで少し気になったのは、“父を愛し・・・”の表現に“Love”ではなく“Like”を使ったことです。離婚の原因が皇太子側にあることは衆知のことであるが故の言葉の選択かどうだったのか?特別な意味など無いことなのか?英語に堪能でもなく、この国の仕来たりも知らない私に真相は不明です。
 この後の僧正(ビショップ)の説教も彼女の徳を称えるものでしたが、極めて分かり易く、アメリカでの彼女の人気などを援用して、坊主の説教らしく無いのが印象的でした。
 皆で賛美歌を歌った後(沿道・公園に集まった人達も唱和)、彼女の好きだった歌(メロディーはよく知っているのですが、題目を知りません。SailingとCountryが入っているのですが)が演奏され、皆で唱和します。最後は国歌で終わりました。女王陛下のご退場です。丁度1時でした。

 ダイアナ妃の人気は、王室(除く女王陛下)の不人気と取れないこともありません。お歴々が到着する際の、群集の拍手がそれを確実に表しています。拍手があったのは、二人の王子と女王の到着時しか聞こえませんでした。愛されてはいるが尊敬はされていないのではないか?そんな疑問も浮かぶほどです。
 この国の王たちの歴史を辿ってみれば、女性関係のトラブルだらけです。英国国教会からして、カソリックの法王から再婚を認めらなかった(破門)ヘンリー8世が作り出したものなのです。近いところでは、離婚経験のあるアメリカ女性を妻にし、王位を放棄したウィンザー公の例もあります。人間的には正直な行動ですが、尊敬は無理ですね。
 もう一つ“王室の尊敬”に関わることで気になるのは、“今の王室はドイツ人だ”と言う見方があることです。ヴィクトリア女王の夫君、アルバート公はドイツ人でしたし、フリップ殿下はクーデターで倒れたギリシャ王室の出身ですが、ギリシャ王室そのものがギリシャ人ではなくドイツ系で出来ていたことです。この考え方は当地に来てから知ったことで(アルバート公がドイツ人であることは知っていいましたが)、充分消化できていないのですが、興味深い見方です。
 最後に、もともとこの国は4カ国なら成る連合王国です。本来別々の王家があったものを、現在の王家が代表することになったわけですから、気配りも4倍必要なわけです。自分の感情の趣くままに生きることが、許される環境ではないのです。

以上

2009年1月3日土曜日

滞英記-14


Letter from Lancaster-14
2007年8月26日

 今週(20日の週)の当地のトピックスは、大きなものはあありません。ただ、気になるのは、このところ少年犯罪(アルコール絡みの殺人;加害者・被害者)の報道が多いことです。景気は良いし、失業率もヨーロッパでは極めて低いところ(5%台)にあります。しかし、既得権の少ない若い人には住み難い社会なのかもしれません。学部卒だけでは中々希望の職業に就けないのが現実です。このような環境が更に下の年齢層に閉塞感を与えている可能性大です。経済効率優先で、ニート、パートタイマー、派遣社員が急増しているわが国も、他人事では無いと、この地に居て感じています。
 泣き言を連ねてきた天気は、ここのところ良くなって来ました。それでも気温は20度前後です。大学の帰り、自宅に辿りついたら、フラットの前で女性が側に犬を侍らせ、マットに仰向けに横たわり、日光浴をしていました。しかし、天気予報には“Shades of Autumn(秋の兆し)”などと言う表現も使われ出し、短い夏も終わりのようです。夕暮れが早くなったことにそれを強く感じます。7月下旬、「そちらでは蝉は鳴いていますか?」とのご質問がありました。全くいません。蝉だけでなく秋の虫の気配すら感じません。ロンドンで日本人ガイドが言っていた「有るか無きかの春と秋、短い夏、あとは暗い冬。これが英国の四季です」をぼつぼつ実感することになりそうです。
 今回のレポートは、皆さんの質問やアドバイスに沢山あった、英国の食に関することを、外食を中心にまとめた<英食つまみ食い>をお届けします。

 研究の方は、引き続きWaddingtonの沿岸防衛軍団における、対Uボート作戦におけるOR適用の本を深耕しています。前回はメインテナンスまででしたが、その後Navigation(航法、特に洋上)、Weather and Operations(天候と作戦の関係;Uボートの最大の敵は飛行機、しかし悪天候で飛べないと、ここをチャンスと船団を襲ってくる。切れ目なく哨戒するにはどうすればいいか?)、Radar(レーダー;初期のレーダーの信頼性向上など)、Visual Problem(Uボート発見のさまざまな効率改善策;双眼鏡の使い方まで!)、そしてAttack(攻撃方法;爆撃進路や高度のとり方、爆雷の種類、投下間隔や深度設定)まで来ました。残るは最終章の、総合的なAnti-U-boat Operationsだけです。とにかく極めて小さい・現場的な戦術・戦闘段階までOR適用が浸透していたことに感心すると伴に、その執念深さに“英国と戦争することの恐ろしさ”を知らされました(尤も、アメリカのお付き合いで始めた、アフガン、イラクの戦いにはこの英国魂は全く感じませんが)。
 8月22日(水)イングランドとドイツのフットボール試合がありました。こう言う国際試合だけはBBCで確り放映してくれます。ドイツのメルケル首相、英国のブラウン首相も観戦に来ました。ベッカムもロスから帰り参加しました。英国中が盛り上がりました。試合は2-1で残念ながら負けました。素人目に感じたことは“組織力”においてドイツが遥かに勝っていると言うことです。あの第二次世界大戦時(否、フォークランド戦争ですら)の執念と組織力はいずこに?!の感です。
 この試合をMauriceと話題にした時、直接試合とは関係ない場面で、「アメリカのスポーツは引き分けが無いんだ。彼らはどうしても勝負をつけたがる国民性なんだろうな。英国のスポーツは本来引き分けありなんだ。クリケットの試合など、5日間戦って引き分けなんて言うのもあった」と語っていました。“戦い”に関する、別の英国人気質を垣間見ました。
 ここへ来て既に3ヶ月を過ぎ、大分資料・著作にも目を通したので“研究成果のドラフト(何故英国で発したORが、各レベルの意思決定者に受け入れられ、実戦で効果を挙げたか)”をまとめ、Mauriceに説明しました。全体としてOKをくれた上で、一つ付け加えてくれたのは、「科学者が、“効果が実証出来るまで”実戦部隊と一緒になって任務をやり抜いたことに注視するように」と言うことでした。先端科学・技術の開拓者には移り気なところがあります(IT関連は、技術進歩が急でこうなり勝ち)。銘すべき助言です。
 次のリーディング・アサイメントは「Britain’s SHIELD(英国の盾)」;レーダー開発と防空システム構築・運用、その中でのORの貢献に関するものです。ハードカバーで200ページを超えるもので、結構タフでしょうが、拾い読みしたところ、戦闘機軍団長;ダウディングの新技術への関わりが詳しく書かれており、“意思決定者と新規技術適用”と言う研究テーマにピッタリの内容で楽しみです。

<英食つまみ食い>
 「食事はどうしているんですか?料理出来るんですか?」「野菜を沢山摂るよう心がけてください」「英国で一番美味しかったものはなんですか?」「生魚を食べる機会はありますか?」「フィッシュ・アンド・チップスはどんな食べ物なんですか?」「当然毎晩スコッチを楽しんでいるのでしょう?」などなど、海外滞在経験の長い方、単身赴任経験者、主婦、身近な友人・家族まで“食”に関するメールを沢山いただいています。“食”は衣・住に比べて、はるかに個々人レベルで身近に感ずる話題なんですね。
 これらのご質問の中で、“自炊”に関するものは、私の日常をよくご存知(推察を含め)の方から発せられるものです。専ら“私、食べる人”に徹してきたのでご心配はもっともです。そして答えは「何とかやっていいます」でご了解いただきたいと思います。と言うのも、レポートは“滞英記”として残そうとまとめているので、自炊の苦労・失敗話では“英国以前”があまりにも多く、日本でやっても同じことをお伝えする結果になるからです。そこで今回は“外での飲み食いとアルコール”に関する話題を中心に、ご質問に対する回答を含めご報告します。
 英国へ出かけると宣言してから、訪英経験のある先輩・友人諸氏から、「楽しい国だが食い物だけはダメだ!酷い!覚悟して行けよ」とコメントいただくことがしばしばありました。ちょっと英国人には酷な表現ですが、「英国人は一般に、味覚の鈍い国民として通っている。そうでないと言う人もいるだろうが、おおむね世界人類の共通認識だから、やむをえない」ということを書いてある本を目にしたことがあります。一方で、先のブリストル行きのレポートでご紹介したように「英国料理がまずいのは、ホテルや高級レストランのもので、家庭料理は決してそんなことはない!」という英国人の反論もあります。私はどちらかと言うと、短い滞在の中のつまみ食い体験にすぎませんが、後者の意見に近い評価をしています。実は田舎で家を借りて生活していると、ほとんど外食をしません。そんな訳で、今でも大体何をどこで食べたのか記憶しています。それでは朝から晩までの時間の流れに従って、味見をしてみましょう。

1)English Breakfast
 朝食を外で摂るのは、ホテルに泊まった時に限られます。英国では基本的にホテル料金はB&B(Bed & Breakfast;朝食混み)で標準的な朝食が供されます。いずれのホテルでも基本はビュッフェで、格別よその国と変わりありません。安いホテルはいわゆるコンチネンタルで温かい物(トーストとコーヒー、紅茶を除く)や肉類がありません。しかし、これはかなり例外的な気がします。経験したのはロンドンに泊まった時で、ここは昼・夜は食事を提供しないほど簡素化されていました。通常は、ベーコン、ソーセージ、たまご料理もビュッフェに用意されているので、非コンチネンタルと言えます。
 English Breakfastと言うのは、ビュッフェにはコンチネンタル(パン、シリアル、飲み物、乳製品、果物程度)しかありませんが、温かいたまごや肉類を別にオーダーをとって(料金は含まれている)好きなものが選択できる仕組みになっています。代表的なのは、ベーコン・たまご・ポテトでしょうか。英国人は(多分コンチネンタル;大陸と比べて)、朝食だけは豪華なものを食していると考えているようで、「朝食は食べたか?English Breakfastだったか?」と念を押したりします。ここで「いや、今朝はコンチネンタルにした」などと正直に答えると、「何故だ?(調子でも悪いのか?)」と聞き返してきたりします。
 朝食にはこの他に、チーズ、ソーセージ、ハム、ヨーグルト、ミルクなどもあり食肉加工品や乳製品は種類も多く、味も大変美味しく、彼らもここはかなり誇りを持っています。EUの統合が進むと、Maid in UKでなくEUになることに反対する人が「EU産のソーセージなんか信じられるか!」と言っていました。
 果物は、いちご、ブルーベリー、リンゴの一部は国産のようですが、大部分南欧、アフリカなどからの輸入品です。
 最後にパンですが、トーストは温かいのを一人4枚くらい焼いてきてくれます。ブラウンとホワイトを問われることがありますが、黙っていると2枚ずつ持ってきます。朝確り食べて、昼は比較的軽めが習慣なのかな?と思ったりしています。
 と言うようなわけで、朝食に関する限りなかなか質・量ともに高い水準にあると評価できます。ただ、メニューを見ていただいてわかるように、“英国”独特の味が出てはいないので、これだけで結論には至りません。

2)Lunch ここは多種多様です。また、確り摂るか摂らないかも思案どころです。さらに、何処で摂るかです。
 先ずサンドウィッチ伯爵が、トランプを中断したくないために発明したと言われる、サンドウィッチ。いろいろなものが挟まれますが、一番よく食べてきたのは、ランカスターハウスホテルのローストビーフとホースラディッシュです。これはゼミの際殆ど毎回食べてきましたが、何故か今週メニューから消えてしましました。仕方なくスモークサーモンにしました。多分来週からは毎回スモークサーモンになるでしょう。これにサラダと独特の、キャベツのみじん切りを少しドロドロした酸味の強いマヨネーズ状のもので和えたもの(何かきちんとした名前があります)、それにカリカリのポテトチップ。あとはビターのジョン・スミス。両者は良く合います。パンの種類、挟む具もいろいろです。チキン、ハム、チーズ、たまご、サーモンなどなど。
 Gregg’sと言う、全国チェーンのサンドイッチフランチャイズ店(ランカスターの中心にも2件ある)から、街の肉類総菜屋がその場で作ってくれるようなものまで(この方が断然美味しい)、どこでも手に入る気安さ、値段の手ごろさもあり、オフィスの自席や公園のベンチで、ビジネスマン・OLが頬張っています。定番ランチと言っていいでしょう。温かいのが食べたいなと言う時は、ホットサンドウィッチが良いでしょう。丸いパンに、チキンとブルーチーズを挟んだホットサンドウィッチにフライド・ポテト(この量が多い!)なども人気があります。
 次いでジャケット・ポテト。ベークド・ポテトです。違いは種々のトッピングがあることです。私の好みはチーズ・アンド・ビーンズ。他にベーコンやオニオンなどそれぞれの店で独特のトッピングを考案しています。バターだけのもの、素のものももちろんあります。これにサラダ、例のキャベツとポテトチップスが組み合わされます。ソーセージなどが添えてあるのもあります。
ジャガイモは当地では準主食、スーパーに行くと多種多様のジャガイモがあります。ジャケット用はその大きさが桁違い、あれを外から中まで均一に仕上げるにはそれなりのノウハウが要るんでしょうね?
 田舎道をドライブしていて、昼飯時なかなかサービスエリアが見つからないとき、小さなInnなどが見つかると飛び込みます。メニューにジャケット・ポテトが載っているとホッとします。本当はビターを一緒にやりたいところですが、我慢のスパークリングウォーターです。
 次は各種ミートパイ。形・大きさ、中身の肉、これも多種多様。寒い日が続いたのでどうしても温かい食べ物が欲しくなります。特にドライブと外歩きが組み合わされた時、ミートパイとスープの組み合わせは最高です。
 これはランチではありませんが、ロンドン観光中、ジャパンセンターで寿司を買い、これをホテルで食べることにしましたが、ビールの当てがないので帰路途上、ヴィクトリア駅でミートパイを買い増し、寿司とミートパイと言う日英同盟記念料理を摂ったこともあります。考えられない組み合わせですが、美味しくいただきました。珍体験ご紹介まで。
 スープだけと言うこともあります。最近娘とその友人が遥々ランカスターまで訪ねてくれました。翌日湖水地帯案内のドライブに出かけました。観光の中心地、例の国際免許が見つかった、ウィンダミアを案内し昼食時間になりました。さて、どこで昼にしようか?取り敢えず土産物屋や飲食店の集中する方へ向かいましたが、その途上湖水を一望する広々とした庭を持つホテルが見えてきました。湖水に並行する道路に沿ってそのホテルの石積みの塀が続いていいます。塀が一部切れてホテルへの入口になっています。そこに“Light Lunch”と書いた紙が張ってあります。観光客が入っていく気配がありませんでしたが意を決して、芝生の中の遊歩道をホテルへ向かい上っていくと、風格のあるホテルの全容が見えてきました。建物中央の前庭部分に丸テーブルが幾組みか置かれ、一組の家族が昼食を摂っているところでした。小さな入口から中に入ると、そこもカフェテラスのように設えてあります。バーのカウンターがありますが人は居ません。呼びかけると厨房の方から人が出てきて、対応してくれました。「Light Lunchとあるが、どんなものがありますか?」と問うとメニューを出して説明してくれました。そこに“スープ、ロールパンつき”と言うのがありました。彼女たちは“ブルーチーズのホットサンドウィッチ”を注文しましたが、私はこの“パン付きスープ”にしてみました。この後のアフタヌーンティーを考えればこれで充分と考えたからです。昼食時のパン付きスープはここだけでなく他でもありました。
 さて、お待ちかね、“フィッシュ・アンド・チップス”です。
 私がフィッシュ・アンド・チップスと言う食べ物を知ったのは、1982年シドニーで開催された、Esso Eastern(エクソンのアジア地区統括会社)のORワークショップに参加した時です。一日前にシドニー入りしたので、市内の渡し場、サーキュラー・キーから対岸に渡り、タロンガ動物園に出かけた時です。昼食時、園内の立ち食いスタンドで皆が求めているものを見ると、魚を揚げたものとポテトフライでした。何というものか聞くと、“フィッシュ・アンド・チップス”という答えが返ってきました。早速買い求め、食べてみると大変美味しいものでした。その後、これが英国生まれで代表的な軽食であることを知りました。そしてあれ以来四半世紀振りの“フィッシュ・アンド・チップス(F&C)”は、またまたORとセットでした。
 実は、こちらへ来てから2度しかF&Cを食べていません。最初はマンチェスターからランカスターへの移動中、高速道路のサービスエリアで摂った昼食です。二度目はカーライルへ観光に出かけ、そこのレストランで昼食を摂ったときです。他の昼食と比べ著しく少ないのは、それほどこれを提供する店に出会わないからです。来る前の印象では、街のそこここにF&Cの店があると思っていましたが、意外と少ないのです。パブのような所へ入ればあるのかも知れませんが、昼食を摂るためにパブに入ったことがありません。ランカスターにもパブは街中に沢山在りますが、どうも昼間から入る雰囲気ではないのです。
 さて、F&Cはどんなものか?基本的に魚は白身の魚;Cod(たら)、Haddock(少し小振りのたら)が大半と言っていいでしょう。他のものもあるのかも知れませんが、味わう機会がありません。これを衣に包んで揚げるわけですが、揚がった状態は春巻きの皮のような硬くカリカリしています。魚は薄く塩味がします。これにフライド・ポテトが付きますが、この量が相当あります。レストランで食べると、さらにサラダが加わります。これだけです。ビール、ビターとの組み合わせは最高ですが、一回目は運転の途上ですからコーラにしました。これはいまひとつピッタリ来ません。二回目はビターを飲みながら食べたので、当に英国の味を堪能しました。これだけで昼食としては十分です(いや、ポテトは全部食べ切れなかった)。問題は油の多さで、これを頻繁に食べることは、確実にメタボリック体型への道に繋がるでしょう。
 この国には、階級社会の歴史が未だに強く残っていると言われています。後でも触れますが、食物・食材にもその歴史が反映しています。F&Cは典型的な下層労働者階級の食べ物だったようです。古新聞に包んだF&Cを、港や工場が隣接する街頭で立ち食いしているシーンを想像すれば、その説に真実味が出てきます。食べる場所、食べ方を考える必要があるようです。もっとも、日本でもお公家さんや位の高い(町廻りでない)武士が、麺類を食べている場面は映画・TV・小説にはまず出てきません。意外と上流社会の方々も、こっそり庶民の味を楽しんでいるのかも知れませんね。
 以上の英国伝統昼食料理のほか、中華、イタリアン、インド(これは当地ではまだ食べていない)などの料理が気軽に摂れます。大体その国の出身者がやっているので、専門店(ホテルはダメ)で食べれば味は間違えありません。
 と言うようなわけで、昼食に関しては選択肢も多く、美味しい英国料理が手軽に楽しめます。決して“英国料理は酷い”ものではありません。

3)Afternoon Tea
 “アフタヌーンティー”、優雅でゆとりを感じさせる良い言葉ですね。“3時のおやつ”とほぼ同目的(やや広い)のものですが、日本語・英語の違いを除いても、浮かんでくる情景が違います。マナー(大邸宅)、シンガポール、香港などにピッタリの雰囲気です。
 この言葉を初に知ったのは、1975年のシンガポールです。このとき会社に入って二度目(最初は、1970年のアメリカ、フランス)の海外出張をしました。目的は、先に出てきたEsso Eastern主催の“Logistics Economic Course”と称する石油精製・販売に関するビジネス・ゲームに参加するためでした。当時私は川崎工場で生産管理情報システムの開発に従事していたので選ばれたのです。Eastern傘下の各国から参加者があり、チームを組んで石油会社を経営して競い合うのです。2週間、トレーニングセンターの在ったシャングリラ・ホテルに缶詰になってしごかれるのです。とは言っても息抜きの時間はあります。そんなある午後、ロビーの喫茶コーナーで何気なくメニューを見ていると“アフタヌーンティー”とあったのです。飲み物、ケーキ、サンドウィッチなどがセットになっています。それらしき午後を過ごしている人達が居ます。言葉や内容から、英国の植民地時代を窺がわせるものです。“なるほど ゆとりだなー” その時の第一印象です。
 まだ近代化途上だったシンガポールには古い植民市時代の雰囲気が残っていました。目をつぶりまぶたの裏に写るのは、強い日差し、気だるい午後、バルコニーのある白い建物、広い緑の芝生が広がる庭、白いテーブルと椅子、これも白服の紳士・淑女が集う、お茶を給仕する現地人。インドで、マレーで、シンガポールで、香港で、ヴィクトリア時代の大英帝国です。現代の英国人もこんなよき時代の情景を思い起こしながら、アフタヌーンティーの時間を過ごしているような気がします。
 アフタヌーンティーは、紅茶とお菓子;スコーンが代表的ですが、クッキーやケーキも好まれます。甘いものが欲しくない時には、小型サンドウィッチもあります。具はきゅうりやチーズ、ハムなどあまりかさ張らないものが用意されます。もうチョッと重い食事を、遅いランチにすることもあるようです。また、場所によっては果物を組み合わせることも可能です。紅茶はもちろんポットで用意されます。むろんコーヒーでもかまいません。
 当地で過ごしたアフタヌーンティーでは、ブリストル訪問でジェフの周到な準備で訪れた、ヴィクトリアン・タウンハウスに住む、ジーニーのバックヤード(主庭)で過ごした時間がいつまでも記憶に残りそうです。レモンケーキと紅茶、話題が何故か「長男と母親;甘えん坊」になりました。「私も母にとって初めての子供ですから、その話はよく理解できますよ」 話が弾んだのは言うまでもありません。
 先日娘がやってきたことをお話しました。帰国した彼女から、訪英印象のダイジェス・メールが来ました。一番印象に残ったのは、湖水地帯観光に組み込んだ、マナー(大邸宅)訪問だったと。このマナーは、フッカー・ホール(Holker Hall)といい、赤い石(砂岩)で出来たお城のような邸宅で、メアリー王妃やグレース・ケリー王妃も宿泊した、由緒あるマナーです。現在も利用されており、その一部が公開されているのです。門を入ってしばらくは建物が見えないほどの敷地の中にあり、素晴らしい庭も見ものです。観光客用に別棟のカフェもあります。ここでアフタヌーンティーを味わっていると、英国在住の人気小説家、カズオ・イシグロの「日の名残り」の背景がよく理解できた、と言うコメントが加えられていました。執事や女中頭が登場する、日本では想像できない世界です。案内した甲斐がありました。
 アフタヌーンティーは、英国の文化と歴史が詰まった特別な飲食習慣で、これだけは他と比べることはできません。英国訪問のチャンスには、是非この時間を楽しむことをお勧めします。

4)Dinner
 料理の美味い・不味いは詰まるところディナーに尽きます。最初の2週間のホテル暮らし、ロンドン、エジンバラ、ブリストル、ヨーク、ランカスター市内で外食ディナーを食べています。ホテルでのディナーによく、POSHと書かれた看板が出ています。   POSHは何かの略語(P.O.S.H.)らしいのですが、まだ調べていません。その下に2種類でいくら、3種類でいくらと書いてありますから、メニュー選択と値段のことであることは間違えありません。最初に夕食を摂ったランカスターハウスホテル(LHH)で、POSHとは書いていないもの、それと同じ説明を受けました。つまり、①前菜、②メインA、③メインB、デザートは別料金、と言う説明で、メインをA,B2種にするか、AかBかいずれかにすするか、という選択を先ずします。前菜を含む3種の中から2種を選べば値段は2種の値段、全部を取れば3種の値段になります。私は一度もメイン2種にしたことはありません。①~③の中身はさらに3~4種ありここからひとつを選びます。例えば、前菜:サラダ、スープ、スモークサーモン、シュリンプ、メニューA:ラム、ポーク、ビーフ、メニューB:鱒、サーモン、チキン、パスタのようになっています。もちろん“何とか風”と言うような料理用語や、和え物・ソースの名前などが加わり、メニューを眺めたり、一度聞いただけではどんなものが出てくるのか分からないのはどこのレストラン、ホテルとも同じです。早口の英語で説明されても、混乱は増すばかりです。結局、素材とせいぜい調理法(焼くのか、煮るのかなど)で選ぶことになります。
 LHHとそれに続いて宿泊したホリデーインはそれぞれ1週間泊まりましたが、世評通り酷い料理でした。いろいろ変えてみましたがどれもダメです。手は込んで、努力はしていることは認めますが、味付けに全くコクがありません。素材も、ビーフはパサパサして肉汁の美味しさが全く染みでて来ません。早々と外から買ってくるもので夕食を済ませるようになりました。
 田舎のランカスターだから仕方が無いのか?ロンドンに出かけた時友人夫妻が泊まる、四つ星ホテルを訪れました。ハイドパークの北東角、マーブルアーチに近い落ち着いた雰囲気の良いホテルです。ロビーに隣接するバーで軽く一杯やりました。「良いホテルだね!」と話し出すと、夫人が「でもね、レストランは全くダメ。食べる気がしないの。昨晩は外から買ってきたもので済ませたの」とおっしゃる。数え切れないくらい英国へ来ているという二人の評価です。その晩のディナーは、オックスフォー通りから少し入った、英国風中華レストランでご馳走になりました。「中華は間違いないからね」と言うのが友の総括でした。同感です。
 ヨークに出かけた時、ディナーをどうするか随分悩みました。カジュアルで来ているので、簡単なもので済ませようかとも思ったのですが、英国に来て一度もディナーとしてローストビーフを味わっていないことが気になっていました。一度きちんとした所でローストビーフを食べたい。これには昔食べた、極上のローストビーフへの思いが未だに強烈に残っているからなのです(サンドウィッチに挟むものとは全く別物)。
 1960年代の終わり頃、当時パレスホテルの地下にあった(現在は無い)「シンプソン」にお招きを受け、おそらく生まれて初めて、ローストビーフなるものをご馳走になりました。口の中でとろける様な柔らかさ、肉汁とソースが作る深みのある味わい。“シンプソンのローストビーフ”はそれ以来あこがれの味になっているのです。シンプソンは、ロンドンを本拠とする有名レストランですから、「英国の高級レストランの料理は高くて不味い」の評価は少なくともローストビーフに関してはないはずです。
 トップクラスが優れていれば平均値も高いだろう。こう考え、ヨークでのディナーにローストビーフの可能性を当りました。日本から持参のガイドブック、ホテルでもらった観光案内、これらを調べているとロースト料理の専門レストランが見つかりました。両者に載っている店です。売りものは、ローストラム、ロ-ストポーク、ローストチキンそしてローストビーフです。身なりが心配で、フロントに聞きに行きました。「カジュアルで全く問題ありません。予約しましょうか?何時にします?」こうして出かけたのが、ヨーク(観光)を代表するレストランです。店の外から、シェフがローストした肉を切り分けているのがガラス越しに見えるような店です。入って予約を告げると、直ぐ席に案内してくれました。ここで(失敗かな?)と思いました。お客が皆観光客のような感じの人ばかりなのです。しかも空席があります。席に着き赤のグラスワインを注文し、メニューを眺め、定番のローストミート(3枚好きなものを選べる。混合可)をメインに選び、前菜はシュリンプカクテルにしました。前菜はまずまずでした。いよいよメインです。ビュッフェスタイルの調理台に向かい皿を取ると、シェフが「何にしますか?」(一瞬、三種類一枚ずつにしようかな?と思いましたが)「ビーフ」と言ってしまいました。三枚のローストビーフが皿に盛られました。(ウーン?何かサンドウィッチのローストビーフと同じ感じだな;脂身がまるでない)ソースや和え物は自分で好きなものを選びます。席に戻り、一切れ口に入れると、ガツーン!“何だこれは!(肉はパサパサ、ソースは淡白でまるでコクがありません)。“英国料理は不味い”を確り確認しました。
 英国料理の名誉のために付け加えれば、家庭や地元の人が出かけるようなレストラン、田舎の旅籠では美味しいディナーをいただきました。どれも素材がビーフでなかったこと、ソースによく手が加えられていることが共通です。
 簡単な料理を自分で作る。来る前に想定したのはビフテキです。きっと肉は安くて美味いだろう。スーパーで買い求めたステーキ用牛肉でビフテキをやりました。ガツーン!でした。肉汁がまるで無いのです。健康のために脂身の全くない牛を作り出したのでしょうか?とにかくこの国の牛は全くダメです。和牛は別にして、アメリカやオーストラリアでこんな酷い牛肉に出会ったことはありません。牛は酪農用に飼い、御用済みになったら食肉にするんでしょうかね?シンプソンの肉は何処から来るんでしょう?おそらく帰国するまでビフテキを口にすることはないでしょう。
 ではポークはどうなんだ?結論から言えば、スーパーで買い求めるのは豚肉が一番多いのが実情です。先ずベーコン、スモークしたものを買います。そのまま焼くのも良し、刻んで他のものと混ぜるのも良し、美味しくて重宝な食材です。ポークソテー用の豚肉もなかなかいけます。塩・胡椒しただけで美味しいソテーが出来上がります。カレーライス、野菜スープにもこれを使っています。ビーフとは格段に差がある味です。
 ただ、短期滞在者の外国人である私にとっては関係のない話ですが、歴史的に見ると豚肉を食べることは、この国ではまともな人と思われない時代が長く続き、ベーコンなどは最下層民の食べ物であったようです。隣の国、アイルランドでは逆に、豚は一番身近な家畜として古くから愛されています。これは彼等がケルトで、ローマの血を引くからだと言われています。ローマ帝国では、豚は豊かさの象徴として崇められてきた歴史があります。英国・フランス・ドイツ、いずれもローマから見れば野蛮人の国(アングリア、ゲルマニア、ガリア)でした。いずれの国もローマ(そしてギリシャ)に如何に近いかを強調する傾向があります。とりわけ英国はローマ・イタリアコンプレックスの強い国です(貴族の子弟は、教養を深めるためこれらの国々を旅行することが流行った時代があるくらいです)。そんな歴史から見れば、豚肉蔑視は合点がいきません。アイランド蔑視の結果なのでしょうか?

5)Whiskey、Whisky、Scotch
 ビジネスを通じて親しくなった友人が、出発前に横浜上大岡駅に近いバーへ、壮行会を兼ねて誘ってくれました。知る人ぞ知るウィスキーに関する日本を代表するバーです。種類、仕入れ元との関係、マスターの知識(本を書いています)いずれをとっても超一流、“楽しむ”領域に達しています。「向こうへ行ったら大いにウィスキーを楽しんで来てください」マスターが送り出してくれました。
 しかし、Scotch(スコットランド)もWhiskey(アイルランド)もWhisky(イングランド)も残念ながら一度も飲む機会がありません。夜、誰かと飲む機会が無いのと、ビンを買ってきて一人で飲むのは生活のペースを守れなくなる恐れがあるからです。食事も済んで自室に篭もり、ウィスキーをチビリチビリやりながら、ミリタリーサスペンスを、CDでも聴きながら読む。これを、ビジネスを退いた後の夜のパターンにすることを、40代後半くらいから目論んでいました。しかし、数年前かかりつけの医師から深夜の飲酒を禁じられました。Mauriceの貸してくれる本は、サスペンスではないもの、私にとってはそれ以上に興味深いものです。禁断の園は直ぐそばにあるのです。
 こちらへきてすっかり習慣になってしまったのが、ビター(黒ビール)です。晩酌はジョン・スミス(JS)のエキストラスムーズ、500mlの缶です。最初のきっかけはMauriceとの昼食ゼミあります。「ギネスよりスムーズだよ」と言うアドバイスで始め、すっかり気に入っています。最初に缶を開けてビンに注ぐと、泡だけが入っているように見えますが、その中に液体分が確り含まれています。“クリーミー”と言う表現がピッタリの口当たりは、ラガービールにありません。味も癖が無く(これが短所であるかもしれませんが)大変飲みやすいビターです。外で食事をする際、先ずビターがあるかどうか?次いでJSがあるかどうか問い、あれば必ずJSです。帰国してから、これを味わえないのを今から心配しています。
 ワインもよく飲みます。殆ど安い欧州産、オーストラリア産、南アフリカ産の赤です。自宅ではスーパーで買ったもの、外では店のハウスワインをグラスに一杯。英国人もワインが好きなようでピンからキリまで、スーパーでもレストランでも揃っています。実は、日本の自宅では滅多にやらなかったランチワインをやるようになってしまい、トータルの飲酒量が増えているのではないかと、反省しつつ飲んでいます。

 飲酒は、今や英国社会を蝕む最大の社会問題になってきています。特に少年の飲酒が、さまざまな犯罪と直結しています。警察も必死ですが、対処療法だけでは治まらない、何かがあります。若者に夢を与え、それを実現する環境が著しく狭まってきているのではないかと、短い滞在期間ですが強く感じています。若者だけではありません。今や、6千万人の内5百50万人が海外に居住しているのです。Mauriceによれば生活費高騰に対する逃避だそうです。人気のある外国ベストスリーは;オーストラリア、スペイン、アメリカです。特に年金生活者には、フランス、スペインを始めとした近隣南欧諸国が多いようです。何と言っても、天気は良いし、美味しいものが食べられる国々ですからね。年金生活しながら英国へ来るなんて、余ほどで変人なんでしょうか?

                                                                       以上
 

2008年12月14日日曜日

滞英記-13

注:今までの記事も含め、写真はダブルクリックすると拡大できます
Lettrr from Lancaste-13
2007年8月19日

 8月15日、日本では終戦記念日、こちらではJ-Day(対日戦勝記念日)です。フォークランド戦争25周年の仰々しい報道ぶりから、どんな行事があるのか興味津々でBBCを観ていましたが、一切これに関する報道はありません。区切りが悪いからでしょうか(62年)?このところのニュースは、インド・パキスタン独立60周年、十代の若者のアルコール問題、特に殺人、ヒースロー空港拡張計画に対する環境活動家の実力行使などで大きなニュースはありません。
 日本ではこの時期暑さの最盛期でしょうが、こちらは天気になれば、先ず先ずの日差しがあるものの、気温は上がらず20度前後で、家の中でも肌寒いほどです。これもマクロな環境破壊の兆しなのでしょうか?
 牧草地では干草(Hay)用牧草の刈り取りが真っ最中で、後に撒く肥料の臭いが強烈です。臭い・匂いは文化、英国の田園文化を楽しむためには堪えなければなりません。きれいなところだけつまみ食いしていてはダメなのです。
 今回は、7月23日、24日に掛けて出かけた、イングランド北東部の代表都市、ヨークに関するものを<敵陣、ヨークへ>と題してご報告します。

 研究活動は前回も触れました、Waddingtonと言う生物遺伝学者が、沿岸防衛軍団でOR適用に当った経験をベースに書かれた著書を読んでいます。この本の内容は、課題そのもの、課題解決プロセス、適用手法などを詳しく記述したもので、米国戦時OR活動を紹介した、Morse・Kimballの「Methods of Operation Research」に近い性格のものですが、組織内(空軍省、空軍参謀本部、沿岸防衛軍団、軍団各司令部とORグループ)の問題解決対応(意思決定)が具体的に書かれており、研究目的により合致しています。
 現段階は主として、Uボート哨戒・攻撃に当たる現地部隊の航空機稼働率・任務遂行率向上策についてのOR適用で、特にメンテナンスの問題がその鍵を握ることを突き止め、そこから参謀本部や軍団司令部に提言をする場面です。1940年代初期に“ここまでやっていたのか!”とプラント・メンテナンスの現状と比較し、感嘆しています。それもメンテナンスには素人の生物学者が!

<敵陣、ヨークへ>
 ヨーク訪問は渡英前から考えていました。他の都市にはない幾つかの見ものがあるからです。先ず城郭、次いで上階に行くほど道路にせり出す異形家屋、そのままの姿が保存されているギルドホールなどがそれです。
 第一に英都ロンドン、次いでスコットランドの首都エジンバラ、ジェフの住むブリストル、とランカスターを離れて幾つかの都会を訪ねた後は是非ヨークに行ってみたい。
 ヨークの位置はほぼランカスターと同緯度、真東に当ります。残念ながら両都市を直結する鉄道路線はありません。鉄道を使うと四角形の三辺を廻るような具合になります。そこでレンタカーで出かけることにしました。車で出かける場合、ルートと宿泊をどうするかが一番問題です。Mナンバーの高速道路は鉄道と同じようにかなり遠回りになります。しかし、途中の休憩やガソリン補給は問題ありません。ただ、今回は片道150マイル弱なのでAの幹線道路(二桁)を使えば何とかなると読み、一般道路で行くことにしました。次はホテルをどうするかです。エジンバラ旅行でご紹介したように、古い都市の中心部に在るホテルは駐車場が問題です。特に今回のように城郭都市となるとさらに条件が悪くなると予想されます。ガイドブック、トーマスクックのホテルガイド(契約ホテルのみ)などを調べると、パーキング付きは何処も鉄道駅から1マイル以上あります。しかし、よく説明を見てみると、駅からの距離が全く記載されておらずただ“Adjacent(隣接した)”とあり、庭園のような景色の中に車が止まっている写真が目に付きました。ランドマークや駅からの距離を記載していない場合、普通は都市周辺の郊外ですが、これはそうでもなさそうです。そこでトーマスクックへ出かけ確認したところ、確かに駅の隣なのです!「車が駐車している写真があるが、長時間大丈夫ですかね?」 直ぐ電話でホテルに確認してくれ「大丈夫だそうです。ただし一日10ポンド加算されます。予約は不要で、着いたときフロントでその旨話せばいいそうです」 直ちに予約したのは言うまでもありません。因みに、ランカスター周辺での長期駐車料金は一日5~7ポンドですから、ヨークのような大都市で駅隣接となれば極めてリーズナブルな値段です。
 当日は晴れ。気持ちの良いドライブが出来そうな天気です。本来ならば19日(土)に受け取ることになっていたホテルのバウチャー(利用券)も借り出す予定レンタカーも、あの洪水トラブルで、この日の朝受け取りになりましたが、比較的近くへ出かける気安さもありそのことは全く気になりませんでした。気になるのはあの“市民税督促状”だけです。
 レンタカー屋(Avis)は中心街の北辺を通るA683沿いにあるので、今日のドライブには好都合です。ヨークへのルートはこの道を東北東に向かい、イングランド北部を西北から東南に横切る幹線道路A65へ出てそこをしばらく南東に走り、東西に横断するA59を東に向かえばヨークに達します。このA65からA59の道路は、ヨークシャー・デイルズ国立公園内を通るので、A65と並行して走っている観光鉄道として人気のあるセトル・カーライル線と交わったり、見慣れた牧草地帯を離れ一帯に鍾乳洞が数多く点在する、石灰岩がむき出す丘陵地帯を走ったりするドライブを楽しむことが出来ます。今回は立寄りませんが、この観光鉄道には19世紀に出来た、荒涼とした大地を貫く長大な石造りのリブルヘッド陸橋があり、その辺は我が家から片道1時間位のドライブ圏です。
 A59は西側からヨーク中心部に達しており、南北に走る鉄道を陸橋で横切り、線路に沿って北へしばらく走ると駅へ出ます。この駅の北側に、駅舎と隣接して建っている石造りの建物が今夜の宿舎“The Royal York Hotel”です。通りを隔てた向かいには城壁が続いています。道路から左折するホテルへの道は遮断機がありそこから中はホテルの敷地です。広い庭園があり、緑と花々が見事です。あの写真の通り、庭園の周辺が専用駐車場になっているのです。“こんな立派なホテルだったんだ!”これが第一印象です。気楽な一泊旅行を考えていたので、カジュアルの着たきりすずめです。チョッと気後れがしました。石段を数段上がって中へ入ると天井が高く、床には絨毯。駅に隣接しているにも拘らず、人の出入りも殆どない静かなロビー、上階へ通じる幅広い階段にも絨毯が敷かれています。古き良き時代の、映画に出てくるような雰囲気です。そのロビーに半円形に突き出したフロントでバウチャーを示すと、チェックインの時間(2時)にはかなり早い到着にも関わらず全て準備が出来ており、「お部屋はファーストフロアーです。お荷物お持ちしましょうか?」とキーを渡してくれました。「いや荷物は自分で運びます。(でもファーストフロアー?いくら身なりがこんなだからと言って一階はないだろう!;よく英国でやる間違えを、一瞬雰囲気に飲まれてしてしまいました。皆さんご承知のようにこれは2階のことですね)」
 部屋は残念ながら庭園側ではありませんでした。これは身なりではなく、料金の一番安い部屋を頼んだのでそうなったのでしょう。室内は外見と同じで、中々今どきの新しいホテルにはない天井の高い、広さも十分、静かな部屋で、バスルームの広さなど通常の3倍くらいスペースがあります。今まで私が英国で泊まったホテルの中で一番素晴らしいホテルと言っていいでしょう。値段も他の四つ星ホテルと変わりません。このホテルは日本の観光ガイドブックに出ていませんが、場所・つくり・サービス・値段いずれの面からもお勧めです。


2)城郭都市 城郭都市、それは日本には存在しない、しかし大陸には至るところに存在する都市です。そして英国にもこのような都市があります。確かに日本にも城郭はありますが、それは“城を守る”ためのものです。町全体を、市民を守るものではありません。この違いは、多分我われが同民族としか争わずにやってこられたからだと思います。異民族による、皆殺しの恐怖に無縁だった民族と言うのは世界でもそんなに存在しないでしょう。我われの安全保障感は、このような稀有な歴史によって出来上がっているのです。万里の長城は巨大土木工事ではなく、異民族支配の恐怖感を集積・具現化したものと言っていいでしょう。
 「The history of York is the history of England」は、ヨークを紹介するガイドブックにしばしば引用される、ジョージ6世の言葉です。ローマから始まり、ヴァイキング(ノルマン、ディーン)、サクソンの侵入をうけ、混血・同化していった歴史、スコットランドとの戦い、スペイン王位継承問題に発するフランスを舞台とする100年戦争、それと跨るランカスター家とヨーク家同族相争うばら戦争(30年戦争)、オランダから乗り込んできたウィリアムズ公。ヨークはこれら全てと深く関わってきた都市であることを、この言葉が物語っています。英国の城郭都市はここ以外にもありましたが、現在も町を囲む形で残っているのはこことチェスターくらいでしょう。カーライルは城砦(城郭の主として角の部分;Citadel)だけは立派なものが残っていますが、壁の部分はありません。戦いの歴史を刻んだ壁を歩いて、その城郭から来し方を偲んでみたい。これがヨーク訪問の大きな動機のひとつです。
 トロイの馬を引き合いに出すまでも無く、城郭都市の防衛力は相当なものです。オスマントルコが東ローマ帝国の首都、コンスタンチノープル(現イスタンブール)を陥すのにどれだけエネルギーを使ったか、攻城槌、大砲、地下道これだけで一つの小説が書けるほどです(塩野七生:コンスタンチノープル陥落)。近代ではナチスドイツ軍は、その眼前に迫りながら、ついにレニングラード(現サンクトペテルブルク)を陥とせませんでした。城郭が市民を守ったのです。
 壁の内と外には隔絶した別世界があります。微かな記憶は、出生地満州の新京(現長春)で母に連れられて行った“城内”です。日本人が造った新京は高粱畑を切り開いて出来た近代都市でしたが、城内はそれ以前からの中国人の町です。灰色の石(レンガ?)を積み上げた城門や城壁があり、中国語が飛び交う喧騒で猥雑で活気のある別世界でした。
 城郭と関連して内と外を分ける言葉に“ブルジョワ”があります。欧州大陸の都市によくある、ブール、ブルク、ブルジュなどの付く都市は“城郭都市”を表わしています。そして城郭内に住む人をフランス語でブルジョワと言うのです。城内に住めない農民や貧しい人々が起し“ブルジョワを倒せ”と叫んだのがフランス革命です。
 ヨークの城郭はかなり残ってはいるものの、主要な道路はこの城郭で遮断されることも無く、一見内外は一体化した町のように見えます。北東の切れ目から城郭の一角に取り付きその上を反時計方向に歩いてみることにしました。城だけを囲む城壁は何ヶ所かで歩いていますが、町全体は初めてです。通常城だけを囲むものは、通路幅がかなりあり外に向かった壁は凹型を連ねた形状で、隙間から矢を放ち、石を落とすようになっています。内側にも胸の高さくらいの壁があり所々に内部に下りる階段があります。しかしこのヨークでは外側は同じ形態ですが、通路幅は狭く、内側には本来壁や柵はありません。この上を歩く人の安全を考え鉄製の柵が後世(それもかなり最近)設けられているだけです。場所によっては行き交う場合、どちらかが立ち止まる必要があるくらいです。幅が広い所では今でも内側の柵が無い所もあります。一朝有事の際あまり機動的な防御策を講じられない感じがします。壁の要所には城砦があるので、守りもここを中心に行われるのかもしれません。城門(Barと言います)の部分には階段があり一旦地上に降りる必要のあるところや、上にも通路のあるものなどがあります。高さは概ね10m位、周辺は緑地になっていますがややV字を成している所もあり、堀が在ったのではないかと推察します。町なかをウーズ川とフォス川が流れていることから、これらを利用できたのではないでしょうか?現在は3ヶ所で壁が途切れていますが全長は4.5kmあります。
 ほぼ◇型の城郭を東北辺の真ん中辺りから取り付き北西に向かい、北の角から南西に歩いて西の角を曲がり南西辺の途中までを、二度に分けて歩いてみました。およそ全体の半分くらいでしょう。内と外の違いは一見はっきりしませんが、よく見ると分かってきます。外側には近代的な建物の多いこと、家並みが整然としている一帯が散見されること、また地上を歩くと外は建物のつくりがヴィクトリアン・ジョージアン以降の形式で、城内に多数見られた、一階は石積み二階以上木組みのような建物が無いことなどです。ただ、古いものが城外に全く無かったわけではなく、古い教会の廃墟が壁のすぐ外側に在るところをみると、かなり古い時代から壁の外にも人々の暮らしがあったことが予想されます。敵が攻めてきた時は城内に逃げ込んだに違いありません。西角(ランカスター方向)の城砦に立ったのは夕方でした。この城壁の上をジョギングしている人がいます。600年前リチャード2世(ヨーク家)に反旗を翻したランカスター軍の襲来を告げる伝令も、彼のように城壁を駆け抜けたのでしょうか?

1)ヨーク観光
 “敵陣”を語る前にザーッとヨーク観光をしましょう。チェックインしたのが12時過ぎ、ランカスターからは3時間弱です。これから5時過ぎまでの時間、昼食を含めて徒歩で主要な観光スポットは廻れます。ただし、博物館の類は入れていません。
 城壁をくぐり城内を貫くウーズ川の畔にイタリアンがあったので、そこでピッツァとビールで昼食。真っ先に出かけたのは上階に行くほど軒がせり出した建物が並ぶ、シャンブル通りです。第一印象は、写真で見るより家も通りも小振りだなと感じたことです。せり出し方もそれほど頭でっかちではなく、正直期待外れでした。一方で、工学的に見てこの位が妥当なところと納得もしました。途中に一軒改築中の建物があり、足場が組んであるのも、あの独特の景観を殺しています。通りの両側は土産物屋でこれには元々関心がありません。早々と通り過ぎて終わりです。
 次いで、ギルドホール(マーチャント・アドベンチャー・ホール)へ行きました。ここのギルドホール訪問のきっかけは、7月上旬、ランカスターから列車で1時間北に行った国境の町、カーライルのギルドホール訪問にあります。その際、説明員がホールを支える木組み構造を説明しながら、「ヨークのギルドホールはここの何倍もあり、見事なものです。この木組み構造と同じですが規模が違います。是非ご覧になることをお勧めします」と教えてくれたからです。実際出かけてみると、まるで大きさが違います。一階は言わばホールを支える部分と言ってよく、二階がホールとそれを囲むように幾つかの小部屋(理事長室など)から構成されています。ホールの広さは25m×15m位あります。このホール内には柱はなく、床は分厚い黒光りする木製です。これを一階で支えているのがカーライルと同じ構造の木製の柱です。ホール床を構成するスパンの長い分厚い板を支えるために、これも分厚い角材を、丁度傘の柄と骨の関係で骨が上部で東西南北に張り出しています。板や角材が交差する部分に丁寧な嵌め合い加工が施され600年も上の床、否、建物全体を支えてきたのです。一階部分も決して単なる床下ではなく、チャペルや貧民の施療施設が設けられ、その跡が保存されています。二階ホールはやや水平を欠いていますが、現在でも結婚式などに使われるそうです。
 カーライルとの共通点は、一階部分は石造り、二階から上は木と塗り壁から出来ています。石造りの多い英国の建造物ですが、この形式は時として集中的に特定の町・地域に見られます。木組み構造が表へ出て、塗り壁とコントラストをつくり、独特の模様を建物に与えるところに人気があります。実はシャンブル通りの頭でっかちも、この構造で出来上がっています。
 カーライルと大きな違いがあるのは建物の大きさばかりでなく、部屋の構造と用途です。カーライルには広いホールは無く、職種別(鍛冶屋、織物屋、皮なめし屋、肉屋、洋服屋など)に専用の部屋があり、その大きさは区々で、会議を行う時だけパーティションで区切るような職種もあります。これに対してヨークは、大ホール以外は理事たちの部屋や会議室だけで、職種別の部屋はありません。そこでこの点を説明員に質してみました。答えは明快で「ここはマーチャント(商人)・ギルドのためのものです。他の職人たちは別にそれぞれ集会場を持っていました」と言うことです。答えは明快でしたが、私にはむしろギルドが分からなくなってきました。中学の社会科や高校の世界史でギルドについて学んだ時、ギルドは職種組合で自分たちの職権を守るために活動したこと、またギルドが町や市の政治・行政に大きな影響力を持っていたこと等を教えられました(ロンドンのギルドホールでは現在でも市議会が開かれる)。しかし、ヨークのギルドホールを見ると(現物ばかりでなく、活動の歴史)、商人ギルドが市政を牛耳っていた様子が窺がえます。カーライルのような職人ギルドとの関係はどうなっていたのか?もしこの時代に生きていたら、多分職人ギルドの一員になっていたのでないかと想像する私にとって、何か釈然としない、課題の残る(ギルドは奥が深そうだ! OR研究のために目を通した文献の中に、戦闘機乗りと科学者の間に“Guild to Guildの戦いがあった”などと言う表現もある。面白い!もっと調べてみたい!)ギルドホール訪問でした。
 次いでイギリス最大のゴシック建築、250年の歳月をかけ1472年に完成したと言われるヨーク・ミンスター教会へ出かけました。とにかくその壮大さに圧倒されます。また、そこにある素晴らしいステンドグラスに目を奪われます。しかし、数多教会を見てきた後では仏(?)の顔も三度まで、特別関心を引くものはありませんでした。あとは観光ガイドブックに譲ります。


3)ばら戦争
 ランカスター、いやランカシャー地方に居ると至るところで赤いばらのマークを目にします。“Lancashire”と筆記体で書かれた文字の後に赤いばらが一輪描かれています。ランカシャーの公的あるいは公共的な建物や場所(主として看板の類)、車などに描かれているので自然と目に入るのです。
 Mauriceにヨーク行きを告げると、ニヤッとして「ランカスター家の奴が赤いばらを一輪ちぎってヨーク家の奴に投げつけた。するとヨークは白いばらを手折りランカスターに投げ返した。こうして始まったのが、ばら戦争だと言われている(無論冗談だけどね、と言う風に)」 Mauriceはヨークシャー出身ですが、この地に長いせいかランカスターへの思い入れが強いように感じます。こんな話もしていました「両軍和解が成って、ランカスターの教会に代表者が集まり祭事を行うことになり、そこにヨークの僧正(Bishop)が参加していた。祭事の最中天候が急変、激しい雷雨になり雷が僧正を直撃した。無論即死さ。あれは天罰だったとランカスターでは言うんだよ」と嬉しそうに語っていました。紅白対抗は日本にもある。しばし源平盛衰記を掻い摘んで説明したが、何処まで通じたことやら分かりません。
 源平合戦とばら戦争の違いは、源平が頼朝・義仲・義経間の争いが有ったとはいえ、平家と源氏と言う家系を異にする氏族間の闘争であったのに対し、ばら戦争は同族相食む戦いだったことです。きっかけは、イングランド王リチャード2世がフランスとの100年戦争を戦っている時、日頃うるさい叔父のランカスター公が亡くなり、その嫡子(つまり従兄弟)の領地を取り上げようとしたことから始まります。これから二転、三転、この間フランスとの戦いも入ってきます。30年戦争と言うのはこれからしばらくして、ヘンリー6世(ランカスター家)とヨーク公リチャードが戦端を開く1455年のセント・オールバーンズ(ロンドン北西郊外)の戦いから、1485年のランカスター派のヘンリー・テューダ(ヘンリー7世)が天下をとり、チューダ王朝を開くまでを言いますが、とにかく骨肉相争い血みどろの戦いが続いた時代で、シェークスピアはこれを基に「リチャード3世」を書いています。
 そんな訳で、“俄かランカスター派”の私としては、ヨーク訪問は敵陣初見参と言うことになります。行ってみて分かったことは“格が違う!”と言うことです。人口は4万4千対18万で約4倍ですが、町の賑わいや建物の風情にはそれ以上の格差を感じます。教会や鉄道は比較になりません。むろんホテル・観光名所もです。残念ながらヨークの圧勝です。ロンドン、エジンバラやブリストルのような大都会よりも落ち着き、“ここなら一人で長く暮らしても良いな”と思わせる町でした。この寝返りは正真正銘のランカスター派、Mauriceには内緒です。

5)国立鉄道博物館 長らく万世橋に在った交通博物館は閉鎖されましたが、元国鉄大宮工場跡に建設中の“鉄道”博物館が、いよいよ今秋10月開館します。京都の梅小路機関車館同様、ターンテーブル(転車台)を中に何台もの機関車が並ぶようです。今から楽しみです。
 子供は誰でも乗り物が好きです。小学生時代は鉄道技師が夢でした。父方も母方も全く理系がいない家系ですが、母方の遠縁に鉄道省(後の運輸省+国鉄)の技師が居たようで(その人は早世し、話が出ている時には既に故人だった)、母や叔父・叔母が、別世界の人間を語るように、その人の現役時代の話をしてくれたのが大きな理由のような気がします。もう一つは、終戦直後の乗り物で、唯一まともなものは鉄道しかありませんでした。飛行機は製造も運用も全面禁止。自動車は木炭で動かすバスやタクシーくらいで、アメリカ軍の軍用トラック(子供達は“十輪車”と呼んでいた;前輪が2、後輪は2軸でそれぞれダブルタイヤなので8)の前では情けないくらい非力でした。そんな中で、戦争の影響で排煙板の一部が木製のものまでありましたが、ダイナミックな蒸気機関車に、敗戦のどん底状態から我われの未来を切り開いてくれる力強い救世主を見たのです。鉄道技師になろう!
 小学校5年の時、豊かな友人がOゲージ(線路幅:32mm、3線レール;本物の電車のように架線から電気を取れないので)の模型を買ってもらいました。電気機関車を、0~20ボルトの変圧器を切り替えて動かすこの模型に心を奪われました。自分の模型が欲しい!電気機関車は金属製でとても高価で買えません。むろん自作など無理です。
 “鉄道模型趣味”と言う雑誌があります。ある時、そこに当時の標準電車モハ63型の手作り記事を見つけました。床と屋根は木の板で、側面はボール紙で作ります。金属部品(モーター、台車、パンタグラフ、連結器)は出来合いのものを購入せざるを得ません。本を買い、図面を引き、板を削って床や屋根を作り、ボール紙をかみそりで切り分け、小遣いを貯めて金属部品を買い、当時デヴューし立ての湘南電車カラー(オレンジとグリーン)に塗って完成させたのは6年生の夏休みでした。それを友人宅のレールの上で走らせたときの感動は今でも忘れられません。休み明け、この話が受け持ちの先生に伝わり、学校にその電車を持ってくるように言われました。都美術館で開かれた、東京都夏休み作品展に学校代表として出品されたことは、小学校時代の誇らしい思い出です。交通博物館通いはこの時代から始まったのです。
 中学時代に講和条約が諸国と結ばれ、日本の空が帰ってきました。鉄道技師の夢は航空技師に変わります。大学入学までこの志は変わりません。大学に入ると取り敢えずまた模型復帰です。ただし今度は飛行機のソリッドモデル(木製で50分の1の細密模型)です。当時関東地区で最もレベルの高かった、東京ソリッドモデルクラブのメンバーになりました。このクラブの月例会は交通博物館の会議室で行われ、お互いの作品を持ち寄って講評を行います。メンバーは中学生、板前、造船工学の教授まで種々雑多で、落語の小金馬師匠もメンバーでした(彼は当時まだ珍しかった外国製のプラモデルが中心でした)。博物館の何周年目かの区切りに、我われのクラブでソリッドモデルによる“日本航空発達史”をやることになり“白戸35型”と言う複葉機を出品したのも、この博物館に関わる懐かしい思い出です。
 秋霜五十余年、この博物館が発展的に閉館され、新しい“鉄道”博物館として鉄道技術のメッカとも言える大宮工場跡に建設されると聞いた時、この敷地の選定の他にもう一つ快哉を叫びたかったのは“交通”でなく“鉄道”とした点です。私もこの種の博物館が好きで、機会があれば仕事の合間に訪れてきました。しかし、あれもこれもはどうも好きになれません。その代表的なのが“科学博物館”です。基礎・応用、物理・化学・生物・地学・考古学、なんでも在りは何も印象に残りません。技術の体系や発展を理解するには、焦点を絞ることが鍵です。敗戦という大きなハンディキャップを負い、目ぼしい展示物のない日本で“航空博物館”をつくっても遊園地と大差ありません。ワシントン・ダレス空港に隣接して(と言っても空港からは徒歩ではとてもいけません)新設された航空博物館は大型格納庫2棟にコンコルドを含む実機が何十機も系統的に展示されています。こうなれば別です。自動車博物館は日本に限らず、“収集館”で体系的な理解はできません。船はドン柄が大きく、数も限られます。しばらく人気があってもやがて氷川丸の運命です。
 日本の鉄道技術は英国から多くを学び、独自の発展を遂げ、世界のトップランナーの位置にあります。系統的に理解できる現物も数多く残っています。また、鉄道はもっとも身近に感じるダイナミックな道具です。数多く・多種のファンが居るのも、鉄道に比肩するものは無いでしょう。模型あり、実物あり、乗車体験あり、時刻表あり、全線乗りつぶしあり、運転経験あり、収集あり、写真あり、何でもありです。
 世界最大の鉄道博物館(The World’s Largest Railway Museum)に行ってみたい。実は、これがヨーク訪問の最大の動機だったのです。

 さて、ヨークにある国立鉄道博物館(National Railway Museum:NRM)です。通常英国ではこの種の博物館は王立(Royal)が多いのですが、ここはNationalです。理由はわかりませんが、何か新しさ、意気込みを感じます。“我等が鉄道”と。場所がロンドンでないのも気に入りました。ヨークは古くから、北部イングランドにおける鉄道の要衝で、最盛期はここを中心に網の目のように路線が走っていました。現在はかなり整理されていますが、依然として東北部の要であることは変わりません。博物館の位置はヨーク駅の西側、私が泊まったホテルと駅を挟んで反対側になります。駅から歩いて5分、便利な場所に在ります。80年の歴史がありますが、当初はLondon & North Eastern Railwayの、引退した機関車の保存から始まりその時は別の場所にありました。1970年代に現在の場所に移り、1990年に大幅な拡張をしています。現在の博物館はレールが実用線と繋がっており、そこへ一部の機関車を引き出し、走らせることも出来ます。入口はモダンなガラス作りの最新部分にあり、嬉しいことに入口上の各国語で書かれた“Welcome”の中に“ようこそ”とひらがなの表記があります。日本の“鉄ちゃん(鉄道ファン)”が数多くやってきていることを物語っています。入場料は無料ですが、寄付や維持会員を募っています。
 館内は大別して四ヶ所になります。グレートホール、ステーションホール、ワークスそして屋外です。屋外は遊園地的なもの(特別な日に、ロケット号などを走らせることもあるようですが通常は遊園地です)ですから私の関心外です。
 先ず、グレートホールへ。いきなり世界初の蒸気機関車、スチーブンソンの“ロケット号”と世界最速蒸気機関車記録を持つ“マラード号”です。ロケット号はレプリカですが、動かすことが出来ます。マラード号は本物で、1938年(まだ私が生まれる前)時速126マイル(202km)を出した流線型の機関車です。ライトブルーに塗られた車体に蒸気機関車のイメ-ジはありません。そしてこの2台のスターの左側に、何と開業時の新幹線“ひかり”の先頭車両がありました!晴やかな場所です。この博物館の基本コンセプト(勝手な想像ですが)は“英国の蒸気機関車が世界を変えた”です。蒸気機関車こそ近代文明の原点、古き物を尊ぶ英国人の国民性をこの博物館も確り受け継いでいます。そこに“電車”が置かれているのです。もちろん鉄道博物館ですから電気機関車やディーゼル機関車も展示されています。しかし、これだけ目立つ所には置かれていません。主要な展示物には専任の説明員が居て、適当な人数が集まると説明をしてくれます(個人の質問も大歓迎、質問を待ち構えている感じです)。新幹線にはその専任者も居ます。中まで入れる車両が少ない中で(機関車が多いので必然的にそうなる)、“ひかり”はその点でも人気があるようです。公式ガイドブックの“グレートホール”のページは、見開きを“ひかり”が占め、若い女性がそれを見上げています。教え子がここまで成長したのか!
 奥へ移動すると、蒸気機関車の実物カットモデル(内部が分かるように一部をカットする)がありました。炭水車の石炭・水から始まりやがて蒸気が生成され、それがシリンダーに導かれ、動輪を動かすまでをナンバリングして解説しています。父親が幼い子供にそれを説明しています。非常に上手く出来ているので子供も納得顔です。別の機関車は下へ潜り込む通路があり、普段見えない下側の構造を知ることが出来ます。
 更に奥へ進むと、ターンテーブル(転車台;蒸気機関車の頭の向きを変える装置。時間によって実際に動かされる)があり、これを囲んで迫力のある機関車が多数顔をこちらに向けています。その迫って来るような感じは大人でも圧倒されます。お互い邪魔にならぬよう、おじさん達が気を配りながらシャッターを押しています。
 グレートホールだけで3,40両の車両(主として機関車、それも蒸気)が展示されています。丁寧に説明を読みながら、場合によって説明員(グレートホールだけで6,7人居る)に更に詳しく説明を求めれば、ここだけで最低半日は必要でしょう。
先を急いで、第2会場のワークスに行きます。“ワークス”とは工場のことです。これは今まで他の乗り物博物館を含めて見た事もない、ユニークで素晴らしい展示場です。何とあの“フライング・スコッツマン(空飛ぶスコットランド人;F-1ドライバーのジム・クラークもこう呼ばれましたが、本家はこちらの機関車です)”の解体整備を行っている場面を、回廊から見下ろすのです。バラバラになった機関車を見る機会など先ずありません。クレーンや工作機械が動き、一部の作業は実際に行われます。大人も子供もありません。皆“職人のそばにアホ三人”の体です。私もその中の一人になりました。
 ワークスは巨大な倉庫に繋がっています。車両部品、信号機や転轍機、保線工具、車両や船舶の模型、鉄道員の各種制服、そのボタンや記章、雑然といろいろな物が置かれています。見せるための工夫は欠くものの、倉庫らしさがそれなりに臨場感を与えてくれます。“3百万個のコレクション”の大部分はここにあるに相違ありません。
 最後はステーションホールです。ホームが三つあり、真ん中のホームは一段と広く造られています、その他にも引き込み線があります。そこに数量編成の客車が停まっています。これをホームから見学するのです。むろんただの客車ではありません。引込み線を除けば、全て王室専用車です。実際に使われたものが展示されているのです。ヴィクトリア女王、ジョージ6世などの専用車です。窓越しに見るだけですが、鉄道移動中の過ごし方が垣間見られなかなか面白い企画と感心しました。
真ん中の広いホームはカフェテリア形式のレストランです。ここでスープとロールパンの軽食を摂ったのが1時近くです。10時の開館と同時に入館しましたから3時間の見学です。本来なら一日かけても良い場所ですが、翌日はあの“市民税督促状”でしたから、後ろ髪を引かれる思いで帰路につきました。

 白ばらのヨークは、源氏の白と好一対です。義経号、弁慶号、静号は、嘗ての交通博物館のシンボルでした。多分これらは新しい博物館でも中心的存在になるでしょう。西のヨーク、東の大宮といきたいところです。
 新しい鉄道博物館も、ターンテーブルが設けられ、それを囲む形で車両が展示されるようです。大宮工場の在ったところですから実用線への接続も可能なはずですし、工場を再現するにも最適の場所です。何も真似をする必要はありませんが、単なる展示場ではない、子供から専門家まで楽しめる、日本を代表する博物館になり、海外からも見学者が多数訪れ、日本の鉄道技術とその高度な利用状況を知ってもらえる場所になるよう願っています。

 ヨークを訪れて良かった!敵陣は笛陣となりました。

後日談
 ヨークから帰り、Mauriceの部屋を訪れると、「ヨークはどうだった?」「いろいろ面白い所があったが鉄道博物館が一番だね。あのマラード号の実物には感激した」「(壁に飾った古いポスター(額入り)を指差しながら)この機関車はマラードと同じ物さ。あの博物館で買ったんだ」「鉄道も好きなんだね!」 彼は経済史が専門ですが、一時期英国の鉄道経営史を研究しており、著書も書いていました。マニアではなく本物でした。恐れ入りました。

以上

2008年12月6日土曜日

滞英記ー12

Letter from Lancaster-12
2007年8月11日

 当地もやっと明るい日差しと気温が、夏らしさを感じさせるようになってきました。機会が無かった半そでのポロシャツを着て本報告を書いています。現在の最大のニュースは口蹄疫です。人口が6千万人に対し、羊2千3百万頭、牛1千万頭、豚5百万頭、主食が肉の国ですから大変なことです。それも動物保健衛生研究所が発生源と言うことで政府も対応に大わらわです。ブラウン首相は就任以来、テロ、洪水そして本件と対応に休まる間もありません。英国人の評価は、知識人とほとんど交わる機会が無い私に今ひとつ分かりまりませんが、TVで観る限り、先頭に立ち問題に取組んでいるように見受けられます。派閥のお神輿に乗っているだけの、日本のトップとは大違いの印象です。このリーダシップもあるのかスーパーの食肉売り場はそれ以前と何ら変わりません。
 本レポートは時々お断りしているように、自分の滞英記録を兼ね、何とか単なる週報でなく“英国”を理解するテーマを選びながら書いています。その点では、“旅”はいくらでも材料を提供してくれます。しかし、研究テーマは<ORの起源>、<指導者の意思決定>、更に<この二つの関係>にあるので、単なる紀行文にならぬよう心がけています。
 今回はこのところ続いた旅の報告から離れ、異変続きの旅から自宅に帰着し開いた郵便受けから話を始めます。<市民税督促状来たる>です。これと関連して、この国における社会人としての<身分と信用、そして仲間>の2編で今回の報告をまとめました。

 研究の方は、先週Mauriceから薦められ、彼が大学図書館から借り出してくれた「O.R. in World War 2-Operational Research against the U-boat-」と言う本を読み始めました。当時沿岸防衛軍団(Coastal Command)でブラッケットと伴に対Uボート作戦へのOR適用に従事した、Waddingtonと言う生物遺伝学者(CBE;Commander of British Empire;Knightに次ぐ勲爵士)がまとめたものです。オリジナルは終戦直後に書かれましたが、冷戦で出版を禁じられ、1973年ようやく日の目を見たものです。今まで目を通してきた本に比べ、数式なども多くそれが機密に関わることは確かでしょう。相当歯ごたえがありそうですが、書き出しから引き込まれています。防空システム(主役は戦闘機軍団)から始め、その実績を踏まえた横展開の第一段階がこの対Uボート作戦です。私の研究もここから第2段階に入ります。

<市民税督促状来たる>
 歴史的洪水の中を一日遅れでやっと戻った夕方、家に入る前にフラット入口に在る郵便受けを見てみました。ジャンクメールが投入口まで溢れています。その中に茶封筒が混ざっていました。“やっと何か来たな”と思い部屋に落ち着くと直ぐ開いてみました。それは予想に反し、市役所からの市民税督促状でした。
 “やっと”の背景は以下のようなことです。5月に不動産屋と契約した際、担当の女性が「契約が出来たので、直ぐ入居通知を電力会社、ガス会社とCity Councilに送っておきます」と言うので「支払い方法はどうなりますか?(この時はCity Council(市役所)よりは電力・ガス代が頭にあった)」と聞くと、「四半期ごとに支払うことになります」との返事がありました。3月末、6月末、9月末、12月末と言うことです(水道代も同じですがこの時はその話は出ませんでした。また電話代は一ヶ月単位です)。“やっと来たか”と待っていたのはこれらの支払い請求書と市民税の“納税領収書”でした。
1)市民税
 6月初め市役所から封書が来ました。6月から来年3月までの市民税(州を含む地方税)の支払い税額通知です。税額は各月と総額が示されています。裏には支払い方法が各種記載されていますが、銀行振り込みを勧めており、その部分だけは少し詳細な説明があります。月額納税額は121ポンドです。短期滞在者でもごみの収集を始め、見えないサービス(道路のメンテナンスのような)でお世話になっているわけですから税金を払うことは納得です。
 二つの点で疑義があったので、タウンホールへ出かけました(行政機関としての市役所は;City Council、建物としての市役所は;タウンホール)。二つの疑義とは、第一は;ビザ無し入国なので滞在は6ヶ月限度、10月中旬に帰国するため何月分まで納めなければならないかと言う点、第二は;短期滞在者扱いで銀行口座が開けないのでどのような支払い方法が適当か、です。
 タウンホールは以前ご説明した、川中島型市街中心の直ぐ外側、東側にあり実用に供されている建物では市内で一番重厚な雰囲気を持ったものです(これ以外にはお城と修道院がありますが)。ファサード(正面玄関)は英国人の好きなパルテノン風、階段を上がった入り口左右には戦闘斧が一対に立てかけられています。これは9時に出され、3時に終われます。諸事務の受付はこの時間までです。
 日本での経験から、入口に受付があり、そこで指示され税務課のような所へ行くことを予想しましましたが、玄関ホールに入ると左側にカウンターがありその中に数人の黒いスーツを着た女性がいました。ホールの右側にはコの字型に椅子が並べてあり真ん中にテーブルが置かれています。順番待ちや書類照合などに使われているようです。よく見るとカウンターは単なる受付ではなく、頻繁に相談者が来ると思しき用件の対応場所でもあるのです。“Council Tax”は確りここにありました。比較的空いており、直ぐに中年の女性が対応してくれました。来訪の趣旨、身分などを説明し、第一の疑義について質したところ、即座に「分かりました。では9月分の支払いまでしてください。それが納税されたら再度ここへ来てください」と明快に答えてくれました。第二の点については、郵便局で支払う方法、インターネットで支払う方法を簡単に教えてくれました。インターネットの市役所ホームページ(HP)は支払い請求の書類に記載されており、そこへアクセスし、納税者番号とクレジットカード番号を入力するだけでよいとのことでした。「簡単ですよ!」「9月分まで纏めて払ってもいいですか?」「もちろんです」と言うような按配で市役所訪問を終えました。
 数日後(6月初旬)HPにアクセスすると、簡単に納税のページまで達しました。そこへ税額(初めてなので一括は止めて、6月分のみ)を入れ、クレジットカード番号を入れて先に進むと“Accept”と出てきたので、この画面をコピーしてMSワードに貼り付けました。これはプリンターを持っていないため、何かあったときの証拠として保存したわけです。これで完了。実際の支払期限は7月1日ですが早々と納税したわけです。
 7月中旬からこの納税に対する何らかの通知が、電子メールか郵便で来るはず、と待っていたところへ来たのが督促状だったわけです。「何だ?これは!」
 督促状には、「貴殿は未だに6月分の市民税121ポンドを納税していない。ついては7月28日までに納税すること。もし納税せず、さらに一週間が過ぎると、年額相当を一括払うことになるのでご承知おきを。もし、一括納入が不能の場合…。本件に不服のある場合は…」とあります。再度「何だ?これは!」です。
 ブリストルから帰ったのが21日(土)、22日は日曜日。23日(月)から24日(火)にかけヨークへの旅行を入れてあったので、出かけられるのは25日(水)しかありません。

当日朝直ぐにタウンホールへ出かけました。残された日にちは僅かです。玄関入口に立てかけられた戦闘斧が、今にもガツンと頭の上へ振り下ろされるような、悲壮な気分です。朝一番なので黒いスーツの女性職員たちはPCを立ち上げるなど準備に追われています。それでも間もなく市民サービスが始まり、私よりも先に来ていた2,3人が相談に入りましたが簡単に済み、10分もしない内に私の番が来ました。今回は若い女性です。「おはようございます。ご用件は?」「実はこれが届いたもんで」と督促状を示すと、ニッコリしながら(あなたもこの件で来たのね?)と言う感じで対応してくれました。「HPにアクセスし、6月上旬に払ったつもりですが、初めてなので何か不都合があったかも知れません。そちらのコンピューターに何か残っていないでしょうか?」「(画面をチェックしながら)何も記録はありませんね」「こちらは証拠を残しておいたんです。納税の最後の画面を。ここでPCを立ち上げさせてもらってもいいですか?ハードコピーのシステムが無いもんで」「どうぞ」 カウンターは水平で無くこちらに向けて傾斜しており、傾斜面には案内などが書かれています。他の荷物を持っているとPCの操作も覚束ない。彼女が他の荷物を預かってくれる。やっと画面が出たのでPCを渡すと「ウォ!」とビックリ。無理も無い。画面はHPの最終ページをコピーし、これをMSワードに貼り付け、そこに日本語で私がいろいろコメントを書き込んだものだったからである。「すみません。納税画面のほかに私がコメントを書いたものです。このHPの画面をみてください」「アーァ これね!あなたこの後4桁のコード入れましたか?」「エッ!?何ですかその4桁のコード?」「暗証番号よ。こちらから通知するの。それを入れて納税が完了するのよ」 “ガツーン”戦闘斧が振り下ろされた瞬間です。「(チョッと嘲笑気味に)簡単だから家に帰って直ぐやってみて」「いや これから郵便局へ行って払ってきます。郵便局での支払いはどうすればいいんですか?指定の用紙か何か必要ですか?」「何にも要らないわ。最初にお届けした納税請求通知書があるでしょう(持参していたのでそれを見せる)?このバーコードのところを“ピッ”とやるだけ。簡単よ!グッドラック!バイバイ!」 
2か月分(7月分も合せて払うため)の現金をATMで引出し、郵便局で現金と通知書を出すと“ピッ!”。1000ポンドを超える追徴税、戦闘斧の一撃を辛うじてかわした一瞬です。
2)英国の個人税 不動産に関わる税や相続税のように、私には関係ない税金は別にして、この市民税を始め所得税や消費税はどうなっているのでしょうか?当初の渡英計画では、1年滞在のビザを取得し本格的にこちらで市民生活を送ることになるので、一通り税金に関する情報収集をしました。当地へ来てからも折を見てこの問題を聞いてみたりしています。正確な実態把握が出来ているわけではありませんが、大よそ理解していることを整理してみます(このメールをお送りしている方には、英国在住経験者もいらっしゃいますので、間違えがありましたらご指摘ください)。
①市民税(住民税)
 私の税額はどう決まったんだろう?適正なのだろうか?日本では住民税は所得の確定申告に基づいて算出され、5月の終わり頃通知が来ます。このルールだと、私の場合英国では所得が無いので算出ベースがありません。色々調べてみると、どうやらここの住民税の算出基準は、居住地域によって決まるようです。日本の固定資産税の算出法と類似しています。
 額については、自分でもここに住んでそれなりの見返りを期待するならこれくらいは仕方が無いのかな?と思っています。しかし、その見返りについては十分それを享受できていないのではないか?とも思っています。たとえば市内を走るバスのみならず、鉄道もシニア割引(市内のバスは高齢者は無料)あるようで、その資格取得がよく分からないため、一般の料金を払ってこれらを利用しています。これはブリストルを訪ねた際、ジェフから「一つ言うのを忘れていたことがある。鉄道は往復買ってしまったか?シニア割引が適用できるはずだったんだ」と言う具合です。市内バスの方はどうやら一定期間以上居住している人に与えられる証明書のようなものが必要で、皆さんそれを提示し、乗車券を発券してもらっています。Mauriceに始めて会った時「昨秋65歳になったのでバスの無料パスを持っているんだ」と嬉しそうに語っていました。バス会社はこの発券に基づいて、しかるべき収入を得ているのでしょう。
 具体的税額(月額約3万円)について最近Mauriceに話したところ、「リーズナブルだ」と言っていました。
②消費税(付加価値税;VAT)
 17.5%です!とんでもなく高いです!ただし、食料品は無税です!VAT導入時には、食料品の他に、燃料代、電気料金、子供の衣服も無税(VAT適用外)だったそうですが、電気料金は環境問題対応から8%、17.5%と引き上げられ、現在は他の物と変わりません。燃料代はガソリンに関する限りVATはありません。しかし1リッター約1ポンド(250円!ただしこれは為替レートのマジックで、生活感覚に基づけば180円位の感覚です。それでもガソリン代はかなり高いですが)もするところから、日本のガソリン税に相当するものが高い割合を占めていると考えられます。二重課税をしないと言うことでしょう。子供の衣服は無税のままのようです。
 “ゆりかごから墓場まで”福祉政策に優れた国だからこんなにVATが高いのかと思うと、これは英国だけが突出しているわけではなく、欧州の主要国家は概ねこのようなレベルにあるようです。
③所得税 VATでお金の流れの出口を確り抑えて税金を取る。日本の入口主義(所得ベース)とは全く逆に見えます。それでは英国では所得税はあるんでしょうか?もちろんあります。低所得の非課税限界がどれくらいか分かりせんが、40%と23%(多分)の2段階です。この境界値も掴んでいません。
 このようなシンプルな2段階方式になったのはサッチャー政権からで、それ以前は日本同様累進的にもっと多くの区分に分かれていたようです。サッチャー首相は、経済の活性化の鍵を富裕層の消費・投資意欲にあると考え、税金の“フラット化”を掛け声に2段階にしたそうです。制定当初は40%と25%でしたが、25%側は何度かの修正で現在は23%のようです。支出側(経費)をどこまで認めているのかも全く不明ですが、この税率は決して低いものではありません。
 よく調べてみると、この所得税と言うのはわが国で、いわゆる所得税の他に厚生年金、失業保険、健康保険を含むものであることが分かりました。また、通常の勤労者は概ね40%が適用されているようで大変な負担である推察できます。

 出口だけでなく入口も確り抑える。これが英国の個人税制です。これで福祉国家が支えられているのです。この傾向はここ英国に留まらず、欧州先進各国に共通するもので、たくさん税金をとって“国家が個人の面倒をみる”社会を、理想と考える人達が多く存在し、しばしば社会主義を標榜する政党が政権の座につくわけです。現に英国の労働党は幅広く・根強い支持層に支えられ何度も国家運営の責務を担ってきました。英国人一人当たりのGDPが日本を超えるほど経済が活況を呈しているのは一人サッチャー女史の功績だけとも考えられません。ブレア労働党政権もこれに寄与しています。“主義だけ”が先行する日本の社会主義政党とは全く違う、地に足が着いた独自の政治理念がそれを可能にしているのです。“税金で賄えないならスーパーカジノご開帳だ!” これがブラウン労働党新政策です。自民党も民主党ももっと“税金の根本を問う”政策論争をして欲しいものです。そしてマスコミは、これを分かり易く国民に伝えてください。

<身分と信用、そして仲間> 初めてパスポートをもらった時(1970年)、葵の御紋の入った印籠でももった気分でした。“これさえあれば諸国漫遊自由自在だ”と。考えてみるまでも無いことですが、あれはただ“日本人”であることを証明しているだけで、それ以上のものではありません。“日本人だから良い人だ”とか“日本人だから信用できる”とはならないわけです。入出国管理やホテルなどではそれなりに身分を示す機能を持っていますが、外国社会で生活する上では殆ど効力はありません。随分昔のことですが、アメリカ滞在中の先輩が何かの折り「Identification(身分照明)は?」と問われたので、パスポートを見せたところそれではダメで「他のものはないか?」と再度問われたので、「これでどうですか?」と所属していたアメリカ化学工学会の会員証を見せたところ、「これで良いのよ」と言われ事なきを得たと言う話を聞いたことがあります。
 こちらへ来て一番痛切に感じていることは、自分(の身分)を相手(企業・人)に信用してもらうことです。企業に所属していた時はそれが信用になります。しかし自由人になり外国で生活しようとすると、自由であることが一番信用を欠くことなのです。自由がもっとも不自由と言う皮肉な自家撞着になってしまうのです。
 長期滞在可のビザ(例えば研究者ビザ)があれば、少なくとも日本のパスポートとは桁違いの信用が得られます。そして大学の客員研究員になっていたら、更に数等高い信用力になるでしょう。ひょっとするとそこらの英国人以上の信用力かもしれません。
 企業の一員と言うような信用力を含めて、公的・半公的な身分による信用の他に唯一ある他の信用力は“この国に銀行口座を持っている”ことです。しかし、開設のためには公的・半公的身分の証明が求められます。堂々巡りです。
 現金は信用には繋がりません(しかし、短期の問題解決には役立ちます。ただ、足下を見られるので“不平等条約”を飲まざるを得ません)。犯罪者と間違われるかもしれません。銀行口座開設審査が厳しくなった背景は、テロや麻薬ビジネス関連のカネの流れを絶つためだともいわれています。
 クレジットカードも限りなく現金に近い性格です。郵便局で税金を払う際、試しに「クレジットカードで払えますか?」と訪ねると、「クレジットカードは受け付けません。デビット・カード(銀行のキャッシュカード)はOKです」と返事が返ってきました。これも銀行口座がないと持てません。
 そんな訳で未だに、私には銀行口座はありません。曲がりなりにもここで生活出来ているのは、幸運に恵まれたとしか思えません。先ず、Maurice Kirby教授の紹介状が不動産屋では効力を発揮してくれました。電話加入では不動産屋の助けで何とかそれが実現しました。いずれも交渉初期に必ず“銀行口座はありますか?”と聞いてきました。このプロセスを辿ると、結局Mauriceの私に対する“信用”がその出発点になります。
 ビザがあり、銀行口座を持ち、税金を納めていても、この社会で生き抜いていくことの要件が揃ったわけではありません。“仲間”として認められる必要があります。
 ある会社の広報誌に対談者として呼ばれた人々を中心にしたサークルがあります。10年近く前、このサークルの勉強会が開催され、そこに講師として招かれた方の話です。当時大手商社の役員で、英国駐在中ご苦労された経験を題材に講演されました。この方のご専門は希金属(rare metal)取引で、日本人で初めてロンドン希金属取引市場正会員の資格を取得され、勇躍この修羅場に乗り込みました。しかし、ここでの取引を期待通りに行うためには、公開されている市場情報だけでは充分でなく、市場外で直接ビジネスとは関係なく仲間内で交わされる、何気ない話の中にこそ重要な情報が潜んでいることに気づきました。仲間として認められ、胸襟を開いた付き合いをしてもらうためにどうしたらいいか?考え抜いた末辿りついた結論は“シャーロックホームズの研究”です。もともと好きだったこともあり、やがて英国シャーロキアン協会の幹部もビックリするような研究成果を次々とあげ、それが取引所関係者に伝わっていきました。公的な資格だけではとても得られないような情報が、これによってもたらされ、やっと全うなメンバーとして活躍できるようになったと言うことです。
 “戦争と道楽だけは真面目にやる英国人” 本職を超えたところ・異なる分野に“のめり込むものを持つこと”は英国知識人の好む生き方です。ORもそのようなプロセスを経てモノになったと言っても過言ではありません。(因みに、彼の車で出かけたカントリーサイドのレストランで彼が打ち明けてくれた、次の研究テーマは“ウォーゲーム(兵棋演習)の歴史”だそうです。これがどう本業の経済史と関係してくるのか現時点では想像できません)
 “OR歴史研究”に対する関心が、Mauriceによって仲間として認めてもらえた主因ではあることに間違いありません。お互いに、ORそのものが専門ではありません。しかし、二人とも、私の好きな論語の一説(雍也7)「これを知る者はこれを好む者に如かず、これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」の境地にあるのです。
 異なる分野で生きてきた人間が、共通する関心事で時空を越えた同志となり、その中で信用が生ずるのです。法制度や組織に依存する信用に比べ、遥かに高いレベルの個人対個人の信頼関係こそ“葵のご紋章”と言えます。


以上