<今月読んだ本>
1) 終生の友として-上、下(ジョン・ル・カレ)早川書房(文庫)
2)修理する権利(アーロン・バーザナウスキー);青土社
3)五色の虹(三浦英之);集英社(文庫)
4)翠雨の人(伊与原新);新潮社
5)仮説の昭和史-戦前・日米開戦編(保阪正康);毎日新聞出版(文庫)
<愚評昧説>
1) 終生の友として-上・下
-過激な学生運動で同志となった英独二青年、今は初老に達し静かな日々を送る英人に旧友独人が接近、再び燃え上がる反体制の焼けぼっくいだが・・・-
1960年大学3年生時、60年安保に遭遇した。エンジニアは総じてノンポリ、クラスでデモ参加を話し合ったが、反米・反体制の強硬意見は皆無、敗戦後の占領下に等しい行政協定や国会で十分な議論が無いままでの自動延長への不満が話題になった程度で、まとまっての参加は見送られた。個人で適宜判断となったので、近しい友人と「チョット見ておくか」という軽いのりで出かけてみることにした。当時の学生運動をリードしていたのは、全学連を主導したブント(共産主義同盟、急進左派)、革共同(革命的共産主義者同盟、世界革命志向)、民青(日本民主青年同盟、日本共産党下部組織)などがあり、活動を支える政治理念や行動に違いがあったが、私を含め一般学生は、それで参加グループを選別することなど考えず、とにかく都合のいいときに出かけるグループにと決め、国会議事堂前に向かい他の団体と合流、周辺をデモしたのち流れ解散となった。私の60年安保はこれで終わった。
この時代の大衆動員(特に学生)政治活動は、樺美智子の死はあったものの、殺人・テロとは無縁で、政治的抗議と若者の人生模索が絡み合ったものだった。しかし、1970年代になると、イタリアの赤い旅団、西独のドイツ赤軍などが出現、元首相を含む有力者の殺人を含め、武器を使用したテロが各地で起こり、学生の政治活動が過激化、日本でも連合赤軍による浅間山荘事件が発生している。「なぜそこまで(勝ち目の無い)戦いを続けるのだろう?」、こんな疑問をテーマにしたのが本書である。
2020年著者が死去した際、ある英紙の評伝に「ノーベル文学賞候補にもなっていた」と報じたものがあった。“スパイ小説の巨匠”以上の作家であったことを讃えてのことである。諜報・軍事サスペンスは大別すると、ストーリー展開を楽しむものと人間・社会を掘り下げるもの分けられる。前者の代表はイアン・フレミング(007シリーズ)やフレデリック・フォーサイス(「ジャッカルの日」など)、後者はサマセット・モーム(「アシェンデン」など)やグレアム・グリーン(「第三の男」など)、があり、著者も後者は属すると言える。直木賞と芥川賞の違いと言ったところか。
一流作家として認められることになる「寒い国から帰ってきたスパイ」以来読んできて、活劇を楽しん場面は皆無。組織内人間関係の複雑さや二重スパイ(時には三重スパイ)としての苦悩が主題となっており、この描写をじわーっと味わうところが魅力であった。そして、本作はその究極とも言えるものだった。「これがスパイ小説か?」が読後感である。
先ず時間のスパンが長い。主人公マンディの誕生は1947年、インドとパキスタンが分離独立した年に始まり、最後は2003年3月に始まったイラク戦争まで50余年の歳月が流れる。この間東西冷戦の終結があり国内政治さらには諜報戦環境は大きく変わる。この長期にわたる社会変動の中で生きた、一時スパイであった、二人の男の奇妙な交流を語るのが、本書の流れである。
インド(のちのパキスタン)駐在の陸軍士官を父に持つマンディは、オックスフォードで学んでいるとき反体制活動に関わり、専門のドイツ学を修める目的で西ベルリンに赴く。ここで西独政府の政策批判を行っている過激派リーダーのサーシャと知り合い、行動を共にし、サーシャと間違われ西ベルリン警察に逮捕され拷問を受ける。英国人とわかり、なぜか英国対外諜報組織MI-6が彼を引取り、対外文化交流団体の職員を装うスパイに仕立てる。一方サーシャは東ドイツのスパイ組織に取り込まれ、主にベルリンを舞台に学生のスパイ組織を動かしている。マンディの文化交流相手国は東欧諸国、ここでマンディとサーシャが再会、サーシャの引きで東独諜報組織と接触、二重スパイとなる(MI-6のもくろみもここにある)。
やがて冷戦終結、末端スパイのマンディはわずかな退職金で放り出され、英国を離れドイツに移住、古城ガイドに身をやつしてささやかに生きている。サーシャの住所は不明だが、ときどきマンディ宛の手紙が届き、やがて二人は再会する。そしてサーシャの信奉する得体の知れぬスポンサーの後援で、米国とそれに追従する英国やドイツに対する反体制活動を再開する。二人の運命やいかに?
二人の男の友情物語に併せて、強烈に伝わってくるのは、執筆時(原著出版2003年11月)の英国政治に対する不平不満である。サッチャーの新自由主義政策、ブレアの対米追従政策がそれらだ。もしかすると、著者は現在露わになってきた資本主義・民主主義の限界を予見していたのかも知れない。改めて、ノーベル文学賞候補に納得した。
2)修理する権利
-分解修理が容易だった機械、時代とともにモデルチェンジ、さらには買い換え促進策と、修理の余地はなきがごとし。修理復権の闘いを法学者が解説-
卒業論文の指導を受けた研究室の助教授は「ホームエンジニアリングが出来ない奴は、良いエンジニアになれない」が口癖だった。実際にエンジニアになってみて、必ずしもこの言が正しいわけでは無いことを知るが、若い学生を鍛えるには、分かりやすい一言だった。小学生の頃から工作が大好きだった私は、卒論研究では専ら実験装置作りとデータ取りを担当、論文書きは後に教授となる相棒に任せ、助教授から“工務店”なるあだ名を頂戴した。
そんなこともあり、保有した中古車や家電など、身の回りにある機械類の補修や、大工仕事のまねごとは、出来るだけ自分でやるようにしてきた。しかし、時代が進むにつれ、この「出来るだけ」の範囲が狭まり、最後の愛車、ポルシェ・ボクスターはエンジンが外から一切見えず、高くリフトアップして、下からメンテナンスする構造になていたし、家電にはほとんどネジが無く、分解不可能なものに変じてきた。物作りの世界が、小まめに修理することから、ディーラによる部品の交換、さらには買い換えを促進するベースにビジネスモデルに変わってきたのだ。こんな風潮を、資源保護や経済性の面から、「これで良いのか?」と問い、修理の復権を目指すのが本書の論旨である。
著者の年齢は不詳(英語版でも公開せず)、ミシガン大学法学大学院教授、知的財産権を専門とし、ディジタル経済圏における知的財産法や物権法に関する研究を主として行っている。そのバックグラウンドから、本書の内容も、知的財産関連の法律、独禁法、消費者保護に関する法律など、法的視点からの“修理する権利”を論ずる面が強く、相当歯応えのある内容だった。
人類は有史以来道具を考案・作成し使用に供してきた。その過程で修理や改善が行われ、道具はさらに発展していく。“修理は普遍的な権利”であったと、その歴史的位置づけを説く。近いところで代表的な物はT型フォード、これが爆発的に売れたのはどこでも、誰でも修理できたことが大きな要因だとする。米国農業の発展に農業機械の存在は欠かせない。農夫は故障したした農機を修繕するばかりでなく、土地や作物に合うよう構成部品の一部を改善・改良してきた。家電製品も同様、自分で直せなくても、独立専門業者が部品を調達して機能を回復してくれた。
これが崩れ出すのは“モデルチェンジ”の発想が自動車業界に導入されから。強力な販売促進策になっていく。著者はこの販売戦略を深耕し、次第にメーカーおよびその直轄ディーラあるいは指定の整備工場が、修理する権利を使用者・消費者から奪っていく姿を活写する。究極はスマフォに代表される電子機器、修理より買い替え需要を促す策が年々強化され、所有者や独立専門業者が修理できる余地がほとんどなくなり、製品のライフサイクルが著しく短縮されてしまう。このビジネスモデルを支えているのは、ソフトウェアの著作権を代表とする、生産者側の防衛策。ネジを使用せず接着剤を多用するのもその一例である。故障しても容易に直せないのは、単に製造費削減ばかりではなく、買い換えに向かわせる企みなのだ。ここでは米国のおけるPCやスマフォ販売の実態が数字で示される。
製品のライフサイクルが短くなることは、消費者の経済的負担が増えるばかりでなく、資源の浪費、さらには環境問題に波及する点にも踏み込む。2018年に、世界で生産されたスマフォは15億台。同じ年、修理にまわされなかったスマフォは、5000万トンを超す電子ゴミの一部をしめた。現在、米国の埋立地に運び込まれる有毒廃棄物の70%は電子機器であり、その数字は年々増加傾向にある、と具体的な数字で、問題点をクローズアップする。
著者はこのような修理の歴史を分析することで、修理をめぐる闘いが法廷で、議会で、行政機関で繰り広げられている現状と、その経緯とを明らかにし、修理する権利を取り戻す方法を紹介していく。基本的に米国の例が中心となるが、ソニーやニコン、トヨタなども登場し、この問題が世界規模のものであることを訴える。我が国でこのような視点で最新技術や製造業を分析調査した著書(決して反技術主義ではない)出版を寡聞にして知らない。否大きく問題視する風潮すら無い。その点で啓発されることは多く、技術を生業とする後輩たちに是非読んで欲しい一冊である。ただ、全頁数は450を超え、その内原注リストは70頁、読み下すにはそれなりの覚悟で臨む必要がある。
3)五色の虹
-五族が集う満洲国のエリート養成機関、7年しか存在しなかった建国大学の歴史と卒業生のその後を出身各国に追う-
6月下旬生まれ故郷満洲を1946年引揚げ後79年ぶりに訪れ、大連・旅順・瀋陽(奉天)・長春(新京)・ハルビンとめぐった。私の育ったのは新京、自宅の所在地まで近づくことは出来なかったが、子供仲間で冒険ごっこをした宮廷府(戦争で建設中止となっていた新宮殿)のその後(吉林大学自然史博物館)を間近にみることが出来たし、高齢のガイドから小学校(国民学校)や当時訪れたことのある場所に関し、詳しい情報が得られ、満足のいく旅だった。ただこの旅でいくつか疑問が残ったことがある。その一つは満洲医大が奉天と新京のいずれにもあったことだ。双方ともバスで移動中、車窓の一景としてガイド(それぞれの都市の専任)が紹介したに過ぎないのだが、気になったまま帰国した。結論から言えば、それぞれ歴史が違う大学で、正式には奉天医大であり新京医大が正しい(現在もそれぞれ名前を変えて存在する)。この疑問を解く過程で、満洲における高等教育機関に興味が移り、見つけたのが本書である。1938年に開学され終戦の年1945年に短い歴史を閉じた、満洲国エリート養成機関、建国大学を題材とするノンフィクションなのだ。
1931年9月の満州事変のもくろみ通り、1932年3月満洲国が成立する(1934年帝国)。この年の満洲国総人口は約3千万人、その内日本人は百万人程度で、2.5%に過ぎない。とても日本人だけで統治出来ないのは明らか、さらに国是は“五族協和”である。ここから、満洲国を背負って立つ人材育成が切望され、関東軍と満洲国が協力して設立に動いたのが建国大学である。この大学の設立は1938年、場所は首都新京(長春)郊外、文科系大学で前期3年・後期3年(これは旧制の高校・大学が各3年だったことと同じ)、全寮制、学校運営のすべてを官費でまかない、月5円支給。募集人員は150名で半数を日本人、半数を他民族とした。初年度合格者は日本人70名、中国人(満州人を含む)46名、朝鮮人10名、モンゴル人7年、ロシア人(白系)5名、台湾人3名であった。何とこれに対し受験者は2万名あったそうだ。1945年終戦で閉校するまで約1400名が在校・卒業している。教育方針は;①学問(既存大学のトップクラス)、②勤労実務(主として農業体験)、③軍事訓練(陸軍士官学校並)。共産主義や抗日・反満の議論すら許す言論自由を確保、極めて国際色豊かでユニークな大学であったのだ。
著者は1974年生まれ京大大学院卒業後朝日新聞に入社、本書単行本発刊は2015年12月、この時点では南アフリカに駐在している。本書は建国大学そのものを詳述するものではなく、副題にある“卒業生たちの戦後”を追う内容である。取材対象者は日本人ばかりでなく中国人(当時在満)、モンゴル人、朝鮮人、台湾人、カザフスタン人(在学時はロシア人)を現地に訪ねており、取材の苦労話も読みどころである。
最初の海外取材は一期生の中国人(抗日地下組織に所属、それが露見し憲兵隊に逮捕され無期懲役で拘留中終戦)、大連に訪ねホテルで聴取りを行っているが、話しが長春包囲戦(兵糧攻め;卡子(チャーズ)におよぶと同行者が突然会談中止を告げる。会話はどこかで盗聴されており、そこから指示があったのだ。次の相手は長春の東北師範大学教授(日本、日本語の権威)である七期生だがこの会談も中止となる。モンゴルやロシアの在校生は終戦とともにそれぞれの民族社会に潜伏するものの、結局本国に強制送還で共産党政権下苦しい生活を送るが、冷戦崩壊で平穏な老後を送っている。建国大学卒がプラスに働くのは五期生の朝鮮人(韓国人)、戦前朝鮮での苦しい生活から逃れるために友人を頼り広島に在住、この時大学の存在を知り受験・合格、学んだ語学や軍事訓練が役立ち、戦後の韓国では超エリート扱い、盧泰愚大統領政権で首相に任用される姜英勳がその人である。1990年には北朝鮮を訪問、金日成とも会っている。台湾人の一期生は当に苦学力行の人(小学校卒業だけで合格する)だが、建国大卒業後高級官吏養成機関の大同学院に進み、戦後半年かけ台湾に帰り着き、製紙財閥を作り上げ、今は静かに余生を送っている。
日本人も様々。シベリヤ送りになった人、国民党軍に組み込まれ中共軍の捕虜となった人、帰国後日本の大学に入り直し、新しい人生を切り開いた人など、総じて真面目だがしたたかな生き方をしている。共通するのは、“五族協和”は名のみだったが、ディケートな問題も、自由闊達な議論を戦わすことが出来た学校生活、それぞれそこで得たものが、その後の糧と、評価し懐かしがることである。
なお、本作は第13回(2015年度)開高健ノンフィクション賞受賞作品である。
満洲新京育ちながら、成長した後も両親からこの大学の話を聞いたことがなかっただけに、満洲に対する新たな興味が沸いてきた。満洲国の高等教育全容を知りたいと。
4)翠雨の人
-直木賞作家が描く、気象化学分析を出発点に放射線測定の世界的権威となった、猿橋勝子の伝記小説-
機械工学科出身者だが、ゼミ・卒論と自動制御(オートメーション)を選んだので、就職に際しては制御部門を希望した。半年の新入社員研修を終了したのち配属されたのは、和歌山工場工務部工事課計器係だった。担当副課長に先ず言われたのは、「来年度の国家計量士試験に備えること」である。この試験は二日間にわたる筆記試験とその合格後の口頭試問から成る、かなり厳しいもので、最終合格者は国家計量士として、終身取引証明用計量器の検定を行える資格を付与される。製油所や化学工場は原料受入から製品出荷までモノを見ないで操業が行われるため、計測器はきわめて重要な役割を担うのだが、制御技術とは距離があり、この試験に気乗りはしなかったが業務命令とあらば仕方がない。必須科目の計量に関する物理学・計量器概論・計量法、選択科目(個別計測機器;長さ計、容積計、重量計(はかり)、温度計、圧力計、流量計など。これから二種選ぶ)に関する受験勉強に励み、翌7月に無事合格することが出来た。資格取得後実務で計量器の検定に当ることはなく、電子化・ディジタル化の進展とともに、仕事は計測→制御→情報と変わっていったが、工場管理・経営管理を担う情報システムの開発・運用に際して、この時学んだ計測技術の知識がどれだけ役に立ったか分からない。末端の計器故障や計量誤差が管理情報を狂わせてしまうからだ。IT部門に転じて常に心したのは“センサー軽んずべからず”であった。本書は、直木賞作家が描く、放射線測定の世界的権威である、日本人女性科学者猿橋勝子を主人公とする伝記小説である。
小説なので家族関係や友人関係を省いて、彼女の経歴を要約すると;1920年(大正9年)東京生まれ。府立第六高女(現三田高校)卒→生命保険会社勤務→21歳の時東京女子医学専門学校(現東京女子医大)受験、筆記試験に合格するも、面接試験における創設者吉岡彌生の対応が気に入らず入学せず、同年創設されたばかりの帝国女子理学専門学校(現東邦大学)の物理学科に進学→卒業後中央気象台(現気象庁)に就職(嘱託採用)、気象化学室(科学ではない)に所属(室長三宅恭雄;のち東京教育大学教授)→ここで気象観測のための分析や測定器開発に従事、微量分析の専門家として認められていく→戦後原水爆実験における大気や海水中の放射性物質定量分析に従事→この分析結果に日米の差があり、両国を代表する気象庁気象研究所気象化学研究室のAMP法と米スクリプス海洋研究所が開発し米原子力委員会が認めるニファー法との検証コンテストが1962年行われ、単身サンディエゴの研究所へ乗り込みAMP法が圧勝、国際的に気象科学者として認知される。また同年東大理学部より理学博士号が授与される(論文名「天然水中の炭素物質の挙動」。これは東大理学部が女性に与えた初めての博士号)→1981年気象研究所退官する際の寄付金などを基に、50歳未満の優れた女性科学者を顕彰する“猿橋賞”が創設される→2007年没。
小説の山場はいくつかある。第一は、女学校卒業前から帝国女子理学専門学校入学までの過程。経済的な問題はないのだが、この時代高等女学校卒業後の高等教育を学ぶには社会的な制約が多かったことである。花嫁修業をし結婚して家庭に入る、これが社会通念であり、東京女子医学専門学校進学を切望しながら言い出せず就職する。この間の悩みが、同級生との交流や限られた進学先、それに兄の結婚などを交えて語られる。このような状況の中でも進学意欲止みがたく、兄の助言もあり3年遅れで専門学校へ進学するまでの話は、その後の彼女の職務に対する意欲と活躍の下地として欠かせない部分だ。第二は中央気象台で三宅恭雄と出会い、厳しいが温かく鍛えられていく姿だ。気象化学という三宅も模索している研究分野、微量分析担当者として認められていくのだが、彼女が学校で所属していたのは物理学、化学は未知の領域だが、それを基礎から学び習得し、さらに分析法を考案、三宅に高く評価されるレベルまで達する過程は、科学者の成長物語としての面白さに満ち満ちている。そして第三はクライマックスとなる、放射線測定の日米対決である。三宅は彼女の実績を信頼、一人でそこへ送り出す。初めての海外出張、必ずしも受け入れ先から歓迎されたものではない。粗末な物置小屋同然の研究棟、先ず米国と同じような結果が出るか否かを問う3ヶ月にわたるテストが待ち受ける。海岸から試用の海水をバケツに汲み上げリヤカーで運ぶのも一人だ。この苦労話があって、最後の原子力委員会によるコンテストでの勝利の場面が読む者の感動を最高レベルに引き上げる。見事なプロットと筆致だ。
直木賞受賞作家とはいえ、科学・技術の世界をこれほど深くかつ分かりやすく小説として描けることには、その経歴が影響しているに違いない。1972年大阪生まれ。神戸大学理学部卒、東京大学大学院理学系研究科博士課程修了。
5)仮説の昭和史-戦前・日米開戦編
-「歴史にifは許されない」は承知の上で、昭和史の権威が検証する、開戦までの我が国策の選択肢25話-
最近は低下傾向にあるものの、8月の敗戦記念日を前に6月頃から太平洋戦争に関する出版物が多く店頭に並ぶ。本書もその一つであり、続刊である“戦中・占領期編”と一緒に7月に発刊され、購入した。書店でタイトルを見たとき、「歴史にifは許されない」と言う格言が思い浮かんだ。昭和史の泰斗である著者は、そんなことは百も承知、ifで論ずることの意義を、最初の一話「もし日本がハル・ノートを受諾していたら」の冒頭で次のように語る。「(if否定論を説明したのち)、確かにその通りだ。だがある史実を検証するときに、なぜその国策が選択されたかを見ていき、もしAでなくBの道を選択していたらならばどうなったのだろうと推測、検討してみることは、実は歴史を通じて何かを学ぶ、あるいは歴史の教訓を学ぶということにほかならない」と。まったく同感である。
本書の初出は「サンデー毎日」に2011年1月から2012年1月まで連載されたもので、本書には25話が収められている。ハル・ノートが第1話となっているものの、かなり後に二・二六事件が来るように、必ずしも時代の流れに沿ったものではなく、また一つの事件を数回にわたって続けるものもあり、著者はときどきの思いのままに、話題を選び、私見を開陳していく。
著者が最も留意するのは、if選択肢の実現可能性で、関係者の手記や証言、関係機関に残された議事録や報告書などを丹念に当り、非現実的なケースを排除した上で、仮説を論ずるようにしていることである。結果として着眼点は比較的小さなことになるが、“歴史を通じて何かを学ぶ、あるいは歴史の教訓を学ぶ”点で、欠かせぬところをしっかり抑えた執筆姿勢と言える。
例えば、昭和史を左右した重要課題は満洲政策、その中で起こった“張作霖爆殺事件”。これは1928年(昭和3年)6月北京から奉天に戻る張作霖専用列車が奉天近郊で爆破され張作霖が死亡した事件である。戦後これは関東軍の河本大佐が仕組んだ謀略と整理されているが、詳細情報は当時関東軍と一部の陸軍トップのみに留まり、メディアを含め、しばらく一般の日本人の知るところではなかった。“もし”これが事件直後に政府・陸軍中枢、さらに国民に知らされていたら、その後の満洲政策に大きく影響したのではないか、と仮説する。そのために著者が追うのが町野武馬予備役大佐、張作霖の軍事顧問で、北京で列車に同乗しながら途中の天津で下車し、難を免れている。彼の下車理由は何だったのか?張作霖の指示、関東軍の工作、陸軍中枢も承知しての行動、様々なifを検証するが、著者も詰め切れない。ただ「(予備役とはいえ)日本人軍人が死亡していれば、国内のみならず、国際世論も変わり、満洲政策が違ったものになった」ことを匂わせて話を終える。
「もしハル・ノートを受諾していたら」「もし国際連盟を脱退していなければ」「もし五・一五事件の決行者が厳罰に処せられていれば」「もし永田鉄山軍務局長が斬殺されていなければ」「二・二六事件で、もし決起部隊が皇居に入っていたら」「もし三国同盟を結んでいなければ」「もし松岡洋右が外相に起用されていなければ」「もしルーズベルトの天皇への和平を願う親電が早く届いていたら(当時外国電報の配達を一定時間遅らせるよう参謀本部が命じていた)」など、可能性を無視できないifを熟考してみることは昭和史理解を深めること必定。週刊誌連載ということもあり、簡潔にまとめられていることも、あの時代・あの戦争を、いっとき手許に引き寄せるには最適だ。来月は続編の「戦中・占領期編」を取り上げます。
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