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2025年8月31日日曜日

今月の本棚-205(2025年8月分)

 

<今月読んだ本>

1) 終生の友として-上、下(ジョン・ル・カレ)早川書房(文庫)

2)修理する権利(アーロン・バーザナウスキー);青土社

3)五色の虹(三浦英之);集英社(文庫)

4)翠雨の人(伊与原新);新潮社

5)仮説の昭和史-戦前・日米開戦編(保阪正康);毎日新聞出版(文庫)

 

<愚評昧説>

1) 終生の友として-上・下

-過激な学生運動で同志となった英独二青年、今は初老に達し静かな日々を送る英人に旧友独人が接近、再び燃え上がる反体制の焼けぼっくいだが・・・-

 


1960年大学3年生時、60年安保に遭遇した。エンジニアは総じてノンポリ、クラスでデモ参加を話し合ったが、反米・反体制の強硬意見は皆無、敗戦後の占領下に等しい行政協定や国会で十分な議論が無いままでの自動延長への不満が話題になった程度で、まとまっての参加は見送られた。個人で適宜判断となったので、近しい友人と「チョット見ておくか」という軽いのりで出かけてみることにした。当時の学生運動をリードしていたのは、全学連を主導したブント(共産主義同盟、急進左派)、革共同(革命的共産主義者同盟、世界革命志向)、民青(日本民主青年同盟、日本共産党下部組織)などがあり、活動を支える政治理念や行動に違いがあったが、私を含め一般学生は、それで参加グループを選別することなど考えず、とにかく都合のいいときに出かけるグループにと決め、国会議事堂前に向かい他の団体と合流、周辺をデモしたのち流れ解散となった。私の60年安保はこれで終わった。

この時代の大衆動員(特に学生)政治活動は、樺美智子の死はあったものの、殺人・テロとは無縁で、政治的抗議と若者の人生模索が絡み合ったものだった。しかし、1970年代になると、イタリアの赤い旅団、西独のドイツ赤軍などが出現、元首相を含む有力者の殺人を含め、武器を使用したテロが各地で起こり、学生の政治活動が過激化、日本でも連合赤軍による浅間山荘事件が発生している。「なぜそこまで(勝ち目の無い)戦いを続けるのだろう?」、こんな疑問をテーマにしたのが本書である。

2020年著者が死去した際、ある英紙の評伝に「ノーベル文学賞候補にもなっていた」と報じたものがあった。“スパイ小説の巨匠”以上の作家であったことを讃えてのことである。諜報・軍事サスペンスは大別すると、ストーリー展開を楽しむものと人間・社会を掘り下げるもの分けられる。前者の代表はイアン・フレミング(007シリーズ)やフレデリック・フォーサイス(「ジャッカルの日」など)、後者はサマセット・モーム(「アシェンデン」など)やグレアム・グリーン(「第三の男」など)、があり、著者も後者は属すると言える。直木賞と芥川賞の違いと言ったところか。


一流作家として認められることになる「寒い国から帰ってきたスパイ」以来読んできて、活劇を楽しん場面は皆無。組織内人間関係の複雑さや二重スパイ(時には三重スパイ)としての苦悩が主題となっており、この描写をじわーっと味わうところが魅力であった。そして、本作はその究極とも言えるものだった。「これがスパイ小説か?」が読後感である。

先ず時間のスパンが長い。主人公マンディの誕生は1947年、インドとパキスタンが分離独立した年に始まり、最後は20033月に始まったイラク戦争まで50余年の歳月が流れる。この間東西冷戦の終結があり国内政治さらには諜報戦環境は大きく変わる。この長期にわたる社会変動の中で生きた、一時スパイであった、二人の男の奇妙な交流を語るのが、本書の流れである。

インド(のちのパキスタン)駐在の陸軍士官を父に持つマンディは、オックスフォードで学んでいるとき反体制活動に関わり、専門のドイツ学を修める目的で西ベルリンに赴く。ここで西独政府の政策批判を行っている過激派リーダーのサーシャと知り合い、行動を共にし、サーシャと間違われ西ベルリン警察に逮捕され拷問を受ける。英国人とわかり、なぜか英国対外諜報組織MI-6が彼を引取り、対外文化交流団体の職員を装うスパイに仕立てる。一方サーシャは東ドイツのスパイ組織に取り込まれ、主にベルリンを舞台に学生のスパイ組織を動かしている。マンディの文化交流相手国は東欧諸国、ここでマンディとサーシャが再会、サーシャの引きで東独諜報組織と接触、二重スパイとなる(MI-6のもくろみもここにある)。

やがて冷戦終結、末端スパイのマンディはわずかな退職金で放り出され、英国を離れドイツに移住、古城ガイドに身をやつしてささやかに生きている。サーシャの住所は不明だが、ときどきマンディ宛の手紙が届き、やがて二人は再会する。そしてサーシャの信奉する得体の知れぬスポンサーの後援で、米国とそれに追従する英国やドイツに対する反体制活動を再開する。二人の運命やいかに?

二人の男の友情物語に併せて、強烈に伝わってくるのは、執筆時(原著出版200311月)の英国政治に対する不平不満である。サッチャーの新自由主義政策、ブレアの対米追従政策がそれらだ。もしかすると、著者は現在露わになってきた資本主義・民主主義の限界を予見していたのかも知れない。改めて、ノーベル文学賞候補に納得した。

 

2)修理する権利

-分解修理が容易だった機械、時代とともにモデルチェンジ、さらには買い換え促進策と、修理の余地はなきがごとし。修理復権の闘いを法学者が解説-

 


卒業論文の指導を受けた研究室の助教授は「ホームエンジニアリングが出来ない奴は、良いエンジニアになれない」が口癖だった。実際にエンジニアになってみて、必ずしもこの言が正しいわけでは無いことを知るが、若い学生を鍛えるには、分かりやすい一言だった。小学生の頃から工作が大好きだった私は、卒論研究では専ら実験装置作りとデータ取りを担当、論文書きは後に教授となる相棒に任せ、助教授から“工務店”なるあだ名を頂戴した。

そんなこともあり、保有した中古車や家電など、身の回りにある機械類の補修や、大工仕事のまねごとは、出来るだけ自分でやるようにしてきた。しかし、時代が進むにつれ、この「出来るだけ」の範囲が狭まり、最後の愛車、ポルシェ・ボクスターはエンジンが外から一切見えず、高くリフトアップして、下からメンテナンスする構造になていたし、家電にはほとんどネジが無く、分解不可能なものに変じてきた。物作りの世界が、小まめに修理することから、ディーラによる部品の交換、さらには買い換えを促進するベースにビジネスモデルに変わってきたのだ。こんな風潮を、資源保護や経済性の面から、「これで良いのか?」と問い、修理の復権を目指すのが本書の論旨である。

著者の年齢は不詳(英語版でも公開せず)、ミシガン大学法学大学院教授、知的財産権を専門とし、ディジタル経済圏における知的財産法や物権法に関する研究を主として行っている。そのバックグラウンドから、本書の内容も、知的財産関連の法律、独禁法、消費者保護に関する法律など、法的視点からの“修理する権利”を論ずる面が強く、相当歯応えのある内容だった。

人類は有史以来道具を考案・作成し使用に供してきた。その過程で修理や改善が行われ、道具はさらに発展していく。“修理は普遍的な権利”であったと、その歴史的位置づけを説く。近いところで代表的な物はT型フォード、これが爆発的に売れたのはどこでも、誰でも修理できたことが大きな要因だとする。米国農業の発展に農業機械の存在は欠かせない。農夫は故障したした農機を修繕するばかりでなく、土地や作物に合うよう構成部品の一部を改善・改良してきた。家電製品も同様、自分で直せなくても、独立専門業者が部品を調達して機能を回復してくれた。

これが崩れ出すのは“モデルチェンジ”の発想が自動車業界に導入されから。強力な販売促進策になっていく。著者はこの販売戦略を深耕し、次第にメーカーおよびその直轄ディーラあるいは指定の整備工場が、修理する権利を使用者・消費者から奪っていく姿を活写する。究極はスマフォに代表される電子機器、修理より買い替え需要を促す策が年々強化され、所有者や独立専門業者が修理できる余地がほとんどなくなり、製品のライフサイクルが著しく短縮されてしまう。このビジネスモデルを支えているのは、ソフトウェアの著作権を代表とする、生産者側の防衛策。ネジを使用せず接着剤を多用するのもその一例である。故障しても容易に直せないのは、単に製造費削減ばかりではなく、買い換えに向かわせる企みなのだ。ここでは米国のおけるPCやスマフォ販売の実態が数字で示される。

製品のライフサイクルが短くなることは、消費者の経済的負担が増えるばかりでなく、資源の浪費、さらには環境問題に波及する点にも踏み込む。2018年に、世界で生産されたスマフォは15億台。同じ年、修理にまわされなかったスマフォは、5000万トンを超す電子ゴミの一部をしめた。現在、米国の埋立地に運び込まれる有毒廃棄物の70%は電子機器であり、その数字は年々増加傾向にある、と具体的な数字で、問題点をクローズアップする。

著者はこのような修理の歴史を分析することで、修理をめぐる闘いが法廷で、議会で、行政機関で繰り広げられている現状と、その経緯とを明らかにし、修理する権利を取り戻す方法を紹介していく。基本的に米国の例が中心となるが、ソニーやニコン、トヨタなども登場し、この問題が世界規模のものであることを訴える。我が国でこのような視点で最新技術や製造業を分析調査した著書(決して反技術主義ではない)出版を寡聞にして知らない。否大きく問題視する風潮すら無い。その点で啓発されることは多く、技術を生業とする後輩たちに是非読んで欲しい一冊である。ただ、全頁数は450を超え、その内原注リストは70頁、読み下すにはそれなりの覚悟で臨む必要がある。

 

3)五色の虹

-五族が集う満洲国のエリート養成機関、7年しか存在しなかった建国大学の歴史と卒業生のその後を出身各国に追う-

 


6月下旬生まれ故郷満洲を1946年引揚げ後79年ぶりに訪れ、大連・旅順・瀋陽(奉天)・長春(新京)・ハルビンとめぐった。私の育ったのは新京、自宅の所在地まで近づくことは出来なかったが、子供仲間で冒険ごっこをした宮廷府(戦争で建設中止となっていた新宮殿)のその後(吉林大学自然史博物館)を間近にみることが出来たし、高齢のガイドから小学校(国民学校)や当時訪れたことのある場所に関し、詳しい情報が得られ、満足のいく旅だった。ただこの旅でいくつか疑問が残ったことがある。その一つは満洲医大が奉天と新京のいずれにもあったことだ。双方ともバスで移動中、車窓の一景としてガイド(それぞれの都市の専任)が紹介したに過ぎないのだが、気になったまま帰国した。結論から言えば、それぞれ歴史が違う大学で、正式には奉天医大であり新京医大が正しい(現在もそれぞれ名前を変えて存在する)。この疑問を解く過程で、満洲における高等教育機関に興味が移り、見つけたのが本書である。1938年に開学され終戦の年1945年に短い歴史を閉じた、満洲国エリート養成機関、建国大学を題材とするノンフィクションなのだ。

19319月の満州事変のもくろみ通り、19323月満洲国が成立する(1934年帝国)。この年の満洲国総人口は約3千万人、その内日本人は百万人程度で、2.5%に過ぎない。とても日本人だけで統治出来ないのは明らか、さらに国是は“五族協和”である。ここから、満洲国を背負って立つ人材育成が切望され、関東軍と満洲国が協力して設立に動いたのが建国大学である。この大学の設立は1938年、場所は首都新京(長春)郊外、文科系大学で前期3年・後期3年(これは旧制の高校・大学が各3年だったことと同じ)、全寮制、学校運営のすべてを官費でまかない、月5円支給。募集人員は150名で半数を日本人、半数を他民族とした。初年度合格者は日本人70名、中国人(満州人を含む)46名、朝鮮人10名、モンゴル人7年、ロシア人(白系)5名、台湾人3名であった。何とこれに対し受験者は2万名あったそうだ。1945年終戦で閉校するまで約1400名が在校・卒業している。教育方針は;①学問(既存大学のトップクラス)、②勤労実務(主として農業体験)、③軍事訓練(陸軍士官学校並)。共産主義や抗日・反満の議論すら許す言論自由を確保、極めて国際色豊かでユニークな大学であったのだ。

著者は1974年生まれ京大大学院卒業後朝日新聞に入社、本書単行本発刊は201512月、この時点では南アフリカに駐在している。本書は建国大学そのものを詳述するものではなく、副題にある“卒業生たちの戦後”を追う内容である。取材対象者は日本人ばかりでなく中国人(当時在満)、モンゴル人、朝鮮人、台湾人、カザフスタン人(在学時はロシア人)を現地に訪ねており、取材の苦労話も読みどころである。

最初の海外取材は一期生の中国人(抗日地下組織に所属、それが露見し憲兵隊に逮捕され無期懲役で拘留中終戦)、大連に訪ねホテルで聴取りを行っているが、話しが長春包囲戦(兵糧攻め;卡子(チャーズ)におよぶと同行者が突然会談中止を告げる。会話はどこかで盗聴されており、そこから指示があったのだ。次の相手は長春の東北師範大学教授(日本、日本語の権威)である七期生だがこの会談も中止となる。モンゴルやロシアの在校生は終戦とともにそれぞれの民族社会に潜伏するものの、結局本国に強制送還で共産党政権下苦しい生活を送るが、冷戦崩壊で平穏な老後を送っている。建国大学卒がプラスに働くのは五期生の朝鮮人(韓国人)、戦前朝鮮での苦しい生活から逃れるために友人を頼り広島に在住、この時大学の存在を知り受験・合格、学んだ語学や軍事訓練が役立ち、戦後の韓国では超エリート扱い、盧泰愚大統領政権で首相に任用される姜英勳がその人である。1990年には北朝鮮を訪問、金日成とも会っている。台湾人の一期生は当に苦学力行の人(小学校卒業だけで合格する)だが、建国大卒業後高級官吏養成機関の大同学院に進み、戦後半年かけ台湾に帰り着き、製紙財閥を作り上げ、今は静かに余生を送っている。

日本人も様々。シベリヤ送りになった人、国民党軍に組み込まれ中共軍の捕虜となった人、帰国後日本の大学に入り直し、新しい人生を切り開いた人など、総じて真面目だがしたたかな生き方をしている。共通するのは、“五族協和”は名のみだったが、ディケートな問題も、自由闊達な議論を戦わすことが出来た学校生活、それぞれそこで得たものが、その後の糧と、評価し懐かしがることである。

なお、本作は第13回(2015年度)開高健ノンフィクション賞受賞作品である。

満洲新京育ちながら、成長した後も両親からこの大学の話を聞いたことがなかっただけに、満洲に対する新たな興味が沸いてきた。満洲国の高等教育全容を知りたいと。

 

 

4)翠雨の人

-直木賞作家が描く、気象化学分析を出発点に放射線測定の世界的権威となった、猿橋勝子の伝記小説-

 


機械工学科出身者だが、ゼミ・卒論と自動制御(オートメーション)を選んだので、就職に際しては制御部門を希望した。半年の新入社員研修を終了したのち配属されたのは、和歌山工場工務部工事課計器係だった。担当副課長に先ず言われたのは、「来年度の国家計量士試験に備えること」である。この試験は二日間にわたる筆記試験とその合格後の口頭試問から成る、かなり厳しいもので、最終合格者は国家計量士として、終身取引証明用計量器の検定を行える資格を付与される。製油所や化学工場は原料受入から製品出荷までモノを見ないで操業が行われるため、計測器はきわめて重要な役割を担うのだが、制御技術とは距離があり、この試験に気乗りはしなかったが業務命令とあらば仕方がない。必須科目の計量に関する物理学・計量器概論・計量法、選択科目(個別計測機器;長さ計、容積計、重量計(はかり)、温度計、圧力計、流量計など。これから二種選ぶ)に関する受験勉強に励み、翌7月に無事合格することが出来た。資格取得後実務で計量器の検定に当ることはなく、電子化・ディジタル化の進展とともに、仕事は計測→制御→情報と変わっていったが、工場管理・経営管理を担う情報システムの開発・運用に際して、この時学んだ計測技術の知識がどれだけ役に立ったか分からない。末端の計器故障や計量誤差が管理情報を狂わせてしまうからだ。IT部門に転じて常に心したのは“センサー軽んずべからず”であった。本書は、直木賞作家が描く、放射線測定の世界的権威である、日本人女性科学者猿橋勝子を主人公とする伝記小説である。

小説なので家族関係や友人関係を省いて、彼女の経歴を要約すると;1920年(大正9年)東京生まれ。府立第六高女(現三田高校)卒→生命保険会社勤務→21歳の時東京女子医学専門学校(現東京女子医大)受験、筆記試験に合格するも、面接試験における創設者吉岡彌生の対応が気に入らず入学せず、同年創設されたばかりの帝国女子理学専門学校(現東邦大学)の物理学科に進学→卒業後中央気象台(現気象庁)に就職(嘱託採用)、気象化学室(科学ではない)に所属(室長三宅恭雄;のち東京教育大学教授)→ここで気象観測のための分析や測定器開発に従事、微量分析の専門家として認められていく→戦後原水爆実験における大気や海水中の放射性物質定量分析に従事→この分析結果に日米の差があり、両国を代表する気象庁気象研究所気象化学研究室のAMP法と米スクリプス海洋研究所が開発し米原子力委員会が認めるニファー法との検証コンテストが1962年行われ、単身サンディエゴの研究所へ乗り込みAMP法が圧勝、国際的に気象科学者として認知される。また同年東大理学部より理学博士号が授与される(論文名「天然水中の炭素物質の挙動」。これは東大理学部が女性に与えた初めての博士号)→1981年気象研究所退官する際の寄付金などを基に、50歳未満の優れた女性科学者を顕彰する“猿橋賞”が創設される→2007年没。

小説の山場はいくつかある。第一は、女学校卒業前から帝国女子理学専門学校入学までの過程。経済的な問題はないのだが、この時代高等女学校卒業後の高等教育を学ぶには社会的な制約が多かったことである。花嫁修業をし結婚して家庭に入る、これが社会通念であり、東京女子医学専門学校進学を切望しながら言い出せず就職する。この間の悩みが、同級生との交流や限られた進学先、それに兄の結婚などを交えて語られる。このような状況の中でも進学意欲止みがたく、兄の助言もあり3年遅れで専門学校へ進学するまでの話は、その後の彼女の職務に対する意欲と活躍の下地として欠かせない部分だ。第二は中央気象台で三宅恭雄と出会い、厳しいが温かく鍛えられていく姿だ。気象化学という三宅も模索している研究分野、微量分析担当者として認められていくのだが、彼女が学校で所属していたのは物理学、化学は未知の領域だが、それを基礎から学び習得し、さらに分析法を考案、三宅に高く評価されるレベルまで達する過程は、科学者の成長物語としての面白さに満ち満ちている。そして第三はクライマックスとなる、放射線測定の日米対決である。三宅は彼女の実績を信頼、一人でそこへ送り出す。初めての海外出張、必ずしも受け入れ先から歓迎されたものではない。粗末な物置小屋同然の研究棟、先ず米国と同じような結果が出るか否かを問う3ヶ月にわたるテストが待ち受ける。海岸から試用の海水をバケツに汲み上げリヤカーで運ぶのも一人だ。この苦労話があって、最後の原子力委員会によるコンテストでの勝利の場面が読む者の感動を最高レベルに引き上げる。見事なプロットと筆致だ。

直木賞受賞作家とはいえ、科学・技術の世界をこれほど深くかつ分かりやすく小説として描けることには、その経歴が影響しているに違いない。1972年大阪生まれ。神戸大学理学部卒、東京大学大学院理学系研究科博士課程修了。

 

5)仮説の昭和史-戦前・日米開戦編

-「歴史にifは許されない」は承知の上で、昭和史の権威が検証する、開戦までの我が国策の選択肢25話-

 


最近は低下傾向にあるものの、8月の敗戦記念日を前に6月頃から太平洋戦争に関する出版物が多く店頭に並ぶ。本書もその一つであり、続刊である“戦中・占領期編”と一緒に7月に発刊され、購入した。書店でタイトルを見たとき、「歴史にifは許されない」と言う格言が思い浮かんだ。昭和史の泰斗である著者は、そんなことは百も承知、ifで論ずることの意義を、最初の一話「もし日本がハル・ノートを受諾していたら」の冒頭で次のように語る。「(if否定論を説明したのち)、確かにその通りだ。だがある史実を検証するときに、なぜその国策が選択されたかを見ていき、もしAでなくBの道を選択していたらならばどうなったのだろうと推測、検討してみることは、実は歴史を通じて何かを学ぶ、あるいは歴史の教訓を学ぶということにほかならない」と。まったく同感である。

本書の初出は「サンデー毎日」に20111月から20121月まで連載されたもので、本書には25話が収められている。ハル・ノートが第1話となっているものの、かなり後に二・二六事件が来るように、必ずしも時代の流れに沿ったものではなく、また一つの事件を数回にわたって続けるものもあり、著者はときどきの思いのままに、話題を選び、私見を開陳していく。

著者が最も留意するのは、if選択肢の実現可能性で、関係者の手記や証言、関係機関に残された議事録や報告書などを丹念に当り、非現実的なケースを排除した上で、仮説を論ずるようにしていることである。結果として着眼点は比較的小さなことになるが、“歴史を通じて何かを学ぶ、あるいは歴史の教訓を学ぶ”点で、欠かせぬところをしっかり抑えた執筆姿勢と言える。

例えば、昭和史を左右した重要課題は満洲政策、その中で起こった“張作霖爆殺事件”。これは1928年(昭和3年)6月北京から奉天に戻る張作霖専用列車が奉天近郊で爆破され張作霖が死亡した事件である。戦後これは関東軍の河本大佐が仕組んだ謀略と整理されているが、詳細情報は当時関東軍と一部の陸軍トップのみに留まり、メディアを含め、しばらく一般の日本人の知るところではなかった。“もし”これが事件直後に政府・陸軍中枢、さらに国民に知らされていたら、その後の満洲政策に大きく影響したのではないか、と仮説する。そのために著者が追うのが町野武馬予備役大佐、張作霖の軍事顧問で、北京で列車に同乗しながら途中の天津で下車し、難を免れている。彼の下車理由は何だったのか?張作霖の指示、関東軍の工作、陸軍中枢も承知しての行動、様々なifを検証するが、著者も詰め切れない。ただ「(予備役とはいえ)日本人軍人が死亡していれば、国内のみならず、国際世論も変わり、満洲政策が違ったものになった」ことを匂わせて話を終える。

「もしハル・ノートを受諾していたら」「もし国際連盟を脱退していなければ」「もし五・一五事件の決行者が厳罰に処せられていれば」「もし永田鉄山軍務局長が斬殺されていなければ」「二・二六事件で、もし決起部隊が皇居に入っていたら」「もし三国同盟を結んでいなければ」「もし松岡洋右が外相に起用されていなければ」「もしルーズベルトの天皇への和平を願う親電が早く届いていたら(当時外国電報の配達を一定時間遅らせるよう参謀本部が命じていた)」など、可能性を無視できないifを熟考してみることは昭和史理解を深めること必定。週刊誌連載ということもあり、簡潔にまとめられていることも、あの時代・あの戦争を、いっとき手許に引き寄せるには最適だ。来月は続編の「戦中・占領期編」を取り上げます。

 

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2025年7月31日木曜日

今月の本棚-204(2025年7月分)

 

<今月読んだ本>

1) 名画を見る眼-Ⅰ、Ⅱ(高階秀爾);岩波書店(新書)

2)同志少女よ、敵を撃て(逢坂冬馬);早川書房(文庫)

3)町の本屋はいかにしてつぶれてきたか(飯田一史);平凡社(新書)

4)ロシア政治(鳥飼将雅);中央公論新社(新書)

5)次期戦闘機の政治史(増田剛);千倉書房

 

<愚評昧説>

1) 名画を見る眼-Ⅰ、Ⅱ

-カラー版への改訂で、我が国西洋絵画評論第一人者の解説を、現物鑑賞するように理解出来る、入門者必読の二巻-

 


「現役を引退したら」と期待していた第一は旅行、海外旅行と長距離ドライブ旅行だ。これに次ぐのが音楽と絵画の鑑賞。海外旅行は現役時代訪れる機会の少なかった欧州中心。英国に長期滞在したあと、イタリア、フランス、スペイン、ドイツと巡り2018年で打ち止めとした。長距離ドライブはスポーツカーを入手、沖縄を除く全国都道府県を巡り、20202月免許証返納で終わりになった。音楽は東京フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会会員になり年10回ほど出かけていたが、聴力低下で補聴器を着けだしてから、音質が年々悪化、ついに退会した。残るは絵画鑑賞というのが現状である。しかし、これも問題を生じ始めている。コロナ禍での様々な制約はともかく、チョット名のある企画展となると混雑が半端でないからだ。そんなわけで、本物と比らぶるべくもないが、最近は専ら書物で楽しむ方策を模索している。

音楽の楽しみは軽音楽やジャズから始まったが、後年クラシックに広がり、東フィル会員に至る。この間NHKFMで長く吉田秀和の解説を聴くことで啓発されることが多く、第一人者に学ぶことの重要さを改めて教えられた。音楽が吉田なら絵画は高階(両者とも文化勲章受章者)。そんな思いで本書を手にした。

著者は1932年生まれ、昨秋92歳で亡くなっている。東大教授(近代美術史)、国立西洋美術館館長、大原美術館館長を歴任した、西洋絵画(特にルネサンス以降)の泰斗である。


本作(2巻)の初版発刊は1969年、半世紀を超えるロングセラーだが、当時格別絵画に関心がなかったこともあり、手にする機会はなかった。本書を購入しようと思い立ったのは“カラー版”にある。西洋絵画の鑑賞の肝は色にあるからだ。さすが岩波、新書とはいえ、素晴らしい印刷で解説内容が良く伝わる。

2巻で取り上げられる画家・作品は、油彩画の創始者、オランダのヤン・ファン・アイクの「アルノルフィニ夫妻の肖像」(1434年、ロンドン・ナショナルギャラリー蔵)から同じオランダ人のピエト・モンドリアンの抽象画「ブロードウェイ・ブギウギ」(1943年、ニューヨーク近代美術館(MOMA)蔵)まで時代順に29人・29作品。一つの作品について自作や他の関連作品を平均5点ほど、これもカラーで援用するから、約150点の西洋画を紙上鑑賞できる。

先ず対象作品を1頁(大作は見開き2頁)で見せ、そのあと見所を中心に絵そのものを解説、続いて絵の意味や背景(ギリシャ・ローマ文化あるいはキリスト教、先行する同題材作品との関わり、作家やモデルに関するエピソードなど)で画家と作品への関心を高めていく。次いで色彩学や光学、遠近法の知識も交えながら絵画史上の特質に触れ、いずれの作家・作品も時代を画するものであることを、分からせる。例えば、モネの「パラソルをさす女」(1886年、オルセー美術館蔵)では、色の三原色を混ぜれば黒になり、光の三原色を合わせれば白になることを述べたのち、モネが微妙な筆使いで三色を点描(離れた肉眼からは判別不可)して、光の表現を調整していることを明かす。同じ“光の画家”と呼ばれるレンブラントやフェルメールとの違いはそこにあるのだ。三次元空間を忠実に描こうとする伝統画法に対して、キャンバスという二次元空間を積極的に生かそうとするマチスの「大きな赤い室内」(1948年、ポンピドーセンター蔵)や二次元の世界で三次元表現を生み出したピカソの「アヴィニョンの娘たち」(1907年、MOMA)、さらには心象現象を取り込んだ(ここまで来ると音楽との共通性がでてくる)カンディンスキーの「印象;第四番」(1911年、ミュンヘン・レンバッハ美術館蔵)など、「そう言うことだったのか」と絵画鑑賞の奥の深さを再認識させられた。

上記以外の作家は;ボッティチェリ、レオナルド、ラファエルロ、デュラー、ベラスケス、レンブラント、プーサン、フェルメール、ワトー、ゴヤ、ドラクロワ、ターナー、クーベル、マネ、ルノワール、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、スーラ、ロートレック、ルソー、ムンク、シャガール。

ルーブルで、ウフィッツィで、プラドで、メトロポリタンで、MOMAで実物を観た作品もあるのだが、その時は「見た見た」で終わっており、反省しきり。これから西洋絵画を楽しみたい人には必読の入門書である。

 

2) 同志少女よ、敵を撃て

-実在したソ連女性狙撃手から着想した、独ソ戦を舞台にした少女の復讐劇、若い日本人作家がよくこんな作品を!と驚く出来映え-

 


シエレメチェボ国際空港はモスクワ中心部から北北西約30kmの所にある。私が頻繁にロシアを訪れていた現役時代(2003年~5年)には、空港-市中間の交通手段はクルマ・バスに依るしかなく、いつも渋滞に悩まされた。最大の隘路はモスクワ環状道路とそこから放射状に広がる自動車道のジャンクションである。空港からの道もその一本、少し走っては直ぐ止まるその結合部に、よくTVや映画で見かけるコンクリート製の角材3本を組み合わせた対戦車バリケードを模した巨大なモニュメントがある。ここまでドイツ軍が侵攻してきたことを残すため建設された記念碑である。そこを通過するたび独ソ戦を身近に感じた。本書の主人公が住む村は、遙かにモスクワから遠い北方にあるが、その村もドイツ軍に蹂躙され、母を含む全村民が虐殺されるシーンから始まる。

本書は、極めて珍しい、日本人作家による、日本も日本人もまったく登場しない、独ソ戦を舞台とする戦争サスペンス小説である。おまけに、日本では希有なスナイパー(狙撃手)を主役に据えたものである。我が国陸軍に狙撃兵という兵種はなく、射撃成績の優れた者を選抜射手とは呼んだものの、狙撃を専門に扱う部隊が存在したことは無いし、負け戦のゲリラ戦はともかく、戦術としてこれを位置付けることもなかった。こんな世界を若い作家(1985年生まれ)がどう扱っているのか、そこが本書購読の一つの理由である。もう一つの理由は、帯にある「高校生直木賞」である。「これはどんな賞か?」「高校生がなぜこんな戦争小説に惹かれるのか?」にある。

高校生直木賞はおおよそ以下のようなものである。2014年ある文芸評論家である大学

教授が立ち上げたもので、本ちゃんの直木賞候補最終作品(56)を高校生に評価させる方式のようだ。2018年から文科省・文藝春秋社が後援するようになり、基本的に学校毎の公募で集めたものを、この章のために設けられた委員会で最終決定する。どのような講評だったのかは不明だが、本書は2022年大賞受賞作品である。

19422月主人公のセラフィマは18歳、彼女の住む村は自給自足の寒村。父は革命後の内戦の後、帰村はしたものの病で死去、母娘は狩猟で村の生活を支えている。二人で森に出かけ鹿を一頭仕留め村が見えてきた時点で異変に気づく。そこにドイツ兵の姿があったからだ。母は猟銃で指揮官を狙うが、それより早く狙撃兵に射殺される。彼女も捕らえられ陵辱を受ける寸前、赤軍が現われ九死に一生を得る。赤軍の目的は独軍との戦闘ではなく、女性狙撃手のリクルートにあり、その指揮官イリーナ上級曹長の勧めで訓練学校(中央校の下に多数ある分校。イリーナは分校長)に入校する。本書の前半はこの訓練学校での厳しい射撃訓練の様子に割かれる。「なるほど、狙撃手はこのように育てられ、選ばれていくのか」とその訓練課程を学ぶことになる。

イリーナはかつてリドミュラ・パヴリチェンコのパートナーとしてウクライナ・オデッサ、クリミアの要衝セバストポリで戦い、手を負傷したことで後進の指導役になっているが、98名を血祭りにあげたベテランという設定だ。因みに、本書でリドミュラも登場するが、この女性は実在の人物(ウクライナ人、キエフ(キーウ)大学史学科在学中志願)。戦後まで生き残り309名のドイツ兵を倒し、レーニン勲章を受章、ソ連邦英雄となった人物である。

厳しい訓練で入学時の12名の内卒業できたのはセラフィマを含め5名。イリーナを隊長とする最高司令部(RVGK)所属の狙撃兵旅団第39独立小隊を編制、どの歩兵師団にも属さない狙撃専門の特殊部隊として転戦する。

後半はこの部隊のスターリングラードの戦いにかなりの紙数を割いたあと、19454月東プロシャの要塞都市ケーニヒスベルク(現カリーニングラード)の戦いで、追い求めてきた宿敵、母を射殺した独軍狙撃兵ハンス・イェーガーをセラフィマが仕留めて長い戦いが終わる。この時点での射殺数75名、階級は少尉に進級している。

高校生が惹かれた一つは同世代の“少女”にあるだろう。幼なじみのボーイフレンドが勝ち戦の中でドイツ人女性を陵辱するところを射殺する場面が共感を呼んだのかもしれない。

事実との考証がどの程度正確かは不明だが、巻末の参考文献を見る限り、丹念に調査した跡が窺える。直木賞最終候補作品と残っただけの読み応えを味わえる出来映えだった。

 

3) 町の本屋はいかにしてつぶれてきたか

-中小書店に的を絞った「日本書店経営史」と言える本書から、我が国出版ビジネスの病根が見えてくる-

 


中学生時代の行きつけの本屋は「明正堂」。上野広小路交差点近くにあり、経済復興とともに拡張、広げ切れなくなり、春日通りと昭和通りの交差点に新設されたNTTビルの一階に移り、倍する大きさになった。高校時代は松戸駅東口前にあった「堀江良文堂」がそれに代わった。この店も都内に姉妹店を持つようになる。大学時代は学校周辺に書店が多数あり、反って“行きつけ”はなかったが、書店立ち寄りの習慣は変わらなかった。就職して和歌山県有田市で寮生活に入る。最寄駅の初島には書店はなく隣の箕島駅近くに、まったくその通りの「田舎書房」があり、お得意さんとなった。和歌山で初めて知ったのは外商、和歌山市内の目抜き通りにあった「宮井平安堂」が工場まで出向いてきてくれるのだ。支払いは給料天引き、専門書類や硬い内容の単行本はこれで求めた。川崎工場時代は専ら駅ビルの本屋。本社に移るとパレスサイドビル内にあった「流水書房」の個人客としてはかなりの位置になり、高価な本は分割払も認めてくれるほどになった。ここも洋書部をビル内の別の場所に設けるなど、拡大基調だった。そして現在、宮井平安堂を除く書店はすべて消え失せてしまった(宮井平安堂は規模を縮小、文具店を兼ねながら南海和歌山市駅ビル内で営業中と聞いている)。

書籍販売のピークは19956、その額は25千円を超えている。書店数は1997年の22千店が最多、以後両者とも右下がりで、2023年の販売額は、電子書籍を除くと1兆円強、書店数は2024年約1万店に減じている。2010年代に入り、読書離れ、書店消滅に関する書物が溢れだし、本欄でも何冊か紹介、直近では「なぜ働いていると本が読めなくなるか」を取り上げた。これら既刊書に共通するのは、ピーク時以降の衰退を対象とし、比較的短期で、ジャーナリスティックな基調のものが多い。それらに対し、本書は「日本書店経営史」と言ってもいい内容で、町の本屋(中小個人経営書店)に焦点を絞った、本格的な調査・分析報告である。実は、衰退の兆候は1960年代から現われているのだ。

出版業の流れは、出版社→取次→小売書店。この構造の中で書店の粗利益(業界用語では正味)は22%で終始してきた。小売業ではワースト業種の一つである。最大の要因は小売に価格決定権(出版社が持つ)がないことだが、物流や配本の権限あるいは支払い条件を取次に握られていることも大きい。それでも輸送費や人件費が安かった時代は、兼業からの収益も含め(文具など雑貨の粗利は50%)、なんとか経営を維持できていた(戦前は特運制度で送料は格安だった)。この収益構造を改善するためには、本の価格アップと出版社・取次の取り分の一部を小売にシフトすることだが、零細な多数の店を一つにまとめ交渉することは不可能だ。出版社は時代が下るに従い低価格指向が強まる(新書、文庫、マンガ、雑誌)。このような収益構造が物流コストや人件費上昇で、多くの中小書店の経営を圧迫、倒産・廃業に追い込まれているのだ。

経営実態もう少し掘り下げると、種々の問題点が浮かびあがってくる。ものの値段は、一応希望価格はあっても、需給関係で決まることは中学の社会科で習う。書籍の値段もそうあるべきだし、米国では幅を持って売られている。しかし、日本独特の再販制度(出版社が取次に売り、取次が書店に売るためこの名称がある)の下では、出版社が決めた定価以外で売ることが禁じられている。本来これは独禁法違反になるのだが1958年公正取引委員会はそれを例外として認めている。この特例は売れない本の返品とセットになるが、そこにも書店側に負担がかかる仕組みなのだ。

店舗の新設にはどんな業種にも制約があり、1960年代までは書店業界でもこれが守られていた。しかし、先ず新聞スタンドや駅のキオスクで雑誌販売が認められる。仕入れのルートが異なり、書店よりは早売りが可能になる。それにコンビニが加わり、収益源の主力であった雑誌販売が低下していく。これと併行するように大規模小売店法の改定でスーパーでの書籍販売が可能になり、更に中小書店の経営を圧迫する。最後にやってきたのは通信販売、紀伊國屋書店(1989年)や丸善がPC通信で始めたころは、店頭販売を脅かすような存在ではなかったが、最後発のAmazonの進出でとどめを刺される。Amazon成功の鍵は、キャッシュフロー重視(顧客からの引落しと出版社への払込みタイミングの調整)、カスタマレヴューの効果、プライム会員の送料無料サービス、巨大流通倉庫、ポイント付加によるは事実上の値引き。結果としての販売量に出版社・取次も抗しきれず、Amazonフォローに転じる。

今や(202411月)、無書店自治体は28%、書店も図書館もない町・村は31%に達している。

著者が本書で主張するのは、中小書店衰亡はネットやスマフォのせいでそれが起こっているのではなく、本来のビジネス形態の異常に根源があると言うことであり、淘汰の後に時代に即した新しい書店(例えばカフェ併設の兼業書店)の出現を期待して結ぶ。

著者は1982年生まれ。出版社で編集業務に携わったのち独立。出版産業に関する調査・執筆活動を行っている。

本書は先に述べたように、「日本書店経営史」といえるユニークな内容。その点は大いに評価するのだが、援用情報源が多種多様かつ多量で、報告書としてはともかく、読み物としては少々くどいことが難点だ。

 

4) ロシア政治

-権威主義統治は「ロシアの国民性」説に挑戦、多角的な政治システム分析で、この通説を覆す、若き研究者の注目すべきプーチン統治の実態-

 


200312月、私はヴォルガ河中流域の工業都市サマーラからさらにクルマで南へ30分ほど行った所に在るユーコス石油クイヴィシェフ製油所にいた。10月に実施した、IT活用度調査の分析結果を報告するためである。この日は日曜日、前日から宿泊している製油所のゲストハウスで朝食を摂ると、雪は積もっているものの、好天の明るい陽に誘われ散歩に出た。休日なのにわりと人が出ているのは、この日が大統領選挙投票日だからだ。彼らについて行くとそこは学校、投票所は日本同様だった。帰途キオスクのような店の前で同行している通訳(英露)のGに出会った。タバコを買いに来ていたのだ。ゲストハウスへの帰途、大統領選について話し合う。「投票はどうしたのか?不在者投票をしたのか?」と問うと、「プーチンが当選に決まっている。私もプーチン支持だから、行かなくても結果は希望通りになる」と返ってきた。そして、ソ連崩壊後エリツィン政権までの間の、旧共産党幹部による国有財産収奪・私物化の酷さを語り、2000年のプーチン大統領就任後、それが徐々に正されていることを高く評価した。

実は、この時の旅は、この製油所を含む、いずれもユーコス石油傘下のシズラン、ノボ(新)クイヴィシェフの3製油所を訪ねるものであった。そして、ユーコス社はソ連崩壊時、かつてコムソモール(共産主義青年団)幹部であったミハイル・ホドルコフスキー(モスクワ化学技術大学出身)が手にした国営製油所から成るものであり、プーチン大統領第一期、オリガルヒ(どさくさ成金)退治の標的の一つとなって、前回訪問時(10月)脱税の罪を問われている状況下にあった。「製油所へ行ったら絶対大統領選を話題にしないこと」。これが事前に与えられた警告であった。本書の中で、このプーチン対ホドルコフスキーも取り上げられている(ホドルコフスキーは有罪・収監、8年の刑期を終え英国に亡命。その間ユーコスは当時はるかに規模の小さかった国営石油企業ロスネフチェに吸収され消滅)。

ロシアで仕事をするようになって以降、時に触れてその政治体制やプーチンに関する本を読んできた。それらの知見から見たとき、本書は最もソ連崩壊後の政治環境変化を、包括的かつ冷静に、まとめ上げた価値ある一冊といえる。特に、時代と読者におもねるようなジャーナリスティックな筆致をまったく感じさせないところを評価する。

著者は1990年生まれ。東大法学部から大学院博士課程に進み(法博)、この間2016年~18年サンクトペテルブルク大学・カリフォルニア大学バークレー校に留学、ウクライナで現地研究も行っている。専門は比較政治学・旧ソ連地域研究。現在大阪大学大学院法学研究科准教授。本書の素は科研費対象研究にある。

先ずソ連崩壊直後から直近のウクライナ戦争に至る、ロシア政治の変遷を概観した後、2000年プーチン大統領誕生以降のそれを多角的に分析する。多角的と言うのはプーチン個人よりは広義の政治制度に力点を置いているとの意である。それは;国家を統治する主要機関(大統領を含む)やその運営の仕組み、政党と選挙、中央と地方の関係、政治と経済の関係、法執行機関(軍、警察・検察、諜報機関など)、市民社会とプロパガンダ、などに分類され、それぞれを詳述する。中でも、政党と選挙、中央と地方の章で教えられることが多かった。

プーチン支持率はウクライナ戦争開戦前(20221月)に69%だったものが2024年には85%に上昇、今や「プーチンなしのロシアなし」の状態。戦時の愛国心だけでこの数字は得られない。エリツィン時代の混乱を鎮める段階から各種統治制度の改革まで、大統領職権を強める施策を巧みに打ってきたことが、この数字につながってきているのだ。

その人気の根源を著者は3点に要約する。11990年代の混乱(民主制に対する懐疑)からの回復、2)経済成長(原油価格上昇が寄与)、3)大国としてのロシアの復権、がそれらだ。そして、権力確立が、単に抑圧だけでなく抱き込み・懐柔策(例えば、人事、利権)をも巧みに組み合わせることで、反プーチンを封じ、人気維持をもたらしていると見る。そして「プーチンが指導者としての座を降りても、ロシアの権威主義体制が変化する可能性は低い」とし「より長いスパンでロシアの政治体制を考えるべき」と結ぶ。

 

5) 次期戦闘機の政治史

-米国一辺倒だった新戦闘機導入、それを破る日・英・伊による共同開発が始まる。並行して進む米第5世代戦闘機F-35の大量導入。政治はどう動いたか-

 


大学へ入学した年(1958年)、航空自衛隊(空自)の次期戦闘機をめぐり、ロッキード(F-104)対グラマン(F11F)の論争が起こっていた。一度はF11Fに内定していたが、F-104が巻き返したのである。これを決着させるため、源田実空自幕僚長を団長とする派米調査団が編成され、それに今も親しく付き合っている、クラスメートの父親がメンバーの一人となった。この人は元海軍技術中佐、この時は運輸省(現国土交通省)航空技術研究所所長だった。調査団が選んだのはF-104。あの逆転劇に政治が絡んでいたことは間違いないが、その真相を知ることはなかった。本書の出版を知ったとき、「もしやあのときの経緯が・・・」と期待して購入したが、そこまで歴史を遡るものではなく、これから始まる、日・英・伊による第5世代戦闘機(F-3)共同開発と既に部隊配備が始まっている米国ロッキード・マーチン社製F-35に関することが主題だった。

最近の戦闘機は高性能ゆえに高価でもあり多用途化傾向にある(空・海共用あるいは戦・爆兼用のように)。しかし、大別すると空戦を主体とする制空戦闘機と対地支援を主眼に置いた近接支援戦闘機の二種となる。現在の空自ではF-15(イーグル)とF-4(ファントム)が前者でF-35F-4の後継。日米共同開発のF-2が後者となる。残念ながら、我が国に世界最先端を行く制空戦闘機を独自開発する力はなく、先のF-104、続くF-4F-15、そしてF-35と米国製をライセンス生産するに留まっている。

しかし、対地支援戦闘機ではエンジンこそロールスロイス(英)/チュルボメカ(仏)共同開発のアドアーを採用したものの(IHIでライセンス生産)、機体は三菱重工が開発、F-1として空自に採用され、1977年量産機が初飛行、2006年まで運用されている。この後継機として1980年代半ばに計画検討を始めたのがF-2F-1の実績を踏まえ、エンジン開発も含め純国産を目指すが、貿易不均衡にあえぐ米国がこれに待ったをかけ、結局日米共同開発の名の下、ジェネラルダナミック社(GD)製F-16戦闘機をベースにしたF-2開発が決まる。4章から成る本書ではこのF-2開発における“不平等条約”もどきの共同開発実態解説に1章を割く。技術経営という視点からはこの章が最も読み応えがある。誤解なきよう付記すれば、F-2は目的に適った戦闘機として空自内の評価は高い。また、ベースとなったF-16NATO諸国や韓国など多数の国に導入されている。

このF-2の後継機が日・英・伊共同開発のF-3。過去すべての戦闘機を米国に頼ってきた空自、安全保障と国際政治の根幹に触れる案件だけに、ここに至る経緯解明は、次期戦闘機問題を深耕するため、米国特派員を志願し実現した著者の熱意がフルに伝わってくる部分だ。独自開発、日米共同開発、米国を除く他国との共同開発、の3案を俎上にあげ検討が始まる。支援戦闘機とはいえ戦闘機開発には膨大な資金を要する。独仏も共同開発を既に開始しており、独自案は最もハードルが高い。米国との共同開発はインターオペラビリティ(共同運用)の観点で最有力だが、F-2のトラウマが拭い去れない。それでも無視することはできず、サウンディングしてみるのだが、なぜか積極的に乗ってこない。米空軍はこの種の機種に無人機を優先させる考えなのだ。英国はユーロファイター・タイフーンの後継機テンペストを検討中、そこから提携条件の良い秋波が送られてくる。それにイタリアが加わる。こうして202312月三カ国は共同開発に関する首脳声明を発して計画が動き出すが、そこに武器輸出規制問題が生起する。公明党が反対するのだ。種々縛りを入れた上で了承するものの、これが将来日本の弱みなる可能性が残る。

F-3と並んで政治絡みで論じられるのは制空戦闘機F-4の後継機。空自・自民党は最新鋭第5世代戦闘機、ロッキード・マーチン社製F-22250億円?)の導入を切望するが、米空軍内・議会に技術流出を危惧する声が高まり、交渉は進まない。加えて、高価なことから議会・国防総省は米軍への調達さえ減ずる方向に向かい、ついにオバマ政権下生産中止の断が下される。これに代わって米国が勧めてきたのがF-35(オランダ、イタリアなどが開発に協力。100億円)、海洋に囲まれた我が国には航続距離に難があるものの、代替はなく、次期戦闘機に決する。折しもトランプ政権下、安倍首相の決断は彼を喜ばせる。次の問題は護衛艦「いずも」型の空母への改修計画(「かが」を含めて二艦)とF-35Bの導入。B型は垂直・短距離離着陸が可能なので、母艦に搭載することで島嶼防衛における即応戦力強化につながる。これも公明党の反対を文言修正や運用規制でなんとか乗り切る(例えば、多用途運用母艦→多用途運用護衛艦。常時戦闘機は搭載しない)。最終調達数はAB合わせて147機、147百億円になる。

著者は1970年生まれ。NHKに入局、政治記者、ワシントン特派員、解説委員を務めた後20254月退職。本書の情報源は記者時代の活動(番組制作を含む)にあり、自衛隊幹部(空自幕僚長を含む)や重要政策立案検討に関わった政治家へのインタビュー内容が随所に援用され、一連の次期戦闘機の問題点や決定の過程が臨場感をもって伝わってくる。

 

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