ラベル 海外、人 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 海外、人 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2013年5月25日土曜日

遠い国・近い人-28(友朋自遠方来 不亦楽乎-9;シンガポール)



横浜駅での再会は10時半、インターコンチネンタルのランチは11時半からなので、少し時間がある。先ず出かけたのは横浜高島屋である。若い女性には興味があるだろうとのとの読みからである。確かにJiayingは高島屋だけではなくそごうが在ることも知っていた。しかし、ここで彼女の関心事に付き合うと時間のコントロールが大幅に狂う恐れがある。「買い物は帰りにね」と言うことにして、予め計画していた雛人形の特設展示場に直行する。女児のお祝いであることと併せて、種類・大きさ・値段その違いに質問続出、全員で話が出来る良い交流の場が直ぐに出来上がった。
次いで地下鉄でみなとみらい駅に向かう。駅からホテルまでは長い回廊がありそこには日揮の本社も在る。アルジェリアでのテロ事件は石油関係者には身近な話題だ。彼らもこの事件をよく承知しており、これも共通に語れる材料だった。
ホテルは回廊の先が海に接する所にある。予約をしておいたので席も港が望める窓際に用意されていた。Jiayingのアレルギー体質を慮って決めたビュッフェスタイルのランチは、料理の種類も豊富で、あれこれお気に入りを運んできては食べていたが、ことのほか気に入ったのはカボチャである。自分の分だけでなくIt Chengの分まで取ってきて、二人で「甘くて美味しい」と感激している様子。聞けばシンガポールにも最近は日本の食材(特に野菜)が出回っているようだが、質の高さが評価される一方、値段も高く気軽に口に出来ものではないらしい。意外な発見であった。
ランチが終わったところで次女は仕事のために皆と別れければならない。話は専ら次女の仕事・生活に転じていく。若い女性が中心に会話が行われると席が華やぐのが良い。
やがてランチはお開きとなり、JiayingIt Cheng、家内と私の4人で中華街に向けて散策することにした(路線観光バス;赤い靴号があることも説明したが)。先ず旧貨物線を遊歩道化した道を辿って赤レンガ倉庫地区へ向かう。広場では高知の物産展が開催されており、そこに坂本竜馬像が置かれている。It Chengは漢字がかなり分るので、説明文から日本近代化のヒーローの一人であることを理解しJiayingに説明している。
ここからさらに大桟橋に向かう。幸い風もなく午後から日差しも強くなり、2月初旬としては暖かい。見るとコートを既に脱いでいるにもかかわらず二人とも薄っすら汗をかいている。Jaiyingが少し参った感じなので「大丈夫か?」と問うと「暑いのでどこかで衣服を整えたい」と言う。大桟橋の化粧室近くのベンチで着替えをするのを見ていると、寒さへの備えが我々とかなり違うのだ。厚手のウールのシャツ(下着?)を直に着ているので、汗が吸収されないだけではなくチクチクしているらしい。とにかく下に着ているものを減らし、大桟橋のユニークなデッキを巡り微風に当ると元気回復。さかんに親子で写真を撮っている。
最後は山下公園を抜けてニュー・グランドホテルに至る。ここの喫茶室はホテルが増改設された後も昔のままで、クラシック・ホテルの趣を今に残す。時刻は3時、アフタヌーン・ティを楽しむのに相応しい。英国伝統のこの習慣を私が初めて知ったのは1975年のシンガポールだった。その話をここでするのも今日の計画の内。話はそこから横浜訪問の印象、日本の観光地におよんだ。「次回日本に来るときは是非初めのプラン通り大阪に泊まり、京都・奈良を」と助言したところ、Jiayingから返ってきた言葉は「今度は北海道へ行きたい!」だった。理由は、乳製品やジャガイモが美味しいとシンガポールでは評判だからだと言う。It Chengはこんな娘の応対をニコニコ眺めるばかり、どうやら海外旅行に関しては娘唱父随のようであった。中華街見物は地下鉄に乗る前朝陽門の写真を撮るだけで済ませ、横浜駅へ戻り高島屋に再度立寄った。ここでも主役は当然Jiaying、買い物はお菓子に集中。どうやら職場の同僚や友人たちへのお土産らしい。It Chengも私も彼女に付いて廻るだけだった。
ささやかな国際交流が確実に子供たちの時代に移っていくのを見るのは、ちょっと寂しい気もするが、Jiayingの日本を見る目に触発されることも多く、この世代代わりをこれからも継続していきたいと切に思った13年目の再会であった。
(写真はクリックすると拡大します)

(完)

2013年5月19日日曜日

遠い国・近い人-27(友朋自遠方来 不亦楽乎-8;シンガポール)



29日(土)に会うことは決まったが、何処で何をするかについてはその後もメールのやり取りが続いた。どうやら今回はツアー参加ではなく単独行らしい。宿泊先は“ホテル・グランドフレッサ赤坂”、聞いたことも無い名前。調べてみると相模鉄道系のビジネス・ホテルであることが分る。何処を案内するか?何時何処でどんな食事にするか?特に食事に関しては、前回の来日でJiayingがほとんど我が家で用意した食事に手を付けず「カップラーメンがいい」などと言い出して、皆を唖然とさせたことが思い起こされ、くどくこの点を質した。折り返しのIt Chengのメールではっきりしたことは、「Jiayingはアレルギー体質で食事には自宅でも気を遣っている。肉類は白身;例えばチキンはOK。魚は銀鱈、マグロ、カンパチ、ハマチ、鯖なども問題ない。アレルギーが出るのは貝類・えび・蟹・烏賊」と言うことであった。家内ともども「そうだったのか!」とあの時の言動に納得した次第である。夜にするか昼にするかは我が家の次女のスケジュールでランチに決まった。
東京・横浜の交通事情に慣れていない彼らを慮って「ホテルに迎えに行くよ」と伝えたが「調べて行くから大丈夫」との返事。それでも心配なので手書きの地図と待ち合わせに適当な電車の時刻表を添付して、横浜駅での再会を約した。到着した6日夜無事着いたこと、指示に従った電車で出かけるとのメールが入った。あとは当日異変が起こらぬことを願うばかりである。
異変が起こるのはこちらの方であった。9日昼は充分時間があると言っていた次女が「当日取材が入り平塚に1時半までに行かなければならない」と言ってくる。手際よく彼らと昼食を済ませるには横浜駅周辺が好ましい。またJiayingの体質を考慮すればビュッフェ・スタイルが無難である。早速西口駅前の横浜ベイシェラトンのランチを予約しよとしたが、既に満席との返事。やむなくみなとみらいのインターコンチネンタルホテルに空きを見つけ、観光ルートの調整も行う。
当日寒さは厳しかったが幸い晴れだった。待ち合わせ時間(10時半)前に横浜駅に着き、観光案内所で英文のガイドマップを入手して、彼らと次女を待っていた。最後にIt Chengとシンガポールで会ってから14年を経ている。お互いの変化を考えると、直ぐには見つけられないのではないかとの不安もあり、私の相貌については「白いあごひげを伸ばした髪の毛の薄い老人」としておいた。この助言はどうやら適切だったようで、こちらより先に先方が私を見つけてくれた。It Chengは髪に白いものが混じってはいるがそれほど変化はない。しかしJiayingは背も高く完全にレディに変じており、一人なら見つけられなかったろう。とは言っても直ぐにあの甘えん坊でマイペースの幼い日々のJiayingが戻ってくるのだが。
駅での立ち話では「昨日は日光に行ってきた」とのこと。ホテルあたりで用意する現地参加ツアーかと思いきや、何と自分たちだけで出かけたのだと言う。「陽明門も素晴らしいが、雪山を見たのははじめて!」と興奮気味に話し出した。どうやら冬の日本を堪能するのが東南アジアの人達(特に若い人)の間でブームになっているようである(確かにTVでそんなニュースを見たような気もするが)。この話は横浜観光最後の休憩場所、ニューグランドホテルのティールームで再び話題になる。

(つづく)

2013年5月11日土曜日

遠い国・近い人-26(友朋自遠方来 不亦楽乎-7;シンガポール)



1999年以降も年賀状やメールの交換は続いた。Cheah家の方も我が家もいろいろな変化があった。2003年私は9年務めたSPIN社長を退いた。横河グループにいくつもあった情報サービス会社の整理統合で、SPINは他の3社と合併、横河情報システムが誕生したからである。この後横河本社の海外営業部顧問となり、主にロシアの市場開拓に当たっていた。私が東燃時代と全く縁のないロシアに出かけたように、彼も東レデュポン・シンガポールの事業が合成繊維だったから、そのユーザーが多い印度やパキスタンに出かけていた。
家族の方も状況は刻々変わっていた。夫人のRubyが国立図書館を定年退職していた(彼より随分早いのは姉さん女房か?;未確認)。しかし、彼女の経験は貴重なもので引き続きパート職員として以前と変わらぬ勤務を継続していた。両家とも子供たちは大学進学、更には就職、結婚と両親以上に大変革を遂げていたのである。
2007年、私は45年にわたるビジネスマン人生に別れを告げ、念願だった英国での“OR歴史研究”にあたることを決意、その年の賀状でそれをIt Chengに伝えた。折り返し来た便りには「Jiayingがインペリアル・カレッジを卒業し、エッソ・シンガポールに就職した」というものだった。彼女は父親と全く同じコースを歩むことになったのだ。そして、それは我が家も同じだった。大学・専攻は違うものの長男は東燃に就職しやはり川崎工場で、彼女より一足先にオイルマン人生をスタートさせていた。これでCheah家と我が家の関係は2代続くことになった。残念ながら若い二人が、グループ内での教育訓練や技術会議で一緒になることはなかったが奇縁である(昨年エクソン・モービルは東燃株を大量に売却、それに伴い技術提携も解消されたので、もうそのチャンスはない)。
2008年、賀状で英国生活を伝えると、「もう直ぐ自分も引退する。そうしたら唯一の肉親である姉を訪ねたい」とあった。これは今回の来日で詳しいことが分ったのだが、姉さんは結婚後早くに、両親(既に故人)と彼をシンガポールに残し英国に渡り、彼が留学中は彼の地で大いに頼りになる存在だったらしい。現在は英国籍でケント州に在住、既に80代だが元気に暮らしているとのこと。
その後も賀状の交換は続くが「もう直ぐ引退」と言っていたわりには、それは直ぐには実現しなかった。11年の大震災の直後には「被害はないか?」とお見舞いメールも送られてきた(これは彼以外にも随分あり、原発事故を含めた少し詳しい説明文を作り、返事として送った)。
昨年は家族の不幸(義母と妹の死去)があったので、今年の近況報告はメールのみにした(クリスマスカードが送られる前と考え12月初旬に発信)。これに対して、元旦It Chengから返事が来た。そこには「昨年4月に引退した」とあり、これからは時間が自由になるので、日本を含め各地を旅行したいとあった。「まあ、挨拶代わりだろう」くらいに受け取っていたところ、1月中旬「Jiayingが日本旅行を一緒にしようと言ってきた。彼女は大阪を中心にした計画を考えているようだが、折角の機会だから東京訪問にし、横浜も訪れたい。2月初旬の都合はいかが?」との内容。「一番寒さが厳しく、観光には適さぬ時期に何故?(多分旧正月の休み)」と思いながらこちらの都合を急ぎ返信すると、「26日~11日で訪問する」と折り返し返事が来た。今回はRubyは同行せず、父娘の二人旅、ツアーではなくこちらに来てから適宜観光先を決めるとのこと。結局29日(土)に横浜で会うことになった。

(つづく)

2013年5月7日火曜日

遠い国・近い人-25(友朋自遠方来 不亦楽乎-6;シンガポール)



1997年に入ると、東燃経営へのエッソ・モービル(合併前;EMと略す)の考え方がはっきり変わってくる。新規事業や子会社を整理し、本業回帰の石油精製・石油化学に注力すべきだと言うのである。
私が経営責任を負っていた東燃システムプラザ(SPIN)は順調に業容を伸ばしていたし、グループ内依存の割合は着実に減ってきていた。大株主であるEMはそれまで“グループだけに依存しない”、“グループ向けサービス価格は市場ベースであること”を求めており、この要求はクリアーしていた。経営計画で2000年を目標とした(店頭)株式公開もトンネルの先に明かりが見えてきていた。しかし、この“株式公開目標”が“本業には不要”と解釈され、SPINの整理が密かに検討され始める。結局翌19985月横河電機に株式が譲渡され、100%横河電機の子会社となった。
1999年の年賀状でそのことをCheah(謝)家に伝えると、旧正月に二つの話題が記された賀状が届いた。一つは夫人のRubyが癌にかかり手術をし、経過は良好であること。二つ目は、東レデュポンに移ってから業界の規格委員会のメンバーになり、今年は東京でその関係の会議・セミナーが開催されるので出かける計画がある、と言うものだった。
今回It Chengは夜も会議参加者などとの付き合いがあり、ユックリ食事を伴に出来ないようだったので、6月初旬来日すると、昼の休憩時間に会議会場(機械振興会館;東京タワー下)に彼を訪ね、大学生になっていた次女も同席して東京プリンスホテルでランチを摂りながら家族や仕事の近況を話し合った。かつてエクソン・グループの仲間として知り合った二人は、15年経て共通の企業基盤は無くなったものの、話の材料はいくらでもあった。
横河グループ入りしたSPINの役割は、そのユーザー・バックグランドを生かして、1997年横河がぶち上げた新経営戦略;ETSEnterprise Technology Solutions)と呼ばれる、IT利用による顧客(主に装置産業;石油・化学・食品・薬品・紙・鉄鋼など)への問題解決サービスの提供であった。国内市場で始めたこのサービスを、次は東南アジアでも展開したい。横河のその地域の拠点はシンガポールに在るので、20001月そこで社内向けにSPINとそのサービスを紹介するセミナーを開催することになり、私が出かけることになった。It Chengに連絡したことは言うまでもない。
地元シンガポールのほか、タイ、マレーシアから十数名のスタッフが集まり、全体セミナー、個別案件相談など三日間を彼の地で過ごした。夜の会食もメンバーと伴にしたが。最終日の夜だけはこちらの願いを聞いてもらい自由行動を許してもらった。
今回ホテルに車で迎えに来てくれたのはIt Cheng一人、Rubyは別の予定があると言う。案内してくれたのは1994年両方の家族で会食した島の南岸を走る高速道路沿いのシーフード・レストラン。彼もそのことは承知していて「同じだが、自分たちが一番好きな食事処だから」と説明してくれた。仕事に追われた毎日のあとにはカジュアルな感じで、地元の家族が集う、こんな場所がこちらにとっても有り難かった。残念なのは彼が酒を飲まないことである。
話はいつも仕事と家族。特に今回は一人娘のJiayingがテーマ。「Jiayingはどうしている?」 例年なら年賀状が近況を知らせてくるはずだが、この時は旧正月前なので彼女の不在が気がかりだった。私の質問を待っていたように「Jiayingはインペリアル・カレッジ(ロンドン)に進学したんだ。それも化学工学だよ!僕と大学も専攻も同じなんだ」受験生を抱えた親の気持ちはどこも同じ、この時ほどそう思ったことはない。
帰途「ちょっと家に寄っていこう」と今まで行ったことのない地域に向かう。シンガポールの一般的なビジネスマンは高層のアパート団地に住んでいる人が多いのだが、彼の住まいは、静かな環境で家も二階造りのコンドミニアムである。Rubyは帰っていないようだがが、どうも人の気配がする、お茶を持って来てくれたのは住み込みのメイド、フィリッピン人だと言う。エリート階級なのである。
その後、賀状やメールのやり取りは続いた。一昨年の大震災後も直ぐに見舞いのメールがきた。そして今年2月、13年ぶりに会うことになる。

(つづく)

2013年4月25日木曜日

遠い国・近い人-24(友朋自遠方来 不亦楽乎-5;シンガポール)



我が家のシンガポール訪問から2年後、1996年今度は彼らが家族で日本を訪れる機会がやってきた。丁度Jiayingが中学に進学する時で、その休みを利用して東京ディズニーランドを楽しむための旅だった。彼らにとって初めての日本訪問、こちらも先年のホスピタリティに応える準備を整えて迎える必要がある。国内PC通信は自宅から出来る環境にあったものの、いまだインターネットは普及していなかったから、スケジュール調整は双方とも会社のファックスを介して行った。その結果分ったことは、今回の来日はシンガポールの旅行社が企画したツアーのメンバーとして参加するので、自由行動がかなり制約されることだった。結局最終日(日曜日)の自由行動日を我が家訪問と決めた。
当時我が家は横須賀市の久里浜に在った。時間はかかるが、都心からは東京駅で横須賀線に乗れば乗り換え無しで来られるし、外国人案内に適した横浜や鎌倉に寄るとしても同じことである。It Chengは「ホテルで乗り物とルートを確認して、自分たちだけでそこまで出向く」と言ってきたが、彼らの宿泊場所が池袋のホリデーインと知って「チョッと無理かな?」と感じたので当日の朝ホテルまで迎えに行くことにした。
ホテルのロビーで久し振りに再会した時驚いたのはJiayingの背丈が伸びたことである。母親のRubyと変わらない。しかし、既に訪れたディズニーランドの話になると以前の甘えん坊の子供に戻って幼さは変わらない。「今日の立ち寄り場所は鎌倉だが楽しんでもらえるかな?」と不安が過ぎる。池袋から山手線で品川に出てそこから横須賀線に乗るのだが、帰りは彼らだけになるので、乗り換え要領を確認する。日曜日午前の横須賀線下りは横浜・鎌倉方面へ向かう行楽客で混んでいてすぐには座れない。何とか横浜で座れ、保土ヶ谷・戸塚間では東燃の社宅がこの辺に在り我々家族もそこに長く住んでいたことを説明する。
やがて北鎌倉に到着。観光客で溢れる小さな改札を出て直ぐに円覚寺に入り、次いで建長寺に向かう。さすがに大人は二人とも、他国の仏寺(中国寺はシンガポールにも在る)にはない幽玄な雰囲気に感じ入っている様子だが、予想通りJiayingは今ひとつ。しかし、そんな彼女も八幡宮まで来ると生き生きしてくる。境内には沢山の屋台が出ているし、社務所にはお守りや絵馬、破魔矢などが並んでいる。矢継ぎ早の質問に答えるのも大変だ。クライマックスは鎌倉駅に向かう、お土産物と食べ物屋が狭い通りに軒を連ねる小町通りを抜けるときにやってきた。後の予定(我が家で遅めのランチパーティ)のために彼女の好奇心を殺ぐのが大変だった。
鎌倉から逗子を経て久里浜に向かう横須賀線はそれまでとは様変わりでがら空きである。終着のJR久里浜駅前は商店も皆無だ(京急側が中心)。多分彼らの心の内は「こんな遠くの田舎に住んでいるのか!」であったろう。しかし、そんな日本のサラリーマン事情を知ってもらうのも外国人との家族交流には意味のあることだと思っている。
我が家では既に家を出ていた長男も加わり、Cheah一家3人を含め8人で食事をしながら歓談した。このときの料理の内容は、南方の人は生ものに弱い人もいることを考慮し、揚げ物・煮物・焼き物を主体にした日本食を用意した。両親、特にRubyはさすがに主婦でもあるから大いなる関心を持ってこれを楽しんでくれたのだが、Jiayingだけがどうも食が進まない。「何か食べたいものはあるか?」と聞くと「カップラーメン」という答えが返ってきて、我が家全員を唖然とさせた。この答えに深い意味があることを知るのは、それから17年を経た本年の来日まで待つことになる。

(つづく)

2013年4月19日金曜日

遠い国・近い人ー23(友朋自遠方来 不亦楽乎ー4;シンガポール)



インドネシア行きの後も、1991年オーストラリアのアデレードで開かれた富士通の世界ユ-ザー会参加の際、途上シンガポールを訪問している。目的は情報サービス・ビジネスの情報収集を兼ねて当時出来たばかりの東燃シンガポール事務所を訪れることだったが、一夕It Chengとも会食した。この時の雑談で私の将来について夢を語った。それは60歳前後で独立し、シンガポールにオフィスを開いて、石油精製・石油化学のITコンサルタントをやりたいと言うものだった。この話を聞いた彼の反応は「いつから始める予定だ?出来るだけ早くできるといいが・・・」と言うものだった。どうやらエッソ・シンガポールの仕事・処遇に満足していないようにとれた。
今でも十数人の海外の友人たちに近況を伝える手製の年賀状を送っている。It Chengからは旧正月頃に必ず返事が来て、家族や仕事のことが手短に書いてある。1993年の手紙に「エッソを退職し東レデュポン(シンガポール)に移った。ここのところ米国への出張が多いが、日本に行く可能性もありそうだ」と伝えてきた。しかしなかなか来日のチャンスは来なかった。
19943月、次女の高校入試が終わり、長女は大学生、長男は4月から社会人。私自身は頻繁に海外に出ているものの、家族全員揃って海外旅行などしたこともない。この春休みが唯一のチャンスかも知れない。幸いSPINの経営は順調。株主総会前に出かけよう!こう思い立ってマレーシア・シンガポールの旅に出かけることにした。It Chengに連絡したことは言うまでも無い。「家族で交流するなんてエキサイティングだ!」と喜んでくれた。
日本の3月はまだ寒い日もある。コート類は成田で預けて南国へ向かった(今年2月来日した彼らは、逆だから自国では必要の無い冬着でやってきた)。
旅程は帰りの夜行便1泊を含め67日;先ずクアラルンプールへ飛ぶ。夜現地に着いてみて分ったことは、ツアーメンバーは我々家族だけだったことだ。ガイドを含め6名、移動はマイクロバスで充分。クアラルンプール観光一日(2泊)、次の日は高速道路を利用してマラッカまで(1泊)、そこから鉄道でジョホールに向かう。ジョホールからは徒歩でシンガポールに入国。するとそこにまたマイクロバスが待っている。シンガポールのホテルは“リージェント”、オーチャード通りの北に在るが、シャングリラがやや東にあるのに対してここはやや西にある。最初の晩は他の日本人ツアー一緒にマンダリンで夕食だったが、次の夜はCheah一家とのディナーなのでツアーの食事はパスした。
夕方家族と伴にクルマでホテルにやってきたのは、It Cheng、夫人のRuby、一人娘のJiaying(小学生)の3人。夫人はシンガポール大学出の才媛で国立図書館の司書(因みにIt Chengはインペリアル・カレッジ(ロンドン)で化学工学を専攻)。一台のクルマに全員は乗れないのでタクシーにも分乗して向かったのは、チャンギー空港から市内に向かう海岸道路沿いにあるシーフードレストラン。中華スタイルの海鮮しゃぶしゃぶのような料理を皆で楽しんだ(It Chengは酒を飲まないので飲んだのは私一人)。双方の子供を交えた外国人との交流は今まで経験したことがなかったが、歳の差はあるものの何とかコミュニケーション出来ており、楽しい時間を過ごすことができた。
翌日は夜行便なので遅いチェックアウト。ツアーの夕食は空港のレストランに用意してあった。風邪気味だった次女は体調不良で夕食はいらないと言う。送りに来てくれたIt Chengが彼女の相手をしてくれた。彼女のアジア人好きはこの時のIt Chengの気遣いが影響しているのではないかと思う。

(つづく)

2013年4月11日木曜日

遠い国・近い人ー22(友朋自遠方来 不亦楽乎ー3;シンガポール)



1984年のシンガポール行きは1975年以来9年ぶりだったからその変容は顕著だった。前回は港湾地区とオーチャード通りを除けばそれほど高層建築は無く、古いチャイナタウンやマレー人居住区がまだそここに残っていた。今回はさすがに駐車場に屋台が並ぶ“カーパークレストラン”は消え失せ、僅かに面影を残すのはニュートンサーカスの屋外レストランくらいだった。そんな所を楽しむのは専ら外国人ばかり。ある一夜池田さんも含め食べかすを地べたに蹴散らかしながら異国情緒を楽しんだのもRCAの想い出である。どうもシンガポール人はそんな場所を恥部と見ているふしがあった。
RCAの公式ディナーは高級インド料理店で開かれた。夕刻三々五々集まったメンバーにはインド系の人も居る。何やら彼らが落ち着かない。It Chengに「何かあったのか?」と問うと号外のような新聞を見せてくれた。そこに書かれていたことは印度首相“インディラ・ガンジー”の暗殺である。本来は賑やかなパーティもお通夜のようだった。
19855IBMの依頼でジャカルタのセミナーでACSAdvanced Control SystemIBMExxonが開発し東燃が日本で始めて導入した、高度プラント制御システム)に関する講演を行った。翌年の年賀状でそれをIt Chengに伝えたところ「何故シンガポールに寄ってくれないのか?次回は是非!」との頼り。残念ながら直ぐにそのチャンスはやってこなかった。
19857月に東燃情報システム部がシステムプラザとして分社化し、東燃グループ外部へのビジネスを手がけ始めていた。その中にはシンガポール製油所へのACS導入支援もあり何名かの技術者が長期出張していた。1987年横河電機からインドネシアの国営石油会社プルタミナの製油所診断の仕事が舞い込み、私がそれに当ることになった。長期出張者の状況把握・慰労や顧客である製油所への表敬も兼ねて、ジャカルタへの途上シンガポールに数日滞在し、It Chengと再会することにした。
淡路島ほどの島国、工業用地は限られ、エクソンもシェルも製油所は本島周辺の小島に在った。エクソンの製油所が在るのはチャワン島、専用通勤フェリーで渡るのだ(現在は全て橋で結ばれている)。先ずIt Chengのオフィスを訪問、製油課長だが広い専用オフィスに専任の女性秘書も居る(この辺りの処遇はこの後訪れたインドネシアや、後年訪問したロシアなども同じであった)。日本の課長職とは大違いだ(韓国は日本スタイル;課長は一般従業員と同じ大部屋)。
この時はIt Cheng表敬訪問の他、長期出張者との懇談、工場見学、夜はIt ChengEREからの派遣者を含めた懇親会などで過ごした。It Chengの話で印象に残るのは、私がこれからインドネシアに行くと言うと、チョッと眉を顰めて「ジャカルタは汚い!食事には特に気をつけるように!」とコメントしてくれたことである。直後にジャカルタを訪れた時、クリーンな都市国家に変貌し、海外にもそれが知られるようになったシンガポールから見る彼のコメントに納得した。しかし、饐えた臭いのする裏通りは西欧人を含む外国人で賑わっており、その光景は1975年のシンガポールのチャイナタウンやインド人街を髣髴させるものだった。
横河の仕事は11月にもあり、この時は帰路シンガポールに寄ってIt Chengと会食「確かにジャカルタとシンガポールは清潔さでは段違いだね」などと語り合った。

(つづく)

2013年3月22日金曜日

遠い国・近い人-21(有朋自遠方来 不亦楽乎ー2;シンガポール)



当時(1984年秋)東燃はTCSTonen Control System;プラント運転制御システム;IBMExxonが共同開発したACS、高度制御システムと横河電機製DCSCENTUMの組合せ)プロジェクトが和歌山工場で一区切りし、国内で日本IBM とその販売ビジネスを推進していた。IBMはこれを世界に広げたかったし、東燃としてもExxonグループの中でACSの普及を願っていた。このRCARefinery Computing Activity)ミーティングはそれをPRする絶好のチャンスだった。いくつかの適用事例紹介の内でも、特にここは力を入れて発表するよう準備してこれに参加した。
ところが、東燃の発表に先立って、ゼネラル石油のIKDさん(プロセス技術課長)がHoneywellExxonERE)が共同開発したPMXの堺工場への導入状況について発表を行い、制御アプリケーションばかりでなくシステムやHoneywellのサービスについても、極めて優れたものであることを、参加メンバーに訴えたのである。EREから参加していたプロセス制御技術課長のオランド氏もそれを強くサポートするコメントを加えたので、PMXへの関心が一気に高まった。
実は、Exxonグループの中で“ACSPMXか”は極めてデリケートな状況にあったし、TCS選択に関して東燃グループ内でも結論を出すまで、多くの議論を交わしたテーマであった(本ノート-64106“大転換TCSプロジェクト”に詳述)から、質問をはさみ挟みながらPMXの問題点を縷々参加者に説明した。これに対してIKDさんは当然それら(特に、新DCSTDCS3000の開発が大幅に遅れ、一世代古いTDCS2000で動かさざるを得なかった)が実用上問題ないと反論してきた。逆にこの後の私の東燃の発表ではACSの問題点(汎用機を用いるための技術的な難点など)を指摘して、プラント制御に特化したシステムであることと、プロジェクトを一括して請けることの出来るHoneywellの利点を強調して、PMXの優位性を主張する。これに私が反論する。
ミーティングの参加者は、必ずしもプラント運転制御の専門家ばかりではないし、東燃とゼネラルを除く他の国の製油所はほとんどコンピュータの導入実績も無いので、両者の議論に割って入ることが出来るのはEREくらいで、あとは日本人同士のバトルを興味深く見守るばかり。見かねたIt Chengが「面白くて有用な議論だが、時間も来たので」と過熱気味の両者を分けてくれた。
休会に入るとIt Chengが私のところにやってきて、「正直言って私も議論の内容に不明確なところが多々ある。今日の二つの発表の議事録をまとめ欲しい」と言う。「私の見解でまとめていいのか?」と問うと「一番分っているのはMDNさんだからかまわない」と答えるので、私の独断と偏見で議事を総括した。書いた内容は後日訂正もされず配布されたことから、彼が私を信頼してくれていたと信じている。これが彼と今日まで付き合ってこられた最大の要因である。
このことは余ほど彼の記憶に残ったようで、その後会うたびに話題にしては「あれは面白かった!」と笑っていた。

後日談;10数年後、私はシステムプラザ(SPIN)の役員と成りゼネラル石油に保全管理システムや品質管理システムを買っていただいた。IKDさんはこの時堺工場長で、一夜あのバトルを懐かしみながら一献傾けた。二人の間に何も蟠りは無かった。そのことを2000年にシンガポールでIt Chengと食事を伴にしたとき伝えた。

(つづく)

2013年3月16日土曜日

遠い国・近い人-20(友朋自遠方来、不亦楽乎ー1;シンガポール)



 チェー・イッチェンと初めて会ったのは
198410月末シンガポールだった。その彼から今年1月半ばメールが届いた。「娘が日本旅行に招待してくれたので2月初旬そちらに行く。都合はどうか?」と言うものだった。この間何度もシンガポールで、東京で会っているが最後に会ったのが2000年だから、既に13年を経ている。昨年彼も引退し、もう会う機会も無いと思っていたので、驚くと伴に嬉しさ一入。早速「大歓迎!」の返信をした。
198410月末から11月初旬にかけて1週間、シンガポールのマンダリンホテルに在ったエッソ・イースターン(EEI)のトレーニングセンターで第一回Refinery Computing Activity MeetingRCAミーティング)が開催された。やっとEEI傘下の製油所でもコンピュータが使われ出し、一堂に会して情報交換が出来るようになったからだ。参加したのは、東燃(本社、川崎)、ゼネラル石油(本社)、タイ(バンコク、スリラチャ製油所)、マレーシア(クアランプール、ポートディクソン製油所)、オーストラリア(シドニー)、ERE(エンジニアリングセンター;NJ)、ECCS(コンピュータ・通信本部;NJ)、EEI(本社;ヒューストン)それに幹事役を務めるシンガポール(本社、製油所)である。
東燃からは、第一回ということもあり、本社主管部門の課長を務めていた私と川崎工場のプロセス制御アプリケーションのグループヘッド、IJMさんが参加した。私にとってシンガポールは、1975年以来9年ぶり、その変容は著しいものがあり、空港・道路・ビルいずれをとっても昔の面影はなく、この地の発展が急速に進んでいることに驚かされた。前回訪問時はオーチャード通りの北の外れにあったシャングリラホテル内のトレーニングセンターも、通りの中央に在るマンダリンに移っていた。宿泊もここだから便利である。
翌朝会議室に出かけると既に何か参加者が集まっていた。その中で会議の準備をしていた、背の高い眼光鋭い、若い長髪の男が近づいて「今回の会議で事務局を務めるシンガポール製油所の者」と自己紹介をした。それが今回の主人公、Cheah It Chengである。聞けば、プロセスエンジニアでプラント運転部門の課長職とのこと。コンピュータは専門ではないし、製油所の利用もまだまだ発展途上、日本とは比べものにならない。今回開催場所の関係で、事務局・進行係を仰せつかったが、サポートをよろしく、と鋭い目つきから感じ取った印象とは違い、至って謙虚な人柄だった。
会議は大別すると、最近のプロセス制御やコンピュータ利用環境をEREECCSが啓蒙するセッション、EEIの統一的なコンピュータ利用施策推進の考え方を紹介しメンバー各社がこれにコメントする会議、それに参加各社の最新システムに関する報告、からなり成り、メインエヴェントとも言えるプラント運転制御への適用は、ゼネラルと東燃以外はほとんど行われておらず、ここでも“Japan as Number 1”が明らかだった。そしてそのNo.1を巡る戦いを東燃とゼネラルが演じることになる。
議長の裁きや如何?


写真;前列左端:私、左から4人目:It Cheng
(つづく)

2012年2月16日木曜日

遠い国・近い人-19(ハンディキャップを超えて-7;韓国)



 翌20056月にも次女を訪ねて訪韓した。前回は私がJHと会っている間(三家族会食の翌日)、家内が市内ツアーに参加した程度だったが、今回は観光目的である。板門店、慶州なども訪れ、韓国版新幹線も試すことにしていた。これらは横河韓国を通じて旅行社を紹介してもらい準備した。ホテルは繁華街にあるチョースン(朝鮮)・ホテル。クラシカルで落ち着いた雰囲気が良い。

ソウル到着の夜、ホテルにJHが訪ねてくれ、コーヒーハウスでこの一年の変化など話し合った。最新IT(通信を含む)の話題を講演などで提供し、具体的な関心を示す潜在顧客と韓国や日本のメーカー(NTTなどを含む)とのマッチングの機会を作る。プロジェクトが動き出すとどちらかのコンサルタントを務める。これが彼のビジネスモデルなのだ。こうして最近のビジネスが中国やモンゴルに向かっていること知り、その発展振りに「この身体でよく頑張るなー」と、あらためて彼のヴァイタリティに感じ入った。
話がオフビジネスになり、今回の観光に及んだとき、1989年二度目の訪韓の際初めて訪れた慶州の話になった。コンプレックス(石油・石油化学複合工場)の在る蔚山から慶州に行き一泊。翌日慶州観光をした後釜山に出て帰国する旅を、全てJHにアレンジしてもらったのである。オリジナルプランは全ての移動をタクシー(慶州観光とそこから釜山までは日本語が話せる)で行うことになっていた。しかし、当日になってJHが慶州まで自分の車で送ってくれることになり、夕刻彼とした1時間強のドライブを懐かしく語り合った。
話は転じて日本の韓流ブームから当時話題になっていた韓国のエンターテーメントに及んだ。娘から「今ソウルでは「ナンタ」と言うミュージカル(?;出演者が包丁で俎板をたたきながら演ずるパフォーマンス)が人気」と言う話を聞いていたので、その話をすると、「あれは大人気だ!観たいのか?予約しないと観られない。いつがいいのか?」と畳み込んできて、二、三電話をすると「予約が取れた」と当日窓口で告げるべき予約番号をメモしてくれた。このサービス精神、アクションの速さが人脈作り、ビジネスに生かされていることは間違いない。
こんな会話の最後は家族、特に子供たちに関するものだった。初めて知り合ったとき、末っ子の次女は10歳、彼の二人の子(姉・弟)はまだ就学前。「大きくなったらホームスティさせよう」などと話し合ったこともあった。それは実現しなかったが次女は韓国の大学で学んでいる。「あなたの影響に間違いない!大変嬉しい!」 この言葉には、日韓の歴史問題を乗り越える何かが確実に存在する、と感じさせる一言だった。
一昨年秋、突然彼からメールが飛び込んできた。「仕事で近く訪日する。是非会いたい」と言うものだった。出来たら我が家に招待したい気分で歓迎の返信をした。残念ながらビジネスの都合が変わりこれは実現しなかった。中止を伝えるメールには、それでも嬉しいニュースが加えられていた。「信じられるかい?!僕は祖父になったんだ!」と。
昨年義父母が亡くなったこともあり、海外の友人宛年末年始の挨拶状も欠礼した。代わりに我々夫婦と二人の孫の写真を添えて近況報告のメールを送った。先月着た彼からの返信メールには「信じられるかい?!僕も二人の孫を持つことになったんだ!」と二葉の可愛い孫(女・男)の写真が添付されていた。
三代目の交流が出来るまで長生きしたいものである。

(“ハンディキャップを超えて;韓国”の項 完)

2012年2月12日日曜日

遠い国・近い人-18(ハンディキャップを超えて-6;韓国)



仕事で韓国を訪れた最後は19973月。既にJHは石油ビジネスを離れ専らSK C&Cで通信関係を担当していた。それでも油公本社・蔚山コンプレックスとは密接な関係にあり、そこを訪問する私のためのスケジュール調整とソウルでの安さんとの面談などに尽力してくれた。実はこの時期、外貨借金経営のバブルで膨れきった韓国の経済危機が眼前に迫っていたことを私は全く気がついていなかった。やがて起亜自動車の倒産、財閥グループの整理、IMFの財政介入などが続き、それは油公にもおよんで、間もなく大リストラが始まったのだ。
1999JHが久し振りに来日した際、恵比寿のSPIN新オフィスを訪ねてくれた。聞けば蔚山の同僚たちの多くが油公を去ったとのこと。日本での訪問先はNTT傘下企業、NE C子会社など専ら通信システム関連企業で、石油より遥かに環境変化が急で刺激的な分野だと興奮気味に話してくれた。しかし率直に言って、プロセス工業にこだわりを持つ私にはチョッと寂しいことであった。
その後時々メールのやり取りやクリスマスカード・年賀状の交換などあったものの、SPINが発展的に解消し横河情報システム(YIC)が発足する(そして私がSPIN社長を退任する)2003年には音信が途絶えてしまった。後でわかるのだがこの時期彼は独立して自分の会社を立ち上げるべく奔走していたのだ。
2004年初め、次女の韓国留学(高麗大学)が具体化してきた。韓流ブームよりかなり早くから韓国文化(と言ってもポップカルチャーだが)に関心が高かった彼女は、社会人生活2年間でその準備をし、この年大学から入学許可が出て、長期滞在のための身元保証人が必要になった(お金で解決できるのだが)。そこで何とかJHと連絡を取ることを算段したが上手くいかなかった。時間も迫っていたので、その役割は別の友人(Mr. Huh(許);油公とは全く関係の無い;いずれ本欄で紹介予定)に頼むことで解決した。
JHの消息を探していることはしばらくして彼に伝わったようだ。久し振りのメールが届いた。SK C&Cを退職し数年前から自分の会社を経営していると言う。メールアドレスはWorlditechとなっている。これが彼の会社名なのだ。ホームページ(英語版も確りある)を辿ると、事業はIT関係(通信を含む)のコンサルティングであることが分かった。オフィスが中国とマレーシアにある立派なグローバル企業なのだ。
6月、娘の生活環境チェックを兼ねて家内と訪韓することにした。この際許さんには身元保証人を快く引き受けてくれたことのお礼、JHとは久しぶりの再会を楽しむことにする。限られたスケジュール(とは言ってもこちらはソウル観光程度だったが)の中で効率よく会うのは三家族が一堂に会することが適当と考え、泊まっていた新羅ホテルの日本レストランに夫人同伴で招待することにした。
JHは不自由な身体ながら以前通りエネルギッシュな立ち振る舞い、くりくりした愛嬌のある目で私の前に現れた。連絡の途絶えたことを詫びるが、見るところどうやら仕事は順調なようだ。こちらもホッとする。
JHと許さんは初対面、許さんも化学工学出身でエンジニアリング会社に勤務した後独立してプロセス工業向けソフトウェアサービス会社を経営しているので、仕事上JHとの共通点は多い。直ぐに打ち解けた雰囲気になっていった。男同士は英語で、韓国人と娘は韓国語で、我々親子は日本語でと言うやや複雑なコミュニケーション環境だが、食事・家族(特に子供;男の子の軍務)・学校生活など楽しい会話が弾んだ。仕事を離れても良い友人関係が持続できたことに感謝いっぱいの気持ちであった。
(つづく)

2012年2月7日火曜日

遠い国・近い人-17(ハンディキャップを超えて-5;韓国)



オリンピック後の韓国は日本がそうであったように、急速な経済発展段階に入る。それに伴うエネルギー需要の伸びで、蔚山コンプレックスも建設に継ぐ建設が続いていた。TCSの順調な導入後も、この新増設と併行してIT利用の機運は益々高まり、訪韓の度に日本の実態を紹介するよう求められる。生産計画・スケジューリング、受注出荷管理、在槽管理、品質管理、設備管理さらには当時日本でも開発途上にあったCIMComputer Integrated Manufacturing;製販一体システム)にまで及んだ。
こちらにとってもビジネスチャンス、1989年には大掛かりな設備保全管理システムの開発を受注する。このプロジェクトは単なるソフトウェア開発だけではなく、設備保全の仕事そのものを再設計することを含むので東燃テクノロジー(TTEC)との共同プロジェクトとなった。これが実現したのもJHが安常務理事(本社)や崔常務理事(蔚山)に高く買われていたことが決め手となっている。このプロジェクトが終わるとJHは本社情報・通信企画部長に栄転する(93年)。
この少し前から安さんはSPIN経営に強い関心を示すようになっており、しばしば彼の個室で情報サービスビジネスについて意見を交わすようになっていた。あるとき「今日は専務と会ってくれ」と言われ、後に社長になる総合企画室長の趙圭郷専務理事(元空軍将官、私より2歳年長)と三人で話すことになる(90年)。趙専務は「若い人(安さんとその部下の意)が情報ビジネスをやりたいというんでね」と日本語で切り出した。直ぐに子会社がスタートしたわけではないが、安さんのこの分野への思い入れが一方ならぬものであることを理解した。
さらにその後、JHは間もなく本社へ移るという趙政男理事に同道来日、川崎工場・SPINを訪問し情報交換の機会を持つことになる(91年)。92年に訪韓した際にはこの趙さんは専務理事の趙さんが務めていた総合企画室長の後任になり、やがてSKグループが国営の韓国移動通信(現SKテレコム;韓国最大の携帯電話会社)を買い取ると(97年)副社長→副会長と通信ビジネスに重要な役職を占めていくことになる。つまりこの時期(90年~93年)安さんのみならず油公(そしてSKグループ全体)が真剣に情報・通信ビジネスを模索していた時代だったのである。
94年先ず油公の子会社としてYC&CYukong Computer & Communication)が設立される。安さんは本社常務理事のまま社長に、JH他のメンバーも兼務でここに席を移した。新社屋に安さんを訪ね意外に思ったことは自社ブランドのPCを販売すると言うことであった。ハードの量販は在庫など経営リスクが大きくなるからだ。
YC&CはやがてSKグループ全体の情報・通信サービス会社に変じ名前もSK C&Cとなる(97年)。自社ブランドのPCは全く話題にならなかった。JHはここでネットワークや通信ビジネス(移動通信サービスを除く)の本部長に昇進、オリンピック後の新ビジネスセンター、江南のPosco(浦項製鉄)ビルにオフィスを移していた。しかし生みの親とも言える安さんの姿はそこには無く、SKグループ第二の柱となるSKテレコムの技術開発本部担当専務に転じていた。JHに連れられソウル大学近くにある郊外のオフィスを訪ねると、暖かく迎えてはくれたが何か引っかかるものがあった。これが安さんとの最後の面談であった。
99年横河グループ入りした後、初めてJHSPINを訪れたとき安さんに話題が及ぶと「彼はハッピーではないんだ」との答えが返ってきた。どうやらYC&Cの経営は上手くいっていなかったようだ。
この後しばらくして韓国は財政破綻で経済は混乱、SKグループも大幅な再編成を余儀なくされることになる。
(つづく)

2012年1月31日火曜日

遠い国・近い人-16(ハンディキャップを超えて-4;韓国)



日韓の間には所謂“歴史問題”がある。韓国とのビジネスが立ち上がったときも先ず気になったのはこのことである。小学校から高校まで僅かだが在日朝鮮人(北を含む)と噂される同学年生が居た(高校の同期以外は日本姓だったので、越境入学していた私には当初分からなかったが)。特に日常の学校生活の中で差別は無かったものの、陰でふとそれが話題になることがあった。根底に民族蔑視があったことは確かである。この負い目とメディアで伝えられる反日感情に対する不快感が、そのときまでの個人的な対韓感情と言ってよかった。
JHとその上司である崔さんとの初対面で最も気を遣ったのはこの点である。「決して失礼の無いように。しかし過度に自らを卑下もしないように」と。幸い、崔さんは日本語に堪能、JHは流暢に英語をこなすので、誤解を生ずるようなことは何も無く関係をスタートすることが出来た。その後のソウル(本社)や蔚山(工場)訪問でも、この点で不愉快な思いやビジネス上のトラブルが生ずることは皆無だった。しばらくすると、個人としての相互理解も深まり、このデリケートな点に関する特定な問題(主に政治的な)を食事の際の話題に出来るようになっていった。結論は「政治家が浅慮だから」「メディアは直ぐに騒ぎ立てるから」と言うようなところに落ち着くのである。チョッと激しく言い合うのはスポーツ(特にサッカー)の優劣を論ずる時くらいだが、これは巨人とアンチ巨人ファンの戦いと何ら変わらない。
だからと言って韓国人の心の奥底にある複雑な対日感情が大きく変化したわけではない。それは身の周りに、個人としてあの時代の厳しい扱いを体験した人が現存しているからだ。JHと遠慮なく話が出来るようになったある時、実家における日韓問題を聞かせてくれたことがある。
彼の家庭(実家)は父(確か教育者だったと思う)母のほか兄・姉・自分・妹の六人家族。子供たちは皆大学まで進んでいる。目覚しい工業化が進む以前の韓国で、女性も含めて高等教育を受けているのはかなり恵まれた中産階級と言っていい。その中で兄は際立った秀才、大学では機械工学を専攻し卒業後韓国ロッテに就職する(この時期ヒュンダイやサムソンなども今のような大企業になっておらず、韓国ロッテはエリート大学生憧れの企業だった)。ここでも優秀な兄は幹部候補生として選ばれ日本のロッテへ長期派遣されることになる。一族の誇りと期待は一段と増した。しかし兄はそこで日本女性と愛し合う仲となり結婚を決意する。父親は頑としてそれを許さない。「日本人と結婚などとんでもない!」と。少年だったJHにとって、学校教育で受ける日本批判とはまるで異なる次元での反日は相当ショッキングな出来事だったようだ。兄はその後韓国女性と結婚、独立して即席麺の会社を立ち上げその製品は海外にも輸出されほどになっている。家族の期待は念願通り適えられて一族の尊敬を集めているという。
それぞれの家庭にこのような個別の歴史が身近に存在する韓国とメディアから知識を得るだけの日本。この違いこそ“歴史問題”を複雑にしていると学ばされた一話である。

(つづく)

2012年1月23日月曜日

遠い国・近い人-15(ハンディキャップを超えて-3;韓国)




この初の油公(ユゴン;現SKエナジー;韓国最大の石油・石油化学企業)訪問は、本来業者(システムプラザ;SPIN)が仕事を無事終えられたことに対するお礼の意を表すものであった。しかし、JHが社内に作り上げていてくれた受け入れ態勢は、大事なゲストを迎えるそれだった。訪韓に先立つJHとの計画調整の中で、いくつかの講演やミーティングが組まれていた。話題の中心は東燃が進めSPINビジネスの出発点となったTCS(東燃高度プラント制御システム;IBMACS(高度制御システム)と横河電機のCENTUM(分散型ディジタル制御システム)で構成)の紹介(システムそのものとプロジェクト推進)がメインであったが、これに“東燃全体の情報システム”、“日本における石油業界のコンピュータ利用状況”、それに“SPINの経営”に関する話もできるよう求められていた。いずれも国内の営業活動や海外のセミナー(主にIBM主催)で取り上げてきたテーマなので材料・準備は揃っていた(全部英語で行うのは初めてだが)。これが賓客待遇の因であり、爾後年1~2回の訪韓にはテーマを変えて講演会が組まれ、この扱いが続くことになる。
当時の油公本社はソウルのマンハッタンとも呼ばれる漢江(ハンガン)の中洲、汝矣島(ヨイド)に在り、高層ビル一棟全てを占めていた。その上階の一フロアー全体が情報システム部門で、一角に担当の安理事の部屋が設えてある。JHに受付で迎えられ、最初に招じ入れられたのがこの部屋である。JHは私の来訪を告げると直ぐ出て行った。初対面の二人だけが残される。第一印象は「チョッと気難しそうな人だな」と言う感じだったが、話す(英語)内に「謙虚で仕事熱心、部下への思いやりも深い」と好転していった。
壁に貼られた米国コンサルタント会社の情報システム分析図(現状と将来像)を示しながら「やらねばならぬことがいっぱいある。スタッフは充分でなく、経験も浅い。是非進んだ日本から学びたい。協力をよろしく頼む」 ここにはしばしばメディアで目にする“日本と見れば敵愾心を燃やす韓国人”は全く無かった(他のことごとも含め、知識・技術を得たいがための方便とは今でも思っていない)。一気に韓国、そして韓国人に親近の情を感じてしまった。
この日は午前、午後二回講演を行った(最初がメインのTCS;他の部署にも声をかけてくれたのだろう大勢の参加者があり、いつになく緊張した)。安さんは初回の冒頭挨拶を行ったが(これは韓国語)、JHが後で語ったところではほぼ同様の主旨だったようだ。質疑(人によっては韓国語だったが、JHが通訳してくれた)も真剣かつ気持ちの良いものばかりで、時間が足りないほどだった。
昼は近くのビルにある日本レストランで安さんを囲む昼食会。夕食はこれも安さんが選んだ中堅どころ数人と国会議事堂が見える韓国経団連ビル(だったと思う)上階にあるレストランで洋食をご馳走になりながら歓談した。むろん両方にJHが同席したことは言うまでもない。
これ以降訪韓のたびに先ず安さんを訪ね、あれこれ情報交換するのが慣例になっていった。そんなことが続いた何回目かの訪問で二人だけの会話の折、情報システム部メンバーたちが話題になりそれがJHに及んだ。「彼はたいした奴だ!仕事も出来るし性格が良い!しかもあのハンディキャップ(下肢が不自由)にも関わらずだ!自分は本来情報技術の出身ではないので(応用化学出身で試験・研究畑を歩いてきた)、信頼できる部下無しでは任務を全う出来ない。彼は欠かせぬ人材なんだ!」 工場の一課長と担当役員という、立場の違いを感じさせない信頼関係が確り出来上がっていたのだった。
(つづく)

2012年1月17日火曜日

遠い国・近い人-14(ハンディキャップを超えて-2;韓国)



蔚山コンプレックスへのACSIBMの高度制御システム)導入は88年の1月にキックオフし同年の8月には順調に稼動した。それまで担当者は無論彼らの上司や営業も現地を訪れていたが、私は一度も出かけていなかった。4月に役員となりこのビジネスの責任者となっていた私は、どこか区切りで挨拶をと思っていたので、8月末から9月初旬にかけて数日、初めて韓国訪問をすることになった。ソウルオリンピック開催を間近に控えた、何かと慌しい時期である。こちらのスケジュールも前後の予定もありタイトで、実質35日のワーキングデー、この間にソウル・蔚山間の移動やIBM主催のセミナーも入ると言うものだった。
それまでに何度か研修などで東京を訪れていたJHとは、この時点で最も親しい油公(ユゴン)関係者になっており(と言うより唯一の韓国人)、この訪韓の計画は万事彼に調整を頼むことになる。例外は土日(土曜日に出発)だけ。ここは当時モービル韓国の副社長していた大学時代の友人に面倒を見てもらうことした。JHから市街地から離れた(そして油公の本社からも遠い)ホテル(ハイアット;南山地区;当時はここが欧米人を中心とする外国人居住区だった。友人もここにあるマンションに住んでいた)に何故泊まるのかとの質問がきたが、事情を知らせ納得してもらった。それでも空港(金浦)到着時からホテルまでの注意事項は確りJHがファックスで知らせてくれた。オリンピックのために英語を話すタクシーがあり(88;パルパル・タクシー)、それは乗り場も外観も(内装も)料金も違うこと、市内までの大よその料金はいくらぐらいであること、もしトラブルが生じた場合の連絡先など、彼らしい細やかな気遣いに満ちたものだった。その助言もあり特に問題も無くホテルにチェックインすることが出来た(オヤッと思ったのは、途中交差点で車が止まったとき、中年のおばさんが助手席に乗り込んできたことである。初めは運転手の知り合いかと思ったが、どうやら便乗客だったようで、市街地で降りるときお金を渡していた)。
翌日曜日友人の案内で梨泰院(イテウォン)、明洞(ミョンドン)、南大門(市場)などソウルの観光スポットを案内してもらい、ホテルでの会食も済ませ部屋で明日からの準備をしていると9時過ぎ電話が鳴った。JHからだった。「今からホテルに行って明日以降の予定について確認したい」とのこと。思わず「どこから電話しているのか?」と聞いてしまった。彼は当時蔚山勤務だったからである。聞けば実家がソウルにあり、私を迎えるためにその日の夕方蔚山を発ちこちらにやってきたのだという。到着後何度かホテルに電話したようだが、こちらが観光や会食で部屋に居らず連絡が着かなかったのだ。
10時頃、不自由な身体に関わらずホテルにやってきた彼はいつものくりくりした笑顔で歓迎の挨拶を交わすと翌日からの行動計画をエネルギッシュに説明してくれる。例によって細かい気配りも忘れない。「明日の朝はどうする?迎えに来ようか?ソウルでは実家の車を利用しているんだ」オリンピックに向け一部地下鉄の開通があったとはいえ、当時のソウルの主要交通手段はバスとタクシー、外国人が一人で動ける環境ではなかったし、まして市街と離れた南山ではそのタクシーも立ち寄る数が少ないようだった。しかし、幸い友人が社有車を回してくれることになっていたので、JHを煩わすことは無かった。
JHの作ってくれたスケジュールは完璧、特に経営者や上級管理職とのミーティングや会食はこちらが望む以上のものだった。こうして初の韓国訪問がスタートした。
(つづく)

2012年1月12日木曜日

遠い国・近い人-13(ハンディキャップを超えて;韓国-1)



東日本大震災が起こってから三日目、314日夜国際電話がかかってきた。ソウル在住のJ.H. Lee(李俊熙)からである。「地震・津波、それに原発事故で大変なことになっているようだが貴家はどうか?」彼の地でTVや新聞で報じられる惨状を観て、大地震のない韓国では想像も出来ないことだけに、その範囲がどこまでどの程度及ぶのかを慮っての見舞いの電話であった。韓国からの見舞い電話はこれ以外にもあった。何かと国際政治関係では刺々しい雰囲気になりがちな両国だが、これら友人たちとの付き合いがいつもそれを希釈し鎮めてくれる。
JHと始めて会ったのは198712月、新橋第一ホテルである。当時(そして現在も)韓国最大の石油精製・石油化学企業であった油公(ユゴン;現在はSKエナジー)は蔚山(半島東南部;釜山の北約100km;現代重工の造船所などもある工業都市)コンプレックス(石油精製・石油化学・LNG基地など複合的な大工場)の増強が続いており、世界最新鋭技術の調査・導入に余念が無かった。IBM(韓国、日本)経由で東燃のTCSIBMACSと横河電機のCENTUMで構成されるプラント運転制御システム)もその対象になり、前年本社の安泰亨理事(取締役;情報・通信担当)が和歌山工場を見学、87ACS導入がシステムプラザ(SPIN)のサポートで行うことが決まり、最終の詰でJH(当時蔚山の電算課長)がコンプレックスの技術総括担当だった崔東一理事と來京した折である。
油公の歴史は、漢字名が示すように起源は大韓石油公社から来ている。つまり元は国営企業である。その後民営化に際して国内資本とアメリカのメジャーであったGulf Oilの資本が入り所謂外資系の会社になるが、やがてガルフが手を引き韓国財閥の一つ鮮京(SK)グループ(元々は繊維業から発する)が筆頭株主になる。従って、従業員の構成や人間関係はチョッとややこしい。上層部は元公務員や鮮京からの移籍者(繊維や商事;あまり石油の経験が無い)、実務の実力者は外資時代の人(英語の能力と専門性が高い)とプロパー社員(実務の一線;英語力にはかなり幅がある)と言う構成である。例えば、崔さんは鮮京(繊維・機械)出身、安さん(応用化学)は外資時代入社、JH(情報技術)はプロパーである。会話も崔さん(他の役員クラスとも;若くても私と同年位)とは日本語、安さん以下の若い人とは英語である。
こんな複雑な人員構成の中でJHはあらゆる階層の人から愛され信頼されていた。お蔭でトップでは専務(元空軍の将官)から下は工場の担当者まで百人を越す人々と名刺を交わすほどこの会社に深く関わることができたのである。
くりくりした可愛い目、積極的ではあるが、しばしばこの国の人に見られるけんか腰の言動は全く無く、何事にも献身的に職務(を超えて)に励む姿勢は、「こんな同僚だったら!こんな部下だったら!」との思いを何度も感じさせるほどである。それも大きな身体的ハンディキャップを下肢に負いながらである。腰部から左足に異常があり、歩行にはかなりの困難が伴うのだ。それが先天的なものかどうかを質したことは無いが、バランスをとるために、左手の甲にできたタコを見るとその時間の長さが決して短いものでなかったことは推察できる。常人と変わらぬ行動をしようとする強い意志とその裏にある、ハンディから来る心優しさが人々を惹き付けるのだろう。
314日の電話は、単なる儀礼的なものではなく、心からの見舞いに違いなっかった。
(つづく)