東日本大震災が起こってから三日目、3月14日夜国際電話がかかってきた。ソウル在住のJ.H. Lee(李俊熙)からである。「地震・津波、それに原発事故で大変なことになっているようだが貴家はどうか?」彼の地でTVや新聞で報じられる惨状を観て、大地震のない韓国では想像も出来ないことだけに、その範囲がどこまでどの程度及ぶのかを慮っての見舞いの電話であった。韓国からの見舞い電話はこれ以外にもあった。何かと国際政治関係では刺々しい雰囲気になりがちな両国だが、これら友人たちとの付き合いがいつもそれを希釈し鎮めてくれる。
JHと始めて会ったのは1987年12月、新橋第一ホテルである。当時(そして現在も)韓国最大の石油精製・石油化学企業であった油公(ユゴン;現在はSKエナジー)は蔚山(半島東南部;釜山の北約100km;現代重工の造船所などもある工業都市)コンプレックス(石油精製・石油化学・LNG基地など複合的な大工場)の増強が続いており、世界最新鋭技術の調査・導入に余念が無かった。IBM(韓国、日本)経由で東燃のTCS(IBMのACSと横河電機のCENTUMで構成されるプラント運転制御システム)もその対象になり、前年本社の安泰亨理事(取締役;情報・通信担当)が和歌山工場を見学、87年ACS導入がシステムプラザ(SPIN)のサポートで行うことが決まり、最終の詰でJH(当時蔚山の電算課長)がコンプレックスの技術総括担当だった崔東一理事と來京した折である。
油公の歴史は、漢字名が示すように起源は大韓石油公社から来ている。つまり元は国営企業である。その後民営化に際して国内資本とアメリカのメジャーであったGulf Oilの資本が入り所謂外資系の会社になるが、やがてガルフが手を引き韓国財閥の一つ鮮京(SK)グループ(元々は繊維業から発する)が筆頭株主になる。従って、従業員の構成や人間関係はチョッとややこしい。上層部は元公務員や鮮京からの移籍者(繊維や商事;あまり石油の経験が無い)、実務の実力者は外資時代の人(英語の能力と専門性が高い)とプロパー社員(実務の一線;英語力にはかなり幅がある)と言う構成である。例えば、崔さんは鮮京(繊維・機械)出身、安さん(応用化学)は外資時代入社、JH(情報技術)はプロパーである。会話も崔さん(他の役員クラスとも;若くても私と同年位)とは日本語、安さん以下の若い人とは英語である。
こんな複雑な人員構成の中でJHはあらゆる階層の人から愛され信頼されていた。お蔭でトップでは専務(元空軍の将官)から下は工場の担当者まで百人を越す人々と名刺を交わすほどこの会社に深く関わることができたのである。
くりくりした可愛い目、積極的ではあるが、しばしばこの国の人に見られるけんか腰の言動は全く無く、何事にも献身的に職務(を超えて)に励む姿勢は、「こんな同僚だったら!こんな部下だったら!」との思いを何度も感じさせるほどである。それも大きな身体的ハンディキャップを下肢に負いながらである。腰部から左足に異常があり、歩行にはかなりの困難が伴うのだ。それが先天的なものかどうかを質したことは無いが、バランスをとるために、左手の甲にできたタコを見るとその時間の長さが決して短いものでなかったことは推察できる。常人と変わらぬ行動をしようとする強い意志とその裏にある、ハンディから来る心優しさが人々を惹き付けるのだろう。
3月14日の電話は、単なる儀礼的なものではなく、心からの見舞いに違いなっかった。
(つづく)
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