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2013年2月11日月曜日

決断科学ノート-137(メインフレームを替える-31;テープカットとその後;最終回)




東燃の決算期は1月~12月。その期末をひかえて混乱は許されない。11月下旬から新システムへの切替作業にかかり、無事翌19844月にサービスを開始した。新システムの処理能力は4倍、ディスク容量は約2.4倍に強化された。
4月のある吉日、本社コンピュータルームに富士通の山本卓眞社長と東燃MTY社長が揃い、起動式が行われた、そしてその場にはあのNKH常務も同席、富士通役員の方々と和やかに歓談している。この間合議了解の印が捺されぬ稟議書の件が問題になることは無かった。NKHさんの心の内は窺い知ることは出来ぬものの、連隊旗切替は波乱無く進み、本社合理化プロジェクト(Tiger-Ⅱ)推進の態勢は整った。
Tiger-Ⅱはこれ以降、着々と新システムの機能(特に、日本語処理)を最大限に活用して、ユーザー・フレンドリーなアプリケーションを開発、本社のコンピューター利用環境を一気に、オンライン・リアルタイムで行えるように変えていった。技術計算プログラムやLPモデルを使った生産計画検討も、従来の使い方を問題なく継承できたばかりでなく、グラフィック機能等を利用して、よりユーザーに使いやすい形で、情報提供できるようになった。
IBMMFは本社からは消えたものの、工場には生産管理やプラント運転制御用に複数台のMFが導入されていたので、技術情報の入手を始め、IBMとの交流が変わることは無かったし、並行して、新たに富士通との定期的な情報交換の場が出来たので、双方から学ぶことによる相乗効果で112以上になるメリットを享受できるようになった。IBM製品のACS(高度プロセス制御システム)販売協力関係も順調に推移。これらのことは更に1年後情報サービス子会社立ち上げで、大きく効いてくることになる。
決死の稟議書決裁を決行したMTKさんは室長を外されることも無く、その地位に留まった。富士通はその労に報いるように、ユーザー会幹事を依頼、本人もこの役割を楽しんでいた。
最も驚くべきことはNKHさんと富士通の関係である。この切替が行われる以前、NKHさんと交流のある富士通の役員は、第一勧銀から移った経理財務担当の方一人だけだった。それも仕事が同じ領域ゆえの付き合いで、特に親しい関係ではないようであった。そのNKHさんが、いつの頃からか、山本社長(後には関沢社長)と親しく食事を伴にする機会を持つようになったことを営業から聞かされる。あれほど反対していた人が見事に変身するのをみて、“君子豹変する”の喩えを身近に見ると伴に、その柔軟性に大いに学ばされることにもなった。その後NKHさんは大方の予想通り、副社長、社長と昇進していくが、この付き合いはその後も続き、食事の場ではないが、山本社長(会長)との打ち合わせの席に同席することが何度かあり、極めて親しい関係にあることがその場の雰囲気で分った。
IBMMFが全社中核システムとして復活するのは1987年、インテリジェント・リファイナリー(IR)構想が打ち上げられたのが切っ掛けとなる。それぞれの工場にあった生産管理システムの更新期が来ており、FACOM380Rで取り扱っていた本社の生産管理システムを含めて全面的に再構築することになる。この構想ではバッチ処理を基本とする技術プログラムも生産管理システムと連動し、オンラインで扱うことを目論むので、とても既存のFACOM一台で実現することは難しい。結局、事務系統のアプリケーションはFACOM、工場の生産管理機能と本社技術系アプリケーションを新規導入システムに統合することになる。この頃になると日本語処理機能はPCに移り、IBMと国産メーカーに差がなくなってくる。その結果IR用にはIBM3090導入されることが決まる。同時に事務系統のアプリケーションも強化し端末も一人一台態勢にするため、F380を-760にグレードアップすることになった。
大型MF2セットも本社コンピュータルームに置く余地は全く無い。通信環境が一変したこの時期、高い家賃を払って都心にそのスペースを保持する必要は無い。新コンピュータセンターは精製工場としての機能を停止した清水工場の本事務所を改造・耐震強化して使うことになった。19889月から11月にかけ二つの中核MFが新センターに設置され、翌年(平成元年)から本格全面稼動し、その運用はシステムプラザ(SPIN)の子会社東燃システムサービス(TSS)が行うことになった。爾来私がSPINを去る2003年まで、機能強化・周辺機器置き換えは行われたものの、この2MF体制は続いた。
IBMと富士通、世界と日本を代表するコンピュータ・メーカーの旗艦システムの切替と並行利用を行ったことは、企業としても個人としも、大きな財産となり、情報サービス会社立ち上げと、その後の発展は“これ無くして無かった”と断言できる。企業人人生の当に“竹の一節”と言える出来事であった。

(完)

これをもって、長期の連載を終わります。長い間のご愛読、ご声援に深く感謝いたします。有難うございました。

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2013年2月4日月曜日

決断科学ノート-136(メインフレームを替える-30;捨て身の稟議書承認)




カリフォルニア大学バークレー校(本校)、企業向け短期MBAコースへの参加は、その後の私の大きな財産となった。いずれ別テーマでそれについて触れる予定だが、東燃情報システム子会社、システム・プラザの業容拡大はこれ無くして無かったと言えるほどその後に影響力のあるものだった。
約一ヵ月半のコースを無事終え、家内を卒業式に呼んで、その後ソルトレークでレンタカーを借り、ザイオン国立公園、パウエル湖、モニュメントヴァレー、グランドキャニオン、ラスベガスと走る私費旅行に費やした。次期システムが決まっていたこともあり、この旅を晴れ晴れした気分で楽しむことが出来た。
帰国は11月中旬。1120日、この日は日曜日だったがF-380 の搬入があり出勤した。本社があったパレスサイドビルは上階に向かう貨物エレヴェータが無く、8階のガラス壁を外して、高架クレーンで吊り上げて運び込んだことが今でも鮮明に記憶に残る。
それにしても9月下旬の離日からこの日まで2ヶ月しかない。この短期間に何故ここまで来ることが出来たのだろう?特に稟議書の承認でネックになっていたNKH常務の了解をどう取り付けたのだろう?帰国して先ず室長のMTKさんに聞いたことはそれである。それは、驚天動地、当にMTKさんの捨て身の行動があったからなのだ。
入社以来、起案者・部門として、合議関係者・部門として、いろいろな稟議書手続きに関わってきた。最終承認者は金額によって異なるが、大体が工場長か社長であった。全ての承認印をもらうと大きな案件では20個位になる。本件の稟議書も、最下位(起案者)の私から始まり承認印がべたべた捺されている。チャンと主管の副社長印があり、その上の社長印もあった。しかし、肝心のNKHさんの印は無い!長期不在や病気などで欠印が生ずるケースも偶にあったが、NKHさんは毎日出社されている。まるで事情が飲み込めず、思わず「どう言うことですか?」と聞く私に、このために用意されていた、承認規定を示しながらMTKさんが説明してくれた。
それに依れば、合議はパスすることが出来るような表現になっているのである。情報システム室は副社長の直轄、起案元である数理システム課・機械計算課の二人の課長、室長、副社長、社長の印は必須だが、合議印は少なくとの関係部門の誰かが印を捺していれば、欠けてもいいのだという。NKHさんの管轄(経理)では既に、予算課長、経理部長の合議は取り付けてある。技術部門出身者には思いもつかないこの手段を教えてくれたのは、MTKさんと同期入社の購買部長NKNさんであることも、この時聞かされた。MTKさんが困っているのを見るに見兼ねて助言してくれたのだと言う。
しかし、そう言う抜け道が規定上は可能だとしても、なかなか実施に移すことは出来ないのが普通のサラリーマンだろう。それを決した時のMTKさんの心の内はどのようなものだっただろう。NKHさんが他の役員と微妙な関係にある時期とはいえ、将来の社長候補としてトップを走っていることは間違いなく、大勢の人間が彼の顔色を窺い、おもねていた時であれば尚更である。
MTKさんは、最近亡くなった小沢正一と麻布学園(旧制)の同級生、戦時の繰上げ卒業で二人とも海軍兵学校に進む、その年8月終戦、半年足らずの在校、同校最後の期である。もし指揮官になっていたら部下は粉骨砕身、彼のために戦ったに違いない。連隊旗のIBMから富士通へと言う大転換は、このようなリーダーなくして実現しなかった。

(次回;テープカットとその後;最終回)

2013年1月27日日曜日

決断科学ノート-135(メインフレームを替える-29;教室に届いた電報)




1960年代以前入社の企業人にとって海外の大学に行くことはほとんど不可能な時代だった。唯一のチャンスはフルブライト留学制度を利用するものだが、合格率は優秀者が応募する中で200人に一人位と言われていた。私の知る範囲では東燃グループで一人しか知らない。企業がポツリポツリと米国のビジネススクールへ社員を派遣しだすのは60年代の後半からである。70年代半ば同期入社のFJMさんがスタンフォード大のMBAに行くことになるが、これが東燃グループ企業派遣の第一号である。彼の場合は正規の長期コースで、これは要職の地位にある者が出かけるには業務に支障も出ることもあり、継続されることはしばらくなかった。代わって毎年1ヶ月強から3ヶ月くらいの企業向けコースへ2,3人の古参課長クラスが派遣されるようになる。派遣先は当初、コーネル大、ピッツバーグ大、スタンフォード大だったが1982年からカリフォルニア大バークレー校が加わっていた。私が参加したのもこのプログラムである。
選考基準が厳密に定められていたわけではないが、前後の派遣者を見ると部長資格を得た者の中から、人事が候補者を選んでいたようである。この年の初めこの資格を得ていた私に話があったのは2月頃だったように記憶する。当時はまだ次長だったMTKさんから「人事から話があったからOKしておいたよ」と告げられた。TTECシステム部での外販ビジネスの立ち上げ、昨年秋から本格化し始めた次期MFシステム検討、と重要業務案件が続く中で「果たして出かけられるだろうか?」と自身半信半疑だった。不安は的中。NKH常務に次期MF導入の稟議書承認はもらえぬまま、MTKさんに背中を押され、中途半端な気分でバークレーに向かった。
参加した企業上級管理職向けコースの副題は“米国企業を如何にRevitalize(再活性化)するか”と名付けられていた。今年の参加者は20名(米国人13、外国人7;サウジ2、イスラエル、英国、デンマーク、豪州、日本)。日本人は私だけである。MBAといえば企業経営事例を素に授業を進めるのが標準だが、ここのコースは少し変わっており、種々の角度(国際関係・安全保障、政治、行政、科学、文化、金融財政など)からの講義とディスカッションが中心。この時代は、何度も言うように「Japan as No.1」(この本も教材の一つだった)の時代。やたらと日本が取り上げられ、その都度コメントを求められるのだが、正規に英会話を学んだのは4月から8月までの僅か4ヶ月、それも週3コマ程度だったから、何を聞かれているのかさえ定かではない。クラスメートの助けを借りながら、何とか授業を凌ぐ毎日だった。
様子が変わったのはコース日程の半ば頃である。日本の産業政策研究の第一人者で、「MITI and the Japanese MiracleThe Growth of Industrial Policy 19251975」(邦訳 通産省と日本の奇跡)の著者、チャーマーズ・ジョンソン教授の授業だった。生徒の一人であるIBMからの参加者が「日本における第5世代コンピュータ開発・研究について教えてください」と質問した。教授は「彼にやってもらう方が良いだろう」と私を指差した。止むを得ず、白板を使って、第5世代コンピュータに関わる役所・業界・学界の関係を図示しながら解説した。終わると教授は「これ以上の説明は無いよ」とコメントしてくれ、クラスメートの拍手喝采を浴びることになる。
こんな日々の中で、休み時間に、コース担当の黒人女性秘書、Bettyが「ウェスタンユニオン(電信・電報会社)からHiro(私)に電報が来てるわよ」と黄色地の紙を渡してくれた。それはMTKさんから私に宛てられた電報で、「次期MF稟議書の最終決裁がおりた。心配せずに確り勉強に励んでくれ」(英文)と言う内容だった。電話とファックスが一般的な遠隔地間コミュニケーション手段だった時代、電報はかなり珍しくなってきていた。「何があったんだ!?」とクラスメートの何人かが寄ってきた。その中には前出のIBMの男もいた。紙をサッと畳んで「コース終了後の米国旅行に関することだよ」とごまかした。
「それにしてもどうやってNKHさんの承認を取り付けたのだろう?」

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(次回;捨て身の稟議書承認)

2013年1月22日火曜日

決断科学ノート-134(メインフレームを替える-28;稟議書提出前後)




次期システム検討の詰めに際して、創立記念日NKH常務の部屋で起した私の不始末(機密保持不履行)はこの件を前へ進めるに当って、いろいろな不都合を生ぜさせることになる。MTKさんと伴にお詫びに伺うため秘書室にアレンジを頼むが、その時間がくると“ダメ”が入る。こんなことが9月末まで続く。
前にも書いたように、この年(1983年)は、年初から情報システム室にとって例年とは異なることが次々と派生する年だった。
先ず1月にTTEC(東燃テクノロジー;エンジニアリング会社)にシステム部が発足、TCSIBMACSと横河電機・CENTUMを中核とするプラント運転制御システム)をIBMと一緒に販売することを始めた。その波及ビジネスとして連休明け頃から出光石油化学向けに生産管理システムのコンサルテーションを始めており、この準備・推進に私自身かなり時間をとられていた。
また4月からTCSプロジェクト推進のキーパーソンで、汎用機技術にも詳しいTKWさんが慶応ビジネススクールに1年間通うことになり、ほとんど不在に近い状態になった。
同じく4月それまで室次長だったMTKさんが室長となり、TTECの部長職を私に引き継ぐことになった。
その私に、今度は海外ビジネススクールでの研修話が持ち上がってくる。場合によると7月早々出発のケースも考えられたが、これは最初の候補校(スタンフォード大)から「日本人枠は既に満杯」との返事が来て、9月中旬からコース開講のカリフォルニア大学バークレー校に行くことに変わる。
加えて、本社事務業務改革プロジェクト(Tiger-Ⅱ)が、これも連休明けから本格化し、次期システムは決まらぬまま、分析・設計業務がスタートし、機械計算課のメンバーを中心にシステム開発グループが発足、課長のMYIさんは実質的にこのリーダーを兼務することになる。
この様に情報システム室の主だった管理職の周辺に大きな環境変化が起こる中での次期システム選択である。特に私の米国行きは極めて微妙な時期になる。富士通はR380の販売が好調で、受注生産ではなくしばらく先行見込み生産をするので、9月中に正式発注があれば年内納入が可能との見通しを提案してきている。MTKさん、MYIさん、それに私とも、稟議書採否はともかく(不可の場合は、Tiger-Ⅱに不都合なところもあるがIBM継続)私の出発前に決裁が行われることを必須と考えていた。
そんなわけで、NKHさんに対する謝罪・釈明の機会が与えられぬまま、8月に入ると富士通に絞った稟議書の作成にかかった。予算はリース物件切替継続になるのでほとんど問題は無い。業務革新のため端末は大幅に増えるが、省力効果で充分それは補える。MF切替の難易度・時間も事前の試行でスムーズに出来る見通しが立っている。先端技術研究開発でも決して見劣りしない。日本語処理と日本型経営環境での実績ではIBMより遥かに優れている。稟議書の骨子はこんなもので、9月初旬には完成し、承認を求める手続きを開始した。起案から最終承認至るラインは、数理システム課長・機械計算課長→室長→副社長→社長。合議は経理部門(予算)、購買部門(調達)、技術部門(主要ユーザー)、人事部門(業務革新プロジェクト)、製造部門(主要ユーザー)等であるが、ユーザー部門や合議関係者の受け取り方も好意的なもので、部長レベルまでは難なく承認印を押してくれた。後は役員を残すのみとなったが鍵を握るNKHさんは会ってもくれない。
9月末「まあ、気にせず行ってこいよ」とのMTKさんの一言に、後ろ髪を引かれつつバークレーに出発した。

(次回;教室に届いた電報)

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2013年1月17日木曜日

決断科学ノート-133(メインフレームを替える-27;創立記念式典の後で)




次期システムとして富士通MFが具体化するに連れて、OPXプロジェクトメンバーの頭に共通して在った大きな問題は「多分あの人は反対だろう」と言うことである。
“あの人”とは当時最年少役員で経理・財務と新規事業開発を担当していたNKH常務である。東大の経済を卒業後ハーバードの経済学部大学院に学んだ彼は、コンピュータの専門家ではなかったが、彼の地で早くにその将来性に開眼しており、東燃への最初のコンピュータシステム(IBM1401)導入でも主導的な役割を果たした人と聞かされていた。
また、日本IBMはわが国を代表する官・学・民の論客を集め“天城会議”なる知的エリートによる広範な社会・経済・国際・科学・文化など問題を論ずる場を設けていたが、そのメンバーの一人でもあったし、日本IBMのアドバイザリー・ボードも務め、SIN社長とは極めて近い関係にあった。
そんな背景と、情報システム室の母体の一つ機械計算課は当初経理部に設置されたこともあって、その課長は歴代彼の息がかかった経理畑出身者が務めていた。つまり主管ではないものの、情報システム部門の動きに大きな影響力のある人だったのである。
加えて会長、社長、副社長は全てNKHさんの父親に仕えた戦前派、成熟した石油業の現状打破を図る新規事業開発に熱心な彼は、これらのトップ層とは微妙な関係にあり、特に副社長主管の情報システム室の施策には一家言あった。
75日は東燃の創立記念日、前日の4日は本社講堂で式典があり、簡単なパーティが行われる。OPXの検討内容は関連する本社ユーザー部門の部課長にもある程度情報が伝わっていることもあり、ここで私はNKHさんにその概要を話して、反応を確かめることを試みた。最初はこの年の初めにスタートしたTTECシステム部のビジネス(IBMのプラント運転・制御システム;ACS販売協業)の話から入り、次いで次期システムとして富士通のMFに話題がおよぶと「そのことで話したいことがある。MYI(機械計算課長)君とTKW(コンピュータ技術専門家)君も一緒に、パーティが終わったら部屋に来てくれ」との返事。本来は室長であるMTKさんに同道してもらうべきと思ったが、自分より年上の部長を飛ばして、ヒアリングすることはしばしばあるので、MTKさんに了解を得て部屋へ3人で伺った。
一通り次期システム検討の現状説明を聞いた後、案の定「止めておけ」との返事。NKHさんはその理由として、コンピュータビジネスにおけるIBMの強さがとても国産勢の及ぶものでないことを縷々説明されたが、こちらもSTIIBM研修旅行)や現在進めている国産各社の日本語処理技術や先端技術研究などでそれに対抗してみた。
簡単に引き下がらない我々に止めを刺す必要を感じたのか、「君たち、情報システム部門の分社化の話を聞いているか?」と突然話題が変わった。3人とも一瞬黙り込んだ。実は皆MTKさんからそれを聞いていたのだが、これはNKHさんがMTKさんだけに話し「他言無用」と言われていたことだった。しかし、そうは言われても「一人よりは内々の仲間で、知恵を集めて」と考えたMTKさんは我々に打ち明けていてくれていたのだ。NKHさんがこれを持ち出したのは、分社化の協力をIBMに求めている(あるいは先方から持ちかけられた)と読んだ私は、ここで引き下がると富士通の目は無いと思い、「聞いています。しかし、富士通との協業も考えられます」とやってしまった。MTKさんはNKHさんの命令を、私はMTKに釘を刺されていたことを破った瞬間である。取り返しのつかないミスである。特にMTKさんにかけた迷惑は今でも悔やんで余りある。

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(次回;稟議書提出前後)

2013年1月12日土曜日

決断科学ノート-132(メインフレームを替える-26;FACOMへの決断)




今当時の手帳で19836月を振り返ると、月の後半は頻繁に富士通との会合が開催されていることが記されている。日立・富士通の国産二社はいずれも真摯にこちらの求に応えてくれていたことは確かなのだが、いくつかの理由でOPXプロジェクトチームの関心は富士通に傾きつつあったのだ。
先ず、国産機では実績ナンバーワンであること、それも国内実績ではIBMを追い越す勢いであること、特に石油や化学での実績が高かったこと。OSと一体化されJEFと言う日本語処理システムが、本社事務合理化により適していること。日立に比べIBMからの切替を短時間でできること。これまで採用はないものの、いくつかの先行プロジェクトで交流があったこと。一方で、日立には主力銀行(富士銀行:現みずほ銀行)を核とする財界グループ(芙蓉)を伴にするメンバーではあったが、米国におけるオトリ捜査事件によるマイナスイメージが未だ払拭しきれていないことも、プロジェクトメンバーから積極的支持を得られない理由の一つだった。
メンバーは二つの課(数理システム課;技術系アプリケーションおよびコンピュータ・通信技術、機械計算課;事務系アプリケーションおよび本社事務合理化プロジェクト)から出ていたが、アプリケーションを単なる計算領域から文書処理を含む総合的な情報領域に広げることを期待される機械計算課メンバーに国産機、特に富士通を推す声が強かった。これに対して私を含め数理システム課に属する者は、それほど国産メーカーに傾斜していなかったが、“ジャパン・アズ・No.1”が喧伝される時代、その技術力がついに世界の巨人IBMを捉えつつあるところに惹かれていた。私自身はこのようなメンバー全体の意向も勘案して「国産機を入れてみようか」と言う気持ちになってきおり、そのことを情報システム室長であるMTKさんに告げると、「わざわざ連隊旗を変えることなどない。IBMのままでで良いと言ってたじゃないか!」とやや気色ばんだ様子で返事が返ってきた。グループ全体の情報システム責任者としては、当然簡単に受け入れられることではなかった。
しかし、私がMF入れ替えに関して発言したのは2年前。今回の次期システム検討プロジェクト、OPXが動き出してからは適宜報告も行い、時にはMTKさんを含めて議論をする機会もあったので、この発言は国産採用否定と言うよりも、私の考え方の変化に対する驚きと、こちらに覚悟の程を確かめるものだったに違いない。と言うのもIBMMFを使うプラント運転・制御システム(ACSAdvanced Control System)を強力に推し、この年の初めから東燃テクノロジー(TTEC;エンジニアリング会社)でそのセールスをIBMと一緒になって行っていたことから、前言と併せて周囲からはメンバーの中で最も親IBM派と見られていたからである。
確かにその点では私は心変わりしていた。2年前、まだ本社事務部門合理化計画など存在しない時、日本語処理がそれほど重要とも思っていなかったが、本社転勤後経営者向けシステム(Tiger-Ⅰ)に取組んで、その必要性を痛感したこと、それに和歌山工場には工場管理用とTCSTonen Control System)用として更に一台、計2台のIBMMFが入っており、近く川崎地区(石油精製・石油化学・関係会社)をカバーする、大規模なTCSMFの採用も決まっていたので、全てをIBMにしてしまうより、目的(本社合理化)に適った互換機導入は、IBMを牽制する上でむしろ望ましいのではないか、と考え始めていたのである。
こちらの意思を確認したのち、他のメンバーも富士通導入に賛成だったのでMTKさんはそれ以上この問題を蒸し返すことはなく、情報システム室内の次期システムに対する考え方は決まった。
しかし主管部門が意思統一して決めたからと言って、“連隊旗”取替えがそのままスムーズに進むとは誰も思っていないのも確かであった。

(次回;創立記念式典の後で)

2013年1月7日月曜日

決断科学ノート-131(メインフレームを替える-25;本格化する次期システム検討-2)



既存アプリケーション・システムの国産機への乗り換えについては、DBも含めてそれほど危惧する問題が無いことが分ってくると、次期システム検討(オペレーションXOPX)は一段と活発化してくる。6月に入ると、関係者の考え方にはっきり変化が見られ、国産機採用の可能性が真剣に議論されるようになってきたのだ。
既存システムの移行性、価格がクリアーでき、日本語処理にはむしろ国産機が優れている。次の懸案事項はIBMの最新技術をキャッチアップできるのか?さらにその先を走る技術はあるのか?そのための研究開発体制はどうなっているのか?世界に広がるIBMユーザーの利用情報に代わる、ユーザー知見はあるのか?前回列挙した調査項目の③(国産次期機種見通し)④(部品を含む先端技術研究開発動向)⑤(利用知見)に関わる相当突っ込んだ考察が求められる。③④はプロジェクトチームの主に数理システム課メンバー、⑤に関しては本社合理化推進を中心になって進める機械計算課、の関心事であり責任領域でもあった。
それぞれの課題に問題はあった。③④に関しては簡単に開示できる情報ではないこと、⑤に関しては、全世界と日本の違いがある上に、国内だけでもIBMユーザーはコンピュータ利用により先進的でその数も多かった。③④に関しては、二社(富士通・日立)併走調査は止め、より積極的な姿勢を見せるところを先行させ、それとIBMを比較することにした。⑤に関しては、対象を国内ユーザー知見に絞ると伴にOA分野は先ず自社(富士通・日立)システムを見せてもらい、社内情報システム部門・ユーザー部門とさらなる情報交換の機会を設けてもらうことにした。
順序が逆になるが、先ず⑤の調査状況とその考察を紹介しよう。富士通は蒲田にあったシステム・ラボラトリー(シスラボ)に見学・説明・議論の場を設定し、ユーザー推進部門(管理本部だったと思う)の責任者も出席して、社内OA推進に関して、問題点を含め率直な情報提供をしてくれた。日立の対応も丁寧なものだった。大森のデモルームで最新のOAアプリケーションのデモを行ってくれたが、それは実用システムではなく、デモ専用システムだった。機械計算課メンバーの評価は、遥かに本社合理化計画に近い知見を得られた富士通に高かったし、IBMが日本語PC5550で目論む日本語対応アプリケーションより優れていると断じた(6月に何台かの5550を借用しテスト使用)。
③④に関してより熱心に情報開示を提案してくれたのも富士通であった。前年のIBMSTI研修旅行参加もあり、私の関心事は専らこの分野にあった。それまで国産メーカーの先端研究開発に触れる機会はほとんど無かったので、漠然と持っていた先入観は“圧倒的に日立が上”である。特に中央研究所は民間会社の研究所として断トツのステータスを自他伴に認めるところであったから、そのスタッフに一度IBM観を聞いてみたいところであった。しかし、前年のスパイ事件の影響か、そのような提案は全く無かった。それに反し、富士通は中原の研究所(基礎)および沼津の研究所(製品開発)の見学および研究者とのディスカッションの場を設けてくれた。
いくつかの懸案事項がここでかなりはっきりしてくる。例えばIBMが力を入れているIC高密度化対応の水冷システムである。富士通はこれを強制空冷で行うシステム(素子のケーシングにエアフィンが付いている!)を既に開発済みで、そのテスト現場を沼津で間近に見ることができた。騒音レベルは高いものの実用に問題はなさそうだった。また、中原の研究所ではシリコンに代わるガリウム砒素(GaAs)素子の試作品を見せられた。GaAsはシリコンに比べ消費電力が少なく、応答性が速いので将来を期待されている素子だった(絶縁性ではシリコンに劣り、結局コンピュータ用素子としては主流になれなかったが、現在主に高速通信、発光ダイオード、半導体レーザーに使われている)。さらに、日本語の音声認識研究の一端も紹介されたが、STIで訪れたワトソン研究所(基礎)と同じ研究が“日本語”を対象に行われていることに感銘をうけた。
技術的視点で国産機の将来に不安なし。国内OA利用では一日の長あり。それにIBMユーザー情報はTCSIBMMFが採用されており、従来と変わらぬサービス提供が期待できる。これがOPXメンバーの結論であった。

コメント、ご感想歓迎;hmadono@nifty.com へ

(次回;FACOMへの決断)

2013年1月3日木曜日

決断科学ノートー130(メインフレームを替える-24;本格化する次期システム検討)



  明けましておめでとうございます。本年初の記事をブログアップいたします。変わらぬご愛顧をおねがいいたします。

室長交代の前後から次期システム検討が本格化する。4月上旬にはIBM5550の発表を受けて、日本語システム対応策を説明。これを節目にIBM、富士通、日立を対象にしたこの次期システム検討プロジェクトを“オペレーションXO/X)”と名付けることが決まる。
いままでその時々で話題になり、それなりに情報収集をしていた国産機の検討も体系立てて調査するようになっていく。ポイントは①既存アプリケーションソフトの互換性と移行性(IBMから国産機への)、②データベース(DB)の移設方法とアプリケーションとの親和性、③国産汎用機の次期システム展望、④それと密接に関係する部品や周辺システム研究開発状況、⑤特に国産メーカーについては、事務作業改善(OA推進;自社内、顧客)の実態(この知見を本社事務合理化の参考にする)、⑤その他;価格や他社における切替実績とそのスケジュール、などであった。
①に関しては、技術分野(各種技術計算や生産管理ツール、LP)のアプリケーションがエクソン・プログラム・ベースなので互換性はERE(エクソン・エンジニアリング・センター;ニュージャージー)で既にアムダールのシステムで問題なく稼動していることからそれほど心配することは無かった。しかし、事務系統のアプリケーションは全て日本のビジネス慣行に合わせた東燃オリジナルのシステムゆえに互換性は未知だったし、本社事務合理化はほとんどこの分野が中心となるので、綿密なチェックが必要だった。また②のDBについては、IBMIMSと呼ばれるシステムを使っていたが、ここは日立・富士通とも類似(リレーショナルDB)ではあるものの、完全に同一のものではなかったから、先ずIMS→国産機用DB(例えば、富士通ならRDB)への移行、次いでRDBと互換機上で動く各アプリケーションとの親和性をテストしなければならない。現代の通信技術環境ならは一ヶ所に在るデータを共有したり伝送・コピーすることも簡単に可能だが、当時仕様の違うテープやディスクを介しての変換は容易なことではなかった。それでも5月の連休明けには、互換性の質問状に対する回答も得て、テスト仕様が固まり、日立は秦野工場で、富士通は中原(だったと思う)工場で互換運用テストが始まった。
案ずるより生むが易し。IBM互換機ビジネスでシェアーを拡大してきた両社のMFシステムは、移行性に関しては大きな問題も無く動くことが確認できた。オトリ捜査で挙げられるのもなるほどと妙な形で納得させられる。あとは価格と所要切替時間である。価格に関しては当然ながら両社ともIBMよりは安かったし、国産2社間の差はそれほど大きくなかった。明らかに差が出たのはIBMからの切替に要する時間である。日立は一ヶ月の並行ラン(少しずつ移管する)を求めてきたのに対し、富士通はDBの事前コピーを済ませておけば、土日二日で切替可能と答えてきた。当時の電算機室は竹橋のパレスサイドビル内にあり、東燃本社がここに移ってきてからシステム増強が続いて、MFシステムを二つも併設するスペースや電源等の余裕がなかった。これは日立にとってかなりのハンディキャップになった。これに対して富士通は一気に置き換えた事例をいくつも経験しており、万全の自信をもって切替スケジュールを提案してきた。


(次回;本格化する次期システム検討;つづく)

2012年12月28日金曜日

決断科学ノート-129(メインフレームを替える-23;情報システム室長交代)




前回の予告で今回を“本格化する次期システム検討”としたが、その前にこれと深く関わる、室長交代に触れておきたい。
情報システム室の歴史は、経理部機械計算課と製造部数理計画課に発する。1969年この両課が合併、機械計算室が誕生する。その後、1974年技術計算に関わる業務と人を取り込んで、情報システム室へと発展する。さらにその後工場管理やプロセス制御コンピュータの基盤技術を取り込み、コンピュータと名のつくものは全てここが取り扱うようになってきていた。しかし室長は長く機械計算課あるいは数理計画課出身が務めてきており、この時は数理システム課発足時のオリジナルメンバーの一人でであったOTBさんがその任に当たり、次長は技術部(計測・制御)出身のMTKさんであった。
OTBさんは全社の生産計画を行う製造計画課のメンバーであり、1961年に渡米、東燃初の和歌山工場LPモデル開発に関わって以来情報システム一本でやってきた人、社内外にその道の先駆者として知られた人である。OR学会の創設にも貢献、OR学会副会長も務めており、学究肌のタイプである。元々が応用化学出身で数理計画と言うアプリケーション主体のバックグラウンドもあり、コンピュータ技術そのものには必ずしも関心も経験も深くなかった。従ってそれまで付き合ってきたIBM以外にメーカーや機械に興味を示すことは無かった。
これに対して、MTKさんは若い頃からプラント建設部門の計測・制御分野で重責を担ってきており、空気式アナログ→電子式アナログ→デジタルと急発展する制御システム技術を消化し、輸入→海外製品国産化→国産オリジナルと変化する開発・製造体系を評価することが重要な役割であった。つまり、種々のメーカーや機種について日頃から関心が高かったのである。特に、情報システム室に移り、工場管理システムやTCSで汎用機(MF)にも関わるようになってからは、MFの知識も豊富でかつIBM以外へも目を向けることにネガティヴでなかった。
これは本欄“迷走する工場管理システム作り(カテゴリー;工場管理)”に詳しく書いているが、第一次石油危機後、川崎工場の工場管理システム作りに悪戦苦闘していた私は、費用が嵩み取り扱いに専門家を必要とするIBM汎用機の導入を避け、スーパーミニコンと称していたHP3000の採用を決めたが、既に和歌山工場がIBM汎用機を同じような用途に使っていたこともあり、本社・工場幹部を含め反対意見が多い中、それを強力にサポートしてくれたのもMTKさんであった。
MTKさんにとって1983年は、年初から諸事多忙であった。先ずTTECTCSを外販するためのシステム部が発足し、形の上ではその部長職を兼務する(4月から私がその任に当たるのだが)。しばらくすると私の短期海外留学、TKWさんの慶応ビジネススクールへの派遣が決まる。二人が不在の間はその一部業務もMTKさんが代行しなければならない。
そんな中で次期システム検討が本格化する19834月、それまでの主務者であるOTBさんが定年退職を迎えMTKさんが室長に昇格する。このことは既に前年から予想されたものとはいえ、職場の空気はやはりリーダーの資質で大きく変わってくる。まだMTKさんがIBM以外を対等に考えていることを明言したわけではなかったが(そして、あとで知ることになるが、この時点では本心はIBM路線継続だった)、富士通・日立の互換機調査がこの頃から本格化し、その調査活動が“オペレーションX”と名付けられるのである。

(次回;本格化する次期システム検討)

2012年12月21日金曜日

決断科学ノート-128(メインフレームを替える-22;IBM-5550)




次期システム決定のカギが日本語処理であることは当然日本IBMにも伝えてあった。従って、営業は何か日本語の話題があると説明に来ていた。兼松エレクトロニクス(KEL)漢字ラインプリンター導入も、IBMから得た情報に基づいている。日本語処理への要望は決して、東燃たけではなく、否、もっと大規模ユーザー(例えば金融)から早くからあがっていたのである。
日本IBM経営上、最大の課題は、サービスや製品を如何に日本市場向けに合わせるかという点にあった。コンピューターが普及していく初期の段階にあっては、顧客がIBMのやり方に合わせざるを得なかったが、国の経済発展と国産メーカーの成長に伴い、この問題点がクローズアップされてくる。
1975年に社長に就任した椎名武雄氏は、その必要性を自らの社内とIBM本社に訴えるために“Sale IBM in Japan! Sale Japan in IBM!”なるスローガンを掲げて、市場拡大を図ると伴に、日本マーケットの特殊性・重要性を認知させ、それに適ったサービスや製品を提供すべく頑張っていた。しかし、全世界を市場とするIBMにとって、日本だけを特別扱いにすることは至難の業だったようである。
ダウンサイジングの大きな流れが1970年代後半から始まると、当初はミニコンやオフコン出現の延長線と見ていたIBMも、どうやら無視できない歴史的変換点と気付き、1981IBM PCが発売される。今までの製品は全て自社で開発したものだったが、ここでは、インテルのCPU(演算処理装置)とマイクロソフトのOSMS-DOS)が採用された(その後の両社の急成長はこれで決まったと言っていい)。早く市場参入を図るためである。わが国ユーザーの技術者たちは「このPCに日本語処理機能を持たせ汎用機(MF)と組み合わせればよい」とさかんに日本IBMに提言していたが、このPCもグローバルマーケット優先、また能力も低く期待するような日本語処理機能は実現不可能と評価されたようで、日本で発売されることはなかった。
おそらく日本IBM社内とIBM本社でもこの問題が真剣に検討されていたのであろう。19833月ようやく日本語処理機能を搭載したマルチステーションIBM5550が発表される。この製品は日本IBM 独自の製品で、初期の製品は松下電器(現パナソニック)が製造しOEM供給する方式だった。特定の国に特化した製品は世界初ではなかったろうか。
5550の“マルチステーション”は、①日本語ビジネス対応PC、②日本語ワードプロセッサー、③日本語オンライン端末、の三役をこなすことから来ており、単なる独立型PCではなく、MFの端末装置を兼ねるところに特色があった。OSIBM PCMS-DOSではなく、漢字を扱えるK-DOSと言う独自OSであった。またディスプレー装置は一文字24ビット構成もあり(16ビット白黒、16ビットカラー、24ビット白黒)、16ビットでは不鮮明になりがちな漢字をきれいに表示出来るなど、日本市場をよく研究したシステムであった。これでIBMに留まったユーザーはかなり在ったに違いない。
IBMは業界断トツの巨人だけに、そのビジネス推進にはいろいろ制約を加えられており、営業が正式発表以前に新製品情報を流すことは硬く禁じられていた。5550の存在を我々が知るのは2月に入ってから。デモを見、日本語システムに関する方針や全体構成をキチンと聞かせてもらえたのは4月半ばだったと記憶する。しかし、この段階では(その後5550は年々機能強化をしていくが)、まだまだ国産機に一日の長があった。

(次回;本格化する次期システム検討)

2012年12月15日土曜日

決断科学ノート-127(メインフレームを替える-21;1983年初旬まで)




1983年がMFの取替えの年となるのだが、切替時期は現用機のリース契約が切れる年末を目処としていたので、本格的な機種検討・決定は4月初旬からから9月中旬にかけてになる。この山場を語る前に、1982年秋のIBMSTI参加以降そこに至る1983年第一四半期までの情報システム室主要活動と取替えプロジェクト前段階の関わりをフォローアップしてみたい。
二度の石油危機(1973年、1979年)はわが国の石油需給を大きく変え、設備増強路線を大幅に見直す必要が出てくる。東燃が選んだ策は“強守と模索”。つまり経営効率化(省エネルギー、省力化)を徹底的に進め、その収益と余剰人員を新規事業に当てると言うものである。IBM汎用機(MF)を使ったTCSTonen Control System)の導入はその中でも極めて野心的なプロジェクトで、1982年末最初の適用プロジェクトが和歌山工場のBTX(石油化学原料)プラントで完成する。年初から本社機構の“中央サポートチーム”メンバーも和歌山に駐在し、これに専念している。これが終われば、後続のプロジェクトは工場スタッフが中心になり、中央サポートチームの出番はかなり空いてくる。ボヤッとしていると新事業(の研究開発)に取られてしまう。「いっそのことTCSを新事業にしてしまおう!」こんな考えが、IBMからの要請もあって胎動し始める。
もう一つ、業界比でみて目立つのが相対的な本社スタッフの多さである。新人を採用する前に、ここを合理化し既存メンバーの中から新事業要員を捻出する必要がある。そのためにITを用いた業務革新プロジェクト、Tiger-Ⅱが立ち上がり、室内にプロジェクトチームが発足する。ここでのキーテクノロジーとして共通データベースの構築と日本語処理がクローズアップされてくる。
次期メインフレームをIBM以外も含めて検討しようと言う話は、前にも書いたように1981年の春頃から出ているが、82年秋の段階ではまだIBMの日本語処理への取り組み状況と国産機の現状機能との比較、それにIBMMFの上で動いているアプリケーションソフトの国産機上での稼動(互換)性をキチンと詰めておこう(ここでかなり問題が出るだろう)、と言う程度であった。
この調査検討のためのメンバーは、上記のようなプロジェクトが動いていることもあり、固定的ではなかったが、機械計算課課長(MYIさん)、数理システム課長(私;事務局機能)、コンピュータ技術グループリーダー(NKJさん)、合理化プロジェクトリーダー(MTDさん)などが中心で、テーマに応じてそれぞれの課から上級SEが適宜参加するような構成であり、次長のMTKさんが統括していた。
年を越した1983年初旬は既存業務の延長線上で、MF検討以外にかなり時間を取られている。私にとって一番大きな出来事は、東燃テクノロジー(TTEC;エンジニアリング会社)でTCSの外販ビジネスを開始したことである。1月にTTECにシステム部を創設、数理システム課長を務めながら、システム部長兼営業課長としてこの仕事にしばらく軸足を移すことになる。因みに技術課長はTKWさん(事業化に最も意欲的だった)。彼も次期MF検討メンバーだが、同様に新ビジネス立ち上げ時期は専らこれに当らざるを得なかった。加えてMYIさんも合理化第一フェーズの完成を3月に控え、そちらに時間を取られることが多かった。
つまり1983年初旬までの次期MF検討は日本語処理を中心にした断片的な調査が行われたに過ぎず、誰も本気で国産機を導入しようなどとは考えていない。ただ、富士通・日立の日本語処理機能は想像以上に高く、「IBMはこれに対抗できるものを早急に開発できるだろうか?」と言う疑念が生じつつあったのは確かである。

(次回;IBM5550

2012年12月11日火曜日

決断科学ノート-126(メインフレームを替える-20;富士通のパワー・ストラクチャー分析)




先にIBMが行う顧客の意思決定構造調査分析(パワー・ストラクチャー・アナリシス)に触れた(-11参照)。これはいずれの会社でも業態に依らず行っていることで、後年お世話になった横河電機でもやっていた。当然富士通もこの種の情報収集・分析を行っていたことは想像に難くない。
この、会社を代表するメインフレーム(MF)の次期システムの話が出たのは、まだ私が川崎工場に居た1981年春先であったことは既に述べた。しかし、誰も本気でIBM以外のシステムを導入することは考えておらず、「最近の国産機の状況はどうなっているんだろう?」位の軽い気持ちだったように思う。それでもヒアリングを受ける方は、当然「チャンス!万が一にも!」と取ったに違いない。私が本社に転勤する前から、本社関係者とのコンタクトが始まっていた。
私と富士通の関係は既に述べたが、ここで本社情報システム室と富士通の付き合いについて、私の知るところを述べてみたい。
ひとつは本社情報システム室数理システム課の前任課長であるISKさん絡みの関係である。ISKさんは当時の東燃では珍しく途中入社である。入社年度は私と同じ1962年ながら、卒年は1960年。東燃がIBM汎用機導入(S360)を検討し始めた時、一足先に富士通の代理店であった有隣電気から移ってきたのである。コンピュータ利用が緒についたばかりの時代、専攻(数学科)したプログラミング技術を直ぐ生かせる職場は限られており、この会社に就職したようだ。その後義父(SNPさん)が東燃の常務であったことから、転社することになる。東燃でも若い頃の仕事はプログラム開発に専念、LP(線形計画法)のデーター入力システムとして、IBM標準品(確かHASPと呼ばれていたように記憶する)を大幅に改善したものを開発、それを富士通にもライセンス販売したりしている(FASP)。
このFASP販売の話は、和歌山工場が工場管理システム構築プロジェクトを進める中で、機種検討を行うに際して、IBMの他東芝、富士通にも照会したことに端を発している。「本社に比べるとチャンスあり」ととらえた、国産二社がトップセールスを含む激しい売り込み行っている最中のことである。しかし、ISKさんは管理職になってもあまり政治的な動きをする人ではなかったから、彼を通じたチャネルはそれほど太いものではなかった。
もう一つのコンタクト先は、この和歌山工場向けシステムを担当する石油・化学営業本部長、OBTさんと東燃の企画課長(のちに企画部長)のSITさんが大学同期であったことである。SITさんと私は全く職種・職場が違っていたので1980年管理職研修で一緒になるまで口も聞いたことがなかったが、これを契機に大変親しくなっていた。本社転勤後しばらくしてOBTさんが挨拶にみえ「実はSITさんと同期で・・・」と打ち明けてくれた。あとでSITさんにそのことを報告すると「そうなんだ。よろしく」とのこと。しかし、それ以上特に富士通に肩入れするような言動はなかった。両者ともオ-プンな雰囲気が好ましかった。
こんなことがあって、1982年になると富士通の営業がよく情報システム室に出入りするようになる。IBMが従来のコンタクトライン<室長・次長・数理システム課長・コンピュータ技術担当>を専らにするのに対して、富士通は“日本語システム”に関心が高い機械計算課も確りフォローしていた。私がIBMMFをベースとするTCSTonen Control System)の強力な提唱者であること、国産機を含めたMF検討が話題に出たとき「IBMでいいじゃないですか」と言ったこと、一ヶ月余にわたるIBMSTIに参加して、IBM礼賛の出張報告をしたこと、も伝わっており“ガチガチのIBM派”とレッテルを貼られていたらしい(2週間前、当時は全く付き合いの無かった富士通の人と飲んだ。「社内じゃ皆そう思っていましたよ」と言われた)。
分析結果は、次長のMTKさんが鍵を握っていること、機械計算課長MYIさんは積極的な関心を示していること、私を富士通に好意的になるよう活動(些か無理な要求にも対応する)すること、だったようだ。

(次回;1983年初旬までの状況)