次期システム決定のカギが日本語処理であることは当然日本IBMにも伝えてあった。従って、営業は何か日本語の話題があると説明に来ていた。兼松エレクトロニクス(KEL)漢字ラインプリンター導入も、IBMから得た情報に基づいている。日本語処理への要望は決して、東燃たけではなく、否、もっと大規模ユーザー(例えば金融)から早くからあがっていたのである。
日本IBM経営上、最大の課題は、サービスや製品を如何に日本市場向けに合わせるかという点にあった。コンピューターが普及していく初期の段階にあっては、顧客がIBMのやり方に合わせざるを得なかったが、国の経済発展と国産メーカーの成長に伴い、この問題点がクローズアップされてくる。
1975年に社長に就任した椎名武雄氏は、その必要性を自らの社内とIBM本社に訴えるために“Sale
IBM in Japan! Sale Japan in IBM!”なるスローガンを掲げて、市場拡大を図ると伴に、日本マーケットの特殊性・重要性を認知させ、それに適ったサービスや製品を提供すべく頑張っていた。しかし、全世界を市場とするIBMにとって、日本だけを特別扱いにすることは至難の業だったようである。
ダウンサイジングの大きな流れが1970年代後半から始まると、当初はミニコンやオフコン出現の延長線と見ていたIBMも、どうやら無視できない歴史的変換点と気付き、1981年IBM PCが発売される。今までの製品は全て自社で開発したものだったが、ここでは、インテルのCPU(演算処理装置)とマイクロソフトのOS(MS-DOS)が採用された(その後の両社の急成長はこれで決まったと言っていい)。早く市場参入を図るためである。わが国ユーザーの技術者たちは「このPCに日本語処理機能を持たせ汎用機(MF)と組み合わせればよい」とさかんに日本IBMに提言していたが、このPCもグローバルマーケット優先、また能力も低く期待するような日本語処理機能は実現不可能と評価されたようで、日本で発売されることはなかった。
おそらく日本IBM社内とIBM本社でもこの問題が真剣に検討されていたのであろう。1983年3月ようやく日本語処理機能を搭載したマルチステーションIBM-5550が発表される。この製品は日本IBM 独自の製品で、初期の製品は松下電器(現パナソニック)が製造しOEM供給する方式だった。特定の国に特化した製品は世界初ではなかったろうか。
5550の“マルチステーション”は、①日本語ビジネス対応PC、②日本語ワードプロセッサー、③日本語オンライン端末、の三役をこなすことから来ており、単なる独立型PCではなく、MFの端末装置を兼ねるところに特色があった。OSもIBM PCのMS-DOSではなく、漢字を扱えるK-DOSと言う独自OSであった。またディスプレー装置は一文字24ビット構成もあり(16ビット白黒、16ビットカラー、24ビット白黒)、16ビットでは不鮮明になりがちな漢字をきれいに表示出来るなど、日本市場をよく研究したシステムであった。これでIBMに留まったユーザーはかなり在ったに違いない。
IBMは業界断トツの巨人だけに、そのビジネス推進にはいろいろ制約を加えられており、営業が正式発表以前に新製品情報を流すことは硬く禁じられていた。5550の存在を我々が知るのは2月に入ってから。デモを見、日本語システムに関する方針や全体構成をキチンと聞かせてもらえたのは4月半ばだったと記憶する。しかし、この段階では(その後5550は年々機能強化をしていくが)、まだまだ国産機に一日の長があった。
(次回;本格化する次期システム検討)
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