2012年12月15日土曜日

決断科学ノート-127(メインフレームを替える-21;1983年初旬まで)




1983年がMFの取替えの年となるのだが、切替時期は現用機のリース契約が切れる年末を目処としていたので、本格的な機種検討・決定は4月初旬からから9月中旬にかけてになる。この山場を語る前に、1982年秋のIBMSTI参加以降そこに至る1983年第一四半期までの情報システム室主要活動と取替えプロジェクト前段階の関わりをフォローアップしてみたい。
二度の石油危機(1973年、1979年)はわが国の石油需給を大きく変え、設備増強路線を大幅に見直す必要が出てくる。東燃が選んだ策は“強守と模索”。つまり経営効率化(省エネルギー、省力化)を徹底的に進め、その収益と余剰人員を新規事業に当てると言うものである。IBM汎用機(MF)を使ったTCSTonen Control System)の導入はその中でも極めて野心的なプロジェクトで、1982年末最初の適用プロジェクトが和歌山工場のBTX(石油化学原料)プラントで完成する。年初から本社機構の“中央サポートチーム”メンバーも和歌山に駐在し、これに専念している。これが終われば、後続のプロジェクトは工場スタッフが中心になり、中央サポートチームの出番はかなり空いてくる。ボヤッとしていると新事業(の研究開発)に取られてしまう。「いっそのことTCSを新事業にしてしまおう!」こんな考えが、IBMからの要請もあって胎動し始める。
もう一つ、業界比でみて目立つのが相対的な本社スタッフの多さである。新人を採用する前に、ここを合理化し既存メンバーの中から新事業要員を捻出する必要がある。そのためにITを用いた業務革新プロジェクト、Tiger-Ⅱが立ち上がり、室内にプロジェクトチームが発足する。ここでのキーテクノロジーとして共通データベースの構築と日本語処理がクローズアップされてくる。
次期メインフレームをIBM以外も含めて検討しようと言う話は、前にも書いたように1981年の春頃から出ているが、82年秋の段階ではまだIBMの日本語処理への取り組み状況と国産機の現状機能との比較、それにIBMMFの上で動いているアプリケーションソフトの国産機上での稼動(互換)性をキチンと詰めておこう(ここでかなり問題が出るだろう)、と言う程度であった。
この調査検討のためのメンバーは、上記のようなプロジェクトが動いていることもあり、固定的ではなかったが、機械計算課課長(MYIさん)、数理システム課長(私;事務局機能)、コンピュータ技術グループリーダー(NKJさん)、合理化プロジェクトリーダー(MTDさん)などが中心で、テーマに応じてそれぞれの課から上級SEが適宜参加するような構成であり、次長のMTKさんが統括していた。
年を越した1983年初旬は既存業務の延長線上で、MF検討以外にかなり時間を取られている。私にとって一番大きな出来事は、東燃テクノロジー(TTEC;エンジニアリング会社)でTCSの外販ビジネスを開始したことである。1月にTTECにシステム部を創設、数理システム課長を務めながら、システム部長兼営業課長としてこの仕事にしばらく軸足を移すことになる。因みに技術課長はTKWさん(事業化に最も意欲的だった)。彼も次期MF検討メンバーだが、同様に新ビジネス立ち上げ時期は専らこれに当らざるを得なかった。加えてMYIさんも合理化第一フェーズの完成を3月に控え、そちらに時間を取られることが多かった。
つまり1983年初旬までの次期MF検討は日本語処理を中心にした断片的な調査が行われたに過ぎず、誰も本気で国産機を導入しようなどとは考えていない。ただ、富士通・日立の日本語処理機能は想像以上に高く、「IBMはこれに対抗できるものを早急に開発できるだろうか?」と言う疑念が生じつつあったのは確かである。

(次回;IBM5550

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