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2009年12月31日木曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(37)

37.グランドツーリングを終えて(最終回) たった4泊5日の旅を、半年以上かけて書くことになったのは、この紀行文を、大好きな自動車と独り立ちした日々の思い出を重ね合わせることを目論んだからである。いわばこれは“自動車自分史”と言っていい。
 それほど積極的に国内旅行はしていないが、一通り北海道から沖縄まで仕事で、観光で訪れている。車で走った所も関西・四国・山陽・山陰・北陸・東海・関東・甲信越・東北におよび、北海道も一部だがレンタカーで駆け抜けた。季節も四季にわたっている。その限られた風土感の中で、やはり紀伊半島、特にその南部は特異な土地だと思う。京都・奈良・大阪と言う歴史的に古くから開けた土地に隣接し、徳川御三家の一つであったが、日本の近代化は東海道・山陽道を機軸に進められ、日本最大の半島はそれからも外れ、紀ノ川沿いを除けばそして鉄道と道路を除けば、ほとんど古の姿を今に留めているのではないだろうか。これは和歌山県ばかりでなく三重県南部も同じである。ここに住む人々にとっては不便極まりないことだろうが、この未開発こそヒョッとしたら日本の財産かもしれない。
 こんな土地の深奥部を探るには車は持ってこいの手段である。40数年前に比べ道路は格段に良くなっていた。地上高の極めて低いボクスターでも走りに困るところは一ヶ所も無かった。山あり谷あり海もあり、渋滞も無く変化に富んだ道をドライブできる楽しみを堪能した。似たような位置付けにある房総半島は起伏に乏しく、内房はほとんど産業道路でこことは比べものにならない。
 日中出会う車は圧倒的に女性が運転する軽自動車が多い。これは今やわが国の地方では当たり前の光景だが、鉄道が半島周縁部しか走らないこの地では当に生活必需品である。地方出身の国会議員が生命線とも言える道路予算獲得に狂奔するのがよく分かる。
 問題はこの様なところでどう生活していくかである。走った道々に寂れ行く集落、廃屋、シャッター商店街を多く見かけた。平野部が少ないこの土地へ新たな企業が進出してくる気配は無い。あとは温泉と歴史を売り物に観光業を振興するくらいしか思い浮かばない。ただ歴史に関しては、南部では熊野の三社とそれ等へのアプローチ“熊野古道”と言うことになるが、今の道路事情(高速道路の整備状況)では京阪神から気軽に出かけられる環境ではない。半島外周を結ぶ自動車専用道路の完成が待たれる。
 和歌山市中心部の衰退は想像以上だった。しかし、国体道路などを走ると昔とは異なる生活パターンに変わってきていることがよく分かる。息子に聞くとシネマコンプレックスなどもあり、車で出かけられる郊外の大型ショッピングセンターで過ごすことが多いと言う。駅の東側が開けたこともこの町が変わってきた証だ。関空に近いことが首都圏や海外を身近にし、JRの電化延長、阪和道など大阪中心部へのアクセスも良くなっている。昔は工場周辺の社宅に住むのが慣わしだった幹部たちは、子女の教育や生活パターンの多様化で和歌山市内や更に大阪との中間に住まいを持つようになってきていると言う。地方でも中心都市集中の傾向が強まってきていることがここでも起こっている。これからの地方の在り方かも知れない。
 最後に車文化について少し触れてみたい。生活のための車として軽自動車が地方に多いことは前に触れた。観光地や休日に多く見かける車はワゴン車やミニバン、どう見ても“運転が楽しい”車ではない。それでも子供連れの生活にはセダンよりずっと使い勝手が良いのだろう。オープンカーはともかく、遊び車としてのカッコ良さはクーペに尽きるがこれも道中ほとんど見かけなかった。英国やイタリアで垣間見た、ヨーロッパ車文化との違いは明らかに在るし、それは道路・交通行政にも反映している。例えば一般道路における信号の多さはずば抜けているし、車を駆る人間は、嘗ては特権階級、今は凶器を振り回す犯罪者扱いである。自動車専用道路の整備も未だ充分とは言えない。環境規制が厳しさを増す中で、この傾向はさらに強まるのだろう。我々世代が“車に憧れ、楽しむ”最後の世代なのかも知れない。
 完全リタイア後何度か長距離ドライブを楽しんできた。何と言っても時間に縛られることが少ないのが良い。今回は懐かしの地を訪ねることもあり、時間的余裕を充分とった。その分想い出に浸れる機会も多く、変わったもの変わらぬところ、ともに楽しむことが出来た。帰りは一気に帰ったものの、ほとんど自動車専用道路だったこともあり予想以上に早く楽に帰り着いた。これからのグランドツーリングへの自信にもなった。能登半島、秋田方面、島なみ街道などを走ってみたいと思っている。
 神々を訪ねながら48年を振り返る旅の総走行距離は約1380km、ガソリン消費量;約122L、燃費;11,3km/L(都会の渋滞走行はともかく、この燃費は決してハイブリッド車に負けない!)であった。

                (長期のご愛読、有難うございましたm(_ _)m
                         -完-

2009年12月29日火曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(36)

36.休日割引を走る
 5月23日、日曜日。朝ホテル7階の食堂から見下ろす道路は雨に濡れている。しかし、道を行く人は傘をさしていない。今日はこの半島を去る日。一気に横浜まで走る予定なので、酷い雨だけは勘弁して欲しい。そんな願いはどうやら叶えられそうだ。

 帰路のルートをどうするか?このグランドツーリングの重要課題だった。例の休日高速料金割引の適用を最大限利用し、かつ出来るだけ走りを楽み、さらに運転時間を短く、と言う条件をバランスさせなければいけないからである。
 高速割引を最も享受出来るルートは、阪和道→阪神高速→名神→東名と言うルートだが、阪神高速と名神のインターチェンジがある吹田は渋滞の名所、そこから名古屋までも何ヶ所か渋滞多発地帯がある。それに大阪市内を高速で抜けるのも難儀だ。何度か過去に走ったが景色も町も滋賀県内を除けば気分が和むような所は無かった。新名神にはチョッと惹かれるが、次案である東名阪と亀山で合流するので、それならショートカットの名阪中心のルートの方が早い。
 次案はそのショートカットコースである。阪和道→阪神高速までは同じだが、阪神高速を大阪環状手前、松原JCTで西名阪に分岐しその終点天理で名阪道につないで、亀山まで走って、東名阪に乗り四日市JCTで伊勢湾自動車道→豊田JCTで東名に入る案である。和歌山在住時代紀ノ川沿いの道から大和高田を経て亀山へ出るルートは実家との往復で何度か利用しているが、既にその時代名阪自動車道は天理・亀山間が完成しておりその変わり様を見てみたい気もした。しかし、このルートは休日割引に関しては問題があった。それは名阪自動車道が自動車専用道路ではあるが一般道路(無料)なので西名阪を出たところで一旦高速割引が切れ、亀山で東名阪に乗るところから再び高速料金体系が適用されるため名神-東名ルートより割高になることである。ただ絶対的な料金の差は数百円なのでこのルートを走ることにした(休日の高速料金割引は旧道路公団の道路;今回の検討対象の場合、名神、東名、阪和、西名阪、東名阪、伊勢湾に適用され、阪神高速は適用外。旧公団道路はぶつ切りされ、いずれのルートでも1000円で走ることは出来ない)。
 8時半ホテルを出た時には雨は完全に止んでいた。紀勢線のガードをくぐり数分走ると阪和道和歌山IC入口にモービルのSSが在ることを調べておいたのでそこで満タンにした。40.13lだった。前回の給油からの走行距離は420km強、10km/Lは山道を走った事を考えれば上出来である。この燃費ならあとは無給油で家まで帰れる。
 阪和道を自分の運転で走るのは初めてである。日曜の早朝、上り車線は空いている。注意するのはパトカーだ。松原JCTへは堺を越えて大阪市内に入るが混雑は無い。カーナビが西名阪へと導いてくれる。今日は長丁場になるので適度な休憩が必要だ。最初の一休みは大和高田の北に位置する香芝PA、駐車場には家族づれのミニバンが多い。
 天理までが有料道路の西名阪、そこから国道25号線になるがこれは自動車専用道路なので、走りに変わりはない。渋滞は無いが休日の家族ずれで道は走行車線、追い抜き車線とも切れ目無く続いている。天理を過ぎると景色が変わり起伏が出てくるのと、周囲が山林や田畑に変わる。空が明るくなって陰影がはっきりしてくるのも好ましい。走りを楽しむ区間だ。次の休憩を亀山PAでとった。
 ここから再び有料道路の東名阪に入る。昔は、自動車専用道路はここまでだったので、四日市を経て国道1号線に入り幾つもの街中を通ったが、今はその煩わしさはない。東名阪から伊勢湾道路に入ると木曽川を始め大きな川が集中するので橋の連続だ、丁度湾岸道路を東京方面から横浜に向かって走り鶴見のつばさ橋からベイブリッジへつながる感じと似ている。幅がたっぷりあるし走る車も多くないのでついスピードが出てしまう。ちょっと複雑な豊田JCTも難なく通過、東名に入る。浜松SAに着く頃には天気も完全に晴れ絶好の行楽日和。あの広い駐車場がほとんど埋まっている。食堂の混雑は凄まじいばかりだ。
 休日なので東名名物の長距離トラックは少ないが、初夏の快適な気候、とにかく自家用車(ワゴン車、ミニバンが)はこの割引を最大限享受しようと走り回っている感じだ。次の休憩地、足柄SAの混みようも同様だった。それでも道路の流れはまずまずで、横浜・町田ICで新保土ヶ谷バイパスに降り、横々道路を経て3時半には自宅に帰り着いた。

 通行料金は総額3250円、休憩を含めてかかった時間は約7時間、走行距離558km、翌朝満タンにしたガソリンの量は44.64L、燃費12.5km/L!驚異的な数値であった。


 次回は最終回、“グランドツーリングを終えて”をお送りします。
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2009年12月24日木曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(35)

35.和歌山市内 初島から阪和道海南ICまでの道は全く昔と変わらない。冷水(しみず)浦や片男波辺りから和歌の浦、更に先の紀淡海峡を見通す景観は、48年前乗った汽車からの眺めを今に残し、いつ見てもその美しさに心が洗われる。万葉人も愛でたその時代が時空を超えて伝わってくるのだ。
 ここから海南市内をバイパスして和歌山駅(元東和歌山駅)に至る道は、海南市の北端から紀三井寺を経て和歌山駅まで昭和46年の黒潮国体を機に、嘗ての路面電車の軌道跡を中核に大幅に整備され、海南市内も海岸の埋め立てで工業団地が出来たときにバイパスが作られ見違えるように走り易くなっていた。とは言っても、楽しい走りが出来る道ではない。他の大都市周辺の新道と同じくけばけばしく、安っぽい感じの飲食店や車関係の店、ショッピングセンターなどが両側を埋めている。土曜日の午後と言うこともあり、買い物客の車の出入りが多く車線変更に細心の注意が必要だ。カーナビの案内が有り難い。何とか2時過ぎにJR和歌山駅に隣接するホテル・グランヴィア和歌山の駐車場に辿り着いた。
 ホテルは駅の西側、息子のマンションは駅の東側。訪問するのは今回が初めてなので、東側駅前広場の一角にある、関空バスの発着場で待ち合わせして新居を訪れた。和歌山を去った当時は駅の東側はほとんど何も無かったが、今は綺麗に区画整理されニュータウンが出来上がっている。紀三井寺から駅までの道やこの周辺を見ると、新しい和歌山市が形作られてきているのが分かる。後でも述べるが、その分旧市街中心部は衰退著しい。
 土地代が安いこともあり、和歌山ではどこでも家は立派だが、息子のマンションも首都圏とは大違い。駅から徒歩10数分の比較的新しいマンションは東西南の三方に開口部がある。その6階の部屋からの眺めはなかなかのものであった。京橋界隈で生まれ育った嫁も、文化ギャップは感じているようだが、ここでの生活を楽しんでいるように見え一安心。
 一休みして息子の車で市内見物に出かける。先ず向かったのは和歌山城、御三家の一つ紀州徳川家の居城である。残念ながら昭和20年7月の爆撃で11棟あった国宝建造物はすべて焼失、現在はコンクリート製である。しかし小高い丘(虎伏山)に聳え立つ天守閣からの眺めは、四方に下々を睥睨して殿様気分を堪能させてくれる。周辺は古くは武家屋敷、今では官庁や学校などが集中しており、南側には落着いた佇まいの個人住宅が残っている。
 次に向かったのは万葉にも詠われた和歌の浦、その最西端にある雑賀崎である。戦国時代信長・秀吉に抵抗して壊滅させられた傭兵集団、雑賀衆ゆかりの地である。和歌山には日本史が直ぐそこにあるのだ。
 一車線がやっとの狭く曲がりくねった道を辿って小半島の先端、雑賀崎灯台に至る。南北と西は海、遥か彼方まで見渡せ、南には東燃のタンク群が西日に映えていた。新入社員教育時、会社のタグボートでこの海を往復したことが思い出される。
 灯台からの小道を小半島周回の道路に出て、反時計方向に周ると直ぐに新和歌の浦に出る。断崖絶壁からの景観を利用した旅館街は、嘗ては和歌山市の奥座敷だったが今は見る影も無い。研修施設などに転用されているところもあるが、まるでゴーストタウンである。それに比べれば、観光地としての地位を一旦新和歌に奪われた古くからの町、和歌の浦は生活の匂いが昔と変わらぬ姿で残っていた。変化を求めるのが良いのか?自然体で行くのが良いのか?判断の難しいところである。
 一旦ホテルと自宅に戻り、一休みして繁華街、ぶらくり丁(ぶらくる;ぶら下げるの意、アーケード街)界隈を見物して、そこからからさほど遠くない「銀平」と言う魚料理の店に出かけることになっていた。6時過ぎにホテルロビーに集合、タクシーで嘗ての大通り、築地通りのぶらくり丁入口まで行き、そこからもう一つの市内主要道路、中央通りへ至るアーケード街を歩いてみた。土曜の夕方、本来なら賑わう時間帯である。しかし今ではほとんどの店が閉店か開けていても閑散としている。中央通りへ出ると唯一のデパート「丸正」は既に無い。地方都市における経済活動の激変を思い知らされた。
 「銀平」はそのぶらくり丁の南側を流れる市掘川沿いに在った。銀座にも支店が進出するほどの店はほとんど満員、消費構造は変わっても優れた商品・サービスを提供するところは生き残っているのだ。ここの仕上げで味わった「鯛めし」は絶品であった。
 少し距離はあったが、帰りは駅までの途上、社用族御用達の高級料亭や小料理屋、バーが在った新地(あろち)を抜けて歩いた。しかし、ここも専らいかがわしい風俗ビジネス街に変わっていた。
 夜の和歌山市街地の変わり様は、浦島太郎の玉手箱を開けてしまった姿にも等しい。日本全体の縮図かもしれない。こう感じるのも歳のせいだろうか? 

 本日の走行距離は概ね120km。
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2009年12月19日土曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(34)

34.中紀へ-2(湯浅・有田) 道成寺の在る御坊市は他にも何度か訪れた観光スポットがある。半島の最西端となる日の御碕とそのつけ根にあるアメリカ村。そこから南へ延びる小石の浜辺、煙樹(えんじゅ)が浜などがそれ等だ。アメリカ村はこの地からアメリカへ移民した人たちが里帰りして作った如何にもバタ臭い感じの集落で、「こんな僻地に!こんなモダンな!」とびっくりさせられた。煙樹が浜も非常にユニークな浜辺で、小さな砂利が長い浜を埋め尽くし、波が打ち寄せるたびにその移動音がジャラジャラと響きわたる。立寄ってみたい気はあったが、後のスケジュールを考えると3時までには和歌山市に着きたい。後ろ髪を引かれつつパスすることにした。
 御坊市内を過ぎると道は嘗ての難所、由良峠にかかる。40年前この地を去る時にはトンネルで抜ける新道が既に出来上がっていたが、それ以前は白浜までの間で最も難渋する、曲折する未舗装道路だった。入社翌年の夏、計器係の同僚が体調を崩し、見舞いのため係長のブルーバードでこの峠越えで御坊まで往復した時は汗と悪路の埃で大変な思いをした。
 トンネルへ至る上り坂、そこを抜けると眼下に由良港が見える。景色は往時と何も変わっていない。やがて車はこの地方の古くからの産業と行政の中心地だった湯浅町に至る。ここも40年前にバイパスが出来ており、通常はそこを通るので街中に入ることは無かった。和歌山工場勤務中ここに用があったのはたった一回、簡易裁判所で生まれて初めての交通違反略式裁判を受けた。和歌山市駅(南海)の広っ原とも歩道とも判然としない場所に車を駐車しておいたところ「違法(歩道)駐車」と断じられたのである。木造の村役場の一角にその裁判所が在った。しかし、街なかの印象は全く記憶に残っていない。
 今回はここで訪ねる所がある。醤油発祥の地(全国ブランド、ヤマサもキッコーマンも元はここにある)湯浅に唯一残る、創業170年を誇る醤油製造元の「角長(かどちょう)」である。これも前出のOG君のアドヴァイスだ。ここでは今でも冬にのみ仕込を行い、味噌の桶に溜まった汁(たまり)をたまり醤油として生産している。生産方式が伝統に則るだけにオリジナルな味わいを維持し、生産量は限りがあるのでそれが希少価値を生んでいる。
 セットしたカーナビは、古い町並みの中を信じられないような狭い道を選んでくる。対向車が来たら完全にお手上げだ。幸いそんなことも無く、如何にも由緒がある、それらしき木造の大きな倉庫のような建物へ導いてくれた。建物の近くには駐車スペースが無い。店を確かめた上で付近を徘徊すると何とか2、3台の車が停められる場所が見つかった。見ると“なにわ”ナンバーのワゴン車が停まっている。観光客に違いない。丁度店から数本の醤油ビンを提げた客がこちらに向かってくる。行き違いに確認すると、駐車場はそこで良いのだと言う。
 店は土間と僅かな商品を並べた棚、それと帳場のような部分がある。誰も居ないので声をかけると奥から若い娘さんが出てきた。横浜から半島を巡る旅の途上と話すと、商品の説明のほか、横浜で求められるところも教えてくれた。たまり醤油の小瓶(300ml;500円)を三本求めてこの地を去った。貴重なものなので専ら生で用いる時しか消費しない。
 町を出て42号線に戻ると道は直ぐに有田(ありだ)川南岸の土手を走る。この辺までは車を持つ前から自転車でよく出かけてきたところだ、川の両岸は僅かな平地に畑(昔は田圃)や集落がありその先は小高い丘で、斜面には蜜柑畑が続く。この沿線はドライブインの多いところだったが、今では駐車場のあるショッピングセンターなどが目立つ。こちら側にこのような店が在るということは、北側の箕島駅から線路と併行する旧商店街はどうなっているのだろうか?そんなことが気になりながら、少し遅い昼食を車の停めやすいドライブインの一つでとった。
 紀勢線は川の反対側をそれに並行している。昔の42号線はこの食堂のある通りを更に西に進み、有田川河口最後の橋、安蹄(あぜ)橋を右折して渡り箕島駅方向に向かい、駅へは直行せず、対岸の土手うえの道路を直ぐ左折して西に向かうルートだった。今ではその橋を渡らず、更に南岸を西進して河口に新しく出来た橋を通るようになっている。新しい橋は紀勢線を跨ぐため旧道よりはるかに高い位置に高架で作られている。この道は転勤後まだ現役時代にできたので、その存在は知っていたが走るのは初めてである。寮への分岐路に近い有田警察署のところで旧道につながっている。

 初島小学校の前で左折して初島駅に向かう。7年暮らした初島の町は昔より寂れている。駅前のパチンコ屋も潰れていた。10年位前までは僅かに残っていた零細な商店も営業しているところは無い。人の気配が全く無い道を工場の正門前に至り、ここでUターンして42号線方向へ戻る。42号線沿いにある和歌山クラブ(宿泊所、体育館、グランド)や幹部社宅、独身寮の在った竹田地区に行ってみる。会社のスポーツ大会でもあったのか、グランド周辺に結構人が集まっていた。知った顔でもと思い車を降りてみたが、知らない人ばかりだった。むしろ横浜ナンバーの妙な車を訝しげに見る目に居心地が悪い。ここはもうふるさとではなかった。
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2009年12月12日土曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(33)

33.中紀へ-1(道成寺)
 和歌山県は大別すると紀ノ川流域の紀北、海南から御坊辺りまでの中紀、田辺から新宮に至る南紀に分けられる。このうち南紀は全国ブランドと言って良いし、紀北は何と言っても御三家、紀州徳川家の本陣、地域名はともかくそれなりの存在感がある。行政・産業の中心は紀北、南紀には数々の観光スポットと温泉。それに比べるとこれと言ったランドマークの無い中紀は極めて地味な土地である。しかし、社会人としての一歩を踏み出し7年暮らしたこの地方には一入の思いがある。
 5月23日(土)のこの地方の天気は晴れ。出発の朝の気分は、久し振りの故郷訪問に些か躁状態であった。ロビーのお土産物コーナーで、和歌山工場長を務めたこともあるOG君に5月のOB会で推奨された“柚子もなか”を購入し、フロントで道成寺の住所を確認、カーナビにそれをセットしてホテルを出発した。
 42号線に取り付く温泉街からの県道は、嘗ては有料道路だったはずだが、今では一般道になっている。42号線に出ると、そこから新しい田辺バイパスが出来ており、それは阪和自動車道路の南紀田辺ICにつながっている。この道は初めて走る道だ。確りした分離帯の在る4車線の道は空いていて走りやすい。田辺の市街地をバイパスしたところで専用道路には向かわず42号線に下る。2車線の道は昔何度も走った道だが、歩道が整備されたり、両側の商店やオフィスは車でアクセスしやすい作りになっており、随分感じが変わっている。しかしそれらもやがて消え去り、左側に海を眺めながらのアップダウンに変わると、信号が増えた事を除けば40数年前の風景がそのままの姿をあらわしてきた。梅で有名な南部(みなべ)を過ぎると家並みも疎らになり、走る車も少なくスピードを上げたくなる。しかし、田辺の市街地を離れる際、自動監視装置が在りそれがチッカとしたような気がして自重する(あとで何も無かったところをみると、カメラ前部のガラスに反射する、センターラインの白い破線がそんな錯覚を起こさせたようだ)。
 昔よく一休みした、海を望見できる切目崎には往時と同様ドライブインがあったが、建物は小ぶりになり駐車している車も無かった。時間帯(10時頃)もあるが阪和道が出来て、このルートをとる車が少ないのだろう。有吉佐和子の川三部作(紀ノ川、有田川、日高川)の一つ日高川の手前でナビが42号線を外れて右方向へ向かうよう指示してきた。昔とは違う道だが方向は感覚的に納得。御坊市はこの地方では比較的大きな街なので地方道が整備され、市街を通らず南からのショートカットが出来ているのだ。どうやら阪和道からのアクセス道路らしい。紀勢線を渡ると直ぐ道成寺の門前に着いた。駐車場には中型の観光バスが一台停まっているだけだった。土曜日でも午前はこんな調子なのだろうか?
 門前の両側に並ぶお土産物屋や休憩所、寺へ登る石段は昔通りである。開店間際のせいか店の人もあまりしつこくないのが救いだ。山門の正面に在る本堂もそのまま、ここの回廊を巡りながら、名物和尚のユーモアたっぷりの“安珍・清姫”の話を聞かせるのがこの寺の売りであった。あの和尚はもう居ないだろうが、現在はどんな説明を聞けるのか、ここへの訪問を決めた時から関心はその一点にあった。しかし、どうも本堂の辺りに人の気配は無い。
 山門の左手にはコンクリート製の朱塗りの柱を持つややけばけばしい建物があり、寺務所のような一角が在る。窓口で確認すると、そこは宝物殿で国宝のご本尊(千手観音)などが展示されており、定時毎に説明をするとのこと。観光バスで来た人たちと個人旅行者が数組、全部で20人くらいが11時前に集まったところで、二人の僧侶が入殿。一人が宝物に関する説明をし、しばし見学。この後隣の大広間に移る。ここには安珍・清姫にまつわる絵画や歌舞伎で用いた衣装などが展示されている。もう一人の僧が先ずこの寺のモットー「妻宝極楽」(主婦こそ家庭の柱)について説教し、これが済むと絵巻物(写本)を取り出してメインイヴェント、安珍・清姫の「絵とき説法」が行われる。話し方は淡々としたもので、あの時の見事な語り口は、残念ながら伝承されてはいなかった。 

 昼食を摂るには少し早い。中紀唯一の観光名所、道成寺の拝観を終え、次の訪問地湯浅へと向かう。
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2009年12月6日日曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(32)

32.白良浜と白良浜荘 “白浜”の由来は無論白い浜から来ている。40数年前も現在も白いのは白良浜(しららはま)と呼ばれる、紀伊水道に向かって西に開けた中央部分の浜だけで後は岩場だったり茶色い砂だったりで白い浜ではない。何故ここだけが白いのか?
 少し調べてみると、どうやら昔と今とではその白さの基が違うようだ。今日走ってきた中辺路から白浜に至る道は富田川に沿っている。この富田川の上流は砥石に適した砂岩の産地として有名だが、これは石英分を多量に含み流れの中で細かな白くきらきら光る砂に変じ、河口に堆積して白良浜が出来上がっていたらしい。
 しかし1970年代この川の町中を流れ海に至る部分を暗渠にしてからこの白い砂の吐き出し場所が変わり、浜は茶色に変色してしまう。そこで“白浜”を維持するために、白い砂をオーストラリアやニュージーランドから運んできて、いまでもそれを続けているのだと言う。
 ハワイ・オアフ島は火山島(黒砂)なので本来姉妹浜のワイキキも白い浜辺ではなかった。どこかから大量の白砂を運んできて今の美しいビーチを作ったと聞く。そちらのほうはそんな話を随分昔聞いていたが、こちらも同じ人工的な白浜であることを今回の旅で初めて知った。
 白良浜荘グランドホテルはこの白良浜の北の端にあり、湾曲した白い浜をその南端まで見渡せる絶好の場所にある。昭和の初めに開業し、関西有産階級ご贔屓の高級旅館だったが、戦後は一時期米軍に接収され、その後皇族方(昭和天皇を含む)もご利用になるような格式の高い特別な場所になっていた。工場では幹部がゴルフをするときに利用する程度で、一般社員が気楽に訪れる所ではなかった。一度あそこに泊まってみたい。そんなことを思い続けていたので、息子に頼んで彼の福利厚生プログラムを利用して予約してもらった。
 在和時代浜から遠望したそれは、小ぶりの2階建てだったと記憶するが、今では鉄筋コンクリート6階建てに変わっている。外見はハワイや沖縄のリゾートホテルに近い感じだ。
 玄関の車寄せにオープンで乗り付けるとアロハ姿の従業員が二人飛んできて、一人が荷物をフロントへもう一人が車を駐車場に運んでくれる。フロントの担当者もアロハシャツを着ている。これは後で知ったことだが、ホテル従業員のアロハ着用はこのホテルだけではなく、大方のホテルで採用しているらしい。町全体のリゾートとしての環境づくりの一環なのだ。しかし残念ながら期待した“格式”は感じられなかった。それは広々した、浜につながる明るいロビーも同じだ。かなりの部分はお土産物売り場になり、家族連れが浴衣に丹前スリッパで徘徊している。お客はよく入っているので、富裕顧客限定よりもこの方が商売になるのだろう(これも後で分かったことだが、昭和40年代半ば経営母体が変わり、いまではホテルチェーンの配下にある)。
 案内された部屋は5階の和室、オーシャンビューで白良浜が広縁から一望できる。まあこれが目当てだから良しとしよう。5月下旬は日も長く、まだ浜は眩しいくらい輝いている。ただその浜は何故か平らではなく、波打ち際に沿って円錐状の小山が何十個も一列に遥か彼方まで並んでいる。どうやらこの週末に行われる海開きのための準備らしい。これで砂の芸術品を作るのだ。
 3階の一角に在る大浴場はテラスに露天風呂があり、そこからは沈む西日で輝く大海原が見渡せる。心地よい潮風に当たりながら、熊野古道歩きの疲れを洗い流した。
 夕食はレストランで摂る方式。予約入れ替え制のここはほとんど席が埋まっていた。やはり客の入りはいいのだ。中高齢者のカップルが多い。自慢の和風創作料理は、飾りつけ・盛り付けは手が込んだ見事なものだったが、味の方は特に印象に残るほどでは無かった。
 夕食後、昔賑わっていた浜通りを散策してみたが、人通りは疎らで、往時のちょっと品の無い活気はまるで無く、コンビニの明るさだけが妙に際立っていた。

この日の走行距離は約120kmだった。
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2009年11月29日日曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅(31)

31.白浜観光-2 三段壁の次はその隣にある岩畳の千畳敷、これも日本の海岸に多い風物。方々にこの名をつけた観光名所が在る。初めて目にした千畳敷は、中学3年生の夏休み叔父夫婦に案内してもらった佐渡島尖閣湾のそれだった。初めて見る広々した岩棚に大いに感動し、その名を聞く度に思いは半世紀以上前に戻る。海岸ではない、秋芳洞や木曾駒ケ岳でも不思議に“千畳敷”はあの佐渡のイメージだ。今回も同じだった。
 浜通りを中心街に戻り、ホテルの前を通り過ぎて今度は北に延びる小さな半島に向かう。そこには、温泉と景色(これは日本中何処にでも在る)を除く二つの観光スポットが在るのだ。一つは南方熊楠記念館、もう一つは京大水族館である。
 海岸沿いの道は西側が海になるので午後も遅い今の時間は西日が強く、白浜のランドマーク、円月島の中央空洞部分が明るくなってちょっと凱旋門を髣髴させる。道路際で何人かがそれを撮影している。
 最初に訪れたのは熊楠記念館。小半島の先端の小高い丘の上にある。駐車場は丘の麓にあるので上まで登らなければならない。あの時はどうだったのかまるで記憶が無い。あの時とは父の定年退官慰労のために両親を紀州へ招待した時、昭和40年(1965年)秋、のことである。熊楠を知ったのもこの時の父からである。用意していた観光案内書を見て「南方熊楠はここに縁があったのか!」と彼の人となりを語ってくれた。
 熊楠を一言で語るのはきわめて難しい。強いて言えば博物学者、学問が細分化した今ではもうこんな学問領域は存在しない。植物学、菌類学、天文学、民俗学、鉱物学などで多くの成果を上げている。名前の熊楠は熊野本宮の熊とそのご神木、楠からきている。和歌山市で生まれ白浜に隣接する田辺で育ち、大学予備門(現東大;ここでは夏目漱石や正岡子規と交流)に進むが進級試験に失敗、退学後アメリカに渡り現在のミシガン州立大学で学んだ後、さらに英国に渡り大英博物館東洋部でスタッフ兼研究者として働いている。1900(明治33年;33歳)年帰国後は田辺に居を構え、紀州の山中で菌類の研究に励んでいる。滞米英時代に十数ヶ国語をマスター、幾つかの論文は英科学誌「ネイチャー」にも掲載されている。またロンドン滞在中知り合った孫文がこの地まで彼を訪ねてきたこともあるという。野口英世と並び、近代日本黎明期の科学界を代表する巨人と言えよう。
 記念館は小さな三階建てのコンクリート製の建物。その中に熊楠ゆかりの品々が展示されている。中でも目を引いたのは中学入学前(10歳)に始め5年を要した「和漢三才図会(1700年代に書かれた百科辞典;オリジナルは105巻81冊)」の見事な書写である。小さな美しい筆跡と膨大な量に驚かれる。その後の活躍を見れば、これがただの書写だけではなく、内容も学びながらの作業であったと想像できる。
 子規との交流の記録、英文誌の論文、孫文から贈られた帽子、研究に使った当時の顕微鏡、丹念に描かれた菌類の標本図。この好奇心、根気と集中力は紀伊半島の深い山々と関係があるのだろうか?未知の世界を切り開く猛烈なエネルギーの詰まったこの記念館に、もう一つの“坂の上の雲”を見た思いであった。
 この丘(番所山)を下ったところに京大の水族館がある。白浜観光といえば必ず立寄ったところである。これは最後に観た40数年前とはまるで様子が違っている。何度か増改築されているようだ。もともとは研究用の水族館で対象は瀬戸内海や南紀の海洋生物が主体なので見世物としての面白みは無いが、イソギンチャクやヒトデなど無脊椎動物の宝庫であり、他の水族館には無い楽しみが得られる。昔は紀州の海に潜るとよく見かけるウツボが大量に居る水槽があったが、それは無くなっていた。最近は減ったのであろうか?

 閉館少し前(5時頃)ここを離れたが、初夏に向かう陽光はまだ眩しかった。
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2009年11月19日木曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(30)

30.白浜観光-1 昼食時間に近かったが、中辺路町の中心と思われるこの近露王子付近に適当な食事場所は無かった。それほど空腹でもなかったので、311号線を更に白浜方面へ向かうことにした。道は走り易いが山岳ドライブの醍醐味は全く消え失せ、富田(とんだ)川に沿って緩やかに下りが続く。15分くらい走ると道の駅があったが、まるでフランチャイズのお土産物屋、併設された食堂は味気ない雰囲気だ(お土産物そのものは土地のものもあるが)。さらにしばらく走ると数台の車が止まったドライブイン(この言葉も大都会周辺では死語になりつつある)があったので、ここでうどんの昼食を摂った。関西はどこでもうどんが美味しい。
 深山の秘湯、龍神への分岐路、串本方面とつながる371号線などが現れると交通量も多くなり、ダンプカーや商用車が増えてくる。もうドライブを楽しむ道ではない。ひたすらカーナビの指示に従って白浜を目指す。幸い天気は回復、山間から抜け出したこともあり明るさが増してくる。ゴール、白良浜(しららはま)荘グランドホテル到着は2時過ぎだった。チェックインだけして白浜観光に出かける。
 和歌山工場時代ここにはよく来ている。少人数の時は繁華街から少し離れた、以前は個人の別荘か何かであったのであろう、静かな佇まいの会社の保養所に泊まることが多かった。課のレクリエーションになると収容人員の関係で中心地のホテルや旅館と言うことになる。大学時代の友人や両親とは代表的な観光名所を巡ったが、会社の同僚とは飲んで騒いで翌朝は二日酔いで有田へ直帰が多かったように思う。そんな思い出がどこまでダブルのか、いささかハイな気分になってくる。
 ホテルから海岸沿いに南へ下る道はメインストリートの浜通り、両側の歩道がたっぷり取られ見違えるように奇麗になっている。この頃には空は完全に晴れ、今回の旅で初めてオープンにして走る。建物の間から白い浜が垣間見えるのはちょっとワイキキの雰囲気である(白浜とワイキキビーチは友好姉妹浜)。最初に向かったのは断崖絶壁の三段壁、浜を過ぎると少し上り道になり、右側に海が開けダイヤモンドヘッドへ向かう感じだ。最後のワイキキドライブは1983年11月、運転していた車はレンタカーのトヨタ・コルサだった。
 三段壁は能登の東尋坊や伊豆の城が崎などわが国の海岸によく見られる、高く切り立った岩壁に波が打ち寄せる勇壮な風景が売り物である。ただ景色としては単調であまり時間をかけて堪能するようなものではない。むしろ同種の海岸にも見られる“自殺防止”の看板に暗い想い出が蘇った。

 もう四半世紀以上前になるが当時和歌山工場の運転部門の課長職だったYMK君が社外研修のあと行方不明となり、数日後ここで発見された。入社は一年後輩だが、和歌山時代を伴に寮で過ごし、信州の山歩きに一緒したこともある。新入社員当時、滅多に人を褒めない若手育成担当者が「彼に問題を与えると、どんな解き方をしてくるか楽しみなんだよ」とふと漏らしたほど早くから注目される人材だった。後年私が川崎工場時代、彼は本社技術部スタッフとして予算審査の役割を担っていたが、難しい設備投資案件の経済性に関して大胆なアイディアを出して援けてくれたことがあった。ちょっといかつい風体だが心根の優しい、将来を嘱望された彼が、何故変わり果てた姿でここに浮かび上がったのか今は知る由も無い。
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2009年11月7日土曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(29)

29.古道を歩く 40数年前和歌山で暮らしていた時には、中辺路を始め熊野詣での道の存在は知っていたが、“古道”は聞いたことはなかった。熊野古道を知ったのは、各地の世界遺産がTVなどで紹介され始めてからである。
 少し調べてみると、「熊野参詣道」が国の史跡として指定されたのは2000年、「紀伊山地の霊場と参詣道」がユネスコの世界遺産に登録されたのは2004年。地元では道路整備が進む中で“古道”と呼んでいたのかも知れないが、広く知られるようになるのはつい最近のことなのだ。
 道が世界遺産になることは極めて珍しく、スペイン北西端のキリスト教聖地、サンティアゴ・デ・コンポステーラに至る巡礼の道とここくらいである。
 今回のドライブ行に際して購入した南紀ガイドブックを見て、この古道を徒歩で巡る種々のプランがあることを知った。ほとんど山歩きに近いものから、路線バスを利用するもの、自家用車を回送してもらう案まで目的・脚力・時間など希望と状況に合わせて選択できることが分かった。この日の走行予定は白浜まで約110km。山道を考慮しても走るだけなら3時間程度である。朝8時過ぎに出発すれば3時間ほど古道を歩いても3時頃には白浜に辿り着ける。道中で一番大きな集落は中辺路町の近露王子周辺だったのでここに車を停めて、古道の一部を歩いてみる計画にした訳である。
 時刻はほぼ9時半。この時は朝からの小雨も上がっていたが依然曇天。雨具やセーターをナップザックに詰め、例の農協経営のスーパーで飲み物などを購入、集落の外れにある小学校の脇を通って古道入口に向かった。小学校から古道への途上には何軒か民家があったがほとんど無人の廃屋だ。
 古道の取掛かりには立派な看板があった。熊野本宮に向かう次の王子(休憩所のこと)は2.6km先の比曾原(ひそはら)王子である。この看板から急に暗い森が始まる。森中の道は上りで足元は残念ながらガイドブックにあるような石畳ではなく、丸太製の階段が設けられた、針葉樹の落ち葉に覆われた土道である。人の気配は全く無いが、どこかで犬が何頭か吼えている。人家の無いこんな所で野犬でもいるのだろうか?あまり気持ちのいいスタートではなかった。
 襤褸の法衣を纏った高野聖が、ヌッと現れてもおかしくないようなこの暗い道を20分くらい上り進むと、二、三頭の犬の鳴き声が更に近くなってくる。一頭の泣き声は吼えると言うよりは悲鳴のような泣き方である。やがて前方の木立の合間に何やら建物のようなものが見えてくる。犬たちの泣き声はどうやらそこが発信源らしい。一頭の薄汚れた白い犬が目に入る。獰猛な野犬だったらどうするか?不安がよぎる。しかし、こちらに向かってくる気配は無く、しきりに建物の下部に向かって悲鳴に似た声を上げながら、その周囲を徘徊しているだけである。建物と見たのは、鉄柵とベニアの廃材で出来た、中は窺うとの出来ない大きな檻で、何頭かの犬が収容されているようだ。外にいる一頭はその仲間なのだろう。それにしても何故こんな所にこんなものが在るのか?とても世界遺産と認められるような環境では無い(帰宅後調べて、熊野古道は全部が世界遺産ではないことを知った)。
 それは次に現れたコンクリート簡易舗装の狭い道で確実になる。森の切れ目でこの道に出ると上から軽トラックがやってきた。生活道路なのだろう、まるで旅の風情を欠くものであった。上り詰めるとこの道は更に幅広い道に合流し、そこには道標が立てられ傍らにはベンチが置かれ、周辺に数件の家が在る。人は見かけないが下で見た廃屋ではなく、現役の棲家であることは間違いない。こんな所でどんな生活があるんだろうか?他人事ながら心配になる。
 少し下り坂のこの居住地区内の道を進むと、車2台がすれ違えるほど立派な道路に出た。幸い車の往来は無いものの“古道”のイメージは全く消え失せてしまった。比曾原王子の案内板はその少し先の道端にあり、その裏手数メートルの藪の中に江戸時代に建てられた小さな碑が在った。
 同じ道を戻り、近露公園に隣接する近露王子跡に行ってみた。ここには神社が在り、その一隅に王子を示す碑が残っている。今上天皇陛下が皇太子時代行幸された際、ここでお休みになったとあったので、われわれも一休みすることにした。

 全行程約5km強、2時間少々の古道歩きはこうして終わった。
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2009年10月30日金曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(28)

28.中辺路 京から熊野三山に至る古来からの道は、高野山から南下し十津川を経る小辺路(こへじ)、田辺の湊からほぼ半島の中心部を東へ向かう中辺路(なかへじ)、田辺に上陸後海岸伝いに新宮まで至り熊野川を遡上する大辺路(おおへじ)がある。小辺路は陸路だけで至る最短ルートであるが、今でも高野以南は人の住むところは無く、山岳ルートと言っていい。当時このルートを歩いたのは主に修験者であったろう。大辺路は半島の外周を廻るので他のルートに比べるとかなり遠回りになる。中辺路がこの三本の道の中で最も往来があったのは、田辺から距離的に近いのと、山深いわりに途上に所々平地がありそこには旅を援ける環境もあったからに違いない。
 昭和44年11月、ブルーバードSSSで中辺路を走った時は紅葉の真っ盛りと言うこともあり山中ドライブを大いに楽しんだ。カーブの連続する狭い山道だが勾配はそれほど急でなく、交通量も少なくて自然の中を人車一体となって走る高揚感に浸ることが出来た。時たま行き交う車とはどちらかが待避所までバックするのだが、これも心が通じ合うようで煩わしさは無かった。今回同様出発は“あづまや”から。41年前は再現されるのだろうか?
 5月22日の朝は小雨だった。横浜を発つ前に調べた天気予報どおりである。しかし傘を差すほどではない。この程度の雨はむしろ半島深奥部のしっとりした情景に相応しい。
 ワイパーを間欠動作にして宿の車庫から出発。集落の出口に広い舗装された駐車場がある。嘗てはこんなものは無かった。そこを出ると道は舗装されてはいるものの昔と変わらぬ風情になる。やがて小さな谷を挟んで下り坂になった向こう側の道に、黄色とオレンジに塗装されたバスが止まっている。どうやらこちらを見つけ、待避所でやり過ごすために待っていてくれるようだ。以前もこうして国鉄バスと入れ違った記憶がある。谷川にかけられた橋をUターンする格好で渡り、上り坂をバスの方に向かう。バスはこの地の足、竜神バスだった。滅多に使わないホーンを鳴らして挨拶をする。しばらく道は折れ曲がりながら峠まで上りそこから下りになる。はるか先に橋があり渡りきったところはT字型で、もう一本の道路と交差している。どうやら中辺路が変じた国道311号線らしい。田辺・竜神方面へ右折すると、道は完全舗装の2車線、水はけのための側溝を備え幅も十分ある。直ぐに長いトンネルに入った。あの谷沿いの林間を走る曲折した道は消えていた。
 旧道らしき道が時々交差するがとてもスポーツカーで走るような道ではない。ガードレールで塞いである部分もある。一部が林道としてでも使われているのだろうか?今回のドライブで最も期待していた道はこうして思い出から飛び去ってしまった。
 中辺路は巡礼の道の名前であると共に、その途上の集落の名前でもある。41年前は町だったかどうか記憶に無いが、今は中辺路町である。湯の峰を出るときナビにセットしたのは、観光案内書にP(パーキング)マークのある“なかへち美術館”だ。ここにしばし車を停め、熊野古道を散策するためである。
 何処にでもある一般道と同じ311号線を約1時間走って盆地状の中辺路地区に入るとナビは右折を指示してきた。道がいかにも旧道と言うように狭く曲がりくねり上下し出す。やがて郵便局や小さな農協経営のスーパーが在る町の中心部(?)に達したので、傍にある自動車修理工場で美術館の駐車場を教えてもらう。吃驚したことにその駐車場は大型バス数台、小型車は数十台停められる広さがあり、大きなトイレまであった。この日は平日、そこに停まった車は我々の一台だけだった。正式には“近露(ちかつゆ)王子公園”駐車場と言い、この駐車場に隣接して“なかへち美術館”がある(この時は休館中だった)。
 この駐車場や公園、美術館の存在から推察すると、どうやらここは熊野古道巡りのベースキャンプの役割を果たす土地のようだ。集落は道路同様41年前とはすっかり姿を変えている。地元の人々にとっては暮らし易くなったに違いないが、あの如何にも鄙びた雰囲気は全く失われてしまい、41年前黄葉の下でSSSを撮影した場所すら見つけられなかった。取り敢えず付近を廻り熊野古道への道案内を探した。広い駐車場の片隅に地図看板が在った。

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2009年10月20日火曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(27)

27.あづまや
 本宮を出たのは5時過ぎ、曇天もあり少し辺りも薄暗くなりかけていた。1キロくらい熊野街道を新宮方面に戻って“湯の峰”方面へ分岐する道へ分け入る。ほぼ熊野古道に併走する道だ。舗装こそされているが、道の勾配や曲がり具合、覆いかぶさるような木々は41年そして48年前と変わらない。途中で“民宿あずまや”と描かれた看板を見かける。「(あそこは由緒ある旅館で、民宿ではなかったはずだが、経営が変わってしまったのだろうか?)」と疑問がわいてくる。道は一寸した峠を越えて小さな谷合に降りていく。ここまで対向車は全く無い。下方、木々の合間から村落が見え出し、やがて車は狭い谷の両側にわずかな家がへばりつくような、古い湯治場に到着した。雰囲気はほとんど往時のままだ。
 少し下り坂のメインストリート(?)。左側は小さな谷川が流れ、川の向こうに何軒か旅館がある。確か“あづまや”は右側のはずだ。風呂場の記憶だけは残っているが、建物の印象はまるでない。駐車をすると大きな車は行き交えないほど狭い道。車速を落として、何か見当になるものは無いかと探っていると、十数軒しかない村の真ん中辺り、貧相なお土産物屋に続いてそれは在った。通りに並ぶ家々が道路から直ちに立ち上がるように建っている中で、そこだけ狭いが一段高くなった車寄せがあり、道路から少し距離を置いて建てられた落着いた佇まいの寄棟木造二階建がある。取り敢えずそこに車を停め、無人の玄関で来訪を告げると和服を着た若い女性が現れた。荷物を下ろして駐車場を問うと「しばらく道を進み最初の橋のところで左折して直進すると当館の駐車場があります」とのこと。出かけてみるとそこはかなり広い未舗装の広場で奥の方にトタン屋根の車庫まである。広場の一辺には “民宿あづまや”も在った。この狭隘な土地では本館・駐車場も含めると大地主に違いない。
 玄関に戻るとぼんやりと昔が戻ってくる。先ほどの女性が「お部屋へご案内します。お二階です」と言い左手のほうに進んでいく。「(違う。右だったはずだ)」 階段を上がった所で廊下はやや不自然は感じで部屋へとつながっている。部屋の名前は「杉」、杉で作られた部屋である(部屋は造作に主に使われる銘木で名付けられている。はるかに立派な部屋には「槙」、「こくたん」などがある)。案内を終え部屋を去る女性に聞いてみた「48年前そして41年前にもここに泊まったことがあるんだが、何か昔と違うんですよね」「あー ここは後から建て増ししたからでしょう」との答えで納得した。
 それでも部屋からの眺めは変わらない。同じように川を見下ろす二階の部屋だったからだろう。まずしたことは、あの思い出深い大きな木製の湯船に浸かることである。案内の女性とその話をしたとき「槙のお風呂ですね。そのままでございます」と嬉しい返事が帰ってきた。館内の案内によればこの浴場は大正時代に作られ、いまでもそのときのままの状態だという。洗い場に使われている石は碁石で有名な那智黒である。誰も居ない大きな湯船の中で一日の疲れを癒すとともに、来し方を懐かしんだ。そう 2月に逝ったMNとの48年前の旅だ。
 湯の峰温泉は日本最古の温泉と言われている。おそらく熊野詣での人々が旅の垢をこの湯で洗い流したに違いない。そんな歴史の中で江戸中・後期(明確な時期はわからないほど古い)に出来たこの“あづまや”には皇室の方々や有名人も大勢泊まっている。色紙の中に高浜虚子の名が見えるし、現皇后が皇太子妃時代お子様連れで滞在された写真などもある。また外国人ではフランスの文人で文化大臣も務めたアンドレ・マルローが夫人と滞在したとの記録もある。確かに由緒ある旅館なのだ。
 こんな立派なところでも貧乏学生だった我々が泊まれたのは幸運(工場研修で得た若干の手当て、瀞八丁観光拠点としての場所選び;観光船はここから近い宮井大橋の袂から出る)もあるが、この地があまりに都会から離れ温泉以外何もない(景色も特別美しいわけではない。夜遊びするところは全く無い)場所だからである(相対的に宿泊料が安い)。しかし、この“温泉以外何もない”ことがこの地の貴重な財産なのかもしれない。
 夕食時若女将が挨拶に来た。41年前は未だこの世に存在しなかった年頃と推察した
。昔話をしてみたが、学生時代から東京に出ていたという彼女との共通話題は、あの槙の風呂場だけだった。
 熊野牛のしゃぶしゃぶをいただきながら、格差社会(都会と地方;日常と旅)をいっとき考えた静かな夜で、今日の旅は終わった。

 この日の走行距離はおおよそ170km。

2009年10月14日水曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(26)

26.熊野三山-2(本宮へ) この日は朝から曇り勝ち、日が射したのは那智大社に詣でている時だけだった。速玉大社を出たのは3時過ぎ、この時刻にしてはやや暗い感じだ。42号線を新宮市内で別れ168号線に入るとしばらく緩い坂道が熊野川の西岸を上っていく。48年前バスで初めて上って今回で4度目だ。道そのものは基本的に変わっていないが、舗装状態は著しく改善し落石防護柵やガードレールも整備され、道幅や曲がり具合が修正されずっと走りやすくなっている。曇天の暗さで水墨画のような対岸の景色がむしろ強く印象付けられる。
 小一時間分ほどこんな景色が続いて宮井大橋で瀞へ向かう169号線と分かれ、168号線は西に向きを変える。記憶では本宮までほとんど川と併行していた道が長いトンネルに入り再び川沿いに戻る。あきらかにこの道は新しい道だ。ちょっと不安がよぎる。「(中辺路への道もここ同様新しくなってしまったのだろうか?)」と。やがて“川湯温泉”、“湯の峯温泉”への分岐標識が現れるがそれらには構わず直進すると本宮の町に入る。明らかに景観が41年前とは違う。歩道が幅広く取られ、小奇麗な古い田舎家風に造られた土産物屋や飲食店など両側に続いている。最近あちこちで見かける、いかにも観光のために造りましたという雰囲気が見え見えで残念だ。道路を改修するなら、バイパスを造って旧道を残し、お宮さんと古い町そのものを一体として残せなかったのだろうか?
 英国に居た時、代表的な田園地帯と言われるコッツウォルズを訪れた。幾つかの村々を廻ったが、それぞれに特徴があり、古いものが見えないところで手を加えられ、そのままの形で保存されているような所から、この町同様いかにも人口臭・商売臭のする再開発まで各種在った。人気があり、高い評価を受けているのは前者である。わが国の歴史的町並み保存はどうも後者が多い気がする。数少ないこの種の訪問地;倉敷(ここは美術館が主役)、馬籠宿、妻籠宿(ここはかなりまし)、三春町そしてここ本宮で感じたことである。
 さすがに高い杉木立に覆われた長い石段や本宮境内は昔のままである。他の二社が朱塗りであるのに対して、ここの社殿はいずれも無垢の木のままで、それが黒っぽく変色しているのが時代と清廉さを感じさせる。やはり神道はこうありたい。
 無論崇神天皇(B.C.33?)の御世と伝えられるこの神社が何度も建て替えられていることは想像していたが、往時を偲びつつ石段を降りてそこに立つ大社由来の説明書きを読んで驚いた!実はこの社殿は明治後期にここに建てられたもので、元々の所在地は熊野川の中洲に在ったのだという(鳥居の跡だけ残っているとのこと)。中世からの熊野詣はそこで行われていたのだ。何故明治期に移されたのか?!更に説明を読んで二度吃驚!洪水である。無論ただの洪水ではない。明治に入ると近代化が始まる。木材の需要は急騰する。森林資源の権利関係が徳川の手を離れ統制が効かなかったようだ。乱伐が山の保水力を失わせ、洪水が頻発した。人災である!環境破壊である!それにしても罰当たりな事をしたものである。現在発展途上国で広がる環境破壊を非難できない前科が身近なところに在ったわけだ。
 いま紀伊半島は木々に覆われ、熊野川の上流(十津川)にはダムもいくつかある。最近はこの地の水害も聞かなくなっている。明治の人災が何とか復旧したということであろう。しかし、木々と水くらいしか資源のないこの土地で再び何が起こるかわからない。豊かな保水力を持つこの半島の土地を中国資本が狙っているという噂まである。

 こんな歴史を三度目の本宮参拝で初めて知った(熊野街道を走るのは四度目だが、初回は本宮には来ていない)。
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2009年10月5日月曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(25)

25.熊野三山-1(那智大社、速玉大社) 熊野三山とは本宮・新宮(速玉大社)・別宮(那智大社)から成る。本宮は二度詣でているものの、速玉、那智は今回が初めてである。本来の参詣順序は本宮→新宮→別宮ということになっている。これは京都を出発し海路で田辺に上陸、本宮に至った後は熊野川を舟で下ることからそうなったのではなかと推察する。我々は東から来たので伊勢同様ここでも参詣順序が逆になってしまった。ご利益は如何なものであろうか?
 昼食を摂った茶店の直ぐ脇から急な石段が続く。両側には何軒か小さなお土産物屋もあるが平日だからか、ほとんど客は居ない。途中分岐路がありいくつかの観光・参詣スポット選択の便を供している。これは急な階段のバイパスの役目も果たしている。それには目もくれず一気に大社への階段を進むと、それほど大きくない数棟の建物から成る境内へ辿り着いた。建物は皆朱塗りである。東方向、本殿とその他の建物の間から三重塔、さらに先緑の山肌の中に那智の滝が遠望できる。この頃には曇天も晴れて木々の緑、滝の白、三重塔の朱のコントラストが鮮やかだ。
 大社は一番高いところにあり、東側一段下がった所に青岸渡寺(せいがんとじ)の本堂がある。これは国の重要文化財で秀吉が再建したと言われている。神仏一体は三山共通で、他の神社に寺は付設していないものの、それぞれのご本尊(ご神体?)は、阿弥陀如来(本宮)、薬師如来(新宮)、千手観音(別宮)である。この寛容な(いいかげんな)宗教観を持った日本人は、世界の主流、一神教や無神論の政治イデオロギーでがちがちに固まった国々・人々とこれからどう共存していくのか?長閑な山中の神社に隣接する寺でお賽銭を投げ入れる時、フッと厳しい現実世界が過ぎった。
 三重塔や滝がよく見える展望台などを巡って茶店に戻るともう2時過ぎ。これから速玉大社、本宮を訪れるのでそれほど時間の余裕がない。カーナビに速玉大社の電話番号をセットしてルートを決める。ほぼ来た道を戻る感じなので最後の大社へのアプローチだけナビに頼ることでいいだろう。

 車は県道46号から国道42号へ出て新宮市内へ順調に往路を逆走する。しかし、街の中心部の大きな交差点でナビは右折を指示してきた。頭の中で「速玉は42号線の左のはずだが・・・」と思ったが「市内一の観光スポットだから何か規制でもあるのかもしれない」とナビに従った。やがて道は海岸に出て防波堤に沿って進んで行く、すると「左です」と言うので細い道へ左折し、しばらく進むと「目的地周辺です。これで案内を終わります」と言って黙ってしまった。ほとんど住宅街、周辺にそれらしきものはない。どうやら電話番号の最終4桁に間違いがあったようだ。
 何とか車が停められるスペースを見つけ、誰かに確認するつもりで車を降りると、少し先に何を扱うのかはっきりしないが一軒小さな店があった。近づいてみるとそれは酒屋で、店には誰も居ない。声をかけるとオバサンが奥から現れたので「速玉神社はどこでしょうか?」と尋ねると「(一体こんな所で何を聞いているの?)」という表情で「速玉?」と聞き返してくる。そんなところへ配達にでも行っていたのだろう、カブに乗ったオジサンが帰ってきた。「速玉神社やて。どう行ったらいいかの?」「駅の方やからな」 何やらここから行く道を言葉で説明するのは難しそうな雰囲気である。するとオジサンが「よっしゃ。わしがカブで案内してやるさけついておいで」と言ってくれた。忙しそうだが好意に甘えることにした。細い道を何度も曲がり、こちらがついてくるのを確認しながら街の中心部まで案内してくれ「ここを真っすぐ行けば直ぐ分かる」と言ってもと来た道を戻っていった。「有難うございました」と窓から叫ぶのが精一杯のお礼だった。
 速玉大社は前方は熊野川、背後に神倉山と言う巨石信仰の山を頂く平地に在るこじんまりした神社だが、街の中心部に在る事を忘れさせるような静かな佇まいだった。佐藤春夫記念館や宝物殿など見所もあるのだが、今日のメインエベント、本宮訪問が後に控えているので、お参りを済ませ記念写真を撮って早々に車を熊野街道へと進めた。
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2009年9月28日月曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(24)

24.紀勢南の道 三重県に縁のある人が「あの県は、北はいいのですが、南が問題なんです」と言って、南部の後進性を語ってくれたことがある。北には四日市を中心に、鈴鹿・亀山・桑名などに工業地帯があり、伊勢・志摩は観光で人を引きつけている。しかし、南は平野が無く農業は零細で、昔から半島と黒潮の接点として栄えた尾鷲以外はこれといった町も無く、沿岸漁業と林業くらいしか暮らしを支える産業が無いのだと言う。
 確かに、今回のグランド・ツーリング計画でも、賢島を発った後新宮まで特に寄るところを思いつかなかった。前回は志摩から一旦伊勢経由で松阪まで戻り、そこから42号線に入り多気町を通って尾鷲に向かったが、ほとんど山中ドライブの記憶しかない。今ではこのルートは伊勢自動車道から紀勢自動車道が途中まで通じているものの、自動車専用道路は旧道以上に味気ないだろう。そんなこともあり、今回はリアス式海岸が続く海沿いの道、260号線を42号線との合流点まで行くことを計画していた。鉄道や幹線道路から隔絶した地にどんな生活があるんだろう?
 21日の朝は曇り空だった。しかし雨が降るような重さはない。一番先にしなければいけないことはガソリン補給である。ホテルから260号線へ出る県道17号線にゼネラルのスタンドがあることを事前に調べておいたので、ナビをそこにセットして向かった。やがてそのスタンドが見つかったが塗装の感じはゼネラルだが看板がない。降りて聞いてみると最近ゼネラルをやめたとのこと。無論エッソ・モービル・ゼネラルの共通カードも使えない。しかし店の人は親切にもエッソのスタンドが近くのわき道にある事を教えてくれた。早速そこへ出かけて満タンにした。給油量は37L、自宅からの走行距離は397km、10.7km/L。高速道路が効いたのだろうが予想以上に燃費が良い。
 給油をした浜島口から県道17号を経て260号線に入る。この道路は複雑な海岸線に沿っているのでほとんど高低がない。生活道路なのだろう行き交う車は地元の軽自動車程度で、交通量も極めて少ない。それもあって道路は何か埃っぽい感じがする。小さな湾や半島が出ては消え消えてはまた現れる。海岸に近づくと防波堤で景観を遮られる。トンネルは照明も無く、青の洞門もどきだ。時々漁村や小さな漁港施設があるが人の気配はちらほら。はるか離れた紀勢線の駅とでも結ぶのか道路にはバス停もあるがそれと行き交うこともない。いずこも静かである。と言うよりも活力がまるで感じられない。格差社会を見る思いで心も晴れない。曇天もあって海の明るさを楽しむことも出来ない。
 42号線に合流するのは紀伊長島。その少し前から海岸線を離れ、道路はアップダウンと曲折を繰り返す。運転を楽しめたのはこの間だけであった。やはり「この県は南が問題です」を体感した。
 42号線はこの辺りでは熊野街道と言う。昔から生活に密着した街道なのだ。41年前発破工事で待たされた峠は今回260号線を走ってバイパスしたので、峠越えは無いものの、高い山が間近に迫るところは昔と変わりない。それでも紀伊半島外周を巡る幹線道路だけに交通量も多く、沿線に町やショッピングセンターなどが現れる。少し大きな町はバイパスが設けられ、車の流れもスムーズだ。尾鷲を過ぎると一旦山に入るが、直ぐに熊野灘に沿う平坦な道に戻る。左側に大海原が広がっているはずだが、防風林と背の低い車のせいで全く見えない。三重・和歌山の県境を成す熊野川河口で道は川を遡る方向へと向きを変え、新宮市の街中を貫く位置で渡河する。今日見る最大の町、新宮が大都会に見えた。
 取り敢えず目指すのは熊野三山の一つ熊野那智大社である。42号線をもうしばらく南下し、那智駅の前で県道46号線に入り、山間の田舎道と言っていいこの道を走って、神社下の門前町に辿り着いたのは1時頃だった。駐車場・お土産物・食堂兼用の店で先ずは腹ごしらえのうどんを食した。

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2009年9月25日金曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(23)

23.志摩観光ホテル 志摩観光ホテルはわが国を代表するリゾートホテルである。昨年新館とも言える“ベイ・スウィート”が出来てからは、本館(旧館)は“クラシック”と名付けられている。何度か改装されているが、開業が1951(昭和26年)年4月となっているから、半世紀を超える歴史を持つ。講和条約発布がこの年の9月だから、それ以前に準備が進められていたことになり、よくあんな時代にこんな贅沢なホテルを計画したものと驚かされる。当時の利用客は外国人か“超富裕層”だったに違いない。経営母体は賢島まで線が延びていた近鉄なので、その“富裕層”は専ら関西のそれである。新幹線が開通する前は、半島横断(大阪~名古屋)の鉄道は近鉄が電化も早く進み、時間も最短だった。芦屋や箕面を午後発っても夕刻前にはチェックインできる。そんな目論見で出来たに違いない。
 前にも書いたが、山崎豊子のTVドラマにもなった“華麗なる一族”の冒頭シーンがここ志摩観光ホテルでの元旦である。芦屋在住の銀行家が開く、成人した家族に妻妾同席の異常な新年会は、そらからの展開に大いに興味をそそられる書き出しであった。供せられる料理は、無論さっぱりしたお節ではなくフランス料理である。
 就職するまでは高級ホテルやレストランには全く縁が無かった。働きだしても地方の工場勤めでは縁遠い。それでも次第に、取引先のご招待や友人の結婚式などで食事をする程度の機会は持つようになった。このホテルの名声を知るようになるのも、一応一人前と自分では思い始めた20代の後半であった。「一度出かけて泊まってみたい。それも車で乗り付けたい(当時はまだ自家用車は贅沢品である)」 車を持つとこんな気持ちが加速してきた。末の妹の結婚式が名古屋で行われると聞いたとき、それを是非実現しようと思い立ったわけである。今のようにインターネットのような便利なものはない。手配は和歌山市内に在った交通公社(今のJTB)で行った。
 この時も鳥羽から一度伊勢まで出て伊勢道路・志摩を経由して賢島に着いたのが4時頃だったろうか。11月下旬、日の落ちるのは早く、案内された北西側の部屋から複雑に入り組む湾を照らす美しい落日を堪能した。落日以上に堪能したのがディナーのフランス料理、アワビのステーキであった。
 チェックインが済むと女性のスタッフが部屋まで案内してくれる。今回の部屋は5階の南東側で前回よりもはるかに広く眺めも良い。到着は6時少し前だがまだ明るく、湾内に真珠養殖の筏がいたる所に舫ってあるのが分かる。この景色は41年前と何も変わっていない。ディナーの時間は7時にしたので、盛りは過ぎたもののつつじが美しい庭をしばし巡り、英虞湾につながる小道を下ってホテル専用の小さな船着場まで下りてみた。どうやらここから真珠養殖の作業場を観光する船が出るようだ。
 ロービーに戻ると、ディナーを待つ人たちが三々五々集まってきていた。外国人の団体客もいる。話し言葉を聞いていると英語以外もあるので複数の国の混成ツアー・グループらしい。彼等は先にレストランに案内され、メインダイニングからやや突き出た細長い部屋に収まった(翌朝の朝食は個人客がここだった)。この辺の配慮は個人旅行者に有り難い。
 ディナーの内容は、予約時インターネットで調べて予め指定しておいた。前菜はアワビのテリーヌ、これはビールの小グラスと、次いで伊勢えびのスープ、そしてあの忘れられないアワビのステーキ(あとで肉料理もあるので前回よりはかなり小ぶり)、これが終わると口直しのシャーベット、メインはフィレミニオン。無論赤ワインを味わいながらである。最後にデザートのアイスクリームとコーヒー。41年前一人で緊張しながら過ごした時間とは大違い。年の功とでも言える余裕で9時前まで至福の時間を楽しんだ。

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2009年9月22日火曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(22)

22.伊勢・志摩を目指して-2  2台乗船の乗用車の1台は私、もう1台は志摩スペイン村がある的矢湾に浮かぶ、渡鹿野島という小さな島に在る旅館・福寿荘の番頭さんの車だ。伊良湖で乗船する直前に「今日はお伊勢さんですか?」と聞いてきたので「そうです」と答えると、「お宿はもうお決まりですか?」と更に聞いてくる。こちらの訝しげな表情を見て取ったのだろう、自己紹介をし、その旅館のパンフレットや志摩地方の観光案内図をくれた。昨日浜松まで営業活動をしてきた帰りだという。
 41年前のセンチメンタル・ジャーニーに重なるのは伊良湖岬のフェリーからになる。前回は時間の関係でもう少し遅い便に乗ったので昼食もフェリーターミナルで摂ったが、旨いものがある訳でも無いので、少し遅くなるが鳥羽で摂ることにした。下船間際に彼に昼食を何処で摂ればいいか聞いてみた。「鳥羽駅の近くに何軒かあります。途中だから案内しましょう。私が手を窓から出しますからそこで左へ曲がってください。直ぐに何軒か料理屋や食堂が在りますから」と言って先導してくれた。初対面の際のこちらの無愛想が申し訳なかった。
 車の停めやすい料理屋に入ると、もう1時半だというのによく客が入っている。間近に海があるのでメニューはほとんど魚。海鮮どんぶりを旅の第一食とした。伊勢えびの頭が入った味噌汁なども出て、味はまずまずだったが値段は確実に観光価格だ。
 もう2時過ぎ。伊勢神宮に詣でてさらに賢島のホテルに夕刻着くためにはそれほど余裕は無い。鳥羽の市街を出ると直ぐに伊勢志摩スカイラインに入り、それに続く伊勢道路を経て神宮内宮へと急いだ。平日だったことが幸いし無料駐車場も空きがあった。
 内宮詣では中学の修学旅行以来56年ぶりである。あの時は東京駅発の夜行列車でどこか最寄り駅まで来て、そこからボンネット型(エンジン部分が前に突き出している)の観光バスで内宮と二見が浦の夫婦岩を見たことだけは記憶に残っているが、なにせ早朝の到着で眠かったことのほうがまず思い出される。
 その時のかすかに残る記憶は五十鈴川を跨ぐ橋の両側に鳥居のある宇治橋だが、残念なことに今回は20年毎の遷宮に備えて架け替え工事中。この神宮のシンボルとも言える橋を渡ることは出来なかった。
 木々に囲まれた広い砂利道を、一の鳥居、二の鳥居を経て、最深部の御正宮に至る参道やそれぞれ役割を持つ建物は世界のどんな宗教施設に比べても清楚さと自然との一体感で類を見ない。仏教寺院も含めて他の施設はおどろおどろしさや暗さ、それにある種のこけおどしを感じたが、ここにそれは無い。日本文化を具象化したものがこの神宮であると言っても良いだろう。そこここに英語やフランス語のガイドが付いた外国人グループツアーを見かけたが、彼等はこれをどう感じるのだろうか?
 一巡して門前の商店街を冷やかしていると、例の「赤福」の休憩所が在った。一連の食品偽装騒動で真っ先にやられたが、経営者の謝罪が一番潔い感じがした。これもこの聖地所在の故なのであろうか?遅い3時のおやつに「抹茶氷」を縁台に座っていただいた。暑い午後、長時間の徒歩参観の疲れが一気に払拭された。
 本来の参拝順とは逆になったが、この後少し離れて配置された、内宮に比べると小規模な外宮を参拝して伊勢参りを終えた。
 実はこの外宮には修学旅行では訪れておらず、2001年ブリヂストンの招待でF1ジャパングランプリが鈴鹿サーキットで開催された時に来ている。前日の予選を見たあと津のビジネスホテルに泊まり、翌日の本番は昼からだったので、同行していた息子が「伊勢神宮に行きたい」と言うので案内した。その時は内宮・外宮の二つがある事を知らず、駅から近いここを訪れ「(こんなに小さくなかったはずだ)」と思いつつ参拝した。今回の旅の計画中それを知り、二日後和歌山でこの誤りを告げることになる。
 間もなく5時だが、幸い初夏の日はまだ高い。今日の最終目的地、賢島までもうひと走りだ。
 伊勢・志摩・鳥羽はほぼ正三角形を成す。伊勢から志摩を経て賢島に至る主要道路は、伊勢→鳥羽→志摩と三角形の二辺を走る国道167号線であるが、今日唯一の山道ドライブを楽しめ、ショートカット(伊勢→志摩)の伊勢道路(県道32号)を行くことにする。志摩半島は小さな半島でそれほど高い山も無いが適度なアップダウンがあって、交通量も少ない。ワインディングする道の運転を堪能するにはもってこいだ。しかし、日が傾きつつあるので、谷合は仄暗い所もある。西日のとのコントラストが強くなるので、運転には万全の注意が必要だ。老いた目が光の変化についていけないのだ。それでも途中に町の無いこの道の運転は第一日目の仕上げとして、最後の楽しみを与えてくれた。6時少し前無事今夜の宿、志摩観光ホテルに到着した。

 この日の走行距離はおおよそ400kmであった。
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2009年9月17日木曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(21)

21.伊勢・志摩を目指して-1
 一週間前から天気予報の見所が変わる。名古屋や大阪をチェックするようになったのだ。快晴続きとはいかないようだが、概ね雲と太陽が重なっている。22日だけ雲と傘マーク、この日は紀州山中を走る日だ。半島深奥部の雨はそれなりに風情があり“らしさ”を味わうのに悪くない。風も特に強くならないようだ。それでも出発の朝必ず伊勢湾フェリーの運行状況だけは要確認だ。
 平日(往路)と休日(復路)の道路状況もインターネットで同じように一週間前から調べるが酷い渋滞はなさそうだ。
 昔からそうなのだがエッソ・モービル(特にエッソ)の販売戦略は徹底して都市中心である(和歌山県を除く)。これは長距離ドライブをするものにとって泣き所だ。今回消費するガソリンの量を考えると割引(1割)の有無は大きい。ルート上のエッソ・モービル・ゼネラルのスタンドの所在地を、これもインターネットで調べると、東名下りは全く無い。一般道にはそこそこ在るものの、決して多くは無いし回り道になる。燃費実績に基づけば、伊勢・志摩まで無給油で行けるが、万が一を考え渥美半島を入念にチェックする。幸いルートから少し寄り道になるものの、トヨタ田原工場の近くにゼネラルを見つけることが出来た。
 当日の朝、横浜は曇り空だった。自宅近くの堀口・能見台から横々道路に入り、保土ヶ谷バイパスを経て東名町田・横浜で東名に乗る。ここから御殿場までは頻繁に利用しているので緊張感も無い。三車線の道は渋滞こそないものの、厚木までは前後左右埋まっている。特に長距離の大型トラックが多く、車高の低いスポーツカーには最低の走行環境だ。
 秦野中井を過ぎ大井松田にかかるころからアップダウンが始まり、トラックとの差がつけやすくなる。雲が晴れて冠雪の残る富士山が見えてくると間もなく御殿場、ここから先を自分の車で走るのは初めてである。富士の裾野を巡ってから由比付近ではほとんど海上を走る。しばしば台風時には不通になるここも今日は長閑なドライブ日和。自宅を発って一気に日本平のパーキングエリアまで達した。
 ここで一休みしてカーナビをセットする。目的地は伊良湖岬だ。事前のナビタイマー(PC)では豊川ICまで東名を走り、そこから151号線を南下、259号線に出て伊良湖へ向かう道を選んだが、カーナビでは浜松西ICで降りて65号線経由で浜名バイパスを走るルートを選んでくる。どうやらカーナビの方が“後戻り”に対する許容度が厳しいようだ。これに従うことにする。
 浜名バイパスが終わる潮見坂で1号線に別れ、伊良湖岬に向かう道路に入ると、やがて道路標識に“42”が現れた。あの紀伊半島外縁を走る国道である。こんな所へつながっているとは全く予想していなかった。前回渥美半島を走ったときは、豊橋から半島北側、三河湾沿いの259号線で伊良湖まで行ったので気がつかなかったのだ。初めての道、和歌山は遥か先だが何故か気持ちが楽になる。遠州灘に沿うこの道は大きな町もなく、交通量は少ない。時折低い防砂林の切れ目から大海原をチラッと見せながら、緩やかなアップダウンを繰り返して伊良湖岬まで、気分安らぐドライブを楽しませてくれた。
 12時少し前岬の先端にある、広大なフェリー乗り場に着いた。あらかじめ調べておいた12時10分発に乗れるはずだ。既に船は接岸しているが、ほとんど待つ車は無い。中型のトラック、小型乗用車が各1台ぽつんと離れてとまっているだけである。出札口へ行くと「あと10分ぐらいで乗船です」と言う。他人事ながら「これじゃ商売に全くならない」と心配になる。私の場合、同乗者1名の運賃(1500円)を含めて8,000円である。結局乗り込んだ車は、後からやってきた軽自動車1台を含めてたった4台である。この他バイク、サイクリングや徒歩旅行者が数名加わった。船は“知多丸”;総トン数2330トン、バス11台、乗用車43台、定員500人を運べるのだから、今回は空荷同然の航海である。 伊勢湾の空は晴れ、風もほとんど無く、絶好の航海日和。ディーゼルエンジンの音だけが低音で響く船室でしばしまどろむ。約一時間の航海は4時間連続運転の疲れを癒すには格好の中休みだ。「神島が左舷に見えます」と放送があったが41年前のあの「潮騒」のトキメキは無かった。1時過ぎ船は静かに鳥羽港に着いた。

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2009年9月10日木曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(20)

20.41年ぶりの紀伊半島へ  紀伊半島をドライブしながら和歌山へ行こう、と思い立ったのは昨年8月息子の勤務が和歌山になったことが一番の動機である。息子夫婦の住まいが和歌山市内であることを考えれば、今では新幹線と阪和線(特に、新大阪発の紀勢線特急)を利用すれば4時間程度、羽田から関空へ飛んでそこから直行バスで行けば約2時間で行ける。ほとんど一日がかりだった40年前とは比べものにならない。しかし、これでは紀伊半島の最大の特色、あの山深い景観・暮らしを、私にとっては40年振り、家内にとって初めてのそれを、間近に体験することは出来ない。息子の転勤後直ぐに考えたことは、愛車での長距離ドライブ。昨年11月の平泉行きははっきりこれを前提に実行した。
 いつ行くか?どのルートで行くか?何日の行程で、どこで泊まるか?計画の検討を始めたのは年初に息子夫婦が帰省・来宅したときから始まった。息子の仕事、連休と梅雨を避けると実施時期は5月中旬~下旬が良さそうである。やがて休日高速乗り放題1000円が発表され「これを利用しない手はない!」と言うことになる。往路にするか復路にするか?渋滞が予想されるので、宿などに迷惑のかからない復路にこれを利用することにした。
 今では半島に西も東もかなり南まで高速道路が入り込んでいる。しかし旧道を走らなければこの地の真の姿は見えてこない。これはルート設定の必要条件だ。
 道中何処を観光するか?この地を初めて訪れる者に紀州らしさを味わってもらうには、海岸と深山ということになる。海は何処からでもアプローチできるが、山は限られる。高野山や大台ケ原は半島北部、海岸との組み合わせが悪い。昔走った、新宮から本宮に至る熊野街道、本宮から中辺路を経て田辺に至る熊野古道に沿う道を今度も第一候補にした。ゴールの和歌山市、そこに至るまでに代表的な温泉地白浜には是非一泊したい。白浜・和歌山間には6年余を過ごした有田がある。転勤後出張では工場に何度も行っているものの、ほとんど周辺を含めて訪れていない。是非変わりようを確かめたい。
 家内に希望を聞くと「伊勢神宮へ行ったことがない」と言う。伊勢神宮へ行くなら泊まりは志摩か鳥羽になる。横浜という、紀伊半島の遥か東を出発点にして志摩へ行くルートは1968年SSSで走ったルートと重なってくる。あの時は名古屋から豊橋に出て渥美半島を回ってフェリーで鳥羽に出た。今は東名が伊勢湾道路につながり伊勢までは一走り、時間的にはこちらの方が早い。大分迷ったが、少々時間がかかっても自動車道の味気なさは避けたかった。志摩で一泊するなら時間的には一般道でも問題ない。伊良子岬から鳥羽の間はフェリーなので、運転疲れもしばし癒される筈だ。
 志摩の後はどんなルートで何処に泊まるか?那智の滝を見るとすると海中温泉のある紀伊勝浦も悪くない。しかし、海岸と温泉のセットは白浜と同じになる。48年前の貧乏旅行、41年前にも訪れた湯の峯温泉なら途中随所で当時との比較が楽しめる。
 関西・中部の道路地図とインターネットの“NAVITIME”、それに熊野・南紀観光案内を使って、ルート・距離・時間を検討した。
 また、同期入社で和歌山出身、今は100歳を超えた父上の介護で月の半分は和歌山で生活をしているMYさんや息子にもアドヴァイスを求めた。
 作り上げた計画は;
5月20日(水):自宅→東名横浜→東名浜松西→浜名バイパス→国道42号→伊良湖岬→(フェリー)→鳥羽→伊勢神宮→志摩
5月21日(木):志摩→尾鷲→新宮→本宮→湯の峯
5月22日(金):湯の峯→中辺路→白浜
5月23日(土):白浜→有田→和歌山
5月24日(日):和歌山→阪和道→阪神高速→西名阪道→天理→東名阪道→伊勢湾道→東名→自宅
 初日は400km弱、最終日は500km強を走るが中三日は100km台。紀伊半島を堪能するためのスケジュールと走行距離である。最終日の日曜日は高速道をつないで自宅まで一気に帰る。ただしこのルートでは名阪道は自動車専用道路だが既に無料になっており、1000円走行は叶わない。名神を経由すれば可能だったが、遠回りだし大渋滞が予測されたので避けた。
 宿泊先は、志摩と湯の峯は嘗て泊まったことのある、“志摩観光ホテル”と“あづまや”にし往時を偲ぶこととした。白浜は和歌山勤務時代一度泊まってみたいと思いながら実現しなかった、白砂と海を見渡せる“白良浜荘ホテル”。和歌山市は息子のマンションにも近い和歌山駅に隣接した“ホテル・グランビア和歌山”にした。

 去ってから41年目の紀伊半島ドライブへ!あとは天気の良いことを祈るばかりだ。
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2009年9月3日木曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(19)

19.ロング・ドライブへの備え ボクスター購入は、その昔数日、長い時では一週間かけて行った長距離ドライブを再現し、それを高性能車で楽しむことである。そこには日帰りや一泊程度の旅とは違う諸々の備えが要る。当時との年齢の違い、車の性能、道路事情全てが大きく違っている。車に慣れるとその準備に掛かった。
 先ず行ったことは、カー・ナビゲーション・システムの装着である。実は購入時セールスマンから純正システム取付けを薦められたのだが、こう言う“軟弱な”道具を着けることは、運転そのものの楽しみ(ある種の厳しさも楽しみの内)を阻害するものと考えて止めにした。異国の英国でさえそんなもの無しでやってこられたし、昔のラリードライバーは無論こんなものに頼らず道なき道を走破したと。
 しかし、2008年3月浜松で開かれた学会に参加した後、友人とレンタカーを借りて浜名湖近隣を走った際、車にカーナビが装備されており、その威力を実感した。航空自衛隊浜松基地への地方道案内、市内での多車線進路指示など、地図だけでは限界があるきめ細かなサービスにすっかり魅せられてしまい、これからの未知の土地への旅には必須の備えと導入を決意した。機種は、ポルシェ車への実績からパイオニアの「楽ナビ」にした。6月中旬これが取り付けられ、近隣ドライブで取り扱い要領を少しづつ学習していった。
 ボクスターによる本格的な長距離ドライブの最初の予行は、7月に行った新潟・信州旅行である(松之山・蓼科グランドツーリング参照;ブログの該当アイテムをクリックしても上手くつながりません。“滞英記-3”をクリックし、その記事の最後のところにある“前の投稿”をクリックするとそこへ行けます)。
 その時の主な狙いは、山岳ドライブとこのカーナビの取り扱いだった。我が家から関越自動車道を経て日本一の豪雪地帯松之山に至るルートは高速道路・主要地方道・山岳道路と多彩な道路環境でのドライブを楽しめる。また、松之山から信濃川に沿う主要地方道、117号線に出る405号線は冬季通行禁止になる厳しい道で、山岳ドライブを試すのにはもってこいの道だ(結局117号線との合流点、津南まで一台の車とも行き交わなかった)。飯山辺りから蓼科に至るルートは選択肢が多い。ここでは一般道だけを走ることにしたが、それでも幾つかのルートから選ぶことになる。実際にこの地方を走ってみると農道などの整備もよく進んでおり、一般道と変わらない。立寄り地点の設定や、音声による方向指示の癖を十分会得しないままカーナビに頼る運転で随分ミスを犯した。
 蓼科から小海線に沿う佐久甲州街道を経て中央道の須玉に至る道は、都会に近く別荘地なども多いことから、山岳道路とは言えよく整備されているので、高速でアプ・アンド・ダウンするワインディング・ロードを駆け抜ける楽しみがある。しかし、要注意はブレーキのフェード現象である。嘗てこの道をBMW-320で走った際、中央道の半ばからこれが激しくなり、ハンドブレーキを使いながら、何とか自宅まで辿り着いた恐ろしい思いは今でも忘れられない。AT車による初めての長距離山岳ドライブで、安曇野を出発美ヶ原へ出てビーナスライン、メルヘン街道を通って佐久甲州街道へ出るハード・ドライブ。この時はそれがフェード現象とは気がつかなかった。
 フェード現象とは、ブレーキを酷使し過ぎてブレーキローターが熱くなり、またディスクパッド(摩擦材)も加熱されガスが発生し、そのガスがブレーキローターとディスクパッドの間に挟まって、ローターとパッドがきちんと擦い合う事が出来無くなる現象。特にAT車ではエンジンブレーキの効きが弱いので、どうしてもブレーキに頼る運転になる。
 ボクスターのティプトロニックも原理的にはATである上に、スポーツカー運転の楽しみの一つは速度の緩急切り替えにあるので、ブレーキへの負担は嫌でも増す。今回は基点が蓼科で時間的な余裕が十分あるので、フェードしたら途中で長時間休むつもりで、エンジンブレーキを併用しながら頻繁にブレーキを踏んで走ってみた。結果は全くこの現象は起きなかった。さすが代表的なスポーツカーは違う、とこの車への信頼性を確認した。

 二度目の予行は、11月に出かけた奥州平泉へのドライブである。仙台で開かれた学会参加が目的だったが、今回の主題となる紀伊半島ドライブが具体的な対象として浮かび上がっていたので、それへのテストを兼ねることとした。“高速道路を、一日どのくらいの距離、どのくらいの時間運転できるか”がテーマである。仙台の牛タン、中尊寺での紅葉狩り、秋保温泉などを楽しみつつ、ひたすら東北道・磐越道・常磐道を走った。
 いずれのルートを採るにしても、高速道路だけなら、横浜~和歌山間は十分一日で走りきれるとの自信を得た。
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2009年8月28日金曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(18)

18.恋人の評価 11月初旬待望の車が納車された。担当セールスから「2000kmまではエンジン回転数3000rpmを超えないようにしてください」と注意をうけた。どんな運転をしたかは車載コンピュータに記憶されるのだと言う。これでは最大トルク領域4600~6000rpm、レッドゾーン7200rpm以上であるエンジンの力を楽しむことが出来ない、2ヶ月以上トロトロ運転で過ごさねばならないと、些かがっかりした。しかし、乗ってみると3000rpm・5速で120kmは軽く出てしまう。三浦半島や東名、箱根を舞台の慣らし運転を結構楽しむことが出来た。年を越す頃には2000km突破、やっと制約が解ける。伊豆半島や富士五湖へ足を延ばし、7月には新潟・信州を回る2泊のグランドツーリングを楽しんだ。高速道路あり山道ありのコースは、あらゆる局面(燃費を含めて)で期待以上のものだった。これが終わったとき、走行距離は5000kmを越えており、この車の特徴を体得し自分なりの楽しみ方が出来上がってきていた。
 そんな8月のある日、秋に予定していたイタリア旅行の相談のため、大学時代の親友、MTに会った(本報告-2“友の死”に登場)。食事中の会話の中で車の話しになり「今度のボクスターは素晴らしい」と自慢すると「何が?」と彼が尋ねてきた。予期せぬ質問に一瞬絶句してしまった。自分にとっては“全てが良い”のだがこれでは答えにならない。熱烈な恋をしている相手をどう第三者に説明して良いのか分からないのと同じである。いっとき間をおいて考えたことは、一つは自分が今まで所有した車との比較、もう一つは彼が「これはチョッと良い車なんだ」とアトランタ近郊を案内してくれながら語った記憶である。
 アメリカ駐在の長かった彼に彼の地で初めて会ったのは、1982年の9月下旬シカゴだった。私はその時エクソンのエンジニアリング・センター(NJ)に出かけその後シカゴで用事があった。アトランタに仕事場も家庭もある彼と会うことは無いが、一言電話でもと思い自宅に電話したところ、夫人が出て「主人は今シカゴに出張中なの、連絡先をお教えするから電話してみて」と言うことで、偶然シカゴで会うことができ、「初花」と言う日本レストランでご馳走になった。このとき聞いた、異国で仕事をすることの難しさ・覚悟は今でもよく憶えている。「最低5年は居続けなければモノにならない」と。
 二度目に彼に会ったのは1996年11月アトランタで開かれたアメリカ石油学会(NPRA)のコンピュータ関連会議に参加した時である。当時彼はアメリカ2度目の駐在でアトランタ交響楽団の会員になるほどアメリカ社会に溶け込んでいた。会議が始まる前に提携先のソフト会社への表敬訪問もあり、少し早くアトランタに乗り込み、彼等夫妻に土日を利用して市内・近郊を案内してもらった。名前は忘れたが、フラワーガーデンで有名なゴルフクラブでの昼食やルーズヴェルトが息を引き取った、ウォーム・スプリングズのリトル・ホワイトハウスを訪ねたことは忘れ得ぬ思い出でだ。このドライブの最中彼がつぶやいたのが、先の「これはチョッと良い車なんだ」である。
 この時の車はトヨタ・カムリ、いまでこそ日本でも知られているが、この時はアメリカ仕様が出たばかり、私は初めて耳にする名前だった。当時の日本車と同じようなサイズだがエンジン容量は3Lもあり、軽い車重と相俟って加速時や長距離高速運転に余裕があり、アメリカの5L級の車と遜色ない走りが出来るという。この余裕が彼の評価する「チョッと良い」点なのだ。アメリカと言う、車が日常生活の中で欠かせない社会における、普通の人(彼は自動車そのものや運転を楽しむタイプの、カー・マニアではない)の評価と言って良い。その彼が発した「何が?」に簡単に答えることは容易ではない。
 老若男女共通する車の評価は何と言っても「カッコ良い!」がまず第一番。これは大切なことだが、今の日本車には全く感じられない。この点では何と言ってもイタリア車だろう。ボクスターを含めてポルシェのデザインはシンプルで飽きは来ないが、「カッコ良い!」車ではない。
 スピード、加速力(停止状態から400mを何秒で走るかのような)も車の性能を表す代表的な数値である。この点ではボクスターもなかなかのもの(最高速度258km/h)だが、一般道路で確かめられるようなものではない。これも答えにはならない。
 結局、私が評価しているのは、カーブでの高速安定性や、高速道路での瞬発力、ブレーキ性能、緩急をつけた運転時での乗り心地なのだが、これはある程度それなりの運転をして初めて分かるものだし、場所を選ぶ。それを楽しめ、確かめられるのは、私設有料道路で交通量も少ない箱根ターンパイクやドライビング・スクールでの走行になる。したがって、その時彼の質問に的確に答えられなかったわけである。
 惚れた女性は残念ながら(?)良妻賢母の基準では計れないのだ。

(写真は2枚とも富士スピードウェイ・ショートサーキットにて。ダブルクリックすると拡大します