2009年10月20日火曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(27)

27.あづまや
 本宮を出たのは5時過ぎ、曇天もあり少し辺りも薄暗くなりかけていた。1キロくらい熊野街道を新宮方面に戻って“湯の峰”方面へ分岐する道へ分け入る。ほぼ熊野古道に併走する道だ。舗装こそされているが、道の勾配や曲がり具合、覆いかぶさるような木々は41年そして48年前と変わらない。途中で“民宿あずまや”と描かれた看板を見かける。「(あそこは由緒ある旅館で、民宿ではなかったはずだが、経営が変わってしまったのだろうか?)」と疑問がわいてくる。道は一寸した峠を越えて小さな谷合に降りていく。ここまで対向車は全く無い。下方、木々の合間から村落が見え出し、やがて車は狭い谷の両側にわずかな家がへばりつくような、古い湯治場に到着した。雰囲気はほとんど往時のままだ。
 少し下り坂のメインストリート(?)。左側は小さな谷川が流れ、川の向こうに何軒か旅館がある。確か“あづまや”は右側のはずだ。風呂場の記憶だけは残っているが、建物の印象はまるでない。駐車をすると大きな車は行き交えないほど狭い道。車速を落として、何か見当になるものは無いかと探っていると、十数軒しかない村の真ん中辺り、貧相なお土産物屋に続いてそれは在った。通りに並ぶ家々が道路から直ちに立ち上がるように建っている中で、そこだけ狭いが一段高くなった車寄せがあり、道路から少し距離を置いて建てられた落着いた佇まいの寄棟木造二階建がある。取り敢えずそこに車を停め、無人の玄関で来訪を告げると和服を着た若い女性が現れた。荷物を下ろして駐車場を問うと「しばらく道を進み最初の橋のところで左折して直進すると当館の駐車場があります」とのこと。出かけてみるとそこはかなり広い未舗装の広場で奥の方にトタン屋根の車庫まである。広場の一辺には “民宿あづまや”も在った。この狭隘な土地では本館・駐車場も含めると大地主に違いない。
 玄関に戻るとぼんやりと昔が戻ってくる。先ほどの女性が「お部屋へご案内します。お二階です」と言い左手のほうに進んでいく。「(違う。右だったはずだ)」 階段を上がった所で廊下はやや不自然は感じで部屋へとつながっている。部屋の名前は「杉」、杉で作られた部屋である(部屋は造作に主に使われる銘木で名付けられている。はるかに立派な部屋には「槙」、「こくたん」などがある)。案内を終え部屋を去る女性に聞いてみた「48年前そして41年前にもここに泊まったことがあるんだが、何か昔と違うんですよね」「あー ここは後から建て増ししたからでしょう」との答えで納得した。
 それでも部屋からの眺めは変わらない。同じように川を見下ろす二階の部屋だったからだろう。まずしたことは、あの思い出深い大きな木製の湯船に浸かることである。案内の女性とその話をしたとき「槙のお風呂ですね。そのままでございます」と嬉しい返事が帰ってきた。館内の案内によればこの浴場は大正時代に作られ、いまでもそのときのままの状態だという。洗い場に使われている石は碁石で有名な那智黒である。誰も居ない大きな湯船の中で一日の疲れを癒すとともに、来し方を懐かしんだ。そう 2月に逝ったMNとの48年前の旅だ。
 湯の峰温泉は日本最古の温泉と言われている。おそらく熊野詣での人々が旅の垢をこの湯で洗い流したに違いない。そんな歴史の中で江戸中・後期(明確な時期はわからないほど古い)に出来たこの“あづまや”には皇室の方々や有名人も大勢泊まっている。色紙の中に高浜虚子の名が見えるし、現皇后が皇太子妃時代お子様連れで滞在された写真などもある。また外国人ではフランスの文人で文化大臣も務めたアンドレ・マルローが夫人と滞在したとの記録もある。確かに由緒ある旅館なのだ。
 こんな立派なところでも貧乏学生だった我々が泊まれたのは幸運(工場研修で得た若干の手当て、瀞八丁観光拠点としての場所選び;観光船はここから近い宮井大橋の袂から出る)もあるが、この地があまりに都会から離れ温泉以外何もない(景色も特別美しいわけではない。夜遊びするところは全く無い)場所だからである(相対的に宿泊料が安い)。しかし、この“温泉以外何もない”ことがこの地の貴重な財産なのかもしれない。
 夕食時若女将が挨拶に来た。41年前は未だこの世に存在しなかった年頃と推察した
。昔話をしてみたが、学生時代から東京に出ていたという彼女との共通話題は、あの槙の風呂場だけだった。
 熊野牛のしゃぶしゃぶをいただきながら、格差社会(都会と地方;日常と旅)をいっとき考えた静かな夜で、今日の旅は終わった。

 この日の走行距離はおおよそ170km。

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