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2011年2月13日日曜日

決断科学ノート-57(ドイツ軍と数理-6;最終回;兵器の稼働率改善)

 戦術、戦略いずれのレベルでも直接戦闘(軍事ORの三大適用分野;捜索、射爆、交戦)に数理が使われた形跡は全く無い。それでは、連合国側でその適用が顕著だった兵站問題(補給・輸送・貯蔵)に目を向けてみたが、そこにも作戦計画段階での定量的な検討は見られるものの、実施段階では組織や道路・鉄道事情にそれ以前の問題が山積みしており、数理どころではなかった実態が明らかになってきた。それでは第三の適用分野、兵器の稼働率や信頼性改善活動への数理応用はどうだっただろうか?
 英国のOR起源がレーダー運用と深く関係していることはよく知られている。当時のレーダーは実験室レベルの技術をいきなり大規模実用化し、実戦を通じて改善・改良して行った。したがって慣れぬオペレーター(軍人)がこれを上手く使いこなすことは至難の業だった。ノイズとシグナルの判別、高度・距離・方角の特定など、実験・実戦を通じてデーターを科学者の指導を受けながら分析し、完成度を上げていっている。また、Uボート捜索では、初期の段階で爆撃機軍団と沿岸防衛軍団の間で4発機の奪い合いが起こる。限られた哨戒機で実効を上げるためには、その稼働率を高めることがカギになる。そのためには稼働率の決定因子を突きとめ、その隘路を取り除く必要がある。後にノーベル物理学賞をもらうような学者達が、このような裏方仕事に情熱を傾ける姿はドイツには無かったのだろうか?
 レーダー開発においてドイツは決して英国に遅れをとっていなかった。しかし防空システム構築を手がけ始めるのは1940年7月、この防空システムはデンマークからフランスに至る空域をいくつかの戦域に分割し、そこにレーダーと指揮所を設けて夜間迎撃戦闘機を誘導するもので、レーダー実用化(稼働率・信頼性向上;主にハードウェアの改善)に際してはメーカー(テレフンケン)の技術者と軍人の協力関係があったとの記録が残っている。ただ当初は対空砲も含めたシステムではないので、英国に比べ総合力で劣っていた。
 装甲軍、特に戦車・自動車の稼働率に関しては、全体的な隘路は部品補給の輸送にある。上手くいった西方作戦では、空輸による補修部品供給が効をそうし、現地での修理が短く済んで稼働率を上げている。しかし、東方作戦では自動車の場合、あまりにも車種が多く(2000種;フランスで鹵獲したトラックを多数含む)、部品の輸送問題もあって、混乱を極めている。戦車については損傷の内容・数も西方に比較して酷く、随行する整備中隊の手に負えず、母国まで後送しないと修理できないものが多かったことが、全体の稼働率を著しく低下させている。
 このような事例から分かってきたことは、ハードウェアの修理・改良という点ではドイツ軍もよく努力しているのだが、故障の大本となる原因究明や組織面での効率改善に踏み込む考え方が見えないことである。つまりソフトウェア面からの問題解決アプローチに欠けていることが浮かび上がってくる。これはどこから来ているのだろうか?
 その理由を、私は“狭量な専門家意識”、そしてそれと無縁ではない“組織の縄張り意識の強さ”にあると考えている。第一の点は“マイスター制度”や“大学の講座制”などに見られる伝統的な職業専門意識の強さ。これは英国の“アマチュアリズム尊重”と対極をなす。組織の問題をさらに複雑にしたのは、伝統的なプロシャ軍人魂、ナチスというイデオロギー集団、それと一般民間人の職業意識間の葛藤である。個人も組織もそれぞれが与えられた条件化で最適化を目指す。全体最適はどこにも存在しない。
 結局、これが稼働率・信頼性向上に留まらず、ドイツ軍で数理応用が発芽しなかった唯一・最大の理由に違いない。
(ドイツ軍と数理;完)

 次回からは東燃のグループの第2世代プロセス・コントロール・システム、TCSプロジェクトについて連載する予定です。

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2011年1月27日木曜日

決断科学ノート-56(ドイツ軍と数理-5;電撃戦と兵站-4;三つの電撃戦-3;東部戦線)

 欧州完全制覇を目指した英独航空戦(英国のORが実用化するがこの戦い)が頓挫した後、ヒトラーはその矛先を東に向けることに決する。西側は守りとは言え、これでは国防軍のもっとも恐れる二正面作戦になる。当然ヒトラーと軍部の間で激しい議論が戦わされるが、結局ヒトラーの意志を変えることは出来ず、1941年6月22日ドイツ軍はロシアに侵攻する。これがバルバロッサ(赤ひげ)作戦である。
 この戦いについては数千の書物が書かれ、その兵站に触れていない本は無いと言われるほど勝敗(そして国家の命運さえ)の帰趨を決する最重要因子だった。1812年のナポレオンモスクワ遠征を持ち出すまでもなく、ヒトラーも国防軍もそれを十二分に承知していたはずである。当面の作戦到達点は、北は北極海に面するアリハンゲリスク、南はヴォルガ川がカスピ海の北岸そそぐ地点を結ぶ線まで。ウラル以西のヨーロッパ・ロシア全体と言える。ポーランド分割で東に移動した独ソ国境線から目標線まで1600kmの距離がある(モスクワまでが約800km)。この目標線まで装甲軍を進出させるとなると膨大な武器・弾薬・燃料が必要となることは自明である。作戦策定者・決断者はこれをどう考えていたのであろうか?
 どうやらここにはロシア革命によるボルシェビキ支配に対する反政府感情や西方作戦における電撃戦成功過信が織り込まれているようなのだ。つまり、まともな計算では実現できないので、自らを納得させ得る楽観的な作戦展開を想定して、それに基づく兵站を進めて行くという、論理的思考を著しく欠いた考え方で案を作ることになる。具体的には国境から500km以内で赤軍主力を包囲殲滅し、和平交渉に持ち込むか、政府の瓦解を待つと言うものである。そしてその構想は、少なくとも装甲軍を突進させる作戦は見事に当たり、緒戦では成功するかに見えたが、兵站想定限界が見え始めた頃からソ連の反攻が冬将軍とともにやってくる。
 問題は物資よりもその輸送手段にあった。鉄道と道路の事情である。参謀本部が戦前想定したロシアの道路は第一次世界大戦の経験である。当時ロシア領だったポーランドやバルト三国の道路は西欧並みに整備されていた。しかしこの戦いで踏み込んだロシアはまるでヨーロッパの常識が通じないほど酷い道だった。特に秋の雨季には“ラスプーチッチャ”と呼ばれる泥濘の海に変じる。ドイツ装甲軍育ての親、グーデリアン上級大将の自伝を読んでいると、東部戦線のところでは“泥”“泥濘”“ぬかるみ”で溢れている。また英国の軍学者、リデル・ハートは「ソ連にとり、より大きな利点はロシアの道路である。ソ連に西欧並みの道路網があったら、フランスのように簡単に蹂躙されていただろう」と断じている。
 鉄道がまた問題であった。これだけ縦深で広大な地域の作戦では鉄道輸送力が主力になるべきである。しかし、帝政ロシア時代西方からの侵入を恐れ、ゲージを独特の広軌にしておいたことがここで生きてくる。ドイツの鉄道部隊は標準軌への切り替えに奮闘するがゲリラ活動などもあり、思うように改変が進まない。やっと出来てもドイツ製機関車が走るには路床や線路がそれに耐えられない(ドイツの機関車の方が重い)。またドイツ製機関車の給水システムが外部にむき出しのため冬季には凍結して、役に立たなくなってしまう。
 ナポレオン、そしてヒトラーの敗因を“ロシアの冬”に求めるものは多い。しかし、装甲戦に関する限り、地盤が固まるロシアの冬は戦いやすい。グーデリアンは冬の到来を待ち焦がれていたくらいだ。しかし、キャタピラの滑り止め具が届かずスリップ事故が多発する。
 作戦策定時に兵站面で大まかな数量的検討があったものの、それは現実的なものではなかった(見たくないものは見ない;これは日本軍も同じ)。さらに作戦が進行すると、折角計画通り生産された物資が陸上輸送ネックで最前線に届かなかった。OR的な発想が生まれるにはあまりにも条件が悪い。これが東部戦線の姿だったのだ。海上輸送や空輸作戦へのOR適用で成功した米英とはここに前提条件の違いがある。
(次回;兵器の稼働率)

2011年1月10日月曜日

決断科学ノート-55(ドイツ軍と数理-4;電撃戦と兵站-3;西方作戦)

 ポーランド侵攻の三日後、9月3日、英国とその連邦国がドイツに宣戦布告、フランスもそれに続く。ドイツがもっとも恐れる東西二正面での戦争が現実のものになる。この通告を総統官邸で聞いたヒトラーは「さて、どうなる?」と外相のリベントロップを睨みつけ、しばし無言であった。ドイツ帝国が第一次大戦で失った領土を回復する行動にはこれまでも抗議はあっても、西側(英仏)が軍事行動を起こすことは無かったからである。ポーランド作戦の予想外の成功に、ヒトラーは9月末、返す刀で西方作戦を行うと宣言するが、国防軍の強い反対で延期になる。英爆撃機による軍事施設爆撃、同海軍による海上封鎖、独海軍の通商破壊は行われるものの、予期した英仏陸軍のドイツ本土への進撃は始まらない。
 結局戦端が開かれたのは翌1940年5月10日、この間の8ヶ月はのちに“まやかしの戦争(Phony War)”と揶揄されるように、両軍ただ睨み合うだけの状態が続いたのである。ドイツにとってはまたとない時間稼ぎが出来、兵器生産、資材備蓄、人材育成の充実は目覚しいものがあった。ポーランド戦で主力だったⅠ号、Ⅱ号戦車はいわば軽戦車であったが、それ等は中戦車のⅢ号、Ⅳ号戦車に置き換わり、支援車両も多数揃い、装甲軍が単独で作戦出来るような部隊編成も出来上がっている。しかし、それでも連合国側の兵力・装備(特にフランスの機甲力)はドイツを上回るものがあった。
 ドイツの戦略・戦術が最終的に決まるまでには紆余曲折がある。第一次世界大戦前からドイツがフランス攻略のために考え出したシュリーフェン計画(大鎌で刈るように、ベルギー・オランダ・フランス北部を席巻し、パリを西側から包囲する)採用の可否、従来の歩兵中心に装甲軍はそれを支援する戦術にするか、装甲軍を槍のように突進させるかなどが激しく議論される。結局、A軍集団(この他にB、Cがあった)の参謀長マインシュタイン中将と装甲軍生みの親、グーデリアン大将の意見をヒトラーが容れて、シュリーフェン計画を装甲軍先頭に実行することになる。加えてベルギーの要塞地帯には空挺作戦、フランスの北の守り、セダン攻略には急降下爆撃機による空陸直協作戦が加わる。第一次世界大戦にはなかった兵器と戦術を駆使した新しい戦術、これが電撃戦である。英仏海峡ダンケルクでの停止命令は5月24日、6月10日パリ無防備都市宣言、6月22日休戦。1ヵ月半で大西洋に至る全ヨーロッパはドイツが支配する所となった。
 それではこの新しい戦い方の兵站はどうだったか?結論から言えば大成功であった。作戦計画に合わせて綿密な兵站計画を作り、装甲集団の兵站面での独立性と作戦面での自由裁量権を実現すべく、装甲集団が重要資材全てを携行する「リュックサックの原則」を採ったのである。装甲軍に随伴する輸送用トラックの大量生産、鉄道輸送計画、補給施設・貯蔵所の設置、給油方針・スケジュール、ポータブルな携行具の開発(その後各国で採用される燃料用携行タンク;ジェリ缶もこの時の発明;トラックにこの小型タンクを満載し、併走しながらそれを戦車に渡していく)など、細部までよく整備されているのに感心する。フランス軍戦車が多数燃料切れで動けなくなったのと対照的である(タンクローリー給油方式)。
 進撃速度が速かったので弾薬の消費量は極めて少なく、兵棋演習(ある種の数理)で求められた数値を大幅に下回っている。
 ただ見込み違いは道路であった。中央を突破するクライスト装甲集団は戦車1200両を含む41000台の車両より成っていたが、これに割り当てられた幹線道路はたったの4本である。分列移動するその長さは400kmに達する。これでは敵の攻撃の好餌となってしまう。クライストは「せめてもう一本」と懇請するが受け入れられない。歩兵部隊が既得権を離さないのである。これは数理以前のいかにも人間臭い決定であった。
(つづく;三つの電撃戦;東部戦線)

2010年12月31日金曜日

決断科学ノート-54(ドイツ軍と数理-3;電撃戦と兵站-2;三つの電撃戦-1;ポーランド侵攻)

 電撃戦(この言葉の由来には諸説あるのだが)の嚆矢といわれるのが、1939年9月1日に始まるドイツによるポーランド侵攻である。しかし、軍事専門家や戦史家による後の分析では、対ポーランド戦は「本格的な電撃戦」ではなかったとする見方が大勢である。両国の戦争準備の格段の差異から、この戦いがほぼ2週間で決したこととドイツの宣伝が巧みであったことでその突進力が過大評価されたきらいがあるのだ。
 確かに装甲部隊と空軍の共同作戦はあったが、装甲部隊が作戦で集中的に使われたわけではなく、各装甲師団は戦術レベルで師団ごとに戦っている。当時の参謀本部の評価も「この戦い方が西方で成功するとは思えない」というものだった。
 しかし、ヒトラーはソ連との密約で定められた分割線まで到達すると、返す刀で西方作戦を行うべきと言い出す。この時ドイツが備蓄する弾薬量はあと2週間分しかなかったし、車両の半数は稼動できぬか、重整備が必要だったにも拘らずである。それは陸軍だけのことではなく、空軍も同じだった。ここには怜悧な戦争経済(兵站を含む)の考えは全く存在しない(一応の資材・物資計画は検討されていたが、ヒトラーが決断に際してそれに拘束された形跡は無い)。彼のこの発言は、ポーランド侵攻もそれまでの恫喝外交の延長、旧ドイツ帝国領の回復(ポーランド回廊など)なので英仏の宣戦布告は無いと読んでいたのが見込み違いだったことよる。それでも現実は覆い難く、西方作戦の開始時期は30回近く延期され、8ヵ月後の翌年5月に始まる。皮肉にもこの遅れにより、ドイツ軍は装備の強化、資材手当て、人材育成が行われ、本格的な電撃戦が可能になったのである。
 さて、ポーランド戦役における兵站の実態はどうだったか。装甲力が加わったとは言え、ドイツ国防軍の計画は用兵も兵站も旧来からの考え方から脱しておらず、国境までの輸送は依然鉄道中心である。そこから先の補給は、理想的には鉄道と自動車輸送(200マイルを境に、それより長距離は鉄道が優れていた)の併用となるのだが、敵味方による鉄道破壊は凄まじくポーランド領内では機能しなかった。また、自動車輸送も当時のドイツのトラック保有数はとてもこれに応えられるものではなく、さらに道路の状態も予想以上に悪かったので、損傷率は50%以上に達している。結局輓馬輸送だけが頼りで、「戦車と車両の軍隊」ではなく「馬匹の軍隊」(ドイツ軍の軍馬総数270万頭;これは第一次世界大戦時の2倍!)というのが実態であったのだ。戦車の進撃速度は時速10kmだが、時速4kmの歩兵・輓馬に引きずられてとても電撃とはいえないペース。それでも馬脚を現さなかったのは、ポーランドの準備不足と侵攻距離の短さ(約200マイル)で、戦いが短期間で決したからである。
 第一次世界大戦は「石炭と鉄鋼の戦い」であったが、第二次世界大戦は(荷馬車で戦ったとは言え)「石油とゴムの戦い」。消耗品であるガソリン・タイヤ・弾薬の輸送量は前大戦の比ではない。使える道路は破壊活動やゲリラなどで限られる。そこを、戦車・自動車化歩兵、徒歩歩兵、輸送用トラック、荷馬車で進撃していく。補給の車両や馬車は再び補給所まで戻っていく。交通は混乱し兵站問題も深刻化していく。数理でこれを最適化することなど、とても思い至らなかったことは容易に想像がつく。
(つづく;三つの電撃戦;西方作戦)
 本年はこれをもってブログ掲載を終わりといたします。一年間のご愛顧に感謝すると伴に、来年もよろしくお願いいたします。
 良いお年をお迎えください!

2010年12月16日木曜日

決断科学ノート-53(ドイツ軍と数理-2;電撃戦と兵站-1)

 英米で戦略・戦術に次いで数理が使われたのは兵站(調達・輸送・集配)の分野である。どのような資材を、どの程度の量、どのような手段で、どのようなルートで運ぶか?最前線とこの兵站線が切れ目なくつながってはじめて作戦(戦略・戦術)が実現される。
 科学戦のはしりといえる第一次世界大戦に登場した新兵器、戦車は塹壕を無力化する点で画期的な兵器だった。この運用方法は当初歩兵の支援兵器と考えられていたが、英国のフラーやリデル・ハートはこれだけを集団運用する専門部隊を作り、高速度で敵陣深く侵入する戦術を提唱した。しかし、彼等の母国でこの考えが容れられることはなかった。それに注目したのは、大陸軍国であるドイツとソ連であった。敗戦国ドイツでは自動車輸送部隊に居たグーデリアン(歩兵)がフラー等の考えに触発され、装甲車両による新兵種を模索することになる。やがて彼の考えは装甲師団さらに装甲軍として発展していく。この装甲軍と急降下爆撃機の協調は従来にない三次元作戦を可能にし、防御側を大混乱に陥れ、圧倒的な勝利を短期間で獲得するようになる。のちに電撃戦(フリッツクリーク)と呼ばれることになるのがそれである。
 今次欧州大戦で大規模な電撃戦が行われたのは、1939年9月開戦時のポーランド侵攻、翌1940年5月の西方作戦(フランスの戦い)それに1941年6月に始まる独ソ戦。この三つが代表的なものといえる。電撃戦はそれまでの作戦とはスピードが違う。その兵站システムもそれに応じたものが必要となる。ここで数理的な検討が行われた痕跡はあるだろうか?
 装甲部隊の主役は戦車であるが、その他の支援車両;偵察用装輪装甲車、対空機関砲搭載ハーフトラック(半装軌車)、支援戦闘工兵・歩兵輸送ハーフトラック、食料・燃料・弾薬・修理部品を運ぶ貨物トラック、通信車、野戦救急車、炊事車など多種多様の車両で構成されている。これらの内一般道路を長距離自走できない戦車や半装軌車は作戦発起点近くまで鉄道で運ばれ、そこで自走組と部隊集結が行われて作戦活動に入る。ここには各種補給品の集積基地も作られる。戦闘に入ると敵の抵抗力が強い場合は侵攻速度が遅くなり、距離は捗らないので燃料は少なくて済むが、弾薬の消費は高くなる。抵抗が弱く、長躯進出する場合は逆になる。こんな単純化した例にも、交通手段(鉄道・道路)の組合せ問題、補給物資の積み合わせ問題など種々の数理的課題が存在する。
 ドイツ軍の場合、作戦“発起時”の資材計画・輸送計画は、作戦計画の兵棋演習の中で行われているのだが、 “作戦”(兵器の量と質を基本にする戦闘)に優先度が置かれ兵站は付け足しの感が否めない。つまり作戦を作りそれに従って必要資材の種類・量をはじき、次いで輸送手段を決めるという手順になる。逆に言えば、多様な輸送手段の可用性をベースに作戦を組み立てるようなスタディが行われた形跡がない(普墺・普仏戦争では鉄道を作戦の中枢に据えているのに)。
 陸上の作戦の場合、兵站組織の中にも問題があった。陸軍総司令部(OKH)の輸送局長と戦域内自動車輸送に責任を持つ兵站総監がその役割を分けていたのである。前者は鉄道および国内運河輸送を、後者は各戦域内輸送とそこで戦う組織(軍、軍団、師団等)が必要とする資材をまとめ、これを出発点まで運ぶ任を負っていた。つまり補給パイプの両端と中央部が別々に管理されていた。さらに悪いことに、このパイプの中央部を握る輸送局長の権限は空軍や海軍には及ばないので、空輸や海上輸送を効果的に使うことは全く出来なかった。
 このような制約の下で、それぞれが最善の努力をし、何とか部分最適化を図っていたのがドイツ軍兵站の実態であった。そんな訳で作戦開始時の数量計画策定はともかく、その他の面で数理が活用される場はなかったのである。
(次回:電撃戦と兵站-2;三つの電撃戦)

2010年12月1日水曜日

決断科学ノート-52(ドイツ軍と数理-1;数理か占星術か)

 師事したランカスター大学カービー教授によれば、英米で軍事作戦の策定・実施に威力を発揮したOR(オペレーションズ・リサーチ;応用数学の一種)のような数理利用は、日・独・ソにはその形跡が無いと言う。そして、その最大の原因は権力とその意思決定構造(つまり独裁)にあのではなかと推察している。その上で「英米はORで戦い、ヒトラーは占星術で作戦を決した」と著書で揶揄している。彼の研究(英国のOR史と戦後の米国との適用比較)は、英米以外も取り上げ深く調査するものではなかったので、このような整理がされたのも頷ける(わが国の意思決定構造がヒトラーやスターリン治下の独ソと異なることは説明したが)。
 先の大戦における日本のOR利用に関しては、元防大教授の飯田耕司先生がまとめておられるが、これはいずれ別途本ノートで取り上げたい(戦略物資調達・配分から戦争の趨勢を予測)。ソ連については、横河在籍時代頻繁にロシアに出かけていた頃、セールスエンジニアにモスクワ大学工学部(原子力)出身のスタッフがおり、夫人も同大学の応用数学修士課程まで在籍したというので、「戦時のソ連におけるOR利用に関して、何か手がかりになるものは無いか聞いて欲しい」と頼んだが、期待するような答えは得られなかった。
 19世紀のドイツは世界で最も科学・技術の進んだ国であった。優れた数学者もそれ以前から多く輩出している。プロシャを中核とする大ドイツ帝国誕生のきっかけとなる普墺戦争・普仏戦争では鉄道が重要な役割を果たし、そこでの列車ダイヤ編成が速やかな兵力集中を可能にして戦争に勝利している。これなど、ある種の数理応用と言っていい。第一次世界大戦でも、航空機・潜水艦・戦車・通信など、後に戦略兵器に発展する近代兵器開発・利用で第一級のレベルにあった。その科学戦・総力戦に破れ、厳しい制約の下に留め置かれた国防軍は、再興を更なる科学・技術利用に求め、それを縦横に駆使できるプロフェッショナル思考を強めていく(英国のアマチュアリズム尊重と対照的)。スペイン市民戦争はその実験場となり、ナチスの巧みな宣伝もあって空軍力は世界を震撼させる。
 しかし、科学・技術戦への取り組みに関し、後の問題の芽が見え隠れもする。高性能にこだわるあまり、生産性や保守性が等閑にされるような点。また、戦術や戦略が兵器の後追いになったり、陸軍中心思想から脱却できなかったようなところにもみられる。ここから数より質、ソフトよりハード、そして遠くよりは近く(時間的にも距離的にも)と言う特質が浮かび上がってくる(例外として、潜水艦隊とロケット兵器があるのだが)。これらをナチス支配体制と結び付けて整理してしまうのは判りやすいが、果たしてそれでいいのだろうか?別のファクターがあるのではないか?これが私のドイツ軍と数理応用に関する基本的な疑問点である。
 兵器開発は工学が基になる、その理論体系は数理によって構築される。従ってこの面でのドイツの力は当に最先端にあったといえる(戦後の米ソ軍事技術がどれだけ彼等の研究開発に依存したことか!)。ハードとの関わりが少ない分野でも、暗号技術や気象観測などでは数理応用に連合国側に遜色ない。大規模作戦研究では兵棋演習(戦争しミューレーション)を、当然数理を用いて行っている。資材・兵器需給計画然りである。にも関わらず日常の作戦策定・実施ではOR的発想が全く見当たらない。何故か?
 ぼんやり見えてきたのは、“システム思考(あるいは統合的思考)が希薄なこと”である(狭い範囲のシステム思考はあり、課題とシステムがマッチした時には見事に成功する:西方電撃戦、独ソ戦の初期;いずれも陸軍内の装甲軍、あるいは初期の潜水艦戦争;海軍の中でも独立した艦隊:大きなシステムで捉えられないのは日本も同じ:この点では英米と差がある)。専門分野を跨ぐ人材交流、組織間(各軍、軍民)協力、異なる兵器体系の協調運用などに制約があり、柔軟な組合せから新たな発想が生まれる機会が少ないことである。言い換えれば部分最適化に留まる傾向が強いのである。これはもしかすると、権力構造に加えて、国民性・民族性(それぞれの専門分野への強いこだわり;例えば、マイスター制度)なのではないかという気もしてくる。
(次回予定;電撃戦と兵站)

2010年1月10日日曜日

決断科学ノート-25(決断の要点-2;軍事作戦)

 企業経営の場合、判断基準が利益、売上、シェアーを決め手とするのに対して、軍事作戦の場合、なんといっても“勝敗”が決め手である。ただ、近代の国運をかけた戦争の場合、一度の会戦で全てが決まるわけではない。総力戦では直接的な戦闘力に加えて、戦争資源やロジスティック(補給力)が戦いの趨勢を決する。従ってこの“勝敗”の評価ポイントをどこに置くかによって判断は変わってくる。
 軍事作戦における決断の特徴は、状況変化が早いことである。計画通りいかないのは常なので、断を下すタイミングがきわめて重要になる。拙速・独断専行、柔軟性とスピードがもう一つのカギとなる。
 この評価ポイントとタイミングは決断者の立場によっても変わる。軍人ならばやはり時間的に短期の戦闘そのものにウェートが置かれるし、政治家なら個々の戦闘より長期的視点からの、財源や国民生活あるいは外交関係ということになる。
 純然たる軍事作戦は軍人が、国家戦略は政治家が決めるというのがバランスのとれた役割分担であろう。大局を見なければいけない人間が最前線の小事に惑わされたり、戦闘に集中しなければならない兵士が後方を慮るようではいけない。軍人が政治家になってしまった日本、政治家が軍事作戦を指導したドイツはこの点で、作戦目的や勝敗の判断基準があいまいになってしまった。
 1941年6月22日ドイツはソ連に攻め込んだ。バルバロッサ作戦、北方・中央・南方三軍集団、兵力は約300万人。北方軍集団はレニングラード、中央軍集団は一気にモスクワを目指したが、激しい抵抗に遭うと8月中旬ヒトラーはこの中央軍集団から第2装甲集団をキエフ占領のため南方軍集団に転用する。当初の計画には無かったことである。これには成功するが、それだけモスクワへの進軍が遅れ、その間に防御が固められていた。12月冬将軍の到来、モスクワを眼前にしながらその攻略作戦は中止される。
 ウクライナ、さらにはその先カフカスの油田地帯を抑える役割を持つ南方軍集団に装甲軍集団が割かれた時、装甲軍生みの親、グーデリアンはヒトラーに異を唱え解任される。反対したのはグーデリアンだけではなかった。この判断で国防軍首脳の一部とヒトラーの間に修復できぬ亀裂が生じた。軍人たちは首都陥落こそ勝利と考えていたからだ。

 ヒトラーの、このモスクワ攻略の変心、その1年前英仏連合軍をダンケルクに追い詰めながら、最後の殲滅戦を躊躇したことは現在でも史家の関心を惹き続けているが、一人の人間が、政治家・軍人の二役を兼ねたところに判断の混乱があったとしか考えられない。軍人ならば、ダンケルクで一呼吸おかずに一気に英仏海峡まで攻め落し連合軍の反攻の余力を絶っていたに違いないし、モスクワ陥落で侵攻作戦に一区切りつけていたであろう。一方政治家ならば、最後まで追い詰めず英仏と休戦の余地を残そうと思うだろうし、戦争継続のためにカフカスの石油を優先する考えも分からぬではない。
 “勝敗”という一見分かり易い判断基準も、一段上・数段上の視点ではまるで変わるところが軍事作戦決断の難しいところである。資源・兵力(兵器を含む)の配分問題もどのレベルで評価するかによって解は異なるということである。
(写真はダブルクリックすると拡大します

2009年8月25日火曜日

決断科学ノート-16(沿岸防空軍団長の怒り)

 シーレーンの守りは英国の生命線である。これは海軍と空軍の共同作戦域でもある。現在“OR生みの親”と称せられる、ブラケットはマンチェスター大学教授のまま軍の各種の委員会メンバーやアドバイザーを務めていた。最初は空軍省の防空科学委員会、次いで航空科学研究所、陸軍の対空砲軍団、更に空軍の沿岸防空軍団の顧問を務め、その後海軍省の科学顧問に転じ、対潜作戦や護送船団作戦に数理応用を鋭意進めていく。
 これらの仕事の内、沿岸防空軍団時代から海軍省に移動した初期の時代はほとんどシーレーン確保のための数理手法開発(そのための人材育成・体制作りを含む)に傾注し、現場から高く評価されている。それらは、航空爆雷の起爆深度設定、Uボートによる哨戒・爆撃機発見を遅らせる塗装色、Uボートと共同作戦をとる長距離哨戒機、フォッケウルフ(FW)-200攻撃のための複座戦闘機の運用問題、新兵器導入における不確実性の解析など多彩なもので、これらの相乗効果が着実に商船の被害を減じていき、ついに彼のグループは海軍軍令部副部長直轄組織にまでになる。
 他国の軍隊ではとかく縄張り争いが目立つ、空軍と海軍の協調も理想的になっていく。それは空軍の三つの実戦部隊(他の二つは、戦闘機軍団と爆撃機軍団)の一つである沿岸防空軍団の日常指揮を海軍に移し、両軍の連帯責任の下で運用する形にしている。一般に強力な上位課題が在る時、対立する組織はその行動基準を変え協力する(旧帝国陸海軍や現在の中央官庁はそれでも変えない?)。それほどUボートの脅威が凄まじかったともいえる。
 この様に、一見順調に進んでいるように見えた対Uボート作戦だが、まだ安心は出来ない。戦争内閣の対潜水艦委員会(2週間に1回、首相官邸で開催)は海軍に更なる強化策について報告を求める。海軍省はこれをブラケットに命じたため、作られた報告書がブラッケトとその時の沿岸防空軍団長、スレッサー中将との激しい論争を呼ぶことになる。報告書の内容とまとめ方に問題があった。
 その内容は、190機の重爆撃機を爆撃機軍団から沿岸防空軍団に回すことを提言するものであった。これは長年、何度も論じられてきた空軍存立の理念に関わる問題に波及する、単なる資源配分問題では無く、高度に政治的な火種なのだ。バトル・オブ・ブリテンを辛うじて耐え、本来の役割である“守りよりも攻撃”に転じた空軍では「一機でも多くの爆撃機をドイツ都市爆撃に!」が日々の合言葉である。スレッサーも空軍の本流に在る人。「爆撃機の転用など全く必要ない!兵器の要否を決めるのは自分だ!」と提言を支持しない。
 ブラケットにしてみれば、英国が戦い続けられるかどうかシーレーンの確保にある。これ以上の上位課題は無いとの認識だし、海軍から命じられた仕事ゆえスレッサー(空軍)に相談することでもないと考えていた(空軍に根回しが必要ならば海軍のしかるべきラインですべき)。スレッサーは一言も相談に与らなかったことにも腹が立った。「沿岸防空軍団は最もOR利用に理解があった組織なのに!」と怒りをぶちまける。「科学者も使い方を誤ると無価値だ!戦略は計算尺(スライド・ルール)で作るものではない!」
 戦後二人はこのことに関して言葉を残している。スレッサーは「空軍OR公史」の中でORが今次の大戦で極めて有効な武器であったと賞賛しつつ、あの時の怒りの言葉「戦略は計算尺(スライド・ルール)で作るものではない」を締めくくりとしている。
 一方のブラケットは、「空軍の指導者がORグループによって整えられた“統計・計算”という突っつき棒で小突かれのた打ち回り、あげく“戦争は兵器で勝つもので、計算尺ではない”と吼えていたのを憶えている。しかし、事実はこの時から“計算尺戦略が常態化したんだ”」と。
 OR利用推進はその初期の段階でもこんなシーンがあった。その後の平時における利用にもそれは変わらない。数理担当者は組織内で如何に立ち回るか、考えさせられるエピソードである。

2009年8月13日木曜日

決断科学ノート-15(勝敗へのボディブロー)

 今年も終戦の日、8月15日がやってきた。この日が近づくと、記憶は8月9日、満州新京、ソ連侵攻の朝が自然と思い起こされる。一年生の夏休み、目を覚ますと父がばたばたしている。ほとんどの成年男子は即日召集された。卒業した黒門小学校の同級生は、自分は疎開をしていても、敗戦の想い出は3月10日の東京空襲に結びつくようだ。そして、毎年広島・長崎の原爆投下の日は種々の思いをない交ぜにして報じられる。それぞれの忘れられない敗戦記憶である。しかし、これはふらふらになったボクサーに加えられた強烈なストレートパンチに過ぎない。それまで打ち続けられた、着実で絶え間ないボディブロー、シーレーンの分断・途絶こそ、敗戦の決定因子である。
 第二次世界大戦に“大西洋の戦い(The Battle of the Atlantic)”と言うのがある。英米・独人ならこれが何をさすのが直ぐに分かる。Uボートと輸送船団の戦いである。島国英国の最大の弱みは人と物資の補給路、実は第一次大戦でもそうだったのだが、正面から海の戦いに勝ち目のないドイツは、この生命線分断に海軍戦略を傾注した。1917年春、英国の港を出た4隻に1隻は帰らず、米国と中立国の船は英国行きを拒否するまでになっている。
 これを救ったのが護送船団によるシーレーンの確保である。当時の提督たちは駆逐艦を船団護衛に流用することに大反対であった。「毎週2500隻の商船が英国の港を出入りする。とてもそんな数を護衛しきれるものではない」と。ときの首相ロイド・ジョージはそのデーターの分析を命じる。結果は、外洋に出るのは約140隻、あとは沿岸航行用であった。護送船団方式の損失率は1%、独航船のそれは25%であった。
 第一次大戦で日本海軍は日英同盟による要請で、地中海に船団護衛の駆逐艦隊を送っている。生命線保持に死闘してくれた彼らが、戦後英国に感謝されたことは言うまでもない。今もその顕彰碑がマルタ島に残る。
 ドイツのポーランド侵攻は1939年9月1日、英仏の対独宣戦布告は9月3日だが、両陣営が陸で激突するのは1940年5月、英独航空戦は更にその後である。しかし、潜水艦戦争は開戦と同時に始まり、Uボートは9月4日に無灯火航行の客船アシニアを沈め、9月17日は空母カレイジャスを屠っている。英国にとってこれら潜水艦攻撃こそ大戦の始まりだった。
 再び英国が採った海上輸送戦術は、前大戦で学んだ護送船団方式である。1939年9月から12月の間、英海軍は延べ5800隻の商船を護衛し、失った船はたった12隻。一方で102隻の独航船が沈められている。しかし、増強されるUボ-トとその戦術転換、群狼作戦(それぞれの哨戒区にUボートを分散配置して、船団を発見したら短い無線通報を司令部に送り、その海域にUボートを集中させる;護送船団は一番遅い船にスピ-ドを合わせるので捕捉出来る;のちにはこれに対してあまり速度に違いのある船をひとつの船団にまとめないような工夫もORを用いて行われるようになるが)によって1940年夏から商船の被害は激増する。
 水中音波探知機、航空機による哨戒、機載レーダー、護衛空母(機動部隊と違い船団に付いて専ら対潜哨戒・攻撃を行う)、そしていずれの局面にもORが適用され、あらゆる英知を船団護衛、シーレーン確保に傾けていく。1943年これらの努力が実り、Uボートの損害は増加し、商船の損失は急激に減じ、紙一重の戦いに英国は米国とともに勝利する。
 この構図の舞台を太平洋に変えると、潜水艦戦争を挑んできたのは米国、ほとんど裸の輸送船団や独航船で補給を行っていたのが日本となる。生命線は確実に断たれていく。折角地中海で得た、第一次世界大戦での貴重な経験は全く生かされた形跡はない。戦争末期海上護衛隊が組織されているが、泥縄式以外の何ものでもなかった。空襲・原爆・ソ連参戦以前に、既に一人で立っていられる状態ではなかったのである。

2009年6月28日日曜日

決断科学ノート-12(教義・理念と決断(2))

 前回取り上げた機関銃のように、新兵器が開発・導入されると、軍事組織ではその運用方法が必ず論議をよぶ。基本的な問題点は、それをどう位置づけ、どう運用するかである。もし独立運用が望ましいとなると、そこに新しい兵種(例えば、歩兵、砲兵、騎兵しかなかったところへ戦車が導入され、やがて戦車専門の兵科が生まれるように)や軍種(陸海軍しかないところに空軍が生まれる)が組織される。
 空軍独立論の嚆矢はイタリアのジュリオ・ドゥーエ将軍(1869~1930)で、彼は第一次世界大戦前「やがて航空機によって長躯敵の中枢部を壊滅させ、戦争の帰趨を決する時代が来る」と予見し、一部識者の注目を浴びるようになる。しかしこの時代、考え方と現実のギャップは大きく、技術的にも経済的にも、そのような強力な爆撃機を大量に準備出来る状況ではなかったので、理念先行の机上の空論と看做す意見が大勢であった(これを無視して自説を声高に主張したドゥーエは軍法会議にかけられ1年投獄)。
 第一次世界大戦を通しての航空機の役割は、陸海軍主力(歩兵、砲兵、艦隊)の補助兵力(観測・偵察、地上攻撃支援)に甘んじていたが、将来における主戦力への可能性を示し始めていた。またドイツのツェッペリン飛行船やゴーダ爆撃機によるロンドン爆撃は、政治家や一般市民に、空からの攻撃に対する恐怖を植えつけることになる。戦場でも銃後でも“これからの戦争は航空兵力だ!”と言う空気が醸成され、英国は大戦末期1918年4月、陸海軍の航空隊を統合して世界最初の空軍を誕生させる。
 長い歴史を持つ陸・海軍と違い、この新参の軍種、空軍には存在の意義を周知させる理念・教義(ドクトリン)が必要であった。誕生した英空軍でこれを中心になって作り上げたのは、初代の参謀長、ヒュー・トレンチャード(1873~1956)である。ドゥーエと同時代の人であるトレンチャードの考えも、敵の軍事・政治・(軍事)産業拠点を空爆によって制圧し、戦争の勝敗を決すると言うものである。この陸上戦闘の悲惨な状況を一見避けられるような趣は、多くの人々の関心を引くことになり、そのドクトリンが受け入れられ、ガイドライン化されていく。第一次大戦後の軍縮ムードの中では、この考え方は“絵に描いた餅”でそれほど問題になっていないが、国際緊張が高まり戦闘・戦争が始まってくると、それが顕在化してくる。
 このドクトリン(拠点への戦略爆撃)を忠実に実現するためには、強力な破壊力(大量の爆撃機と爆弾)を拠点に正確に集中する必要があるが、この時代高空から精密爆撃が行える技術はまだ存在していない(現在のミサイルでも完全ではない)。結果として拠点周辺の市街地・民家への投弾は避けられないものになる。それまでの戦闘が、どんな大規模なものであっても、兵士対兵士の殺戮であったの対して、ここでは大量の市民が巻き添えになる。第二次世界大戦以前の例として、1937年4月のスペイン市民戦争におけるドイツ軍(一部イタリア軍も参加)によるゲルニカ爆撃は良く知られている(欧米の戦史では、第一次世界大戦後初めての無差別爆撃は、1931年10月旧日本軍による中国錦州爆撃とするものが多い;これをもって戦略爆撃の嚆矢とすると)。ゲルニカにしても錦州にしても、軍事施設・人員の被害はほとんど無く、被害者の大多数は民間人だった。ここに戦略爆撃に対する非難が集中する。人道に反すると。それでもトレンチャード・ドクトリンは空軍戦略の基本方針として墨守され、ドイツ空軍の台頭に合わせて、4発爆撃機開発が着手される。これがやがてバトル・オブ・ブリテン(英独航空戦)後の反攻時生きてくる(ドイツはこの戦略爆撃機開発に方針が定まらず、地上軍支援の域を出なかった)。
 欧州の戦いが始まり、英独航空戦で軍事拠点攻撃の実効が上がらない(実際はボディブローが効きつつあったのだが)ドイツ空軍は戦術を都市夜間爆撃に切り替える(足の短い戦闘機しか持たないドイツは爆撃機援護が出来ぬため、夜陰に紛れる戦術をとる)。恐怖の夜が始まる。“やられたらやりかえす”これぞ典型的な戦時の英国国民性。やがて民意も復讐心で変じ、空軍創設の教義はその精神を離れ暴走していく。
 1941年12月真珠湾攻撃で米国が参戦すると、米第8航空軍が1942年2月に編成され、7月には英国に進出する。当初英空軍はこの航空軍も自らの指揮下に置くことを望むが、その運用理念が論争を呼ぶことになる。英国がそれまで行ってきた“夜間無差別爆撃戦略”に対する拒絶反応である。これは米軍部以上に米国民世論に顕著だったようである。結局昼間精密拠点爆撃は米軍、夜間都市爆撃は英軍となり、ドイツの都市は昼夜を分かたぬ空爆に晒されることになる。米軍はこの“精密拠点爆撃”のためにノルデン照準器と言われる画期的な爆撃照準器(爆撃コースに入ると爆撃手がこの照準器を操作して爆撃機を操縦する。風速・風向、機速や高度の補正コンピュータ機能もある)を開発し、その改善効果を高く評価しているが、戦後の戦略爆撃調査団の分析(OR分析)では“精密”には程遠いものとしている(都市破壊と人的被害は凄まじかったが、標的破壊率は5%以下)。米軍もやはり“ばら撒き”だったわけである。とても英爆撃機軍団の戦術を非難する資格は無い。
 翻って日米戦を見ると、B29による都市爆撃、原爆投下などに宗教的なあるいは人道的なモラルが作戦前に問われた形跡はほとんどない。焦土作戦に効果的な焼夷弾開発は関東大震災や英系損保会社(多分ロイズ)のデーターが利用されているほどである。
 理念・教義に基づき粛々と計画・判断を進めることの重要性がある反面、状況とともにこの基本理念に対する見方・捉え方が変わることを見ると、決断の上位決定要素とは必ずしもなりえない。宗教から企業経営まで、環境に合わせて、理念・教義の見直し・修正が必要だと言える。

2009年6月14日日曜日

決断科学ノート-11(教義・理念と決断(1))

 組織における意思決定の要素として、その組織が持つ教義(例えば宗教)や理念(経営理念など)がある。その組織が成り立つ根本原理と言っても良い。経験も感性も論理(数理)もこれと比べれば、一段低い決定因子ともいえる。ただこの根本原理は概して包括的であるから、細部はその時々の取り巻く環境(時代や社会環境)によって解釈の仕方に幅がある。高等教育(大学)の歴史を少し追ってみると、修道院や寺院の聖書・経典の解釈研究が一つの大きな流れを成しており(もう一つは、前者からは遅れるが、官僚の登用・育成)、教義・理念を日常的な出来事の判断基準に使うために、激しい議論が展開され、膨大なエネルギーがつぎ込まれてきた。ORが軍事技術(兵器)と不可分の生い立ちを持つことから、しばらくこの教義・理念と兵器の関係を考察してみたい。
 オリジナルは1975年に英国で出版されたJohn Ellis著の「The Social History of Machine Gun(機関銃の社会史)」と言う本がある。この本を読むと、機関銃ばかりでなく、爆撃機や核兵器など大量殺戮を伴う近代兵器実戦投入に関する、欧米の社会・宗教上の教義・規範に基づく考え方の変遷を窺うことができる。
 近代的な機関銃(互換性のある部品で構成、銃身にライフルが刻まれている)は1880年代に導入され(南北戦争;史上最初の近代戦)、その後第一次大戦に至るまでにほぼ現在の機関銃(自動的に作動し、人間が持ち運ぶことができる)へと技術的に進歩を遂げる。しかし、発明者のハラム・マキシムが「殺人機械」と呼んだこの驚異的な兵器が、すんなり社会・軍隊に受け入れられたわけではない。当時の欧州の軍幹部は、産業革命・近代化に取り残され、軍隊が唯一の働き場所だった貴族・地主階級出身である。その根底に民主主義とは異なる、階級意識に依拠する人間主義(キリスト教の教義に忠実な騎士道精神)があった。“科学および機械に対する新しい信仰”が及ぼす影響を最小限に留めることこそ、彼らの目指す軍隊だった(それを導入すれば戦いのやり方が変わってしまう。自分たちの特権が失われる)。一方の機関銃発明者・製造者は当に産業革命の申し子そのものである。
 ここで展開されるのが“人道主義”を建前とする組織防衛である。そしてこの建前が軍隊外の人たちの強い共感を受けるのである。同じキリスト教徒同士があんな卑怯な大量殺戮兵器を使っていいのかと。進歩の比較的ゆっくりした、単発銃や大砲にはこのような社会現象は生じていない。
 この辺の事情は、欧州と米国では些か異なる。米国は古い欧州社会の伝統に決別し、新しい自由な国づくりを目指すので既得権を守ろうとする特権階級は無い。人口も少なく、専門職(職人)は更に少ない。したがって、道具には標準化と大量生産で効率を追求する社会である。伝統的な常備軍も存在しなかった。南北戦争における機関銃はこのような環境で実現したと言っていい。一方、真の人道主義者・深い宗教心を持った人々はこの国にも多数いた。南北戦争の惨禍はこれらの人々の注視するところとなる。
 欧米人がこの宗教的制約を簡単に乗り越えるのは、異宗教・異民族との戦いである。欧州国家は植民地支配のためにはその使用を逡巡しない。英国はアフリカで、中東で、インドで、現地人の反乱鎮圧にこれを使い出す。フランスはサハラ制圧に、ロシアは日本との戦いに、アメリカではインディアン討伐に機関銃が威力を発揮する。あまり知られていないことだが1904年の英国によるチベット討伐は2丁のマキシム機関銃で約700人のチベット人が殺され、英軍の被害は一握りだったといわれている(日露戦争が戦われている時である)。革新兵器の殺傷効率は桁違いで、反対者もこれを使うことに惹かれていく。徴兵制が布かれ戦争が大衆化するとともに敷居を低くする。
 一旦麻薬の味を知った者には道義も宗教もなくなり、その呪縛から逃れられない。やがて始まる第一次世界大戦では、機関銃が主役となり今までの戦争とは桁違いの戦死者を出すことになる。
 宗教上の教義は、近代兵器出現のごく初期には抑止力となるが、普遍化すれば意味が無くなる。核兵器の拡散は同じ道を辿っているような気がする。

2009年5月28日木曜日

決断科学ノート-9(数理専門家の実務経験)

 石油会社にLP(線形計画法)が導入されたのは1950年代後半、東燃の場合はエクソン(当時はエッソ)経由である。エクソンのエンジニアリングセンターには数理の専門家が居たものの東燃には皆無で、石油会社におけるエンジニアの主流は化学系統(化学工学や応用化学)であったから、導入作業もこの分野の人が当たった。これらの人々は既にプラントの設計・建設や工場での生産管理に十分な経験を積んでいたから、LP適用に関する利用分野知見に問題は無かった。学ばなければならなかったのは最新技術のコンピューター技術であった。
 1960年代中頃になると数理手法適用が広がり始め、コンピューターは益々高度化してくる。こうなると専門分化が進み、数理工学や経営工学(総称して以後情報技術と呼ぶ)出身の専門家が数理技術や情報技術を扱い、それを応用する設計や生産管理の専門家は利用者に徹するようになって行く。それぞれの分野の効率は改善するものの、両者をつなぐ部分に隙間が生じてくる。特に、情報システムの構築・保守を中心的に扱うことになる情報技術者の適用業務理解度・経験度不足を問題視する声が高くなる。情報技術者に言わせれば、進歩が急な技術を追いかけるだけでも大変なのに、利用部門の実務を深く学べというのは余りにも負荷が重い。ユーザーの側も少しは最新技術を理解し、それに合った新しい業務処理体系を作るべきだと主張する。本来両者はもっと建設的に相手の環境を理解して協力し合うべきなのになかなか上手くいかない。こんな関係は現在でもよく見られる。環境を打破する一つのやり方は “トップダウン”である。しかし、現場の当事者同士が納得しない“トップダウン”は失敗の基である。
 ではORの起源でこのような関係はどうなっていたのだろうか?先ずOR発祥母体のティザード委員会(5人)を見てみよう。委員長、ヘンリー・ティザードはオックスフォード卒業(化学)後ベルリン大学で研究員を終え欧州に滞在中第一次大戦が勃発、直ちに帰国して砲兵隊に入隊した後、空軍実験航空隊に転じて士官となり、ここで操縦術を学んでいる。つまり実戦経験は無いもののれっきとした軍務経験を持っている。次いで“ORの父”ブラケットはポーツマスの海軍兵学校出の職業軍人としてスタートしている。シュットランド沖海戦、フォークランド沖海戦に海軍少尉(砲術)として実戦体験をし、後に海軍からケンブリッジに派遣され、その後研究者(物理学)に転じている。この経歴から軍務を最もよく理解したOR専門家の一人といえる。また、この委員会のメンバーで既にノーベル生理学賞を受賞していたA.V.ヒルも第一次世界大戦で対空射撃実験部隊の士官として従軍し、その精度改善に貢献している。この他に二人のメンバー(ウィンペリス、ロウ)がこの委員会に属しているが、二人はともに空軍省の技術高級官僚でいわば事務方といっていい。つまりメンバーの中核を成す三人はいずれも軍務の経験があり、これがその後の防空諸政策(ORを含む)推進に大きな力になっていることは関連文献の中にも述べられている。
 ただこのような実務経験が必要条件か?と問われれば、それ以上に大切なのは意思決定者を納得させることのできる成果と信頼される人間性がより重要になってくるであろう。この好例は、国家保安省の依頼で爆撃効果分析を行ったOEMU(Oxford Extra-Mural Unit:大学内の戦争協力団体)のザッカーマンの経歴を辿ることで明らかになる。
 ザッカーマンは南ア生まれのユダヤ人で、現地のカレッジで優秀な成績を修めたことでオックスフォードへの奨学金を得て動物学・解剖学を学び、バーミンガム大学教授になる。ここまでの経歴では全く軍とは関わっていない。しかしやがて第二次大戦勃発後、オックスフォード時代の仲間の呼びかけで、爆撃効果分析(Bombing Census)の研究に関わっていく。この依頼主は軍ではないものの、そのレポートは各所で評判になり、チャーチルの科学顧問リンダーマン(後のチャウェル卿)に認められ、戦争会議(War Office)で報告などするようになる。やがてはマウントバッテンやテッダー(英空軍大将;連合軍司令部でアイゼンハワーに次ぐNo.2)などの司令官の下で知恵袋の役割を果たすことになる。彼の場合は、もともとの人柄やバーミンガム大教授に就くまでの苦労(なかなかいいポストが見つからず中国での就職なども取り沙汰されている。また結婚に際してもユダヤ人ゆえの苦労がある)が周辺への気配りを万全にさせ、強硬な意見を吐いても反対者に耳を傾けさせるようなところがあったようだ(特にノルマンジー上陸作戦の空陸共同作戦)。戦後はサーの称号ももらい、大学・学界でも高い評価を得て幸せな晩年を送っている(「Solly Zukerman-A Scientist out of Ordinary-」by Jon Peyton)。
 ザッカーマン同様、米国におけるOR普及のキーパーソンであった、モース(MIT;物理学)とキンボール(コロンビア大;化学)もこの仕事で海軍に加わるまで軍歴は無い。米国の場合は英国と異なり、ORがトップ(大統領)を通じて英国からもたらされたこともあり、最初からトップダウンで組織的に取り組まれたところに特色がある。強いて言えば英国におけるザッカーマンのケースと類似している。この二人の人格については現時点でほとんど調査していないが、彼らの著書「Methods of Operations Research」を見ると、ORマンが“現場を知ること・理解すること”の重要性を強く訴えていることから、軍人との良好な信頼関係構築のための気配りが十分うかがえる。
 そして最も重要な点は、英米両国においては、個々人の軍歴であれトップダウンであれ、背広(民間人)と制服(軍人)が対等の立場で議論し合い、ベストな対応策を考えようとする組織文化が存在したことである。これは第二次世界大戦中の日本、ドイツ、ソ連の軍事組織には見られない特色といえる。
 IT適用業務の理解・経験、そのための人材育成プロセス、新しい技術に対するトップの理解と支持、率直に意見を交わせる組織文化、はエクセレント・カンパニーの必要条件でもある。

2009年5月17日日曜日

決断科学ノート-8(戦果・成果の測定・評価)

 数理を意思決定に利用する場合、その基本は信頼でき納得できる数字である。企業経営の結果(つまり成果)は損益計算書・貸借対照表に集約される。素早い経営判断を求められる昨今の経営環境下では、これら経営指標の算出が、嘗ては半年単位であったものが最近は四半期になり、内部では月次で行われ次の期や更に先の計画を決めていく。このため数字に関して細かく算定基準が定められ、経営情報システムも充実して経営実態が外からでも分かるようになってきているが、それでもトップマネージメントと現場の齟齬は生じている。粉飾決算などは論外としても、在庫や仕掛状況がタイムリーに、正しく報告されておらず(報告されているのに意思決定者が問題点に気がつかないということもあるが)、次の手の判断を誤ることなどしばしば見られる事例である。
 正確な数字無しに憶測や希望を交えて誇大な成果を喧伝することを“大本営発表”などと揶揄することとがあるが、軍事作戦によくある戦果の過大評価はわが国固有のものではない。バトル・オブ・ブリテン中の数字ではドイツ空軍戦闘機パイロット申告の英空軍機撃墜数は当時の英軍機全数を上回っているようなことも生じているし、英軍内での損害機数ですら戦闘機軍団(損害多)と空軍省(損害少)とで大きな差が出ている。
 ORに関係する英軍のドイツ機撃墜数分析に、海岸と内陸の対空砲による差が顕著に出て問題になったケースがある。海岸砲の撃墜割合が内陸のほぼ3倍に達していることに疑問を持ったORチームがこれを分析したところ、内陸では民間監視部隊や陸軍も協力して撃墜数を地上で確認する“物的証拠”ベースであるのに対して、海上での確認は対空砲部隊の“状況証拠”ベースの申告に基づいていることが明らかになり、海上での撃墜数を一定割合で減ずる処置を取っている。
 艦船の被害分析はそれ以上に難しい。第一次世界大戦までの海戦は両軍が目視できる範囲で戦闘が行われたため、戦況把握は比較的容易だった。しかし第二次世界大戦では艦上機が攻撃の主力となり双方の主力は数百キロ離れている。その戦果は搭乗員や偵察任務の潜水艦による確認しか出来ない。戦闘状況や天候などによって、艦種、被害の程度はその時々によって実態と大きな差が出る。確実な撃沈はともかく、大破や中破などという表現は相当主観的になる。果たしてこの作戦(戦術)で良かったのか?次の攻撃はどうすべきか?曖昧な評価は作戦検討用モデルの精度を低下させその効用が失われていく。1951年に出版された、キンボール(MIT教授)とモース(コロンビア大教授)が今次大戦中の米軍のOR適用を紹介した「Methods of Operations Research」の第8章“Organizational and Procedural Problems”にこのような問題にどう対処したかが記載されている。かいつまんで言うと、ORグループをモデル維持・運用管理する中央チームと実戦部隊と行動を共にして戦果(あるいは被害)を定量化する前線チームで構成し、両チーム間での密なコミュニケーションと要員ローテーションを行うのである。これによって戦闘員からの報告を適正な形に整えて、OR適用をより実戦を反映したものにしていったのである。上層部の一部には戦争遂行に必要な知識人を戦場に出すことに反対する意見もあったが、これによってORグループの評価は高まりスタッフの地位が確立していったとしている。
 更に難しいのが空爆の評価である。OR活動はその歴史を辿る時、英国の防空システムにおけるレーダー開発に端を発して、ブラッケット等の活躍を先ず取り上げ、そこから各種展開を述べるのが常道である。それ故ブラケットは“ORの父”と称せられるようになった。しかし、滞英研究の最初の研究材料として、ブラケットとは全く関係の無いところで戦争における数理活用に関わっていた、ソーリー・ザッカーマンと言う人の伝記を与えられた。
 ザッカーマンは南ア生まれの動物学者・解剖学者で、オックスフォードで学んだ後バーミンガム大学で教授を務めていた時(第二次世界大戦直前)、科学者の戦時動員体制に組み込まれ、国家保安省の求めに応じて“爆撃効果測定”の仕事に携わるようになる。1940年から始まったドイツ空軍の英本土爆撃100事例以上の被害状況を綿密に分析し、“標準損害率”や“地区別(都市、軍事施設などで分類)損害度”を算出して住民の避難計画や防空施設建設に役立てるようにしていったのである。この分析の裏づけには彼が本来の研究に飼育していた大量のサルも実験材料として使われている。
 これらの研究がやがて「The Field Study of Air Raid Casualties(空爆損害事例研究)」としてまとめられ、政府のトップや軍統帥部に回示され、高い評価を受けるとともに大いなる論争を呼ぶことになる。それは攻勢に転じた連合軍の爆撃戦略の根幹に関わる、都市爆撃か軍事・兵站拠点への爆撃かと言う資源(爆撃機)配分問題の決定因子としてクローズアップされたことによる。
 爆撃機軍団は無論、空軍省の主流そしてチャーチルの科学顧問を務めるリンダーマン(オックスフォードの物理学者で都市爆撃効果を算出)は爆撃制圧論(空爆だけでドイツを屈服させる)に凝り固まっており、チャーチルもこれが復讐心に駆り立てられる大衆の支持を惹きつける格好の材料と考えている。これに対してザッカーマンは、都市戦略爆撃は一見派手だが意外と実害が少なく味方の被害が大きいことを数字で示し、リンダーマンの数字が過大と反論するともに、軍事(飛行場など)・兵站(橋や鉄道の要衝;操車場など)拠点への攻撃が敵戦力低下に効果的であることを突きつけることになる。この論争はやがてティザード委員会の知るところとなり、ティザードやブラケットもザッカーマンを支持する意見を述べる。二つのORの流れがここで交わる。理はザッカーマンにある。二つの数字の間で苦悶するチャーチル。
 高度に政治的な要因で都市戦略爆撃が実行されるが、戦後の戦略爆撃調査分析はザッカーマンの主張が正しいことを証明する。ドイツの兵器生産は増加している一方爆撃機搭乗員の戦傷・戦死率は三軍の中で最大であった。
 現状をより正確に反映した数字こそ数理活用向上そして課題改善のカギとなる。そのためには数理の専門家がもっと現場と密着する必要がある。

2009年5月12日火曜日

決断科学ノート-7(決断者と数理)

 OR学会誌に「ORを築いた人々」という連載がある。わが国のOR発展に貢献した先輩達の物語である。関係者(主にお弟子さん)が書くので、些か出来すぎ・気の使い過ぎがチョット鼻につくが、今回(Vol.54 No.5 連載第17回)は興味深い発言が紹介されていた。東芝のOR普及に功のあった原野さんと言う方で、現在91歳、今年の春の年会にも出席されるような元気な方である。
 わが国にORが紹介された黎明期、最新の経営科学的手法ゆえに、適当な教育資料も無く、専ら米国の書物や文献に頼る日々だったが、そんな環境下で気付いたことは「OR担当は、数学的分析はしているが、参謀であり決定をしているわけではない」「分析はするが、決定はしてはいけない」と言うことである。その理由は「決定因子には、ORの分析には含まれていない要因があるので、意思決定者はそれを考慮した総合的な判断を要求されている」つまり「ORのベースは数学であり数学的判断をするが、(最終判断には)社会学も人間のことも、こころとか、心理とか、そんないろんなことが要る」からだと言う。さすが長く実務の世界でご苦労された方の含蓄のある発言だと思う。
 連載のこの部分を読んだ時、はたと思い浮かんだことが二つある。一つはカナダの経営学者H.ミンツバーグがその著書「MBAが会社を滅ぼす(原題;Managers Not MBAs)」の中で、実務経験の無い若い学生に方法論を伝授していきなり経営者に仕立てようとする、マネージメント・スクールの教育システム批判である。“マネジャーに必要なのは方法論以上に、経験やそれによって培われた感性だ”と何度も強調していること。もう一つは一昨年の滞英研究の際読んだ、戦後発刊された英空軍OR公史「The Origins and Development of Operational Research in the Royal Air Force」の最終章で、その時の空軍参謀長ジョン・スレッサー(大戦中は沿岸防衛軍団長)が寄せたOR Section(ORS)の活動を讃える言葉の中に現れる「ORは戦時のみならず平時においても、近代空軍に欠かせぬ基盤である」としつつも「計算尺(slide rule)戦略が実務を通じて醸成される戦略思考に代わるものではない」というくだりである。
 この三者に共通することは、指導者・管理者の決断は論理(数理)・経験・感性・人間関係など諸要素のバランスの中で下すべきだということであろう。
 もう一つ原野さんとシュレッサーの発言に共通することに、意思決定者(指揮官)とそのスタッフ(参謀)という視点がある。軍事組織においてはその役割分担は明確に定義されており、決断者は指揮官、その方策を検討・提示するのが参謀である。旧日本軍(特に陸軍)ではこの役割分担が曖昧で、参謀が指揮官のような役割を演じたり(ノモンハン、ガダルカナル)、逆に指揮官が実質的に作戦策定も行い参謀は副官のような地位に甘んじなければならないようなケースも生じている(インパール)。民間企業は軍事組織ほどこの点が明確でないので、なおさらことに臨んでのそれぞれの役割や責任が不明確になりがちである(形式的には判子で決まるが)。
 実はこの問題は英国でORが普及していく段階でもしばしば問題になっている。OR活動の起源ともいえるレーダー開発と防空システムの構築時、それに関わる防空科学委員会のメンバーは、ティザード、ブラケット、ワトソン・ワットなど高名な科学者達で、委員会は空軍省直轄だった。レーダーが最新技術ということもあり、その実用化に実戦部隊はこれら科学者達に全面的に指導を受けざるを得ない立場にあった。レーダーの信頼性を含む技術的課題と戦闘機軍団のかかえる戦略・戦術課題を科学者と軍人が情報を共有し、協力しながら解決していった。最後の断は軍人が下すものの、そこに上下関係は無かった。科学者が巡回して来ることによって確実にシステムの信頼性・精度は改善されていった。第一線は何処でも彼らの訪問を大歓迎したのである。
 この成功が種々の軍種、兵種に伝わり、方々からお声がかかるようになる。ORグループ(あるいはセクション;ORS)と呼ばれる組織が、陸軍の対空射撃部隊、海軍の船団護衛部隊や対潜哨戒部隊とこれに協力する空軍の沿岸防衛軍団、戦略爆撃を主務とする爆撃機軍団、海外派遣軍(地中海・中東軍や東南アジア軍)などに設けられていく。それは組織の最高レベルに止まらず、下位の組織にも波及する。当然要員は社会的地位や名のある者ばかりでなくなり、若い研究者や技術者が多数を占めざるを得なくなる。どんな資格・地位で処遇するか?どんな情報まで与えるか?ORが直接関わらない作戦会議に参加させるか?これらは司令官・指揮官の考え一つで変わっていき、その結果ORの貢献度や評価が変わってくるのである。
 滞英研究中触れた著書の一つに「The Effect of Science on the Second World War」があり、その一章(第6章)に“Birth of a New Science : Operational Research”がある。この中で当時爆撃機軍団ORSの若手メンバー、後に米国に渡り理論物理学・宇宙物理学で名を成すフリーマン・ダイソンが往時を振り返り「当時の爆撃機軍団ではORSの平服組は軍団長の意に副うように答えを出すことが原則だった。この組織はあまりに作戦の基本に挑戦する決断力を欠いていた。(中略)軍団長は人間的には愛すべき人だったし、責任感も強かったが、前科学的軍人であった」と語っている。軍団長は後に元帥に叙せられるアーサー・ハリスである。ORの活用に関しては前出の空軍公史でも爆撃機軍団は他軍団に比較して“不十分だった”とされているが(ハリスはこの公史の中でORに最大の賛辞を与えている!)、その理由は戦略爆撃が敵地内の作戦であるためデータ・情報(事前・事後)の量・精度に制約が多いことを上げている。爆撃機軍団ORSメンバーの中にタイソンと同様の不満を語る記述が他の著書や文献にも散見されが、特に目に付くのが“軍事情報開示の制約”である。作戦課題の背景となる情報が十分伝わらず、苛立つ姿がそこにある。この軍団長とORSの関係こそOR適用限界の主因ではなかろうか。
 OR担当者は確かにスタッフで最終決断者ではない。しかし、決断課題の背景や関連情報を共有化する環境が、その効力を最大限に発揮する場を作り上げてゆくことになる。わが国企業組織にこのような環境を如何に醸成できるか?これが私の研究課題である。

2009年4月19日日曜日

決断科学ノート-5(マクナマラの戦争)

 ロバート・マクナマラ、1961年~1968年の米国国防長官、ケネディ政権下ヴェトナム戦争推進の主役である。彼の最大の武器は数理分析。危機に瀕したフォード再建時の仲間たちと推進した数理に基づく緻密で大胆な革新施策は、彼らを“神童(Whiz Kids)”と呼ぶことになるほど目覚しいものであった。この時の活躍がケネディ政権チームの目に留まり、フォード社長就任5週間目に国防長官への登用となった。
 マクナマラはバークレーで経済学を学んだ後ハーバードでMBAを取得、統計解析の専門家としてビジネススクールにそのまま残ることになる。1941年、当時の陸軍航空軍(戦後空軍になる)は既にORを実戦に応用することを英国から学んでおり、その普及のためにハーバードとの間に教育訓練プログラムをスタートさせる。この辺のアプローチは明らかに英国と違うところで、英国のOR普及が人のネットワーク中心であったの対し米国は組織的に取り組む点はさすがに大量生産のお国柄である。この活動の中でマクナマラの力量が認められ航空軍にスカウトされ、作戦立案のスタッフとして次第に重要な役割を担うことになっていく。彼の判断基準は常に“費用対効果”にあるのだが、必ずしも初期の段階では伝統的な軍人達の考えに合致するものではなかった。例えば対日反攻航空作戦用の機材として、航空軍トップは欧州戦で大量運用してきた実績を持つB-17 の転用を第一案として考えていたが、マクナマラは実用テスト段階にあるB-29 の実用化を急ぐよう主張して認めさせている。これは航続距離と爆弾搭載量(B-17 ;2.8トンで3200Km、B-29 ;4.5トンで5200Km)に着目した選択であった。またこれと併せて、日本の都市特にそれを構成する建造物に対する効果を数理的に分析し焼夷弾の大量投下を薦めている。
 このような戦争中の経験を生かすべく、退役後(陸軍中佐)は経営コンサルタント会社に就職、数理による経営分析で注目され、フォード建直しに辣腕を振るうことになる。このフォードへの就職は戦後間もない1946年のことであるから、先端軍事技術の一部であったORの民間転用が如何に早かったか驚かされる。当に数理的な経営科学の嚆矢と言える。彼を初めとする数理分析専門家は戦後同じように民間に散っていくことになるが、戦時中この分野の研究活動成果を十分認識させられた空軍は、人材をプールし研究活動を継続できるよう、ランド研究所を設立することになる。
 国防長官に転じたマクナマラは、軍人出身の大統領、アイゼンハワーにさえ批判された産軍複合体の改革に手をつける。先ず、予算編成を“費用対効果”で評価・選択する手法を大々的に適用する。これがPPBS(Planning Programming Budgeting System)と呼ばれ、その後政府機関や企業で利用されることになる数理的な予算編成方式である。しかしフォードの再建には役立ったこの方法も、政府の諸政策に適用するには種々問題を生じ(例えば、効果として企業では“利益”だけに着目することも可能だが、政策課題は案件によって一つの評価基準に絞りきれない。評価基準は絞り込めても、データの準備と解析に時間がかかり過ぎ意思決定のタイミングに間に合わない)、彼の退任後1970年には廃止されてしまう。また、兵器調達合理化のため陸海空軍で共同利用できる兵器の開発・調達を進めるが、目的用途の違うものを一つにするため、返って中途半端で高価なものが出来上がり、実戦での利用が著しく阻害される例が生じてくる。代表的なのはF-111戦闘爆撃機で、これは当初空軍のプロジェクトであったものを、海軍の艦隊防空戦闘機計画を一本化したものだが、機体が空母運用できぬほど大型化してしまう。ただこれらの失敗例は主として反改革派(産業界や政界)からのもので、国防予算の膨張を押さえ込んだと言う評価もあり(例えば、B-52の後継機B-70の開発中止や軍事基地の削減)、一概にマクナマラと分析手法の問題だとすることに異論はある。
 問題はヴェトナム戦争の作戦計画推進と数理に関することである。巷間ヴェトナム戦争はマクナマラの戦争と言われるほど彼の存在は切り離せないし、そのための軍事費は確実に増加している。この費用増加の裏づけは、戦場から収集した膨大なデータを基にしており、このデータ収集のためだけにベトコンの侵入路と思われる場所に無線発信機を散布することまで行ったと言われている。増派する兵種、その規模、使用兵器、個々の作戦計画など全ての軍事活動を出来る限り数量化して決めていくやり方は、次第に現場とペンタゴンの距離を隔てることになっていく。それを補うかのようにマクナマラは頻繁にヴェトナムを訪れるが、事態は一向に改善しない。厭戦気分が溢れる中で1967年11月末国防長官を辞任することになる。
 1995年出版された彼の自叙伝“In Respect (振り返ってみて)– The Tragedy and Lessons of Vietnam -”の中で「1960年代の米国指導者達は、過大に共産主義を恐れあまりこの戦争がヴェトナム人のナショナリズムに基づく戦いであることを見抜けなかった」ことが失敗の根源だったと総括している。
 海空の戦いは機械力の戦いと言えるが、陸戦は民族・歴史・宗教・社会が複雑に絡む戦いであり、そこに数理適用の限界がある。この反省はそれを表す言葉ともとれる。
 彼の辞任は“北爆の停止と南ヴェトナムでの戦闘停止”をジョンソン大統領に拒否されたことにあるし、それ以前から戦力増強に消極的だったことも併せると、個人的にはこの戦争の実態をきちんと理解していたふしがある。ただ、あまりに怜悧な考え方が周辺を巻き込む“空気”の醸成に向かなかったと言える。
 「知に働けば角が立つ」意思決定者として心すべき警句である(個人的には「情に棹差せば流される」や「意地を通せば窮屈だ」よりはましだと思うが)。

2009年4月12日日曜日

決断科学ノート-4(北朝鮮ミサイル騒動)

北朝鮮ミサイル騒動

 何故あんなに大騒ぎになるんだろう!?北朝鮮のミサイル発射に関する私見である。特にメディアと政治家が酷かった。国際条約違反に対する警告声明で十分である。実害なんかあるはずないのだから。あれでは北朝鮮の思うツボ、もうひとつ彼らに切り札を与えてしまった。この中で“ミサイル航跡探知”誤報事件が起きた。犯人探しが今でも防衛省内で行われているのだろうか?
 実は“ORの起源”はこれと同じような状況下で始まった。古代・中世はともかく、近世英国は島国ゆえ長いこと本格的な他国の侵略を受けてこなかった。ナポレオンもスペイン無敵艦隊も海が封じた。陸軍は植民地治安軍に過ぎない実力だが、大英帝国を維持する海軍は第一次大戦後も世界の海を制圧するほどの規模を誇った。しかし、この大戦に出現した航空兵力は当初は補助的なものであったが、着々と技術発展をとげ渡洋爆撃の可能性を示すことになる。制空権こそ戦争を制するものだとの考えが浸透し、大戦中のロンドン爆撃は僅かな被害しか無かったものの、その体験はトラウマと成り空襲の恐怖に国防政策は翻弄されていく。大戦後の英国は「このような大戦争は二度と起こらない(起こって欲しくない)」ことを前提に10年間の国防費縮小政策(1932年まで続く)を採る(第一次大戦は落ち目の大英帝国経済に致命傷を与えた)。この間英国空軍の創設者ともいえるトレンチャードは戦略爆撃論を展開し、その思想は各国の空軍独立論者の手本として崇められるほどであった。しかし、これはあくまでも考え方の段階で留まり、実際の空軍力整備が進められたわけでは無く、軍用機や防空システムの開発に見るべきものはない。一方で軍事用航空機全廃論なども現れる。
 このような状況に抜本的な国防政策の見直しを迫ることになるのが1933年1月のナチスドイツの誕生とその後の復権・拡大政策である。あの酷いヴェルサイユ条約のくびきの中から国力を回復したナチスは、空襲恐怖につけ込むように、空軍力を実力以上に喧伝する。リンドバーグのような専門家さえもすっかり魅了してしまうほどナチスの宣伝は巧妙だった。
 英国の防空政策を如何にすべきか?がこれ以降朝野で喧しく論じられることになる。その中で1938年設置されたのが空軍省防空科学研究委員会である。これこそOR発祥の組織である。委員長はインペリアルカレッジの物理学教授ヘンリー・ティザード、その下にはレーダーの発明者ワトソン・ワット、“ORの父”と称せられることになるケンブリッジ大学教授で物理学者、戦後ノーベル物理学賞をとるブラッケトなど錚々たるメンバーが名を連ねる。
 まず敵機を如何に早期に発見するか?光、音、熱(赤外線)、電波の利用が検討される。ここから生み出されたのがレーダーである。こんな一流の科学者が揃っても初期の段階では殺人光線の可能性などを大真面目で研究したりしている。それくらい空からの恐怖が大きかったとも言える。
 レーダーの原理は分かっても実用化への道のりは果てしない。雑音と正規の信号が識別できない。これは今回の航空自衛隊の高性能レーダーにおける“航跡探知”誤報も同じである。信号と分かっても敵か味方か分からない。大型機か小型機かが分からない。方角が分かっても高度が分からない。この識別精度を上げるためにOR手法が必要の中から生まれてくる。課題はレーダーの改善ばかりではない。敵は何処を攻撃する可能性が大か。どこの基地から何機の戦闘機を発進させるか。誘導経路をどうするか。情報ネットワークをどうするか。ソフト面でのORが活躍する。空軍ばかりではなく陸からの対空砲火の精度改善にも大きな貢献をする。
 研究段階から実用段階まで予算を確保するには政治家の力が必要になるが、防諜のためにはあまり手の内を見せられない。味方をも欺く対策は不信を呼ぶ。空軍省内にはトレンチャードの薫陶を得た攻撃優先論者たちが防御システムへの予算増額を妨害する。こんな混沌を何とか切り抜けて作り上げた防空システムが、1940年初夏から始まったバトル・オブ・ブリテン(英独航空戦)に間に合い国運をかけた戦いに勝利することになる。
 戦後首相を務めることになるハロルド・マクミランは往時を振り返り「1938年当時の空襲に対する恐怖は、現代における核への恐怖と同じものであった」と回顧している。その視点から見れば今回の北朝鮮ミサイル恐慌現象に頷けるところもある。それならば騒ぎ立てるばかりではなく、英国の為政者が科学技術の叡知を動員して見事な防空システムを築きあげた点をもっと学ぶべきであろう。