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2012年7月24日火曜日

歴史街道を行く-吉野・高野・龍神を走る-(20)



20.旅を終えて
418日に出発、22日夜遅く帰宅した。5日間の総走行距離は1361km、一日平均は300kmを切るのでたいした距離ではないが、最終日和歌山から自宅まで、雨中を580km走ったのはいささか堪えた。翌日、月曜日は水泳の日だったがさすがにパスした。いつも測定している燃費は、満タンベースで128.2リッターだったから、10.6km/lとなり、山岳走行がかなりあったことを考えれば、まずまずの効率といえる。
今回のメインは“吉野の桜”であった。初めて訪れる所だけに期待は大きかった。そして、その期待は天気も含めて見事に叶えられた。桜がその時代からあったのかどうか不明だが、壬申の乱(7世紀後半)、南北朝(14世紀)にも登場する土地、秀吉の花見は史実のようだから、16世紀には今の風景に近かった違いない。奥深い山中だけにその時代を今に味わえる貴重な場所である。
高野山は和歌山在勤時代何度か来ているが、宿坊に泊まったのは新入社員研修以来50年ぶり。団体だったので大きな寺だったことは覚えているが、それ以外記憶が無い。今度比較的こじんまりした寺に泊まり、その独特のサービス(精進料理から早朝の勤行まで)を体験でき、仏都ならではの時間を堪能した。雨の中の散策も風情があり、紀伊半島観光には欠かせぬ観光スポットと言える。
龍神は完全にセンチメンタルジャーニーである。45年前泊まった“上御殿”と和歌山に居てもなかなか行けない半島深奥部を再訪する旅だった。道路は信じられないように改善されていたが“上御殿”も周辺の景色もほとんど昔と変わっていなかった。むしろ一部の小集落など消え失せてしまったのではなかろうか?
私の旅の最大の目的はクルマの運転にある。交通量の少ない山道でのヒルクライムやカーブでのアクセル・ブレーキ操作とハンドル捌きを楽しむ。今回は3ヶ所それを計画した。吉野から高野山への上り、高野山から龍神を経て南部までの道、それに奈良盆地中央部から松阪へ出るルートである。最後の舞台は天候の具合で中止せざるを得なかったが、前二者は予定通り駆け抜けた。最初の高野への上りは初めてのコース、夕闇迫る中、ガソリン残量警告灯を点灯させながらの走行で気持ちに今ひとつゆとりが無く、“楽しむ”程度が減じたのは残念だった。高野から龍神は見違えるように道路が良くなっており、ここは期待通りのドライブが出来た。龍神から南部までも道路状態は昔に比べ改善されているものの、大雨の被害が修復されておらず、意外とタフな運転を強いられる場面もあった。しかし、山岳ドライブではこう言うハップニングも楽しみの内かも知れない。
旅の楽しみの一つに食がある。今回、これは何と言っても宿坊の精進料理に尽きる。珍しいだけでなく味も上等、量も適量。日本旅館の多すぎる種類と量に辟易とすることさえある昨今、宿坊に学ぶべしと言いたくなる。第二は南部の梅干。今でも夕飯時、おかずが少し少ないと嬉々として一粒いただいている。
和歌山を知らない家人を連れて二度目の紀伊半島ドライブ。3年前は伊勢志摩から新宮へ出て、熊野川を遡行して本宮・湯の峯と廻り、熊野古道の一つ中辺路を辿って白浜に至り、和歌山市に出た。今回は吉野・高野・龍神と比較的北を走ったので、残るは半島の東側から西に向かい、吉野付近から南下して十津川(熊野川につながる)を下り、新宮から本州最南端の串本経由で海岸沿いを和歌山に至るルートである(このオプションとして、吉野から大台ケ原を通り熊野へ出るルートも面白そうだ)。この途上は大震災後の豪雨で人口湖が出来るくらい打撃を受けており、いまだ不通個所も多いと聞く。いつの日かチャレンジしたいものである。
日本最大の半島、紀伊半島、海・山・川とも自然の深さはわが国有数。京都・奈良に近く歴史的遺産に事欠かないが、その大きさゆえか開けていない。今やこれが貴重な財産ともいえる。チョッと不便ではあるが是非多くの人に訪ねてもらいたい。このドライブ記が少しでもその参考になれば幸いである。
(歴史街道を行く-吉野・高野・龍神を走る-完)
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長期にわたるご愛読に感謝いたします。

2012年7月20日金曜日

歴史街道を行く-吉野・高野・龍神を走る-(19)



19.雨中を走る
給油したスタンドはゼネラル高野口。ここから旧24号線に並走する自動車専用道路、京奈和自動車道(これも24号線)が始まる。最終目的地を自宅にセットして、あとはナビに案内を任せることにした。吉野へ向かう時散々悩まされたナビも高野以降順調に動いている(進行方向が上向きでなくなったのは、吉野へのルート選択で何度もセットをやり直すうちに、上が“北”を指すようにしてしまったためである。今はそれにも気がつき戻している)。
往きのこの地帯でナビが間違えたように、京奈和道路は貫通していない。五条北ICで再び一般道の24号線につながり北上する。御所(ごせ)・葛城・大和高田・橿原など歴史のある町が点在し、今や大阪のベッドタウンにもなっているこの一帯は、休日のショッピングにでも出かけるのか交通量が多く、各所で渋滞している。何とかそれを抜けて橿原で自動車道に戻り、郡山ICで西名阪に乗り換える。ここから天理までは有料だ。雨は依然続いており、むしろ強くなってきている。ワイパーをハイスピード上げる。
天理からは無料の自動車道、西名阪を走るのだが、この“無料”のせいか雨だというのにクルマが多い。特に休日にも拘らずトラックが目立つ。車高の低いスポーツカーの雨中走行はこういう環境が最も苦手だ。ミッドシップの抜群の安定性に救われるが、緊張の連続。悪いことに無料と古さゆえ道路沿いにSAPAがほとんどない。一旦一般道に下りる方式なのだ(米英のフリーウェイもこの方式が多い)。やっと休めたのは往きにも立寄った亀山PAである。ここで3時のおやつ。もしオリジナルプランで三重の山中から松阪経由のルートを通っていたら、この時間には着いていなかっただろう。
新名神が交わる亀山JCTはかなり渋滞したが、その後は比較的順調で、橋梁が続き、風が心配な伊勢湾岸自動車道も、警報は出ていたが、道路幅が広く取ってあり、危険を感ずることは無かった。豊田JCTで東名と合流。再びトラックが増え、雨も激しくなってくる。
ボツボツ決断しなければならない。往き同様新東名を走るか?オリジナル案の旧東名を行くかである。往きが新なら帰りは旧と考えていたが、新へ踏み込みたい動機はいくつかあった。交通量の少なさと走り易さ。風雨が強まる中での清水以東の海岸・海上道路部分走行への不安。それに、FM放送番組制作会社に勤める次女から今朝届いたメッセージ「新東名に関して、番組で使える情報が欲しい」である。放送担当時間はとっくに過ぎていたが、何か彼女に役立つニュースがあるかもしれない。こんな思いから、再び新東名を走ることに決する。
三ケ日JCTで東北に向かう新道に入るとしばらく登り、距離も多少長いせいか交通量はガクッと減る。トラックはほとんど走っていない。こんな天気、こんな時刻にパトカーがいるとは思えないが、走り易いのでスピードを抑えるのに苦労する。不思議なのは夕闇が迫り、クルマが少ないわりに、PAの混雑を告げる表示が点灯していることだ(これはニュースになるかな?)。雨の休日でも新道路観光が賑わっているのであろうか?
心配事は風雨ばかりではない。実はガソリン残量が気になりだしていた。高野口で満タンにしたが、自宅までは500km近くある。ぎりぎりの走行距離なのだ。この辺りから自宅まで自動車専用道路にはエッソ・モービル・ゼネラルのスタンドは無い。最悪の場合他社製品を少量入れるか?そんな思いで走っている。
足柄SAに着いたのは7時少し前。雨は止んでいた。ここまで来ればもう日常のドライブ圏内。夕食を摂りユックリ時間を過ごす。ガソリンはエコ運転を心がければ何とかなりそうだ。もう夜8時過ぎだというのに、厚木辺りから横浜・町田までは流れてはいるものの、全車線クルマでいっぱいだ。保土ヶ谷BP、横横と乗り継いで、自宅到着は915分。和歌山からの走行距離は580km。長い休憩もあるが13時間かかった。雨中これだけの距離を一日で走ったことはない。それも全く運転の楽しみを味わえずにだ。自らに「お疲れ様でした」というほかに言葉は無かった。

(次回;旅を終えて;最終回)

2012年7月15日日曜日

歴史街道行く-吉野・高野・龍神を走る-(18)-



18.根来寺・粉河寺
422日(日曜日)、いよいよこのドライブ行も最終日になった。前日からの予報通り、朝から雨が降っている。前線が通過した九州・中国は激しい豪雨に見舞われたところもある。安全第一で、前日から考えていた、雨ルートで帰浜することに決する。
和歌山と関東を結ぶ道は何度も行き来している。中でも紀ノ川沿いを走り、五条から天理に出て東名阪で亀山を経由し、東海道に乗るケースが多かった。今回の往路もほぼこれに近い。せめて帰りだけでも今まで走ったことの無い道を選びたい。オリジナル・コースはこのような思いで検討した。
それは、五条から天理に向かう途中で、橿原・桜井方面に折れ、国道165号線(初瀬街道)を近鉄大阪線に沿って東進、榛原(はいばら)で南東に向かう369号線に乗り換え、さらに松阪に向かう368号線(伊勢本街道)、166号線(和歌山街道)とつなぎ、松阪牛を遅めの昼食で食し、そこから伊勢自動車道、伊勢湾岸道路を辿る道筋だった。言わば少し北寄りの紀伊半島横断ルートである。鉄道は通らず、町らしい町も無い。秘境ドライブを大いに楽しめそうだった。しかし、午後の雨が激しくなると、後半のルートで何が起こるか分からない。
直帰最短時間ルートは、和歌山から阪和自動車道に乗ってしまえばほとんど自動車道だけで我が家まで帰れる、3年前にも通った自動車道接続ルートだ。この時は8時頃出発して3時には着いてしまった。これでは面白くないので、紀ノ川沿い、奈良盆地の観光スポットを状況に応じて何ヶ所か寄る案を考えておいた。それらを訪れてから、東名阪に入ることにする。これがオプションの雨ルートだ。
最初の訪問地は根来寺(ねごろじ)。半世紀前初めて関西(和歌山)で生活するようになり、ある休日ここを訪れた。荒地の中(周辺はほとんど未整地・未舗装)に忽然と現れた巨大な山門は、私の関西観、そして日本史観を一変させた。「こんな辺鄙な所に、こんな凄い山門がある!」 雑賀(さいが)衆・根来衆の秀吉への反抗と制圧の歴史を知るのはしばらく後だが、東京中心主義が改められた瞬間である。
24号線は和歌山市東端で川を渡り、北岸を東へ進んでいく。やがて昔からこの辺りの中心である、岩出町に入り、街中で左折、泉佐野方面(北)へ向かう道を少し行くと根来寺付近に達するはずである。分け入った道の素晴らしさに驚いた。分離帯付きの片道2車線である。案内に従い右折して未舗装(これは50年前と同じ)水浸しの駐車場に車を止めた。しかし、あの山門が無い!国宝大塔の入口にある受付で聞くと、やってきた道は新道で、もう一筋南側の道が大門の横を通っているのだという。
根来寺がこの地で本格的に真言宗の新義教学(つまり分派)を始めるのは保延6年(1140年)、爾来興隆を極め、多くの学僧を集め、それが僧兵にもなって一大勢力を成したことから、秀吉の根来攻め(1585年)となり、2000を越す塔堂の内、大塔・大師堂以外は焼滅、大門も含めて残る建物は江戸時代に復興したものである。
大塔のあと、ご本尊が祀られる光明殿を拝観、雨に濡れる美しい庭園(国定名勝)を鑑賞、次いで想い出深い大門を訪れた。周辺はきれいに整備され、昔日の面影を残すのは大門本体だけだった。
次いで広域農道伝いに向かったのは粉河寺。ここは高野山に近いが天台宗の寺である。創建は宝亀元年(770年)だから根来寺より古い。この寺の由来を描いた「粉河寺縁起絵巻」は国宝として京都国立博物館に収められているし、枕草子にも記されているという。ただ、根来寺同様、秀吉に攻められ焼失、江戸時代に再建されたので本堂・大門・中門ともに重要文化財に留まる。ここも石と植木が階層を成す、あまり他に例を見ない庭園が売り物の一つである。
雨が弱まる気配は全く無い。24号線に戻り、酷くなる前に東名阪に入りたい。昼食は道路沿いのガストで済ませ、チョッと早い気はしたが隣接するゼネラルで給油した。天候と時間から考えて、このあとの観光(橿原神宮など)は中止する。
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(次回;雨中を走る)

2012年7月11日水曜日

歴史街道を行く-吉野・高野・龍神を走る-(17)



17.長保寺・紀三井寺
当初予定の日の岬・煙樹ヶ浜周辺には昼食を摂る適当な所も無く、時間も12時前だったので、42号線に戻り街道沿いで立寄ることにした。この辺りから和歌山までは自転車で、バイクで、そしてクルマでよく走った一帯である。未舗装の道路が年々整備されていく過程もつぶさに見てきた。しかも3年前にも同じルートを辿っている。格別観光スポットは無いのだが、昔を思い出させるものが次々と現れ、懐かしさは一入だ。由良の峠から遥か下方に見た海上自衛隊の潜水艦、広川では生まれて初めての蛍狩り、醤油で有名な湯浅は地方行政の中心地、駐車違反で簡易裁判を受けた苦い想い出も蘇る。ここでドライブイン形の中華レストランに入り、中華丼を食す。
道が有田川に沿うようになるともうホームストレッチ、みかん狩りや鮎とりに出かけた紀伊宮原を過ぎれば、7年間暮らした有田市の中心、箕島だ。ここは古い市街地を避けるバイパスが出来て、川の南側が様変わりしている。西に向かう道は北に向きを変え、川を渡ると旧道に戻る。寮に向かう分岐路が懐かしいが、とうに取り壊され小学校に変じているので立寄る意味も無い。初島一帯はクラブ・体育館など会社施設が未だにかなり残っているものの、ほとんど使われておらず。社宅や新寮は更地に戻っている。寂しい限りだ。道は上りになり鰈川トンネルに向かう。この辺りの景色は、みかん畑が続く50年前とほとんど変わらない。トンネルを抜けると下津。その中心部で右折して少し東進すると間もなく長保寺前の駐車場に着いた。
長保寺の創建は長保2年(西暦1000年)だから清少納言、紫式部の時代である。従って、大門(修理中)、本堂、多宝塔は鎌倉時代に再建されたのものだが国宝に指定されている。寛文6年(1666)初代紀州藩主徳川頼宣により菩提寺に定められ、廃藩まで15代の藩主および夫人の一部の霊が祀られている。ただし幕府将軍となった、吉宗(第5代藩主)と家茂(第13代藩主)の墓はここには無く、江戸に廟所がある。
鬱蒼とした木々に覆われた山の斜面に点在する墓は配置・様式・大きさも様々で、統一感は無いが、広さだけはさすがに一般庶民とは違う。とても全部を見て歩くわけには行かず、受付で説明のあった順路に従い、初代や15代など数ヶ所を訪れたが、それだけでも小一時間かかってしまった。出口に指定された廟門を出ると、白壁に沿って花々が咲き誇っていたが、その色の鮮やかさが、山中の苔むす墓々と強烈なコントラストを成し、この寺を印象付けてくれた。
熊野街道へ戻り加茂郷、海南へと進むに従い、交通量も増え、海南からは片道2車線になる。万葉にも詠われた和歌の浦はすっかり寂れてしまったもの、沿線は工業団地や住宅地としては、昔に比べ遥かに発展している。南から和歌山市内入るところで東側に進むと紀三井寺がある。
この寺は宝亀元年(西暦770年)唐僧為光上人によって開かれ、爾来多くの天皇の行幸や紀州藩主の来山があり、名水(三つの井戸が寺の名前の起源)と桜の名所でもある。小高い山の中腹に在るので、下の駐車場にクルマを停め、石段を登るのだが、これは結構堪える。境内から和歌の浦方面をみると、昔に比べ建物が密集してきているのがよくわかる。地方でも都市への集中が進んでいるのだ。
ここからホテルまでは街中走行、4時過ぎホテルに付いた。今日の走行距離は207km。夕食は駅の東側にある息子のマンションを訪れ、見晴らしの良い部屋でワインとパエリヤをご馳走になった。
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(次回;根来寺・粉河寺)

2012年7月6日金曜日

歴史街道を行くー吉野・高野・龍神を走る-(16)




16.南部(みなべ)から日の岬へ
421日(土)、天気は朝から薄日がさし、まずまずと言ったところである。上御殿前の駐車場を女将さんと仲居さんに送られて出発したのは9時少し過ぎた時刻。今日の最終目的地は和歌山駅に隣接する、ホテルグランヴィア和歌山だ。距離は140km程度、5時間はかからない。しかし、ルート決定までにはいささか時間がかかった。後半走る道はよく知った国道42号線(熊野街道)、3年前の紀伊半島ドライブでも走っているからだ。
私は和歌山工場勤務時代何度も訪れているが、家人が初めての観光スポットを選び出すと、紀伊半島西端となる日の岬、紀州徳川家の菩提寺、長保(ちょうほう)寺、8世紀に唐僧が開き、桜の名所でもある紀三井寺(きみいでら)などが候補地として浮かんできた。いずれも熊野街道から近いので立ち寄りに格別時間を要する所ではない。これで後半部分は決まった。
前半、龍神から海岸線を走る熊野街道までは過疎地帯を走る山岳道路。ここは今回の旅で運転を楽しむための山場と期待している。御坊へ出る道が二本、南部へ向かう道が一本。いずれを選択するか?一番北ルートは県道26号線、和歌山を代表す三本の川(紀ノ川・有田川・日高川;いずれも有吉佐和子が小説に書き残している)の一つである日高川沿いに進む。真ん中を走るのは、紀伊半島中央部を三重・奈良・和歌山と横断している国道425号線。最近の地図で見ると、龍神以西は国道としてよく整備されているように見える。残る一本は南部へ出る国道424号線である。この道は多分42年前逆に走っているはずだ。日高川に沿う道は、ゴルフ場が在ったり、前回訪れた道成寺を通っていくので、かなり開けた様子、面白味という点で先ず落ちた。南部ルートは一旦南へ下り、レの字型に北上するので遠回りになり、第一候補にはならなかった。しかし、出発数日前「今回のお土産をどうするか?」を考えている時、“南高(なんこう)梅”のことが気になりだした。前回はみかんを食材にした菓子と湯浅の醤油、いずれも和歌山ならではのものだ。「今回は南部の梅干!」(“南高”;南部高校農業科が開発した、南部高田地区の梅を使っている、の二説がある) これで424号線に決まった。
龍神を出る時目的地を道の駅、“みなべ梅振興館”にセットした。Webで“梅干の製造・販売所”を調べたら、みなべ観光協会のHP40数軒が列挙された表が出てきた(商品紹介へ展開できる)。あまりの量に何処で何を買うべきか見当もつかない。口コミなどを基に選択肢が多そうなここにしたのだ。
424号線は想像以上に厳しい道だった。道幅は狭く路面も荒れている。加えて春先の大雨で応急工事が施されているような所が諸処にある。迂回指示に従うと、その先の急斜面が抉り取られ、茶色の山肌を見せている。小川を渡る橋は仮設、一方通行で路面高の低い車は腹を擦りそうだ。起伏とワインディングを楽しむ運転どころではなかった。“梅干”を考えなければ第一候補の425号線を行くべきだったかもしれない。
梅振興館は期待通り、加工方法、パックサイズ、味付けなどいろいろな梅干が揃っていた(安い訳あり商品もある)。ほとんど試食可能で、吟味して選べるのが良い。自宅用にはやや甘口の訳ありを、年配者が多い友人達には伝統的な味付けのものを購入した。
梅振興館から阪和自動車道のみなべICに近い。そこから御坊南ICまで行き、42号線を少し走り、海岸線を防砂・防風林に沿ってしばらく行くと、岬へ向かって長く延びる煙樹が浜に出る。この浜は砂利で出来ており、潮の満ち干が奏でる独特の音で知られる。夏はキャンプで賑わうこの一帯もまだ静かで、その響きを久し振りに味わうことが出来た。昼食を計画していた岬はさらにこの先、突端の丘には昔は無かった国民宿舎やカラオケ施設が在ったが、観光客は全く居らず、明るい日の下に寂寞感だけが漂っていた。
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(次回;長保寺・紀三井寺)

2012年6月29日金曜日

歴史街道を行く-吉野・高野・龍神を走る-(15)



15.上御殿
カミゴテン、仰々しい名前だが江戸時代初期紀州の殿様より賜った旅籠の屋号である。龍神温泉開祖の歴史ははるかに古く、9世紀に遡ることができるという。その時紀州公が泊まった部屋は“御成りの間”として今も残っている。
ここへ始めて来たのは昭和41年(1966年;前報で42年としたのは誤り)春、和歌山工場の課のレクリエーションの時である。南部(みなべ)から雨模様の泥道を難儀してやってきた。名前が名前だけに大いに期待していたのだが、木造二階建て、龍神街道に面して縁側のあるその建物を見て「エッ!これが御殿?」が第一印象である。この日は我が課(機械技術課)の貸切。泊まったのは道に面した(つまり谷川は見えない)二階の部屋だった。景色が楽しめるのは風呂場だけだったように記憶する。夜の宴会も朝の食事も、縁側に接する板の間だった。当時のこの地の宿泊施設はここの他に比較的まともな旅館は下御殿一軒、あとは長期逗留湯治客の民宿くらいだった。無論温泉場に付きものの歓楽・遊興の類は全く無かった。
唯一の観光スポットは「机竜之助・洗眼の滝」くらい。と言っても我われの世代ですら「そりゃ何じゃ?」と問いたくなるほど、知る人ぞ知る世界である。これは1913年から1941年にかけて新聞(都→毎日→読売)に連載された中里介山の超長編大衆小説「大菩薩峠」の主人公である剣客、机竜之助が目を患いここの滝でそれを癒した所なのだ。つまり架空の世界が作り出した名所、史実に残るのは上御殿と下御殿くらいいしかない。
計画検討段階で、どちらへ泊まるかしばし悩んだ。上御殿が古いことは一つの魅力だが、設備は明らかに下御殿の方が良くなっている。結局夕食メニューのユニークさで上御殿に決めた。
日高川源流の右岸を下ってきた道は温泉の手前で二手に分かれ、直進すればバイパス、左にとって橋を渡ると温泉街(?)に進む。道は当然完全舗装、上御殿の前はかなりの広さのある駐車場になっていた。数台の車を建物の脇に押し付けるように停めた往時とは大違いだ。街の佇まいも温泉場らしく変わっている。しかし上御殿は幸い昔のままだった。玄関・帳場も変わっていない。案内された部屋は谷川に面した新館で、ここはその後増築された部分だから、普通の温泉旅館の部屋と同じである。旧館に泊まることもできたのだが、トイレが部屋に無いことや道路に面しているのでやめにした。案内してくれた中年の仲居さんに50年近く前に一度来たことを話したが「そんな昔のことは・・・」と、会話がつながることは無かった。
少し早いチェックインだったこともあり、木造りの風呂場は貸しきり状態、ガラス窓を通して谷を隔てた崖に張り付く緑を眺めながら、独特のヌメリのある温泉に浸った。
夕食に指定したのは鹿料理、鹿肉タタキとさいころステーキ、とシシ鍋である。野生動物料理としてはヨーロッパのジビエ料理が有名だが、野生は安定供給が難しく、飼育モノが供されているらしい。ここも同じだろうと思い質してみると「鹿は何処にも居ますから」と答えが返ってきた。タタキは歯ごたえや舌触りが明らかに牛とは違い味もさっぱりしていた。メインのステーキは脂分が少なく、旨味が今ひとつ物足りない。シシ鍋も豚に比べると淡白な味わいであった。まあ、珍しいものを食べたと言う印象である。
朝食は部屋ではなく、玄関脇の板の間食堂で摂った。黒光りする床、障子、厚い一枚板の食卓、昔と何も変わっていない。湯豆腐と煮物、それに味噌汁とご飯は温かいが、あとは漬物や金山時味噌など、明らかに板前がいなくても出来るものばかりだった。給仕をするのは昨日の仲居さん一人だけ。前後して現れた同宿者は男の一人旅と二人連れの若い女性二組だった。
出立前付近を散策してみた。少し下流に在った下御殿はコンクリート作りの近代的な旅館に大変貌、彼我の差の大きさが妙に気になった。上御殿の経営は大丈夫なのだろうかと。
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(次回;南部から下津へ)

2012年6月24日日曜日

歴史街道を行く-吉野・高野・龍神-(14)


歴史街道を行く-吉野・高野・龍神-(14)
14.龍神へ
高野山から南西方向に、和歌山県最高峰の護摩壇山(和歌山県最高峰;1372m)に向かって尾根伝いに走り、紀伊田辺に至る国道371号線は、今では高野龍神スカイラインと名付けられているが、一般国道として整備が終わるのは1975年でそれまでは林道と言ってよかった。そんな林道時代(1967年)課のレクリエーションで龍神温泉一泊旅行の際、南部へバスで戻る皆と別れ、帰路をこの道へ取り高野山・和歌山市経由で有田まで帰ったことがある。今回はその思い出の道を逆走するのだ。
当時の道は、舗装部分は高野山の町とその周辺、それに龍神も集落の中心部に限られていたから、全線未舗装と言ってよかった。龍神の村落の外れに貧相な遮断機が設置されており、そこで幾ばくかの通行料を払って林道に乗り入れる。落石が散らばり、それが半ば埋まって鋭く飛び出しているので、タイヤを傷める恐れがあった。切り立った山際から滝のように水が落ちている道を進むと、その先を蛇が横切る、というような道である。避けきれずに轢いてしまった蛇が、バックミラーの中でのたうち回っていたのが、今でも忘れられない。
奥の院の近くでそのスカイラインに入ると、曲がりくねりだけは昔と変わりないものの、センターラインのある対向2車線の緩いアップダウンの道が続く。「伊豆スカイラインと同じようなものだよ」と息子が言っていたが、その通りだ。雨は上がり空も明るくなってきている。本当は天気ならば、ここは今回唯一のオープン走行区間と考えていたが、大気は冷たくたっぷり水気を含んでいるのでそれは叶わない。
観光以外にほとんど用のない道は極端に空いており、前後は無論、対向車にも滅多にお目にかからない。半世紀近く前には時々民家も見たものだが、それすら現れない。過疎はますます進んでいるようだ。右側は山左側は谷となる道は見通しの悪い左ターンだけが要注意だ。道は箕峠(930m)、白口峰峠(1100m)を過ぎ笹の茶屋峠(1200m)へと1000mの高所を繋いで行く。この辺りは同じ年(1967年)の春、有田川の源流地、清水のお寺に泊まり翌朝そこから護摩壇山に登った時取り付いた地点だ。その時既に茶屋は無かったから、おそらく熊野詣の時代の名残りだろう。
快適な舗装道路は続き15時には“ごまスカイタワー”に着いていた。そこにはそれほど高くはない展望タワーが建っており、下にはお土産物を扱う店とレストランが併設されている。かつてここには無人の廃屋のような山小屋は在ったものの、こんな立派な施設は無かった。展望のきく駐車場に車を停め。かぼちゃチーズケーキとコーヒーでお八つを摂り、サービスしてくれたスタッフに「何処からここへ通ってくるのか?」と問うと「龍神からです」との答え。昔話は全く通じなかった。帰り際に付近の案内図を見ると龍神岳という山が護摩壇山の先にある。聞いたことのない名前なのでお土産品売り場の女の子に問い合わせると、奥の事務所に声をかけ、この施設の責任者を呼び出してくれた。その人の説明によれば、2000年護摩壇山より高い峰ではないかとの話しが出て計測したところ10メートル高いことが分かり2009年公募によりその名が付けられた由。
駐車場にはいつの間にか小型の路線バスが停まっている。乗客はなさそうだが、昔の道とは全く異なるのだ。ここを過ぎると道は下りになり、やがて川と並走していく。3月に川崎工場の同じ職場のOB会の際、このドライブ行の話をしたとき、往時一緒に護摩壇山行きに同行した同僚から「そのルート途上に曼荼羅美術館と言うユニークな美術館があるので是非寄りなさい」とアドヴァイスをうけていた。川に沿う道が平坦になるとそこへの分岐案内が現れ、立派な公共宿泊施設“季楽里龍神”とその広い駐車場の向かいに美術館が在った。これもどうやら村営か何かのようだ。
受付に若い女性がいかにも手持ち無沙汰という風に座っている。料金はタダ。ただし、奥へ向かおうとすると巡回路に従って見るよう注意される。確かに百点を超える曼荼羅の説明や歴史的・地理的違いが分かるように展示されている。奥の広間は曼荼羅では無く、この地に縁のある画家の仏画を特別展示していた。
道の駅“龍神”を過ぎ、“温泉トンネル”を抜けると、もうそこは龍神温泉だ。16時、今日の宿“上御殿”前の駐車場に車を停める。今日の走行距離は52.7km、この車をもっての遠隔地ドライブでは最短だ。こうなったのも上御殿ゆえである。
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(次回;上御殿)

2012年6月20日水曜日

歴史街道を行く-吉野・高野・龍神-(13)




13.高野山名所巡り-2;金剛峰寺ほか
奥の院から小一時間かけて、駐車場や商店の在る中心部へ戻る。この一帯には末寺約4000の真言宗総本山金剛峰寺、空海が開創以来修行の場とした大伽藍・金堂などがある。全て世界遺産である。
金剛峰寺は総本山ではあるが、その名がつくのは明治になってから。それ以前は秀吉が亡き母を弔うために建立した青厳寺であり、それに隣接する興山寺を合併してそのように呼ばれるようになったのである。16世紀末以来何度も火災に遭い、現在の本堂は19世紀半ばに建てられたものである。そこに秀次自害の部屋が在るのは何かおかしいが、あまり深く考えないことにしよう。とにかく大きな寺である。主殿・奥殿・別殿、それに修行僧たちを賄った台所を見るだけでも一見の価値がある。しかし、本当に価値があるのは狩野探幽らによる襖絵と蟠龍庭と呼ばれる雲海を模した石庭だ。雨の平日、拝観客は極めて少ない。静かにそぼ濡れる美しい白い庭を観るのは贅沢の極みといえる。
次に向かったのは根本道場大伽藍と呼ばれているところだ。実際には金堂、十数のお堂の中心にある根本大塔が見所である。大塔は弘法大師の時代(816年)に建立に着手し次の真然の代に完成した高さ50メートルの仏塔である。金堂は各種の年中行事が行われる大講堂。残念ながら二つとも昭和になってから再建されたものである。しかし中に収められている曼荼羅は古いもので、血曼荼羅は平清盛が自らの額を割り、そこから溢れ出た血で描かせたことからこの名が付いたと言う。
当地最後の訪問先徳川家霊台に向かう。金剛峰寺の東側の通りを北に向かって少し歩く。他の観光スポットと離れていることもあり、受付も手持ち無沙汰。階段を上った境内には小母さんの三人連れ以外は誰もいない。ここは三代将軍家光が家康・秀忠の霊を祀るために作ったもので、左右に日光の東照宮を小型にしたような同型の二棟の建屋(家康霊屋、秀忠霊屋)が並んでいる。ただし色はくすんでおり、東照宮のような艶やかさはないが、この方が高野山には相応しい。これは国の重要文化財である。
仏都の歴史探訪はこれで終わり、街中で何か特色のある、とは言っても精進料理でない、食事を摂れるところを探したが、これといった店は見つからなかった。仕方なく何でもありの食堂に入り親子丼を食した。久し振りの動物質はやはり旨かった。
一乗院へ戻り、荷物を引き取り、燃料警告灯の点灯する車で先ず向かったのは、数百メータ先のゼネラルのSSである。自宅からの距離577.1km、給油量は54.8l4年半乗ってきて最大の給油量である。満タンは60lだから残り僅か5.2lであった。とは言ってもこれだけ使い切れるならば30km位は走れる残量だ(実際空になるまで消費することは出来ないが)。
時刻は2時、雨は上がっている。いよいよ40数年前ダートを走った龍神街道だ。
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(次回;龍神へ)

2012年6月15日金曜日

歴史街道を行く-吉野・高野・龍神を走る-(12)




12.高野山名所巡り-1;奥の院
420日は朝から雨だった。9時半頃チェックアウトを終え、お坊さんに今日の観光予定を話し、先ず奥の院を訪ねるというと「チョッと距離もあるので、近くの駐車場まで車で行かれたら」と言われたが、雨の中の寺町のたたずまいを見るのも悪くは無いと、荷物や車は宿坊に置き、“一乗院”と黒地に白書きされた傘を借りて歩き出した。まだ団体客がやってくるには時間も早く街は静かだ。途中にもいくつも寺があり、美しい庭が道路に向けて開かれているところもある。雨も小降りで、徒歩で正解であった。
20分程度で参道入口に着く。杉木立に覆われた霊場(墓地)には20万基以上もの墓石や供養等が林立し、2km先の最深奥部には1200年前に高野山を開いた弘法大師の御廟がある。全体が世界遺産だ。格別信心深い人間でなくとも、ここに踏み込んだ途端、俗世と切り離される緊張感を覚える。
弘法大師の霊が参詣人をここまで送り迎えすると言われる一の橋を渡ると、直ぐ右側に新しい石碑がある。高野山開創1200年を記念して司馬遼太郎が書いた“高野山管見(個人の見方) 歴史の舞台 一文明のさまざま”だ。参道に歩みを進めると当にその“さまざま”が目の前に現れてくる。曽我兄弟供養塔、平敦盛墓、武田信玄・勝頼墓、宿敵上杉謙信廟(謙信は法名、天正2年(1574年)ここを訪れたとき贈られたものである)、苔むし、落ち葉に半ば埋もれ、傾き、欠損した塔墓が連なり、故人たちの歴史上のあれこれを思い起させてくれる。
参道は入口から北東の方向に向かって延びており、左側は傾斜が上り、右側は下りで先の方に並走する本街道が木立の間から見え隠れする。雨空もあるが日中でも足下が暗くなるほど杉の大木で覆われている。入口と御廟を結ぶメインの石道は歩き易いが、少しわき道へ入ると落ち葉も積もるにまかせ足下が悪い。恐る恐る踏み入るのだが、それがかえって歴史回帰の舞台廻しに役立っている。
朽ち果てた歴史上の人物たちの墓と対照的なのが、立派な企業墓所である。50年前に見たとき松下電器とあったものが“パナソニック”に変わっていた。
道半ば、戦国時代の武将たちがそこここに佇んでいる。石田三成墓の直ぐ近くには明智光秀墓、仙台の雄伊達政宗の墓は堂々とした五輪塔だ。朝鮮征伐の戦死者を祀る高麗陣敵味方戦死者供養塔などと言うのもある。
やがて御廟橋に近づくと、秀吉そして信長の墓が現れる。秀吉(高野山攻めを行ったが説得され、庇護者に変じた)の墓が母、弟秀長など一族も葬られる広い墓所であるのに対し、信長の墓は注意深く探さねば分からぬほど小さなものだった。
御廟橋から先は脱帽・写真撮影禁止の霊域。ここだけは木々が払われ明るい。正面には半地下形式で多数の献灯を燈す燈明室を備えた大きなお堂がある。ここをお参りして帰りかけたとき、フッと昔ここへ来たときのことが思い起こされた。「御廟はこんなに大きくなかったはずだ」 しばらく参拝者の動きを観察していると裏手に廻る人がいる。付いて行くとお堂(実は燈篭堂)の真後ろに小さな御廟が在った。

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(次回;高野山名所巡り-2

2012年6月10日日曜日

歴史街道を行く-吉野・高野・龍神-(11)



11.宿坊 一乗院
前回書いたように高野山を初めて訪ねたのは1962年の4月末、新入社員教育の一環としてである。工場採用の高校卒の人たちも一緒だったから7080人おり、バス2台で出かけ、全員が泊まれる寺に一泊した。その後も高野山には何度か出かけているが、宿坊に泊まったのはその時だけである。従って今度が丁度半世紀振りと言うことになる。
当時の記憶は全く薄れ、どこに泊まるべきか見当もつかないので、Webで調べるといくらでも出てくる。総本山の金剛峰寺を除けば、ほとんどの寺が宿坊を営んでいる。部屋の大きさ、トイレのある無し、食事をする場所と内容、風呂、暖房、駐車場、俗化の程度、観光スポットとの位置関係、早朝勤行参加可否それに宿泊費(これはどうやら統一価格)などなど、口コミも含めて情報を集め4,5ヶ所に絞込み、和歌山在の息子に問い合わせ、会社厚生施設として登録されている一乗院に決めた。
門前の駐車スペースに車を停め寺務所に向かいかけると、作務衣を着た若いお坊さんが出てきた。私の車を見て「これなら境内にとめられますから、バックで入ってください」と言う。狭い石道をバックして本堂前の石灯籠と植え込みの間に駐車する。向かい側の空き地には軽を含めて3台のクルマが既に置かれていて、こちらを含めて4台で駐車スペースは満車になってしまった。「意外と小規模な宿坊なんだな」が第一印象である。
我々の部屋は道路を見下ろす2階の10畳ほどの部屋、トイレ洗面はあるが風呂は無い。液晶TVが備わっている。2週間前には雪もちらついた寒さがまだ残るが、有難いことに暖房が入り、電気コタツもある。まずまずの旅館と何ら変わらない。違うのは全く女っ気が無いことくらいである。全て若い修行僧が行うのだ。
誰も居ない大浴場(と言っても10人くらいが限度)で今日一日の疲れを癒し、しばらく暖かい部屋で休んでいると食事が始まる。精進料理なので動物質は無いが、豆腐や野菜の天ぷらなどが供されるので、たんぱく質は充分摂取できる。味付けもよく考えられ、煮物・焼き物・酢の物と調理方法も多様で、量も適量。これが三つのお膳に並ぶので見た目も豪華。さらにアルコールはビール、日本酒が求められる。特色のない、食べきれぬほどの料理をこれでもかともってくる旅館の夕食より余ほど好感が持てる。
腹もくち、吉野の山歩きで疲れた身体を横たえてTVを観ていると、間もなく食事の後片付けと布団敷き。10時前には寝付いていた。
朝の勤行は6時から本堂で。前日「本堂は暖房も充分でなく寒いので暖かくしてご参加ください」との注意があった。15分くらい早めに行くと、暗く黒光りのする板の間の最後列の椅子席と座布団を並べた最前列中央部は先客で埋まっている。幸い椅子席に空きを見つけそこに座っていると、どこにこんなに泊り客が居たのかと思うほど、次から次とお勤めの参加者がやってくる。若い外人のカップルも居る。おそらく全部で50人くらい居ただろう。読経が始まり般若経の部分になると唱和する人が大勢居たことや特別祈願のお札が手渡されていたことから、信徒の人たちがかなり参加していたようだ。お勤めは7時前に終わった。
この寺の建物の配置は東西に狭く、南北に長い。我々の部屋は南東の角に近いこじんまりしたブロックに在るが、本堂の入口から真っ直ぐ北へ延びる長い廊下があり、大部分の参加者はそちらへ戻っていった。大勢の宿泊者がいることを今朝まで気付かなかったのはこのためである。後で判ることだが駐車場は西裏手にもう一ヶ所あり、そこは正門境内に比べかなり広く、入口には信徒駐車場とあった。
清清しい気分で部屋へ戻ると、布団が片付けられ、朝食の準備が整えられていた。むろんこれも精進料理である。
高野山での宿坊泊まりは、ここを訪れる機会のある方々に是非お薦めしたい体験であった。
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(次回;高野山名所巡り-1

2012年6月5日火曜日

歴史街道を行く-吉野・高野・龍神を走る-(10)



10.高野山への道
近鉄吉野駅に近い臨時駐車場を出たのは3時過ぎ。ここから高野山までおよそ60km1時間半位の距離だ。吉野川(和歌山に入ると紀ノ川)沿いの道から高野山に上るルートは三本ある。大型バスが通るのは笠田(かせだ)から大門口橋を渡り480号線をひたすら走る道だ(青)。このルートは新入社員研修(丁度50年前の同じ頃)以来何度か通っている。交通量が比較的多く“走りを楽しむ運転”は期待できない。計画段階で第一候補としたのは橋本から入る371号線であった(ピンク)。この道は高野山から龍神に抜ける道につながり、翌日はこの後半部分を行くことになるので、全体を通して走ってみたいと思ったからである。駐車場を出る前にカーナビに“一乗院”を入力してルートを調べると、これが第一案として出てきた。最短距離なのだ。
吉野駅から近鉄に沿って道は緩く北に下りながら吉野川に向かっていく。天気は予報通り曇り空に変わってきている。高野山は雨かもしれない。1kmほど行った吉野神宮駅のT字路は左へ進むのがメインである。そこから吉野大橋を渡って今朝来た169号線を西に戻るのだ。しかしカーナビはここで“右です”と言う。朝のトラブルが頭から離れない。おまけに地図上の矢印は上向きではなく、妙な方向を向いたままなので、ここはナビの指示通り右折する。やがて道は細くなりすれ違いも出来ないほどになっていく。次の指示は“左斜め手前方向です”ときたが、道は鋭角で左折するのでとても曲がれない。Uターンできるところまでしばらく進み、折り返してこの左折路に入った。先には貯木場が見え工場内に入っていくように思えたが、中を抜ける道がありその先に橋が架かっている。上市橋という吉野大橋の一本上流の橋だった。これを渡るとやっと169号線に出ることが出来た。吉野大橋は長蛇の列、カーナビは渋滞をバイパスしてくれたのだが、とても普通に走れる道ではなかった。
169号線は途中で奈良方面に向きを変えるので、川沿いに西進するには370号線に乗り換え、五条で和歌山に向かう24号線へと道を採る必要がある。この少し手前でナビが“新しいルートが見つかりました”と言ってくる。吉野を出たときのオリジナル・ルートが一旦この辺で自動車専用道(京奈和道)へ北西に廻り道を採る五条迂回路だったので、ルートを確認せずに直進を期待して“新ルート”を選択した。紀ノ川を橋本橋で渡るところまでは予定通りだった。そのままナビの言う通り進んでいくと24号には入らず依然370号線を進んで行く。本来はどこかで371号線へ入る予定だが、時々 “高野山”の標識が出てくるのでそのまま道を採っていると、九度山で“祝 370号線国道昇格”と言う看板が出てきた。確かに国道にしては幅が急変したり、変な曲がり方をする所がいくつもあったが、そんな事情だったのだ。371号線への分岐点は既に遥か後方、前進あるのみ。この道が高野への第三の道であることを知らされる(緑)。
山へ入る頃には雲も厚くなり、鬱蒼と茂る木々に覆われた道は薄暗く、加えて昇格した新米国道は路面や道幅が未整備で待避所以外ではすれ違いも出来ない。明るければともかく、いくら山岳道路が好きでも敬遠したくなるような走行条件である。せめてもの救いは交通量が極めて少ないことである。それでも一度だけ材木運搬のトレーラーと行き違い、バックを余儀なくされる。とうとう雨も降り出してきた。すると突然ピッと音がして中央の計器に小さな赤ランプが点灯した。燃料補給を警告するものだ。
長距離ドライブ行の計画を検討する際、ガソリン補給地点についてはかなり綿密にチェックする。満タンで500kmは先ず問題ないので、今回の場合亀山・天理IC周辺と奈良南方(24号線、169号線)のエッソ/モービル/ゼネラルSSはすべて確認しておいた。しかし、高速道路の走りが順調で、奈良のホテルへチェックインした時、車載コンピュータはまだ250km近く走れることを示していた。奈良から吉野経由で高野まで行っても、その半分以下の距離である。後の行程を考えれば高野山のゼネラルが最適。すっかり油断していたのだ!赤ランプがついてもまだ20km程度は大丈夫だと思うが曲折する山道の上りゆえ絶対安心とはいえない。こんなところでガス欠になったらどうすればいいんだろう?不安が募る。やっと平坦な道になったら今度は霧や雲が現れる。高野山を象徴する大門が見えた時どんなにホッとしたことか。街の中心にある駐車場を廻って総本山、金剛峰寺の角を左折して今夜の宿泊所、一乗院に無事たどり着いた。やれやれ。時刻は5時丁度だった。
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(次回;一乗院)

2012年5月30日水曜日

歴史街道を行く-吉野・高野・龍神を走る-(9)



9.吉野山の桜-2
中千本の公園付近で昼食を摂った後、徒歩で近鉄吉野駅方面へ向かう。とにかく中千本の中心地は旅館・土産物屋・食事どころが軒を連ね、この時間人で身動きも出来ないほどだ。上千本から下ってきたクルマもここで操車場の方に向かわされ、そこからはバス道を行くしかない。中千本・下千本の桜を車中から愛でることはほとんど叶わないのだ。
ここからのルートは、先ず紀伊山地の山岳信仰三大聖地(吉野・大峯、高野山、熊野三山)の一つ金峯山寺(きんぷせんじ)を拝観し、ケーブルカーの山上駅を経由して、下千本の七曲の坂道をくだって、吉野駅に至るものである。
金峯山寺は、国宝の蔵王堂(本堂)の修理が完了し3月半ばから6月初旬にかけて本尊の権現立像(木造三躯;重要文化財)がご開帳されている。近鉄等が新聞やTVでこれを宣伝していたので、この旅のハイライトの一つだった。
雑踏を抜けたところに、山中には珍しくチョッと開けた土地があり、五重塔を含む数棟の大きな建物がある。そこが金峯山寺、本堂前の桜は既に葉が大分出ている。拝観料を払って中に入ると、お坊さんによる講話か祈祷が行われており、ご本尊前の畳席は人でいっぱい。周回路はそれほどでもないが、そこからは三躯の内の左右二躯の一部が見え隠れするだけ。講話が終わったタイミングで畳席の最前列まで行くと、やっとご尊顔を拝見することが出来た。火炎を背負い、大きな口を“グアッ”と開け、怒髪は天に向かい、片足を踏み出すような姿は、どこか仁王と似ているところもあるものの、全身が青色に塗られているので、他にはない独自のもの。確かに一見の価値あるものだった。
南朝の名残に別れを告げ、下千本の中を曲がりくねった道を下って最後の観桜を楽しんだ。ここまで降りてくると大方は葉桜になっているが、それでも種類が違うものが混じり、満開がある一方で、ハラハラと落花して道をピンクに染めているものなど、さすが桜の名所、多様な楽しみ方が出来ることに関しては、ここに勝るところはなかろう。
山間の吉野駅はもう帰りの人達で混雑が始まっていた。
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(次回;高野山への道)

2012年5月27日日曜日

歴史街道を行く-吉野・高野・龍神を走る-(8)



8.吉野山の桜-1
吉野の桜は既に秀吉の時代から有名で、文禄3年(1594年)、5千人の家臣を引き連れて、花見をしたと言われる。西北から東南に伸びる吉野山はほぼ8kmの長さ、「一目で千本」見えることから、下千本、中千本、上千本、奥千本と見所が名付けられている。単純に計算すれば四千本になるが、実際には200種三万本が尾根から尾根、谷から谷へ続いているのだ。
当初の予定は吉野山駐車場で車を預け、そこからケーブルカーの吉野山駅まで歩き、奥千本行きのバスに乗って一気に終点まで行って、下りながら桜見物するものだった。しかしこの案は上の駐車場が満車で実現不可能。下の仮駐車場は近鉄吉野駅から400m位離れている。とにかく駅まで歩かないことにはスタートできない。そこからの選択肢は路線バス、ケーブルカーそれに七曲と言う坂を徒歩で登るかであるが、下から徒歩はとても考えられない。幸い吉野駅に着くと中千本操車場行きのバスが次から次と出ており、その列に並ぶと運よく座ることが出来た。曲がりくねった道を登るにしたがい左右に見事な桜が見えてくる。車内は興奮状態だ。
操車場は中央公園付近にあり人でごったがえしている。どうやらこの辺りが吉野山全体の中心地らしい。そこから階段を少し上がると奥千本へのバスが出ているというので行ってみると長蛇の列。奥千本まで行くことは諦めて上千本を上へ歩くことにする。上りは辛いが、見事な桜に励まされながら、休み休み歩みを進めていく。
問題はクルマである。道はかなり規制されているものの(土日は禁止だが、平日は部分的に一方通行で走れる)、混雑する山道にタクシーや自家用車が乗り入れているのだ。地元のタクシーはそれでも要領を熟知しているので何とかなるが、自家用車は止めるところも無く動きもとれなくなってしまう。歩行者の咎めるような目つきに晒され、向こうも観桜どころではないのだ!このあたりは地元ももう少し考えるべきだろう。
操車場近くからスタートして約1時間、展望台を経てようやく上千本の上限、吉野水分神社に着く。この間の桜は、あとで歩いた中千本・下千本も含めて、最高の開花状態だった。フウフウ言いながら来た甲斐があった。
時間はお昼時。近くに桟敷席の有料休憩所があるが、碌な食べ物しか無い。それも値段が高い!桜を愛でながら中央公園まで降れば、食堂や売店もあるので少しはましな物にありつけるだろう。売店兼食堂の一つでこの辺一帯の名物、柿の葉寿司を求め、歩道から山の傾斜地に踏み込み、一本の山桜の下に休憩スポットを探し昼食とした。時刻は1時近かった。
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(次回;吉野山の桜-2