15.上御殿
カミゴテン、仰々しい名前だが江戸時代初期紀州の殿様より賜った旅籠の屋号である。龍神温泉開祖の歴史ははるかに古く、9世紀に遡ることができるという。その時紀州公が泊まった部屋は“御成りの間”として今も残っている。
ここへ始めて来たのは昭和41年(1966年;前報で42年としたのは誤り)春、和歌山工場の課のレクリエーションの時である。南部(みなべ)から雨模様の泥道を難儀してやってきた。名前が名前だけに大いに期待していたのだが、木造二階建て、龍神街道に面して縁側のあるその建物を見て「エッ!これが御殿?」が第一印象である。この日は我が課(機械技術課)の貸切。泊まったのは道に面した(つまり谷川は見えない)二階の部屋だった。景色が楽しめるのは風呂場だけだったように記憶する。夜の宴会も朝の食事も、縁側に接する板の間だった。当時のこの地の宿泊施設はここの他に比較的まともな旅館は下御殿一軒、あとは長期逗留湯治客の民宿くらいだった。無論温泉場に付きものの歓楽・遊興の類は全く無かった。
唯一の観光スポットは「机竜之助・洗眼の滝」くらい。と言っても我われの世代ですら「そりゃ何じゃ?」と問いたくなるほど、知る人ぞ知る世界である。これは1913年から1941年にかけて新聞(都→毎日→読売)に連載された中里介山の超長編大衆小説「大菩薩峠」の主人公である剣客、机竜之助が目を患いここの滝でそれを癒した所なのだ。つまり架空の世界が作り出した名所、史実に残るのは上御殿と下御殿くらいいしかない。
計画検討段階で、どちらへ泊まるかしばし悩んだ。上御殿が古いことは一つの魅力だが、設備は明らかに下御殿の方が良くなっている。結局夕食メニューのユニークさで上御殿に決めた。
日高川源流の右岸を下ってきた道は温泉の手前で二手に分かれ、直進すればバイパス、左にとって橋を渡ると温泉街(?)に進む。道は当然完全舗装、上御殿の前はかなりの広さのある駐車場になっていた。数台の車を建物の脇に押し付けるように停めた往時とは大違いだ。街の佇まいも温泉場らしく変わっている。しかし上御殿は幸い昔のままだった。玄関・帳場も変わっていない。案内された部屋は谷川に面した新館で、ここはその後増築された部分だから、普通の温泉旅館の部屋と同じである。旧館に泊まることもできたのだが、トイレが部屋に無いことや道路に面しているのでやめにした。案内してくれた中年の仲居さんに50年近く前に一度来たことを話したが「そんな昔のことは・・・」と、会話がつながることは無かった。
少し早いチェックインだったこともあり、木造りの風呂場は貸しきり状態、ガラス窓を通して谷を隔てた崖に張り付く緑を眺めながら、独特のヌメリのある温泉に浸った。
夕食に指定したのは鹿料理、鹿肉タタキとさいころステーキ、とシシ鍋である。野生動物料理としてはヨーロッパのジビエ料理が有名だが、野生は安定供給が難しく、飼育モノが供されているらしい。ここも同じだろうと思い質してみると「鹿は何処にも居ますから」と答えが返ってきた。タタキは歯ごたえや舌触りが明らかに牛とは違い味もさっぱりしていた。メインのステーキは脂分が少なく、旨味が今ひとつ物足りない。シシ鍋も豚に比べると淡白な味わいであった。まあ、珍しいものを食べたと言う印象である。
朝食は部屋ではなく、玄関脇の板の間食堂で摂った。黒光りする床、障子、厚い一枚板の食卓、昔と何も変わっていない。湯豆腐と煮物、それに味噌汁とご飯は温かいが、あとは漬物や金山時味噌など、明らかに板前がいなくても出来るものばかりだった。給仕をするのは昨日の仲居さん一人だけ。前後して現れた同宿者は男の一人旅と二人連れの若い女性二組だった。
出立前付近を散策してみた。少し下流に在った下御殿はコンクリート作りの近代的な旅館に大変貌、彼我の差の大きさが妙に気になった。上御殿の経営は大丈夫なのだろうかと。
(写真はクリックすると拡大します)
(次回;南部から下津へ)
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