2012年7月11日水曜日

歴史街道を行く-吉野・高野・龍神を走る-(17)



17.長保寺・紀三井寺
当初予定の日の岬・煙樹ヶ浜周辺には昼食を摂る適当な所も無く、時間も12時前だったので、42号線に戻り街道沿いで立寄ることにした。この辺りから和歌山までは自転車で、バイクで、そしてクルマでよく走った一帯である。未舗装の道路が年々整備されていく過程もつぶさに見てきた。しかも3年前にも同じルートを辿っている。格別観光スポットは無いのだが、昔を思い出させるものが次々と現れ、懐かしさは一入だ。由良の峠から遥か下方に見た海上自衛隊の潜水艦、広川では生まれて初めての蛍狩り、醤油で有名な湯浅は地方行政の中心地、駐車違反で簡易裁判を受けた苦い想い出も蘇る。ここでドライブイン形の中華レストランに入り、中華丼を食す。
道が有田川に沿うようになるともうホームストレッチ、みかん狩りや鮎とりに出かけた紀伊宮原を過ぎれば、7年間暮らした有田市の中心、箕島だ。ここは古い市街地を避けるバイパスが出来て、川の南側が様変わりしている。西に向かう道は北に向きを変え、川を渡ると旧道に戻る。寮に向かう分岐路が懐かしいが、とうに取り壊され小学校に変じているので立寄る意味も無い。初島一帯はクラブ・体育館など会社施設が未だにかなり残っているものの、ほとんど使われておらず。社宅や新寮は更地に戻っている。寂しい限りだ。道は上りになり鰈川トンネルに向かう。この辺りの景色は、みかん畑が続く50年前とほとんど変わらない。トンネルを抜けると下津。その中心部で右折して少し東進すると間もなく長保寺前の駐車場に着いた。
長保寺の創建は長保2年(西暦1000年)だから清少納言、紫式部の時代である。従って、大門(修理中)、本堂、多宝塔は鎌倉時代に再建されたのものだが国宝に指定されている。寛文6年(1666)初代紀州藩主徳川頼宣により菩提寺に定められ、廃藩まで15代の藩主および夫人の一部の霊が祀られている。ただし幕府将軍となった、吉宗(第5代藩主)と家茂(第13代藩主)の墓はここには無く、江戸に廟所がある。
鬱蒼とした木々に覆われた山の斜面に点在する墓は配置・様式・大きさも様々で、統一感は無いが、広さだけはさすがに一般庶民とは違う。とても全部を見て歩くわけには行かず、受付で説明のあった順路に従い、初代や15代など数ヶ所を訪れたが、それだけでも小一時間かかってしまった。出口に指定された廟門を出ると、白壁に沿って花々が咲き誇っていたが、その色の鮮やかさが、山中の苔むす墓々と強烈なコントラストを成し、この寺を印象付けてくれた。
熊野街道へ戻り加茂郷、海南へと進むに従い、交通量も増え、海南からは片道2車線になる。万葉にも詠われた和歌の浦はすっかり寂れてしまったもの、沿線は工業団地や住宅地としては、昔に比べ遥かに発展している。南から和歌山市内入るところで東側に進むと紀三井寺がある。
この寺は宝亀元年(西暦770年)唐僧為光上人によって開かれ、爾来多くの天皇の行幸や紀州藩主の来山があり、名水(三つの井戸が寺の名前の起源)と桜の名所でもある。小高い山の中腹に在るので、下の駐車場にクルマを停め、石段を登るのだが、これは結構堪える。境内から和歌の浦方面をみると、昔に比べ建物が密集してきているのがよくわかる。地方でも都市への集中が進んでいるのだ。
ここからホテルまでは街中走行、4時過ぎホテルに付いた。今日の走行距離は207km。夕食は駅の東側にある息子のマンションを訪れ、見晴らしの良い部屋でワインとパエリヤをご馳走になった。
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(次回;根来寺・粉河寺)

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