2012年7月15日日曜日

歴史街道行く-吉野・高野・龍神を走る-(18)-



18.根来寺・粉河寺
422日(日曜日)、いよいよこのドライブ行も最終日になった。前日からの予報通り、朝から雨が降っている。前線が通過した九州・中国は激しい豪雨に見舞われたところもある。安全第一で、前日から考えていた、雨ルートで帰浜することに決する。
和歌山と関東を結ぶ道は何度も行き来している。中でも紀ノ川沿いを走り、五条から天理に出て東名阪で亀山を経由し、東海道に乗るケースが多かった。今回の往路もほぼこれに近い。せめて帰りだけでも今まで走ったことの無い道を選びたい。オリジナル・コースはこのような思いで検討した。
それは、五条から天理に向かう途中で、橿原・桜井方面に折れ、国道165号線(初瀬街道)を近鉄大阪線に沿って東進、榛原(はいばら)で南東に向かう369号線に乗り換え、さらに松阪に向かう368号線(伊勢本街道)、166号線(和歌山街道)とつなぎ、松阪牛を遅めの昼食で食し、そこから伊勢自動車道、伊勢湾岸道路を辿る道筋だった。言わば少し北寄りの紀伊半島横断ルートである。鉄道は通らず、町らしい町も無い。秘境ドライブを大いに楽しめそうだった。しかし、午後の雨が激しくなると、後半のルートで何が起こるか分からない。
直帰最短時間ルートは、和歌山から阪和自動車道に乗ってしまえばほとんど自動車道だけで我が家まで帰れる、3年前にも通った自動車道接続ルートだ。この時は8時頃出発して3時には着いてしまった。これでは面白くないので、紀ノ川沿い、奈良盆地の観光スポットを状況に応じて何ヶ所か寄る案を考えておいた。それらを訪れてから、東名阪に入ることにする。これがオプションの雨ルートだ。
最初の訪問地は根来寺(ねごろじ)。半世紀前初めて関西(和歌山)で生活するようになり、ある休日ここを訪れた。荒地の中(周辺はほとんど未整地・未舗装)に忽然と現れた巨大な山門は、私の関西観、そして日本史観を一変させた。「こんな辺鄙な所に、こんな凄い山門がある!」 雑賀(さいが)衆・根来衆の秀吉への反抗と制圧の歴史を知るのはしばらく後だが、東京中心主義が改められた瞬間である。
24号線は和歌山市東端で川を渡り、北岸を東へ進んでいく。やがて昔からこの辺りの中心である、岩出町に入り、街中で左折、泉佐野方面(北)へ向かう道を少し行くと根来寺付近に達するはずである。分け入った道の素晴らしさに驚いた。分離帯付きの片道2車線である。案内に従い右折して未舗装(これは50年前と同じ)水浸しの駐車場に車を止めた。しかし、あの山門が無い!国宝大塔の入口にある受付で聞くと、やってきた道は新道で、もう一筋南側の道が大門の横を通っているのだという。
根来寺がこの地で本格的に真言宗の新義教学(つまり分派)を始めるのは保延6年(1140年)、爾来興隆を極め、多くの学僧を集め、それが僧兵にもなって一大勢力を成したことから、秀吉の根来攻め(1585年)となり、2000を越す塔堂の内、大塔・大師堂以外は焼滅、大門も含めて残る建物は江戸時代に復興したものである。
大塔のあと、ご本尊が祀られる光明殿を拝観、雨に濡れる美しい庭園(国定名勝)を鑑賞、次いで想い出深い大門を訪れた。周辺はきれいに整備され、昔日の面影を残すのは大門本体だけだった。
次いで広域農道伝いに向かったのは粉河寺。ここは高野山に近いが天台宗の寺である。創建は宝亀元年(770年)だから根来寺より古い。この寺の由来を描いた「粉河寺縁起絵巻」は国宝として京都国立博物館に収められているし、枕草子にも記されているという。ただ、根来寺同様、秀吉に攻められ焼失、江戸時代に再建されたので本堂・大門・中門ともに重要文化財に留まる。ここも石と植木が階層を成す、あまり他に例を見ない庭園が売り物の一つである。
雨が弱まる気配は全く無い。24号線に戻り、酷くなる前に東名阪に入りたい。昼食は道路沿いのガストで済ませ、チョッと早い気はしたが隣接するゼネラルで給油した。天候と時間から考えて、このあとの観光(橿原神宮など)は中止する。
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(次回;雨中を走る)

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