2011年1月27日木曜日

決断科学ノート-56(ドイツ軍と数理-5;電撃戦と兵站-4;三つの電撃戦-3;東部戦線)

 欧州完全制覇を目指した英独航空戦(英国のORが実用化するがこの戦い)が頓挫した後、ヒトラーはその矛先を東に向けることに決する。西側は守りとは言え、これでは国防軍のもっとも恐れる二正面作戦になる。当然ヒトラーと軍部の間で激しい議論が戦わされるが、結局ヒトラーの意志を変えることは出来ず、1941年6月22日ドイツ軍はロシアに侵攻する。これがバルバロッサ(赤ひげ)作戦である。
 この戦いについては数千の書物が書かれ、その兵站に触れていない本は無いと言われるほど勝敗(そして国家の命運さえ)の帰趨を決する最重要因子だった。1812年のナポレオンモスクワ遠征を持ち出すまでもなく、ヒトラーも国防軍もそれを十二分に承知していたはずである。当面の作戦到達点は、北は北極海に面するアリハンゲリスク、南はヴォルガ川がカスピ海の北岸そそぐ地点を結ぶ線まで。ウラル以西のヨーロッパ・ロシア全体と言える。ポーランド分割で東に移動した独ソ国境線から目標線まで1600kmの距離がある(モスクワまでが約800km)。この目標線まで装甲軍を進出させるとなると膨大な武器・弾薬・燃料が必要となることは自明である。作戦策定者・決断者はこれをどう考えていたのであろうか?
 どうやらここにはロシア革命によるボルシェビキ支配に対する反政府感情や西方作戦における電撃戦成功過信が織り込まれているようなのだ。つまり、まともな計算では実現できないので、自らを納得させ得る楽観的な作戦展開を想定して、それに基づく兵站を進めて行くという、論理的思考を著しく欠いた考え方で案を作ることになる。具体的には国境から500km以内で赤軍主力を包囲殲滅し、和平交渉に持ち込むか、政府の瓦解を待つと言うものである。そしてその構想は、少なくとも装甲軍を突進させる作戦は見事に当たり、緒戦では成功するかに見えたが、兵站想定限界が見え始めた頃からソ連の反攻が冬将軍とともにやってくる。
 問題は物資よりもその輸送手段にあった。鉄道と道路の事情である。参謀本部が戦前想定したロシアの道路は第一次世界大戦の経験である。当時ロシア領だったポーランドやバルト三国の道路は西欧並みに整備されていた。しかしこの戦いで踏み込んだロシアはまるでヨーロッパの常識が通じないほど酷い道だった。特に秋の雨季には“ラスプーチッチャ”と呼ばれる泥濘の海に変じる。ドイツ装甲軍育ての親、グーデリアン上級大将の自伝を読んでいると、東部戦線のところでは“泥”“泥濘”“ぬかるみ”で溢れている。また英国の軍学者、リデル・ハートは「ソ連にとり、より大きな利点はロシアの道路である。ソ連に西欧並みの道路網があったら、フランスのように簡単に蹂躙されていただろう」と断じている。
 鉄道がまた問題であった。これだけ縦深で広大な地域の作戦では鉄道輸送力が主力になるべきである。しかし、帝政ロシア時代西方からの侵入を恐れ、ゲージを独特の広軌にしておいたことがここで生きてくる。ドイツの鉄道部隊は標準軌への切り替えに奮闘するがゲリラ活動などもあり、思うように改変が進まない。やっと出来てもドイツ製機関車が走るには路床や線路がそれに耐えられない(ドイツの機関車の方が重い)。またドイツ製機関車の給水システムが外部にむき出しのため冬季には凍結して、役に立たなくなってしまう。
 ナポレオン、そしてヒトラーの敗因を“ロシアの冬”に求めるものは多い。しかし、装甲戦に関する限り、地盤が固まるロシアの冬は戦いやすい。グーデリアンは冬の到来を待ち焦がれていたくらいだ。しかし、キャタピラの滑り止め具が届かずスリップ事故が多発する。
 作戦策定時に兵站面で大まかな数量的検討があったものの、それは現実的なものではなかった(見たくないものは見ない;これは日本軍も同じ)。さらに作戦が進行すると、折角計画通り生産された物資が陸上輸送ネックで最前線に届かなかった。OR的な発想が生まれるにはあまりにも条件が悪い。これが東部戦線の姿だったのだ。海上輸送や空輸作戦へのOR適用で成功した米英とはここに前提条件の違いがある。
(次回;兵器の稼働率)

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