2009年8月13日木曜日

決断科学ノート-15(勝敗へのボディブロー)

 今年も終戦の日、8月15日がやってきた。この日が近づくと、記憶は8月9日、満州新京、ソ連侵攻の朝が自然と思い起こされる。一年生の夏休み、目を覚ますと父がばたばたしている。ほとんどの成年男子は即日召集された。卒業した黒門小学校の同級生は、自分は疎開をしていても、敗戦の想い出は3月10日の東京空襲に結びつくようだ。そして、毎年広島・長崎の原爆投下の日は種々の思いをない交ぜにして報じられる。それぞれの忘れられない敗戦記憶である。しかし、これはふらふらになったボクサーに加えられた強烈なストレートパンチに過ぎない。それまで打ち続けられた、着実で絶え間ないボディブロー、シーレーンの分断・途絶こそ、敗戦の決定因子である。
 第二次世界大戦に“大西洋の戦い(The Battle of the Atlantic)”と言うのがある。英米・独人ならこれが何をさすのが直ぐに分かる。Uボートと輸送船団の戦いである。島国英国の最大の弱みは人と物資の補給路、実は第一次大戦でもそうだったのだが、正面から海の戦いに勝ち目のないドイツは、この生命線分断に海軍戦略を傾注した。1917年春、英国の港を出た4隻に1隻は帰らず、米国と中立国の船は英国行きを拒否するまでになっている。
 これを救ったのが護送船団によるシーレーンの確保である。当時の提督たちは駆逐艦を船団護衛に流用することに大反対であった。「毎週2500隻の商船が英国の港を出入りする。とてもそんな数を護衛しきれるものではない」と。ときの首相ロイド・ジョージはそのデーターの分析を命じる。結果は、外洋に出るのは約140隻、あとは沿岸航行用であった。護送船団方式の損失率は1%、独航船のそれは25%であった。
 第一次大戦で日本海軍は日英同盟による要請で、地中海に船団護衛の駆逐艦隊を送っている。生命線保持に死闘してくれた彼らが、戦後英国に感謝されたことは言うまでもない。今もその顕彰碑がマルタ島に残る。
 ドイツのポーランド侵攻は1939年9月1日、英仏の対独宣戦布告は9月3日だが、両陣営が陸で激突するのは1940年5月、英独航空戦は更にその後である。しかし、潜水艦戦争は開戦と同時に始まり、Uボートは9月4日に無灯火航行の客船アシニアを沈め、9月17日は空母カレイジャスを屠っている。英国にとってこれら潜水艦攻撃こそ大戦の始まりだった。
 再び英国が採った海上輸送戦術は、前大戦で学んだ護送船団方式である。1939年9月から12月の間、英海軍は延べ5800隻の商船を護衛し、失った船はたった12隻。一方で102隻の独航船が沈められている。しかし、増強されるUボ-トとその戦術転換、群狼作戦(それぞれの哨戒区にUボートを分散配置して、船団を発見したら短い無線通報を司令部に送り、その海域にUボートを集中させる;護送船団は一番遅い船にスピ-ドを合わせるので捕捉出来る;のちにはこれに対してあまり速度に違いのある船をひとつの船団にまとめないような工夫もORを用いて行われるようになるが)によって1940年夏から商船の被害は激増する。
 水中音波探知機、航空機による哨戒、機載レーダー、護衛空母(機動部隊と違い船団に付いて専ら対潜哨戒・攻撃を行う)、そしていずれの局面にもORが適用され、あらゆる英知を船団護衛、シーレーン確保に傾けていく。1943年これらの努力が実り、Uボートの損害は増加し、商船の損失は急激に減じ、紙一重の戦いに英国は米国とともに勝利する。
 この構図の舞台を太平洋に変えると、潜水艦戦争を挑んできたのは米国、ほとんど裸の輸送船団や独航船で補給を行っていたのが日本となる。生命線は確実に断たれていく。折角地中海で得た、第一次世界大戦での貴重な経験は全く生かされた形跡はない。戦争末期海上護衛隊が組織されているが、泥縄式以外の何ものでもなかった。空襲・原爆・ソ連参戦以前に、既に一人で立っていられる状態ではなかったのである。

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