前回取り上げた機関銃のように、新兵器が開発・導入されると、軍事組織ではその運用方法が必ず論議をよぶ。基本的な問題点は、それをどう位置づけ、どう運用するかである。もし独立運用が望ましいとなると、そこに新しい兵種(例えば、歩兵、砲兵、騎兵しかなかったところへ戦車が導入され、やがて戦車専門の兵科が生まれるように)や軍種(陸海軍しかないところに空軍が生まれる)が組織される。
空軍独立論の嚆矢はイタリアのジュリオ・ドゥーエ将軍(1869~1930)で、彼は第一次世界大戦前「やがて航空機によって長躯敵の中枢部を壊滅させ、戦争の帰趨を決する時代が来る」と予見し、一部識者の注目を浴びるようになる。しかしこの時代、考え方と現実のギャップは大きく、技術的にも経済的にも、そのような強力な爆撃機を大量に準備出来る状況ではなかったので、理念先行の机上の空論と看做す意見が大勢であった(これを無視して自説を声高に主張したドゥーエは軍法会議にかけられ1年投獄)。
第一次世界大戦を通しての航空機の役割は、陸海軍主力(歩兵、砲兵、艦隊)の補助兵力(観測・偵察、地上攻撃支援)に甘んじていたが、将来における主戦力への可能性を示し始めていた。またドイツのツェッペリン飛行船やゴーダ爆撃機によるロンドン爆撃は、政治家や一般市民に、空からの攻撃に対する恐怖を植えつけることになる。戦場でも銃後でも“これからの戦争は航空兵力だ!”と言う空気が醸成され、英国は大戦末期1918年4月、陸海軍の航空隊を統合して世界最初の空軍を誕生させる。
長い歴史を持つ陸・海軍と違い、この新参の軍種、空軍には存在の意義を周知させる理念・教義(ドクトリン)が必要であった。誕生した英空軍でこれを中心になって作り上げたのは、初代の参謀長、ヒュー・トレンチャード(1873~1956)である。ドゥーエと同時代の人であるトレンチャードの考えも、敵の軍事・政治・(軍事)産業拠点を空爆によって制圧し、戦争の勝敗を決すると言うものである。この陸上戦闘の悲惨な状況を一見避けられるような趣は、多くの人々の関心を引くことになり、そのドクトリンが受け入れられ、ガイドライン化されていく。第一次大戦後の軍縮ムードの中では、この考え方は“絵に描いた餅”でそれほど問題になっていないが、国際緊張が高まり戦闘・戦争が始まってくると、それが顕在化してくる。
このドクトリン(拠点への戦略爆撃)を忠実に実現するためには、強力な破壊力(大量の爆撃機と爆弾)を拠点に正確に集中する必要があるが、この時代高空から精密爆撃が行える技術はまだ存在していない(現在のミサイルでも完全ではない)。結果として拠点周辺の市街地・民家への投弾は避けられないものになる。それまでの戦闘が、どんな大規模なものであっても、兵士対兵士の殺戮であったの対して、ここでは大量の市民が巻き添えになる。第二次世界大戦以前の例として、1937年4月のスペイン市民戦争におけるドイツ軍(一部イタリア軍も参加)によるゲルニカ爆撃は良く知られている(欧米の戦史では、第一次世界大戦後初めての無差別爆撃は、1931年10月旧日本軍による中国錦州爆撃とするものが多い;これをもって戦略爆撃の嚆矢とすると)。ゲルニカにしても錦州にしても、軍事施設・人員の被害はほとんど無く、被害者の大多数は民間人だった。ここに戦略爆撃に対する非難が集中する。人道に反すると。それでもトレンチャード・ドクトリンは空軍戦略の基本方針として墨守され、ドイツ空軍の台頭に合わせて、4発爆撃機開発が着手される。これがやがてバトル・オブ・ブリテン(英独航空戦)後の反攻時生きてくる(ドイツはこの戦略爆撃機開発に方針が定まらず、地上軍支援の域を出なかった)。
欧州の戦いが始まり、英独航空戦で軍事拠点攻撃の実効が上がらない(実際はボディブローが効きつつあったのだが)ドイツ空軍は戦術を都市夜間爆撃に切り替える(足の短い戦闘機しか持たないドイツは爆撃機援護が出来ぬため、夜陰に紛れる戦術をとる)。恐怖の夜が始まる。“やられたらやりかえす”これぞ典型的な戦時の英国国民性。やがて民意も復讐心で変じ、空軍創設の教義はその精神を離れ暴走していく。
1941年12月真珠湾攻撃で米国が参戦すると、米第8航空軍が1942年2月に編成され、7月には英国に進出する。当初英空軍はこの航空軍も自らの指揮下に置くことを望むが、その運用理念が論争を呼ぶことになる。英国がそれまで行ってきた“夜間無差別爆撃戦略”に対する拒絶反応である。これは米軍部以上に米国民世論に顕著だったようである。結局昼間精密拠点爆撃は米軍、夜間都市爆撃は英軍となり、ドイツの都市は昼夜を分かたぬ空爆に晒されることになる。米軍はこの“精密拠点爆撃”のためにノルデン照準器と言われる画期的な爆撃照準器(爆撃コースに入ると爆撃手がこの照準器を操作して爆撃機を操縦する。風速・風向、機速や高度の補正コンピュータ機能もある)を開発し、その改善効果を高く評価しているが、戦後の戦略爆撃調査団の分析(OR分析)では“精密”には程遠いものとしている(都市破壊と人的被害は凄まじかったが、標的破壊率は5%以下)。米軍もやはり“ばら撒き”だったわけである。とても英爆撃機軍団の戦術を非難する資格は無い。
翻って日米戦を見ると、B29による都市爆撃、原爆投下などに宗教的なあるいは人道的なモラルが作戦前に問われた形跡はほとんどない。焦土作戦に効果的な焼夷弾開発は関東大震災や英系損保会社(多分ロイズ)のデーターが利用されているほどである。
理念・教義に基づき粛々と計画・判断を進めることの重要性がある反面、状況とともにこの基本理念に対する見方・捉え方が変わることを見ると、決断の上位決定要素とは必ずしもなりえない。宗教から企業経営まで、環境に合わせて、理念・教義の見直し・修正が必要だと言える。
2009年6月28日日曜日
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