31.白浜観光-2 三段壁の次はその隣にある岩畳の千畳敷、これも日本の海岸に多い風物。方々にこの名をつけた観光名所が在る。初めて目にした千畳敷は、中学3年生の夏休み叔父夫婦に案内してもらった佐渡島尖閣湾のそれだった。初めて見る広々した岩棚に大いに感動し、その名を聞く度に思いは半世紀以上前に戻る。海岸ではない、秋芳洞や木曾駒ケ岳でも不思議に“千畳敷”はあの佐渡のイメージだ。今回も同じだった。
浜通りを中心街に戻り、ホテルの前を通り過ぎて今度は北に延びる小さな半島に向かう。そこには、温泉と景色(これは日本中何処にでも在る)を除く二つの観光スポットが在るのだ。一つは南方熊楠記念館、もう一つは京大水族館である。
海岸沿いの道は西側が海になるので午後も遅い今の時間は西日が強く、白浜のランドマーク、円月島の中央空洞部分が明るくなってちょっと凱旋門を髣髴させる。道路際で何人かがそれを撮影している。
最初に訪れたのは熊楠記念館。小半島の先端の小高い丘の上にある。駐車場は丘の麓にあるので上まで登らなければならない。あの時はどうだったのかまるで記憶が無い。あの時とは父の定年退官慰労のために両親を紀州へ招待した時、昭和40年(1965年)秋、のことである。熊楠を知ったのもこの時の父からである。用意していた観光案内書を見て「南方熊楠はここに縁があったのか!」と彼の人となりを語ってくれた。
熊楠を一言で語るのはきわめて難しい。強いて言えば博物学者、学問が細分化した今ではもうこんな学問領域は存在しない。植物学、菌類学、天文学、民俗学、鉱物学などで多くの成果を上げている。名前の熊楠は熊野本宮の熊とそのご神木、楠からきている。和歌山市で生まれ白浜に隣接する田辺で育ち、大学予備門(現東大;ここでは夏目漱石や正岡子規と交流)に進むが進級試験に失敗、退学後アメリカに渡り現在のミシガン州立大学で学んだ後、さらに英国に渡り大英博物館東洋部でスタッフ兼研究者として働いている。1900(明治33年;33歳)年帰国後は田辺に居を構え、紀州の山中で菌類の研究に励んでいる。滞米英時代に十数ヶ国語をマスター、幾つかの論文は英科学誌「ネイチャー」にも掲載されている。またロンドン滞在中知り合った孫文がこの地まで彼を訪ねてきたこともあるという。野口英世と並び、近代日本黎明期の科学界を代表する巨人と言えよう。
記念館は小さな三階建てのコンクリート製の建物。その中に熊楠ゆかりの品々が展示されている。中でも目を引いたのは中学入学前(10歳)に始め5年を要した「和漢三才図会(1700年代に書かれた百科辞典;オリジナルは105巻81冊)」の見事な書写である。小さな美しい筆跡と膨大な量に驚かれる。その後の活躍を見れば、これがただの書写だけではなく、内容も学びながらの作業であったと想像できる。
子規との交流の記録、英文誌の論文、孫文から贈られた帽子、研究に使った当時の顕微鏡、丹念に描かれた菌類の標本図。この好奇心、根気と集中力は紀伊半島の深い山々と関係があるのだろうか?未知の世界を切り開く猛烈なエネルギーの詰まったこの記念館に、もう一つの“坂の上の雲”を見た思いであった。
この丘(番所山)を下ったところに京大の水族館がある。白浜観光といえば必ず立寄ったところである。これは最後に観た40数年前とはまるで様子が違っている。何度か増改築されているようだ。もともとは研究用の水族館で対象は瀬戸内海や南紀の海洋生物が主体なので見世物としての面白みは無いが、イソギンチャクやヒトデなど無脊椎動物の宝庫であり、他の水族館には無い楽しみが得られる。昔は紀州の海に潜るとよく見かけるウツボが大量に居る水槽があったが、それは無くなっていた。最近は減ったのであろうか?
閉館少し前(5時頃)ここを離れたが、初夏に向かう陽光はまだ眩しかった。
(写真はダブルクリックすると拡大します)
2009年11月29日日曜日
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