2009年12月6日日曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(32)

32.白良浜と白良浜荘 “白浜”の由来は無論白い浜から来ている。40数年前も現在も白いのは白良浜(しららはま)と呼ばれる、紀伊水道に向かって西に開けた中央部分の浜だけで後は岩場だったり茶色い砂だったりで白い浜ではない。何故ここだけが白いのか?
 少し調べてみると、どうやら昔と今とではその白さの基が違うようだ。今日走ってきた中辺路から白浜に至る道は富田川に沿っている。この富田川の上流は砥石に適した砂岩の産地として有名だが、これは石英分を多量に含み流れの中で細かな白くきらきら光る砂に変じ、河口に堆積して白良浜が出来上がっていたらしい。
 しかし1970年代この川の町中を流れ海に至る部分を暗渠にしてからこの白い砂の吐き出し場所が変わり、浜は茶色に変色してしまう。そこで“白浜”を維持するために、白い砂をオーストラリアやニュージーランドから運んできて、いまでもそれを続けているのだと言う。
 ハワイ・オアフ島は火山島(黒砂)なので本来姉妹浜のワイキキも白い浜辺ではなかった。どこかから大量の白砂を運んできて今の美しいビーチを作ったと聞く。そちらのほうはそんな話を随分昔聞いていたが、こちらも同じ人工的な白浜であることを今回の旅で初めて知った。
 白良浜荘グランドホテルはこの白良浜の北の端にあり、湾曲した白い浜をその南端まで見渡せる絶好の場所にある。昭和の初めに開業し、関西有産階級ご贔屓の高級旅館だったが、戦後は一時期米軍に接収され、その後皇族方(昭和天皇を含む)もご利用になるような格式の高い特別な場所になっていた。工場では幹部がゴルフをするときに利用する程度で、一般社員が気楽に訪れる所ではなかった。一度あそこに泊まってみたい。そんなことを思い続けていたので、息子に頼んで彼の福利厚生プログラムを利用して予約してもらった。
 在和時代浜から遠望したそれは、小ぶりの2階建てだったと記憶するが、今では鉄筋コンクリート6階建てに変わっている。外見はハワイや沖縄のリゾートホテルに近い感じだ。
 玄関の車寄せにオープンで乗り付けるとアロハ姿の従業員が二人飛んできて、一人が荷物をフロントへもう一人が車を駐車場に運んでくれる。フロントの担当者もアロハシャツを着ている。これは後で知ったことだが、ホテル従業員のアロハ着用はこのホテルだけではなく、大方のホテルで採用しているらしい。町全体のリゾートとしての環境づくりの一環なのだ。しかし残念ながら期待した“格式”は感じられなかった。それは広々した、浜につながる明るいロビーも同じだ。かなりの部分はお土産物売り場になり、家族連れが浴衣に丹前スリッパで徘徊している。お客はよく入っているので、富裕顧客限定よりもこの方が商売になるのだろう(これも後で分かったことだが、昭和40年代半ば経営母体が変わり、いまではホテルチェーンの配下にある)。
 案内された部屋は5階の和室、オーシャンビューで白良浜が広縁から一望できる。まあこれが目当てだから良しとしよう。5月下旬は日も長く、まだ浜は眩しいくらい輝いている。ただその浜は何故か平らではなく、波打ち際に沿って円錐状の小山が何十個も一列に遥か彼方まで並んでいる。どうやらこの週末に行われる海開きのための準備らしい。これで砂の芸術品を作るのだ。
 3階の一角に在る大浴場はテラスに露天風呂があり、そこからは沈む西日で輝く大海原が見渡せる。心地よい潮風に当たりながら、熊野古道歩きの疲れを洗い流した。
 夕食はレストランで摂る方式。予約入れ替え制のここはほとんど席が埋まっていた。やはり客の入りはいいのだ。中高齢者のカップルが多い。自慢の和風創作料理は、飾りつけ・盛り付けは手が込んだ見事なものだったが、味の方は特に印象に残るほどでは無かった。
 夕食後、昔賑わっていた浜通りを散策してみたが、人通りは疎らで、往時のちょっと品の無い活気はまるで無く、コンビニの明るさだけが妙に際立っていた。

この日の走行距離は約120kmだった。
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