和歌山県は大別すると紀ノ川流域の紀北、海南から御坊辺りまでの中紀、田辺から新宮に至る南紀に分けられる。このうち南紀は全国ブランドと言って良いし、紀北は何と言っても御三家、紀州徳川家の本陣、地域名はともかくそれなりの存在感がある。行政・産業の中心は紀北、南紀には数々の観光スポットと温泉。それに比べるとこれと言ったランドマークの無い中紀は極めて地味な土地である。しかし、社会人としての一歩を踏み出し7年暮らしたこの地方には一入の思いがある。
5月23日(土)のこの地方の天気は晴れ。出発の朝の気分は、久し振りの故郷訪問に些か躁状態であった。ロビーのお土産物コーナーで、和歌山工場長を務めたこともあるOG君に5月のOB会で推奨された“柚子もなか”を購入し、フロントで道成寺の住所を確認、カーナビにそれをセットしてホテルを出発した。
42号線に取り付く温泉街からの県道は、嘗ては有料道路だったはずだが、今では一般道になっている。42号線に出ると、そこから新しい田辺バイパスが出来ており、それは阪和自動車道路の南紀田辺ICにつながっている。この道は初めて走る道だ。確りした分離帯の在る4車線の道は空いていて走りやすい。田辺の市街地をバイパスしたところで専用道路には向かわず42号線に下る。2車線の道は昔何度も走った道だが、歩道が整備されたり、両側の商店やオフィスは車でアクセスしやすい作りになっており、随分感じが変わっている。しかしそれらもやがて消え去り、左側に海を眺めながらのアップダウンに変わると、信号が増えた事を除けば40数年前の風景がそのままの姿をあらわしてきた。梅で有名な南部(みなべ)を過ぎると家並みも疎らになり、走る車も少なくスピードを上げたくなる。しかし、田辺の市街地を離れる際、自動監視装置が在りそれがチッカとしたような気がして自重する(あとで何も無かったところをみると、カメラ前部のガラスに反射する、センターラインの白い破線がそんな錯覚を起こさせたようだ)。
昔よく一休みした、海を望見できる切目崎には往時と同様ドライブインがあったが、建物は小ぶりになり駐車している車も無かった。時間帯(10時頃)もあるが阪和道が出来て、このルートをとる車が少ないのだろう。有吉佐和子の川三部作(紀ノ川、有田川、日高川)の一つ日高川の手前でナビが42号線を外れて右方向へ向かうよう指示してきた。昔とは違う道だが方向は感覚的に納得。御坊市はこの地方では比較的大きな街なので地方道が整備され、市街を通らず南からのショートカットが出来ているのだ。どうやら阪和道からのアクセス道路らしい。紀勢線を渡ると直ぐ道成寺の門前に着いた。駐車場には中型の観光バスが一台停まっているだけだった。土曜日でも午前はこんな調子なのだろうか?
門前の両側に並ぶお土産物屋や休憩所、寺へ登る石段は昔通りである。開店間際のせいか店の人もあまりしつこくないのが救いだ。山門の正面に在る本堂もそのまま、ここの回廊を巡りながら、名物和尚のユーモアたっぷりの“安珍・清姫”の話を聞かせるのがこの寺の売りであった。あの和尚はもう居ないだろうが、現在はどんな説明を聞けるのか、ここへの訪問を決めた時から関心はその一点にあった。しかし、どうも本堂の辺りに人の気配は無い。
山門の左手にはコンクリート製の朱塗りの柱を持つややけばけばしい建物があり、寺務所のような一角が在る。窓口で確認すると、そこは宝物殿で国宝のご本尊(千手観音)などが展示されており、定時毎に説明をするとのこと。観光バスで来た人たちと個人旅行者が数組、全部で20人くらいが11時前に集まったところで、二人の僧侶が入殿。一人が宝物に関する説明をし、しばし見学。この後隣の大広間に移る。ここには安珍・清姫にまつわる絵画や歌舞伎で用いた衣装などが展示されている。もう一人の僧が先ずこの寺のモットー「妻宝極楽」(主婦こそ家庭の柱)について説教し、これが済むと絵巻物(写本)を取り出してメインイヴェント、安珍・清姫の「絵とき説法」が行われる。話し方は淡々としたもので、あの時の見事な語り口は、残念ながら伝承されてはいなかった。
昼食を摂るには少し早い。中紀唯一の観光名所、道成寺の拝観を終え、次の訪問地湯浅へと向かう。
(写真はダブルクリックすると拡大します)
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