2013年1月27日日曜日

決断科学ノート-135(メインフレームを替える-29;教室に届いた電報)




1960年代以前入社の企業人にとって海外の大学に行くことはほとんど不可能な時代だった。唯一のチャンスはフルブライト留学制度を利用するものだが、合格率は優秀者が応募する中で200人に一人位と言われていた。私の知る範囲では東燃グループで一人しか知らない。企業がポツリポツリと米国のビジネススクールへ社員を派遣しだすのは60年代の後半からである。70年代半ば同期入社のFJMさんがスタンフォード大のMBAに行くことになるが、これが東燃グループ企業派遣の第一号である。彼の場合は正規の長期コースで、これは要職の地位にある者が出かけるには業務に支障も出ることもあり、継続されることはしばらくなかった。代わって毎年1ヶ月強から3ヶ月くらいの企業向けコースへ2,3人の古参課長クラスが派遣されるようになる。派遣先は当初、コーネル大、ピッツバーグ大、スタンフォード大だったが1982年からカリフォルニア大バークレー校が加わっていた。私が参加したのもこのプログラムである。
選考基準が厳密に定められていたわけではないが、前後の派遣者を見ると部長資格を得た者の中から、人事が候補者を選んでいたようである。この年の初めこの資格を得ていた私に話があったのは2月頃だったように記憶する。当時はまだ次長だったMTKさんから「人事から話があったからOKしておいたよ」と告げられた。TTECシステム部での外販ビジネスの立ち上げ、昨年秋から本格化し始めた次期MFシステム検討、と重要業務案件が続く中で「果たして出かけられるだろうか?」と自身半信半疑だった。不安は的中。NKH常務に次期MF導入の稟議書承認はもらえぬまま、MTKさんに背中を押され、中途半端な気分でバークレーに向かった。
参加した企業上級管理職向けコースの副題は“米国企業を如何にRevitalize(再活性化)するか”と名付けられていた。今年の参加者は20名(米国人13、外国人7;サウジ2、イスラエル、英国、デンマーク、豪州、日本)。日本人は私だけである。MBAといえば企業経営事例を素に授業を進めるのが標準だが、ここのコースは少し変わっており、種々の角度(国際関係・安全保障、政治、行政、科学、文化、金融財政など)からの講義とディスカッションが中心。この時代は、何度も言うように「Japan as No.1」(この本も教材の一つだった)の時代。やたらと日本が取り上げられ、その都度コメントを求められるのだが、正規に英会話を学んだのは4月から8月までの僅か4ヶ月、それも週3コマ程度だったから、何を聞かれているのかさえ定かではない。クラスメートの助けを借りながら、何とか授業を凌ぐ毎日だった。
様子が変わったのはコース日程の半ば頃である。日本の産業政策研究の第一人者で、「MITI and the Japanese MiracleThe Growth of Industrial Policy 19251975」(邦訳 通産省と日本の奇跡)の著者、チャーマーズ・ジョンソン教授の授業だった。生徒の一人であるIBMからの参加者が「日本における第5世代コンピュータ開発・研究について教えてください」と質問した。教授は「彼にやってもらう方が良いだろう」と私を指差した。止むを得ず、白板を使って、第5世代コンピュータに関わる役所・業界・学界の関係を図示しながら解説した。終わると教授は「これ以上の説明は無いよ」とコメントしてくれ、クラスメートの拍手喝采を浴びることになる。
こんな日々の中で、休み時間に、コース担当の黒人女性秘書、Bettyが「ウェスタンユニオン(電信・電報会社)からHiro(私)に電報が来てるわよ」と黄色地の紙を渡してくれた。それはMTKさんから私に宛てられた電報で、「次期MF稟議書の最終決裁がおりた。心配せずに確り勉強に励んでくれ」(英文)と言う内容だった。電話とファックスが一般的な遠隔地間コミュニケーション手段だった時代、電報はかなり珍しくなってきていた。「何があったんだ!?」とクラスメートの何人かが寄ってきた。その中には前出のIBMの男もいた。紙をサッと畳んで「コース終了後の米国旅行に関することだよ」とごまかした。
「それにしてもどうやってNKHさんの承認を取り付けたのだろう?」

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(次回;捨て身の稟議書承認)

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