翌2005年6月にも次女を訪ねて訪韓した。前回は私がJHと会っている間(三家族会食の翌日)、家内が市内ツアーに参加した程度だったが、今回は観光目的である。板門店、慶州なども訪れ、韓国版新幹線も試すことにしていた。これらは横河韓国を通じて旅行社を紹介してもらい準備した。ホテルは繁華街にあるチョースン(朝鮮)・ホテル。クラシカルで落ち着いた雰囲気が良い。
ソウル到着の夜、ホテルにJHが訪ねてくれ、コーヒーハウスでこの一年の変化など話し合った。最新IT(通信を含む)の話題を講演などで提供し、具体的な関心を示す潜在顧客と韓国や日本のメーカー(NTTなどを含む)とのマッチングの機会を作る。プロジェクトが動き出すとどちらかのコンサルタントを務める。これが彼のビジネスモデルなのだ。こうして最近のビジネスが中国やモンゴルに向かっていること知り、その発展振りに「この身体でよく頑張るなー」と、あらためて彼のヴァイタリティに感じ入った。
話がオフビジネスになり、今回の観光に及んだとき、1989年二度目の訪韓の際初めて訪れた慶州の話になった。コンプレックス(石油・石油化学複合工場)の在る蔚山から慶州に行き一泊。翌日慶州観光をした後釜山に出て帰国する旅を、全てJHにアレンジしてもらったのである。オリジナルプランは全ての移動をタクシー(慶州観光とそこから釜山までは日本語が話せる)で行うことになっていた。しかし、当日になってJHが慶州まで自分の車で送ってくれることになり、夕刻彼とした1時間強のドライブを懐かしく語り合った。
話は転じて日本の韓流ブームから当時話題になっていた韓国のエンターテーメントに及んだ。娘から「今ソウルでは「ナンタ」と言うミュージカル(?;出演者が包丁で俎板をたたきながら演ずるパフォーマンス)が人気」と言う話を聞いていたので、その話をすると、「あれは大人気だ!観たいのか?予約しないと観られない。いつがいいのか?」と畳み込んできて、二、三電話をすると「予約が取れた」と当日窓口で告げるべき予約番号をメモしてくれた。このサービス精神、アクションの速さが人脈作り、ビジネスに生かされていることは間違いない。
こんな会話の最後は家族、特に子供たちに関するものだった。初めて知り合ったとき、末っ子の次女は10歳、彼の二人の子(姉・弟)はまだ就学前。「大きくなったらホームスティさせよう」などと話し合ったこともあった。それは実現しなかったが次女は韓国の大学で学んでいる。「あなたの影響に間違いない!大変嬉しい!」 この言葉には、日韓の歴史問題を乗り越える何かが確実に存在する、と感じさせる一言だった。
一昨年秋、突然彼からメールが飛び込んできた。「仕事で近く訪日する。是非会いたい」と言うものだった。出来たら我が家に招待したい気分で歓迎の返信をした。残念ながらビジネスの都合が変わりこれは実現しなかった。中止を伝えるメールには、それでも嬉しいニュースが加えられていた。「信じられるかい?!僕は祖父になったんだ!」と。
昨年義父母が亡くなったこともあり、海外の友人宛年末年始の挨拶状も欠礼した。代わりに我々夫婦と二人の孫の写真を添えて近況報告のメールを送った。先月着た彼からの返信メールには「信じられるかい?!僕も二人の孫を持つことになったんだ!」と二葉の可愛い孫(女・男)の写真が添付されていた。
三代目の交流が出来るまで長生きしたいものである。
(“ハンディキャップを超えて;韓国”の項 完)
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