2013年4月19日金曜日

遠い国・近い人ー23(友朋自遠方来 不亦楽乎ー4;シンガポール)



インドネシア行きの後も、1991年オーストラリアのアデレードで開かれた富士通の世界ユ-ザー会参加の際、途上シンガポールを訪問している。目的は情報サービス・ビジネスの情報収集を兼ねて当時出来たばかりの東燃シンガポール事務所を訪れることだったが、一夕It Chengとも会食した。この時の雑談で私の将来について夢を語った。それは60歳前後で独立し、シンガポールにオフィスを開いて、石油精製・石油化学のITコンサルタントをやりたいと言うものだった。この話を聞いた彼の反応は「いつから始める予定だ?出来るだけ早くできるといいが・・・」と言うものだった。どうやらエッソ・シンガポールの仕事・処遇に満足していないようにとれた。
今でも十数人の海外の友人たちに近況を伝える手製の年賀状を送っている。It Chengからは旧正月頃に必ず返事が来て、家族や仕事のことが手短に書いてある。1993年の手紙に「エッソを退職し東レデュポン(シンガポール)に移った。ここのところ米国への出張が多いが、日本に行く可能性もありそうだ」と伝えてきた。しかしなかなか来日のチャンスは来なかった。
19943月、次女の高校入試が終わり、長女は大学生、長男は4月から社会人。私自身は頻繁に海外に出ているものの、家族全員揃って海外旅行などしたこともない。この春休みが唯一のチャンスかも知れない。幸いSPINの経営は順調。株主総会前に出かけよう!こう思い立ってマレーシア・シンガポールの旅に出かけることにした。It Chengに連絡したことは言うまでも無い。「家族で交流するなんてエキサイティングだ!」と喜んでくれた。
日本の3月はまだ寒い日もある。コート類は成田で預けて南国へ向かった(今年2月来日した彼らは、逆だから自国では必要の無い冬着でやってきた)。
旅程は帰りの夜行便1泊を含め67日;先ずクアラルンプールへ飛ぶ。夜現地に着いてみて分ったことは、ツアーメンバーは我々家族だけだったことだ。ガイドを含め6名、移動はマイクロバスで充分。クアラルンプール観光一日(2泊)、次の日は高速道路を利用してマラッカまで(1泊)、そこから鉄道でジョホールに向かう。ジョホールからは徒歩でシンガポールに入国。するとそこにまたマイクロバスが待っている。シンガポールのホテルは“リージェント”、オーチャード通りの北に在るが、シャングリラがやや東にあるのに対してここはやや西にある。最初の晩は他の日本人ツアー一緒にマンダリンで夕食だったが、次の夜はCheah一家とのディナーなのでツアーの食事はパスした。
夕方家族と伴にクルマでホテルにやってきたのは、It Cheng、夫人のRuby、一人娘のJiaying(小学生)の3人。夫人はシンガポール大学出の才媛で国立図書館の司書(因みにIt Chengはインペリアル・カレッジ(ロンドン)で化学工学を専攻)。一台のクルマに全員は乗れないのでタクシーにも分乗して向かったのは、チャンギー空港から市内に向かう海岸道路沿いにあるシーフードレストラン。中華スタイルの海鮮しゃぶしゃぶのような料理を皆で楽しんだ(It Chengは酒を飲まないので飲んだのは私一人)。双方の子供を交えた外国人との交流は今まで経験したことがなかったが、歳の差はあるものの何とかコミュニケーション出来ており、楽しい時間を過ごすことができた。
翌日は夜行便なので遅いチェックアウト。ツアーの夕食は空港のレストランに用意してあった。風邪気味だった次女は体調不良で夕食はいらないと言う。送りに来てくれたIt Chengが彼女の相手をしてくれた。彼女のアジア人好きはこの時のIt Chengの気遣いが影響しているのではないかと思う。

(つづく)

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