2013年4月11日木曜日

遠い国・近い人ー22(友朋自遠方来 不亦楽乎ー3;シンガポール)



1984年のシンガポール行きは1975年以来9年ぶりだったからその変容は顕著だった。前回は港湾地区とオーチャード通りを除けばそれほど高層建築は無く、古いチャイナタウンやマレー人居住区がまだそここに残っていた。今回はさすがに駐車場に屋台が並ぶ“カーパークレストラン”は消え失せ、僅かに面影を残すのはニュートンサーカスの屋外レストランくらいだった。そんな所を楽しむのは専ら外国人ばかり。ある一夜池田さんも含め食べかすを地べたに蹴散らかしながら異国情緒を楽しんだのもRCAの想い出である。どうもシンガポール人はそんな場所を恥部と見ているふしがあった。
RCAの公式ディナーは高級インド料理店で開かれた。夕刻三々五々集まったメンバーにはインド系の人も居る。何やら彼らが落ち着かない。It Chengに「何かあったのか?」と問うと号外のような新聞を見せてくれた。そこに書かれていたことは印度首相“インディラ・ガンジー”の暗殺である。本来は賑やかなパーティもお通夜のようだった。
19855IBMの依頼でジャカルタのセミナーでACSAdvanced Control SystemIBMExxonが開発し東燃が日本で始めて導入した、高度プラント制御システム)に関する講演を行った。翌年の年賀状でそれをIt Chengに伝えたところ「何故シンガポールに寄ってくれないのか?次回は是非!」との頼り。残念ながら直ぐにそのチャンスはやってこなかった。
19857月に東燃情報システム部がシステムプラザとして分社化し、東燃グループ外部へのビジネスを手がけ始めていた。その中にはシンガポール製油所へのACS導入支援もあり何名かの技術者が長期出張していた。1987年横河電機からインドネシアの国営石油会社プルタミナの製油所診断の仕事が舞い込み、私がそれに当ることになった。長期出張者の状況把握・慰労や顧客である製油所への表敬も兼ねて、ジャカルタへの途上シンガポールに数日滞在し、It Chengと再会することにした。
淡路島ほどの島国、工業用地は限られ、エクソンもシェルも製油所は本島周辺の小島に在った。エクソンの製油所が在るのはチャワン島、専用通勤フェリーで渡るのだ(現在は全て橋で結ばれている)。先ずIt Chengのオフィスを訪問、製油課長だが広い専用オフィスに専任の女性秘書も居る(この辺りの処遇はこの後訪れたインドネシアや、後年訪問したロシアなども同じであった)。日本の課長職とは大違いだ(韓国は日本スタイル;課長は一般従業員と同じ大部屋)。
この時はIt Cheng表敬訪問の他、長期出張者との懇談、工場見学、夜はIt ChengEREからの派遣者を含めた懇親会などで過ごした。It Chengの話で印象に残るのは、私がこれからインドネシアに行くと言うと、チョッと眉を顰めて「ジャカルタは汚い!食事には特に気をつけるように!」とコメントしてくれたことである。直後にジャカルタを訪れた時、クリーンな都市国家に変貌し、海外にもそれが知られるようになったシンガポールから見る彼のコメントに納得した。しかし、饐えた臭いのする裏通りは西欧人を含む外国人で賑わっており、その光景は1975年のシンガポールのチャイナタウンやインド人街を髣髴させるものだった。
横河の仕事は11月にもあり、この時は帰路シンガポールに寄ってIt Chengと会食「確かにジャカルタとシンガポールは清潔さでは段違いだね」などと語り合った。

(つづく)

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