2012年2月7日火曜日

遠い国・近い人-17(ハンディキャップを超えて-5;韓国)



オリンピック後の韓国は日本がそうであったように、急速な経済発展段階に入る。それに伴うエネルギー需要の伸びで、蔚山コンプレックスも建設に継ぐ建設が続いていた。TCSの順調な導入後も、この新増設と併行してIT利用の機運は益々高まり、訪韓の度に日本の実態を紹介するよう求められる。生産計画・スケジューリング、受注出荷管理、在槽管理、品質管理、設備管理さらには当時日本でも開発途上にあったCIMComputer Integrated Manufacturing;製販一体システム)にまで及んだ。
こちらにとってもビジネスチャンス、1989年には大掛かりな設備保全管理システムの開発を受注する。このプロジェクトは単なるソフトウェア開発だけではなく、設備保全の仕事そのものを再設計することを含むので東燃テクノロジー(TTEC)との共同プロジェクトとなった。これが実現したのもJHが安常務理事(本社)や崔常務理事(蔚山)に高く買われていたことが決め手となっている。このプロジェクトが終わるとJHは本社情報・通信企画部長に栄転する(93年)。
この少し前から安さんはSPIN経営に強い関心を示すようになっており、しばしば彼の個室で情報サービスビジネスについて意見を交わすようになっていた。あるとき「今日は専務と会ってくれ」と言われ、後に社長になる総合企画室長の趙圭郷専務理事(元空軍将官、私より2歳年長)と三人で話すことになる(90年)。趙専務は「若い人(安さんとその部下の意)が情報ビジネスをやりたいというんでね」と日本語で切り出した。直ぐに子会社がスタートしたわけではないが、安さんのこの分野への思い入れが一方ならぬものであることを理解した。
さらにその後、JHは間もなく本社へ移るという趙政男理事に同道来日、川崎工場・SPINを訪問し情報交換の機会を持つことになる(91年)。92年に訪韓した際にはこの趙さんは専務理事の趙さんが務めていた総合企画室長の後任になり、やがてSKグループが国営の韓国移動通信(現SKテレコム;韓国最大の携帯電話会社)を買い取ると(97年)副社長→副会長と通信ビジネスに重要な役職を占めていくことになる。つまりこの時期(90年~93年)安さんのみならず油公(そしてSKグループ全体)が真剣に情報・通信ビジネスを模索していた時代だったのである。
94年先ず油公の子会社としてYC&CYukong Computer & Communication)が設立される。安さんは本社常務理事のまま社長に、JH他のメンバーも兼務でここに席を移した。新社屋に安さんを訪ね意外に思ったことは自社ブランドのPCを販売すると言うことであった。ハードの量販は在庫など経営リスクが大きくなるからだ。
YC&CはやがてSKグループ全体の情報・通信サービス会社に変じ名前もSK C&Cとなる(97年)。自社ブランドのPCは全く話題にならなかった。JHはここでネットワークや通信ビジネス(移動通信サービスを除く)の本部長に昇進、オリンピック後の新ビジネスセンター、江南のPosco(浦項製鉄)ビルにオフィスを移していた。しかし生みの親とも言える安さんの姿はそこには無く、SKグループ第二の柱となるSKテレコムの技術開発本部担当専務に転じていた。JHに連れられソウル大学近くにある郊外のオフィスを訪ねると、暖かく迎えてはくれたが何か引っかかるものがあった。これが安さんとの最後の面談であった。
99年横河グループ入りした後、初めてJHSPINを訪れたとき安さんに話題が及ぶと「彼はハッピーではないんだ」との答えが返ってきた。どうやらYC&Cの経営は上手くいっていなかったようだ。
この後しばらくして韓国は財政破綻で経済は混乱、SKグループも大幅な再編成を余儀なくされることになる。
(つづく)

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