2013年5月7日火曜日

遠い国・近い人-25(友朋自遠方来 不亦楽乎-6;シンガポール)



1997年に入ると、東燃経営へのエッソ・モービル(合併前;EMと略す)の考え方がはっきり変わってくる。新規事業や子会社を整理し、本業回帰の石油精製・石油化学に注力すべきだと言うのである。
私が経営責任を負っていた東燃システムプラザ(SPIN)は順調に業容を伸ばしていたし、グループ内依存の割合は着実に減ってきていた。大株主であるEMはそれまで“グループだけに依存しない”、“グループ向けサービス価格は市場ベースであること”を求めており、この要求はクリアーしていた。経営計画で2000年を目標とした(店頭)株式公開もトンネルの先に明かりが見えてきていた。しかし、この“株式公開目標”が“本業には不要”と解釈され、SPINの整理が密かに検討され始める。結局翌19985月横河電機に株式が譲渡され、100%横河電機の子会社となった。
1999年の年賀状でそのことをCheah(謝)家に伝えると、旧正月に二つの話題が記された賀状が届いた。一つは夫人のRubyが癌にかかり手術をし、経過は良好であること。二つ目は、東レデュポンに移ってから業界の規格委員会のメンバーになり、今年は東京でその関係の会議・セミナーが開催されるので出かける計画がある、と言うものだった。
今回It Chengは夜も会議参加者などとの付き合いがあり、ユックリ食事を伴に出来ないようだったので、6月初旬来日すると、昼の休憩時間に会議会場(機械振興会館;東京タワー下)に彼を訪ね、大学生になっていた次女も同席して東京プリンスホテルでランチを摂りながら家族や仕事の近況を話し合った。かつてエクソン・グループの仲間として知り合った二人は、15年経て共通の企業基盤は無くなったものの、話の材料はいくらでもあった。
横河グループ入りしたSPINの役割は、そのユーザー・バックグランドを生かして、1997年横河がぶち上げた新経営戦略;ETSEnterprise Technology Solutions)と呼ばれる、IT利用による顧客(主に装置産業;石油・化学・食品・薬品・紙・鉄鋼など)への問題解決サービスの提供であった。国内市場で始めたこのサービスを、次は東南アジアでも展開したい。横河のその地域の拠点はシンガポールに在るので、20001月そこで社内向けにSPINとそのサービスを紹介するセミナーを開催することになり、私が出かけることになった。It Chengに連絡したことは言うまでもない。
地元シンガポールのほか、タイ、マレーシアから十数名のスタッフが集まり、全体セミナー、個別案件相談など三日間を彼の地で過ごした。夜の会食もメンバーと伴にしたが。最終日の夜だけはこちらの願いを聞いてもらい自由行動を許してもらった。
今回ホテルに車で迎えに来てくれたのはIt Cheng一人、Rubyは別の予定があると言う。案内してくれたのは1994年両方の家族で会食した島の南岸を走る高速道路沿いのシーフード・レストラン。彼もそのことは承知していて「同じだが、自分たちが一番好きな食事処だから」と説明してくれた。仕事に追われた毎日のあとにはカジュアルな感じで、地元の家族が集う、こんな場所がこちらにとっても有り難かった。残念なのは彼が酒を飲まないことである。
話はいつも仕事と家族。特に今回は一人娘のJiayingがテーマ。「Jiayingはどうしている?」 例年なら年賀状が近況を知らせてくるはずだが、この時は旧正月前なので彼女の不在が気がかりだった。私の質問を待っていたように「Jiayingはインペリアル・カレッジ(ロンドン)に進学したんだ。それも化学工学だよ!僕と大学も専攻も同じなんだ」受験生を抱えた親の気持ちはどこも同じ、この時ほどそう思ったことはない。
帰途「ちょっと家に寄っていこう」と今まで行ったことのない地域に向かう。シンガポールの一般的なビジネスマンは高層のアパート団地に住んでいる人が多いのだが、彼の住まいは、静かな環境で家も二階造りのコンドミニアムである。Rubyは帰っていないようだがが、どうも人の気配がする、お茶を持って来てくれたのは住み込みのメイド、フィリッピン人だと言う。エリート階級なのである。
その後、賀状やメールのやり取りは続いた。一昨年の大震災後も直ぐに見舞いのメールがきた。そして今年2月、13年ぶりに会うことになる。

(つづく)

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