Letter from Lancaster-17(現地発最終版)
2007年9月16日
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前報でお知らせしましたように、既にフラットからの退居日を決め、帰国準備を進めています。まだ、3週間以上ありますが電話料金を完納していきたいので、20日で電話使用を停止します。そんなわけで、毎週お送りしてきた本レポートの送付を、本報をもって“現地発最終版”とさせていただきます。最終版は帰国後あらためてお送りする予定にしておりますが、一ヵ月後くらいになります。悪しからずお許しください。
この報告は、ビジネスの世界を去るに当ってお世話になった方、また渡英に際してご支援・ご助力いただいた方、壮行会をしていただいた方々を中心にお送りしてきました。本来、自分の滞英記録を残すことを主眼に始めたものですので、整理が行き届かなかったり、個人的な興味が先走ったりし、独断や偏見を書き連ねたり、ジャンクメールに近いものを一方的にお送りしてきたこと、深くお詫びいたします。
ランカスターという、日本社会とは隔絶した地に在って、孤独な時が長かった私にとって、このメールは“生命線そのもの”でした。いただいたメールは300通以上になります。励ましのお言葉、国内情報、滞英生活に関するご助言など、いずれもこちらでの生活を、活力を持って進めていくために欠かせぬ貴重なものばかりでした。深く感謝いたします。
当初予定していた、正規の研究員としての英国生活は、研究者ビザ取得不可と言う予期せざる出来事で急遽個人研究に変更、背水の陣で乗り込む結果になりました。しかし皆様の温かい励ましとKirby教授の好意もあり、勉強も私生活の方も充実した時間を過ごすことができ、期待以上の成果が上がりました。現段階は、日本では得られない多くの食材を得た段階で、これをどんな料理に如何に仕立てるか?まだまだ課題は山積みで、今後も変わらぬご支援・ご指導を賜らなければならない状態です。どうか、これからもよろしくお願いいたします。
研究は、“公刊 空軍OR史”の調査をやっと終えました。以下がその概要・成果です。
①とにかく夥しいOR適用が空軍全域(兵種、地域)で行われている(特に、1943年以降)
②OR適用にネガティブな印象を今まで持っていた、爆撃機軍団も広範に利用している。ただ、他の軍団(戦闘機、沿岸防衛)に比べ、戦域が完全に敵国内となるため信頼性の高いデータ・情報が得にくかったので、中核任務(爆撃戦略)への適用が遅れたとしている。
③OR適用のために、前線部隊にORS(OR Section)がそれぞれの参謀部内に設けられるのだが、人材難で要請に応えられない状況が生じている。
④仕事の内容は圧倒的に現場レベルの戦術的なものが多い。つまり、兵器の稼働率、信頼性、精度向上、それにレーダーを中心とする新兵器操作教育などである(適正人材の選別法などを含む)。
⑤最前線部隊の戦術支援では、実戦に同行することも多く、ノルマンジー作戦では上陸後7日目に連合軍司令部付きのORSも大陸に渡り、ドイツ軍の反攻で戦闘に巻き込まれるケースも出ている。
⑥全般にORSからの改善提案は、上層部(空軍省、空軍参謀本部、軍団司令部)と最前線部隊には好意的に受け入れられる傾向があるが、Senior Staff Officers(中堅参謀;軍学校出身者と推察される)層には「アドバイザーが指揮を執るのか?」と批判的な空気もあった。
⑦当時の最上級指揮官たち(空軍参謀長、各軍団長等)のORSに対する、戦後の評価が出ているが、皆ORとORSの貢献を極めて高く評価しており、将来ますます重要性が高まるとしている。
⑧意外だったのは、爆撃軍団長アーサー・ハリスが最大級の賛辞をORSに与えていることである。インターネット普及の初期、英OR学会のホームページに初めてアクセスした時、ORの紹介にチャーチルの言辞が紹介されていた「ORを何故適用しようかと思ったかって?ハリスが反対したからさ」と。今までORの起源を追ってきても、爆撃機軍団は消極的な印象を拭えなかった。その因はハリスにあると思っていたが、②で見るように、適用環境が他軍団と違うことが遅れの原因の一つであることも分かってきた。では何故ハリスは悪役にみられているか?これは多分彼個人のキャラクターと爆撃戦略思想(夜間都市無差別爆撃の積極推進者)から来ているのではないかと思い始めている。
⑨沿岸防衛軍団長も務めたジョン・スレッサー大将の評価は興味深い。ORSを称えた上で、特に科学者が重要な戦略決定の場に不可欠になってきているとしながら、「科学者を司令官と置き換えることは出来ない。“スライドルース(計算尺)”で戦略は作れない。高度な戦略策定能力は“長年の戦略思考習慣と実戦の経験”から生まれる」としている点である。
昨年出版された本で、著名な経営学者、マッギール大(カナダ)教授、ミンツバーグが書いた「MBAなんか要らない」(邦訳;日経BP)は、既存のMBA教育を痛烈に批判している。それは実務経験の無い学部卒を、ケーススタディーと分析手法で、いきなり管理者に仕立てる点で、種々のデータを使って現状のMBA教育の問題点を指摘している。彼は、高い経営能力は、“経験とそれに培われる感性(経営センス)そして論理・手法”のバランスによって齎されるとしている。
両者の考えに共通性があることを知りえたのは、この資料研究最大の成果といえる。
今回のご報告は、当地を去るにあたりこの地で感じた三つの事柄を<滞英雑感>と題してお送りします。
<滞英雑感>
1)遊学
研究者の身分は、渡英直前突然消えました。無論留学生ではありません。仕事で来ているわけでもありません。旅行者?近いかもしれませんが、ほとんど旅行はしていません。入国に際してもこれで苦労しました。いったい私は何なんだ?深夜、独りきりになり、ぼんやりしているとよくこんな自問を発しています。
そんなある夜、フッと湧き上がってきた言葉が<遊学>です。既に死語に近い言葉ですが、私たちが高校生ぐらいまでは比較的目にしました。“欧米に遊学す”などと、有名人・政治家の経歴などに記されていたのを記憶しています。子供心に“遊学って何なんだろう?何か格好いいな!”と思ったものです。今ならさしずめ、然したる目的も無く海外を放浪したり、語学留学などと称してダラダラ海外で遊び暮らしたりしているような状態と同じようなものだったのでしょうが、明治・大正(昭和初期でも)では海外へ出かけられる人など限られていたので、こんな言葉が堂々と通用したのでしょう。もっとも、欧米に“追いつくこと”が全国民の願いだったような時代ですから、遊びばかりでなく“仕事・職業”に関わる見聞を広める目的で送り出された人も決して少なくなかったので“学”の重みもそれなりに有ったとも言えます。
私は此処に、何か役割や具体的成果を課せられて来ているわけではありません。“ORの起源を学ぶ”と説明しても「いいご趣味ですね」という答えが返ってきます(外国人ですらそう言う)。つまり客観的に外から見れば、自分では今までに無く勉強していると思っているのですが、英国に“遊びに来ている”一年寄りにすぎません。<遊学>は今の自分にピッタリの言葉であると思うようになってきました。これから人前で話したり、書き物を出すようなチャンスがあったら、“英国に遊学”と自己紹介してみようかな?などと考えています。
母方の祖父は、明治の一桁生まれで東京育ち、西銀座に今もある泰明小学校から府立一中(現日比谷高校)を経て慶応に進んでいます。家は築地の商家で、大学卒業直前に親が亡くなり、まとまったお金が遺産として配分されました。長男ではない彼は、それを元手に卒業を待たずアメリカに渡ったのです。もともと新しモノ好きの性格だったようで、慶応時代は野球部に所属し、その時チームのメンバー全員で撮った写真が我が家に残っています。明治の半ば、まだ維新の余波の残る時代、文明開化の日はやっと東の空に昇り始めた時期です。大学をなげうってアメリカ行きを決断させたものは何だったのか?
母は彼の長子、結婚が遅かった彼は40を前にして初めて子供を持ちました。大層彼女を可愛がり、すっかり自分好みのモガ(モダン・ガール;これも死語ですね)に仕立ててしまいました。認知症になっても、祖父に連れられて行ったレストランや銀ブラの楽しさだけは忘れず、同じ話をいつもしていたものです。母にとって、理想の男性は祖父だったと思います。その思いを彼女は確り私に刷り込んでいったのです。
私は母にとって長子、祖父にとっては初孫です。彼に可愛がられた記憶が、微かに残っています。母親の影響は絶大です。やがて、私も祖父を理想の男性像と思い始めていました。
彼がアメリカから帰国し、結婚するまでの経緯は、私には断片的にしか分かっていません。日露戦争に中尉として従軍していること、(多分アメリカ暮らしの経験を生かして)貿易商社に勤務していたこと、この時代に結婚したこと、やがて独立して自分の会社を持ったことなどです。
長じて、祖父のアメリカ行きとそこでの生活を無性に知りたくなりました。母に、何故出かけたのか?何処に行ったのか?何をしていたのか?を何度も問い質しましたが、家庭人としての祖父については嫌と言うほど語る彼女も、彼のアメリカ生活については全く知らず、「遊んでたんじゃないの?」しか返ってきません。
19世紀末・20歳前半の<遊学>、21世紀初め・70歳代目前の<遊学>、まるで次元は違いますが、此処に居て、祖父の知られざる過去に近づいているような気分がしています。間もなく当地で、3世紀に跨る二人の<遊学>を繋いでくれた母の3回目の命日を迎えます。
2)英国の英語、そして日本人の英語力 「イギリス英語分かりますか?僕はぜんぜんダメでした」アメリカ留学で博士号を取得した学会の先輩Uさんからのメールです。クウィーンズ・イングリッシュが独特(これが正規なわけですが)のイントネーションをもつことは気がついていました。いつかは英国に行く。そんな思いは随分前からあったので、会社で準備してくれる英会話教室で、個人レッスンが可能な時にはいつも“英国人”を頼むようにしてきました(実は、必ずしも希望通りいかず、カナダ人やオーストラリア人になることも多々ありましたが)。その努力(?)の甲斐も無く率直に言って日常会話に苦労しています。
40の手習いで始めた英会話能力は決して高くなく、“英国以前の問題”がはるかに大きいこともありますが、ときどき“全く分からない”状態にすらなります。こういう状態になる相手のしゃべり方は、よく例に出る、クックニー(ロンドン下町訛り;典型的なのがAを“アイ”と喋ります。マイフェアーレディーで、下町育ちのイライザをレディに仕立てるために、喋り方のレッスンがあります。「The rain in Spain mainly rain in a plain」を何度も繰り返し“a”の発音を直していくところは、ミュージカルの主題歌の一つになっていますね)ではありません。ここではそれは無いような気がします。フランス語の発音とやや近い、鼻音を使うしゃべり方(これがクウィーンズ・イングリッシュの最大の特徴ではないかと思っているのですが)で分からないと言う訳でもありません。分からないのは、アクセントの強弱(特に強)が極端で、しゃべりの流れが断続的に聞こえるような時です。特に女性に多いような気がします。Mauriceとの会話は、いままで他の外国で経験してきた程度の分からなさです。不動産屋の担当者や、ジェフとの会話も特別不自由を感じず何とかやってきました。BBCを観ていている時も大体アメリカ程度の理解ですからこれもそんなに変わりません。ダイアナ妃10回忌でヘンリー王子がスピーチをしましたが、理解し易い英語でした。
この妙に強弱が極端で、細切れにしたような話し方は何処から来るのかわかりませんが、結構多くの人が喋っているように感じます。電話でこれだと全くお手上げです。
分からないといえば、我が家のTVにはBBC Walesが入ります。これはウェールズ語で放映されています。全く!100%分かりません。以前出かけたエジンバラで、バスの後部に座っていた若者たちが話していた言葉も全く分かりませんでした。多分スコットランド語でしょう。ランカスターからスコットランドは間近です。西海岸ですからウェールズとも繋がっています。何か関係があるんでしょうか?
英国の英語は階級によって違うという話もあります。どうもあのやや鼻にかかる発音は本来上流階級の喋る言葉だったようです(サャッチャー女史は商家の出身、話し方を上流階級風に見事に変えたといわれています)。では、ぶつ切りで躓いたような喋り方はどんな階級の言葉なんでしょうか?羊や牛を追い回しているとあんな喋り方になるのかな?などとも思ったりします。
日本の国際化(他国との関わりの深まり)が語られる時、いつでも“英会話力”が話題になります。ここではあまり国と国のレベルや企業のビジネス関連ではなく、個人レベルに近いところで外国語問題を考えてみたいと思います。
「ピストルを頭に突きつけられて覚える外国語」と言う表現が、ヨーロッパにあります。「おまえはドイツ人なのか?(ドイツ語)」「???」バーン!これで終わりです。生き残るためには先ず問いに答えられなければなりません。戦乱の絶えなかったヨーロッパでは始終国境も変わります。難民も発生します。生き残るための必要条件は他国語を話せることでした。
この国に来てインド系の人が多いことは想像以上です。私の隣家もそうです。小学校低学年の男の子が一人、家族の会話は英語です。BBCのキャスターやTVの対談者にも沢山インド系の人が出てきます。大英帝国の支配した時代、そして今でもましな生活をしようと思えば、英語修得が不可欠なのでしょう。
初の海外出張は1970年6月エクソンのエンジニアリングセンターでした。出張の話が突然出て、出発まで2週間でした。それまで英会話をきちんと学んだことはありません。ニュージャージーのセンターで、打ち合わせが始まりました。会議を主宰していたエンジニアが、途中で「他の外国語を話せるか?」と聞いてきました。「ドイツ語は?フランス語は?」 あまりに酷い英会話能力の欠如に、助け舟を出したつもりだったのです。彼の名前は、アラ・バーザミアン。典型的なアルメニア人のファミリーネームです(ミコヤン、クリコリアン、コーチャン、ハチャトリアンなど、アン、ヤン、チャンなどが末尾につきます)。アルメニア民族の悲劇は今に続いています。トルコのEU加盟問題を巡り、フランスが100年以上前の虐殺問題を蒸し返したのはつい最近です。ペルシャ、トルコそしてロシアに痛めつけられてきた民族です。私と同年代の彼がどのような経緯でアメリカまでたどり着いたかは知りません。数カ国語を操れる背景には、壮絶な民族の歴史があるのです。
1988年オリンピック直前、初めて韓国を訪れました。韓国最大の石油会社、油公(ユゴン、現SKコーポレーション、現在蔚山石油・石油化学コンプレックスはエクソンのバトンルージュ製油所と一、二を競う規模に達している)の仕事を受注したため、ソウルの本社と蔚山コンプレックスを訪問したのです。
本社で情報システム担当のA理事(取締役)と何度か打ち合わせ・会議を持ちました。彼はソウル大学工学部応用化学科出身の秀才です。年齢は2,3歳私より下、日本統治、朝鮮戦争、辛い時代を生きてきた人です。二人の会話は英語です。はるかに彼のほうが達者です。彼の部屋で二人だけで話している時、英語の話題になりまし「韓国の人は英語が上手いですね!TVも英語のチャネルがあるし(駐韓米軍向け)、日本は英語に関してとてもかないません」と私が言うと、「MDN(私)さん、私が大学受験のときに使った参考書は日本のものでした。大学でも、英語が主流でしたが、日本語の文献や専門書を使ったものです。韓国語の教科書などほとんどありませんでした」「自国語で高度な教育を受けられる国をうらやましいと思ったものです」「日本人は、英語は不得意かもしれません。しかし、我われが外国語を勉強していた時間、貴方たちは専門分野の勉強を自国語で進めていたのです。我われの遥か先を行っているのはそのお陰ではありませんか?」と。外国語に関する見方を一新された瞬間です。
幸い日本人は、これらの例ほど民族として外国語ニーズに追い詰められたことはありません。歴史的に観て、日本を際立たせる特徴があります。“難民体験”の少なさ(他民族・国家から見れば“無し”に等しいでしょう)です。アメリカは難民が作り上げた国です。ロシア革命では大量の難民が世界に散っていきました。英国も例外ではありません。ピューリタンは新大陸に逃れていきました。アイルランドの飢饉は本土への大量流民を生じさせています。また、大英帝国の最盛期、ヴィクトリア時代の国内経済二重構造(貧富の差)は凄まじいもので、苦しさを逃れるためアメリカや植民地世界に向けて、着の身着のままで脱出しています。中国のチャイナタウンが世界各地にあるのも、難民の行き着き先です。そしてユダヤ人、ロマ(ジプシー)。近いところでは、ベトナム、旧ユーゴスラビアも難民発生源です。植民地を拡大した英仏両国には、そこから大量の移民(実態は難民)が流れ込んできています。両国ともその扱いに苦慮しています。既にフランスは移民・就労の条件に自国語修得を義務付けています。英国も同様の処置をとることが進められており、BBCでもこれがしばしば取り上げられています。
教養として外国語を学んできた日本人が、生き残るために必死で外国語を覚えた人達に遅れをとるのは歴史の必然とも言えます。そんな状態に追い込まれなかったことを、僥倖と思うべきかもしれません。
問題はこれからの世界です。世界経済における日本の大きさ(輸出入)、証券市場における外国人持ち株比率の増加、製造業における現地生産拡大など考えると、従来の“英語は英語屋さんに任せておけ”では済まない環境がいたるところに出現しています。ビジネスの世界だけでなく、国際政治や国際金融も同様です(高度に機密性を求められる国際金融サミットでは、通訳の同席を許さないセッションがある。ここでわが国担当大臣が日銀総裁を通訳代わりにしたというような話を聞いたことがある)。次元の違う“生き残り”のための外国語(英語)ニーズが身近に、確実に迫ってきています。頭に突きつけられたピストルが発射されない英会話力をどう修得していくか?分からないクウィーンズ・イングリッシュに悩みながら考え続けた5ヶ月です。
3)古典的学習法-万年筆を使う-(ランカスターから、退職慰労会兼英国行き壮行会を開いていただいた横河電機有志各位へ、感謝を込めて)
年度末も押し迫った3月末のある宵、三鷹の飲み屋で横河電機有志による退職慰労・渡英壮行会をしていただきました。システムプラザが東燃から横河に株式譲渡される際、その最高責任者だったUさん、和歌山工場時代からの仕事仲間、Tさん始め多彩で多数の方に参加していただきました。その時、退職記念としていただいたのが、これからお話しする万年筆です。
会の発起人の一人で仕事仲間のKさんから「今度の会で退職記念品を贈りたいと思うんですが、何が良いか考えておいてください。出来ればあちらで使える物がいいですね」と嬉しいお話をいただきました。小型電気炊飯器、ディジタルカメラ、携帯用GPSなどいろいろ考えましたが、“長く愛着を持って使う”と言う点で、いまひとつピッタリきません。勉強に行くのだから、文房具で何か適当な物は無いだろうか?ふと思いついたのが万年筆です。
PCの普及ですっかり書くことをしなくなりました。書く機会があっても、ボ-ルペンかシャープペンシルで間にあいます。しかし、万年筆には骨董的な、言わばクラシックカーのような風格があります。最後に所有した万年筆は60年代後半に、個人海外旅行の魁をした友人に頼んで買ってきてもらったペリカンです。香港で購入したこのペリカンは、果たして本物だったのかどうか?手に馴染まず何処かへ消えてしました。欧米はサイン社会です。万年筆でレポートを書くようなことは無いだろうが、クレジットカードのレシートにサインする時、やおら万年筆を取り出して漢字の名前を書いたら、チョッと話が弾むかもしれない。こんな動機から記念品としてお願いすることになりました。これを告げた時のKさんの顔に一瞬“エッ(今どき)?”と言うような表情が浮かびましたが、快くうけていただきました。
会も宴たけなわ、記念品贈呈になりました。 Kさんから手渡されたのは、金色のパーカーでした。「これで小切手に沢山サインをしてください」「パーカーを選んだのは、英国製だからです」
出発前に皮製ケースを買い求め、そこにこの万年筆を中心にし、左右にダイセルさんからいただいた名前入りのセルロイド製のボールペン(黒芯)と大昔シリコンバレーのHP訪問時にいただいた金色のクロスのボールペン(赤芯)を収めて、この地にやってきました。
最初に泊まったマンチェスターのホテル、レンタカーの事前支払い、ランカスターへ来てからの二つのホテル、いずれもカードの支払いはピンナンバー(暗証番号)入力方式でサインのチャンスがありません。最大の山場は、フラットの契約です。信用問題でややごたついたこともあり、不動産屋で6ヶ月前払いと言う条件を飲み、「それじゃトラベラーチェックで2000ポンド(約50万円)、後はクレジットカードでどうかな?」さすがに交渉相手が目を剥きました。「結構です」、「お宅の取引銀行が近くにあるなら、一緒に行ってチェックにサインしてその場で払い込もう」、「願っても無いことです(Good idea!)」連れだって銀行に行きました。窓口で彼が事情を話すと、銀行員がサッとボールペンを差し出し「これでサインしてください」咄嗟のことで出番を失いました。
Mauriceとの出会いで沢山の文献コピーが手渡されました。これは貰っていいものです。書き込みや、下線を引くのも自由です。やがて、参考書を貸してくれるようになりました。興味深い情報に満ち溢れています。出来ればコピーを撮りたいところです。正式な身分が無い私には、学校のコピー機が使えません。量が少なければMauriceに頼むことも可能かもしれません。しかし、半端な量ではありません。甘えるわけにはいきません。読むのがほとんど自宅と言うのも何かと不便です。結局解決策はノートをとるほかありません。
古典的学習がこうして始まりました。読んでは書き、書いては読み、コメントを書き加える。英語の筆記をこんなにやったのはいつが最後だったろうか?果たしてあっただろうか?それにしても、万年筆というのは何と滑らかに字を書ける道具なんだろう!筆記体で文章を書写し続ける楽しさが、孤独な夜を忘れさせてくれます。英語の習い初め、中学生のときあんなに辛かった英語の書き取りが嘘のようです。書くという行為が極めて奥の深い学習法であることを、この年になって初めて気がつきました。単語のスペリングは無論、一語一語書くのではなく、ある長さのセンテンスを覚えこと、冠詞、単数・複数、前置詞、完了形の使い方などの文法、文章の構成、読むだけの勉強では何気なくやり過ごしてきたことが、確りチェック出来るのです。
書き綴った量は、5本入りカートリッジ4箱、既に5箱目に移っています。パーカーを選んでいただいたのは、当に先見の明です。街で一番の文房具屋にあるカートリッジはパーカーだけです。お陰で心置きなく書き捲くれます。唯一の心配は、“こんなに使い込むと芯が傷んでしまうのではないか?”と言うことです。しかし、いまのところ、“名刀”の切れ味は些かも鈍っていません。
一区切りついた時、やや右に傾いて、下部を罫線にそろえてつながる自分の筆跡を見ていて、“親父が生きていたらなんて言うだろうな?”とあの辛かった中学生時代を思い出しました。
私が中学生になったのは昭和26年(1951年)、まだ戦争の爪跡がいたるところに残る時代です。発足後間もない新制の中学は自前の校舎が無く、それまで小学校の一部を利用していましたが、我われの年度から、戦災で焼け落ち使用出来なかった別の小学校を一部復旧し独立しました。不足していたのは校舎などのハードウェアばかりでなく、新規に出来た中学(旧制中学は高校になった)のため、教育カリキュラム・教材などのソフトウェアも未整備でした。中でも最大の問題は教員です。小学校は養成機関として古くから師範学校がありました。高校(旧制中学)は高等師範や一般大学の教職課程を終えた有資格者の先生が来ていました。しかし、新制中学は“新制”ゆえに正規の教員養成機関が無く“取り敢えず食べるために”ここへ流れ込んでくるような人もいる混乱状態でした。特に酷かったのが英語教育で、つい数年前まで“敵性言語”として高等教育機関でさえ教えていなかったので、全くの人材不足です。私が入学した中学では、しばらく英語の授業は無く、やがて体操の先生が応急で教え始めるような状態でした。今では信じられないでしょうが、各学校の英語教育のレベルが違い過ぎるため、我われの高校入試時、東京都の公立高校入試共通試験;アチ-ブメントテストに“英語は無かった”のです。
父は東京外語(仏語)の出身です。当時進駐軍(26年から駐留軍)の基地不動産管理を行う業務を、調達庁と言う役所(現防衛施設庁)で担当していました。英語を、生きるために必要とする現場の近くにいたわけです。英語の必要性の高まり、英語教育の惨状、自分の専門、「よーし、ここはわしが面倒をみてやらねば」の思いで始まったのが私の“英語事始”です。
父の考えは、他の教科は小学校の延長、まずまずの成績をおさめてきたから自分でやらせておいて良いだろう。しかし、英語は中学から始まる。それは将来にわたりきわめて重要な教科だ。初めが肝心!こんなところだったでしょう。書き取りをよくやらされました。「間違えだらけだ!」「こんな汚い書き方じゃダメだ!」時々ビンタが飛んできました。結果は、受験に無かったこともあり、全くの英語嫌い。それが未だにボディブローとして効いています。
父は1月の寒い日、一人で逝きました。91歳でした。TVの前のコタツの上にはフランス語講座のテキスト、裏紙をメモ用紙にしたものが沢山重ねられ、そこには達筆な筆記体で単語や短い文章が書かれています。罫線も無いのに、横一直線にきれいに揃っているそれを見ていて、拙い書き取りを添削してくれた日々が蘇ってきました。あのビンタの痛さとともに。
私の書いたノートを見て、「少しましな英語を書くようになったな。まあ、万年筆が良いからな」こんな声が聞こえてきそうです。
-横河電機の皆さん、素晴らしい贈り物を、有難うございました-
本報をもって、17回(+号外)にわたった、「私報 滞英記(現地版)」を終わります。多くの温かい励ましに深謝いたします。
枯れ葉散る夕暮れのランカスターより
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