2011年10月18日火曜日

決断科学ノート-94(大転換TCSプロジェクト-31;和歌山工場導入-5)

 前回“訂正”で述べたように、ヴェンダーセレクション以降の時期・時間を勘違いしているところがあったので、TCSへの最初の更新であるBTXプラントが新システムで動き出すまでの経緯を再整理してみたい。
 ヴェンダーセレクションは1981年年初までには目途がつき、ACS(SPC;高度制御システム;IBM製品)とCENTUM(DCS;分散型デジタル制御システム;横河電機製品)を一体化システムとしてTCS(東燃コントロールシステム)の開発が1981年春から始まる。中央開発チームがERE(エクソンエンジニアリングセンター、米国ニュージャージー)に向かったのは4月である。当初の予定では、米国での開発(教育訓練を含む)作業が終わるのがその年の12月。1982年初めからは作業場所を横河(三鷹)に移し、ACS-CENTUM(工場導入実機システム)の結合テストを行い4月にはそれを終えて、和歌山に持ち込む。あとは年末のスタートアップに向けて、現地でアプリケーション開発を行うことになっていた。しかし、米国での作業は遅れ、結局TKWさんとITSさんは現地で年を越すことになり、国内開発態勢整備のためYNGさん、TJHさんが先に帰国することになった。10月末くらいから年初にかけての中央開発チームの状況は、休日は無論クリスマスも新年も無い過酷なもの、加えてトレーラーハウスという悪作業環境の中で精神的にも追い込まれ、チームは崩壊寸前だったとあとから聞かされた。
 中央チームの全メンバーが国内に揃うのは1982年2月から、それに和歌山のメンバーを加えて、更に日本IBMと横河電機のスタッフも交えて5月まで結合テストとその虫出し・修正が三鷹で続く。5月連休明け(メンバーに連休は無かったが)新システムは和歌山に向け出荷されるが、メンバーも同時に和歌山に移り、現地作業を継続する。アプリケーションエンジニアが加わるとまた新たな問題点が露わになる。結局中央チームが本籍である本社に戻るのはBTX切換えが順調に済んだ1982年末であった。実はこの前年9月私は20年にわたる長い工場勤務ののち初めて本社に異動、形式的(実質的には情報システム室次長でプロジェクトリーダー兼務のMTKさんが管理していた)にはこの中央チームメンバーの上司(情報システム室数理システム課長)になったのだが、彼らとゆっくり顔を合わせるようになったのもBTXスタート後である。
 BTX(ベンゼン・トルエン・キシレン;合成繊維原料や各種溶剤)がトップバッターに選ばれ、それが順調に進んだのにはそれなりの理由があったからだろう。過日中央チームの一員であったYNGさんとあるセミナーで会った際「何故BTXがトップだったんだろう?」と問いかけてみた。答えは「BTXが最終製品を作る仕上げのプラントであること(従って独立性が強く、もしトラブルを起しても他プラントに及ぼす影響が少ない)」それに「初代のコンピュータが導入され、付加的な設備増強や作業が少ないこと」ではないかと言うものであった。納得できる理由である。
 順調なプロジェクト推進の主因は人にあったという気がする。プロセスコンピュータ基盤技術に関して当時全社を通じてトップと言っていいTKWさん、コンピュータから計装まで幅広い知識を有し綿密な切換工事計画を作り上げ実行したMEDさんのプロジェクトエンジニアとしての能力の高さ、和歌山工場のプロセスを熟知し高度制御分野で経験豊富なアプリケーションエンジニアのTKZさん。いずれも30代後半、脂の乗り切った第一人者三人がその任に当たり、あらゆる困難を乗り越え、計画を予定通り実現したのだ。

訂正.:ヴェンダーセレクションを1980年としているのは誤りで、1981年でした。それ以降の派米チームの苦悩も1年近くずれ、和歌山工場への持ち込みは1982年秋、最初のプラント、BTXの切換えは同年12月になります。訂正し、お詫びいたします。

(次回予定;“和歌山工場導入”つづく;BTX運転開始以降)

0 件のコメント: