2025年8月24日日曜日

満洲回想旅行(14)


14.長春観光-1


皇宮博物館見学を12時少し前に終わり次に向かったのは、私が最も訪ねたかった宮廷府、自宅に近い建設途上にあった新宮殿である。この日のスケジュールは、皇宮博物館見学後は、車窓観光で昼食場所へ向かうことになっていた。見所は、関東軍司令部→宮廷府(吉林大学地質宮)→満洲国官庁街の順で、宮廷府の外縁を時計回りに一巡する道程になる。ガイドの艾(アイ)さんは、出発前の私と交わした会話の中で、「宮廷府の一画でバスを止めますから」と言ってくれていた。


関東軍司令部を訪れたことは無かったが、敷地内で火事があり、夜空に火炎が上るのを自宅から眺めた記憶がある。現在そこは吉林省共産党委員会となっており、帝冠様式(和風屋根を載せた洋風建築。九段会館・神奈川県庁・愛知県庁などが我が国にも残る)の建物がそのまま使われている(内部は改装していると思われるが)。次いで宮廷府に向かう。


宮廷府は長春駅から南に延びる人民大街(大同大街)の西を通る東民主大街と更に西にある西民主大街との間にあり、北を半円にした長方形の土地の中に在る(地図参照)。その土地の中央部に新宮殿が建設中だった。しかし、大東亜戦争開戦で資材不足となり、コンクリート打ちっ放しのまま工事は中断、一帯は無人の荒野の感があった。自宅からは小学校へ行くより近かったから、親から禁じられていたものの、ときどき社宅の仲間と一緒に出かけ、冒険ごっこに興じた所である。「バスを止める」の意は、「私のための写真でもとる時間」くらいに考えていたが、地質宮の近くが小公園になっており、トイレもあることから、下車してしばらく散策することが出来た。艾(アイ)さんが同行してくれ、ここから自宅方面の現状を語ってくれた。それによると、戦後しばらくは日本人街がそのまま残っていたが、今は再開発され、跡形も無いとのことだった(写真で黄色いクレーンがある先の方に自宅が在った)。ただ、新宮殿は地質宮として計画通り完成しているものの、それ以外は建物は無く、荒野はそのまま残り、さらにバスで進んでいくと、一部で何かの建設工事が始まっている程度の変化しか無かった。


地質宮の観光では、母が新京出身である、福島から参加のIBAさんと一緒に写真を撮った。お母さんは昭和9年産まれ、丁度小学校卒業時くらいで終戦となっていたはずである。母親が新京出身者はもう一人、栃木から参加のUEKさんという男性がおり、彼のお母さんは、見習い看護師の時代に終戦となったのだが、ソ連進駐前に無事日本に帰国していたとのことだった。UEKさんは「ヤンチョウ(人力車)」「マーチョウ(馬車)」「シューバー(毛皮のオーバー」など懐かしい言葉を知っていた。こんな言葉を聞いたのは引揚げ以来である。しかし、二人とも宮廷府については知らなかった。住んでいたところが違うからだろう。


宮廷府のあとは、その南に整然と並ぶ満洲国時代の官庁街を車窓見学(一部で下車写真撮影)。父は満洲自動車に移る前には経済部(満洲は中国同様日本の省は部と称する)に勤務していたが、そのトップは岸信介次長だった(部長は満人、次長は日本人)。その経済部を始め、文教部、交通部、司法部、外交部そして議会と内閣の機能を併せ持つ国務院などを巡っていった。いずれも建物は帝冠様式、今では吉林大学や地方政府が使用している。実はこの官庁街は私にとって初体験、あらためて新京市都市計画の素晴らしさを実見することになった。

 


写真は上から、新京地図、関東軍司令部、宮廷府全景、IBAさんと、宮廷府工事中の部分、官庁街の一部、国務院

(写真はクリックすると拡大します)

 

(次回;長春観光-2

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