2017年10月7日土曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第3部;社長としての9年)-36


17.新会社発足
横河電機美川社長が現役のまま亡くなったのは19996月、そのあとを襲ったUCD社長は、少しずつ前社長の拡大路線を整理しつつ、グループ全体経営の統一的な統治体系を図っていった。情報サービス関連会社の再編成もその一環であるが、人事管理方式の整備などは本体をも含むもので、ある程度時間をかけて一本化する方向を明確に目指していた。その代表的な例は、2001年に打ち出された社員資格の統一だろう。各社まちまちだった給与と資格の内、給与・報酬は経過処置を認められたものの、格付けは職位・職責に応じて共通のものになった。社員のトップは執行役員(これにも何ランクかある。その上は取締役)、ここまでは定年制が適用され、それは60歳である。
再編成対象会社の内、YTSの社長と私は既にこの年齢を超えていた。YTSは広島が本社、社長もその地の出身者で引退を望んでいたし、私も横河電機に経営権が譲渡された段階で「しばらくこの状態を続けさせてください」とお願いしたものの、世の常識で「いずれ本社の人が」と思っていたから、この再編成を期に退く覚悟はできていた。YDCはこの再編案から外れることになったから、社長のMYSさんは対象外。あとはYITの社長であるWTNさんが資格上残るのだが、どうみても再編成されたあとの社長に相応しい人とは思えなかった。再編成の形が見えてきた2002年夏ころから、非公式に「新社長は誰が良いですかね?」と問われることが多くなってきた。答えは情報ソリューション事業部長として、この話をまとめてきたISIさんしか考えられないから、本人も含めてその旨応えてきたし、本社役員もこれを妥当な人事と受けてくれている空気がうかがえた。
10月初めになると再編成の具体的な構想が固まり、20034月にそれを発足させることが決まり、年初に全グループに向けて発表することになった。そんなときISIさんから「SPIN若手役員で、次代を託すにふさわしいのは誰ですか?」と聞かれたので、私が役員登用した3人の内、60歳まで時間のあるYMTGさん(1971年入社)とYNGKさん(1972年入社)を「ISIさんが、数年よく見たうえでさらなる上級役員への任用を決めてください」と返答した。こうして再編成後のSPIN関連役員人事は、譲渡以前から役員(子会社TSSを含む)だった、私、MYIさん、YNGMさんが退任し、FRHさん(1968年入社)、YMTGさん、YNGKさんの3人が新会社の役員になることが内定する。
10月半ば私は社長として、大事な顧客接待や提携先の大規模なユーザー会に参加すること、さらに再編成を伝えるため、最後の海外出張に出かける。帰国は111日で週末だった。週明けの5日出社すると、YMTGさんが部屋にやってきて驚くべきことを報告する。自分が新会社の社長になるようUCD社長に告げられたと言うのだ。「一体全体留守中に何が起こったのだろう?」 追っ付けISIさんから同旨の電話が入る。聞けはISIさんが横河本流中の本流、制御システム事業部長になることが決まり、代わりの候補者を推挙するようUCD社長から問われたので、私が将来を託すと告げた二人を挙げたところ、UCD社長がYMTGさんを新会社社長に、併せてYNGKさんを本社の要職部長に登用することを決したのだと言う。それぞれの人にとって、将来が期待されるこの案は、悪いことではなかったかもしれないが、時間をかけて練り上げてきた再編成案をすべてリセットするような、この人事に唖然とするほかはなかった。
2003年新会社;横河情報システムズ株式会社(YIS)が、YMTG社長の下にスタート。旧東燃ルールによって私は3年間顧問の地位に留まることが出来た。しかし、二人の前任者(いずれも東燃役員からの天下り)と同様、時々出社するだけで報酬を受けるのは心苦しいこともあり、ISIさんの上司であったMNK専務に、新年グループ内賀詞交換の際「本社で何かお手伝いできることはありませんか?海外営業などどうでしょう?」と投げかけたところ、その場でUCD社長につないでくれ、4月から海外営業本部の顧問に就任、爾後4年間ロシアを中心に海外市場開拓に当たることになる。
本社(三鷹)勤務だったこともあり、YISの情報はタイムリーに入手でき、苦闘しながらも発展していく姿を、ビジネスマン引退の2007年まで見届けることが出来た。その後本体(Industrial AutomationIA事業本部)やその関連会社(保守サービス、制御システムエンジニアリング)との再編成を経て、現在は横河ソリューションサービス(株)となり、人員数約2500名、年間売上高は1千億円の大会社に変身している。


(次回;9年を振り返る;最終回)

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