2009年11月3日火曜日

決断科学ノート-21(科学者と政治-4;ティザードの場合②)

 1919年春、ティザードはオックスフォードに戻り20年2月には熱力学担当の准教授(Reader;Professorの一つ前)に任ぜられる。この間、民間会社と協力して航空エンジンと燃料の関係を研究し、ノッキング状態を示す“トルエン価(のちにオクタン価)”の概念を確立、その計測用特殊エンジン開発などの成果を上げている。純然たる学問よりは実務に密着した研究に優れていた事を示す一例と言える。また、休眠状態にあったクラレンドン物理学研究所再開のためにベルリン大学、そして勤務場所は異なったが空軍の航空実験で交流の続いたリンデマンを大学幹部に紹介し、ここで働く機会を作ることになる。多彩な交友関係と適材を見抜く力も彼の特性なのだ。この時代、二人が後年政治の舞台で仇敵になることなど、まるで窺わせる気配は無い。
 オックスフォードを去る切掛けは、やはり大戦中携わった軍事科学関係者からもたらされる。戦時中(1916年)軍・官・学によって設立された、軍事科学推進母体、Department of Science and Industrial Research(D.S.I.R.);科学・工業研究機構)を再編成することが閣議決定され、その運営会議のナンバー・ツー(Assistant Secretary;AS)として声がかかってくる。
 時期は大学の准教授になったばかりの頃である。新組織、中でもASの役割権限は曖昧。不安にかられつつも“軍事科学”研究への誘惑は絶ち難い。約2ヶ月逡巡した(この間無論具体的な業務やサラリーの確認を行っている)後、1920年6月オックスフォードを退職、9月から国防省に設けられたオフィスで新しい仕事をスターとさせる。
 後年、ティザードはこの時の決断事由を、a)学者としての限界(この時35歳)、b)軍事科学の価値と発展性(未成熟分野)、c)子供たち(息子3人)の教育(サラリー)d)オックスフォードの気候(頻繁に風邪をひいていた)をあげている。
 D.S.I.R.の中で1923年にはPrincipal ASに昇進、1927年には前任者の引退で運営委員会のトップに上り詰め、「国家公務員の中で最も影響力のある科学者」と言われるまでになっていく。活躍の場は科学に留まらず、燃料開発研究で痛感する財源の問題から、ガソリン税の復活(1921年以降無税)を提言、これが当時の財務大臣(Chancellor of Exchequer)、チャーチルに伝わりその実現につながっていく。純然たる科学的問題がそれと拘わる政治問題に転じていく最初の具体例と言っていいだろう。
 こうした管理能力と名声を外の組織も見逃さない。1929年5月、インペリアル・カレッジは彼に学長(Rector)就任の可能性を打診してくる。当時のインペリアル・カレッジは幾つかのロンドンに在る国公立カレッジの寄合い所帯で、それを真に統一された大学に改編する仕事は極めて挑戦的なものであった。一方でD.S.I.R.の長に就任してまだ2年、ここでの仕事も面白い。ティザードは「今すぐならノー。しかし真剣に考える」と返事をし、主管審議官にこの事を伝える。しかし、どう誤解したのか審議官はこの報告を「本当はティザードはこの話を受けたいのだ」と取り、後任を決めてしまう!退路を絶たれた彼は7月D.S.I.R.を辞任する。
 統合カレッジ作りは、所在地と建物の整理統合・再開発、それに伴う財政問題、新しい教育カルキュラム作成や講座の新設など多岐にわたる。折りしも世界的大恐慌の中、大変困難な状況下で進めざるを得ないことになるが、ここでも彼の力は存分に発揮される。その活躍ぶりは、後年「もし30年代にインペリアル・カレッジがティザードを欠いていたら今日の地位・名声は無かったろう」と言われるほど。一方で「これから先10年、危機が迫っているときに、政府は貴重な人材を失った」とも。
 1929年保守党は総選挙に破れ、チャーチルは当選したものの財務大臣辞任、彼にとって“荒野の10年”が始まる。
 早く表舞台に復帰したい目立ちたがり屋のチャーチル、一見運命に身を委ねるように見えるティザード。台頭する軍事大国、ナチスドイツの跳梁を、二人はしばしタッチラインの外から眺めることになる。政治家と科学管理者、立場の違う両者にとってこの時期こそ雌伏の期間であると同時に、充電の時期でもあった。

 歴史は適材を適時、適所に配置する助走を始めていた。

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