11.金比羅さん
江戸時代いたるところに宿場は在ったが、観光目的の旅は極めて限られていた。ある種の観光旅行は“XX参り”と言うような由緒ある神社仏閣訪問くらいである。江戸中期その中でナンバーワンは伊勢参り、次が金比羅参りだったようだ。不信心な私は和歌山工場時代2回もクルマで四国を巡っているが、88ヵ所を含め全くこの地の寺や神社をお参りしていない。初めての場所は先ほど訪れた大三島(愛媛県)の大山祇神社、次はこれから向かう金毘羅宮(通称金比羅さん)である。大山祇の神様には申し訳ないが、あそこはあくまでもしまなみ海道に惹かれた結果である。しかし金比羅さんは違った。
私の父方の祖父は明治期から内務省の役人であった。当時の役人は有力政治家による政治任命である。祖父は政友会に属し、郷里の兵庫県から出発、それ以外の地にもあちこち転勤している。父の出生地は宮城県、中学は徳島から途中で本籍地の兵庫県竜野に変わっている。その祖父が若い頃一時期過ごしたのが琴平で、この町の警察署長を務めている。こんな時代から門前町として栄えており、そこに寄食するその筋の人間も多かったようで、正義漢だった祖父は恨みを買い、顔面に刀傷を負ったことがあると父から聞かされていた。祖父は父が学生時代に亡くなっているから、私には何の想い出もないのだが、この話だけが私と祖父を結び付けてきた。それゆえ「金比羅参りは必須」で今回の旅程を組んだほどである。
遅い昼食を終え鴻ノ池PA2時出発、直ぐ瀬戸大橋に入る。この橋だけは本四架橋3本の内鉄道で何回か渡っているのだが、自動車道は初めてである。鉄道は下段、自動車は上段、他のルートとは違い、列車走行時にかかる荷重は大変なものだろう。橋梁工学叡智の塊に違いない。そんなことを考えている内に坂出JCTから高松道に入り、しばらく西進して、善通寺ICで今治ICから延々続いた自動車専用道を降りる。あとは割と簡単で国道319号→県道208号とつないで南下する。金刀比羅宮に近づくと一方通行など現れて迂回路を採らされるが、無事門前に近い中心部の駐車場に辿り着く。PAを発ってから僅か40分程度である。
例の階段(奥社まで1368段;本宮までは785段)への表参道をしばらく行くといよいよそれが始まる。気がかりは家内の足、普段ほとんど運動していないし、関節痛を和らげる薬を服用している。「行ける所まで行ってみよう。無理ならそこで下りよう」と上りはじめる。階段の両側には土産物屋が並び、人の往来も結構激しい。しかし、何故か下りの方が多いのだ。「時間のせいだろうか?」そんなことを思いながら休みやすみ歩を進める。鳥居が現れる。まだ113段だ。次は重要文化財の“灯明道”、168段。この辺りまでは商店が続くがそれも200段くらいまで。あとは高所に在る神社同様の静かな佇まいに変わっていく。一休みするにはこの方が落ちつけて良い。依然として人の行き来は下りが多い。中にははるかに我々よりも足腰のおぼつかない人まで居る。「上りはどうだんだろう?こんな人達まで行けるなら、我々は大丈夫だろう」
立派な門が見えてきた。大門、365段、ここからが神域である。振り返れば琴平の街が下に広がっている。大門を入ると少し広まった場所で、濡れた地べたに傘を立てて飴を売っている人たちがいる。“5人百姓”と称する特別に許された5家族とのこと。さらに進んで桜馬場、431段、ここは途中のどこよりも平坦で広々した空間だ。実際馬小屋があり何頭かの神馬が飼われている。ここで下りてきた若者のグループに「本宮までどの位上りますか?」と問うと、皆で顔を見合わせ「下ってきただけなので・・・」と答えがはっきりしない。「上らないで?」と聞くと黙って頷く。これで謎が解けた。どうやら観光バスで上まで上がれる道があるのだ!でも自家用車ではどうにもならない。
馬場広場で一休みしてさらに上る。旭社と呼ばれる立派な神殿に至る。ここで628段。登山姿の高齢者に本宮までの道を問うと「まだかなりありますよ」とのこと。小降りではあるが雨も降り出し、今夜の宿のチェックイン時刻も気になってくる、家内もかなり辛そうな雰囲気だったから、残すは150段程度だが、ここでお参りを済ますことにした。「お祖父さん、これで勘弁してください」
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(次回;屋島)
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