2018年9月5日水曜日

ドイツ周遊3000km-28



-バス、鉄道、船、乗り物三昧の9日間-

22.ハイデルベルク
 
40歳代半ばころ芦屋大学で開かれたOR学会の年会に参加した。懇親会には兵庫県副知事が参加、挨拶の後適度に飲んで興奮したのか、急にドイツ語で歌を唄い出した。ひと回り以上年長の人から「アルト・ハイデルベルク」と言う戯曲の一シーンで歌われるもので、旧制高校辺りでよく唄われていたと聞かされた。“古きハイデルベルク”、小領主国の王子と酒場の娘の恋物語がテーマであることもその時知った。王子はハイデルベルク大学の学生だったのだ。爾来ハイデルベルクは大学とともに私の記憶の中にある。
調べてみると凄い大学だ。正式名は“ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク”創設は1386年、ドイツ最古の大学、50人を超すノーベル賞受賞者がおり、教授陣にはヘーゲルやマックス・ウェーバーが名を連ねている。当然だが現在はドイツのエリート大学の一つ。そして“アルト・ハイデルベルク”とは大学の在った“旧市街(アルトシュタット)”を意味するのだ。
アウトバーンを下りたバスはこの町の北側から先ず新市街に入り、ネッカー川を渡って、南の丘陵地帯に上っていく。最初の訪問地はそこにあるハイデルベルク城だ。13~14世紀ころの建設と言われるが正確な記録は残っていない、1689年プファルツ継承戦争の際ルイ14世に破壊され、今は一部だけが修復されているにすぎないから城址と言うのが正しいだろう。残っているのは地下の醸造所(大樽館)と城内教会くらい。場所は見晴らしの良い所に在る。北斜面で旧市街、ネッカー川、その先にある新市街(多分建設当時は畑かなんかだっただろう)が一望に出来る。
ここの後はロープウェイで旧市街に下る。ハイデルベルクは戦前米国からの留学生や研究者が大勢来ており、空襲を受けていない。それだけに古い街がそのまま残っている。大学(今は郊外へも広がっている)は町の中心部に在るのだが、日本や米国の大学と違い、はっきりキャンパスとして識別できない。そこいら辺に在る石造りの大きな建物に分散しているのだ。有名な学生牢(校則を破った者が閉じ込められる)など、商店街のような所に入口が在った(今は観光コースの一部)。大学広場に昔からある獅子の噴水の写真など撮るが、どう撮っても我々のイメージする大学にはならない。
次いでどこの主要都市にも在るマルクト広場に出て、聖霊教会を外から見学、その南側を東西に貫通するハウプトシュトラッセ(本通り)を散策し、その一画に在る日本人経営のお土産店“ユニコーン”で解散。昼食は各人で摂り2時半再びここへ集合となる。解散直後この店の日本人店員に「白アスパラガス(シュパーゲル)を食べられる店を教えて」と問うと「通りを西へ進むと“シュバン(スワン)”と言うレストランが在り、そこで食べられます」との答え。店は直ぐ見つかり、テラス席と室内席があったので、暑い陽射しをさけて店内に入りメニューを見るとドイツ語版!英語版を頼んで、やっと何があるかわかる。シュパーゲルのサラダとパンとカマンベールチーズ付きシュニッツェル(カツレツ)、それに生ビールを注文。あちこちで食べてきた豚肉料理だが、日本人にはトンカツと変わらないシュニッツェルは口に合う。大きな白アアスパラガスや珍しくカツレツに付いてきたドイツパンでランチを堪能した。これに食後のコーヒーを入れて二人で44€は納得できる値段だ。先に出ていく中年のドイツ人カップルの男の方が「コニチワ」と言ったので「グーテンターク」と返した。
“ユニコーン”で最後の土産物を探す。私はヘンケルの爪切りを買ったのだが・・・(総括で報告)。あとはこの町のランドマークとも言える“アルテ・ブリュッケ(Alte BruckeOld Bridge、正式名;カール・テオドール橋)で写真撮影などして、340分この地を発ってフランクフルト空港へ向かった。

写真は上から;城址から見た町、大学広場、獅子の噴水、聖霊教会、レストランから、城址遠景

(写真はクリックすると拡大します)

(次回;総括;最終回)

(メールIDhmadono@nifty.com

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