<今月読んだ本>
1) Panzer Leader(Heinz Guderian):Da Capo Press
2)デジタルエコノミーはいかにして道を誤るか(ライアン・エイヴェント):東洋経済新報社
3)日銀と政治(鯨岡仁):朝日新聞出版社
4)鉄道エッセイコレクション(芦原伸):筑摩書房(文庫)
5)不死身の特攻兵(鴻上尚史)):講談社(新書)
6)週末ちょっとディープなベトナム旅(下川裕治):朝日新聞出版社(文庫)
<愚評昧説>
1)Panzer Leader
-独装甲軍生みの親は敵軍のみならず自軍反対派といかに戦ったか-
先月紹介した“Achatung-Panzer!”の著者による、その続編とも言える自伝である。前回の書が構想編とすれば、今回はその実地編とも言えるもので、第一次世界大戦における戦車出現のインパクトとそこからの啓示を除けば、ほとんどオーバーラップするところはない。ドイツ装甲軍生みの父がいかに第2次世界大戦を戦ったかが紙数の大部分を占め、ポーランド戦、西方作戦そして独ソ戦を師団長、軍団長、装甲軍司令官、装甲兵総監、参謀総長として任に当たった現場が、戦場ばかりではなく、計画と現実の差異、戦争指導部組織および人的抗争、作戦の是非、戦車技術・生産、ヒトラーとの関係などを交えて生々しく語られる。陸戦における戦車の役割について先駆的な理論体系を作り上げたのはリデル・ハートやJ.F.C.フラー(いずれも英国人)がおり、前著で著者も彼らに多くを学んだことを記しているが、それを実現・実施したのは著者が唯一の人物。その点からも、本書の持つ意味は大きい。
Achatung-Panzer!は1937年に発刊され、そこで著者(発刊時少将)は第一次世界大戦に初めて登場した戦車(大量投入できたのは英仏のみ)の戦いを戦後分析して、その利用方法を以下のようにまとめる。奇襲であること、スピードが勝負であること、集団運用すべきこと、狙いは地面獲得ではなく司令部の機能を麻痺させること、航空機との協調の重要性。つまり“塹壕戦から機動戦へ”と陸戦思想の考え方を大変革するよう訴える。戦場の女王と称えられる歩兵は歩兵支援主体運用を、花形兵種の騎兵は偵察・急襲は騎兵の任務としそれへの傾斜を、近代戦最大の威力砲兵は自走砲とみなし砲兵科へ取り込むことをそれぞれ主張するが、著者はいずれにも「新兵種が必要だ!」と反対する。ではその考え方は1939年勃発した第2次世界大戦でどのようであったか。これが本書の読みどころである。
Achatung-Panzer!が書かれている時代、既にナチス政権が誕生しヴェルサイユ条約は破棄されている。戦後からここに至る間、自動車輸送部隊に在籍していた著者は上司のルッツ将軍の下で仮想の装甲部隊(自動車を利用した張りぼて戦車)を育て、そこをベースに1934年訓練用の1号戦車、2号戦車を開発、3装甲師団を保有するところまで達している。著者はこの時第2師団長(大佐、他の師団長は少将)、36年には少将に昇進しているが、陸軍参謀総長を始めとして上層部は運用方法について歩兵支援に拘り、新戦術に徹する環境醸成は未達である。ここでルッツ将軍の勧めで公開に踏み切ったのがAchatung-Panzerである。これと前後する時期、ヒトラーを始め外国視察団の前で二つの装甲師団による展示演習が行われ、ヒトラーはそれに強く印象づけられる。1938年中将に昇進、第16軍団長(機械化歩兵師団+2装甲師団)に任じられる。これには自身驚かされるのだが、背景にはナチスによる国防軍首脳部(参謀総長を含む)の大粛清があったのだ。ここで国防軍総司令部(OKW)が創設されヒトラー自らが総司令官となり、それまで国防軍指揮命令系統の中枢であった陸軍総司令部(OKH)がOKWの下部組織に位置付けられてしまう。この自伝はグーデリアンが前線指揮官を務める戦場描写が主体となっているが、立場上OKWやOKHとの関係が問題となることが多く、装甲軍の理想を追い求める者にとってこの二重構造が複雑な影を投げかける場面が多々現れる。ポイントはヒトラーの信頼が極めて高かった点にある(とことん自説を主張して止まないところにそれがある一方、それ故に解任の憂き目にも遭う)。
1938年のオーストリア併合に伴うウィーン進駐(戦闘は皆無だが先導役としての集散と速度、戦車の稼働状況から実戦先立つ有効情報を多く得る)、1939年9月のポーランド侵攻(初の本格的な装甲軍運用、空陸一体作戦、攻城戦における歩兵・砲兵と装甲軍の役割)、それぞれの場面でAchatung-Panzerに書かれた内容との対比が読み取れるが、何といっても引き込まれるのは、1940年6月の西方作戦、アルデンヌの森林地帯を一気に駆け抜ける機動戦、急進を突如止められるダンケルクを前にした上層司令部との衝突(軍団の一つ上は軍;軍司令官のクライスト大将は停止命令無視のグーデリアンを解任しよとする)と、1941年6月に始まる独ソ戦におけるモスクワを目前にしての戦いと12月に入ってからの中央軍集団長(クルーゲ元帥)さらには参謀本部と第2装甲軍(3軍団構成)司令官になっているグーデリアン大将(1940年7月昇進)との激しいやり取り、結果としてヒトラーによる解任劇だ。厳しい戦場の様子と、それを理解しない陸軍総司令部の参謀たちに堪りかね総司令官であるヒトラー(12月にブラウヒッチュ元帥を解任)に直訴するが「攻勢を緩めることは許さない」と守りにまわることを拒否される。これが不満で軍法法廷(会議?)開催を求めるが受け入れられず予備役編入。表向きは病気療養である。事実心臓病で療養中一時かなり重くなることも本書の中で語られる。
もう引退を考えていた1943年3月装甲兵総監へ登用の話が舞い込むが、権限を明確にした上でないと引き受けないと返答。ヒトラーから条件を求められ、教育・教導部隊を指揮下に置くこと、組織編成・教育に関する参謀本部への助言、戦車を含む装甲兵器の開発・生産・整備に関する全権、を持つことを列記した文書を提出し、それが認められる。当にAchatung-Panzer実現の好機。しかし、戦況はそれを可能にする状況にはない。主力戦車である4号戦車はソ連のT-34中戦車
に質、量とも敵わない。タイガー重戦車、パンサー中戦車は完成度が低い。4号戦車の改造・強化こそ唯一の対抗策と考えるが、いたずらに重装甲と砲力を高めた鈍重な自走砲(非回転砲塔)などが試作され開発と生産の現場も大混乱している。ソ連戦車の生産数はAchatung-Panzerで警告したにもかかわらず、誰も信じなかった数量に達し、独ソの差は挽回のしようがない。最後の“グーデリアン頼み”、敗勢の中で1944年7月21日、ヒトラーは暗殺事件の翌日ついにグーデリアンを陸軍参謀総長に任命する。いくら近代陸戦の開祖とは言え、負け戦の中では和平を前提に防衛作戦しか打つ手はないが“無条件降伏”が障害となりその道も封ぜられている。「せめて西方の兵力を東方に移し、東を固めて降伏を」と進言するもヒトラーは拒絶、1945年3月参謀総長の任を解かれ休養を命じられる。
Achatung-Panzerも同じだが、本書ではヒトラーとの関係が詳しく語られるものの、全体として政治向きの話は極めて限られている。反対に軍司令官あるいは装甲兵総監と言う高い地位にありながら、戦闘の状況や兵器の性能に関する記述は細部にわたり、臨場感を持って描かれる。一つの理由はオリジナル版(独語)の出版が1952年と言う、まだ戦争関係者が多い時期だったことが考えられるが、それ以上に真にプロフェッショナルな軍人であることが挙げられるのではなかろうか。ダンケルクを直前に停戦を命じられ苛立つ著者。厳冬の戦線でデニムの軍服(夏用)で戦う兵士を慮る心。ヒトラーへの箴言伝達を躊躇する上官や参謀部に対する怒り。こんな場面を読んでいると、知将かつ闘将であった著者の人柄・性格がよく伝わってくる。戦後、ヒトラーとの親密な関係にも拘らず、西側からも高く評価されたのはこのプロ精神に徹した生き方と装甲戦と言う近代陸戦の創始者としての敬意にあったに違いない。1954年没。息子二人も戦車兵として東部戦線で戦い、長男は再建された西ドイツ陸軍で父同様装甲兵総監(少将)まで務めている。
本書は自伝である。つまり自身に都合の悪い部分は曖昧に表現された可能性はあるだろう。特に、東部戦線での考え方(1941年夏モスクワを攻略中に、ヒトラーによって南方軍集団の応援に振り向けられ、グーデリアンがこれを批判している点)は一部戦史家の中に厳しい見方をする者もいる。それでも個々の戦闘場面では、そこに居る者にしか判断・描写できないことが多く、装甲戦の現場を理解すると言う点において、これに勝る書物は先ずないのではなかろうか。時間をかけて読んだ甲斐のある一冊だった。グーデリアンの略歴、主要作戦命令書、装甲兵総監職務分掌など20を超す添付資料(約60頁)も資料的価値がある。
2)デジタルエコノミーはいかにして道を誤るか
-デジタル産業革命による社会変革は何をもたらし、その変化に如何に対応すべきか-
「America First !」とトランプ大統領が叫び、輸入制限発動や移民規制策を打ち出すたびに「これは現実の産業動向の流れに抗している」と思えてならない。輸入制限の恩恵を受ける者は、いわゆる“Rust Belt(さび地帯)”と呼ばれる中西部一帯の20世紀前半に栄えた鉄鋼業や金属加工などを主体とする重工業地帯であり、日欧を含めこの種の産業は特殊製品やブランド物を除けば、成熟(衰退)業種ばかりなのである。一方で、米国発のデジタルテクノロジー(以下ITと略す)産業は活況を呈し、EUはGAFMA(Google、Apple、Facebook、Microsoft、Amazon;Mが落ちてGAFAとも言われるが)に課税する政策を打ち上げている。そしてこのGAFMAとその周辺には若々しい企業が生まれ育ち、そこで多くの優秀な移民技術者が働いている。米国人ソフト技術者があまりにも不足しているからだ。明らかに大きな産業構造変化をここに見ることが出来る。中高年の金属・機械技能者をプログラマーに転換できるわけではないが、ITの最前線を走る国として、関連産業のさらなる発展を図り、そこからのメリットを斜陽地帯活性化に生かす広義(教育から税制まで)の経済政策はないのかと。
そうは言うものの、私もITの将来を手放しで楽観視しているわけではなく、期待と不安がない交ぜの状態にあるのが率直なところである。一番気になっているのが、ビッグデータ・AI(人工知能)・IoT(インターネット適用の深化・広域化)による “中抜き”現象である。ここに見え隠れしてきているのが、一握りの高度な知的存在(人、企業などの組織)と誰にでも出来る簡単な(それでいてロボットには適さない)作業分野の乖離である。その先にあるのは収入ばかりでなく、生き甲斐にまでおよぶ格差の拡大である。何が問題でどんな解決策が考えられるのか、そんな思いで本書を手にすることになった。
本書の原題は“The Wealth of Humans(人類の富)”である。第1次産業革命勃興期に出版されたアダム・スミスの“The Wealth of Nations(諸国民の富;国富論)”を意識して名付けられたに違いない。現代を第4次産業革命(第1次;蒸気機関、第2次;電気・通信、第3次;コンピュータ、第4次;IoT)の黎明期と見てのことである。邦訳で“デジタルエコノミー”としたのも技術論(この視点は極めて浅い;シンギュラリティ(技術的変革点)到来を肯定しているように読める)にとどまらず経済・社会に対象を広げた内容に相応しい。
先ず焦点は、現在グローバルに広がっているIT利用による産業構造変化、特に労働環境に向けられる。結論を言えば「余剰は避けられない」との見通しである。具体的には単純労働のみならず中産階級が担ってきた職種もその影響を受けて大幅に減じ、先進国ばかりではなく新興国、発展途上国でも個人の収入格差が広がり、さらに国家間や地域間(大都市のさらなる発展と地方の没落)の経済格差も拡大傾向が見て取れると将来を展望する(中国の場合は地域格差に注目している)。この根源にはレーガン・サッチャー時代に勢いを得た新古典派経済学に基づく過度な規制緩和が在ると論ずるが、ここは数年前大きな話題を集めたトマ・ピケティと考えを一にする。しかし著者の問題意識はそれ以上にITにあり、グローバル化(ITに依る国境の曖昧化)と併せて労働力余剰を浮き立たせ、現在の事業・雇用形態では解決の決め手は無く、このままでは世界規模で社会不安が広がると警告する。
次の視点は、今起きていることを歴史的に分析することである。要約すれば、数次の産業革命の影響は当初の混乱を乗り越え50年、100年をかけて社会全体を改革し落ち着いていく、と言うことである。例えば、第一次産業革命時における初期の労働者階級の惨状(食住環境からラッダイト運動(機械破壊運動)、労働争議など)が原初の社会主義思想を生み、これが政治・経済システム改革に発展し、ついには
“ゆりかごから墓場まで”の社会を実現した過程をたどり、技術革命に留まらない新しい社会革命の必要性と可能性を論ずる。
この最後の部分こそ、本書の肝となるわけだが、提示される富の再配分方法は富める者から大きな政府(あるいは共同体)が今以上にその富を回収し、無収入や少ない者に配布して(ベーシックインカムの考え方に近い)消費中産階級を作り出すことである(富裕層に所得が増えても、それに比例した消費は生まれない;経済は活性化しない)。また世界規模では、後進国を援助して豊かにするよりは、豊かな社会に受け入れる(移民)方がより効率的なので、移民政策を積極的に進めて格差縮小を図る。これによって世界全体の消費が増え、経済成長が達成できる、との論理を展開する。
根底にあるのはソーシャル・キャピタル(いわゆる
“社会資本”とは少し異なり“その社会が持つ無形の資産”の意が強い)なる考え方で、例えば、ビル・ゲイツが億万長者になれたのは米国社会が在ったからで、アフリカに生まれ育っていれば、いくら才能があっても大金持ちにはなれなかったはずである、従って彼の資産はもっと社会に還元されるべきだ、となる。ここには新古典派の考えのみならず、資本主義そのものの考え方を抜本的に変える必要があるばかりでなく、個人の生き方も再考せざるを得ない。当然だが著者自身それは自覚しており、“施し”によって生きることの数々の問題点にも言及しつつ、数次の産業革命と古代社会や実験的な小コミュニティの例を参考に、その実現可能性を示唆し、人類はそれに向けて進まなければデジタル革命は負のスパイラル陥ると結ぶ。
著者は米国人のジャーナリストだが勤務先は英国の“エコノミスト誌”英国滞在も経験しており、英米間の社会福祉政策の大きな違いを、身を持って体験しているところから、このような発想に至る遠因があるように読んでいて感じた。著者が言わんとするところは理解できても、実現性となると懐疑的にならざるを得ない、と言うのが読後感である。
3)日銀と政治
-“失われた20年”、この間の金融・経済政策の裏面を白日の下にさらす日銀秘話-
1998年5月連休明け間もないある日の午後、グループの情報サービス会社東燃システムプラザ(SPIN)の常勤役員二人と伴に日銀政策審議委員の一人である中原伸之氏を訪ねた。1985年の会社創設来お世話になっていた氏に、7月以降SPINが横河電機の傘下に入ることを報告し、それまでの指導・支援に対するお礼を述べるためである。SPIN発足時東燃副社長であった中原さんは翌年社長に就任、爾後1994年まで務めたが、大株主であるExxon・Mobil(当時は別会社)の意向で会長にまつりあげられ、その後1998年4月改定の新日銀法の下で政策審議委員となっていたからである。正面玄関で守衛に丁重に迎えられ、秘書役の案内で上階にある審議委員室の一つに招じ入れられた。優に東燃社長室の倍はある広々したその部屋は、窓に面した一辺を除けば収納・書棚スペースに多くが割かれ、もともと学者肌だった氏に相応しい雰囲気に満ち溢れた空間であった。帰り際にエレベーターまで送っていただく際、丸テーブルの政策審議会会議室も見せていただいた。あとにも先にも私の日銀との関わりはこれだけである。
旧日銀法は戦争中の1942年に制定され、第1条は「日本銀行ハ国家経済総力ノ適切ナル発揮ヲ図ル為国家ノ政策ニ即シ通貨ノ調整、金融ノ調整及信用制度ノ保持育成ニ任ズルヲ以テ目的トスル」と戦費調達を主眼とすることがうかがえる文言になっている。この法律は1949年連合軍総司令部の命で一部改定され、総裁一人にあった意思決定権が7人のメンバー(大蔵省、経済企画庁、大手都市銀行、地方銀行、商工業、農業代表それに日銀総裁)から成る日銀政策委員会に移されたが、実体は名誉職で形式的な機関に過ぎなかった。これを60年越し(カタカナ法のまま残っていた)で大幅改定したのが1998年施行の新日銀法なのである。ポイントは大蔵省の持つ総裁(副総裁2名を含む)任命権が内閣に移り、政策決定権も内閣が任命する政策委員(総裁・副総裁(2名)・審議委員(6名)計9名)で構成する政策審議委員会に在ることを明確にし、いずれの人事も国会承認を要するように改めた。別の見方をするとそれまで大蔵省の従者の地位が対等の“独立”した存在になったのである。本書の内容はこの“独立性”を巡る新法施行後20年の日銀、大蔵省(現財務省)、内閣、与野党の戦いを詳らかにするものである。まえがきは「失われた20年」と括弧つきで始まる。初体験のデフレとねじれ国会それに新日銀法が混乱・暗闘を呼び、その中で日本経済の舵取りに悪戦苦闘する金融政策当事者たち(首相を含む)の姿が、固有名詞入りで活写される。主演者は、首相;橋本・小渕・森・小泉・安倍(第1次)・福田・鳩山・菅・野田・安倍(第2次)、総裁;速水・福井・白川・黒田である。場面展開は、金融政策(金利、紙幣発行量(債券購入))、財政・通貨政策、総裁・副総裁人事、政策審議委員人事。「日銀ってこんな組織・存在だったんだ!それを面白く理解できた」が読後感である。
要約すると、日銀プロパー(速水・福井・白川)総裁は“インフレ退治”の経験・発想しかなく、金利を下げても直ぐ解除(上げに)に転ずるマインドが染みついている。一方内閣・与党は景気と選挙対策に目が行き、金融緩和を常に望む。これに財政健全化を使命と言考える大蔵(財務)の増税・国債発行圧縮願望が複雑に絡む。旧法下なら首相と蔵相が基本方針を決め、それに日銀を従わせることが出来たのだが、新法下では「独立性」ゆえにそれが上手くいかない。決め手は総裁と審議委員人事である。しかし、ねじれ国会が、それまで大蔵(財務)出身者と日銀プロパー交互で務めてきた総裁ポストをプロパーが3代務める結果を招き「デフレ不況20年」をもたらすことになる。総裁それぞれの背景・考え方、それに対する政府(特に首相、財務相)との関係が、新日銀法成立前夜から第2次安倍内閣による黒田総裁任命とそれによる“異次元緩和”実現まで、関係者からの聴き取り調査や議事録を援用して臨場感を持って語られる。そして黒田総裁が目論む“消費者物価2%アップ”はいまだ達成されていない。
1999年9月G7蔵相・中央銀行総裁会議後における速水総裁の失言(会議で円高是正が確認されたにも拘らず、記者会見でそれに反するような発言)に対するサマーズ財務長官の怒り(「会議はやり直しだ!」)、同総裁の金融緩和解除に一人反対し、市場経済派フリードマンシカゴ大学名誉教授(ノーベル経済学賞)に自分の考えの適否を問う中原委員。FRBバーナンキ議長の我が国金融政策担当者(多くが不況下で金融引締めに走る姿)に対する不信発言、リベラル派スティグリッツコロンビア大学教授(ノーベル経済学賞)による安倍金融・財務政策に対する高い評価、2016年伊勢湾サミットで消費税増税見送りを「大震災はリーマンショック級の危機」と訴える安倍首相に対する各国首脳の冷ややかな眼、など国際的視点からの財政・金融に関する論評と日銀の関わりも日銀の存在を新たなものにしてくれた。
著者は日経から朝日に転じたと言う珍しい?経歴を持つ経済記者。それ以前は政治記者として官邸・防衛省・民主党を担当しているので政界の裏話にも詳しい。国の金融政策を理解するのに取っつきやすく、面白く読める本としてお薦めの一冊である。
4)鉄道エッセイコレクション
-読んで味わう鉄道の楽しみ。太宰治から西村京太郎まで-
私の国内旅行は専らクルマだが、これは旅情を味わうと言うよりは“走りを楽しむ”傾向が強い。来年はいよいよ傘寿を迎えるので、いつまでクルマを保持し運転を続けるのか、ぼつぼつ決めなければいけないところへきている(「85歳までは」と密かに期してはいるのだが)。旅は身体が動かなくなるまで出かけたい。自家用車に代わる乗り物は、飛行機、船、バスなどあるが、何といっても子供のころから大好きだった鉄道にしくものはない。しかし、新幹線の延伸とローカル線の廃止で、鉄道旅行は制約が多くなってきている。せめて古き良き時代の鉄路の旅を書物の中で味わい、これからの時代でも実現可能なものがあるかどうか探ってみたい。そんな思いで本書を手に取った。
内容は、有名・無名(多くは乗り鉄・撮り鉄の鉄道ファン)の文筆家が各種出版物に掲載したエッセイを、“鉄道ジャーナル”編集者を務めたこともある紀行作家がまとめたもの。有名どころでは、鉄道紀行作家の先駆け内田百閒、宮脇俊三、岡田喜秋(1月紹介した「秘められた旅路」;「旅」編集長)、阿川弘之(私は一流の鉄道作家と認めないが)。文藝作家としては、太宰治、井上靖、五木寛之、吉田健一(吉田茂首相の長男、麻生財務大臣の叔父)、西村京太郎、川本三郎、立松和平などが並ぶ。また蒸気機関車ファンとして数々の画集(私も一冊持っている)を出している映画脚本家の関沢新一の一文も取り上げられている。題名の“鉄道エッセイ”が表すように、本書は“旅行”に限らず、駅や駅弁、鉄道員におよぶもので、その点チョッとこちらの期待とは異なるのであったが、反面全く読んだことのない著名作家たち(太宰、井上、五木)の作品に触れることが出来たのは思わぬ収穫であった。特に太宰の「列車」は友人の恋人を上野駅から送るシーンで、1933年の小品。既に、病的な感受性、倦怠感が伝わり、のちの運命を予感させる。また、井上作品は「姨捨」が掲載されているが、明らかに自身の体験と思われる、母や祖母に関する話が長々と(しかし興味深く)語られ「一体何が鉄道と?」と思わせる展開から、信州の姨捨駅で結ばれ、その巧みな構成に引き込まれる。吉田健一はケンブリッジ大学に留学した経験もあり西洋料理に詳しい。日本料理とフランス料理の比較を論じた後に「駅弁を買うのを旅行する楽しみの一つに数えることが出来れば、そういう人間は健康であって、西洋料理でも、世界の珍味に浸るに足る」「駅弁などまずくて食えないというような通人の仲間入りを我々はしたくないものである」と駅弁を賛美する。我が国の鉄道ミステリーと言えば松本清張の「点と線」が有名だが西村京太郎も「寝台特急殺人事件」でやっと売れ出す。新幹線が縦横に走り出し在来線の長距離列車に消えた今、トリック作りも簡単ではない。時刻表を見ながらアイディア発掘をする苦労話も面白い。大好きな内田百閒は「阿房列車シリーズ(3巻)」を持っているのだが、読んだのは遥か昔、今回「雪解横手阿房列車」で何とも言えぬとぼけた味わいを久々に楽しんだ。
本書はテーマ別;各駅停車、蒸気機関車、夜行列車、時刻表、駅弁など、に数話がまとめられ、最後に編者による解説がつく。これが良い。時代背景、作者の経歴・作風、その後の変容(廃線を含む)を知ることによって、興味が倍加する。
5)不死身の特攻兵
-将軍・参謀よりクルーな若き陸軍伍長特攻兵のたどる数奇な運命-
戦史、特に第2次世界大戦(大東亜戦争)は生きた時代と重なるため格別興味がある。ただ、その対象は主に広義の機械、つまり兵器に限られるため、我が国旧陸海軍では、機動部隊や潜水艦を中心に極端に海軍に偏り、陸軍に目が行くのは、一部の軍用機と専ら生まれ故郷の満州に関わる政治史に限られる。一方で、海軍も含め意識的に避けていたのが“特攻”に関する書物、理由は
“辛い”ばかりだからである。いくら時代が時代だからと言って、本心から進んで“必死の自殺行”任務に応ずるとは考えられない。ただ空気から「ノー」と言えず、死をなかば強要された「気の毒な」存在との思いが強い。そのことは一昨年3月知覧特攻平和会館を訪れた機会に目にした、十代後半の搭乗員が残した遺書が、いずれも同じような内容だったことでさらに固まった。
本書は昨年11月出版されたときから気になっていた。題に“不死身”とあったからである。「特攻が不死身?」と。著者は今まで読んだことはないもののノンフィクション作家として一応名前は知っていたし、格別軍事オタクや反戦主義を売り物にしている人物でないことも承知していたから読んでみることにした。そこには私の特攻観を裏付ける数々の話が終段に向かって収斂していくとともに、散華した人々に対する著者の思いが「(特攻による)総ての死は痛ましいものであり、私達が忘れてはならないものだと思います。特攻隊で死んでいった人達を、日本人として忘れず、深く記憶して、冥福を祈り続けるべきだと思っています」と明記されている。全く同感である。
本書の主人公は、2016年2月9日92歳で亡くなった佐々木友次と言う、終戦時23歳の陸軍伍長である。1923年北海道の開拓農家の6男として生まれ、17歳で逓信省航空機乗員養成所を卒業そのまま鉾田陸軍飛行学校に進み、そこで編成された陸軍初の特攻部隊万朶(ばんだ)隊の隊員に選ばれ、フィリピンに進出し特攻任務に就くが、隊長(特攻前戦死)の考え方や本人の意思で敵艦突入は回避、爆弾投下に専念して9回の特攻(爆撃)を行ったのち、彼の地で終戦を迎えた人である。万朶隊最初の特攻は海軍特攻隊敷島隊(1944年10月25日)に遅れること3週間足らずの11月13日、ここで司令部(第4航空軍)が戦艦1隻撃沈と誤報(偽報?)したために戦死扱いとなり、数奇な(そして残酷な)運命をたどることになる。軍としては死んでもらわなければ困るのである。本人からの聴き取り調査と関連資料で、一個人の体験を一般化して“特攻”の現実を詳らかにする。
特攻の考え方はどのように生じたか、特攻隊員はどう選抜されたか(佐々木の場合;操縦の上手い者を上層部が勝手に選び、“特攻”と告げずにフィリピンに派遣される)、出身母体による違い(海軍の場合兵学校卒(110名)にくらべ、予備士官(688名)、予科練出身者(1727名)の割合が高い))、“志願”の実態(“熱望する、希望する、希望せず”を問われる。“希望せず”を士官の追及で訂正させられ“全員熱望”にもっていく)、使われた航空機(佐々木の場合;
99式双発軽爆撃機;本来は4人乗務が一人、特装起爆装置付き、防御火器なし)、生きて帰った者の扱い(佐々木の場合;外地のため現地部隊に所属のまま何度も特攻を命じられるが内地では収容所のような所に監禁される。一機で特攻に向かわせる。足の遅い爆撃機なのに直衛機なし)、戦果と効果(巡洋艦以上の大型艦は撃沈皆無;護衛空母数隻と駆逐艦少数。徹甲弾を持たない陸軍特攻は装甲に対して全く無力;卵をコンクリート床に落とすのと同じ)、上層部の言動(在フィリピン第4航空軍司令官であった富永恭次中将は「最後の一機には、この富永が乗って体当たりする決心である」と訓示しながら、敗色濃くなると“出張”と称して台湾に敵前逃亡する)、など他の特攻隊も含めその理不尽な扱いを、極めて具体的に描き、その根底にあるものを突き詰めていく。つまり「命じた者」「命じられた者」そして「傍観者」の立居振舞いを分析し、「命じられた者(とその親族)」の苦悩と悲劇を語り、日本の社会・組織が持つ特性を浮き立たせるのである。著者の「命じた者」に対する責任追及は他の戦場(例えばノモンハンやインパール)と重なる視点も多いが「傍観者」分析は独自の見方である。海軍では予科練出身者に特攻が多い。戦後その生き残りが「誰も本心から率先して特攻を望んだわけではない。国に殉ずる純真な心と言うのは表面を繕うだけの言辞だ」と語ると、特攻に出なかった仲間(つまり厳しい選択の場に居なかった者)から「そんなことはない!」との反論が声高に叫ばれる場面が紹介され、この「傍観者」は決して予科練の仲間だけではなく、あの戦争を語る我々一般人である可能性を示唆するのである。著者はまた特攻を煽ったメディアが果たした責任も見逃していない。
2016年9月、自衛隊法との整合性や現地の事情もよく調査・議論が行われないまま南スーダン「かけつけ警護」が決まった。ここへの派遣に際して、1.熱望する、2.命令とあらば行く、3.行かない、の3択のアンケート調査が隊員に対して行われ、“3”に丸を付けると上司に呼ばれて「何で行けないんだ?」と延々と問い詰められ、結局“2”と答えたと言う話を紹介「一気に1944年が2016年につながった」と結ぶ。だた、この関連付けは、個人的には賛同しない。「“確実な死”がそこに在るか無いかは決定的な違い」と考えるからである。
おそらく昨年の12月8日(開戦記念日)をターゲットに発刊された本と思われるが、北朝鮮の核はたまた憲法改正論議の影響だろうか?いまだに売れ続けているようで、新聞広告には“16万部突破”とある。当に“九死に一生”の人生を基に書かれた“特攻”は「命じた者」の書き残した自己弁護の書に比べて(それらへの批判も本書の中で語られる)、はるかに価値ある一冊に違いない(特攻の実態を知る)。
6)週末ちょっとディープなベトナム旅
-東南アジア旅行の達人がいざなう経済発展の中にある独特の“ゆるさ”-
東南アジアの国々は、仕事を含めてほとんど出かけている。残っているのは、ミャンマー、ラオスそれにベトナムの3国に過ぎない。ミャンマーやラオスを旅してみたい気は全くないが、ベトナムは一度出かけてみたいと思っている。仏領インドシナ独立戦争時の決戦場ディエンビエンフー、南北を分けた17度線に近くグエン王朝の首都だったフエ、ベトナム戦争時の激戦地メコンデルタ(特にトンネル網)。出来れば鉄道か長距離バスで縦断してみたい。叶うかどうかわからぬ分からぬ夢を追い求めて本書を購入した。無論現地目線でアジアを語る下川節に惹かれてのことである。
ベトナムに関して既に「週末ベトナムでちょっと一服」が2014年に出ているが、本書は“週末ベトナム”第二弾、書下ろし最新版である。紹介される情報はほとんどが昨年(2017年)後半のものである。文中で(毎年のように出かけているが)4年間の変化がいかに大きく、ベトナムが活気に満ちているかを驚きの目で報じる。インフラ、ファッション、食べ物、交通事情、繁華街と若者たち、仕事・収入・物価、外国人旅行者・滞在者、カンボジャへの国境越えとカンボジャ・ベトナム比較(特に両国における中国の影響力;カンボジャは高く、ベトナムは極端に低い)などを通じて“今そこに在るベトナム”を、居住者に身近な立ち位置で、日本人向けに紹介していく。
興味を惹かれたのは、我が国でもよく知られたベトナム麺フォーの話(ベトナム人はフォーよりブンと言う押出器で作る麺を好む。フォーもブンも実は具の選択がむつかしい)、今やバンコクのカオサン街に取って代わったホーチミンッシティの世界一のバックパッカーの街デタム界隈の講釈(カオサンとの比較)、フランス統治時代に開発されたダラット高原(ホーチミンシティ北東)の別荘地とそこで菊農園を経営する和歌山出身の日本人の話、それにベトナムではないがカンボジャにおける中国進出の凄まじさに関する報告、ベトナムヴィザ政策の難しさ(一旦国外に出た後の再入国がややこしい;巧妙な値上げ策)、などである。
多数の写真(ほとんど白黒)もあり、気分転換・気休めに格好の紀行作品としての価値があるばかりでなく現地旅行にも役立つ情報誌と言える。