<今月読んだ本>
1)満洲国の真実(宮脇淳子);扶桑社(新書)
2)対立の世紀(イアン・ブレマー);日本経済新聞出版社
3)むかしの汽車旅(出久根達郎編);河出書房(文庫)
4)本音化するヨーロッパ(三好範英);幻冬舎(新書)
5)Black May(Michael Gannon);Harper Collins
6)実歴阿房列車先生(平山三郎);中央公論新社(文庫)
<愚評昧説>
1)満洲国の真実
-満州国前史:万里の長城以北は女真族父祖の地、本来中国ではない。-
来年、2019年1月になると80歳になる。奇しくも後に旧日本陸軍最大規模・最上位の編成の一つとなる関東軍が創設された年1919年から1世紀目に傘寿を迎えることになるのだ。日露戦争以後の前史があるとは言え、私にとって“母国”満州(著書ではサンズイ付の洲になっているが、ここでは変換で出てくる州を使う)国は関東軍に依って生み出されたとの認識が強い。実際、数多保有する“満州物”も導入部は関東都督(1906年)の守備隊を経て、関東軍が独立するところから始まるものが大部分だ。「たった13年の歴史(1932年~45年)、もう満州国はすべて知った」と思っていたところで目にしたのが本書である。特に“日本人が知らない”の枕に惹きつけられた。
高校の世界史でこの地方が朝鮮・蒙古・北方狩猟民らが入り乱れていた地であること、清朝はこの地にあった女真(あるいは女直)が南方に移動して築いた異民族王朝であること、などを断片的に習ってはいたが、一方でネルチンスク条約・愛琿条約が中露国境制定の条約と学んでいたから、「まあ満州も中国の一部なんだろう」と、かなり若い頃から一応納得していた。本書はこの満州観に果敢に挑戦する。
漢民族などと言う民族は存在しない(王朝名はあったが)。これは日本人が作り出した言葉である。現在中国と呼ばれる地は、種々雑多な種族が権力闘争を繰り返し(各地方でかなり人種的な差がある)、国境概念など曖昧なままに版図を広げたり縮めたりしていたに過ぎない。中国なる国名は孫文が中華民国を作り上げるまでなかった。それも南部に限られていた。つまり、満州は中国の一部では決してなかった。これを種族の移動の歴史や版図、統治方法からライフスタイルや言語(女直文字;漢字とは全く異なる。アラビア文字やタイ文字などに似ている)まで、差異を明示・例示して、辛亥革命による清朝崩壊以降現在に至る“中国(中華民国、中華人民共和国)”の主張に異を唱える。確かに、現代のチベットやウィグル問題と併せて考えると、なかなか説得力のある論理展開と言える。だから、女真族による満州国建国は自然な流れであり、これを日本(関東軍)が助けただけだとその論をさらに進めていく。傀儡となってしまったのは皇帝溥儀の指導力の無さと人材の欠如にあり、そのため官・軍の日本人がこれを支えざるを得ず、“日本陰謀説”が定説となってしまったと慨嘆する。「もっと陰謀に長けていればよかったのに」と。ここまでくると、中国の一部かどうかを問うところまではついていけても、「ウン?」となってしまう。「そんな疑問をもつのは、あなたの歴史観が間違っているからだ」と著者の叱責の声が聞こえてきそうだ。
“はじめに”が長い。38頁もある。骨子はマルクス史観批判、読む前に中国そして戦後の日本の歴史教育・歴史観を正すことが狙いである。この立ち位置をどうとらえるかで本書の価値は変わってくるだろう。私としては満州事変(1931年)以降の出来事については、満州国の正統性を牽強付会するように取れ、それほど評価する気持ちにはなれなかった。また、学者の書いたものにしては論理展開がすっきりしない。一つの理由は、自分に近い考えを持つジャーナリストの質問に答える形で出来上がった口述筆記を基にまとめられたもので、同じような話が何度も出てくるところにある。それゆえ、読んでいて“きわ物”的印象を拭えなかった。ユニークな(知られざる)この地を巡る地史や国際関係、それに土着文化に触れられた点はそれなりに評価できるだけに、この読後感は残念だ。
2)対立の世紀
-われわれと“奴ら”を生み出した過度なグローバリズム-
1983年カリフォルニア大学バークレー校のビジネススクールに派遣された。中間管理職を対象にした2カ月程度の短期コースで、研修の主題は“アメリカ経済を如何に再活性化(Revitalize)するか”だった。“Japan as No.1”の時代である。同級生は20人の小クラス、この内1/3ほどのクラスメートと家族ぐるみの交流が続いている。その後の人生は、グローバル企業の役員まで昇りつめたものからリストラに遭い自営で頑張っていた者まで様々だが、今では皆引退しそれなりに悠々自適といったところである。この間、子供の教育、老親の介護、伴侶の死、さらには自身の老後で苦労するのは、我々日本人と何ら変わるところは無い。共通する懸念は、充分な教育を施したにもかかわらず、子供たちの生活レベルが親の時代より低下していることである。確実に中産階級が薄くなってきているのである。あの時の脅威は日本だった。今はそれが中国をはじめとする新興国に変わり、インパクトもけた違いに大きい。細る先進国の製造業、流れ込む違法移民・難民。これがポピュリズム政治を生み、英国のEU離脱、トランプ大統領を誕生させたと言うのが通説であるし、かつては中産階級の上位に位置していた私の友人たちの考え方もそれに近い(それでもガチガチの共和党支持者が「トランプには投票しなかったぞ」と言ってきたが)。
著者は日本のメディアにもしばしば登場する著名な国際政治学者、トランプ政権下の米国を中心にグローバル化から発する“庶民の心の不安”を扱った本書を知り、読んでみることとなった。
本書の原題は“US VS. THEM(われわれ対奴ら)”である。「こんなことになったのは奴らのせいだ!」 “こんなこと”と“われわれ”“奴ら”を多角的に解明するのが本書の内容である。焦点は、自由貿易、EU行政権の拡大、移民・難民の移動、など広範な“グローバル化”に当てられる。
真面目に働き、住みよい社会を実現・維持し、国の安寧にも寄与してきた。それを崩したのは、国際社会も同様にしようと言う理想主義に駆られた人々・組織が信奉するグローバル化である。グローバル化を推進しているのは誰なのか?体制の中にいるエリートである。エリートとは誰なのか?既存の政治団体とそれに属する政治家、グローバル企業とその経営者・専門家、一発当てた起業家や金融スペッシャリスト、それに知識人だ。理想と思われたグローバル化は彼らをさらに豊かにするだけだった。これに拍車をかけたのがIT化の波、狭まった仕事は通信技術の発展で外国に移り、AIに置き換えられていく。加えて大量に流れ込む移民・難民にも仕事を奪われ、奴らのために福祉国家を維持するための予算が流用される。挙句の果てに国家・民族としての誇り・アイデンティティを失いかねない。このやりきれない不安感が“奴ら(エリートと移民・難民)”に向けられ、ポピュリズム政治に力を与える。「ドナルド・トランプが『われわれ対奴ら』を作ったのではなく、この構図がドナルド・トランプを生み出したのだ。弟はトランプに投票した。母も生きていればそうしただろう」と切り出し、世界で今起きている政治、経済およびテクノロジーの変化とそれによってもたらされる、勝者と敗者の格差を具体的に取り上げ、論考していく。底流にあるのは、先進諸国に限らない(米国・EU中心に分析が行われているものの、同時にBRICSを含む12の途上国が取り上げられている)、過度なグローバル化に対する冷めた分析である。
展開され分析されるミクロで具体的課題を読んでいくとどうしても世界の将来に対して悲観的になってくる。実際、2016年のダボス会議における報告「世界で最も将来に対して楽観的な国はどこか?」の問いに対して「自国」と答えたのは、米国6%、英・独4%、仏3%に過ぎないから、論調はそれを反映していると言える。
しかし、著者は本書を調査・分析結果で終わらせるわけではなく、その対応策を、概念的ではあるが示す。つまり、「対立を煽ることは破綻への近道でしかない」とした上で、トランプ(のような指導者)を支持した人々に真剣に目を向けるような政治の実行、具体的には新しい社会契約方法(広範なセーフティーネットの構築;少々乱暴に要約すれば富の再配分方式)を提言する。そして「社会契約を書き換える試みがいつどこで可能になるかと言えば、社会が比較的均質で、国境管理で大した問題を抱えておらず、経済の生産性を持続的に高めていく手段を持つ国で最も容易だろう」と結ぶ。日本人であれば我々こそその先頭に立つ国と解釈するだろう。しかし、“政治に対するしらけ(低い投票率)”は共通するものの、政治環境(対立の激化)はここで語られる状況とは大きな差がある。これから激震が来るのだろうか?
3)むかしの汽車旅
-鴎外、漱石 文豪たちの想い出深い汽車の旅-
先月本書編者のエッセイ「本と暮らせば」を読み、汽車をテーマにしたアンソロジー(テーマに則した複数の作者による作品を集めたもの)である本書を知った。その内容から、取り上げられた時代(明治から終戦直後まで)や作家(鴎外から太宰治まで)に興味を持ち、“むかしの汽車旅”を辿ってみたくなった。“汽車”と書かれるとどうしても蒸気機関車が牽引する列車を思い浮かべるが、ここでは路面電車や乗り物よりも旅そのものを語るものもあり、まあ一種の紀行文集と言ったところである。だからがっかりしたと言うわけではなく、むしろ往時の旅と社会を知ると言う点、また文豪たちの一端を好きなテーマで窺うことが出来たと言う点で、興味深く読んだ。
鴎外が描くのは東京市電、同じ停留所から乗った女性の観察記、子規は総武鉄道の車窓を眺めながら詠んだ句集。漱石は、場所が明確でないのだが、満州旅行の際本線を降りたあと町の中心部に向かう人力トロッコの話。もともと胃弱の体質ゆえ身体に堪えたようで「余は此のトロに運搬されたため、悪い胃を著しく悪くした」とある。“悪い胃を悪くした”名文家でも同じ言葉を連続して使うんだ、と妙なところが気になった。荷風は用もないのに住まいの在った四ツ谷から深川まで市電に乗った車内の情景を人物描写も含めて克明に記す。読んでいて山の手から下町への変化が、臨場感をもって伝わってくる。龍之介は海軍機関学校の教師(英語)をしていたため横須賀線を利用する。奉公に上がるらしい少女が間違って2等車に乗り込み同席することになる。彼女が走る電車の中から、踏切近くに立ち見送りに来た弟たちへ蜜柑を投げるシーンは哀歓を呼ぶ。林芙美子はシベリア鉄道でパリへ向かうのだが、車中ロシア人と何とか意思疎通出来ている。少しはロシア語を解したのだろうか?太宰治は戦後間もない上野駅、友人を慕って上京した女性を、もう愛想がつき始めている愛人と見送る場面。意外と鉄道に詳しいことに驚く。
最も面白かったのは大町桂月の「迎妻紀行」。桂月は大学卒業後出雲で中学の英語教師をしていた時代がある。妻はその地の出身者、この時桂月は作家生活に入っており東京在住。二人目の子のお産のために妻は里帰りしており、産後妻と長男それに生まれたばかりの次男を米子まで迎えに行く話である。ルートは、先ず神戸までは東海道線で直行、そこから山陽鉄道で岡山まで行き、乗り換えて津山までは鉄道が通っている。しかし、ここから米子までは人力車で中国山脈越えするだ。車夫も一人ではとても無理だし、山中でひと夜を過ごす宿も探さなければならない。この山越えは一昨年クルマで走り抜けただけに、何か親近感はあるものの「エッ!あそこを人力車で!?」の思いで読んだ。とにかく鉄道よりもこの道中(帰路も含めて)が作品のハイライトである。来月初はここを米子方面から逆走する予定、再度この話を反芻することになる。
他にも、泉鏡花、田山花袋、岡本綺堂、啄木(正確なタクの字がIMEでも出てこない)、藤村、虚子、賢治、坂口安吾など多士済々。最後は大和田建樹の鉄道唱歌東海道編66番まで。大いに学び、楽しんだ。
唯一の不満は、出典・その出版年月は記されているものの、初出時期が書かれていないことである。「この話はいつのことだ?」が常に頭を過ぎり、思わぬ方向へ(主にグーグル検索)気が散らされた。
4)本音化するヨーロッパ
-理想主義先行で来たEUの今後が見えてきた?-
現役時代海外出張の機会が多かったがヨーロッパへ出かけたのは極めて限られていた。だから引退したらあちこちこの地域を旅したいと思っていた。ビジネスマン人生を終えた2007年英国に半年近く滞在した。マンチェスターの北、湖水地帯巡りには絶好の位置に在るランカスターと言う町である。中小規模の都市だが、インド系の人が目立ったし、東アジアの食材を扱う店もあって重宝した。当時の移民問題は東欧からの労働者、しばしばTVでトラブルが放映されていた。私を指導してくれたのはランカスター大学経営学部教授、EUへの過度な権力集中に警戒感が強かった。「選挙で選ばれたわけでもない連中(EU官僚)に、国や生活を任せられるか?!」と。翌2008年旧知の二人の友人を訪ねてイタリアに出かけた。一人はガチガチの北部同盟支持者、「南イタリアは人種が違うしお荷物だ」と言っていた。もう一人も北部出身「ローマは素晴らしいが、そこから南は別世界だ」と嫌悪感を露わにした。当時からヨーロッパは決して一つではなかった。その後フランス、スペインと旅し、いよいよ次はドイツへと思っていたところ2015年頃からテロ多発や難民問題が起こりしばらく様子を見ることにした。昨年の選挙でメルケル首相率いる与党(CDU+CSU)が単独過半数に達しなかったために、国内政治情勢はガタついていたものの、治安は落ち着きを見せていたので本年5月念願だったドイツ旅行を決行した。とは言っても気がかりは難民急増によるトラブルの可能性。フランクフルトに夕刻着きマイン川河畔近くに在るホテルに落ち着いたのは6時頃、一休みしてまだ明るさが残る付近の公園や遊歩道を散策した際、ヒジャブ(イスラムのスカーフ)で頭部を覆った女性など、明らかに白人でない人を多く見受け、近くにはパトカーが停車しており、数人の警官が道行く人々に目を配っていた。あとで聞くとこの一帯はイスラム教徒の特に多い地区だと言うことだった。こんな身近な体験からもEUが(エリートが描いてきた)理想とはかけ離れたものになっていることを実感していた。たまたま先に取り上げた「対立の世紀」を読んでいるところで本書の出版を知り、「ヨーロッパはどうなんだ?」と併せ読むことになった。
「対立の世紀」は具体的な事例やデータに基づいて“対立”の背景や構造を明らかにしていく手法をとっている。言わば“ミクロアプローチ”である。本書もその点は同様、否むしろ個別の現地取材ノートそのものと言ってよく、自分の足で訪ね、それなりの人物と直に話し合って得た情報は、メディアで知る外信記事や外誌や文献を基にしたノンフィクションと比べ、「実態はそうなのか!」と教えられることが多かった。例えば、ドイツの財政規律は立派なもので、ギリシャ危機に対しても厳しい姿勢を貫くところは、財政破たん国家に等しい我が国に比べ、称賛にすべきものと考えていた。しかし、本書によればこの厳しい規律ゆえに国内のインフラ投資が進まず、危険な橋が多数交通制限を受けていることや学校施設も酷い状態にある(破損した窓さえ簡単に復旧できない)ことを知らされると、この調子でEU財政を進めようとする動きに、反対続出は納得できる。
取材した国・場所とテーマは;ギリシャ・レスボス島(難民問題;トルコからの流入とそれを監視するEU海上パトロール組織)。リトアニア(安全保障問題;西側にバルト海に面するロシアの飛び地があり、第2次世界大戦時のダンチッヒとポーランドの関係に酷似。NATOの小部隊(450人:独・蘭・ベルギー・ノルウェイ・ルクセンブルク)が駐在するが、リトアニアは米軍派遣を熱望している。ドイツは複数のテーマで取材しており、先ず取り上げられるのが難民問題(難民認定組織、受け入れ態勢、同化政策(教育環境、言語を含む;豊かなドイツ人はイスラム地区から遠ざかる))、第2はポピュリズム問題(移民政策に批判的な政党“ドイツのための選択肢(AfD)”;決して極右ではなく知識人の共感を呼び、着々と政界に地歩を築いている)、もう一つは財政・経済、先に触れた財政規律の裏面、ダブルスタンダードの対露政策;ウクライナ制裁を行いながら第2ノルト天然ガスラインプロジェクトを露と共同で推進、斜陽産業地域が期待をかける一帯一路;「対中関係は死活的に重要だ」「非常にプロフェッショナルで、最後には計測可能な中国政府は、恐らく世界の安定の錨すら提供している」と言うような声を紹介する。取材先は上記3ヵ国だが、ポピュリズム政治に関する情報は広く集め分析している。ポピュリズム政党が連立を含めて与党になっているのは、北から、ノルウェー・ポーランド・チェコ・スロバキア・オーストリア・ハンガリー・スイス・イタリア・ブルガリア・ギリシャの10ヵ国にもおよんでいる(デンマークでは閣外協力)。最後はEU共通課題のユーロについて緊縮財政にあえぐギリシャに戻って、医療・社会福祉の現場の声を伝える。ドイツの主張する財政の締め付けで見かけ上の数字が改善したように見えるが、医療機関の運営状況は酷いもので、篤志家の寄付で何とか急場をしのいでいるのが実態なのだ。ドイツとギリシャ(あるいは東欧や南欧)に代表される生活態度が異なる国が一つの通貨圏を持ったことが、医療福祉が劣化するギリシャと、社会基盤が劣化するドイツの双方を生んだ要因と著者は断ずる。
EU域内の人々の自由な往来を承認したシェンゲン協定、共通通貨ユーロのいずれをも認めてこなかった英国はBREXIT(脱EU)を選んだ。ここにも「われわれと奴ら」は確実に存在し、ドイツが主導してきた大陸欧州の理念先行策が、いま構成国の多くから問われている。もし西欧社会が崩れ、ドイツが孤立する事態が生じたとき、同じ大陸国家として独・露・中枢軸が成ることを予見・警告して本書は終わる。ミクロな具体例から発した本書がこんな衝撃的な結論に至るとは!が読後感である。
著者は読売新聞編集委員、ベルリン駐在が長く英語・ドイツ語に不自由ないようだ。
5)Black May
-数字で追うUボート対護衛船団、大西洋の戦いの分岐点は1943年5月だ-
蔵書で一番多いのが戦史や戦記物。おそらく500冊は超えるだろう。それらを読んでいて面白いのは「今次大戦で勝敗の分岐点あるいは決着点はどこにあったか」に関する、各国の見解である。日本人なら、海戦ではミッドウェイ、陸戦ではガダルカナル、とどめは広島・長崎への原爆投下に終わる大都市への戦略爆撃が定番と言ったところだろう。太平洋戦線を見ると米国も海・空に関しては同様で、スミソニアン航空宇宙博物館にはミッドウェイ海戦における空母の艦橋を模した展示コーナーがあるし、ワシントン・ダレス空港に隣接した新航空博物館には広島にウラン原爆を投下したエノラゲイ号、オハイオ州デイトンの空軍博物館には長崎にプルトニュウム原爆を落としたボックスカー号の実物が展示されているほどだ。しかし、陸戦ではガダルカナルより、激戦だった硫黄島、沖縄戦に関する書物や映画が多い。では欧州戦線はどうだろう。陸戦に関して、米国はノルマンディー上陸作戦を挙げるが、ソ連とドイツは何と言ってもスターリングラードが分かれ目と見る。これに対して英国人は真の転換点は陸戦ではなく英国上陸作戦の前段階であった英独航空戦(The Battle of Britain)を重視する見方が強く、それに行き詰ったドイツが独ソ戦を開始、挙句両面作戦に失敗したので、スターリングラードは第二転換点との見解が根強い。しかし、英・独海軍および冷静に欧州戦線を分析した戦史家・軍学者の中には大西洋の戦い(The Battle of Atlantic;Uボート対護送船団)の勝敗こそがその分岐点だと主張する。ただこの戦いは地味で時間のかかる戦いだったから、他の戦場のように決定的な戦闘がクローズアップされる場面が無く、過小評価されてきたのだと。本書はこの大西洋の戦いに着目し、その転換点を1943年5月(May)とする米人歴史学者の研究結果をまとめたものである。Blackは明暗の暗、Uボートの黄昏を意味する(護送船団にとっては明)。
1939年9月1日ドイツがポーランドに侵攻して第2次世界大戦が始まる。ポーランドと軍事同盟を結んでいた英仏は二日後の9月3日に宣戦布告するが、西部戦線は開かれず翌1940年5月の西方電撃戦まで無風状態、“まやかしの戦争”と揶揄されるほどだった。しかし、海の戦いは開戦時から始まっていた。Uボートによる通商破壊戦である。島国である英国経済は植民地や海外との貿易で成り立っていたから、それを断つことが最も戦略として重要なことは第一次大戦時の教訓で英・独とも承知していた。独は「70万トン/月沈めれば敵は参る」と計算していたし、英側も「60万トン/月に止められれば何とか耐えられる」と考えていた。両者の数字は見事に一致している。独Uボート艦隊は海軍の中でほぼ独立軍種に近い性格を有し、第一大戦の潜水艦乗りカール・デーニッツが全権を掌握していた。彼の計画は開戦前に300隻のUボートを保有し、100隻が実戦に、100隻が戦場との往復に、100隻が整備や給養に当たると言うものだった。しかし、それが実現する遥か以前に開戦となり、戦闘に投入できるボートはたった39隻しか手もとになかった。だが、よく訓練された乗組員たちは開戦初期奮闘し、英基地に潜入して戦艦ロイヤルオークを沈めたプーリン艦長、護送船団を襲い一日で商船7隻を沈めたシュプケ艦長、トン数王(Tonnage King)と称せられたクレッチマー艦長などの英雄を誕生させ、1940年6月~10月はUボート乗りにとって“ハッピータイム”とまで呼ばれている。そして1942年11月には英国危機ラインを上回る74万トン/月の戦果を挙げ、この年のUボート1隻当たりの撃沈トン数は4万5千トンに達して、英国を崖っ淵まで追い詰める。効果的な戦法は、複数のUボートに哨戒線を張らせ、発見すると司令部に通報、そこからの指令で他の哨戒域からも多数のUボートを急行させ船団に襲いがかるウルフパック(群狼)作戦である。時には20隻、30隻におよぶ狼が食らいつくこともあった。
英国もこの間無策だったわけではない。戦争内閣(メンバー限定)の下に対潜委員会を発足させ、その下に戦域ごとの対潜司令部を置くとともに、艦艇の整備、兵器の開発、戦術の検討を進めていく。捕鯨用キャッチャーボートをベースにした護衛艦コルベット艦の大量生産、艦載・機載短波レーダの開発、音響探知器の改善・高度化、新型爆雷(ヘッジホッグを含む)の開発・増産、HF/DF(ハフダフ)と称する電波発信源特定システムの装備、暗号解読やOR手法の適用、英本土、カナダ、アイスランドやグリーンランドからの長距離航空哨戒、などがその対策の具体例だ。これに1941年12月の真珠湾攻撃で米国が参戦、次第に大西洋の戦いに乗り出してくると護衛空母が船団に随伴して航空戦力空白域がなくなる。結果1943年1Qの商船損耗率はUボート1隻当たり2万8千トンまで落ち、商船1隻平均4千トンとする1Uボート当たり11.2隻から7隻まで減じたとことになる。そして5月、全戦域のこの比率は2.16~2.66隻となり、デーニッツは「これは敗北だ!」と参謀たちにつぶやく(決して敗北主義に陥ったわけではなく、新しい戦い方を考え出すために)。
大戦全期間を通じて、就役したUボート総数は830隻、主戦場の北大西洋(この他にアフリカ航路や北極海航路(ソ連支援)、米東岸航路などがある)だけで480隻が沈められ、27,400人の乗組員が戦死または行方不明になっている。一方の英国も、今次大戦全犠牲者の統計で、商船員(民間人)の損耗率(死者・行方不明者)が17%に達し、正規海軍;9.3%(商船に乗務していた予備役を除く)、空軍;9.0%、陸軍;6.0%に比べ桁違いに高い。当に大西洋の戦いこそ総力戦の縮図だったことがよく表れている。
同じ年(1943年)の秋、我が国海軍に“海上護衛総司令部”が創設されるが、泥縄式の組織と装備でではとても米潜水艦隊に抗するものではなく、南方とのシーレーンは細るどころか間隔の長い点線となり資源が枯渇する。これこそ真の敗因だったのではないか?逆に日本の潜水艦隊が米の補給路遮断を主務としていたら“太平洋の戦い”も別の展開があったかもしれない、同じ島国でありながら何故こんな差が生じたのだろう?やはり巷間言われる「道楽と戦争だけは真剣にやる英国人」は正しい、などと本書を読みながら考えてしまった。
本書は、1943年4月22日北アイルランド北方海域に集結した商船43隻かなる西行き低速船団(ONS-5;SはSlowの意;船団速度7.5ノット;護衛部隊は駆逐艦1、フリゲート艦1、コルベット艦4、救助用トロール船2、タンカー1)が5月9日カナダ・ニューファンドランドのハリファックスに着くまでの航海を追って、先に挙げた潜水艦戦における艦隊や船団運用・戦い方・組織・各種技術・戦果検証などの詳細を、英・独両者の資料を基に調査分析し、その研究結果を一般読者向けにまとめたものである。この時期の北大西洋の自然条件厳しい中での航海・戦闘場面に一部フィクション的色彩があるものの、総じて数字や技術あるいは作戦そのものに重点を置いているので読み物としての面白味は限られる。また、具体的な作戦例(ONS-5)と潜水艦戦争全体像(特に技術開発と作戦)が錯綜し、時間的な関係をつかむのに苦労した。反面数字や作戦、技術の細部説明やそれらの基となる情報源(参考文献)が詳しく明示されており、“大西洋の戦い辞典”としての価値を持つ。個人的には11年前英国で学んだOR史を補完する情報に多く触れられ、得るところ大であった。
6)実歴阿房列車先生
-内田百閒直弟子が語る「百閒伝」、貧乏物語と人気随筆“阿房列車”秘話-
私が随筆に惹かれるようになったのは入社して2年目、まだ寮に住んでいた時代、そこにあったアサヒグラフと言う週刊グラビア誌に作曲家團伊久磨の「パイプのけむり」と題するエッセイが連載開始され、それを読み始めた時からである。全体として辛口、ややスノッブな感があるものの、好奇心に富む題材と上品な筆致に大いに魅せられた。私が1980年、初めての自宅を三浦半島に持ったのはその影響である。その團がある時「自分が書くことを学んだのは内田百閒の作品からだ」と記していたのを目にした。それなら「百閒を読んでみよう」 そう思い立ち、先ず好きな乗り物と関係する「第一阿房列車」を求め、人を食ったとぼけた味わいにすっかり虜になってしまい、第二、第三とつづけ、さらに乗り物を離れて一連の“百鬼園(ひゃっきえん=ひゃっけん=百閒)”物へとのめり込んでいったのである(小説は一編も読んでいない)。本書の著者平山三郎は阿房列車シリーズに“ヒマラヤ山系”なる仇名で登場する国鉄職員、旅にはいつも同行する秘書のような役割を演ずる人なので、本書を読むまで広報・総務関係のスタッフだとばかり思っていたが、実は編集・出版の専門家で作品も書いている、戦前からの百閒の文学上の弟子なのだ。本書はその直弟子に依る「内田百閒伝」と「阿房列車臨時停車編」と言った内容である。
百閒は造り酒屋の長男として岡山市近郊で生を受け旧制高校(第六高等学校;現岡山大学)卒業までその地で暮らしている。百閒なるペンネームは自宅付近に在った水無川、百間川から来ている(間と閒;日と月、の違いについて本書の中で語られる)。中学生くらいから文学に興味を持ち、高校生になると俳句から始まり散文作品を書くようになり、それを当時売れっ子だった漱石に送り、評を求めたりしている。高校卒業後東大独文科に進み、漱石の門下となるが、先輩には寺田寅彦、小宮豊隆など錚々たるメンバーがおり、若輩として恐る恐る同席している姿が、本書からうかがえる。一方で、少し後輩には芥川龍之介もおり、彼は百閒の才能・作品を高く評価する。大学在学中に結婚したようで、その後の経緯について本書の中に「大学を出てから1年半遊食した。既に妻子があり又老母の外に祖母も健在であった」とある。断片的ないくつかの話をつないでいくと、故郷の第六高等学校ドイツ語教授の話があるのだが、在校時の言動がもとでその話が消え、やっと陸軍士官学校ドイツ語教授の口が見つかる間のことらしい。実家は父の代で潰れ、経済状態も厳しかったようである。幼少時代は豊かで、あの時代に大阪まで出てオルガンを買ってもらう話もあるくらいだから、一流好みはその頃から染みついており、生活を切り詰めるのはなかなか難しかったに違いない。ついには高利貸から借金を重ね(それ以前には漱石からも金を借りている)、妻子とも別れ木賃下宿に隠れ住む身となる。この体験が、のちに百閒の売り物の一つになる“貧乏”物の原点、本書を読むだけでも、相当酷い当時の状況が窺える。士官学校の俸給まで押さえられ、もう少しで恩給受給資格を得られるのに退官せざるを得なくなる。窮地の中で得た就職先は法政大学ドイツ語教授。その退任を扱った映画に黒澤明の遺作となった「まあだだよ」がある。これは教え子たちが冗談半分に「先生はまだあの世に逝かないのかな~」と言いながら“魔阿陀会”と言う健康長寿を祝う会を開いていたところからきている。
一体全体百閒の文学史上の貢献は何なのか?少なくとも私が知るのは「阿房列車」と一連の貧乏物、例えば「貧乏帳」のような随筆ばかりであるが、実は「漱石全集」の編纂に関しては細緻を極め、現在に至るもこれ以上のものはないらしい(漱石は当て字が多く、送り仮名もいい加減だった)。
さて「阿房列車」である。私のように阿房列車から百閒の世界に入った者にとって、既に有名人となっている百閒に同道する“山系”は国鉄が用意した秘書役と思い込んでも仕方がないような書き出しである。しかし、二人が知り合ったのは昭和17年春、山系は鉄道省大臣官房現業調査課課員として、職員の勤労意欲を鼓舞するための省内報「大和(たいわ)」の編集者として百閒に原稿を依頼するところから始まっているのだ。それをきっかけに山系は百閒に弟子入りして、諸事百閒の身の回りの世話をするとともに文学の指導を受けるようになったのだ。つまり昭和25年に始まる「阿房列車」の時には既に8年間の付き合いがあり、文中では百閒に何を問われても「はあ」としか答えない山系だが、二人の間ではこれで充分意思疎通が出来る関係にあったわけである。
百閒が乗るのはいつも一等車が二等車(当時は三等車まであった;今の普通車)。宿泊先も総じてその土地の一流旅館。本書を読むまで、旅行先での国鉄関係者との宴会も含め、費用は国鉄か出版社が負担しているのだろと、疑うこともなく思っていた。しかし、これが全部百閒の自腹から出ていたことを本書で知らされた(出版社がこの紀行随筆の掲載を約束してはいたようだが)。万事人任せの大名旅行ではなかった背景を知ると、「阿房列車」をもう一度読まないことには、百間の作品に託した意図が正しく読み取れないのではないかと言う気に、いまやなっている。
本書は一つの作品として書かれたものではなく、紙数の約半分を使って著者との師弟関係をベースにした回想録風に百閒の生涯を辿るようになっている。そこには、恐らく百閒没後整理したのであろう、著名人(漱石を含む)との交換文書や同人誌などに残った百閒関連の情報を巧みに交えて、その人となりが浮き彫りされるような内容になっている。それに著者がその時々に書いてきた百閒に関する随想や評論を添付するような形で構成される。従って、紀行文としての「阿房列車」そのものは主役ではない(それでも面白い話は多々あるが)。しかし、どこを読んでも著者が百閒を慕い敬う気持ちに溢れていることが、何とも気分を爽快かつ穏やかにしてくれ、一冊の本としてのまとまりを見せている。百閒ファンとしては「良い本を残してくれたな~」が読後感である。