<今月読んだ本>
1)生き残る判断 生き残れない行動(アマンダ・リプリー);筑摩書房(文庫)
2)文字と組織の世界史(鈴木董);山川出版社
3)海軍ダメージ・コントロールの戦い(雨倉孝之);光人社(文庫)
4)藩と県(赤岩州五 北吉洋一):草思社(文庫)
5)アラスカ戦線(ハンス=オットー・マイスナー);早川書房(文庫)
6)大砲と帆船(C. M. チポラ);平凡社
<愚評昧説>
1)生き残る判断 生き残れない行動
-パニック、英雄譚はメディアで作られる。大事な不断の危機意識と訓練の習慣化-
危険物・可燃物・高圧ガスを扱う工場で20年間過ごした。死亡や火災を伴う事故にも何度か遭遇した。こんな職場だから大規模な防災訓練が定期的に行われ、各種安全啓蒙活動が日常業務の中に組み込まれている。そこからの学んだことの中には、例えば、階段を降りる際片手はフリーにしておくこと、飛行機に乗れば安全マニュアルに目を通すことなど、習慣化しているものもある。幸い生死に関わる災害や事故に直面したことはないが、いざという時こうした体験が役に立つと期待している。東日本大震災から8年目の今年3月、映画館で“安全(暗中模索)”が気になった後立ち寄った書店で本書を見つけ読んでみることにした。
著者(女性)は1996年コーネル大学卒の米国人ジャーナリスト兼ノンフィクション作家、“公共政策と人間行動の間に生じる差異”をテーマに執筆活動をしており、本書もその一環である。原著の出版は2008年6月、15カ国で翻訳出版されている。邦訳単行本発刊は2009年12月、従って東日本大震災は取り上げられていないが、読んだ人は相当居るはずである。その読後感やあの大震災との関係が、文庫本(本年1月刊)あとがきに記されていないのはチョッと残念だ。
取り上げられる事例はあの2001年9・11同時多発テロを始め、2005年8月ニューオーリンズを襲った台風カトリーナなど米国の自然災害・銃撃事件・大規模火災事故・航空機事故などが圧倒的に多いが、インドネシアの地震と津波、コロンビアやエルサレムのテロ、何度も起こったメッカ巡礼の圧死事故、特殊部隊の戦闘など海外での事件・事故も調査対象にしており、事例の一般化に努めていることが窺える。もし、東日本大震災後の執筆であれば、必ず詳細な分析が行われたに違いない。
本書の特色は、世界的によく知られた災害・事故を調査分析対象にしながら、多くのジャーナリズムに見られる煽情的なトーンが皆無であることである。否、むしろ冷静で学際的な筆致が、面白味は欠くものの、「もしそんな状況に置かれたらどうするか?」を読者に真剣に考えさせる書き方になっている。
まさか自分の周辺で災難が起こるはずがない!?(否認;ある種の催眠現象)、一体全体何が起こったのか!?(思考;状況把握分析)、この場から逃れよう(決定的瞬間;行動)、これが災害時の人間がたどる3段階の基本パターン。前2段階で空費される時間が馬鹿にならない。これらの段階それぞれの内容が聴き取り調査・事後報告で整理された上、部分々々に分解され、心理学(特に行動心理学)・社会学あるいは精神医学・脳科学はては動物実験の最新理論まで動員して検証していく。ここが本書の胆なのだが「凄い!」の一語に尽きる(いささか“くどい”と感じるところもあるが)。
やはり生き残り行動につながる資質はあるようだ(米軍特殊部隊員選抜;体内の化学成分の一部が常人と異なる!)が、経験・訓練・不断の備えは軽視できない。あの9・11の中でモルガン・スタンレー社はタワーが崩壊した時中に居たのは13人(死者・行方不明者)、2687人は無事だったのである。ここには経営陣・従業員に疎まれながら1990年から繰り返し避難訓練を実行してきた警備主任の存在がある。世界貿易センターはニューヨーク市港湾公社の管轄下にある。早くからその災害時対応の考え方改善を唱えていた警備主任はそれが聞き入れられないことから「避難の際は公社の指示に従うな!」「避難は上の階から」と独自の方法を社員たちに教え込んでいた(“否認”の段階を短時間で強行突破させ、決定的行動に素早く移る)。彼は失われた13人の一人、嫌悪した役員・社員たちは事件後鬱陶しかった訓練の有り難さを思い知らされることになる(他テナントでは非常階段の在り処さえ知らない者が多数いた。非常階段を下るのに障害物が無くても1階1分かかる)。警備主任は戦場体験もある(ヴェトナム戦争銀星章受賞者)プロ中のプロ、そこから学ぶことは多い。
身近な事例もある。米国の高校には自動車教習の授業があるところが多かったようだが最近は予算不足で中止されている。両親に運転を教えられたティーンエイジャーが起こす重大事故はプロに習ったものの2倍以上。
この種の出来事でしばしば目にするパニックや英雄報道の分析もなかなか興味深い(気が動転した大混乱は少ない。英雄譚は後から作られ、本人もそうだと確信してしまう)。
その場に置かれてどこまで実行できるかはともかく、種々の災害・事故に際して、生存への行程を知識として学べる、得難い一冊である。
2)文字と組織の世界史
-統治組織は文字によって作られ運用される。文字の消長を追えば別の世界史が見えてくる-
1990年代中頃のことである。私のチョッとした誤解から(SPC;Supervisory
Process Control;高度プロセス制御 とStatistical Process Control;統計による品質管理の違い)、化学プラントの高度制御研究者と信じて訪ねたプリンストン大学の教授が統計学の専門家だったことがある。しかし、先方は嫌な顔を全くせず、しばし日本について雑談することになった。何かのはずみでそれが日本語ワープロの話になり、同行した若い同僚がローマ字入力→ひらがな表示→漢字変換で文章が完成する過程を説明すると大喜び、「昼食を一緒に摂って、もっと詳しく聞かせてくれ」と求められた。残念ながら午後の予定があり、失礼することになったが、日本文に関する外国人の関心に、こちらが啓発された得難いひと時だった。
ここまで書いた文章を見ても、漢字・ひらがな・カタカナ・アルファベット・アラビア数字と、五つの文字が使われている。これに必要ならローマ数字(Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ)やギリシャ語(αβγ・・・)も利用する。こんな国は他には存在しないだろう。何事につけ世界史は大好きなジャンル、本書のタイトルを目にしたとき先ず浮かんだのがあのプリンストンでのこと、“組織”に気付いていたが、「多分、文字と関わる民族か国家のことだろう」と軽く受け取り、「日本が漢字圏なのは確かだが、これほど多くの文字を混合利用する国は世界史上どう位置付けられるのだろうか?」と読んでみることになった。
著者が本書で開陳する歴史学上のテーマは、人類の文化・文明の根幹に文字があり、文字の起源とその消長を辿ることによって、西欧によって作り上げられてきた既存の世界史観とは異なる、より普遍的な世界の歴史が明らかになるのではないか、と言う点にある。ユニークで面白い発想である。
先ず4大文明にはそれぞれ独自の文字があった。メソポタミアの楔形文字、エジプトのヒエログリフ、インダスのインダス文字、そして黄河流域の漢字である。このうち楔形文字とインダス文字は紀元前に消滅。ヒエログリフはフェニキア文字となり、ここからギリシャ・ラテン文字、さらにはアラビア文字が派生する。またのちにインドに発するブラフミー文字(梵字)もフェニキア文字につながる。そして現存する5大文字は、ラテン文字(米・西欧)、ギリシャ・キリル文字(ギリシャ・東欧・ロシア)、アラビア文字(中東・中央アジア・北アフリカ)、梵字(インド・東南アジア)そして漢字である。漢字からの派生文字には日本の仮名、女真文字、西夏文字などがあるのだが、仮名以外は消滅している。意外なのは女真と重なると思われる満洲文字が漢字系ではなく、フェニキア文字の末裔であることだ(シリアから中央アジアを経てウィグル文字が出来、モンゴル文字とつながり、そこから満洲文字が生まれる)。またチベット文字は梵字の系統なのである(現中国は決して一つの文字文化圏ではない)。
さて“組織”についてである。当初の予想と大きくは違わないが統治(行政、宗教)組織ととらえることが適当と言える。統治ために文字は不可欠、支配者がおのれの文字を強制することで弱者の文字が消えていく(漢字圏で言えば、西夏、女真、契丹、字喃(チュノム;ヴェトナム)またウィグル、チベットに対する漢字化)。中国周辺国が漢字に統一されていく過程には科挙の試験が漢字でしか行われなかったことも大いに預かっている。またコーランは翻訳を許さないことからアラビア語がその布教地域に広まっていく。
ここでは我々の身近に在る漢字圏を例に文字と統治の関係を取り上げたが、世界いたるところでこのようなことが生じており、文字の歴史を追うことで、本来の文化・文明圏あるいは民族が、異なる政治あるいは宗教に飲み込まれていく姿が浮き彫りされてくるのである。
タイトルの“文字と組織”に着目して内容の一端を紹介した。確かに通史では目にしたこともない多くの文字の変遷・消長はなかなか面白く、統治組織(例えば王朝)中心とは異なる歴史観を与えてくれる。しかし、全体としてはよく知られた(高校世界史程度の)平板な歴史解説に紙幅の大半が割かれ、肝心の“文字と組織”の印象が薄れ、何か時間を無駄にしたような読後感が残った。加えて、歴史特化の出版社や著者の経歴から、学術研究に近い内容を期待したが、参考文献が一切記載されておらず、資料としての価値を認められない。また、日本文字(仮名)についての解説も全くない。何故こんなことになったのか、それはあとがきを読んで分かった。朝日新聞カルチャーセンターでの講義録をまとめたものだったのだ。
著者は東大東洋文化研究所名誉教授、オスマントルコを専門としてきたようだ。その点で、イスラムおよび中央アジアの“文字(言語)と組織”を語る部分はそれなりに奥行きがある。
3)海軍ダメージ・コントロールの戦い
-戦いは攻めだけでは勝てない。損傷応急態勢は如何に変わっていったか-
本書を読んでいた今月14日~15日、日本近海で日米英三カ国Navy(韓国艦にレーザー照射を受けた海自哨戒機は「こちらJapan Navy」とやっていた。それで良いと思う)による共同演習が行われた。参加したのは、日本が護衛艦「むらさめ」・P-1対潜哨戒機・潜水艦(名称非公開)、米はP-8対潜哨戒機、英はフリゲート艦「モントローズ」である。目的は北朝鮮の瀬取り監視と言われるが、西太平洋域で活発化している中国海軍牽制説も流れている。この演習に先立ち3月9日と10日「モントローズ」が晴海埠頭で一般公開され、よくアクセスしている“乗りものニュース”でその内容が紹介されていた。タコの足のように亀裂が八方に走るホースがつながっている鉄箱、ハンマーと木栓、お椀状のプラスチック容器、締め具などの写真が添えられており、解説によれば、艦船に破損が生じた際の応急処置訓練教材とのことであった。ホースを通して鉄箱に水を流し、木栓に布などを巻いてそれを亀裂部にハンマーで打ち込み、そこにお椀をかぶせて締め付け、浸水を抑えるわけである。観艦式などで自衛艦には何度か乗っているが、こんなところを見せてもらったことはない。伝統の英海軍、戦場は攻撃ばかりではなく守りにもあることをPRするところは「さすが!」である。このような艦内活動を“ダメージ・コントロール”(通称ダメコン)と言う。本書はこのダメコンを明治期の海軍創設時まで遡り記した、きわめてユニークな内容の本である。ただし、技術面での説明が希薄で今一つ理解が進まなかった。それだけにこの“乗りものニュース”の写真付き解説は思わぬ助けになった。
この本の内容を一言でまとめると、“日本海軍ダメコン組織変遷史”である。日本海軍の手本は英海軍、その歴史は帆船時代まで遡及する。木造ゆえ水兵(操艦や砲を扱う)や海兵(敵艦に乗り込んで戦う兵士)ばかりでなく船匠(船大工)も重要な乗組員であるが、彼らは戦闘には加わらないので兵士ではない。この考え方は蒸気で推進される鉄鋼船になっても同様で技能者の扱いにとどまる。つまり、兵科(砲術、水雷、航海、通信など)とその他の部門(機関(船匠;木工、金工はここに属する)、技術、主計、軍医など)との間には厳然と身分の違いがあり、兵科(艦そのもの)を指揮することはできなかったのである。実戦となればダメコンは損傷個所の応急処置ばかりでなく艦のバランスを保つため注排水なども行わなければならないのだが、これが許されない。誰が指揮を執ればいいのか?最上位は艦長だが戦闘指揮が優先されるので副長がその任に当たるよう職務分掌が定められる。しかし兵科の士官は船体構造細部に疎い(最も優秀な人材は早くから砲術・水雷を志願しその方面の専門家になっていく;秋山真之は水雷、山本五十六、井上成美ともに砲術)ので、組織・職務分担変更だけでは実効があがらない。また、応急処置活動のためのシステム(通信など)も戦闘指揮中心に構築されており、それを場当たり的に活用するほか術はない。
このような状況を大きく変えることになるきっかけは第一次大戦におけるジュットランド沖における英独主力艦隊の戦いである。独に倍する戦艦・巡洋艦を持つ英国が独艦隊にとどめを刺せなかったのは独軍艦の設計時点まで遡ったダメコンの優位性である。英国は早速戦後その戦訓を取り入れ、それが我が国造艦技術や災害応急体制に反映されてくるのである。その一つが運用長と言うポストの新設(砲術長、水雷長と同格)、その下に運用科が設けられる。甲板上の諸々の作業と応急処置を担当することになるのだ(ダメコン総指揮官は副長のまま)。時代が少し下ると防災指揮専用のスペース(大型艦では正副2ヵ所)が設けられそこに指揮盤や通信システムを集中させ、守りの本陣とするようになっていく。戦中の昭和17年11月兵科・機関科士官の資格は形式的に同格となるのだが、指揮権(軍令承行令)問題だけは最後まで改まらなかったのである(生き残った兵科中尉の運用科員に機関中佐が従わなければならない)。
日本海軍のダメコンはダメだった、とはその筋に関心のある人たちがよく口にすることだが、著者はそれを組織に絞り込んで解説する。これはこれで新しい知識を得ることが出来たのだが、一方で、大和、武蔵、空母瑞鶴の沈没などいくつかの実例を取り上げているものの、ダメージの状況は既に書かれていることばかり、コントロールの具体的な取り組みがまったく見えてこない。また、損傷した艦船の外観や操船の写真はあるもののダメコンに直接かかわるものは皆無だし、図で説明するところは数葉の地図を除けば大和の断面図1枚のみ(これもしばしば見かける図面)、肝心の技術的な活動の理解に難儀した。
著者(故人)は戦時中東京高等商船機関科に在籍し、戦後国鉄職員に転じた人。この経歴からももう少し“コントロール”を掘り下げることはできなかったのであろうか。
4)藩と県
-本籍も現住所も、藩まで辿ると意外な姿が見えてくる-
私の本籍地は兵庫県たつの(本来は龍野;正式市名がひらがなになってしまった!)市、三木露風“赤とんぼ”の里である。町の名は、今はもう変わっていると思うが、下霞城(しもかじょう)、霞城は龍野城(現在城はなく、石垣のみが残るばかり)の別名だからその城下と言うことになる。先祖伝来の地は遥か南方の田畑が広がるところで、それなりの広さを持つ自作農であったが、祖父が次弟に家督を譲り内務官僚となり、(多分憧れの地であった)城下に家を構えたため、今は一族のものではないが、ここが本籍となった次第である。山の中腹に在る城址からの眺めは日本の原風景を留めるような景観で、何度か訪れすっかり惹かれてしまった。
龍野藩(出自は姫路藩の支藩)は小藩で歴史に残る逸話もほとんどない。秀吉の股肱の臣であった蜂須賀小六が城主だったこと(蜂須賀家はのちに徳島藩に転封)、17世紀後半信州飯田藩の脇坂氏が移り住み維新までつづく。この間松の廊下刃傷沙汰で浅野内匠頭の赤穂藩が取り潰しに遭う際隣藩として引取り役を任ぜられていることくらいが、チョッとしたトピックと言った程度である。父の自慢は藩主の末裔“脇坂君”と旧制龍野中学で同級生だったことである(脇坂家は廃藩置県で子爵に叙せられるが、東京に移らず戦後まで郷里に留まった。ゆえに郷里の人々から敬わられ慕われた)。
全都道府県が取り上げられているものの、徳川時代300を超す藩があったから、すべての藩が本書に網羅されるわけではない。しかし、幸い龍野藩は、蜂須賀小六や松の廊下ばかりではなく、名物の薄口醤油(隣藩赤穂の良質な塩に依る)や揖保素麺(これは脇坂家転封にあたり信州から持ち込まれたらしい)にも触れられており、「出てきた、出てきた」と住んだことのない父祖の地に思いをはせた。
本書の構成は、1)現在の各都道府県について江戸時代から維新までの歴史を概観(重点は佐幕か勤王か;明治政府はこれを峻別、その後の地方行政に影響をおよぼす。また他藩との関係;転封・改易などで遠隔地が思わぬ関係でつながる)、2)次いでそこに在った主要な藩をごく手短に解説(石高、藩主家系、治政上のトピックス、名物)、3)廃藩置県の顛末(初期の県統廃合)、4)地図、5)そして江戸や京都の藩邸の今昔(これもなかなか面白い)。1)で2~3頁、2)、3)、4)、5)で2頁。興味のあるところを適宜選んで読めるので、息抜きや気分転換最適。それでいて日本史の知られざる断面を発見できることもある。
例えば、私の現住所は横浜市金沢区、「ここが横浜?」と言われそうな南の果てだが、旧金沢(六浦;むつうら)藩(1万2千石)、今の横浜市中心部のほとんどはこの藩だったのだ!三浦郡や鎌倉郡は幕府の直轄地(両郡合せて3万石;会津藩・萩藩などが担当)、神奈川県の残りの部分は小田原藩(11万3千石)、荻野中山藩(1万3千石;現厚木市周辺)、それと直轄地の武蔵国(一部)。つまり今の僻地が藩の中心、現在の中心部は東海道の道筋以外は僻地であったわけである。
著者2名はいずれも歴史・旅・食などをテーマにした紀行作家のようである。
是非皆さんそれぞれのお国の歴史を楽しんでいただきたい。
5)アラスカ戦線
-ゾルゲと交流のあった親日ドイツ人探検記作家が描いた、北太平洋日米戦小説-
太平洋戦争にAL作戦と称されるものがあった。ALはアリューシャンを意味し、同時期(1942年6月)に発動されたMI作戦つまりミッドウェー作戦の支作戦の位置付けになる。真珠湾で取り逃がした米機動部隊をおびき出し殲滅することが主目的だが、北東太平洋方面からの米軍による本土攻撃(空襲)を牽制する狙いも含んだ複雑な作戦である。主作戦のミッドウェー島攻略と敵機動部隊を叩く目論見は日本の大敗に終わるが、AL作戦は陸海混成部隊(陸軍北海支隊(千島列島守備)、海軍陸戦隊)のアッツ島(6月6日)、キスカ島(7日)上陸で目標を達成する。ただ、主作戦の失敗でAL作戦が意味を持たなかったことは、その後の経過で明らかだ。アッツは翌1943年5月の米軍反攻で玉砕、キスカは“奇跡の撤退”で戦史に名を留めることになる。本書はこのAL作戦を題材にした戦争サスペンス小説である。
先ず題名と表紙の写真に眼が行った。雪山に降下するパラシュート兵と“アラスカ戦線”はピッタリだ。しかし、著者名ハンス=オットー・マイスナーで「おや?ドイツ人ではないか?」とチョッと意表を突かれ、原著名ALATNAを見て「いったいこれは何だろう?」となり、さらにその下に小さく綴られた副題Duell in der Wildnisのドイツ語表記、訳者(故人)はドイツ語からの翻訳第一人者であることからも、原著がドイツ語で書かれていると確信できた。Duellは英語のDuel(決闘)、WildnisはWildness(荒野、野生)に違いない。となると“荒野の決闘”!。何故ドイツ人が他国の戦場を小説にしたんだろう?と興味はいや増した。これは著者の経歴を知って納得したが、それは最後に述べよう。
小説の筋はAL作戦の目的を、アッツ島に長距離爆撃機(現実には無かったが、ここでは4発の重爆を日本が保持している)が利用できる飛行場建設とその後の運用に置く。ここから米本土に爆撃を行い、米国民の戦意を挫こうと言うのが意図である。しかしながら実際のAL作戦時あるいはキスカ撤退作戦でも問題なったのがこの地域における天候不順である。正確な気象情報なしで軍事行動を行うことは不可能だ(キスカ撤収は濃霧に助けられるが)。そこで大本営は気象観測のための特殊部隊(11名)をアラスカに潜入させ、そこからの情報に基づいて、爆撃機発進のタイミングを決する計画を進める。リーダーは満州の特務機関に勤務している陸軍大尉(オリンピック十種競技の銀メダリスト)、隊員は寒冷地に詳しい(自然環境ばかりでなく動植物なども)少尉、気象や通信の専門家、山岳兵さらに大尉が満州興安嶺から連れてきたオロチョン族の若者などだ。対する米側は、戦闘になった時のみ指揮官となる歴戦の勇士(大尉)が唯一の軍人、実質的なリーダーは自然保護局の役人で管理職への登用を断り続け原野で生きる、アラスカの自然を愛し知り尽くす変わり者。彼の右腕となって長いイヌイット族の相棒、それに選抜された森林スカウト(監視や防災が主務だが猟も行う)たち総勢14名。厳冬の中の越冬を含む長期にわたる追撃戦が臨場感をもって展開される。ALATNAは、海岸部を生活の場とするエスキモーには珍しい内陸部で生きるヌナミウト族の娘の名前である。
著者は、1909年現在は仏領となっているストラスブール生まれのドイツ人(1992年没)。父も本人も外交官。1936年~1939年駐日ドイツ大使館書記官として日本に滞在、瑞宝章を授章した親日家。この間ゾルゲと交流もしている(著者は東京で結婚式を挙げそれにゾルゲが招かれている)。日本勤務の後ロンドン、モスクワ、ミラノに駐在、東部戦線で装甲部隊中尉として戦い、戦後は公務を退き探検記作家に転じている。本書を書くためにアラスカに半年滞在したと解説にある。現地の動物、植物、気象、地質・地形にとにかく詳しい。足跡の隠ぺい・発見、赤い炎をたてない燃料(青い炎)としてのトナカイやシカの糞の話など、「よくここまで!」と感心させられた。下ごしらえがしっかりしているのだ。
驚くべきことは、原著の発刊は1964年(日本訳1972年発行)なのだが、米側のリーダーである自然保護局員に地球温暖化に関する発言をさせていることである(大鹿生息域の北上)。その先見性はただ者ではない。
細部の考証には問題なきにしも有らずだが(例えば、アッツ島玉砕は1943年だが、本書の戦いは1944年)、戦争小説にありがちな陰惨なシーンはなく、好敵手同士のスポーツマンの戦いを観るような気分で読み終えることができた。最後が泣かせる(読んでのお楽しみ)。
6)大砲と帆船
-何故我々非欧米はいまだに欧米スタンダードの下にあるのか-
2009年のギリシャ危機から南欧諸国の財政不安、中東・アフリカからの難民問題、それに抗する中・東欧諸国のポピュリズム政党の政権成立、極めつけは英国のBREXIT、直近のイタリアの一帯一路参加、“EUの終わりの始まり”を感ぜざるを得ない。当初は冷戦への対応、次いで日米経済力への対抗で始まったものの、その根幹に欧州の凋落に対する防衛本能が働いてことは間違いない。時には一体となり、数を頼むときはそれぞれの立場で、アフリカの旧植民地国家を巻き込みながら、狡猾に振舞いで国際ルール作りを図るのも、同じ流れの中にある。20世紀前半から中盤の日本、‘80年代の4匹の龍(香港・台湾・シンガポール・韓国)、それに続いたASEAN諸国、そして奇形な(一党独裁と中華思想)巨竜中国の目覚め。少なくとも経済に関する限り、6世紀に渡った欧州支配の時代が、大きく変わる潮目を感じる。何故かくも長く彼らは世界を御することが出来たのか?「そのカギは大砲と帆船にあったのだ!」と唱えるイタリア人経済学者の考えをまとめたのが本書である。
銃砲の製造・利用、大型帆船による交通・交易の歴史を辿ると、14世紀までは東西に大きな差はなく、むしろトルコやその他のイスラム勢が陸戦では優位でさえあった。これは広々とした戦場では騎馬が主力であったこと、欧州は小さな領邦国家が多く大軍で戦う態勢になかったこと、絶対的に人口が少なかったことなどによる。一方欧州域内を見ると、地形は複雑、攻めるべき拠点は城塞都市、頻発する戦争・紛争もあり、兵器開発・生産に知恵を凝らさざるを得ない。これらを背景に大砲開発に拍車がかかる。つまり、競い合う環境と技術・技能を貴ぶ風土がより優れた製品を生み出すのだ。これは帆船もしかり。地中海沿岸航行が主たる活動域だったガレー船(オールで漕ぐ)は操船性に勝るものの、北海のような厳しい海洋で育まれた大型のガレオン船と戦えば鎧袖一触となるのだ。
著者は先ず欧州内における各国あるいは地域の大砲開発・製造の経緯と特質を語り、同手法で帆船、特に軍船の発展過程を追う。大砲評価分析のポイントは、青銅砲と鋳鉄砲の違い;性能は青銅砲、価格は鋳鉄砲が優位(青銅砲は独、オランダ、鋳鉄砲では英国が先行しそれをスウェーデンが追う)、攻囲砲と野戦砲の開発過程;持ち運びしやすい野戦砲がなかなか完成しない。帆船軍艦では、海戦術の違い;接舷乗り込み・衝突戦法対遠隔砲戦、が欧州内での優位差になり、スペイン・ポルトガルは船では対等だが、大砲製造・利用では英国やオランダに遅れていく。
このような欧州状況を踏まえたうえで、海戦ではトルコ・インド・中国に対する海からの攻撃とそれに対する各国の守りや反撃を分析する。陸戦も同様だが、ここは西側も野戦砲開発の遅れもあり、海ほど当初は差がない。しかし時間を経るに従い、陸軍の伝統的な戦い方(騎兵の役割)との関係、砲調達の特徴(トルコは巨大砲願望、野戦での利用を全く顧慮しない;コンスタンチノープルをおとすために大砲「マホメッタ」は500kgの石弾を撃て、大砲を運ぶために140頭の牛を使い、それを運用する人数は100、次発準備に2時間を要した!)、砲術担当者や開発技術者の社会的地位の違いなどから東側が遅れをとっていく。
15世紀末、交易目的の新航路開拓で始まった大航海時代、やがて取引を拒むものを砲艦で脅し各地に拠点を設け、船と砲に圧倒的に勝る欧州諸国は19世紀まで権益拡大・植民地化にまい進する。当初は先行したスペイン・ポルトガルは大砲技術で英国・オランダ勢に圧倒され、活動域は軍事技術に遅れた中南米に限られていく。また陸戦では、西欧に後塵をはいしていたロシアがオランダからの技術導入を積極的に進め、平原での戦に大砲を利用(19世紀になると鋳鉄製野戦砲の性能が著しく向上、価格が安いので大量に装備できる)、オスマントルコの騎兵を蹴散らして領土を広げていく。おされる側もそれなりに技術導入・習得に努めるが、西欧に対抗するためには西欧化せざるを得ないと言う自己矛盾と相俟って、差は開く一方と言うのが現実。こうして欧州システムが世界標準になっていくのである。
我が国に関する記述は中国やインドに比べるとわずかだが、わりとポイントをついている。先ず中華思想のようなものがなく、新技術に対する好奇心の強さと相俟って、進んで欧州に学ぼうとする姿勢が持続したこと、職人や技能者の社会的地位が他国に比べ高かったこと、同様に戦士である武士が貴ばれたこと(中国では武人は行政官、文人の一段下)、戦闘を好んだこと(これは戦国時代の動向を反映したものと推察する)などから、船や大砲はともかく、小銃は高いレベルにあったとしている。また大砲に関しても徳川幕府はオランダに対して、強く技術移転を迫った逸話も取り上げられている。
原著(英語)は1965年の発刊(本翻訳書は1996年刊)、いまだ日本すら欧米を追いかけていた時代、今日を予見される話題は皆無、西欧優位の起源を辿るだけで終わっている。もし著者が今日の研究者だったら、どんな結論に落とし込んだであろうか?そんなことも考えさせられた一冊であった。経済学者であるため、戦史あるいは技術史として見た場合、やや物足りなさを感じるが、280頁の内付録・注(これが大半)・参考文献に130頁が割かれ、資料集としての価値はそれなりにある。