2019年5月31日金曜日

今月の本棚-130(2019年5月分)



<今月読んだ本>
1)鉄条網の世界史(石祐之・石紀美子);角川書店(文庫)
2)「砂漠の狐」ロンメル(大木毅);角川書店(新書)
3)世界史を変えた新素材(佐藤健太郎);新潮社(選書)
4)日本鉄道史-昭和戦後・平成編-(老川慶喜):中央公論新社(新書)
5)兵隊たちの陸軍史(伊藤桂一);新潮社(選書)
6)図書館巡礼(スチュアート・ケルズ);早川書房

<愚評昧説>
1)鉄条網の世界史
-世界を分断し囲う、意外と強力なローテク・低価格フェンス-

私が満洲国生まれ育ちであることは本欄に何度も書いてきた。場所は新京、現在は中国吉林省の省都長春である。大連、奉天(瀋陽)、ハルビンより知名度は低いが、当時は満洲国の首都であり、宮廷府も関東軍司令部もここに在った。新京の中心部は日本統治下で計画/開発され、整然とした街並みと広さで本土にこれに類するものはない。現地人(満人)の都市部居住者は古くから在る“城内”と呼ばれる城壁で囲まれた一帯に住んでいたが、一部の特権階級は日本人街区に住居を設けていた。例えば、皇帝溥儀の皇弟愛新覚羅溥傑家はご近所だったし、財務大臣韓雲階邸は我が家の裏だった。とは言っても規模は比較にならない。2階建40戸ほどの低層アパートが長方形の四辺を成す一画と同じ広さの敷地に、それぞれが一戸を構える豪邸だった。我が家はアパートの2階に在ったから、韓雲階邸内のテニスコートを中心にした広い庭園を見下ろすことが出来た。そしてその屋敷は高いコンクリート壁で囲まれ、更にその上には数条の鉄条網が碍子付きで張り巡らされていた。つまり通電されているのだ。翻って社宅アパートを見れば、四隅は道路から自由に出入り可能。安全に関する考え方は今の日本人同様だった。鉄条網など見かけることもないし、ほとんど必要性も感じないのだ。しかし、世界を見渡せば、鉄条網のニーズは高く、種々の用途に使われてきており、今もそれは連綿と続いている。本書は、普段我々には無縁のこの鉄条網についての話である。
鉄条網の出現は19世紀半ば、米国およびフランスでほぼ同時期に起こっている。農牧場を囲うのが主目的だった。「家畜を逃がさない」「農地への野生動物侵入を防ぐ」「所有地の境界を明らかにする」「外敵から家族財産を守る」。それまで生垣や石垣、あるいは木製の柵程度だったこの役割を、安価かつ少ない労力で効果的に果たしてくれる道具の出現は、特に米国の西部開拓で大歓迎され普及していく。しかし、同時に新たな問題も起こってくる。カウボーイによる放牧ベ-スの牧畜業とそれを鉄条網で拒む農民との戦いだ。西部劇映画の傑作「シェーン」はこれをテーマにしている。加えて、この時代の新技術鉄道も列車運行や線路保護のために沿線に鉄条網壁を構築する。これで野生動物の移動が妨げられ、生態系が変わっていく。またネイティヴアメリカンは狩猟を生業とするが、古来の生き方すら維持できなくなる(これは鉄条網以上に統治政策の影響が大きいが)。また、囲い込み型牧畜は動物が草の根まで食してしまうので牧草地が荒れ地に変わってしまう。つまり、鉄条網が社会および自然環境システムに与えるインパクトは極めて大きいのだ。
そして戦争。戦闘用鉄条網(材質、編み方、棘の形状や数)の開発に熱心だったのはフランス軍。カッターで切断しにくいものを1880年頃から導入。最初に戦場に投入したのは米西戦争時のスペイン軍、陣地を守るためであった。このローテク兵器が同時代の新兵器機関銃と併用されたとき、いかに強力な防衛力となるのか、いくつもの事例が示される。柱を立てて張り巡らす、通電する、丸めたものを蛇腹型に展張する、地面に網の目状に張り渡す。この最後の利用法は旅順攻略でロシア軍が採用、匍匐前進を困難にして日本軍に苦戦を強いることになる。また、偵察行動(特に空からの)で発見し難い他、意外と砲撃に対して耐久力があり、守りの道具として有効なのだ。この威力が低下するのには戦車の出現を待たなければならなかった。
次に来るのが人の囲い込み。つまり各種収容所や保護地域のような所への利用である。これは悪名高いナチスやソ連の強制収容所から、在米日系人収容所、南アフリカのアパルトヘイト政策、あるいはアマゾン奥地やオーストラリアの原住民保護を名目とする隔離策、更には紛争地中東やバルカン半島での利用。ここにあるのは、物理的隔離以上に社会的/心理的な人間の隔離分断である。先に紹介した西部開拓史における生態系破壊が人間(特に未開の原住民)にもおよんできているのである。しかし、時には皮肉な現象も起こる。南北朝鮮を隔てる軍事境界線は数キロから数十キロ幅で長い非武装地帯が半島を横断している。ここにはほとんど人間が立ち入らないので、動植物の種の増加が見られるのだ。
さて、我が国の鉄条網である。導入は第一次世界大戦後、軍事研究のためである。ドイツから製造機械を購入、第二次世界大戦終結までは国内需要/生産も高かったが、戦後は南北米大陸の農牧畜業向け輸出に活路を見出したものの、中国をはじめとする新興国との価格競争に敗れ、主に北海道の牧畜業向けに細々と生産が続けられているのが現状である。
鉄条網そのものの発達史にもかなり詳しく触れているが、著者の狙いはそれによる社会と自然の変容に重点が置かれており、単純な道具の与える奥の深さを教えられた。これは著者の経歴を知って「なるほど」と納得した次第である。
二人の著者は父娘、父の石弘之は朝日新聞勤務の後東大大学院総合文化研究科などで主に環境学を専門とした研究者(名誉教授)、この間国連の開発計画/環境計画機関の上級顧問を務めている。また、娘の石紀美子はNHKのディレクターを経てボスニアヘルツェゴビナ復興の国連機関に勤務した後、フリーで米国に基盤を置いて情報発信をしている。つまり、両人ともジャーナリストと国際機関勤務と言う点で共通項があり、それが身近に在った“鉄条網”で括れるのである。

2) 「砂漠の狐」ロンメル
-変転する名将ロンメルの評価、これが最終版か?-

“「砂漠の狐」ロンメル”、1951年米国で制作され大ヒットした映画“The Desert FoxThe Story of Rommel”(日本名;砂漠の鬼将軍、主演ジェームス・メイソン)と敢えて同名のタイトルを付けた日本人によるロンメル評伝、期するところがあるとうかがえた。1950年に英国で出版された原作名はただ“Rommel”、著者は北アフリカ戦線で一時ロンメル軍の捕虜となり、脱走に成功した英陸軍准将デズモンド・ヤングである。戦後5年しか経たぬ時期に上梓された著書はロンメルを好意的に描く内容から物議を醸したようだが、その後のロンメルものにしばしば援用されるほど影響力のあるものだった。つまり、戦車戦における戦略・戦術に優れ、騎士道精神に則って戦ったドイツ軍人のイメージが形作られていったのだ。しかし、1970年代になるとドイツ内外でこのロンメル像を見直す動きが起こってくる。「戦術家としてはともかく、しょせん歩兵出身、装甲戦略は分かっていなかった」「上昇志向が異常に強く、自己宣伝に注力していた」などなどである。真相はどうなのか?50歳代の日本字軍事史家がこれに挑戦する。
大きくくくると三つの観点からロンメル検証に取り組む。先ず、第一次世界大戦時までのロンメルの生い立ちとドイツ軍士官昇進の仕組み。次いで、ロンメル像を作り上げた著書や戦史家/軍事学者のロンメル観。そして第二次世界大戦におけるロンメルの戦い方とヒトラー、軍上層部との関係。当然のことだがこれらの情報源は著書/文献が主体、やや意外だったのは最近の日本人には珍しくドイツ語のものが多いことである(我が国で紹介されてきたドイツ軍事関連情報は一旦英訳されたものからの引用が圧倒的に多数)。著者経歴を調べると、ドイツ近代史を博士課程まで学び(立教大学)、その後ドイツ学術交流会の奨学生としてボン大学留学とある。オリジナルに直に触れ、それが理解/活用できるとすれば、それなりに新鮮なロンメル観を提示することが可能になる。それを強く感じたのは、ドイツ軍下級士官キャリアーパスの解説で、ドイツ人にとっては常識、米英人の関心もこれをそれほど重要視していない(指揮官や参謀になってからの経歴には着目しても)。しかし、私にとっては「そう言うことなのか!」と教えられるところが多々あった。
ドイツ帝国の母体はプロイセン(プロシャ)、ロンメル家は南独ウェルテンベルク王国の領民、貴族でもなければ軍人を輩出した家系でもない。父親はギムナジウム(中高一貫校に近い)の数学教師(のちに校長)、本人も数学は得意でその学校に進学している。一方、ドイツ軍(帝国軍、国防軍)士官の中核はプロイセン人で貴族の出自、かつ幼年学校出身者。18歳の徴兵年令に達したところで、父から命じられて地元の砲兵連隊を志願する。この背景は、工兵・砲兵は数理の知識を重視し“将校適性階級(貴族、高級官僚、軍人(現役/退役将校)、大学教授)”以外からも士官候補生が採用されること、父が同じコースをとって予備役少尉に任官した経緯があったからである。しかし、その時は砲兵さらに工兵の空き枠がなく、不本意ながら歩兵連隊に入隊することになる(騎兵は適性階級優先)。この後の昇進システムは複雑なので略すが、適性階級出身で幼年学校→士官学校と進む者とはハンデキャップが大きく、とにかく顕著な成績・戦功を挙げないことには上級指揮官に就くことは不可能に近い。のちにヒトラー政権下の陸軍参謀総長ハルダー上級大将の戦時日記に「病的な功名心」「性格的な欠陥」と記されるロンメルの言動は、この候補生時代に端を発していると著者は見る。
第一次世界大戦時は、当初フランス戦線で小隊長、中隊長として戦い、第2級さらに第1級鉄十字章(連隊初)を受章して、下級指揮官としての頭角現していく。この後山岳師団に転じた彼はルーマニア戦線、イタリア戦線と転戦、高地争奪をめぐる戦いに中隊を率いて一番乗りし、最終的には皇帝手ずから授与するプール・ル・メリート戦功賞(中隊長クラスでは全軍を通じて11人)を受けることになるが、これを巡ってひと悶着起こしてしる。敗戦後ヴェルサイユ条約制約下の国防軍(10万人、将校4千人)に何とか残ることになるが、昇進はならず12年間も大尉のままで置かれ、幕僚課程に進むチャンスも巡ってこなかった。ここに“兵站軽視の戦術家”の因を求める戦史家は多い。少佐進級は193310月、射撃に長けた者で構成する猟兵大隊大隊長である。既にナチスが政権をとり、条約破棄と国防軍拡大もあって19353月中佐に進級、ポツダム軍事学校教官に転じて著したベストセラー「歩兵は攻撃する」が運命を大きく変えていく(この本は現在でも評価が高く、米陸軍では二等軍曹以上必読の書として推奨している)。ヒトラーが読み激賞、併合したズデーテン地方巡察に際して護衛隊長に任ずる(大佐)。19398月、ポーランド侵攻前に少将に進級、総統大本営護衛隊長に補せられる。ヒトラーに同行して戦線を視察して廻るうちに「装甲こそこれからの陸戦の中核」と確信したロンメルは、装甲師団の指揮官となれるようヒトラーに運動し、19402月第7装甲師団長を拝命する。
5月下旬に始まった西方戦役で、軽師団(装甲師団と自動車化歩兵師団の中間)から改編された二線級装甲師団を率いてスペイン国境まで達したロンメルの活躍は、ナチス宣伝相ゲッペルスの格好の宣伝材料となり、国民的英雄に仕立てられていく。陰にあるのは、戦功を求めての独断専行、最前線へ出ての率先垂範、軍団/軍司令部には不快な行為でもある。自己宣伝に怠りない年末「第7装甲師団戦史」をまとめ、特別装丁本をヒトラーに献上する。19411月中将に昇進。
紙数が最も割かれるのは北アフリカ戦線、映画の舞台もここである。ドイツの西欧席巻を見てイタリアが始めた火遊びは、リビア、バルカン各所で挫折する。このままずるずる行くとムッソリーニ失脚の恐れさえある。やむを得ず失地回復を図るため北アフリカに派遣されることになるのがドイツアフリカ軍団。ロンメルは軍団長としてそこへ赴くことになる。一時はエジプト国境を越えアレクサンドリアまで迫るが、エル・アラメインで英軍に押し止められ、連合軍の北アフリカ上陸もあり、最終的に全土を失う。ここで、23師団を扱う軍団長としての力量が問われることになる。情報軽視、兵站を無視した進撃、相変わらずの率先垂範。初期の快進撃や連合軍に対する守りを評価されて、大将さらには元帥(最年少)と昇進していくが、師団長クラスの戦死者/捕虜まで出る戦い方に批判が高まる。高等統帥を学ばなかったツケがここで廻ってきたわけである。この後最後の戦いであるノルマンディーでも、情報軽視で休暇中に担当戦域(B軍集団司令官)への上陸を許してしまう。結局戦場における彼の勝利は西方戦役におけるフランス戦で終わっていたのである。
個人的に最も興味深かったのは、“ロンメル神話”の変化を、著作や軍事研究家の言動から検証する段である。先に挙げたデズモンド・ヤングや軍事学者リデル-・ハート、更にはドイツ人作家パウル・カレル、英ノンフィクション作家アラン・ムーアヘッドが“英雄”派。いずれも1950年代に表されたものである。ここで著者が批判的に取り上げるのは、リデル・ハートとパウル・カレル。前者は戦間期における機甲戦提唱者として有名だが、母国英国では入れられず、グーデリアンやロンメルこそその実現者として高い評価を与えていること。後者はナチス党員で外務省報道局長であったことから、ヒトラー暗殺未遂事件で自死に追い込まれたロンメルを高く評価することで、ナチスの犯した罪と距離を置こうとしたのではないかと推察する。つまり、両者のロンメル観にはバイアスがかかっているとみなすのだ。一方“非英雄”派の代表は1977年出版した「狐の足跡」で「名誉にかられて、無謀な作戦を遂行、不必要な損害を出した」と難じた英作家のデヴィッド・アーヴィング。それ以降これに追随する論調が強まっていく。しかし、著者はその作品に多くの問題点があることを具体的に述べ「歴史修正主義者」と断ずる。21世紀に入ってからは「戦略的視野や高級統帥能力には欠けるものの、作戦・戦術次元では有能な指揮官」と言う等身大のロンメル像に落ち着いてきているようであるが、次の研究視点として、軍事的・歴史的評価から政治的な面に関心が移ってきていると結ぶ。まだまだ、ロンメルは終わらない。

3)世界史を変えた新素材
-石、青銅、鉄以外にも歴史を変えた材料は多々あるのだ!-

題名の“新素材”、石油精製/石油化学に長く携わってきたこともあり、勝手に炭素繊維/ポリカーボネート/ナノチューブあるいは各種電子化学材料のような時代の先端を行く“新”素材を連想し、その前に“世界史”が置かれていることを深く考えずにAmazonに発注した。届いた本の目次を一覧して、予想外の内容であることを知らされる。金、陶磁器、コラーゲン、鉄、・・・と続く12種の凡庸な材料が列記されていたのだ。しかし、読んでみて「確かにこれらは歴史を変えた」と納得できる内容だった。その時々の新素材が社会に与えたインパクトを、分かり易い語り口で解説してくれる材料科学の入門書なのだ。こう言う誤解は、何か得したような気分になる。確かに歴史の区切りに、石器→土器(日本史)→青銅器→鉄器とあるのだから。
著者が歴史と素材の関係に着目したのは、本来の専門分野(東工大大学院(有機合成化学)→医薬品企業研究員→サイエンスライター)と言うこともあるが、歴史の変革には“律速段階”(生化学用語;変化の速度を決する隘路;例えば、100kmの距離を行くときどこかで10kmhでしか進めない渋滞区間があると、残りを80kmh100kmhで走っても所要時間は大きく変わらない。この渋滞区間が全体行程時間を律する)があり、素材が歴史変革においてその役割を果たしてきたと言う仮説に基づく。その仮説検証の対象となったのが、12の素材なのである。これを学問的に扱うなら、材料利用の動機、特性、利用分野、普及状況、社会システムへの影響さらには変容、と論を進め、12の素材が確かに“律速段階”であることを証明する手順を辿るべきだろう。しかし、本書は読みものであるから、当然そんな堅苦しい論法は採らない。それぞれの素材に関する歴史上の出来事や逸話、材料そのものの発展/変化、初期と現在の利用方法・分野の広がり/違い、などを身近な例やトピックスを中心に語っていく。それでいて、材料の特質や製造法、それに大事な歴史上の役割は確り書き込まれている。例えば、①金。何と言っても貨幣経済の普及に欠かせぬ素材、間違いなく歴史を変えたのだが、それだけの価値ではない。錬金術こそ近代化学技術発展の嚆矢だったわけである。②1万年の歴史を持つ陶磁器の技術は、白磁の製作や彩色の苦難を乗り越え、ファインセラミックスに昇華し宇宙開発を可能にする。③コラーゲンの項では、毛皮の利用、特にその鞣し技術に着目、これに依って人類の生活圏が北に拡大していったこと、コラーゲン不足が大航海のアキレス腱(壊血病)だったこと、動物の腱や膠(にかわ)が強力な弓の誕生につながったことなど、あまり知られていな歴史上の役割を教えられる。また、④鉄は「文明を作った材料の王」と位置付け、日本刀の製法/特質、ステンレス鋼などを詳しく解説する。
つづくのは、⑤紙;印刷術と合せてのメディア変革、⑥炭酸カルシウム;食品添加剤、生石灰(カーバイト照明、殺菌剤)、セメントから真珠(炭酸カルシウムの塊り)までの多彩な用途、⑦絹;シルクロードに代表される金に匹敵する貴重な交易品、日本の養蚕/絹糸・絹織物産業盛衰史、ナイロンによる代替と将来代替候補としてのクモの糸、⑧ゴム;球技の誕生、交通革命(タイヤ)、⑨磁石;発電機/モーターから磁気媒体技術まで、我が国磁石/磁性材研究の貢献、⑩アルミニウム;鉄鉱石より多いボーキサイト、ジュラルミンの発明と航空産業、⑪プラスチック;変幻自在の万能材料、ポジション奪取力(置き換えられたものの多さ)、環境問題、⑫シリコン;トランジスター、半導体、コンピュータの歴史、ICT革命。いずれも、確かに歴史を作りそれを変革してきたものばかり、看板に偽りはなかった。
それぞれの素材が一章を成し、さらに必ずしも前後関係が密でない複数のサブテーマで語られるので、一気に読む必要がないこと、興味のあるところだけ拾い読みしても意(素材に対する関心)は通ずること、それなりに科学への知識を高められることから、文系の人や中学/高校生にも薦められる。逆にエンジニアにはチョッと軽い感じがしないでもない(それでも雑学として楽しい;クレオパトラに惹かれたローマの将軍アントニウスが彼女に振る舞った贅をつくした料理、クレオパトラは「これしきの料理が何なの?!これが世界最高の料理よ!」と酢の中に耳飾りの大きな真珠(現在の価値数十億円)を放り込み、溶けたところでそれを飲み干す。実際は食酢程度の酸で真珠が溶けるようなことはないのだが・・・)。
実は、ほぼこれと同じようなタイトルの本「人類を変えた素晴らしき10の材料」を読んでおり、20165月(-94)で紹介している。両者に共通するのは、鉄、紙、コンクリート(炭酸カルシウム)、プラスチック、磁器の5種、両者の内容の違いは、本書が社会的、前書が科学的なところにある。個人的には前書が好みだ。

4)日本鉄道史-昭和戦後・平成編-
-占領軍と政治に翻弄されながら戦後復興の原動力となった鉄道の舞台裏-

平成から令和に改元された。鉄道ファンにとって平成は在来線長距離列車が消えていった時代として記憶されるのではなかろうか?廃止列車や路線の最終列車発着時は沿線やホームに撮影者が溢れる光景を何度もTV画面で見せられた。しかし、鉄道ファンは撮り鉄ばかりでなく乗り鉄や車両マニア、時刻表愛読者それに鉄女と多彩、それが年々増えてきているように感じられる。今はとても“鉄チャン”と自他ともに認められないものの、小学生時代鉄道技師になることが夢だった者にとって、嬉しい社会現象と言える。戦後の一時期復興のカギを握る最重要社会インフラと位置付けられ、強化が図られてきた分野だったからこそ、子供心にその将来性を感じとり、夢が育まれていったのである。しかし、鉄道業の経営実態は、一部の新幹線や大都市近郊路線(私鉄を含む)を除けば年々厳しくなり、全体としては衰退傾向に見えて仕方がない。夢と現実の差はどこでどのように生じていったのか?(無論鉄道から道路へのモーダルシフトが主因であることは承知した上で)こんなことの一端を知りたくて本書を手に取った。
本書は決して鉄チャン向けの本ではない。れっきとした学術研究報告書(の普及版)である。前前作「幕末・明治編」(2014年刊)、前作「大正・昭和戦前編」(2016年刊)と併せて一つの研究成果となる。本論の特色は、政治(関連する法律・財政)と行政(政策)に重点を置いているところだ。我田引水をもじった“我田引鉄”と言う言葉が作られるほど鉄道は政治と縁が深く、現在でもリニア―新幹線や長崎新幹線あるいは北陸新幹線の敦賀以降の延伸議論にその影響が見てとれる。著者は立教大学名誉教授(経済学博士)、欧米には多く見かける鉄道史家だが、我が国ではここを専らとする大学教授は珍しい存在である(著書;単著、共著、編著、訳書のほとんどは鉄道関連)。
とにかくデーターが凄い。太平洋戦争時から終戦を挟み1950年頃までの数字がよくここまで残り、それを発掘したことに感心させられる。特に占領下の政策は変転が激しく、その部分は本書で初めて明らかにされたこともあるのではなかろうか?輸送量と輸送力、空襲による設備や車両の被害状況(電車26%、工場25%、建物20%、客車19%)、占領軍に徴発された車両数・列車本数(占領軍優先の度合いが分かる)、輸送量低下からくる貨物駅における滞貨量、運賃と営業係数、保線状況、車両使用年数(ほとんど耐用年数を過ぎている)、これらが原因で多発する事故などがそれらである。経済復興のためにエネルギーと輸送(鉄道以外はほとんど機能しない)は急所、石油に頼れない(外貨不足)状況下では石炭への依存が極めて高い。当時は蒸気機関車が主流なので電化を促進し、他セクターに石炭をまわしたいが電化に充てる資金がドッジ・ライン(インフレ鎮静化のための財緊縮政政策)で大幅に制約を受ける。さらに、運賃改定(値上げ、特に戦前から低く抑えられてきた貨物運賃)もままならない。種々の数字を通じで終戦前後の鉄道経営の窮状が見えてくる。
このような環境下で占領軍に突き付けられるのが公社化である。それまで鉄道省→運輸逓信省鉄道総局→運輸省鉄道総局と完全な国家組織の一つだったものの分離独立は既得権を守ろうとする動きも含め複雑な様相を呈し、紆余曲折の末19496月日本国有鉄道が発足する。その後の労働争議多発のもとは国家公務員から公社職員に転じたところに端を発し、労使間の緊張関係は、下山事件(総裁謀殺?)、松川事件(列車転覆)、三鷹事件(無人電車暴走)が職員大量整理との関係を疑われるまで高まる(占領軍、労働組合、共産党の関与説)。
経済が安定さらには発展してくるにつれ、複線化、電化、車両増強、通勤混雑緩和策、更には新幹線計画などに力を注いでいくが、予算/人事/経営計画、万事は政治によって決まる。1963年までは何とか単年度収益は黒字だったものが1964年度に赤字転落。何度も合理化/収支改善のための再建計画や法律が定められるものの、あまりの規模の大きさ、相変わらず続く我田引鉄や赤字路線廃止に対する反対運動、経営主体の曖昧さ、激しい労使対決、トッラクや自家用車に依るモーダルシフト(コメのような生活必需品の運賃は政策で低く抑えられるので、儲からないものだけが鉄道輸送にまわる)、ついに1985年累積欠損は88千億円に達する。万事休す。1987年分割民営化が行われ、JR7社(北海道、東、東海、西、四国、九州、貨物)が発足する。
このような戦後から現在に至る鉄道業の変遷を、関係者(総理、運輸大臣、国鉄総裁、関連審議委員会や常設会議のメンバー)の言動、個々の法案や計画の審議経過、計画と実態の差異などを取り上げ、数字/グラフを多用して分かり易く説明していく。また旧国鉄ばかりではなく私鉄や新幹線にも言及して、それらに連動した社会変化を分析することも怠らない。戦後日本の復興・発展に鉄道が重要な役割を果たしてきたことを述べつつ、リニア―新幹線や整備新幹線が、かつての赤字政治路線同様、真に国益に利するものか否かに疑問を呈して3部作の結言とする。全く同感である(私はリニア―不要論に組みする)。
実は、前前書・前書は読んでいないのだが、本書を読み3冊が今後の我が国鉄道史(あるいは近代日本史、戦後復興史)研究者にとって必読の書になるのではないかとの思いを深くした。ただ、先にも記したように学術研究報告の性格が強いため、読んで楽しいものではない。

5兵隊たちの陸軍史
-下級兵士から見た、平時と戦時の日本陸軍。陸軍辞典にもなる価値ある内容-

親しい友人や本欄の読者からは“軍事オタク”と見られているようだ。確かに、今月も6冊の内3冊(鉄条網、ロンメル、本書)はそこに関わるのだからそうとられても仕方がないのだが、私が興味を持つのは軍事技術史、それも主として第一次世界大戦、第二次世界大戦に使われた兵器あるいは数理情報技術が中心、それを歴史的視点から考察することに注力しているので、自分ではある種の技術史愛好家と思っている。つまり“歴史”と言う視点をいつも意識している。今回も世界史2点と鉄道史、陸軍史、計4点あるのがその証左である。その軍事技術史アマチュア研究家として見たとき日本陸軍と言うのはあまり興が乗る対象ではない。一部の軍用機(1式戦闘機(隼)、4式戦闘機(疾風)、百式司令偵察機)を除けば、先進国陸軍と正面から戦える兵器(機甲力、砲力)を持っていなかったからだ。一方で昭和史における存在は圧倒的、陸軍を知らずして日本近代史は語れない。本書を読む動機はそこにある。
著者は1962年の直木賞受賞作家(2016年没)。受賞作「蛍の河」は自身の体験に基づいた中国戦線における戦場小説である。これを含め著者の作品は一編も読んでいないのだが、昭和史を題材とするノンフィクションには参考文献者名としてよくこの人の名前が記されている。広告に“名著復刊”とあったので早速取り寄せることにした。初出は1969年単行本(番町書房)、2000年に文庫本化(新潮社)そして今回新潮選書として復刊と言う経緯をとる。同じ出版社で先に文庫本が出てそれが選書になるのは極めて珍しい。著者によるまえがきも保坂正康による解説も文庫本発刊時のものである。そのまえがきによれば、本書は大宅壮一監修で始まった「ドキュメント=近代の顔」シリーズの第一巻“戦争”として世に出たとあり、シリーズ企画段階で大宅が「第一巻は戦争、戦争なら伊藤だろう」とお鉢が回ってきたとある。「見るべき人は見ていた」と言うべきであろうか、本書は現代に復刊するだけの価値ある内容の本である。つまり、勇ましい戦闘場面や政治的軍人あるいは反軍的な言動が描かれることはなく(チョッとした戦場場面はあるが)、入営から除隊までの兵士の日常を淡々と、しかし多角的に解説していく。帯に保坂が「本書は私にとって「師」であった」と語っているように、言わば“陸軍辞典”としての利用価値が高い内容のものである。
私の旧帝国陸軍“兵隊”像は主に映画を通じて作り上がったものである。「きけわたつみのこえ」(1950年)、「暁の脱走」(1950年)、「真空地帯」(1952年)、いずれも暗い反戦映画、前2作は父に連れられ、「真空地帯」は中学の視聴覚教育の一環だったと記憶する。陰湿な初年兵苛め、陰険/狡猾な下士官、特権を振りかざす下級将校、戦場においては虫けらのような扱われが、これが数としては大多数を占める陸軍下部構造、暗いイメージが見事に戦後レジームの下で刷り込まれ、高校生くらいまで持続する。歴史教育の中で近代に割ける時間はごくわずかだから、概ね同世代あるいはそれ以降の人は同じような軍隊観を持っているのではなかろうか?20歳で徴兵され通算66カ月ほとんどを中国戦線で過ごし、終戦時古参の兵長で終わった、極めて出世の遅い(順当に昇進を続けていれば曹長でもおかしくない)人だけに、軍隊に対するネガティヴな内容を予想したが、それは良い意味で全く裏切られた。本書のまえがきで著者は「あの戦争が終わってから20年間ほどは、米国的民主主義に悪影響され、兵士たちが行ったことを露悪的に伝える戦史などの氾濫が続き、従軍した人々も戦争中のことを口にするのをはばかる状況が続いていた」。(やっとその呪縛から解かれ、関係者が手記や部隊史を表し出したと語ったのち)「私が本書を執筆したのは、(中略) 後の世代に戦争の実態をきちんと伝えたいという気持ちからであった」とその取り組み姿勢を表明している。読後感は全くその通り、左右への偏りを感じさせないものだった。
“陸軍史”なるタイトルから明治の健軍以降終戦に至る、兵隊の目で見た大河のような軍事史を印象づけられるが、あまり時間の流れにとらわれず、切り口を変えてその中で歴史的経緯に触れる程度である。例えば、組織概観:徴兵令と兵役制度、軍旗と軍人勅諭の意義(昭和陸軍の発した戦陣訓との違いなど)、平時と戦時の編成の違い、部隊の呼称(連番以外の通称名;近衛師団=宮)、第1師団(東京)=玉、第4師団(大阪)=淀)、兵営生活(特に中隊と内務班)、1日のスケジュール、2年間の教育・訓練内容と節目の演習、昇進制度、階級と給与。兵隊たちそれぞれの戦史:台湾生蕃討伐(日清戦争前、台湾が日本領になる以前)、西南の役(平民の兵隊が武士に勝利する)、日清戦争(戦時軍制の確立、軍隊美談はここから始まる)、北清事変(義和団、連合軍としての戦いと評価)、日露戦争(感状や賞詞が兵士にとって大きな意味を持つ)、シベリア出兵(通訳に変じていた赤軍ゲリラ)、満州事変、ノモンハン事件。大東亜戦争(主として中国戦線)概要:駐屯地業務(糧秣調達、住民との関係)、(ゲリラ相手の)戦闘行動、一番乗りの意義(極めて大きい)、功績調査、兵隊の暴動/反乱、前科者の部隊、兵士の性(従軍慰安婦、性病)。どれをとっても「そうだったのか!」と教えられることばかり。保坂が帯に本書が自分にとって「師」であったと語った後に「いや昭和史を学ぶ者に一様に「師」となるように思う」と続けているが、当にその通りである。私にとっては永久保存書だ。

6図書館巡礼
-記録の歴史、書籍の歴史、図書館の歴史、古書・希書取引の歴史を巡る長い旅-

「毎月ブログで紹介している本は皆自分で購入したものですか?それとも図書館?」と言うような質問を何度か受けている。答えは「著者から贈られたものや友人から是非読んでみてくれと貸し与えられたもの以外すべて自前で求めたもの」「図書館から借りたものは一冊もない」である。小中学校の頃は学校の図書室にあるものをよく読んだ、特に“世界名作全集”のようなものを読破した。高校の図書室は本を読む所ではなく、受験勉強の場所だった。大学の図書館はカード方式、面倒な手続き踏んで読もうとする気は起きなかった。就職してからは少し事情が変わり、海外の専門誌/文献を借り出し、興味のある記事、仕事に必要な文献をコピーして自分専用のものとして利用した。成人になって公共の図書館を利用したのは子供たちの夏休みの宿題を手伝う時くらい、現在も横浜市の図書館はどこでも利用できるよう登録し、カードも一応持っているのだが、自分のために借りたことは一度もない。何故読書が好きなのにそうなるのか?赤線を引いたり書き込みをしたりしないと、あとで利用する際困るからである。図書館の本にそれは許されない。だからと言って図書館に全く興味がないわけではない。とりわけ欧州の宮殿や大邸宅の個人用図書室や書庫には空間としてあるいはインテリアとして惹かれるものがある。最も圧倒されたのはチャーチルの生家ブレナム宮殿の図書室、ごく最近「これは素晴らしい!」と感銘を受けたところは東洋文庫のモリソン書庫、いずれも「こんな所で本を読みながら最後を迎えられたら」と思うような雰囲気、私にとっては天国に等しい。本書は著名な稀覯(きこう)書・古写本などのミステリアスな行方の謎解きやそれらに絡む犯罪的取引の裏話を交えながら、今は存在しないアレクサンドリア図書館から未来の仮想図書館まで有名な図書館を巡る話である。
著者は豪州人の作家・古書売買史研究家かつ取引業者。この世界に入り込んだ動機は、ある社会調査機関の研究員をしているとき、メルボルン大学のブックセールで古めかしい活字で印刷された美しい本(出版年1814年)を入手し、調べていくうちにそれが大変な価値を持つことが分かったことに始まる。一念発起、この分野の専門家に成るべく、学ぶべき課程を自ら設計、書物売買に関する修士号そして法学博士号を取得するのだ。その後訪れた図書館は数百(文中から察するとその多くは欧州だが、米国、母国豪州、南米、中東、中国などに広がる)。また図書館のタイプは、国立図書館、一般市民向け図書館、会員制図書館(非常に排他的なところもある)、学術図書館、企業図書館、クラブ付属図書館、ささやかだが豪華な個人図書館など多彩だ。訪問の第一の目的はそこに在る蔵書(特に、稀覯本の発掘や入手過程に注力)そのものだが、整理/保存/展示状態、図書館の構造(隠し部屋などがあり、そこに所有者も気づかぬような貴重な本があったりする。また、採光、換気、温度/湿度への配慮の程度。本棚や書見台)の調査も欠かさない。本書で紹介されるのはこのような活動を通じてもたらされた、興味深い話題の数々である。
現在のように一般人が利用できる図書館が出現するのはここ23世紀のことだ。しかし、文字の無い時代からそのような機能は既に存在していた。それは口誦伝承で神話や宗教上のしきたりなどを伝える世界、最古のものはオーストラリア中央部の原住民がつい最近まで受け継いできたものらしい。似たようなものはインカ文明やフィリッピンの原住民にもみられる。本書はこんなところから始まり時代を下って行く。図書館はライブラリー、これはラテン語だがブック(本)はゲルマン系の言語に発する。しかし、二つの語源を辿ると、ライブラリーは樹皮、ブックはブナの木を指す。両方とも記録材料から来ていることに共通性がある。導入部はしばらくその材料を概観する。ナイル河畔に植生するパピルス草の髄、骨、竹、羊皮紙、皮の最高級品は子牛の胎児の皮膚、そして紙。初期の書物は巻物、保存方法や目的に適った本を見つけ出すのも大変、内容検分はさらに容易ではない。焼失したと言われるアレクサンドリア図書館は当時世界最大の巻物図書館であった。グーテンベルクの印刷術発明以前にも木版による複数コピーは行われていたものの、大多数は一冊ずつ人によって写し取られた写本、材料は高価だし人手もかかる。低識字率と相俟って利用者も限られる。中世の図書館はほとんど教会や修道院付属であり、書くのも読むのも宗教関係者が中心だ。本の制作過程も時代とともに変化する。写字師・写本師(単純な写字に装飾を施す)・装丁師、場合によって翻訳師などの専門職が生ずる。浮世絵の絵師・彫師・摺師と似ている。アテナイに発した図書館はアレクサンドリア、コンスタンチノープル、ローマ・ミラノ・フィレンツェへと中心を移し、ルネサンスと印刷術の発明で開花していく。
製本・出版の動向を語った後に来るのが、古書・稀覯本の収集や流通に関する話題である。贋作あり、海賊版あり、仲介者に依るすり替えあり、館長とキュレーターの不正売買共謀あり、価値あるページの切り取り詐取あり。教会関係者や王侯貴族、大金持ち(例えばJ.P.モルガン)が稀本を求めて丁々発止の競り合い/騙し合い/抜けがけを行う。大英図書館やヴァチカン図書館のような有名図書館と言えども詐欺もどきの事件に巻き込まれたりする。それが今に続く古書/稀本を巡る世界、本書を基に“ダ・ヴィンチ・コード”が何冊も書けるのではないかと思うほどだ。
さて書物の電子化が進む今日この頃、著者はこれからの書籍・図書館をどう見ているのだろうか?「マイクロフィルムやスクリーン上で本を読むのは、どこか物足りない。それは窓ガラス越しに恋人とキスをするようなものだからだ」と結ぶ。図書館の本と自分が買い求めた本の違いもこれと全く同じ感じがする。
現存する著名な図書館のカラー写真も多数あり、ブレナム宮殿や東洋文庫で味わった気分を書上で再現出来たことも読後の充実感をいや増した。

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