2024年11月30日土曜日

今月の本棚-196(2024年11月分)

 

<今月読んだ本>

1)メトロポリタン美術館と警備員の私(パトリック・ブリングリー);晶文社

2)日本外交の劣化(山上信吾);文藝春秋社

3)伝説の編集者坂本一亀とその時代(田邊園子);河出書房(文庫)

4)舟を編む(三浦しをん);光文社(文庫)

5)軍産複合体(桜林美佐);新潮社(新書)

6)起業の天才(大西康之);新潮社(文庫)

 

<愚評昧説>

1) メトロポリタン美術館と警備員の私

美術館警備員というなじみのない視点からの美術鑑賞。教養主義的それとは異質の楽しみ方を教えられた-

 


米国東海岸への出張は、エクソンの技術センター(ERE)が在るニュージャージーかNYマンハッタンの米国IBM営業部門が多かった。州が異なるとはいえEREも比較的マンハッタンに近く、路線バス一本で1時間弱、土地勘のない者でも出かけるのに難儀する場所ではなかった。そんな折休日を挟んだり、空き時間ができたりすると、美術館や博物館で過ごすことが多かった。近代美術館、自然史博物館もよく訪れたが、最も回数が多かったのは本書の舞台メトロポリタン美術館、おそらく56回は訪れている。何か特別な分野や作品に惹かれた訳ではないが、五番街に面するセントラルパークの中央部、通りの向かいはガードマンが立つ高級マンションが立ち並ぶ環境が緊張感を和らげてくれる。入場すれば全米一の広さを誇る館内には古代ギリシャやエジプトから近代絵画まで様々な美術品(神殿を含む)が溢れ、飽きることなく時間を費やすことができる。本書はこの美術館で10年警備員を務めた著者による館内紹介である。そこには業務ばかりでなく、展示物に対する著者の感性も反映したガイドブック的性格も込められている。

著者の正確な生年は明らかになっていないが、本書の中にちりばめられた人物背景から1984年前後と推察する。美術館における警備員の地位は決して高いものではなく、移民や希望職種に就けない人の一時的なつなぎ仕事の性格が強い。しかし、著者は外から見れば恵まれた職場を去り、自ら望んでこの職を選び、10年務めた後もその経験を生かしツアーガイドに転じ、講演や著述に励んでいる。この動機の違いが、NYタイムズ、ワシントンポスト等で高い評価を得る結果をもたらしたと言える。

父は地方銀行員、母は大学で美術史も専攻した舞台俳優。この母の影響が大きいことは、本書の随所でうかがえる。本人の学歴はNY大学(私立)で英文学を専攻、これ以前のカレッジ在学中美術も学んでいる。大学卒業後著名な週刊誌「ニューヨーカー」の発刊元に就職、ここで4年を過ごしている。転機は仲のよかった2歳違いの兄の癌による早世。社内では「出世しそうだ」と噂されながら、型にはめられていくような日々に疑問が募り、警備員に出世はないものの、好きなものに触れられ、束縛の少ない美術館警備職を選ぶのだ。

この勤務を通じて確立されていく、著者の作品への接し方、来館者観察が本書の肝となり、本書を質の高い美術館ガイドに仕立てている。例えば、教科書的な「重要な要素」を直ぐ探そうとする誘惑に打ち克つこと。来館者の多くはこの美術館を博物館と勘違いし、芸術から学ぶのではなく、芸術について学ぶことを目的としていると見抜き、素人が芸術作品から勝手な意味を引き出すべきでないと思っていることに警告を発する。「何もしてはいけない、ただ見るだけにして、自分の目にそこにあるすべてを吸収する機会を与えるのだ!」と。このような鑑賞姿勢の基となるのが子供の時分母が語った「その美術館で自分が本当に好きだと思う絵を選ぶまでは帰っていけない」という教えである。これは私もこれから心がけたい鑑賞姿勢だ。

警備員業務の内輪話も面白い。勤務場所(日時で変わる)の床の好み;大理石<木造<絨毯敷き;疲れと冷えから大理石は評判が悪い。警備員数;約600名/全従業員約2000名、出身国はガイアナ/アルバニア/ロシアで過半を占める。特別展は混雑で警備員の負担大、皆嫌がるが著者は対話の機会を楽しむ。全館情報;年間入場者約7百万人、コレクション総数は200万点以上だが展示品は約26千点に過ぎない。入場料は2018年まで任意の献金(私は510ドル払っていた)だったが、それ以降これが適用されるのはNY州民のみになる。

美術・美術館愛好者には是非一読をお勧めしたい一冊だ。

 

2) 日本外交の劣化

-首相の靖国参拝に「千鳥ヶ淵に行かせろ」と共産中国恐怖症の駐中国大使。「敗戦国に歴史を語る資格はない」と公言する事務次官。日本外交劣化極まれり-

 

 


私の一族は、祖父・父を始め国家公務員が多い。そんな中に、旧制中学卒業後雇員(ノンキャリ)として外務省に入省、苦学力行し職員に昇格、戦争遙か以前コンスタンチノープル大学(現イスタンブール大学)に派遣留学した伯父(父の義兄)がいる。海外などはるか遠い時代、外交官を別種の人間のように感じたものである。しかし、社会人となり海外駐在員と接したり自身海外に出たりするようになると、外交官の評価は“官尊民卑”“上から目線”と総じてネガティヴな方向に変じていく。また、昭和史を学ぶに連れ三国同盟や太平洋戦争開戦に際しての不手際(通知の遅れ)など、稚拙な我が国外交に疑義を持つようになる。さらに、中国・韓国からの歴史戦への対応には切歯扼腕させられることが多い。最近の外交・外務省はどうなっているのか?こんな時目にしたのが本書。

著者は1961年生まれ、1984年外務省入省のキャリア職員、国際情報統括官・経済局長などを経て2020年駐豪大使に就任、2023年末退官。現在は法律事務所顧問を務めながら外交評論活動を展開している。

本書の構成は、①日本外交劣化の現実、②なぜここまで劣化したのか?③再生への道、の3部からなる。①では最近の特定国家(ソ連・ロシア、中国、米国、韓国、アフガニスタン)との外交問題を取り上げ、それへの対応経緯を具体的に批判する。次いで②でそのよってきたる因を掘り下げて分析、③で今後の改善策を提言する。

20235月駐豪大使を終え帰任した著者が次官と対面するところから本書は始まる。一年先輩の森健良次官から、真摯なねぎらいの言葉もなく「次の大使はオファーできない。待命中に今後の人生を考えるように」と告げられ、併せて「在外勤務をオファーされたが、家庭の事情で断った。私は退官する」と自らのその後を明かす。かつて病弱の夫人をかかえた後輩が医療環境のよくない国へ大使赴任を命じられた際、別の任地を希望したところ、「任官拒否だ」と罵倒した本人が、「家庭の事情」で国外へ出ることを拒んだことに組織劣化を痛感する。駐豪大使が必ずしも上がりポストでないことも考慮すると、本書はかなり著者の私憤を含む内容になっているが、よく知られた外交案件を取り上げ、関係者を実名で登場させ、歯に衣着せず批判していくところに惹かれる内容だ。

歴代首相では安倍元首相の外交を高く評価しつつも、北方領土問題では前のめり姿勢が目立ち、結局成果は何もなかった。西側諸国は当初から疑問視していたにも拘わらず、外務省が直言すべきところを、それを怠り首相をやる気にさせてしまった。著者はプーチンを決して独裁者ではなく既得権益者の代表と見做し、この大事を決することのできる人物とは見ておらず、100年単位の交渉事として取り組むべしとする。

歴史戦・尖閣諸島・原発処理水など対中国外交は総じて腰砕け、「波風を立てない」「寝た子を起こさない」姿勢が目立つ(これは全く同感)。対外広報活動の強化に努め、タイムリーに反論すべしとする。ただ、ここは省内にも中国融和派がおり、著者はそれを劣化と見る。その具体例;小泉首相の靖国神社参拝に対し駐中国大使が「千鳥ヶ淵に行くように働きかけろ」と意見具申していたことを明かす。この大使は本書の中に実名は明かされていないものの、「ご尊父が英霊として靖国に祀られているだけに不可解極まる顛末だ」とあることから、終戦時割腹自決した陸軍大臣阿南惟幾大将の息子阿南惟茂とわかる(本月死去)。

慰安婦問題ではしばしばゴールポストを動かす韓国を難じ、「目の前の相手方や隣国と居心地の悪い関係を続けることに堪えられない」体質を問題視する。

このような劣化に至る主因として、対外発信力の弱さ、確固たる海外人脈作りの不足(国内要人の訪問に対し先方のアポイントメントを取ることすら容易でない)、「歴史戦」に対する事なかれ主義(講演で「敗戦国は歴史を語る立場にない」と述べた斎木昭隆次官)、日の丸を背負う気概の弱さ、外務省の地盤沈下(政策官庁でなくなってしまった)、プロフェッショナリズムの軽視(特に、地域専門性と語学力)、内向き指向(海外より本省勤務、外交より内交)、規律の弛緩、いびつな人事、を挙げている。いずれも具体的に語られるので、興味深く読み進められるが、読後感として「こんなことで日本の将来はどうなるのか」と不安が残った。

 

3)伝説の編集者坂本一亀とその時代

-坂本龍一が書かせた父の伝記。三島由紀夫、小田実、水上勉を発掘した凄腕編集者-

 


活字中毒者の乱読とはいえ長年多くの本を読んでくると、ときに読んでいる本に対する不満や疑義を生ずることがある。タイトルや帯に惹かれて求めたが期待外れ・的外れだとか、誤字脱字をチェックしたのだろうかとか、翻訳がおかしいとか、というような表面的なことから、章立て構成や情報の確度のような本作りに踏み込んだことまでそれらは様々だ。こんな読書感を、十数冊著書を著している友人にぶつけたところ「それは編集者の問題」との答えが返され、爾後そこに着目して読んでいると、総じて一流出版社の作品は無難なことがわかり、採用や登用過程にそれなりの体系ができているのだろうと推察するようになった。しかし、その実態は依然不明のままだった。本書を知ったのは日経夕刊の文化欄、1126日まで日本近代文学館で開催されていた“編集者かく戦へり”に関する記事にある。そこに坂本一亀(かずき)が音楽家坂本龍一の父とあり、それにも惹かれ即取り寄せた。

坂本一亀、坂本龍一、著者の関係と本書(文庫)出版に至る背景・経緯を整理すると以下のようになる。一亀は1921年生まれ、大学を繰上げ卒業、学徒出陣。満州から帰国後1947年河出書房に就職し編集者としてのスタートを切る。その後河出書房は1957年倒産、河出書房新社として再起する。著者は1937年生まれ、大学卒後1961年河出書房新社に入社、一亀は月刊文芸誌「文藝」復刊準備中でその部下となる。龍一はこのとき9歳になっており、著者はこの頃から坂本家に出入りし、やがて龍一とも懇意となる。一亀は倒産後も新社再建のため1976年まで河出に勤務、正式には2年後に退社する。このとき(1978年)著者も河出を去り、フリーな立場で編集や執筆に当たっている。こんな縁で、あるとき龍一から「父が生きているうちに父のことを書いてほしい」と依頼を受け、約束通り書き上げる。その原稿を一亀は丁寧に読み、誤解や間違いを訂正、さらに大まかな指示と細かい要望を示したが、出版は死後と希望され(2002年没)、単行本は2003年作品社から発行、文庫本は2018年発刊となる。龍一の死は2023年だから、いずれかに目を通しているに違いない。

一亀の担当ジャンルは純文学。本書は15話から成り、基本的に一話一作家(時に数人。野間宏のみ二話)、登場する作家を順に記せば;野間宏「真空地帯」「青年の環」 、椎名麟三「永遠なる序章」、三島由紀夫「仮面の告白」、中村真一郎、埴谷雄高(はにや ゆたか)・武田泰淳・梅崎春生、水上勉「霧と影」、小田実「何でも見てやろう」、高橋和巳・真継伸彦、山崎正和・井上光晴、黒井千次・丸谷才一、平野謙・いいだ・もも、辻邦生、島尾敏雄。純文学は私には無縁の世界だが、文化勲章受賞者やベストセラー作家が並ぶ、錚々たるメンバーである。一亀の凄さはこれら後の有名作家が無名の時代に発掘、一流作家に育て上げたところにある。例えば、三島由紀夫がまだ平岡公威として大蔵省勤務時代から注目して、「仮面の告白」を仕上げるまで、厳しいが暖かくで見守る。また、純文学を目指しながら今ひとつの観があった小田実に「何でも見てやろう」執筆を薦め大ヒットさせたのも一亀である。

著者が本書を仕上げるアプローチは、作家や作品について一亀が残したものと、作家本人あるいは関係者(龍一を含む)が残したものを援用、それを巧みに組み合わせ、その時代の社会背景をベースに、一亀の編集者としての特質・人間関係、作家の意図、作品の意義を、著者なりに咀嚼・解説する形式になっている。24時間臨戦態勢、妥協なき精神で自ら行動し、部下を叱咤する場面がしばしば描かれ、読後著者に「お疲れ様」と言いたくなった。

 

4)舟を編む

-カネと時間を要し、辛気くさい辞書作りを、喜劇調で学ぶ楽しい一冊-

 


新聞や雑誌の書評欄に著名人が登場するとき、しばしば座右の書なるものが紹介される。「立派な本を読んでいるんだな~」と感心するとともに「こんな本を何度も読むのだろうか?」とかすかな疑問が過る。私の座右(左側だが)の書は圧倒的に辞書、卓上に国語・漢和・英和・和英・英英・類語と並んでいる。しかし、これらを頻繁に使っているのかと問われれば、年々低下、今では携行に便利な電子辞書やPC組み込みの辞書に頼っている。とはいえ、電子化されてはいても原典は紙に印刷されたもの。それらが世に出るまでの編纂者の苦労は並大抵ではない。それを知ったのは半世紀前出た高田宏著「言葉の海へ」。これは明治初期、文部省職員であった大槻文彦による我が国初の国語辞典「言海」編纂の物語である。本書が単行本とし出版され評判になったとき、辞書編纂物と知り、読んでみたいと思ったが文庫まで待っていたところジム仲間から回覧され、ようやく機会が巡ってきた。

前述の「言葉の海へ」も本書も小説である。しかし、両者の違いは大きい。前者はほとんどノンフィクション、大槻文彦伝記と言える内容だ。彼周辺の人物や出来事に触れるところがあったとはいえ、大部分は辞書作りとその出版にいたる苦難。それだけに重い読後感が残っている。対して後者は辞書作りの苦労は同様だが、いささか作られ過ぎた人物像が気になるものの、登場人物が皆善人。軽い感じで読み進められ爽やかな読後感で読み終えた。だからといって内容が軽薄なわけではない。著者が辞書作りを真剣に学び調査した上での作品であることが伝わる作風である。それ故に、現代の辞書作りの手順や難しさがよく理解できた。

作品中の辞書のタイトルは「大渡海」、著書名「舟を編む」とともに、この題名は「言海」から発想したのだろ。中型国語辞典とあるが「広辞苑」がモデルと推察する。理由は、解説を岩波書店辞書編纂部の人が書いていること、頁数がほぼ同じであること(3千頁弱)、企画から出版まで10年以上要していることによる。ストーリーは大手出版社玄武書房初の本格的国語辞典発刊である。出版社にとり、辞書出版は誇りであり財産である。成功すれば20年は屋台骨がゆるがないといわれるものの、膨大な資金と時間を要しハイリスク・ビジネスでもある。

話は37年辞書作りに従事してきたベテラン編集者荒木が定年を迎え、後継者を探すところから始まる。その人物は営業部でくすぶっていた馬締光也、整理整頓にこだわるところを見込まれた結果である。この馬締を中心に顧問格の荒木、監修者の松本先生(退官した大学教授)、辞書編集部の面々(といっても34人)、それにやがて馬締の伴侶となる香具矢で物語が進められていく。

私の関心事は小説のストーリー展開よりも辞書作りにある。すでに同種の辞書が多々存在しPC・インターネットが普及している現代、当然のことながら「言海」とはまった異なる環境下での作成であり、そのプロセスは如何様かという点を知りたかった。荒木の構想は、既存のものと比べ、現代の生活に密着する面を充実させ、百科事典的要素(図版を含む)をそなえて差別化を図るというもの。例えば、ファッションやグルメなどがそれに相当する。そのためには該当分野の専門家に語彙の拾い出しを依頼することになる。とはいえ、大部分の語彙は既存の辞書類から集め、さらに松本先生や編集部員が気づいた言葉を加えて、用例採取カードを作成していく。このカードが辞書作りの出発点となるのだ。本書の中ではこのカードは紙のカード中心に語られるが、最終段階ではPCに取り込まれている。しかし、メールを除けばインターネット利用に触れるところは無かった。因みに、最新の「広辞苑」に収められている語彙数は約22万語、オリジナルの「言海」5万語。

集められた用語は編集部員によって優先度付けされ、掲載候補が絞り込まれ、執筆要領を定めた後、分野別専門家(主に大学人)に解釈と用例の執筆を依頼する。執筆者が権威者だけに一筋縄ではいかない。これも「広辞苑」の例だが、その数は200人を超えている。集まった原稿の校閲・修正は編集部員が行い、それをさらに2030人の人文系学生アルバイトがチェックする。

内容が最重要に違いないのだが、意外と大きいのが紙の質、軽く薄くしかも強く裏写りしないものが必須だ。本書の中で製紙工場の抄紙機まで踏み込んで解説されるが、この辞書のために特別な用紙を開発するのだ(高機能だけに用途は多様)。一回で済まないのに“ぬめり”がある。辞書を繰るときの手触りのことだ。試みに手持ちの「広辞苑」を繰ってみた。単行本とは大違い、天も地も1ページずつ確実にめくれる。インクの配合(色合い、濃淡)、試し刷り・本刷り、いずれも何か問題を生じる。一つでも語彙の欠落があれば大問題、学生アルバイトも含め昼夜兼行作業が続く。校正は雑誌では初稿一回で済むものが5稿まで行う。

企画から刊行まで15年、松本先生が病床で試し刷りを手にして亡くなった1ヶ月後「大渡海」が刊行される。

基調はユーモア小説(馬締=真面目)。辞書作りという辛気くさい話を楽しみながら理解でき、“言葉”に関し学ぶことが多々あった一冊である。

 

5)軍産複合体

-我が国にアイゼンハワーが恐れたような軍産複合体は存在しない。靴下調達から定年後の生活までもっと軍産は協力せよ!ユニークな自衛隊応援の書-

 


軍事技術史に関する書籍は蔵書のかなりの部分を占め、何か調べたい際には直ぐ引き出せるよう背面書棚の中央部に置いてある。そんな本の中にリチャード・サミュエル著「富国強兵の遺産」(原題;Rich NationStrong Army)がある。開国以降1990年代初期に至る我が国技術全史ともいえる内容で、技術開発・実用化を考察する上で参考になること大なる一冊だ。米国で出版されたのは1994年、調査分析時期は“Japan as No.1”の時代に重なる。MIT教授の著者は日本の技術力の根源を究明するためにこの研究を始め、結論として明治期以降脈々と培われたイデオロギー“富国強兵”策をその因とする。つまり、1980年代の日本の繁栄は、民生産業と防衛産業の相互依存にありとする。ここで留意すべきは、戦後に関しては決して軍事技術が先行しそれが民需品に生かされるのでは無く、相互依存と見ている点である。この本が出て30年、我が国技術競争力は相対的に低下傾向にあり、過度な軍事アレルギーは解消せず、防衛省が提供する先端技術プログラムに対する学術会議や大学の抵抗は依然強い。こんな環境下先端兵器の輸入は増加し、一方で小松製作所が新型装輪装甲車入札を辞退する事態が生じている。軍産複合体など存在しないと思える今日、この辺りの現状を知るべく本書を手にした。

本書は書店で求めたものだが、帯を見て「オヤッ!」と思った。比較的若い女性の写真がそこに印刷されていたからだ。1970年生まれ、大学の専攻は芸術学部、アナウンサーやディレクターを経てフリー・ジャーナリストとなった人のようだ。 “軍産複合体”を題する書物はおおむねそれを批判する内容だが、本書はその強化促進を訴えるもので、その点でユニークな一冊といえる。

「軍産複合体」なる言葉が世に知られるようになるのは、1961年のアイゼンハワー大統領退任演説にある。これは国の政策決定に不当な影響を及ぼすことを懸念する意図から出たものである。それが工業生産額で比較にならぬくらい小さい我が国防衛産業(1%以下、20202.5兆円)に対し、些細なことを問題視する現状に疑義を呈し、「抑止力の根源は技術力・生産力」「自衛隊と防衛産業はもっと接近すべし。これに学界も協力すべし」と説くのが本書の骨子である。まったく同感だ。

「安全保障技術研究推進制度」(2015年)、「経済安全保障推進法」(2022年)、「防衛生産基盤強化法」(2023年)など高いレベルの政策決定の背景や実情を縷々述べていくのだが、面白いのは先端正面兵器よりも一見脇役と思える話題に踏み込んでいる点だ。例えば、歩兵の靴や靴下、競争入札で調達した安物ではとても悪路50kmの行軍に堪えられない(もの以上に足が)。しかし、仕様を細かく規定すると、随意契約を意図していると非難される。あるいは定年制度、階級が下位のものから上位へ退役年齢が上がっていくが将・将補で60歳、関連企業で十分専門能力を生かせるのにそれを禁じられていることを問題視する。

米国や海外のそれと匹敵するような防衛企業など我が国には存在しないというのも本書の論点。防衛省と取引のある企業における防衛部門の売上げは平均で4%程度、この部門が存続できているのは民生あってのことなのだ。大手以上に問題なのはその下につながる中小の防衛特化企業、特殊な材料や部品、技術は民生品に展開しにくいものが多い。対地支援戦闘機F2では約1100社、10式戦車で約1300社、護衛艦(DD)では約8300社もが関与しているが、利益確保や後継者問題など経営維持に苦慮しているところが多い。では輸入頼りになるとどうなるか、この問題も奥が深い。運用上の問題(例えば日本人の体格;ヘルメット、防弾チョッキ)、最新技術のブラックボックス化、保守・改修の限界、有事の際の供給(部品を含む)、性能・品質(上級射手による銃弾テストでは輸入品と国産品に明らかな差がある)、納入管理方式(過不足ゼロを求める自衛隊の厳しい数量管理;これは薬莢一つ紛失すると事件扱いなる国情がむしろ異常と著者は見ている。同感だ)。ただ実戦を戦う可能性がある自衛隊員の中には最新技術を求める声もあり、著者もそこは歯切れが悪い。

価格決定方式、輸出の是非・可否、専守防衛からの制約(例えば射程、航続距離)、特別国家公務員という身分からくる軍との違い(年金、退役後の就職など)など、さまざまな面で他国に比べ過剰なくらい遠い自衛隊と防衛産業の関係を少しでも改善すべきというのが本書の要旨。ここで言う「軍産複合体」はアイゼンハワーが恐れたものとは別世界なのだ。やや軽い感があるものの、それだけに軍事に関心のない人には読みやすい。是非自衛隊が置かれた現状理解に役立ててほしい。

 

6)起業の天才

-情報化社会を先取りした希有な起業家江副浩正評伝。未公開株譲渡での蹉跌が無ければ我が国DXは別の姿に-

 


私の専攻は機械工学科制御工学、東燃就職は助教授の薦めによる。1961年卒論開始まもなく、どんな業種を希望するかと問われ、ユーザー系と答えた結果である。入学前から理工系ブームが始まっており、求人活動は青田買いと呼ばれるほど早く、助教授は卒論研究が本格化する前に落ち着かせてしまいたいとの考えだった。就職後わかることだが、これはいずれの大学も同様で、研究室の教授・助教授の力は圧倒的、学生課や科の事務所に求人申し込みが来ていても、一覧する就職情報に過ぎなかった。それから20年、長い工場勤務の後本社情報システム室に転じ、新たに加わった仕事に採用活動がある。制御システムは技術部が担当、私の室は数理システム担当。学科は応用物理・数理工学・管理工学・経営工学など名称は様々だが、応用数学専攻の学生が対象だ。教授・助教授は同年配、ほとんどは工学部出身者、あちこちの学校訪問で聞かされた話は嘆き節だった。工学部ゆえ教え子たちをエンジニアとして世に出すことを考えているが、金融業をはじめとするサービス業分野からの求人が活発、初任給も製造業より高く、自分たちの裁量だけで就職先を決められないのだという。ここで嘆き・不満の対象として何度か聞かされたのがリクルート社の存在である。本書はそのリクルート創業者江副浩正の半生記である。

江副の生年は1936年(昭和11年)、父は佐賀県出身の旧制中学・女学校数学教師、戦後高校に変わってからもその職にある。母は生母と継母二人。こうなる事情は父の女性関係にあるが、格別継母との関係が悪いことは無かったようだ。中高一貫教育の甲南中学・高校で学び、1955年東大入学、教育学部教育心理学科を1960年卒業(1年留年)、直ちに「大学新聞広告社」を立ち上げリクルート社へと成長させていく。江副の死は20132月、翌201410月東証一部上場を果たしたリクルート社の時価総額は78千億円、希代の起業家と言っていいだろう。本書は時代を先取りした情報サービス会社の業容拡大過程と “リクルート事件”を中心に江副の人物像、果たした役割を詳述する内容だ。

広告会社設立の動機は学生時代の「東大新聞」広告取りアルバイトにある。一流企業大卒初任給が月収2万円を下回る時代、月20万円に達するほどコミッションを得る凄腕セールスマンだった。これを東大外にも広げれば事業になると考え卒業と同時に資本金60万円で「大学新聞広告社」を立ち上げ、就職情報誌「企業への招待(のちのリクルートブック)」を創刊する。紆余曲折はあるがこれが企業・学生双方にうけ、発展への足がかりができる。創立メンバーは教育学部の同級生や「東大新聞」の運営者など、サークル的な乗りで業容を拡大、「とらばーゆ(女性就職誌)」「就職情報(中途採用)」「エイビーロード(旅行誌)」「カーセンサー(中古車情報)」など続々と創刊し成功させ、情報がビジネスになることを具現化していく。この中に1976年創刊の「住宅情報(現SUUMO)」がある。最初は月間からスタート、間もなく週刊となる。不動産広告はいい加減な内容のものが多い。これを顧客目線で審査し正確を期すようにしたことで評価を高めていく(例えば徒歩1分を80mと定める)。順風満帆のこれら広告情報は、従来新聞社・出版社の縄張り、求人広告ではダイヤモンド社、不動産情報では読売新聞が参入、初期には駆逐され兼ねない勢いだが数年後両者とも廃刊を余儀なくされる。考え方(顧客目線)と投入する人材の質が比較にならなかったからだ。

広範で膨大な量の情報を扱うことから、コンピュータと通信は欠かせなくなる。折からの通信自由化では第二電電立ち上げ準備のオリジナルメンバーの一人となる。しかしながら新会社設立段階で稲盛社長から「江副くんはすこし早いんと違うか」と外され、NTT回線販売に転じ、社長の真藤と懇意になる。その縁もあり日米貿易摩擦下NTT経由でクレイのスーパーコンピュータ購入を決し、その設置場所を川崎テクノピアビルにしたことが“リクルート事件”の発端となる。

このビル誘致は川崎市が推進、担当の企画調査局長に不動産子会社リクルートコスモス社の未公開株を譲渡していたのだ。しかし、未公開株を知人・友人に評価額で譲渡することは何ら違法では無く(公開後株価が下がるケースもある)、神奈川県警・横浜地検ともに賄賂と設定するのは難しいとして、送検を見送っている。しかし、19886月特ダネを報じた朝日は諦めず“賄賂”とすれば誤報となるので、それを避けながら世論を煽る。やがて、政治家や財界人、さらにメディア経営者(日経社長)まで譲渡を受けていることがわかり世は騒然となる。こうなっても直ぐに検察は動かない。これほど広範に配られると賄賂の目的が絞り込めず、立件できないのだ。ここで江副はミスを犯す(著者は“オウンゴール”と記す)。複数の政治家の名前が出てきたことから、爆弾男楢橋弥之助社会党議員が国会での追及を予告する。それを事前に防ぐため密かにカネを渡すことを画策するが、この現場を隠し撮りされ、その場面がTVで放映されて一気に“事件”化、19892月地検特捜が江副逮捕に踏み切る。100日を超える拘留に堪えかね、保釈を条件に「絶対正義」主義に貫かれた検察が作り上げた調書を認めてしまう。裁判では「強制されたもの」と徹底抗戦するものの、20033月「懲役3年、執行猶予5年」の判決が下り、13年を要した事件が決着する

不動産へ傾注していく動機・経緯(1984年マンション年間供給戸数第2位)、中曽根派への肩入れ(山王経済研究会中核メンバー、首相になると「土地臨調」の委員に選ばれる)、中内ダイエー会長との交友、稲山経団連会長との面談(“虚業”をメンバーにすることに反対)、バブル崩壊によるリクルート社および江副個人への影響なども掘り下げ、全方位から“起業の天才”江副を描いた力作。読後、事件による挫折さえなければ、GAFAM創業者に比肩する人物が我が国にも存在し、ディジタル後進国と揶揄される現状は避けられてのではないかとの思いが去来した。

著者は1965年生まれ。日本経済新聞記者・編集委員を経て2016年独立、著書には経済人の伝記類が多い。

 

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