<今月読んだ本>
1)かながわ鉄道廃線紀行(森川天喜);神奈川新聞社
2)『富嶽三十六景』の図像学(岡林みどり);清水書院
3)昭和問答(松岡正剛・田中優子);岩波書店(新書)
4)検証空母戦(L.サレンダー);中央公論新社
5)「俳優」の肩ごしに(山崎努);文藝春秋社(文庫)
6)移民リスク(三好範英);新潮社(新書)
<愚評昧説>
1) かながわ鉄道廃線紀行
-鉄道開通の一方の端だけに、知られざる路線が数々、廃線の理由も多様だ-
所帯を持って本年で55年。この間住まいは横浜市→横須賀市→横浜市と移動したものの神奈川県民を続けている。子・孫5人は全員浜っ子。しかし、私自身は県民・市民意識は希薄で、ふるさと意識は学童・学生時代を過ごし、勤務も長かった都心にある。それもあり鉄道ファンであるにも関わらず、この地で利用したことのある路線は限られている。通勤で利用したのは、京浜東北線・横須賀線・京浜急行の3線、私用で頻度の高いのは東横線・横浜市営地下鉄くらいである。いずれもラッシュ時以外でもかなりの乗車率で、廃線などとは無縁である。それもあり本書の出版を知人のフェースブックで知ったとき、「首都圏を構成するこの地に、一冊の本になるほど廃線路線があったのか?」と軽い衝撃をうけた。それが「あるある」なのだ。
著者の生年は不祥だが横浜市出身、大学卒業後IT企業を経てフリージャーナリストに転身、主に旅行・鉄道を対象としているようだ。本書は神奈川新聞電子版「カナコロ」に連載していたものに加筆して作成されたとある。
1872年新橋-横浜間に我が国初の鉄道利用が始まったことはよく知られている。しかし、この横浜は現在の横浜駅ではなく、京浜東北線の桜木町駅付近であった。廃線として取り上げられるいくつかは、このことと深く関わっている。一つは、東海道線の延伸、もう一つは貨物(1873年から開始)を中心とした臨港・臨海支線がそれらだ。前者は国府津から当初は御殿場経由で沼津に至る。このため国府津から先小田原、さらに遠方の箱根湯本や熱海へは小田原馬車鉄道(のちに小田原電気鉄道)と豆相人車鉄道(のちに軽便鉄道化)でつなぐことになる。箱根湯本への路線はやがて現在小田急線に転ずるが、路面電車部分は1954年まで営業している。豆相人車鉄道は小田原から文字通り人力で熱海に達する路線。早川・根府川・真鶴などを経る経路、今でも海沿いの道路は起伏が激しい。ここを数人の客を乗せて有蓋トロッコで客を運ぶのだ。1896年創業だが、人件費がまかないきれず1907年には小型蒸気機関車で牽く軽便鉄道に変わっている。芥川龍之介の短編「トロッコ」はこれがモデルなのだ。1923年の関東大震災で線路が崩落、以後廃線となった。
牛馬中心の貨物輸送を少しでも便利にしようとした路線に1906年から1937年まで営業していた湘南軌道がある。神奈川県県央の秦野と東海道線の二宮を結び、葉たばこ輸送が主務だったようだが旅客輸送も行っていた。二宮から東京方面や関西に向かうのだ。しかし、小田急線の開通により需要が急減、1937年廃線となっている。この鉄道の存在は本書で初めて知った。
多くの頁が割かれるのは横浜市電。1904年神奈川(現青木橋)と大江町(桜木町)からスタート、12路線営業キロ数52km、最盛期(1947年)には年間乗客数1億2千2百万人に達するが、バス・自家用車の普及で1972年その役目を終えている。
川崎市電があったことはかすかに覚えているが、工場の通勤とは無縁であったために利用したことはない。この路線は臨海工業地帯通勤者のために戦時の1944年開通、反時計回りで、これも廃線となった川崎の産業道路沿いに一時走っていた海岸電軌(京浜急行系)とつながり、さらに京急大師線に接続、直通電車は無かったものの、川崎環状線を構成していたのだが1969年廃線になっている。
この他、1年半しか営業しなかった大船駅とドリームランドを結んでいたモノレール(車両重量過重)、相模川や多摩川の砂利輸送から始まった現JR相模線や南部線の支線、桜木町から赤レンガ倉庫地帯を結ぶ汽車道、大桟橋付近の高架プロムナードに変じた臨海貨物支線、さらに副都心線とみなとみらい線の結合で消えた東白楽から桜木町までの東横線など、多彩な地図や写真で廃線後の今を紹介する。旅情を誘うという点では宮脇修三の廃線ものに一歩譲るが、鉄道先進県だけに過疎で廃線となる地方とは異なり、その多様な背景に考えさせられることが多かった。
2)『富嶽三十六景』の図像学
-北斎版画でたどる著者独自の日本史解釈、4巻目の本書で完結、江戸時代は「富嶽三十六景」で-
趣味というものは何でも、少し本気で取り組めば奥の深さを感じ、さらに深みに入っていく。私にとってその一つに版画がある。とは言っても年一回の年賀状作り程度、とても本格的なものからはほど遠い。多色刷りの版画を学んだのは中学生の時、その年の年賀状は親戚筋に好評だった。爾来毎年とはいかなかったものの、手製版画賀状を出すようになった。転機は1963年にやってくる。当時和歌山工場勤務だったが、郷土玩具の世界ではよく知られた先輩が、関西在住の版画家を呼んで講習会を開いてくれた。ここで初めて伝統版画の技法を学び、彫りや刷りを含む版画全体の出来映えを楽しむ知識を得た。しかし、本書における北斎の「富嶽三十六景」分析は、さらにその先にある、作品に込められた作者の意図を探るもので、単なる美術鑑賞の域を超えた内容となっている。
著者は東大で化学を修めたのち化粧品会社に入社、研究部門に長く在籍、後年同社の文化調査部門に転じ、その時代異業種交流の場を通じ友人となった。早期退職後日本語や日本史研究に注力していたが、それは独自の切り口から挑む全4巻の国史論・国土論の助走であった。その4巻は;①狂歌絵師北斎とよむ古事記・万葉集(2018)、②百人一首の図像学、③文化史よりみた東洲斎写楽、それに本書となって結実する。既刊はいずれも本欄で紹介済みだ。
4巻に共通するキーワードは“図像学”。図像学(Iconography)とは、絵画・彫刻・図像・その他の視覚的表現に込められた意味や象徴を研究する学問。モチーフやシンボルの背後にある文化的・宗教的・歴史的は背景を解読し、観るものにどのようなメッセージを伝えようとしているかを探ることにある。つまり単なる美術鑑賞の手引書ではない。著者は北斎の作品の中に、古代から中世、さらに江戸末期までの世相を北斎がどのように見ていたかを探索していくわけである。古代・中世では、記紀・万葉集・古今和歌集、少し下って百人一首、そして江戸時代では同業の写楽を援用して、著者の絵解き結果を開陳する。
本書で対象となるのは「富嶽三十六景」(46枚)。補完的に「諸国瀧廻り」(8枚)と「諸国名橋奇覧」(11枚)が図像学の観点から考察され、特に北斎の生きた幕末の政治・社会情勢を踏まえ、それぞれの作品に北斎が込めた意図を浮かび上がらせる。先ずこれら一連の作品は単なる風景画ではなく地誌図(地理図)であると判じ、そこから伊能地図、さらにはシーボルト事件(1828年)にまで言及する。また出自が御家人であったこともあり、尊皇・佐幕対立の中で苦悩する姿が、いくつかの絵の中に垣間見られると説く。三十六景をこんな観点から深読みするなど考えもおよばぬこと、それだけでも研究の斬新さに驚嘆させられた。
著者は理系出身者、本書に限らず他の3巻も含め、数理・図形を駆使して原材(詩歌、歴史、地理など)と絵の関係を追求していく。それは暦法・方角分・天文・歌番などにもおよび、今回も星図や数字根に関しそれぞれ一章が割かれ、これはこれで勉強になった。そんな一つに三十六景が36枚でなく46枚描かれていることの謎解きがある。2×23(ふじさん)=46だからとあるのはマンガチックだが、北斎ならやりかねないとの気にもしてくる。
著者は本書を完成させる過程で、美術館ばかりでなく疑問を呈されている北斎作品の現地調査も行っている。例えば、江ノ島と富士山の位置関係がおかしいとの説を検証するため房総半島(三浦半島ではない)まで出かけ、それがあり得ることを確認している。さすが!の感だ。
少々残念なのは、第3巻「写楽」では作品の多くが色つき口絵として巻頭に掲載され内容理解に大いに資するのだが、本書ではごく一部に限られ、参照すべきネットのURLが記されているものの、このアドレスにアクセスしても直ぐに目的の画面に達することが出来ず、むしろWikipediaで「富嶽三十六景」と入力する方が簡単に画面にたどり着けたことだ。
3) 昭和問答
-膨大な書物を読破した編集者・著述家松岡正剛が独立・自立を主題に法大総長田中優子と昭和を語る-
本欄も今回で200回に達した。読んだ本の備忘録としてスタートしたが“愚評昧説”と深く考えもせず題したため、感想文程度の内容を書評と誤解させてしまい恐縮している。ただ専門家の書評や読書論には目を通し、少しでもそこから学ぼうとの気持ちはあるのでご容赦願いたい。その専門家の一人に本書の対談者松岡正剛がおり、ネット掲載書評「千冊千夜」を長期続けてきていた。残念なことに本書対談の直後に急逝、連載も1850夜で絶筆となった。この書評の内容が他のものと決定的に違うのは、主題として取り上げられる書籍の評に着手前、多いときには20冊を超える関連著書を解説、それからおもむろに本論に入る手法を採っていることだ。千夜一万冊と改めてもいいほどの膨大な読書量に圧倒されてきた。絶筆(絶談)となるらしい本書で業績を偲ぶべく読んでみることにした。
同じ対談者によるこの“問答シリーズ”は2017年の「日本問答」、2021年の「江戸問答」が既に刊行されており、本書はその3巻目となる。先の2冊を読んでいないのでシリーズとしての一貫性有無は定かでないが、本書を読む限り二人による対談昭和史と言っていいだろう。自身の周辺を話題にすることが多いので、二人の略歴を簡単に紹介する。
松岡正剛;1944年生まれ。家業は京都の呉服屋で、戦後京都→東京→京都→横浜と移動。高校は都立九段高校を卒業、早大文学部仏文科で学んでいる。4年時父が多額の借金を残して死去、学資が続かず中途退学をしている。また高校3年時60年安保に直面、大学入学後特定のセクトに属してはいないが学生運動にかなりのめり込んでいる。大学中退後広告会社勤務、友人と雑誌社を立ち上げ、のち独立して編集工学研究所を主宰。広義の情報(遺伝子情報などを含む)を組み合わせることで新しい視点や発見を生み出すとの考え方を研究活動方針として、高度情報化社会に種々の提言をしていく。
田中優子;1952年生まれ。横浜のサラリーマンの家庭に育つ。女子中高一貫校を卒業後法政大学文学部日本文学科で修士課程まで進み(江戸文化専攻)、その後オックスフォード大学研究員として滞英、帰国後社会学部長などを経て2014年から2021年まで法政大学総長。学生時代には三里塚闘争などで学生運動に関わっている。
二人の共通点は文学専攻で学生運動に関わっている点だが、本書を読む限り左翼活動家の印象は感じない。松岡と田中の年齢差は8年、発言量に大差ないが、松岡がリードしていることは明らかだし、読後感は圧倒的に松岡の発言が残る。
対談を始めるにあたり、問答するための問題提起を行う。それは類似する二点の問い一つは「国にとって独立・自立とは何か」、もう一つは「人間にとって自立とはなにか」である。国にしろ個人にしろ独立・自立といいながら、そこには常に競争があった、と見るわけである。読み出して直ぐにわいてきた疑問は、「それは昭和だけなのか?日本だけなのか?」だ。この疑問は最後まで解けない。
問答を進めるに当り昭和を4区分し、それぞれの時代を論じていく;①昭和元年から昭和20年(戦争の時代)、②昭和21年~昭和30年(戦後体制構築の時代)、③昭和30年~昭和48年(高度経済成長の時代)、④昭和48年以降(見直しの時代)。いずれの昭和にも共通するのは、国策推進において、不確実性に対するコンティンジェンシー・プラン(代案)を欠いていたことをあげている。欧米キリスト教国家が全知全能神存在に早くから疑問を感じとり、次善の策を用意してきたこととの違いを指摘している。これが権力構造の曖昧さと連動し、ひとたび方向が決まると一瀉千里で走り出し、機敏なフィードバックが効かない社会を作り出していると見る。当初の設問とは直結しないものの、昭和史分析としては一考すべき考察だ。
戦前では遅れてきた帝国主義、戦後は占領政策と対米追従主義を批判的に論ずるものの、戦後の世論主導役である左翼リベラルのように体制批判を専らとするわけでなく、中庸な昭和史観との印象を持った。これは、二人の活動分野が文化・文学にあることと無縁でなく、6章構成の内2章はいわば昭和文学総覧のような様相を呈し、大佛次郎・三島由紀夫・松本清張・大江健三郎から小松左京・大藪春彦まで多彩な作家・作品が問答の中で引用される。
設定設問に対する明確な回答は得られなかったものの、巻尾近くで「ようするに、自立というのは自分の持っているものを(人間関係の中で)どう使うかという問題なのだ」と総括、「アイデンティティ(個の独立)なんて敗戦日本の知識人が武装のために導入したに過ぎない」と断ずる。松岡らしい急所をズバリと突く遺言である。
あとがきによれば、本書は脱稿までに2年半を要したとある。その過半は松岡の3回目の肺がん発症にある。そして脱稿直後緊急入院2024年8月急逝している。
4) 検証空母戦
-空母とはまるで縁のないスウェーデン人戦後派が、初歩から学びながら執筆・検証した、わかりやすい空母戦入門書-
第一次世界大戦で戦場に登場、第二次世界大戦で戦略兵器まで発展した飛行機・戦車・潜水艦・電子兵器の発達史を多角的(技術・生産、人・組織、戦略・戦術)に調べ、ITの企業適用施策に生かしてきた。電撃的早さで欧州を制圧した独装甲軍、Uボートを集散させ英国を瀬戸際まで追い詰めた独潜水艦隊、レーダー網と戦闘機を連動させ英独航空戦を勝ち抜いた英防空システム、これに比すべき空母を集中運用、攻撃兵器に転じさせた我が機動部隊。いずれも兵器個体が優れていたばかりでなく、システム思考が後世の軍事システムに生かされていく。
代表的な空母戦、真珠湾攻撃・珊瑚海海戦・ミッドウェー海戦・マリアナ沖海戦については戦記・戦史書物が汗牛充棟、平積みの本書を眼にしたとき「いまさら」の感を持ったものの、著者の経歴がユニークな点に惹かれ読むこととなった。
著者は1954年スウェーデン生まれ。物理を修士課程まで学び、システム・エンジニアとして兵役に就き、レーダーやミサイルの運用経験を積んでいる。除隊後経験を生かしIT企業でレーダーや無線通信システムの設計に従事。また、自家用機の操縦免許を持ち、ヨットレーサーでもある。兵役経験はあるものの空母などとは無縁のスウェーデン人、かつ歴史家・軍事ジャーナリストでもないアマチュアが空母戦をどう描くのか、ここに興味が沸いた。
冒頭何故本書出版に至ったかが手短に語られる。一言で言えばエンジニアとしての好奇心。従って戦記・戦史そのものには当初関心は薄く、専ら空母の技術的な細部を調べては自身のホームページにエッセイを掲載し続け、そこから戦史の世界にも踏み込み、それをまとめたものが本書になったとある。従って本書の構成も、運用を含む細部を解説する第1部“空母運用の基本”から始まり、第2部“第二次世界大戦の空母戦”と続き、第3部で細部データ・情報をベースに著者作成のモデルを使い“空母運用の再検証”を行う。この内第2部は既刊書で語り尽くされた感のある内容、多少は知っていたものの、新知識を得たのは、英空母が対独伊に対して行った作戦くらいである。例えは、ノルウェーのフィヨルドに潜む独戦艦テルピッツ撃沈、イタリア半島先端にあるタラント軍港攻撃(戦艦ローマ撃沈;真珠湾攻撃先行モデル説もある)、マルタ島攻防戦(主任務は島への補充戦闘機輸送)くらいである。第二次世界大戦実戦に空母を投入したのは日・米・英の三国。著者はその運用に関し、風変わりなイギリス、ギャンブラー・日本、巨人・アメリカ、と総括する。“風変わり”は艦種や兵装に統一性がなかったこと、“ギャンブラー”は6隻もの空母で主力部隊編成をしていたこと(ミッドウェーは翔鶴修理中・同型艦瑞鶴待機でたまたま4隻)、 “巨人”は後半戦における大量建造・投入、からきている。
勉強になったのは第1部、知っているようで知らないことばかりだった。例えば、艦載機の搭載方法、搭載戦闘機の攻撃部隊護衛と空母上空防衛の使い分け、対空銃砲の性能・効果・組合わせ、飛行甲板・格納庫・エレヴェーターの構造・配置、航法と電波兵器の関係(隠密性・即時性・安全性)、エンジン形式と着水時事故の関係(液冷エンジンは冷却空気取入口による転倒多発、日米の艦載機はすべて空冷(彗星艦爆は水冷だったが実戦運用極少))、燃料補給(特に航続距離の短い駆逐艦)、攻撃部隊編成・運用(米は空母ごと直行、日本は2艦上空編成;航続距離の違い)、着艦制動索や滑走制止装置、などがそれらだ。
第3部では、先ず太平洋戦争中における日米両国の機動部隊(米国は任務部隊)の変革が語られる。ミッドウェー海戦で主力艦4隻を失い正式空母の増強に遅れる日本。かたや陸続と就役する米艦。編成や戦闘法も激変。艦載機も開戦時と大きく変わらない日本に対し米国はヘルキャット、コルセアー戦闘機、アヴェンジャー攻撃機など2千馬力級エンジン装備の新型機が登場、対空銃砲の強化、加えてレーダーの機能・種別・稼働状況は日本を圧倒、奇襲攻撃を不可能にする。米空母の役割は空母決戦より島嶼上陸支援が主体になっていく。最後の空母決戦を期したマリアナ沖海戦では“マリアナの七面鳥撃ち”と呼ばれるほどの大敗で終わる。
次いで著者は新たな戦闘モデルを登場させ、いくつかの海戦を数値検証する。戦闘モデルで有名なのはランチェスターの法則。第一法則は古代からの戦闘をベースにしたもの(1次方程式)、銃砲を主体とした第一次大戦の戦いは第2法則と呼ばれ2次方程式で記述される。しかし、ミサイルのように一斉射撃し、発射基数も限られる戦闘においては2次方程式適用がそぐわないとし、米海軍軍人が1986年に提唱したゲーム・ターン原理(両陣営が多数のミサイルを一斉射撃し、ある確率でダメージを与える)に基づく確率的サルヴォ(一斉射撃)モデルを用いてそれを行う。つまり、空母戦はミサイル戦と同じとの考えである。これによれば1942年までは日本にも勝機があったが1944年にはほとんどその可能性は無しとなる。このモデルの適否を判断する知見はないが、1944年10月に戦われたレイテ沖海戦における米正式空母は17隻、日本に残存していたのは瑞鶴・瑞鳳・千歳・千代田の4艦(全艦この戦いで沈没)、モデルが示す結果は合致すると見ていいだろう。
参考文献・索引がしっかりしており、空母辞典的な利用に役立ちそうだが、訳が翻訳専門家でない(陸自一等陸佐)ことから単調な翻訳に不満が残った。
5)「俳優」の肩ごしに
-俳優山崎努の自伝的エッセイ。うまく演ずる役者より役に完全没入する演技者を!-
就職用の履歴書趣味覧に映画鑑賞と書いた。それほど映画を観るのが好きだった。入社後和歌山に赴任し愕然とする。封切り映画は蒸気機関車の牽く列車に乗って小一時間、和歌山市まで出かけなければ観られぬほど田舎だった。翌春研修目的で川崎工場に長期出張する機会が与えられた。起居するのは保土ケ谷寮、通勤の帰途横浜で下車、映画を観まくった。記憶に残る作品の一つが著者のデヴュー作、横浜を舞台とした黒澤明監督「天国と地獄」である。主演は三船敏郎、助演は仲代達矢と香川京子。しかし、最後に顔を見せただけの誘拐殺人犯山崎努の凄みは彼らを圧倒した。しばらくのち高校の3年先輩と知りファンとなった。しかし、近年こちらが最新の邦画やTVドラマを観ることが滅多にないこともあり、その動向が不明だった。そんなとき眼にしたのが本書である。
本書は43話から成る著者の自伝的エッセイである。誕生から孫が独立する執筆時点までのほぼ全生涯をカバーするが、読みどころは当然のことながら演劇・俳優にある。ただの人気タレントではない演劇人の真摯な姿勢が、軽妙な筆致の中に伝わってくる深みのある一冊だった。
生まれは現在の松戸市(当時は松戸町。私の実家もここに在ったし小学校も3年生から5年生まで通ったから文中の地名も知るところだ)。父は当地の工場に勤める染物職人、戦争末期召集を受け、母と生まれたばかりの妹3人は母の郷里柏に疎開する。終戦後父が復員、この地で零細な染物工場を立ち上げるものまもなく死去。ここから一家の苦しい生活が始まる。新聞配達・牛乳配達・納豆売りなどを経験、上野高校の夜間部に進み、晝間はネオンサイン管工場で働くような生活がつづく。そんな折池之端に在った映画館に出入り(上野日活を始め3,4軒の映画館が在り私もよく出かけた)、ここで観たマーロン・ブランドの演技に触発され(多分「波止場」だろう)、演劇人を目指すことになる。演劇に精通した友人のアドヴァイスにより俳優座養成所を受験し合格。ここに3年通うがどん底生活は変わらず、見かねた同期生の河内桃子が密かに千円札を渡すシーンもでてくる。
1959年卒業後入団するのは杉村春子や芥川比呂志、岸田今日子等の所属する文学座。ここでもなかなか芽が出ず、1961年「天国と地獄」のオーディションを受け、あの役を獲得することになるのだ。1963年公開、映画は大ヒットし著者もスターに変身、演劇人環境が激変する。これをテーマにした話は数話にわたり、角度を変えて語られる。その後の黒沢作品(影武者、赤ひげ)への出演、三船敏郎との関係、TVへの出演依頼などなど。
しかし、著者の本業は舞台俳優、この思いが文学座では叶わず、芥川比呂志や仲谷昇など幹部俳優達が新劇団「雲」を立ち上げる際行動を伴にする。「雲」には11年在団しそれなりの役を演ずるが、それでも「自分のやりたい演劇ではない」と感じ、37歳でフリーとなる。
「やりたい演劇とは何か、どんな役者になりたいのか」。それは「それなりの役をうまくこなす役者」でも「観客を感動させる役者」でもなく「(原作解釈に基づく)その役になりきる役者」を演ずることが許される演劇である。新人時代音楽劇に出演、その他大勢役は口をパクパクさせるだけなのに思わず歌ってしまい音楽監督に叱責されたこと、映画出演で思わず台本にない台詞を発し、監督に褒められたことなどにその片鱗を窺える。しかし、「ここまでいくのか!」とその没入ぶりにある種の感動さえ覚えたのは、長期公演が終わり、のんびり過ごす日々が来たにも拘わらず、ある時刻になるとまるでスウィッチが切り替わったように全身がカーッとなり、動かずにはいられなくなる話だ。原因不明、医師の診断を考えるが、それが開演時刻であることが判明する。ここまで神経や身体が演劇人化すると体力の低下が舞台俳優の限界となる。1998年1月「リア王」をもって舞台俳優を引退、短い演技をつないで作る映画やTV作品への出演を専らとしているようだ。
舞台演劇を観たのは海外でのミュージカルを含めて十指に満たず、演劇の楽しみ方にはまったく無頓着だった。本書を読み「遅きに失した」との思いしきりである。
6) 移民リスク
-働き手不足を補うための労働者移民、理想主義に走る難民受け入れ、外国人不法滞在者の声ばかりを報ずるメディア。安易な我が国外国人受け入れ体制に対する警告の書-
1985年石油企業の情報システム部門を分社化して情報システムサービス会社を立ち上げた。石油市場の成熟とIT産業の将来性を見越してのことである。急成長する業界で経営拡大を図るにはそれに見合う人員増強策が不可欠。2年後からプロパー社員の採用を開始するものの、なかなか思うような人材を確保できなかった。そんな折り1990年代初期、中国の人材派遣を扱う専門日本商社から中国人技術者の紹介を受け、5人ほど契約社員として採用した。すべて中国の代表的な工科系大学卒で基礎的な日本語の研修も受けていた。一人で顧客対応は無理だが、専門知識は充分満足できるレベルで大いに戦力となった。シリコンバレーIT産業の隆盛がインド・中国・ロシアなどからの移民で支えられている現実からも高度技術を持つ外国人人材の受け入れには、基本的に賛成だ。しかし、短期ビザ入国の不法長期滞在者や難民と称する出稼ぎ外国人によって各所で起こっているトラブルを見るにつけ、目先の人手不足解消や軽佻な人道主義に基づく、安易な外国人受け入れは再考すべき段階に来ていると考える。その現状を知るべく本書を手に取った。
著者は1959年生まれの読売新聞社記者。特派員としてタイ・カンボジャに計3年、ドイツに計9年半、米国に1年滞在、取材でコソボ・ウクライナ・パレスチナ・アフガニスタン(いずれも難民発祥地)などに赴いた経歴を持つ。また、本書をまとめる過程でトルコのクルド人居住地域や難民問題に揺れるドイツで取材を行っている。
本書はジャーナリストが著わしたこともあり、一見不法滞在外国人に関する今日的な話題をセンセーショナルに伝える内容を予想したが、読んでみると入出国管理を基本から、広範に学べる優れた啓蒙書であった。「入出国管理は国家成立の基盤である」が貫かれる執筆方針で、批判は著者のホームグラウンドであるマスメディアとそれを信じる世論にも向けられる。報じられているのは専ら不法長期滞在者やそれを支援する組織の言い分なのだ。
第1章は2023年5月に起こった川口市医療センター騒動(クルド人同士の傷害事件;救急センターを一時閉鎖、機動隊出動)で注目されたクルド人不法滞在者問題。川口市にはおよそ1600人のトルコ国籍人が居住するがその大部分はクルド人。彼らは政治難民を主張・申請しているが、母国調査を含め、これが出稼ぎ滞在者であることをつまびらかにする。違法な解体工事業や犯罪率の高さでその危険性が具体例や数字で示されている(これはあとの章でドイツでも同様なことがわかる)。
第2章は入出国管理の現状と問題点が解説される。ここで話題として例示されるのは2023年3月名古屋の入管施設で病死したスリランカ女性。実質は一種のハンガーストライキであったにも拘わらず、出入国在留管理庁(入管庁)の非道な扱いのように報じられた件だ。彼女は配偶者からの暴行を理由に難民申請するが認められず、何度も申請を繰り返す。申請中は強制送還されることがないことを知ってのことだ病気を訴えたりするが、胃カメラや外部医師の診断でも異常は認められず、拒食で体力を低下させた結果死に至る(コロナ禍の最中であり、この点でも入管庁にできることに限界があった)。人権団体の一部やマスコミはこれを「入管の闇」と難じ、一方的に(違法な)収容者に与する論調を展開する。本書では入管庁の現場がどのようであるかを詳しく解説、入国警備官、難民認定制度、送還停止効(難民申請中は送還を停止する;5回の申請で20年滞在した例もある。現在は2回に改正)、強制送還の難しさなど初めて知ることばかりだった。
第3章は移民規制に舵を切ったドイツの現状。3波わたる難民処理(第1波は冷戦、第2波冷戦崩壊、第3波は2015~2015年の欧州難民危機)で積極的な難民受け入れを続けてきたドイツが直面する移民危機(犯罪から社会混乱まで)を概説し、これを他山の石として学ぶべきと主張する(例えば、ドイツではクルド人を難民対象にしていない)。
社会の多様化や人道主義の理想あるいは少子高齢化対策ばかりが強調される昨今の我が国外国人受け入れ体制、もっと現実を直視し、報道を含めて国の将来を考える施策を採るべきと結ぶ。ポイントは伝統的社会に統合(同化)できる数(ドイツは約20%が人種としては非ドイツ人)と質である。「全面的に同意!」が読後感である。
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