2008年8月29日金曜日

滞英記-5

滞英記-5
2007年6月21日

 英国の6月はベストシーズンと言われており、月の前半は比較的良い天気が続いていましたがここのところ天候不順で、中部(特に、シェフィールド)では洪水の被害が出るような雨が降っています。我が家は町の外れ、自然環境は良いのですが墓地や得体の知れない病院(古城の様は建物群が高い塀に囲まれ、メイン道路からのアクセス道路は遮断機が設置されている。普通の病院のように患者の出入りは見かけられない)などもある寂しいところです。夜半に雷鳴を聞くと英国の奇怪小説に出てくるような雰囲気もあります。
 そんな中、久しぶりにレンタカーを借りブロンティの小説、「嵐が丘」の世界を訪れてみました。今回はそのご報告をお送りします。

<“嵐が丘”へ>
 先にお断りしておきますが、私はエミリー・ブロンティが書いたこの小説を読んでいません。また、姉のシャルロットの書いた「ジェーン・エアー」も読んでいません。ただ、これらに関して書いたものや、映画のダイジェスト等で、英国中部の荒野が舞台の暗い恋愛(?)小説であることは知っていました。
 気晴らしにドライブに行きたい。一度ゆっくりイギリスのなだらかに続く緑の丘陵地帯をのんびり走ってみたい。何処にするか?持参したイギリス観光のガイドブックを見ていたら「ヒースが生い茂る『嵐が丘』の舞台:ハワース」と言うのが目に入り、そこがここランカスターから充分日帰り圏にあることが分かったのです。最近購入したロードマップで調べると、我が家からはM6→M65→A6068と辿り、あとは名も無き道(実際はあるのですが、全国版の道路地図には無い)をMoorと呼ばれる荒野の中を進めば良いことが分かりました。因みに、Mはモーターウェイ(高速)、A, Bは一般国道、桁数の少ないほど主要道路です。
 当日予報は午前中雨でしたが、午後からは回復してくるとのこと。意を決して出かけました。M6, M65は日本やアメリカの高速道路と変わりません(ただし、タダです!)。ひたすら走るだけです。順調にA6068に取り付き進んでいくと、途中の町で“Bronte Personage Museum”と言う標識が右方向を指しています。“こんなところでは無いはずだが?” キースリーと言う町を経由してハワースに入る予定にしていたのでそれを無視して走り続けましたが、その標識の近くに観光バスらしきものが駐車していたのが気に係りUターン。再度標識を確認すると確かに右を指している。“こちらにも何かゆかりのものがあるのかも知れない”とその道へとハンドルを切りました。この辺の町は、街道沿いは町らしい佇まいですがあまり厚みが無く、街道から外れると直ぐに石垣に囲まれた牧草地になってしまいます。“どこに展示館があるんだ?”と左右に注意を向ける間もなく人家はあっという間に無くなってしまいました。雨は酷くなってくる。先にも後にも車は走っていない。しかし分岐路も全く無かったから道を間違えていることもない。石造りの家がぽつんと野中に在ったりするが、人の気配は全く無い。牧草地の景観はだんだん荒涼感を増してくる。不安が募る。引き返してキースリーへ出るか?ただ、確信していたのは“方角は間違いない!”と言うことです。前の晩幾種類かの地図やガイドブックを調べ、一枚の白紙にドライブ経路や関連情報を自分なりに即断できる形に整理する過程でこの方向感覚が出来上がっていたのです。多少寄り道になるかも知れないが時間は充分ある、と腹を括って進むことにしました。わき道にそれてから20分くらい走ったでしょうか、やがて木立と数軒の家が固まっているのが見えてきました。近づくとそこにInn(旅籠)が在り、数台の車が止まっています。中に入るとフロント(?)におっさんがいたので、「この道はハワースに通じているのか?」と聞くと、「これで良いんだ。あと4マイルだよ」との返事でホッとする。フロントの前にはロービーらしき空間があるが誰もいない。「お茶でも飲めるかな?」と問うと、「上へ上がってくれ」と階段を示すので、そこを上がるとなんだか様子がおかしい。そこいら中に、食卓、いす、ベッドが乱雑に置かれている、奥のほうもそんな状態で、何処でお茶が飲めるのかまるで分からない、さらに階を上がるとそこも同じようになっている。これは一体なんだ?と思っていると、奥の方から人声と食べ物のにおいが漂ってくる。奥へ進むとテラスがあるティールームがありました。このテラスからMoorを眺めながら飲んだヨークシャー・ティーは、味はともかくどんなに心安らぐ気持ちにしてくれたことか!
 ところでここは家具屋を兼ねた旅籠だったのです。こんな兼業、想像できますか?誰がここまで家具を買いに来るんですかね?

 ハワ-スは小さな町で、観光用の鉄道がキースリーから延びてきていますがここが終点です。本数も限られているようです。あとは車で来るしか手段はありません。この前のゼミの際、「今週末はブロンティ姉妹の町、ハワースを訪れる予定なんだ」とMauriceに話したところ、「あの町は日本人に人気があるんだ」との返事が返ってきました。そこでインフォメーションセンターを訪れ、「日本語の案内はありませんか?」と聞いてみると、さすがにそれは置いていないとのこと。しかし、ブロンティ展示館(例の“Bronte Personage Museum”;ブロンティ家の住まいを増築して展示館にしたもの)に行ってみると、丁度観光バスが着いたところで、入り口前の庭で多数の日本人がガイドの説明を聞いているところでした。狭い展示館の中で一緒に行動したく無かったので(彼らは一括して入場料を払っている)、先に町をぶらついてから入ることにしましたが、他でも大勢の日本人グループに会いました。観光バスが着くとそんな感じのするほど小規模な観光地です。展示館には日本語の案内パンフレットがありましたし、姉妹の父親が副牧師を務めた教会(ここの地下にブロンティ家の人々が葬られている)には、「館内での写真撮影は自由です。個人的な写真以外の方は予め許可を得てください」と英語と並んで、日本語の注意書きがありました。
 ロンドンでツアーをした時、ガイド(日本人で英国人と結婚している女性)が「日本人も多いのですが、最近は韓国・台湾・中国本土からの観光客が急増しており、お土産物購入では日本人よりはるかに上得意です」とのこと。一方で、今回や湖水地帯(ワーズワースやピータラビット)でも見たように日本人は一味違った観光をするようになってきているようです。ガーデニングなどへの関心も高く、これはこれで文学を愛し、歴史を大切にし、自然を愛でる英国人に喜ばれているように思います。日本人の海外旅行もそれだけ成熟したともいえますね(どこまで本気かな?と言う気はしますが)。

 さて、ハワースの町ですが、この周辺地域全体が“Bronte County”と呼ばれるほどで観光の目玉はブロンティに関するもの以外めぼしいものはありません。メインストリート(と言う名前の小道)は石畳の狭い坂道で、車は特別なもの(救急車のようなものが偶々来ていたり、住民の車がゆっくり観光客に遠慮しながら走ることはある)に限られているようです。この道を歩いて直ぐ思ったことは、「これは中山道馬篭宿英国版だ!」と言うことです。島崎藤村しか売り物の無い馬篭宿は中山道の宿場を観光用に再開発して結構人を集めています。石畳の坂道、両側に土産物屋や飲食店、それに藤村記念館。おまけに両者の小説とも暗い。違うのは山深い信州と荒野の広がる周辺の景色だけです。
 そこでこの“ヒースの茂る荒野”に出かけてみることにしました。ガイドブックには荒野(と言っても放牧場なのでフットパスと呼ばれる人間の歩く道が特別に作られている)を数時間歩いて“嵐が丘”の気分を味わうよう勧めています。しかし、そんなに時間もないし、天候不順の中装備も無いので教会の裏の墓地を抜けるフットパスを辿って30分くらい歩き、その辺では周囲の展望が開ける所へ出てみました。雨は止んでいますが雲は重く垂れ込めています。しばらくすると、北東方向の雲が遠くで切れ、そこから明るい日がゆったりうねる丘の稜線を浮かび上がらせ、頭上の暗雲をさらに強調するようなコントラストが出現しました。もしこれが冬で、緑が枯れて赤茶けた色になり、北風がびゅうびゅう吹き荒れていたら、と想像してチョッと不気味な小説の世界を味わうことが出来ました。
 展示館で見た資料などによるとブロンティ姉妹は早く母を無くし、6人の子供の内5人の姉妹は一時養育施設に預けられたりして、精神的にも特異な成長過程があったようです。その暗さは自然環境だけではないと思いますが、有名な小説の背景を体験した得難いドライブ行でした。

 ところで皆さんは「嵐が丘」の原題をご存知ですか?Mauriceに会った時「今週末は“嵐が丘”の舞台へ出かけるつもりだ」と言おうと思ったのですが、正しい英語の題名が分かりません。そのままなら“Stormy Hill”かな?とも思いましたが、名作の題名としては如何にも軽々しい。そこで「Bronte Sistersの町、ハワースに行く」と誤魔化したのです。
 正解は、“Wuthering Heights”です。展示館のショップで売られている本を見て知りました。しかし、“Wuthering”と言う単語は見たこともありません。こちらには電子辞書を持ってきています。帰宅して先ず英和辞典でこれを引いてみましたが出てきませんでした。この電子辞書にはオックスフォード現代英英辞典も付いています。これで引いてみましたがやっぱり出てきません。古語(19世紀の中頃に書かれた小説ですからこの可能性は低いでしょう)あるいは方言でしょうか?Weather(天候)の訳に荒天・暴風雨がありますがこれと関係するのでしょうか?ご存知の方、教えていただければ幸いです。

-後日談-
 このレポートをお送りすると先輩から直ちにご返事をいただきました。
「研究社発行のリーダーズ英和辞典にはWuthering Heights(嵐が丘)と云う語彙以外にwuthering(方言)形容詞 吼えるように強く吹く風或いはビュービュー風の鳴る土地 が載っていますし、小学館発行のランダム大英和辞典にも記載されています。さすがに三省堂のコンサイスには載っていません」

2008年8月17日日曜日

滞英記-4(2)

Letter from Lancaster-4(2)
2007年6月12日

<ロンドン遠征>
 6月3日(日)から6日(水)までロンドンに出かけていました。大学時代の友人が偶々この時期ロンドンに滞在するので会いに行くという特別な目的が在った他に、ランカスター生活もほぼ1ヶ月、少し気分転換したい気分だったからです。ロンドンではこの友人のほか東燃のシステム担当現役管理職が会議のためにたまたま3日到着していることもあり、翌朝ホテルに訪ねました。この他はおのぼりさんコースで一通り観光名所(大英博物館、ロンドン塔、バッキンガム宮殿の衛兵交代、ウェストミンスター寺院、セントポール寺院、リージェントパークなど。ピカデリーサーカスにある三越にも行って見ました。高級免税品が主体の店で、日本からの観光客では無い私には全く無用の場所でした。逆に近くのジャパンセンターの地下は食材売り場になっており、比較的安い寿司のパックを種々揃えています。早速サッポロビールと買い揃えその晩の夕食にしました)を巡ってきました。
 4万人強と800万人の違い(ランカスターの田舎度)を肌で感じた3日間でした。
1)イギリスの鉄道
・ロンドンへは往復とも鉄道です。往き(日曜日)は5時間半、帰り(水曜日)は2時間40分です!食材探しのマンチェスター行きも鉄道でした。これは往復ともそれぞれ2時間程度です(平日なら1時間強)。この時は土曜日の日帰りでした。
実は何年にもわたり週末は大々的なエンジニアリングワーク(保線工事)が行われているのです。このため例えばマンチェスター行きの場合、ランカスターからプレストン(ランカシャー州の州都)までは代行のバス(コーチと言います)で行き、ここから鉄道に乗り換えるのです。マンチェスターの到着時間が概ねダイア通りになるようコーチの出発時間が決められますが、接続に余裕を見るためかなり時間がかかることになります。
・ロンドン行きは乗車券・指定券を事前に買いました。その際、窓口でこの日のロンドン行きは、ランカスター・プレストンは例の代行バス、出発は10時50分と言われました。到着はダイヤ通りロンドンユーストン駅に16時とのこと。
当日は少し余裕を見て10時半頃に駅に着き、バスが出る駅前広場に行きました。しかし前回とは違い誰もバスを待つ人が居ないしバスが来ていないのです。ホームに戻り駅員に質すと、「10時44分発のマンチェスター空港行きの列車でプレストンに行きそこでロンドン行きに乗り換えてくれ」と言われ変更を知らされました。ぎりぎりに駅に着いていたら予定通りロンドンに着けなかったでしょう。この変更のためにプレストンで50分近くロンドン行きを待つことになりました(バスに比べ鉄道は早い)。
・プレストン発は定刻どおり。しばらくは予定の路線を走っていましたが、途中で直行線を外れ迂回路線に入りました。しかしこれはダイヤ編成上折込済みで元の路線に戻ると予定通りラグビー(ラグビー発祥の地)に着き、結局10分遅れでユーストン駅に到着しました。10分の遅れは駅近くでホームが立て込んでいて入線できないために生じたものです。つまり列車はほぼ正確に運行されているのです。
・保線工事がかくも長く続くのは、過去のイギリス国鉄の横暴(スト頻発)は目に余るもので、鉄道の信頼性が著しく損なわれ、悪循環でますます赤字が膨らみ保線がいい加減になったことに因ると言われています(私は今回乗ってみてそれだけでは無い様に感じています;平日の列車のスピードはかなりのもので在来線を使った新幹線の感じです。ヨーロッパの鉄道がどこもこの方向で整備されていることを考えると、英国も高速化のために従来とは異なる保線状態が求められ、それに応えるために大々的な保線工事が行われているのではないかと思っています)。
・サッチャー首相誕生で国鉄に大々的なメスが加えられ、列車運行を民営化(例えばランカスターの場合、バージン航空の関連会社バージントレインがマンチェスターやロンドンへの列車運行を行っている他、他社が別の目的地行きの列車運行を行っています。つまり同じ線路の上を複数の会社の列車が走るのです。そして線路だけ(駅舎の管理もそうかもしれません)はブリティッシュレールウェイ(旧国鉄;今でもこの名前は使われていますし、マークも引き継がれています)が管理すると言う複雑な仕組みになっているのです。
・民営化の影響でしょうか、列車はなかなか良く出来ていて、日本の新幹線並みの快適さです。また、平日の列車スピードはおそらく200km/hに達しているものと思われます。
・料金(スタンダードクラス)は指定券も含めて往復130ポンド(250円/ポンドとすると3万2千500円!往復割引;ロンドンセービングと言う地方からロンドンへ出る乗客に対する割引;田舎者割引を適用して)です。ヒースロー・マンチェスター間の近距離国内航空便が満席だった理由がやっと分かりました。それでも席は大体埋まっているのですからサービス料金の高さに慣れてしまっているんでしょうかね。
2)ロンドンの地下鉄
・ユーストン駅には2本の地下鉄が通じており、ホテル(ランカスターのトーマスクックで予約したInn;小規模なインド系の家族経営)のあるヴィクトリア駅周辺までその内の一本(ヴィクトリア線)で直行できることは分かっていました。しかし初めてのロンドンでいきなり地下鉄に乗る勇気は無く、例のロンドンタクシーで行きました。この夜夕食を伴にした大学の友人を訪ねるのも、先方のアドバイスもありタクシーを利用しました。2回とも大体料金は15ポンド程度(3千円強)です。かなり高いですね。
・地下鉄料金も安くありません。ゾーン1(ほとんどの行き先はこの中にある)の初乗りは4ポンド(1000円!)です。世界一高い地下鉄料金と言われています。これには裏があって、オイスターカード(JRのスイカに相当)を何が何でも普及するためにこんな高い料金が設定されているのです。オイスターカードを使うと初乗り料金は半額(2ポンド)になります。それでも500円ですよ!横河で滞英経験の長いN顧問から、メールでオイスターカードの利用を助言していただいたことが良く理解できました。ただ、私の場合ロンドン観光のツアーなどに参加したためオイスターカードを購入しませんでした。あとで地下鉄の利便さを知り、頻繁に利用し始め大いに反省した次第です。
・ただこれも鉄道同様急に駅や路線が閉鎖などされ慌てることもありました。リージェントパークへ出かけた時(予定していなかったのですが、ツアーのガイドがここのクウィーンメリーガーデンのバラが見頃と言われ出かけました)、教えられた駅が工事中で電車が止まらず、次の駅まで行く羽目になりました。これなど車内放送で通過直前に放送するだけで乗車駅では全く知らされませんでした(どこかに通知があったのかもしれませんが)。リージェントパークはロンドン最大の公園でひと駅行き過ぎても大勢に影響が無いのが救いでした。
3)ウェストミンスター寺院にて
・ビッグベン(国会議事堂)とウェストミンスター寺院はごく近くにあり、ロンドン観光の定番です。ウェストミンスター寺院へ出かけたのも、とにかく一応観ておこうと言う程度のものでした。入場料は10ポンドとありましたので紙幣を出すと、「シニアか?」と問われたので「イエス!」と答えると何も調べず6ポンドにしてくれました。この分に足して早速日本語オーディオを借り、その案内にしたがって順路を進んでいきました。歴史に残る王や女王の棺が至るところにあります。
・ウェストミンスター寺院は東西に長く西側が正面、東側が裏(こちら側は出入り口は無い)になります。入場は北から入り、案内に従い北→東→南→西と周り正面から外に出ます。これには訳があって、中央より東奥の南北に幾つかのチャペルと称する小部屋がありこれらと奥の中央部分に有名人の棺が集中しているからです。
・この順路で回っていると、深奥部(東)奥中央にちょっとした小部屋があり、ここが第二次世界大戦で功のあった空軍兵士を祀る空間になっているのです。空色の絨毯には空軍を象徴するウィングマークがあり、ステンドグラスをよく見ると救命胴衣を着けた飛行士が天に召されていく姿が描かれ、その下の横木に6名の名前(ダグラス、ダウディング、ハリス、ポータル、テッダー、ウィリアムズ)が刻まれています。ダグラスとウィリアムズは誰だか思い浮かびませんが、ダウディングはバトルオブブリテン時の戦闘機軍団長、ハリスは爆撃機軍団長、テッダーはアイゼンハワーに次ぐ連合軍副総司令官(空軍)、ポーターは空軍参謀総長と今回の研究でいずれもORと深く関わる重要人物なのです。寺院正面入り口近くには一番近いとことにチャーチルの碑が埋め込まれ、次いで無名戦士を弔う一角(他国の無名戦士の墓に相当)がバラの花で縁取られています。第二次世界大戦の勝利に空軍が特別な位置づけを与えられていることに間違えありません。ORの起源が防空政策に発したことを思い起こすと感慨深いものがありました。
-後日談-
 ロンドンから帰った翌日(7日)Mauriceにこのことを話し、「空軍ばかりが救国の功労を独り占めして良いのかな?」と問いかけると、「セントポール寺院に陸軍と海軍が祀られているからね」、との答えが返ってきました。つまり、ワーテルローの戦いでナポレオンを破ったウェリントン、トラファルガー沖海戦でスペイン・フランス連合艦隊を破ったネルソンの棺があることを言っているのです。これが冗談なのか本気なのか今でも不明です。
4)ロンドンのビジネスマン
・着いた日は日曜日、天気も良く暑いくらいの陽気で街の様子もカジュアルな雰囲気に満ち溢れていました。翌朝東燃の後輩に会うため地下鉄でチャリングクロス駅に向かいました。ラッシュアワー時です。何となく駅も地下鉄内も暗い感じがします。駅を出てホテルに向かう道筋も何か暗い感じです(天気は晴れですが)。ホテルのロビーで彼と会ったとき初めてその理由が分かりました。彼以外は皆ダークスーツなのです。
・4日にはInnから歩いて国会議事堂方面に向かいました。テムズ河北畔を下流に向かう道筋は国防省など官庁が集まるホワイトホール地区です。ここで出会うビジネスマンもほとんど(9割がた)ダークスーツです。黒・濃いグレー、無地か目立たぬ縦縞です。濃紺さえありません。若い女性も地味な服装です(赤など着ているのはお婆さん)。さすがにシャツは色物(ブルーやピンク)も着用していますが薄い系統です。
 この観察が面白くなり、帰りのユーストン駅で発車を待つ間さらにベンチに座って観察をつづけました。ネクタイを外している以外全く状況は変わりません。今度は靴にも着目してみました。スーツほど徹底していませんが、紐靴が圧倒的に多いのです。これは靴を脱がない習慣も影響していると思いますが日本とは大違いです(日本人のビジネスマンはスリップオンタイプが大勢ですね)。
・ランカスター大学の先生も色合いは地味ですが、スーツばかりでなくジャケット、ブレザーなど多様で、Mauriceのネクタイ姿は見たことがありません。前回会ったときは、ジーパンに濃いブルーのTシャツ、これも濃いブルーの軽そうなジャケットを羽織っていました。ロンドンとランカスターの違いに加えて、大学の自由度を感じます。

 いつもに比べ長くなりましたがこれで4回目の報告を終えます。

2008年8月14日木曜日

滞英記-4(1)

Letter from Lancaster-4(1)
2007年6月12日

 6月3日より6日までロンドンへ出かけました。到着来マンチェスターへ食材調達で出かけた以外ランカスターに留まっていました(湖水地帯には出かけましたが日帰りです)ので、ぼつぼつ気分転換が必要と感じたからです。それにこれからの研究にもロンドンを知っておくことが必要ですし。
 ロンドン訪問記はこのレポートの後半(次週(2)としてブログアップ)で行うこととし、今までお送りしたレポートに対して、「ところで何を勉強しにイギリスに出かけたんですか?」、「ORって何ですか?」と言うような質問をいただいています。そこでこの3週間のMauriceとの話も含めて、これらに回答する形で近況報告をスタートします(ORに精通している方には雑駁で冗長な説明になりますので飛ばしてください)。
<ORと私の研究>
1)ORとは
・Operational Researchあるいは米語でOperations Research(こちらの方が国際的にも普及しています)のOとRを取った略号です。
・Operationとは(軍事)作戦のことで、直訳すると“作戦研究”ということになります。
・これだけですと軍の学校で学ぶことのように聞こえますが、作戦を作り上げるのに数理(と言っても初期の段階ではほとんど統計学と言って良いでしょう)を駆使するところに単なる兵学とは異なる特色があります。
・ORの起源は、台頭するナチスドイツの空軍力にいかに対抗するか?と言う英国の国家防衛戦略からスタートします。科学者を動員して1930年代の半ばから始まった研究は、レーダーを生み出しこれと数理・通信・情報科学を一体化した防空システムを作り上げました(このシステムの概念は現代の各国防空システムに引き継がれ、原理的には変わっていません)。
・ここで動員された代表的な科学者は、インペリアル理工科カレッジ学長であったティザード(Mauriceはタイザードと言う)を委員長に、ノーベル生理学・医学賞受賞者のヒル、後にノーベル物理学賞を受賞するブラケット、レーダーの発明者;ワトソン・ワットなど錚々たる顔ぶれが揃っていました。そしてほとんどが第一次大戦に従軍しており、士官としての軍歴(戦闘経験)も有していたのです(つまりレベル・深さこそ違うものの“ユーザー知見”を有していた)。
・この委員会は通称“ティザード委員会”と呼ばれ数々の実績を上げていきます。具体的には、敵機発見のスピードと精度を上げる、対空砲火の命中精度を上げることなど。そして、ここが肝心ですが結果を正確に把握・分析・評価するようにしたのです(“大本営発表”とは大違いですね)。これが何とか1940年のバトルオブブリテン(英国の戦い)と呼ばれる激しいドイツの航空侵攻作戦に間に合い、イギリスは辛くもこれに勝利し、反攻に転ずる時間稼ぎが出来たのです。
・次いでこの手法は、Uボート作戦に応用され、哨戒機のルート決定、対潜航空爆雷の爆発深度設定、また護送船団の組み方などに広がり、海上輸送に依存する英国の脆さを立て直し、生命線を確保できるところまで持っていったのです。
・少しオーバーに言えば“ORによって英国は救われた”のです。
・当時この活動は高度な機密事項で、米英の協力体制を作り上げるトップ会談で初めてアメリカに明かされ、アメリカもORを積極的に取り入れて作戦策定を始めるようになります。特攻機をいかにかわすか?を艦種別にガイドラインを作ったりしています。
・戦後これらの成果が公開されると、種々の応用数学手法と発展著しいコンピュータが組み合わされ、政策決定や民間企業経営の各方面で活用されるようになりました。
・私が働いてきた石油会社でも、早くから原油の選択(市場と設備にマッチした原油を選ぶ)、プラント運転条件の設定(手持ちの原油を出来るだけ需要に合うよう処理する;出来るだけコストがかからないように)、あるいは設備の建設計画などにORが適用されてきました。

2)研究の動機・背景・目的(特に訪英の)
・45年の企業人人生で計測・制御・数理・情報畑(これらは広い意味で、ITと言う言葉に集約しても良いでしょう)で働いてきた私にとって、ITが進歩しその利用範囲が広がることは大変うれしいことです。
・しかし、少し気がかりなのは経営者や上級管理職が大事なことを決める局面でIT(特に数理)が果たす役割がそれほど昔と変わらない点です。このレベルの扱う問題は繰り返して出てくるものが少ないこともその一因と言えますが、それでも経験や勘あるいは組織のしがらみに依存した決定が行われる傾向が強いように感じます。もう少し定量的・論理的な要素を反映すべきではないか?どうしたらそのような環境が醸成されるか?このために技術者が工夫すべきことはなにか?
・20年の工場勤務の後本社情報システム室数理システム課を預かる職位に就いて、経営に近いところでIT活用を進めるようになると、特にこの問題が頭を離れなくなりました。何か手掛かりになることは無いか?これで思い至ったのが“ORの起源に学ぶ”と言うことなのです。つまり数理の専門家(実は数学者ではなかったのですが)と政治家・軍人が協力して国家の大事を解決する策を作り上げ、利用していった過程を研究することによって、経営者・上級管理者とIT技術者の関係改善とITを高度なレベル(経営上の意思決定)で利用する方策が見えてくるのではないか?これが40歳代後半のことでした。
・ただ、これをどう具体化するかは一昨年Mauriceの著書「Operational Research in War and Peace」を知るまでは全く見えていませんでした。この本をインターネットでたまたま見つけ、取り寄せ目を通したとき「求めていたものは当にこれだ!」と20年のモヤモヤが一気に晴れたのです。
・Mauriceと私の研究の違いは、彼がOR発展の軌跡を通史として描いているのに対し、私は人・組織の関係に着目し、専門家と意思決定者の協力関係改善・強化の方策を見つけ出そうと言う点にあります。そのために関係者個人の資質・経歴、意思決定者の“こと”に臨んでの言動、組織の持つ伝統的特質、組織間の軋轢とその解決などを掘り下げて調べる必要があるわけです。彼が著作を書き上げるまでに調べた参考文献・書籍はこのような情報を豊富に含んでいるに違いありません(先週末までのゼミでそれは充分証明されています)。それを直に聞き出すために此処に来ているわけです。
・これだけのことならばインターネットを利用してメールをやり取りするだけでかなりの作業は済むかもしれません。そしてある程度整理した段階で数週間集中的にMauriceのスクーリングを受ければ所期の目的を適えることも出来るでしょう。ただこの研究課題の仮説(予想する答え)の一つとして、“英国社会独特の特質(自然環境を含む)”があるのではないか?があり、これを明らかにするためには数ヶ月の短い期間でもこの地に滞在して、それを感じ取るべきではと面倒を覚悟でここへ出かけてきたわけです。
<3回の個人ゼミ>
 Mauriceとはここへ来てから5回会っています。初回(この時予め送ってあった訪英研究計画案に対する関連資料をもらっています)と二回目は挨拶や生活基盤に関することに費やしたので、研究活動については3回になります。
1)第一回(5月24日)
初回の資料に加えて、第一次世界大戦後の空軍戦略に関する資料、第二次世界大戦における戦闘機軍団でのOR適用、それに“もし戦術核がドイツの西方作戦(フランス侵攻)時ドイツ・英仏両陣営に在ったら”と言う彼独自の研究(7月プラハで開催のヨーロッパOR会議で発表)の資料をくれ、これらの概略説明をうけました。
また、彼の著作が出来上がるまでの苦心談を聞きました。
2)第2回(5月31日)
OR(Likely;類似、もどき)前史とも言うべき、第一次世界大戦および直後の活動を3つの事例を基に話し合いました。
①海軍における対潜作戦(護送船団)に関して海軍の中堅士官2名が提言した、船団規模と損耗率に関するもので(大規模船団ほど損耗率が低い)、海軍中枢部には受け入れられないものの、当時の首相;ロイド・ジョージに直訴し、その採用が決まった事例です(これは直後のアメリカ参戦で実施されずに終わり、海軍中枢は面目を保つことが出来たのです)。
②陸軍におけるドイツ主力砲撃陣地の精密特定に関して、本来はカナダの電気技術者だった士官が考案した、光と音の正確な測定によりドイツ砲撃陣地のあり場所を精密に測定し、ここに味方の砲撃を集中し、膠着状態だった戦線に突破口を開いた例です。
③これは戦時中のことではありませんが空軍士官として従軍し、その後貴族院議員になり空軍戦略に深く関わることになるティバートン伯爵の考え方とその形成過程に関するものです(後の各国の爆撃戦略に先立つ先見的な構想)。
この三つの事例を、軍中枢と提言者(特に民間出身者)の関係(提言前から提言後、その後の経緯まで)がどのようであったかを聞かせてもらいました。
 この話し合いの後、「民間人と軍の関わりではもう一人興味深い人物が居る、ザッカーマンと言う南ア生まれのユダヤ人で、動物学・解剖学専門(類人猿;ヒヒの脳解剖)だったが、やがてノルマンジー作戦における爆撃戦略で重要な役割を担うことになる男だ」と話してくれました。「伝記か何かありますか?」と問うと、「部屋にあるはずだ。貸してあげるよ」と言うことになり彼の部屋で探したのですが膨大な蔵書と書類で結局この日は見つからず、3回目(6月7日)のゼミで手渡してくれました。
この本の内容は別途研究ノートとしてまとめるつもりですが、“新たな金脈”を見つけた感があります。ザッカーマンも同席する戦時オフィス(実質的な統合参謀会議)でのチャーチルの苦悶(連合軍最高司令官であるアイゼンハワーが支持する彼の提案(フランスの鉄道網破壊)は、イギリス爆撃軍団の戦略(ドイツ都市の無差別爆撃)と異なりなかなか決断できない)が生々しく描かれていました。
 また、この本を読んだことで、広く知られている“ORの始祖はティザード委員会(空軍省)、特にブラッケトの存在”と言う話に若干修正が必要と感じました。ザッカーマンは対独防空計画からこの世界に入ったのではなく、爆撃の被害予測(サルを使った実験など)・分析(国家安全省)からORの世界に関わってきたことが分かったからです。
 またこの伝記の著者(ジョン・ペイトン)が、労働党政権の運輸大臣で後に影の内閣のリーダーになったことを知りました。“イギリス人のアマチュアリズム侮るべからず!”の感を強くしました(仮説:英国における初期のOR成功因子としてこの英教養人のアマチュアリズム;妙なものに好奇心・興味を持ち、始めると専門家そこのけでのめり込む、が大きく影響しているのではないかと考えています)。
3)第3回(6月7日)
①日本でORと言うと“ランチェスターの法則(特に、N二乗の法則;A軍:B軍の手持ちの兵力と損耗率をベースにどのような戦い方をすべきかを考察する)”が有名です。  Mauriceの著書のOR前史にもランチェスター(航空学者)の功績が書かれています。
日本では、この法則を市場の競争戦略(特に、販売)に利用する経営コンサルテーションが普及しており結構有用な理論と評価され、ファンも大勢います。
 私もこの理論の存在は無論承知していますし関連著書も読んだことがありますが、何かORの正当な(?)位置からみるとこの適用状況に一抹の“胡散臭さ”を禁じえません。
 そこで、今回このランチェスターについてMauriceに質してみました。答えは「軍事専門家の世界では初期の研究として高い評価もあるし、彼自身あの法則を発表後軍の委員会のメンバーになっている。しかし日本の事例のような他分野への展開事例は欧米には無い」との答えを得ました。
数理を、その発見者さえ気が着かない分野で応用することは、今日隆盛を極める金融工学をはじめ諸分野で多々認めらます。数理の歴史を学ぶことの面白さにこれがあると言っても良いくらいです。誰がどのように利用しようと私が非難すべきものではありません。しかし、わが国でのランチェスター法則に関する限り、本人は墓で苦笑している気がします。
②英国におけるOR先駆者がほとんど“技術者ではなく科学者”であることについて往時の英国における高等教育のあり方とそこで学んだものの資質や経歴について、日本の高等教育体系(軍の教育も含め)と比較しつつ、協力体制醸成の可能性の違いを論じました。  科学至上主義・教養主義の高等教育と実業重視の教育に一長一短あることが浮き彫りになりました(戦後の英国の製造業衰退の一端はここにあると英国人は感じているようです)。
③ティザード委員会が軍事科学推進に力を持つことになる背景について質しました。
結論から言えば、政治家の強力な後ろ盾(特にチャーチル)と第一次世界大戦以降の科学戦に対する一部軍人の先見性が、科学者が軍人と対等(協力的な環境下)な立場で科学(OR)適用を進められたといえる。
④主要な軍高官(今日まで話題にした範囲では空軍(戦闘機軍団、爆撃機軍団、沿岸防衛軍団;対Uボート作戦))と科学者の関係について個々人レベルで当たって見ました。
 結論から言うと、爆撃機軍団長ハリス以外とは良好な関係であった、ということです。ではなぜハリスだけは上手く行かなかったのか?この答えは2~3回後に明らかになると思います。

以上がここ3回のゼミのダイジェストです。

2008年8月8日金曜日

滞英記-3

Letter from Lancaster-3
2007年6月2日
<マンチェスター>
 話は少し遡りますが、初めての英国訪問で最初の宿泊地をマンチェスターに選んだのは以下のような経緯・背景からです。
 先ず、日本からどのようにランカスターへ行くか?空路ロンドンに到着、そこから鉄道でランカスターに向かう。近くに適当な空港の無いランカスターではこの案が一番常識的と考えました。しかし、滞英経験者のホームページなどをインターネットで見ると鉄道の信頼性が極めて低い。時間通り動かない。予定の路線を走らない。代行バス輸送が途中に入り英国人でも混乱している等々です。加えてロンドン市内を大きな荷物(半年分)を持って移動することの大変さ(ランカスター行きはユーストンと言う駅から出発する)。とても自信がありません。
 ランカスター滞在者(留学生としてランカスター大に居たことのある人達)のホームページや投稿記事を見ていると、買い物(特に食材)などでマンチェスターへ出ることが書いてあります。この情報を基にマンチェスターを少し調べると“英国最大のチャイナタウン”があるとの情報に接しました。これでかなりマンチェスターを中継地として選ぶ気持ちになってきました。ではマンチェスターへどう行くか?マンチェスターからランカスターへは?英国訪問経験者の多くがロンドンヒースロー空港のトラブル(スーツケースを壊され盗難にあう)を語ってくれ、マンチェスターへ行くならフランクフルトかアムステルダム経由の方がましと助言してくれました。しかし、この案はディスカウント航空券の点で不利なことが分かりました。ヒースローの危険は覚悟で、ブリティッシュエアウェイズ(BA)で出かけることに決めたのです。
 生活基盤が固まるまでしばらくレンタカーが必要と考えたのも、マンチェスターを基点にしようとした理由の大きな要素です。マンチェスターの地図(国内では入手出来なかった)をインターネットのグーグルマップで調べるとランカスターへ繋がるM6(高速道路6号線)へ比較的容易に出られそうです(実は地図との違いは、市街地の広がりが思っていたよりあったのと一方通行が多くM6へ出るのにチョッと迷いましたが)。
 ヒースローでの到着は予定通りでしたが、国内出発便は発着便の混雑で離陸が一時間以上遅れで、マンチェスター空港へは7時過ぎに到着しました。ヒースローに次ぐ国際空港と言われていますが国内便で入ったため、ターミナルも小規模ですし成田で積んだ荷物(ヒースローで触られた感じもしません)も全くチェックなし(通関のカウンターも無いし人も居ない。ただ税関の事務所があり申告物のある人は自己申告)まるで日本のローカル空港へ降り立った感じでした。
 マンチェスターは、一時はロンドンに次ぐ大都会(1930年代の70万人台が最高、現在は40万人強)でした。しかし、現在は製造業の衰退(英国全体に言える事ですが)で金融業が比較的活発なようですが、世界的に名を知られているのはサッカーチーム(ユナイテッド)位でしょうか?
 市の中心部は赤い石造りの中層ビルが多く、初めてイギリスを訪れた者にとっては充分“らしさ”を感じさせてくれます。私の泊まったホテルもこの造りで、これにロビーの広さと天井の高さ(そこにフロントが一人しか居ない!遅いチェックインなのでこのロビーにほとんど人が居ない)、さらに仄暗い照明が相俟って“らしさ”倍増でした。
 ホテルに落ち着いたらそれで終わりではありません。明日借りるレンタカー屋を特定し、ホテルまでの道を確認する必要があります。飛行機の遅れもありチェックインは午後8時頃でしたが緯度が高いので外はまだ明るさが残っています。フロントで確認するとレンタカー屋は徒歩で15分位とのことなので、早速薄暗い道をホテルでもらった地図を頼りに出かけ、簡単に見つけることが出来ました。ただ、一箇所工事中で一方通行のところがありこれを迂回する必要があることがやや気がかりな点です。
ホテルへの帰途中、件の赤い石造りの建物の一角に日本料理屋を見つけました。この日はほとんど飛行機に乗り詰めで、食事のサイクルが狂っているので食欲はありませんでしたが、駆け込み寺になりそうで何かホッとしました(と言ってもランカスターからは列車で1時間強あるのですが)。そして、その店の窓の一つに“Japanese Super Market”と書かれたネオンサイン見つけたので近くを巡ってみましたが結局見つけられませんでした。
 翌朝初めての英国式ブレックファースト(と言ってもビュッフェスタイルですが)を済ませ、もう一つの重要課題、これからの食材入手のためのチャイナタウン探訪をチェックアウト前に行うことにしました。これもホテルから2ブロックのところにあることが分かり、朝の通勤の慌しさが残る街を教えられたとおり出かけてみました。“英国最大のチャイナタウン” これから想像するのは、サンフランシスコやニューヨークのチャイナタウン、小規模でも横浜。しかし教えられた場所には石造りの中層ビルばかり。半順したところで少し狭い通りに入ると、見えました!あの赤い門が!マンチェスターのチャイナタウンは完全に英国式の区割り・建物の中に収まっているのです。外から見るだけでは“中華”の雰囲気はほとんど無いのです。しかも規模が極めて小さく横浜とは比すべくもありません。それでも一軒のスーパーに入ってみると中国食材を中心に東アジア(日本、韓国)の食材はほとんど揃っています。感激して日本米(10キロ)、キッコーマンと味噌を買ってしまいました。本来ならレンタカーを借りてから来るべきなのでしょうが、道に自信が無いし駐車のことも心配で、あとさき考えず買ってしまったのです。ホテルまでの道中が何と長かったことか!
 これらの買い物とスーツケースをベルキャプテンに託し、昨夜確認のレンタカー屋に出かけ新品同様のプジョー307(何と英国では珍しいオートマティック車)を借り受け、フロントでホテルまでの道を確認すると、昨夜気になった一方通行を避けるために予想もしない道を教えてくれ、これが一番簡単で確実だ!と言われ半信半疑でとにかく言われたルートをしばらく進みました。しかし、どうも左折が一本遅かったような気がして元に戻る道を探し始めるのですが一方通行が多く、やがて自分がどこに居るのか分からなくなって来ました。それでも何とか見かけた道に来たのですがことごとく右折禁止でどうしてもホテルに近づけません。やっと右折可の交差点へ来たのでホッとして右折したら直ぐに高速に入ってしました。専用道路なので簡単には降りられません。覚悟を決めてしばらく高速を走り、最初の出口で一般道に出てホテル方面と思しき道を進んでいると大きなランナバウト(ランナバウトについてはいずれお話しすることになると思いますが、ローターリー式交差点です。自動車の運転は左側通行、日本と同じですがこの交差点だけは日本には無いので、英国をドライブする際の注意事項としてよくドライブガイド書などで説明されているほどです)に来てしまいました。初めての体験です!しかし幸運にも、このランナバウトは昨日空港から乗ったタクシーで右折したものと瞬時に思い出し、その時ここの通行方法を注意深く観察していたので、インド人ドライバーの車線の取り方を真似で何とかホテル方面へ向かうことが出来ました。
 と言うような経緯で、マンチェスターに決めた狙いを予定通り実現し、やっと10キロの米とランカスターへの道をとることになりました。

<マンチェスター・2>
 5月18日(金)に新居借用契約が済んで直ぐレンタカーで例の米と荷物の一部をホテルから移動。部屋はフルファーニッシュとは言うものの消耗品はありません。しかし、食材以外はこの地のスーパーで揃います。問題は米・味噌・醤油以外の食材で、地元で用意できないものです。例えば麺や麺つゆ、非常時の即席麵、サラダも和風ドレッシングが欲しい等です。
 そんなこともあり、19日の土曜日鉄道でマンチェスターへ出かけることにしました(この鉄道利用もいろいろ初体験がありますが他日ご報告しましょう)。
 マンチェスターの中央駅とも言えるピカデリー駅は最初の滞在で大体の土地勘はついていました。駅からチャイナタウンがどの方向かが分かれば後は徒歩移動が可能です。それを確認して先ず出かけたのは前回滞在で目にした“Japanese Super Market”です。今度は昼間なのでその看板が出ている日本レストランの周りを裏まで回って調べてみましたが、やはりそれらしいものはありません。昼食にはやや時間がありレストランに客も居ないようです。しかし、一応オープンしているようなので中に入ると和服を着た東洋人の若い女性が出てきたので、「この辺にJapanese Super Marketがあるようですがどこですか?」と英語で聞いてみました。答えは英語で「こちらの地下がそれです」と案内してくれました。つまりレストランとスーパーが併設されているのです。
 地下へ降りると、有るわ!有るわ!一部キムチのような韓国食品も有るもの日本食材が何でも揃っています。客は私一人、無人だったスーパーに若い日本人の店員(関西出身の留学生)が出てきて対応してくれました。聞けば最近商品がまとめて入荷したとか。うれしくなってあれこれ(梅干や青紫蘇ドレッシング、本つゆなど)を買い求めました。精算をする時、「ここのレストランの料理はどんなものかな?」と聞くと、「昨日は僕が当番でしたが、今日は誰かな?」、「???」。アルバイト学生の作る和食とは一体どんなものか?些か心配でしたがここでランチにチャレンジしてみることにしました。
 メニューには一品料理もあるものの、昼食はセットメニューで構成されており、寿司ランチだけはわれわれが日本で目にするものと変わらないものの、あとは例えば<春巻き・味噌汁・鶏の唐揚げ・寿司・カツカレー・うどん・デザート(これで一人前!)>がセットと言うようなものばかり。確かに外国で日本レストランに入ると見かけたことのある組み合わせです。店員にそれぞれのボリュームを聞くとなんとかなりそうだし、日本食にしばらくありついていないこともあり、これとサッポロビールを注文しました。料理はいっぺんに出てくるのではなく、春巻きと味噌汁でスタートの洋食スタイルです。鶏の唐揚げはいかにも余分なので「テイクアウト(後で知りましたがここでは“Take away”と言う)にしてくれるか?」と問うと直ぐに適当な箱を用意してくれました(この晩はまだホテル泊まりでしたから、これとビール・クロワッサン・果物・紅茶で夕食に代えました;これもかなり変なメニューですね)。寿司も何とか合格。カツカレーとうどんも量が控えめで味もマアマアと言ったところ。
 帰り際に寿司を握っている(寿司だけは見えるところで握っている)黒Tシャツ・リーゼントの東洋人のところへ出かけると、「味はどうですか?」とかなり癖のある日本語で聞いてきました。話してみると日光・宇都宮方面のホテルや料理店で働いていた中国人でした。どうやらこのレストラン・スーパーとも経営者は中国人のようです(和服を着たウェートレスも中国人だった)。
この日は結局これだけでマンチェスター訪問を終え帰途に着きました。

<東方食品店>
 スーパーへ出かけると日本(あるいはこれに近い)の食材・調味料などがないかつい気になります。例えば、紅茶用の砂糖はあるが料理用が置いていません(何か黒砂糖のようなものはありますが)。また、米は結構有るものの例の細長い“外米(インディカ米)”ばかりです。ある時店員に聞いてみると、「それならバスセンター近くのChinese Super Marketに行ってみるといい」と言われました。しかし、なかなか見つからず道行く人に尋ねても誰も知らないと言います。しばらくその辺をうろつきまわっていると、有りました!<東方食品店>と漢字の看板を掲げた小さな店がタイ料理の店と併設されているのです。入ってみると店員の若い東洋系の女性が二人居るだけです。店を一巡すると中国・韓国・日本のものが量はそれほど多くないものの種類は結構あります。出前一丁(即席めん)、日本そば、豆腐、納豆、もちろんジャポニカ米も。この店へはその後時々出かけますが曜日・時間帯によっては若い東洋人(主として中国人)が大勢買い物をしています。聞くとほとんどランカスター大学の留学生で、彼らにとってもここは生命線のようです。 こんなわけで最低必要限のものは此処ランカスターでも確保できる見通しがつきました。
 正直、食の面では中国・中国人の存在に救われています。日本人はこんな田舎まで進出する必要もないし、また独立して商売をする商才もありません(“みやび”と言う日本レスランが在るには在るのですが、ほとんど客の出入りがなくあまりポピュラーとは感じません;入ろうという気分にならない)。街の中心部には大きな中華レストラン“Bamboo Garden(竹園と漢字表記もある)”がありここでビュッフェスタイルの食事も出来ます。初めてここで食事をし、精算をする時女将さんと思しき女性に話しかけられ滞在の意図を話したところ、達者な漢字で「活到老、学到老」と書いて、「貴方のような老い方は中国人の理想ですよ」と励ましてくれました。あとでこのことをMauriceに話したら、「彼女はここのマネジメントスクールの卒業生だよ」との返事が返ってきました。彼らの異国・異文化への浸透力を改めて認識させられました。

2008年8月2日土曜日

松之山・蓼科グランドツーリング

<旧友の招き>
 7月21日~23日、昨年英国帰国後入手した車で、久し振りの長距離ドライブを楽しんだ。動機は、長く仕事を伴にしたIさんの招きによるもので、豪雪・地すべり・棚田・秘湯・過疎の地、新潟県松之山出身の彼が法事で帰省するタイミングに合わせて、この旅が実現した。40年近く前、川崎工場建設で同じ組織に属してから、飲み会の席などで彼の生い立ちとその土地について何度か聞かされ、都会育ちの私との大きな違いに惹かれ、一度ユックリ訪ねたいものと思い続けてきた。
 実は、この地を訪れるのは初めてではない。彼のご両親が相次いで天寿全うされた際、その葬儀に出席するため、日帰りおよびとんぼ返りの一泊で此処へ来ている。嘗ては信濃川に沿って走る飯山線の越後鹿渡(しかわたり)が最寄り駅であったが、このときは既に北越急行線(通称北北線;湯沢と直江津を結ぶ)が開通しており、上越新幹線とこの線を利用し、松代駅から迎えの車で20分程度、彼の実家に達することが出来た。
 この北北線の起工は1968年だが、ほぼ全線山岳地帯それも地質・地盤の悪い地域なだけに松代付近のトンネル工事に22年を要し、全線開通は1997年。現地で会った彼の言葉「昔は都心との行き来は、山越え徒歩16キロと夜行列車でした」はこれで解消された。現在この北北線は黒字である。しかしこの黒字はこの線を利用する、富山・金沢方面への急行列車に依るもので、鈍行だけでは経営は成り立たない。長野新幹線が金沢まで延長されると、再びこの地の人々の交通事情が激変する恐れがある。
 今回のドライブ行で考えたことは;①この地の人々が主要交通路としてきた国道353号線(塩沢石打→山崎→越後田沢→松之山→柏崎)と国道117号線(小千谷→越後川口→山崎→津南→野沢→飯山→長野)を出来るだけ長く走ること、②同じ道を走らない、③首都圏以外は高速道路を出来るだけ使わない(状況に依るが)、④初日の宿泊は古い日本旅館で、山菜など地元の食材を堪能する献立のようなので、二日目はペンションかプチホテルで洋食を楽しむこと、それに⑤6月下旬装備したカー・ナビゲーション・システムの機能習熟、である。
 21日早朝6時少し前、曇り空の中横浜横須賀道路から第三京浜へ出て、玉川ICで環八に下り、谷原を経て関越道練馬ICに達した。ここまで1時間少々である。計画では2時間なのでかなり早目になっている。三連休の最終日、既に夏休み入りしており、多少の混雑を予測していたが関越道は順調に流れている。寄居PAで一休み。朝食のおにぎりを食べているグループが二組。まだ“朝めし”の時間帯である。埼玉から群馬にかけての平地は湿気が強く、窓が曇ってくるので間欠ワイパーを生かす。群馬の山岳地帯に入ると併走する車はまばら、相変わらずの曇り空の中を退屈な運転が続く。谷川PAを出ると10Kmを越す直線の関越トンネルに入る。“月夜野で下りて17号線を行くべきだった”との考えが頭を過ぎるが既に遅い。しかし「国境の長い
トンネルを抜けると青空であった」!自宅出発から続いた曇天は谷川連峰で完全に断ち切られていた。今度は暑さが堪える。
 当初の予定では塩沢石打SAに11時到着、ここで昼食をとって関越道を下り予定であったが、10時にここに到達してしまった。そこでそのまま17号を経由して353号線に入ることにする。山崎までの道はアップダウンがあるもののほぼ2車線が確保されており、対向車が少ないこともあってそれほど山岳運転の緊張もなかった。山崎は信濃川に沿って新潟と長野を結ぶ117号線が走っており353号線はこれと交差する形で松之山に向かうが、今回はこれを採らず、翌日走る117号線の感触を掴むため(ガソリンスタンドやコンビニの有無など)津南まで南下、津南から再び353号線に入った。ここからがIさんが高校時代週末徒歩で往復した山岳路である(高校時代かれは十日町に下宿し、週末だけ帰宅する生活であった)。一面の森林地帯、村落らしきものは殆どない。紆余曲折するルート。道幅も1車線プラスでところどころに退避場がある程度。それでも旧道の峠道付近はトンネルで短絡され舗装状態はよく、対向車も少ないのでギヤーをマニュアルに切替え、ワインディングロードの運転を楽しめるほどだ。塩沢ICを出てから約1時間で松之山に達した。最寄り駅越後鹿渡は松之山~塩沢の中間、山崎に近いので、彼が夏でも4時間を要した所を30分で走ったことになる。地方に住むものにとって、道路整備の重要性は都会とは比較にならない。



<松之山温泉にて>  



 自宅から関越道塩沢石打ICまでの走行時間を予定より1時間以上早く短縮したため、松之山到着は11時過ぎだった。Iさんには、2時前には着きたいと言ってあったので3時間も余裕がある。早過ぎる到着は塩沢で読んでいたので、117号線でコンビニを見つけお茶と残っていた握り飯を買い占めてあった。河原か見晴らしのいい所でそれらを摂ることにして、到着していることだけ彼に連絡しようと携帯電話をかけた。かからない!“圏外”マークが出っぱなしである。電源をオン・オフしたり、場所を変えても状況は変わらない。仕方がないので温泉街(と言っても数件の温泉旅館があるだけ)入口にある観光案内図で見つけた大厳寺高原という所まで出かけ木陰で昼食を摂り、少し早いが12時に町へ戻り旅館(凌雲閣)にチェックインした。
 到着一番、携帯の通じないことを宿の主人に問い質した。「ドコモなら通じるはずなんですが?」。私の携帯は昨年渡英前に購入した、海外でも使えるドコモである。“圏外”マークの出た携帯電 話を見せると怪訝な顔をしている。Iさんの実家の電話番号調査を依頼して部屋に案内してもらう。
 昭和初期に建てられた木造三階建てのユニークなこの旅館は、国の有形文化財となっている。近代化リニューアルは最低限に留められ、建物全体も部屋も銘木が飴色に変じて、往時の雰囲気がしっかり残されている。階段や廊下を歩くと、時々ギシギシ音がするのも一興だ。広縁の向こうには谷を隔てて、青々とした数段の棚田が見える。しかしこれは写真やTVなどで紹介されるほどのものではなく、この地の一般的な営農風景とのことである。旅館のたたずまい、サービス、風景すべてが自然体で、過疎地を売り出すような衒いがまるでない。地元出身者、Iさんならではの最高のもてなしである。
 部屋に落ち着いてしばらくすると、廊下の方で何やらガタガタしている。私の名前を呼ぶ声がする。Iさんが長兄の車で訪ねて来てくれたのであった。彼とは最近都内で何度か会っており儀礼的な挨拶は必要ない。開口一番「携帯のこと、話しておかず済みませんでした。私も最近変えたんですよ」 聞けば、この地は長く携帯が通じず最新のドコモでやっと通じるようになったとか。交通事情だけでなく通信事情も都会とは著しい違いがあることを知らされた次第である。そういえば部屋のテレビもBSは鮮明だが地上波(アナログ)は今ひとつ画質が良くなかった。
 この日の夕方帰京する彼とゆっくり話す時間はなかったが、此処へ来る時通った353号線に話がおよぶと、「夏はともかく、冬は大変でした。姉が遭難しかけたことがあるんです」「冬でも物資輸送は必要です。これを仕事にしている人がいて、幸い救われたのですが・・・」冬山登山ではない。北北線開通までは、日常にこんな危険が潜む厳しい生活環境だったのである。しかしIさんを始め此処で接した人たちに、厳しい環境の中で生きてきた者がもつ特有の暗い雰囲気はなく、皆さん実直で穏やか、都会の喧騒を逃れる旅人には何よりの癒しだった。
 泉源の温度が90度近くあり、塩分を含む独特の温泉に浸かった後の夕食は山菜がメインである。無論定番の刺身やてんぷらはあるものの量的に控えめで、てんぷらは一尾のエビ以外は野菜である。山菜料理というと農家の家庭料理のような素朴なものを想像するが、ここの料理は相当手が込んでいる。煮物・酢の物・鍋物・寒天で固めたものなど多彩な料理を地酒「寒中梅」の冷酒で楽しんだ。仕上げは漬物と当地特産「コシヒカリ」のご飯である。実は、Iさんがこの旅館を選んでくれたのは、この山菜料理を賞味させたいとの思いからである。ここの料理長、Tさんは彼の幼馴染であるばかりでなく、山菜の研究家として広く知られた人なのである。
 食後の一休み、夜8時に旅館のマイクロバスが用意され、15分ほど走った小川の辺に蛍見物に出かける。もともと過疎の地、この時間帯全く人出はない。地区内を通る353号線から一車線ぎりぎりの支道に入るとヘッドライトの明かりだけである。少し道幅に余裕があるところで車を止めると、運転手(実は料理長のTさん)が駐車灯を点滅させ、我々に下車を促す。この点滅を仲間と勘違いした蛍が一匹、二匹と集まり出し瞬く間にそこいら中を舞い始める。既に源氏ボタルのシーズンは過ぎ、飛んでいるのは平家ボタルだという。しかしこんなに沢山の蛍が飛び交うのを見るのは、生まれて始めてである。漆黒の中、満天の星とこの蛍の光が渾然一体となりまるで宇宙に漂う気分だ。これだけでも来た甲斐があった。
<棚田ともう一つの国道>
 蛍見物から帰館した際、女将から棚田の写真集数冊を借り、見所に関して情報も得ていた。近隣地区内にも棚田はあるが、写真に出えてくるような見事なものはなさそうで、これを見るにはここから津南に出るもう一本の国道、405号線をしばらく走らなければならない。ただ、この道は冬季閉鎖され、夏期も道路状態が良くないので地元の人はほとんど使わないという。棚田を見たら松之山に戻り、昨日来た353号線を津南に向かうルートにするか?あるいはショートカットになる405号線走破に挑戦するか?
 翌朝は澄み切った青空だった。ルートはまだ決まっていない。チェックアウトの際、再度宿の主人に405号線ルートを確認すると「津南までは棚田を見てまた353に戻るよりは早い。ただ道は狭くカーブが多くて走り難い。全線舗装はされている」との情報を得て、トラブルが起きたときの不安を残しつつ405号線で行くことにする。
 狭い谷に沿う、村(行政上は町だが)のメインストリートをしばらく走り、谷をまたぐ橋を渡って405号線に入る。ところどころに待避所のある一車線。先を行く車は農作業に出かける軽四輪トラック一台。しばらく登りが続く。かなり高度の取れたところで進行方向右側(西斜面)が開け谷に向かって棚田が見えてくる。棚田荒廃が報じられる昨今、ここは見事に手入れされている。更にしばらく上ると峠と思しきところに新しいトンネルがある。これを抜けると今度は左側に東斜面の棚田が見えてくる。自然と人間の力が合わされて作り上げる美しい風景である。有数の地すべり地帯が生んだ英知の結果だが、生産性は見るから悪そうである。いつまでこの情景が保たれるのであろうか?
 棚田地帯を過ぎると道路事情は一変する。舗装状態が悪くなり狭いうえに両側の草が覆いかぶさるような高さである。路肩のガードレールやカーブのミラーが殆どない。シュッシュと草が車体をこする音に緊張感が高まる。対向車が来ないことを祈りながら必死のハンドル操作である。たまに作業小屋のような建物を見かけるが人の気配はない。こんなドライブが30分くらい続いて、飯山線津南駅近くの踏切に達した時の安堵感は、しばし忘れられないだろう。117号線に出て給油をする際このルートのことを話すと、「酷かったでしょう!あの道は中越地震(2004)で傷んで殆ど手入れしていないんですよ」とのこと。こんな国道を知って、道路特別財源(ガソリン税)に地方出身の政治家がこだわる気持ちが少し理解できた。
<カー・ナビゲーション・システム>
 カーナビには関心はあったものの、自分の車に装備する考えは全くなかった。長距離ドライブに出かける時は、ドライブマップやインターネット地図で調べ、独自のナビゲーションシートを作って出かけていた。これを作るプロセスで経路やランドマークを頭に入れ、運転中気が散らないようにした。しかし、今年3月旅先でレンタカーを借りた時「地図はありませんか?」と問うたところ「カーナビが付いています」と言われ、初めて使うことになった。知らない街を二日間(それも一日は雨の中)観光したが、カーナビの有り難さを改めて認識させられた。これに経験のある友人たちの助言も好意的なものが多かった。6月下旬パイオニアのカロッェリアを取り付け、三浦半島や箱根方面をドライブして取扱いの要領を試してきたが、熟知している道筋だけに訓練以上のものではなかった。ここで得た最大のノウハウは、有料道路と立寄り地点の選択だった。一気に遠距離の目的地を探索させると予想もしないルートを選ぶことを知った。
 荒れた国道を脱出して、越後と信濃を結ぶ国道117号線に出たところで、ガソリンを補給し、そこで蓼科へのルートを設定した。飯山まではこの117号線を行けばいいが、そこから小布施、須坂、菅平高原、上田を経て蓼科に至る道は、上信越自動車道を含め多様である。事前に選んだルートは、高速道路を避けて、谷街道(292号線)→大笹街道(403号線)→上州街道(144号線)を行き、東部湯の丸付近で高速と18号線を横切り、県道40号線を南下して白樺高原へ出る、山岳ルートである。いくつかの立寄り地点を入れてルート探査をさせるとほぼ案に従った道筋を選んできたので、以後の運転をこのシステムに任せることにした。混乱が生じ始めたのは飯山のやや手前からである。道路地図で見ると117号線と飯山線はそれほど離れているようには見えないので、飯山地区を通過したいだけなのに立寄り地点として“飯山駅”を入れたことが原因である。それは直ぐ気がついたが、今までの経験で立寄り地点通過後のルートが正しければ、やがて次の立寄り地点にナビゲーションしてくれていたように思っていた。117号線から292号線への分岐は間違いない。もう飯山地区は通り過ぎた。飯山から須坂への一帯は平坦で、決定的なランドマークがないので音声ガイドに従うことにした。走ること20分、見覚えのある道を確り飯山駅へと戻っていた。
 292号線沿いのコンビニで再度ルート設定をし、今度は小布施を経て菅平高原まで難なく到達できた。ここから上州街道を下り上田まで出て、しばらく18号線(中仙道)を上るものと思っていたが、18号線合流手前でカーナビは新ルートを選択してきた。それは18号線に沿う側道であった。この選択理由は今でも分からないがスムーズに東部湯の丸まで導いてくれた。ここで上信越自動車道と18号線を横切り18号線の南側を併走する県道166号線に入る。カーナビは「しばらく道なりに、20Kmくらい行きます」と言い黙ってしまう。しかし数キロ行った所でこの道は佐久方面と白樺高原方面に分岐する。音なしである。白樺高原方面は心なしか道が狭くなる。道標に“40”が現れるのでそのまま進む。さらに数キロ行くとT字路の標識が出てくる。相変わらずカーナビは黙して語らない。標識を見て左折。突然「右です」と言ってくる。“エッ!右?”左折して直ぐに現れた信号を“右へ”と言っているのに気がついた。こんな場合、通常だとT字路の前で「左です。つぎ右です」と言ってくるのだが、この場合なぜか突然目が覚めた感じである。あとで調べてみると、佐久・白樺高原分岐点を本道と思われる佐久方面に進んでも、途中で白樺高原方面に向かう道と交わっている。この辺に彼女が黙り込んでしまった原因があるように思う。
カーナビの利便性と限界を知った旅であった。
<女神湖畔にて>
 最初の晩は鄙びた過疎地の温泉宿での山菜料理。では二晩目は洒落たホテルで洋食にしよう。そんな考えでカード会社から送られてきたガイドブックを見ていると、白樺高原女神湖畔にある小さなホテルが目についた。早速インターネットで利用者の声など調べてみるとなかなか評価が高い。気になるのは“女性向き”というコメントである。ホテルのホームページをみると宿泊プランがいくつかあるが、最高は別棟のレストランでフランス料理のフルコースとある。山岳ドライブを楽しむ自動車旅行はカジュアルな服装で出かけたい。(まさかと思うが)ジャケットとタイ着用なんていわれたら困る。少々グレードを落としたホテル内で摂る洋食付きプランを予約する。
 コロシアム・イン(Inn)・蓼科は、西側に女神湖が広がる白樺高原ペンション村の中心にある。着いたのは2時過ぎ。陽はまだ高い。プチホテルだが、フロント、ロビー、ギャラリー(素人の水彩画展をやっていた)などがある一階のコモンスペースは明るく広々して、感じが良い。案内された部屋は、間際に申し込んだからか、はたまたプランの値段からか、西向きの湖側ではなく、白樺の中にペンションが散見される東側である。しかし、この暑い日差しの中を走ってきたものには、午後の強い陽が差し込まない部屋は当にオアシスである。部屋の広さもリゾートホテルらしく広々していて寛げる。夕食までの時間を、湖畔散策、蓼科山中腹までゴンドラに乗り、そこにある水生植物が繁茂する自然園見物などに費やした。帰ると温泉の引かれた大浴場で一風呂浴びる。
 さて、ディナーである。風呂に出かけるのは部屋からスリッパ。これでいいかな?と思ったが念のためフロントに確認すると、「申し訳ありませんが、襟のあるお召し物とお靴でお願いいたします」とのこと。聞いてよかった。ダイニングは1階奥白樺の植え込みと散歩道が見えるガラス張り、テーブルは6人掛けが一つとあとは4人用が6~7席。やってきたウェーターは白人なので、英語で「何処から?」と聞くと、日本語で「フランスです」と答える。こんどは水を持ってきた外国人に、「インド人?」と聞くと、「フランスです」。肌の黒いウェーターもいる。注文をとりにきたチーフ(これは日本人)に「ずいぶん外国人が働いているんだね」と話しかけると、「私を除きウェーターは全てパリ国立大学の日本語専攻学生で、夏の期間だけ研修生としてここに滞在しております」とのことだった。二杯のワインと蓼科牛の小ステーキ含むフルコースのフランス料理を堪能した。
リゾートホテル(日本だけでなく)にありがちな、ある種の卑しさを全く感じさせない素敵なホテルだった。
<最終日のコース>
 女神湖→メルヘン街道(299号線)→松原湖→佐久甲州街道(141号線)→清里(清泉寮)→長坂IC→中央自動車道→大月JCT→中央自動車道→東富士五湖道路→山中湖→篭坂峠→138号線→御殿場IC→東名高速→横浜町田IC→保土ヶ谷バイパス→横浜横須賀道路→堀口能見台

総走行距離:約810Km