2007年7月10日 当地もようやく天気回復です。ウィンブルドン決勝、英国F-1グランプリ(この盛り上がりは日本とは比較になりません)は晴天下で行われました。
先週はBBCのパレスチナ特派員;アラン・ジョンソン氏が4ヶ月ぶりにイスラム過激派(Army of Islam)から開放されたことが一番大きなニュースです。
ここ数週間を通じたニュースは、テロ関連を除くと、ブラウン政権誕生、水害そして直近は公定歩合の引き上げです(確か、引き上げ後5.7%!円安が進むわけです)。この三つが大きく関わる共通の話題は“住宅問題”です。そこで今回は身近な住宅事情をお知らせします。たった2ヶ月の、それも田舎暮らしですから“英国住宅事情”としてはかなり偏った見方であることはお許しください。一つは私の<身近な住宅事情>、もう一つは<Building New Life >と言うユニークなTV番組についてです。
研究のほうは先週お知らせのように、Mauriceがプラハで開催の学会に参加のため休講です。彼からはこの研究発表のペーパー:<もしドイツの西方電撃戦時(1940年6月)戦術核が双方(英・仏連合対独)にあったら;英陸軍が東西冷戦時NATO軍対ワルシャワ軍対決を、ORを使い研究した結果を踏まえて>を貰っており、これをテーマに話をしたいと言われています(つまり論文を読んでおけと)。
このレポートをお送りしている東燃の先輩から、“チャーチルが推薦文を書くような権威ある著者が書いた「Adventure Oil」と言う本に、D-Dayに先立ち英仏海峡にパイプラインの敷設を行い、上陸後速やかにガソリンの補給を行ったと言うくだりがある。機会があったら教授に確かめて欲しい”とのお便りをいただきました。Mauriceもこの話は知らないとのことでしたが、“この本に何か関係することが書いてあるかもしれない”と貸してくれた「Most Secret War」と言う本を読みました。これは題目から想像するような“戦争キワもの”ではなく、オックスフォードで物理を学び軍事面での赤外線利用研究をしていた関係でMI6(Military Intelligence Section6;007で有名なMI5は政治関連諜報・謀略を主にし、6部は純軍事諜報・謀略活動を行う部署)の空軍部科学主査となった、R. V. Jonesと言う人(戦後アバディーン大学教授、Sirの称号を貰う)が、ドイツとの科学戦(特に電波戦)について書いた本です。政治家・軍人が科学者とどう関わり、意思決定をしていくかが、具体的課題(例えば、D-Dayに備えてのドイツレーダー網の調査や無力化策)ごとに書かれ、それらの重要課題検討での戦争指導会議(チャーチル主宰)の雰囲気が生々しく描かれています。加えて、筆者が、チャーチルの友人であり彼が科学アドバイザーとして重用(寵愛?)したリンデマンおよびOR生みの親;ティザートと極めて親しい関係にあり、かつ両者にニュートラルに接している人物であったことを、この本を通じて知ることが出来、“ORの起源に学ぶ”と言う研究テーマに新たな視点を与えてくれました。
<Building New Life >
偶々TVのチャネルを回していたら、港の片隅に打ち捨てられたように係留された古いバージ(平底船)を前に二人の男が話していました。どうも話の内容が、この船を棲家にする計画を検討しているようなのでしばらく観ていると、一人は番組の進行役、もう一人はこの計画を実現しようとしている引退近い電気技師であることが分かってきました。「本当に船を終の棲家にするんですか?」「船で暮らすのが夢だったんだ」要領よく生きることが苦手、と言う感じのおじさんが答えました。『でもこんな酷い状態の船をどやって?』、『予算は?』、『何時までに?』。これが<Building New Life >の共通課題なのです。
この番組は民放で放映しているもので、住宅建設協会のような組織がスポンサーになっています。この協会の地域支部(4つの国;イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランド)に応募してそこで候補を選抜、前出のような“自宅建設プロジェクト”をその計画段階から完成まで追いかけるような構成になっています。木曜日の8時から1時間、全工期は1年近くに及ぶプロジェクトを追跡し最終取材は見ている月になることもあります。
先ず大前提は、新設はダメ。古い、廃屋のようなものを再生することが条件です。また、Do it yourself(家族を含む)が条件になります(一部専門家の手伝いが許されていますがその条件はよくわかりません)。予算、工期もなにやら条件があるようです。期日や資金に関してはよく番組の中で、進行役が質問しています。そして、条件・課題をクリアーし家が完成すると10万ポンド(2500万円)が賞金としてもらえるのです。しかし、今まで観たところ期日に完成できた例はありませんでした。参加者は種々雑多、若い夫婦もいれば、同性二人、子持ちの家族、先週は孫のいるお婆さんでした(このお婆さんが瓦用の平たい石を上げるシーンはハラハラしました)。
何と言っても凄いのは、スタートする家(元家だった跡)です。家の元々の造りは石、木造はありません。日本人だったら更地にして建てた方が良いと思うくらい酷い家です。屋根は落ち、石やレンガも崩れ落ちた廃屋や冒頭紹介したスクラップとしか思えない船などが対象です。第二にビックリするのは、都会は全く出てきません(先の船はチョッと事情が違い、テームズ川の係留場でしたが)。近隣に全く家が無い野中の一軒家がよく登場します。荒野の廃屋を前に応募者が完成像を語るところから番組は始まります。予算や完成時期もこの時話題になります。
時期は2月、「5万ポンドかけてクリスマスはこの家で過ごしたい」こんな出だしです。休日、小型のパワーシャベルがトラックで運ばれてきます。さすがにこの機械の操作は専門家がやりますが、これを廃屋の中に入れ、中の瓦礫を片付けるところから作業が始まります。外に運び出した瓦礫を整理し、使える物をより分けるのは家族総動員(と言っても夫婦と子供だけ)。不足の石を購入し、足場を組んで外壁、隔壁や暖炉に石を積んできます。これも家族で役割分担です。石積みが終わると今度は床のセメント打ち、そして外廻りのハイライト、屋根葺き。加工された屋根の骨材(これは材木)が工場から運ばれてきます。これを地上で組み上げ外壁の上に上げ、そこに組み付ける作業はさすがに家族だけでは出来ません。親戚・友人と思しき人達が手伝いに来ます。屋根の骨格を作るだけでその日は終わり。悪天候続きでスケジュールが狂ったり、風や雨で折角途中まで仕上がっていた所が壊れたり、発注した資材が現場合わせで不都合を生じたり、予定がだんだん狂ってきます。進行役が「予定通りに行ってないようだが?」「クリスマスまで未だ未だあるさ」と。しかし、TVを観ているほうも「無理じゃないかな?」と言うような状況。夏休みはキャンピングカーを現場近くに牽引してきて、家族全員合宿で毎日家造り。子供たちは大はしゃぎ。窓枠の取り付け、床張りなど少しずつ形を整えていきます。9月、10月、進んではいるが細かい仕事が増えてくる。まだまだ住める状態ではない。「資金はどうなの?」「実は5万ポンドは使い切り。既に2万ポンドオーバーしているんだ」、と夫婦の表情が暗い。「この先の資金繰りは?」「………」11月、配線・配管工事、バスやトイレの取り付けが始まるが工事資材がそこら中に散らかっている状態。屋根裏など丸見えのまま。クリスマスまでの完成は到底望めないこと必定。「クリスマスをここで過ごすのは無理だね?」「やれるところまでやるさ」クリスマス当日夕方、進行役が暗い中を現場に向かいます。窓に明かりが!中に入ると、一応完成したダイニングで家族が蝋燭の下で楽しげに夕食を食べています。「メリー・クリスマス!他の部屋も見せてくれるかい?」。残念ながら他の部屋は未完成。結局全てが整い家族が引っ越したのは2月でした。外は年代を感じさせる石造り、中は簡素だが落ち着きのある素晴らしい家が完成していました。
この一年をかけた再生プロセスを1時間にダイジェストして番組にしています。これが(多分)毎週放映されるのですから、似たようなプロジェクトが複数(単純計算で一年50プロジェクト)走っている訳です。廃屋(あるいは廃屋同然の)の再生にこれだけ情熱、労力、資金を傾ける人達がいる(TVに出ない人が10倍や20倍はいるでしょう)ことに、英国人・英国文化の特質を強く感じさせてくれる番組です。それは、①古いものに対する愛着・敬意と②田園・自然との共棲渇望です。産業革命を真っ先に成し遂げた国に、このような生き方を実現しようとする人達が居ることは、ポスト工業化社会の在り方に一石を投ずる、と言うのは穿ち過ぎでしょうか?
<OR:新しい科学としてのその思想・規範> (原報告は前報6(1)と同時に2007年6月27日発信)
“経営判断にもっと数理を!”を最終ゴールとする研究のために此処に来ています。その手がかり探査を“ORの起源”に据えているので戦史の研究をやっているとお感じの方も多いようです(もちろん私も戦史研究が好きですし、Mauriceも同じですのでそのような方向に行きがちですが)。この主題のために戦史を離れてMauriceが用意してくれた資料が三つあります。
1)‘A festering sore’:the issue of professionalism in the history of the Operational Research Society
2)The intellectual journey of Russell Ackoff: from OR apostle to OR apostate
3)Operations research trajectories : The Anglo-American experience from the 1940s to the 1990s
がそれらです。
新しい学問が興るとき、それが独自の学問として存立しうるのか?独自性は何か?は根本思想・原理に関わる問題です。ここをクリアー出来ないと既存の学問体系の中に取り込まれてしまいます。私自身の体験で言えば、化学工学会の経営システム特別研究会の立ち上げとその後の存続、それに経営情報学会の統合(これは一会員として見てきただけですが)の二つがあります。
化学工学会経営システム特別研究会は、工学研究の学会にその前提となる化学企業経営の視点を取り込み既存の工学研究を別の角度から検証し、新たな研究課題を発掘・研究していくことを目指して、当時(20年前)の少壮企業経営者と企業から大学の経営科学研究に転じた大学人中心に興された研究会です。工学系研究者・技術者の学会に社会科学の研究者も加わり、経営戦略・研究開発マネジメント・経営情報システム・環境経営・リスクマネージメントなど“独自”の視点から化学工業・化学工学を捉えてきました。
経営情報学会の統合問題は、1980年代後半“戦略的経営情報システム(Strategic Information Systems; SIS)”がブームを呼んだ時期、相次いで設立された経営工学系研究者中心とした日本経営情報学会と経済・経営系研究者中心の経営情報研究学会がその後、一本化に向かいそれぞれの存立基盤のすり合わせに苦労しながら、やがて現在の経営情報学会(JASMIN)を誕生させるまでの紆余曲折です。
両ケースとも社会科学(主として経済・経営学)と自然科学(主として工学)というジャンルの全く異なるものが、協力して独自の学問領域を生み出そうとするところに、思想・原理・規範に関する種々の問題が噴出してきました。そしてこのような問題を議論し合うことにより、研究活動とその成果がしっかりしたものになってきたのです。
1)‘A festering sore’:the issue of professionalism in the history of the Operational Research Society
これはORの専門家に“資格付け”を行うことに関する議論の変遷を記したものです。学問としての認知・位置づけが出来る前から戦前の流れを汲むOR専門家が戦後これを広め、彼らが育てた人材も成長してくる中でORの独自専門性を社会に広く認知させる必要があると、ORSのシニアーメンバーの一部が言い出したことに端を発します。この背景に“ORクラブ”が英国社会独特の“クラブ”の性格を持ち、かなり閉鎖的な形で運営されそれがORSの執行部に引き継がれた経緯も影響しているようです。
一方でこの公的認知によって仕事の“独占化”、“標準化”や“市場支配”につながる恐れがあるという社会批判なども出てきます。ORSが与えるのか?学会は非営利機関ではないか!とORS内での議論も活発化していきます。このような議論は1953年頃から1966年まで形を変えては論じられてきました。
1967年ORSの中で妥協が図られ、以下のようなカテゴリーAとカテゴリーBの専門家認定基準が示されます。
・カテゴリーA
Qualification: ・An honors degree in a relevant subject
・Formal training in OR (full or part-time)
・Acceptable alternatives(またはこれに代わるもの)
Experience:
・Four years’ continuous full-time OR work, including 2 years’ project leadership
・カテゴリーB
People who were not practitioners but had made a major contribution to the subject, either in academic terms to through managerial or other support しかし、その後も、対象者、登録制度(単なる資格付与で無く、専門家としてのビジネスチャンスを与える)の是非、政府機関の仕事への関与などが断続的に議論されます。1973年、当時の検討委員会は理事会にProfessional registerの必要性を答申、1974年‘Fellow of Operational Research(FOR)’としてDepartment of Trade and Industry(DTI)に承認されることになります。FORの資格要件は、目を通した範囲では明示されていませんが“A” grade membership criteriaと書かれています。本件に関する理解がすっきりしないのは、会長が変わると検討方針が変わり、その対として会長になるための政治的な言動が背景にあるようなところが随所にみられます。また、体制批判派の左翼メンバー(当時の少壮学者の主流)の言動とこの会長人事、更には専門家認定が微妙に絡んでいるようです。
資格付与やその公的認定にこれほどこだわるのは、欧州での専門家がギルド的歴史を背負っているからだろうか?それとも技法の高度化がもたらすやむを得ぬ対応策なのだろうか?ORの起源が、専門分野に拘泥しない科学者の問題に対する自由な発想にあったことを考えると、この問題(専門性高度化と直面する課題解決へのアプローチ)の難しさを改めて認識させられました。そして、これは次の論文につながります。
2)The intellectual journey of Russell Ackoff: from OR apostle to OR apostate
Russell Ackoff(アメリカ人だが英国とも密接に関係)は戦後初期(60年代まで)のOR研究者・実務者(特に途上国の経済政策)として著名な人です。ORの、学問としての体系・思想作りに積極的に発言してきました。しかし、70年代に入りORの現状に失望し始め、現状打破の提言を活発に行うようになってきます。その核心をなす部分は、“ORをもっと社会的・政治的問題解決に使えるようにしていかなければいけない”(別の表現では“戦術的な課題だけでなく、もっと戦略的課題”)。複雑な社会問題は単純な(解が一つの)手法では扱えない、と言う主張です(同調者の一部には、第二次世界大戦では国家的課題をORで解決してきたのに今はそれが出来ていない、と言う批判もあります)。そのために過度に数理に依存する傾向を高めてきたORの理論的裏づけを改める必要を、強く求めるようになってきます。“高度な数理に依存するORは取り組める問題を解が得られるものに限定する”と数理依存派(OR学の中枢;Modeling Approach;ハードサイエンス)を批判していきます。
これに同調する動きは、大西洋を挟む米英両国で活発になり、Churchman(Systems Thinking)やCheckland (Soft System Approach)などその後ソフトサイエンス(一言で言えば“コミュニケーションで問題解決を図る”)の学問体系を作り上げていく実力者がAckoffの陣営に加わってきます。また、実務家・企業人にもこれを支持する動きが出てきます。必ずしもこれらの人々と同じ時期・次元では無いものの、“高度な数理依存のOR批判”は他にもあり、ORの始祖とも言えるブラケットもその一人でした。この動きは英国では80年代まで、アメリカでは90年代まで続きました。
以上のような動き(特に、Ackoff)に注目し、MauriceはOR史家として2003年米英両国の学会の思想・規範闘争も含めまとめたのが本論分です(Journal of the Operational Research Society Vol.54、No.11)。私が指導を受けている木嶋先生は、約20年前ランカスター大でSSAについてChecklandの下で研究されるとともにAckoffとも親しく、日本を代表するソフトサイエンス派と言っていいでしょう。先生のご指導をお願いに大学へお邪魔し、研究の趣旨をお話したとき、「企業における戦術的課題解決への数理応用は充分いきわたっているのではないか?」と質されたのはこのような経緯を踏まえたことだったのです。これに対する私の答えは、「確かに、戦術(日常業務処理)レベルではおっしゃる通りですが、経営トップ・上級管理者がその意思決定に際して(最新の数理理論ではなく、ごくありふれた数理(例えば、データ・マイニングや簡単な最適化)を“使ってみよう”とする姿勢が充分でないと感じています。そんな環境改善のヒントを“ORの起源”に求めたい」と言うことでご了解いただいた経緯があります。また、Checklandは知っていましたが不勉強でAckoffは知りませんでした。この時先生がお話になった逸話が印象に残っています。Ackoffが、待ちが多い(と感じる)エレベータの運行問題解決を求められた時、「ロビーの壁に大きな鏡を貼りなさい」と答えたとか。問題の本質(イライラ感解消)に迫る見事な解決案ですね。
3)Operations research trajectories : The Anglo-American experience from the 1940s to the 1990s
これは英国に発したORが戦後の英国と米国でどのように展開(特に民生部門の)していったかを、歴史的に整理したレポートです。利用状況の変化のみならず、ORの在り方をめぐる両国の学会を中心とした、思想・規範闘争の歴史も記述されています。その点では、Ackoffに関する前論文と重複する部分もあります。
構成は5章からなり、第1章は第二次世界大戦中の活動の紹介で著書「Operational Research in War and Peace」と重複。違いは、ドイツやロシア、そして日本に言及(意思決定構造の違い;意思決定者と科学者の関係;ヒトラーは占星術師に頼った)しているところや、前著では触れられていない陸軍におけるOR関連活動(活動場所・部隊が海外中心のため積極利用が図られなかった;高級将校の無関心)を解説しているところにあります。戦時中の効果的な利用とその戦後へのつなぎを意識してまとめている。
第2章は戦後早期に行われた、英政府関連のOR利用活動とアメリカの動きを解説している。一言で言うと“英国はスロースターターだ”。ここではAckoffがそれに対して素早く反応し、アメリカにおける利用促進に貢献しているとしている。しかし、やっと非軍事部門で利用が始まりながら、キャリア官僚(Civil Servant)の抵抗や“(計画主導に対する)全体主義批判”が起こり、英国での非軍事部門利用展開に急ブレーキがかかる。ごく限られた公共部門;石炭・鉄鋼・電力での適用に集中。ここに優れた専門家が結集する結果になる。その代表者は、Charles Goodeveである。彼が中心になって急速な利用展開が再び始まるが、民間企業での利用は小規模なものに留まる。
第3章は60年代の利用展開で、この時代英企業経営そのものが米国型経営に変わると供に厳しい競争にさらされる。アメリカ企業はこの時期になると、LPや統計を経営に駆使した新科学経営を推進し、OR利用展開が一気に広がる。この最大の因子は、マネージメントスクールの伝統があり、ORを正規の学問としてカリキュラムに組み込むことが早かったことにある。これに反してイギリスでは、ORを学問として位置づけるのに時間がかかった(初めてこれを教育体系の中に組み込んだのはランカスター大学(1964年設立だとMauriceは言っていた)。また、職業資格としての権威付けにも論争が起こっている(前出)。それを象徴する例として、両国を代表する二人のOR始祖、ブラケットとモースの話をここにあげている。ブラッケ;一旦学問(物理学)の世界に帰り62年のウィルソン政権までORと関わらなかった。これに反し、モース;本来は化学者だがその世界を捨ててOR普及に邁進した(出来た)。
第4章は前論文で紹介した、ORの思想・規範闘争に関する英米の経緯で、ほぼ前論文の内容と同じである。この時期(70年~90年)を“The Crisis of OR”と呼んでいる。ブラケット、モースとも“ORの高度数学化”を批判している(ブラケット;a narrowing in outlook of many operations workers)。その結果、いまやORは戦術問題に留まり、経営上の位置づけを低くしてしまていると。
第5章はこの研究のまとめである。特に、第4章を意識してまとめられている。思想・規範闘争の根底に、当時の学者の左翼思想があり権威を認めたくない若者の批判精神と相俟って、過度にハードサイエンスを批判する風潮がはびこった面があることは否めない。