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2007年7月2日
このところ天候不順で6月20日過ぎからまるで梅雨です。日本との違いは、ジメジメしないが肌寒いこと、一日のうちに曇り、雨、そしてつかの間の晴れがあることです。イングランド北東部(ヨークシャ)とウェールズでは洪水の被害が深刻です。なかなか水がはけないのです。また、爆弾テロが多発しており政府はアラートレベルを最高の“Critical”に上げています。このため空港への交通規制(特に自動車)、空港内でのチェックが厳しくなっており、時間が予想外にかかっています。機内持ち込みは1個に限られます。お土産もこの数に入るようです。当地へおいでの方は充分この辺の事情にご注意ください。これらのニュースは日本でも報道されているようですが、今回は当地の<ニュース事情>を二つのテーマでご報告します。一つは<BBCのTVニュース>、二つ目は<ブラウン首相誕生>に関するものです。
大学は年度の切り替わりの夏休みで学部の学生がいなくなり、閑散としています。しかし私の個人ゼミは、今週だけMauriceがプラハで開催されるヨーロッパOR会議に出席・発表のため休講ですが、その後は予定通り週一回のペースで進めることになっています。直近の研究は私の方から提案し“チャーチルとその科学アドバイザー”について調べています。<ブラウン首相誕生>の後半はそれも意識して整理したものです。
<BBCのTVニュース>
当地へ来てから世の移り変わりを知るのはTVだけです。新聞は取っていません。日本のニュースはロンドン中継の短波を聞いていますが時間帯が限られるのとノイズが酷く、短い時間に限られます。もう一つはインターネットで日本の新聞の見出しを閲覧する程度です。中身を丁寧に見ないのは私のインターネットアクセス環境が良くないためです〔電話回線でアクセス、niftyの安いアクセスポイントや定額制が上手く使えない〕。TVは映像があるため言葉が不自由でも何とか状況が理解できます。ニュースは専らこれに頼ることになります。私のTV環境はアパ-ト備え付けの受像機(名前(MATSUI)も聞いたことの無い比較的小振りのもの)で、受信料(1年分前払い)だけで観ることが出来るチャネルに限られます。プロフットボールなどはSKYチャネルと言う有料テレビを契約しないと観ることが出来ません(BBCがやったのはイングランド対ブラジル戦;公式の国際試合のみです)。無料チャネルはBBC系が三つと民放系が二つの計5チャンネルです。民放系ではニュースはほとんど無きに等しい状態です。偶にチャンネルを切り替えている時面白そうな映画やノンフィクションに行き当たった時しか見ません。 BBCは1がメイン(報道、特集、ドラマなど)、2は音楽・クイズ・教育など、3は何故かコマーシャルなどが入るドラマ・音楽・映画などです。そんな訳で主に見るのはBBC Oneと言うことになります。ドラマは日本でも全く関心が無く観てもいませんから当地でも観ません。結果、観るのはニュースと特集ということになります。
特集は、例えば昨晩は“Concert for Diana”と名付けられたライブで、死去10年を記念して、彼女(彼女の人気は未だに圧倒的)が力を入れていた小児病患者慈善活動を支援する音楽番組(フットボール場に6万の観客が集まり、ウィリアム、ハリーの二人の王子も出席し、著名な芸能人(葬儀の際にも演奏したエルトン・ジョンがトリを務めていました)が多数出演するもの)でした。特集番組は、ニュースで何度も予告されるので、新聞を取っていなくても予定が組めて助かります。と言うような状況で完全にBBCに取り込まれた生活をしています。そして出発点はニュースと言うことになります。
BBCのニュースは、朝は7時から始まるもの(これは特集や地方ニュース;此処はNorth Westも含み8時半頃まで続く)と夜の10時からのものを専ら観ています。昼も家にいる時は正午のニュースも観ます。夜のニュースは日本と違いあまり長くやりません(地方ニュース、天気予報を含め30分位です)。朝のニュースはキャスターが男女2名この他、スポーツ(状況により競技場;今はウィンブルドンから中継、スタジオでやることもある)、天気予報(外から中継)、経済(前日の市況解説)専任が適宜加わります。また、新聞各紙の1ページ目を紹介する時間がありこれには輪番制(?)で新聞社の人間が参加しています。夜は原則1名のアナウンサーが担当します(テロなどあるとメインが外へ出るケースもある)。
世界各地でTVニュースを観てきて構成に大きな違いは感じませんが、ここでBBCを観ているとNHKの1CHが大変よく似ていることが分かります。公共放送と言う共通性から来るものもあるでしょうが、NHKがBBCをウォッチしフォロ-しているのが実情ではないでしょうか?違いはニュース番組に“色”を感じることです。BBCはニュースや番組紹介でエンジをバックに使い、テロップなどのバックにはオレンジを使います。スタジオの家具・背景などもこの組み合わせで調和をとっています。開始を告げる音楽(音?)もディジタル感覚で報道の中身以外にも、日本には無い斬新な感触を体験しています。
さて、報道の中身です。当然ですが国内ニュースが中心です。CNNは別にして、他国の放送ではもう少し国際ニュースが多いのではないかと思うくらい、BBCでは世界の動きが良くわかりません。国際関係で出てくるのは、イラク、アフガニスタンそれにパレスチナ、大分落ちてEUです。アメリカで何が起きているのかさえ前三国に関わる問題以外分かりません。その三国関連にしても兵士の犠牲者や自国に関連するテロが中心です。日本など先ず報道されることはありません。BBCの宣伝の中に、如何に各地に特派員を送り世界各地の情報を集め・届けているか手短にアナウンスする時があります。ここには北京・ソウルは出てきても東京は出てきません。天皇訪英は非公式なものでしたから仕方が無いかもしれませんが、全く報道されませんでした。日本が報道されたのは、任天堂かソニーのTVゲームソフトが英国の著名な(多分ウェストミンスター)寺院を舞台にしているのが怪しからんと言うもの(ダヴィンチコードもこれで苦労したようです)、若い女性のイギリス人英語教師殺害犯が未だ捕まっていないと言うもの、それに環境問題対応でプリウスが紹介された程度です。
それではこちらに来てからの英国のトップニュース・重大ニュースを思い出すままに書き出して見たいと思います。日本での報道状況はどうだったでしょうか?
・5月初め当地に着いたときのトップニュースは4歳の幼女がスペインのリゾート地で行方不明になった事件です。未だに彼女は発見されていません。彼女発見・救済のための草の根運動が各地で起こり現在も継続しています。住居を探すため不動産屋を訪れている時若い女性がその子の写真をオフィスに張って欲しいと依頼に来ていました。
・ブレアからブラウンへの政権交代は、先ずブレアの功罪(主に罪)を取り上げ、特に誤った情報を基にイラク参戦したことへの批判がいろいろな形で流されていました。こんな中で出てきたのがハリーのイラク派兵です。ハリーって?ダイアナ妃の次男;ハリー王子です。彼は近衛連隊の戦車兵です。この連隊の一大隊(彼はここに所属)がイラクに派兵されることになったのです。彼はイラク行きを切望しました。イスラム過激派は“必ず仕留めてやる”と声明を出します。政府・陸軍はなかなか決断できません。結局“あまりにも危険”と取り止めなります。今度は派兵される(された)家族が黙っていません。“うちの息子は死んでもいいのか?”と。昨晩のダイアナ追悼コンサートで、ハリー王子は派兵された同僚たちに、「同行できず残念だ!済まない(apologize)!」とメッセージを送っていました。
・6月初め(正確な日は知りません)にはエリザベス女王の誕生日を祝います。と言っても生まれた日ではなく、戴冠した日を“新しい国王が誕生した日”として祝うのです。この少し前から騒がしくなるのは叙勲です。年初とこの誕生日の2回叙勲が行われます。誰がどんな称号・勲章を貰うか?特にMBE(Member of British Empire)はスポーツ選手や芸能人、作家など身近な人々が対象になるので話題を呼びます。今年はフットボール選手のベッカム、退任するブレア、それに「悪魔の聖書(だったでしょうか?)」(この本はイスラム過激派を批判する本で、日本でこの翻訳を手がけていた筑波大学の助教授が殺害され、未だ犯人は挙がっていません)の著者;ラシディが上がり、特にこのラシディ(パキスタン系のイギリス人)氏が選ばれたことに議論が集中しました。今回のロンドン・グラスゴー爆弾テロはこの叙勲に対する過激派の報復行動と言う説もあります。
・6月前半を通じてBBCが宣伝に最も力を入れていた特集番組は「フォークランド戦勝25周年記念」です。式典は17日(日)に行われましたが、この日に向けて関連情報が毎日のように放送されていました。式典当日も午前中から三々五々式典会場付近の公園に集まってくる退役軍人たちにインタビューしたり、当時の戦闘模様を流したり番組を盛り上げていきます。式典は3時からスタート。この日は午後からロンドンは晴れ。バッキンガム宮殿正面に向かう大通りの終点に位置する広場(兵営の中?)で公式の式典;チャールス皇太子(軍装)、ブレア首相、開戦時の首相サッチャー女史などお歴々が参列、軍楽隊の演奏で幕が切られ、三軍の代表が戦士を称え、戦死者を悼み、遺族代表と合唱団が追悼歌を捧げる。これが終わると参戦した兵士(主に退役兵)が皇太子以下の居並ぶ前を分列行進する。ここでの式典が終わると、首脳陣は車で退場しバッキンガム宮殿前のビクトリア女王像があるロータリーの中に設けられた閲兵台に先回り、今度はリラックスした感じで兵士たちの到来を待ち受け、再び閲兵する。分列行進の道筋には大勢の人達が歓呼の声を兵士たちに送る。誇らしげな老兵たち。空にはヘリコプターを先駆けに、輸送機、戦闘機、爆撃機、そして曲技飛行隊が三色の帯を引いていく。何やら指差しながら見上げるお歴々。水兵に混じってヨーク公爵(海軍の軍装)も行進に加わる。チャールス皇太子がそれに何かチャチャを入れ緊張が解ける。ロータリーを半周した兵士たちは解散場所に向かってくだけた調子で歩いていく。「これからどうするんですか?」とアナウンサー、「もちろん皆で飲むのさ!」。ここまで完全中継で5時まで。
“戦争と道楽だけは真面目にやるイギリス人”を、確りTV検証させてもらいました。イギリスを良く知る友人が、出発に当たり「J-Day(8月15日;対日戦勝記念日)は表に出るなよ!」と忠告してくれました。厳守します。
・6月後半で大きなニュースはEU憲法を巡る国内の動向です(サミットはほとんどニュースとして印象に残らなかった)。昨年?フランスで否決されこの批准は先送りになることを願う人達がこの地には多いようです。英国が特に強く拘っているのは外交と治安維持策の独自性です。ここからはかなり私の独断と偏見になりますが、EUと英国の関係を考察してみます。
外交に関しては二つあると思います。一つは嘗ての大英帝国を構成した国家との特別な関係を少しでも維持したい。EUの括りの中で既得権を削がれたくないということです。もう一つはアメリカとの関係です。EUの中枢をなす独仏、とりわけフランスはアメリカの力に対抗出来る欧州を目指しています。しかし、イギリスは欧州の中で歴史的にアメリカとの関係がとりわけ深い国です。これをEU側に取り込み対米交渉力を高めたいとする考えに警戒心を持っているのです。アメリカとの関係こそEUにおけるイギリスの切り札と考える人達が多数派のような気がします。
治安維持に関しても大英帝国の遺産を感じます。インド・パキスタン・アフガニスタン、中東(ここには植民地はなかったがイラン・イラク・ヨルダンは勢力圏)、アフリカ(多数)、西インド諸島、マレーシア・シンガポール・香港。どこかで政変や紛争が起こる度に自国難民としてこれらの国からこの小さな国に人が逃れてきます。そして貧しい白人の仕事を着実に奪っているのです。特にこの地へ来てインド・パキスタン系の人達の存在を強く感じます。私が利用したガソリンスタンドは高速を除いて全てインド系の人の経営でした。ロンドンで泊まったInnの経営はインド系の家族で、下働き(キッチンや部屋の掃除)は白人のおばさんたちでした。Mauriceも小売業はパキスタン系の進出が急だと言っていました。イギリス人より(そしてインド人より)商才が長けているそうです。モスレムに関しても種々雑多でかつ過激派が勢力を持つ地域が旧植民地・勢力圏に多く存在します。テロ対応策も一筋縄ではいきません。犯罪者が増え、刑務者は満杯で、そのために保釈を早めざるを得ないことが大きなニュースになっています。未然に防いだ爆発物事件3件は全て監視カメラの働きに因るものです。街の至るところにカメラが設置されています。ランカスターでも中心部に数箇所設置されています。英国政府これによる犯罪防止を強力に推進しようとしています。そして国民もこれを支持しています。皆さんは英国の作家H. G. ウェルズが1920年代に書いた「1984年」と言う小説をご存知ですか?あの時代の忍び寄る共産主義・全体主義の恐怖をテーマにした小説です。“ビッグブラザー”が全て監視している社会です。その監視システムは鏡でした。そして今、そのイギリスでカメラによる監視社会が実現しているわけです。これの是非を問う番組もありました。そこでは“ビッグブラザー”と言う言葉が頻繁出てきていました。ヨーロッパ人(大陸人)はプライバシーを大切にします。EU憲法は理想社会を想定して作られているようで、イギリスのやり方に疑問を投げかける向きが多いようです(監視カメラ以外の対策も含め)。これがイギリスのEU憲法批准に逡巡する(基本的には修正で大筋同意していますが)理由です。
・6月後半は政権交代関連が主題です。しかし本当の主役は雨です。英国の天気は、“一日の内に四季がある”とか“一日の内に曇り・晴れ・雨がある”と言われます。天気予報も平気でこんな予報を出します。だから、英国紳士はステッキ代わりを兼ねて蝙蝠傘を持つとか?5月にこちらへきたときも天気が優れず雨勝ちでしたが、その雨は一時的にパラパラと来る“シャワー”でした。ところが最近降るのは“ヘヴィー・レイン”です。と言っても日本の雨に比べれば、量も時間もたいしたことはありません。何故あんなに冠水・浸水する家が多いのだろう?そして一旦水が出るとなかなか引かないのです。TVで聞いていると歴史的なことのようです。Mauriceの話では、異常潮位でランカスターの一部が冠水したことはあるが(私も湖水地帯の海に近いマナー(大邸宅)でここまで水が来たと刻んだ石をみました)、川や排水路の氾濫は知らないとのことでした。こちらの家を(特にタウンハウスと称する棟割長屋)を見ていると、結構半地下の部屋の窓が歩道から見下ろせます。また、被害のニュースで地下のエール(ビール)貯蔵庫(これが一般的な貯蔵方法)に水が入り、コンタミネーション(混ざってしまう)を起こした、と報じていました。つまり、排水路の処理能力がシャワーベースでできている所へ、レイン(それもヘヴィな)が降って溢れたというわけです。その意味で“歴史的異常気象”なのです。そしてルーマニアやギリシャで起こっている異常旱魃との関係を取り沙汰しています。全く素人の邪推ですが、イギリスを代表する(と言うかほとんどイギリス全土)緑の牧草地帯には木が生えていません。排水路らしきものもありません。あるのは石垣だけです。ここへ少し普段とは違う量(歴史的に多目)の雨が降ると保水力が極めて低いので一気に平地に達し、街が洪水になってしまう可能性も考えられます。イギリス的風景がその元凶だ、と言う説はどうでしょう?
<ブラウン首相誕生>
1)ブラウン首相とスコットランド
ブラウン首相はスコットランド出身。父親は牧師。エジンバラ大学(と言ったと思う)で歴史学を学びPhDも得た知識人。労働党員となり党内で要務をこなし、次第に力をつけてきた。先ずスコットランド国会議員(最後は首相)となり、ブレア政権で英国内閣の閣僚となった(最後は財務大臣)。
スコットランドは連合王国の中でも独自の地位を維持している(ウェールズ、北アイルランドは基本的にイングランドと同じ行政・統治システム)。教育・社会保障など独自のシステムを持つし(さすがに外交・軍事は中央のシステムに組み込まれているが)、紙幣もスコットランド銀行券を発行している(エジンバラ旅行中実際手にした)。しかし、税収に関してはスコットランドからの税収だけでは賄えず、中央政府に大きく依存している。スコットランド労働党は中央の労働党とは些か異なる性格を持っている。すなわち、“愛国(独立志向)色” が強い。そして40年近く議会を牛耳っている。ブラウンの問題点はこの“スコットランド労働党出身”にある。(このことで思い当たるのは、ロンドンで議事堂付近を観光中重要人物(今から思えばブラウン)が議事堂から出てくるため交通規制が行われていた。その出口正面の歩道にイングランド国旗(白地に赤十字)の付いた横断幕を張ってメガフォンで何やら叫んでいる連中がいた) 
バッキンガム宮殿から戻ったブラウンが、官邸前で行ったスピーチは力強く感動的だったが、特に印象に残ったのは(と言うより、よく理解できたのは)「私はこの地(here)で生まれ、この地で育ち、この地で教育を受けた!だから・・・・・」と言う件である。一国の首相となったのだから“スコットランド人と見てくれるな!”と言う切実な思いを吐露したのかもしれない。
この話をMauriceに話した時、即座に「いやぁ!彼はスコットランド人だ!」との答えが返り、スコットランド政界の異常やサッカーゲーム(対イングランド戦)の狂気を話してくれた。アイリッシュ(アイランド、アイランド人)を語るとき、そこには何か“思いやり・同情”などを感じさせる雰囲気があるが(彼らがイングランド人より厳しい環境に適合できる例として、競馬の騎手にアイルランド人が多いことを、アスコット競馬を話題にした時話してくれた)、スコットランドに関してそれは無い。「ブラウンは“チェンジ”を掲げて大部分の閣僚を若手から登用する。彼らは経験が無いので苦労することになりそうだ!」と冷たく言い切ったのもこのことと関係するような気がする(いままでの付き合いから、彼は“労働党支持者”と踏んでいるが、このときばかりは“保守党なのかな?”とさえ思った)。因みに、詳しい生い立ちは聞いていないが、Mauriceはイングランド北東部出身、ニューキャッスル大学で学んでいる。北西部の古都カーライルから北東部のニューキャッスルを結ぶ線上にハドリアヌス防壁がありそこが2000年前のローマ帝国の北限、そしてその少し北にスコットランドとの“国境”がある。
2)首相のアドバイザー
首相が決まると真っ先に話題になるのが閣僚、そして首相のアドバイザーである。今回の政権誕生経過を見て、初閣議参加者(つまり閣僚)の数の多さにビックリした。おそらく50人位いるのではないだろうか?若手や女性が目立つ。先のレポートでも紹介し、戦時中OR発展史に重要な役割を果たした内務省も初の女性大臣が任命された。外務大臣も若い。日本同様キャリア官僚(Civil Servant;採用・登用過程は大分異なるようだが)は力がありそうなので、未経験ゆえに国策推進に齟齬が出る恐れは無いだろう(むしろ、独自色を直ぐ打ち出せるかどうか?)。これら閣僚には個人的(と言っても官費あるいは党費)なアドバイザーが数人付くので、これらと相談しながら議会対策や政策が検討・決定・推進されていく。日本の閣僚にも秘書官や秘書が付くが、こちらのアドバイザーの場合現役官僚がこの役目を務めることは無く、有識者や党員が主体になるようである。
さて、首相のアドバイザーである。今回もSir(サー)の付く人、女性、他に一人計3人のアドバイザーがTVで紹介されていた。3人が同格なのか?誰かが首席補佐官的役割を果たすのか?はTVで観ている限り私には理解できなかった。Mauriceによれば、彼らの影響力は相当なもので、首相がアドバイザーに操られる場面も過去にはあったようである。また、逆にアドバイザーが適切な助言をしなかったとして詰め腹を切らさたことがブレアの時に起こっている。アメリカの大統領補佐官(特に首席補佐官、国家安全保障担当補佐官)は表面によく出てくるが、こちらでアドバイザーがTVの前でブリーフィングするような光景を観たことは無いので、知恵袋・黒子的な存在なのであろう。
チャーチルの個人科学アドバイザー;リンデマンは、戦時内閣組閣時チャーチルの強い押しで貴族(Load;卿)に任ぜられ貴族院議員として内閣(Paymaster General;主計担当大臣)に入り、絶大な権力を握った例もある(OR推進派と対立)。
以上
<OR:新しい科学としてのその思想・規範> (原報告は前報6(1)と同時に2007年6月27日発信)
“経営判断にもっと数理を!”を最終ゴールとする研究のために此処に来ています。その手がかり探査を“ORの起源”に据えているので戦史の研究をやっているとお感じの方も多いようです(もちろん私も戦史研究が好きですし、Mauriceも同じですのでそのような方向に行きがちですが)。この主題のために戦史を離れてMauriceが用意してくれた資料が三つあります。
1)‘A festering sore’:the issue of professionalism in the history of the Operational Research Society
2)The intellectual journey of Russell Ackoff: from OR apostle to OR apostate
3)Operations research trajectories : The Anglo-American experience from the 1940s to the 1990s
がそれらです。
新しい学問が興るとき、それが独自の学問として存立しうるのか?独自性は何か?は根本思想・原理に関わる問題です。ここをクリアー出来ないと既存の学問体系の中に取り込まれてしまいます。私自身の体験で言えば、化学工学会の経営システム特別研究会の立ち上げとその後の存続、それに経営情報学会の統合(これは一会員として見てきただけですが)の二つがあります。
化学工学会経営システム特別研究会は、工学研究の学会にその前提となる化学企業経営の視点を取り込み既存の工学研究を別の角度から検証し、新たな研究課題を発掘・研究していくことを目指して、当時(20年前)の少壮企業経営者と企業から大学の経営科学研究に転じた大学人中心に興された研究会です。工学系研究者・技術者の学会に社会科学の研究者も加わり、経営戦略・研究開発マネジメント・経営情報システム・環境経営・リスクマネージメントなど“独自”の視点から化学工業・化学工学を捉えてきました。
経営情報学会の統合問題は、1980年代後半“戦略的経営情報システム(Strategic Information Systems; SIS)”がブームを呼んだ時期、相次いで設立された経営工学系研究者中心とした日本経営情報学会と経済・経営系研究者中心の経営情報研究学会がその後、一本化に向かいそれぞれの存立基盤のすり合わせに苦労しながら、やがて現在の経営情報学会(JASMIN)を誕生させるまでの紆余曲折です。
両ケースとも社会科学(主として経済・経営学)と自然科学(主として工学)というジャンルの全く異なるものが、協力して独自の学問領域を生み出そうとするところに、思想・原理・規範に関する種々の問題が噴出してきました。そしてこのような問題を議論し合うことにより、研究活動とその成果がしっかりしたものになってきたのです。
ORの起源時、当然ORが学問として存在していたわけではありません。当時の関係者に与えられた課題は、「強力なドイツ空軍の本土攻撃にどのように対抗するか?」、「ドイツ空軍の爆撃から如何に国民を守るか?」という切実な命題でした。化学者、物理学者、電子工学者、結晶学者、動物学者などが軍事専門家とは異なる角度から、科学的にこのような問題に取り組むプロセスで数理(主として統計学)利用のアイディアと成果が出、やがてORとして結実していくのです。それらの成果を“要素”としてみれば、物理学、電子工学、解剖学、統計学など既存の学問に帰結します。何も独自性は見出せません。違いは、これらを一つの“システム”として捉え、命題に対する対応策の全体効率を飛躍的向上したところにあります。“システム工学”出現のはるか以前、この考え方は一つの独自の科学領域としてぼんやりした姿を見せ始めます。
戦争中に英国から発したORはアメリカに伝えられ、大戦中に独自の発展を遂げていきます。この段階はあくまでも軍事作戦策定手法の一つで、学問としての認識は利用者自身ありません。戦後イギリスでは戦時中の代表的なOR推進者の多くは本来の科学分野に戻っていきますが、一部は政府の政策立案や公共性の高い企業(石炭・鉄鋼・電量など)でOR手法を広めていきます。この時のメンバーが中心なり、1948年に“ORクラブ”が発足します。これが1953年OR学会(ORS)に転じていくのです。
以上のような種々の背景を踏まえ、三つの論文の概要をそれに関する私見を含めてご紹介します。
1)‘A festering sore’:the issue of professionalism in the history of the Operational Research Society
これはORの専門家に“資格付け”を行うことに関する議論の変遷を記したものです。学問としての認知・位置づけが出来る前から戦前の流れを汲むOR専門家が戦後これを広め、彼らが育てた人材も成長してくる中でORの独自専門性を社会に広く認知させる必要があると、ORSのシニアーメンバーの一部が言い出したことに端を発します。この背景に“ORクラブ”が英国社会独特の“クラブ”の性格を持ち、かなり閉鎖的な形で運営されそれがORSの執行部に引き継がれた経緯も影響しているようです。
一方でこの公的認知によって仕事の“独占化”、“標準化”や“市場支配”につながる恐れがあるという社会批判なども出てきます。ORSが与えるのか?学会は非営利機関ではないか!とORS内での議論も活発化していきます。このような議論は1953年頃から1966年まで形を変えては論じられてきました。
1967年ORSの中で妥協が図られ、以下のようなカテゴリーAとカテゴリーBの専門家認定基準が示されます。
・カテゴリーA
Qualification:
・An honors degree in a relevant subject
・Formal training in OR (full or part-time)
・Acceptable alternatives(またはこれに代わるもの)
Experience:
・Four years’ continuous full-time OR work, including 2 years’ project leadership
・カテゴリーB
People who were not practitioners but had made a major contribution to the subject, either in academic terms to through managerial or other support
しかし、その後も、対象者、登録制度(単なる資格付与で無く、専門家としてのビジネスチャンスを与える)の是非、政府機関の仕事への関与などが断続的に議論されます。1973年、当時の検討委員会は理事会にProfessional registerの必要性を答申、1974年‘Fellow of Operational Research(FOR)’としてDepartment of Trade and Industry(DTI)に承認されることになります。FORの資格要件は、目を通した範囲では明示されていませんが“A” grade membership criteriaと書かれています。本件に関する理解がすっきりしないのは、会長が変わると検討方針が変わり、その対として会長になるための政治的な言動が背景にあるようなところが随所にみられます。また、体制批判派の左翼メンバー(当時の少壮学者の主流)の言動とこの会長人事、更には専門家認定が微妙に絡んでいるようです。
資格付与やその公的認定にこれほどこだわるのは、欧州での専門家がギルド的歴史を背負っているからだろうか?それとも技法の高度化がもたらすやむを得ぬ対応策なのだろうか?ORの起源が、専門分野に拘泥しない科学者の問題に対する自由な発想にあったことを考えると、この問題(専門性高度化と直面する課題解決へのアプローチ)の難しさを改めて認識させられました。そして、これは次の論文につながります。
2)The intellectual journey of Russell Ackoff: from OR apostle to OR apostate
Russell Ackoff(アメリカ人だが英国とも密接に関係)は戦後初期(60年代まで)のOR研究者・実務者(特に途上国の経済政策)として著名な人です。ORの、学問としての体系・思想作りに積極的に発言してきました。しかし、70年代に入りORの現状に失望し始め、現状打破の提言を活発に行うようになってきます。その核心をなす部分は、“ORをもっと社会的・政治的問題解決に使えるようにしていかなければいけない”(別の表現では“戦術的な課題だけでなく、もっと戦略的課題”)。複雑な社会問題は単純な(解が一つの)手法では扱えない、と言う主張です(同調者の一部には、第二次世界大戦では国家的課題をORで解決してきたのに今はそれが出来ていない、と言う批判もあります)。そのために過度に数理に依存する傾向を高めてきたORの理論的裏づけを改める必要を、強く求めるようになってきます。“高度な数理に依存するORは取り組める問題を解が得られるものに限定する”と数理依存派(OR学の中枢;Modeling Approach;ハードサイエンス)を批判していきます。
これに同調する動きは、大西洋を挟む米英両国で活発になり、Churchman(Systems Thinking)やCheckland (Soft System Approach)などその後ソフトサイエンス(一言で言えば“コミュニケーションで問題解決を図る”)の学問体系を作り上げていく実力者がAckoffの陣営に加わってきます。また、実務家・企業人にもこれを支持する動きが出てきます。必ずしもこれらの人々と同じ時期・次元では無いものの、“高度な数理依存のOR批判”は他にもあり、ORの始祖とも言えるブラケットもその一人でした。この動きは英国では80年代まで、アメリカでは90年代まで続きました。
以上のような動き(特に、Ackoff)に注目し、MauriceはOR史家として2003年米英両国の学会の思想・規範闘争も含めまとめたのが本論分です(Journal of the Operational Research Society Vol.54、No.11)。私が指導を受けている木嶋先生は、約20年前ランカスター大でSSAについてChecklandの下で研究されるとともにAckoffとも親しく、日本を代表するソフトサイエンス派と言っていいでしょう。先生のご指導をお願いに大学へお邪魔し、研究の趣旨をお話したとき、「企業における戦術的課題解決への数理応用は充分いきわたっているのではないか?」と質されたのはこのような経緯を踏まえたことだったのです。これに対する私の答えは、「確かに、戦術(日常業務処理)レベルではおっしゃる通りですが、経営トップ・上級管理者がその意思決定に際して(最新の数理理論ではなく、ごくありふれた数理(例えば、データ・マイニングや簡単な最適化)を“使ってみよう”とする姿勢が充分でないと感じています。そんな環境改善のヒントを“ORの起源”に求めたい」と言うことでご了解いただいた経緯があります。また、Checklandは知っていましたが不勉強でAckoffは知りませんでした。この時先生がお話になった逸話が印象に残っています。Ackoffが、待ちが多い(と感じる)エレベータの運行問題解決を求められた時、「ロビーの壁に大きな鏡を貼りなさい」と答えたとか。問題の本質(イライラ感解消)に迫る見事な解決案ですね。
3)Operations research trajectories : The Anglo-American experience from the 1940s to the 1990s
これは英国に発したORが戦後の英国と米国でどのように展開(特に民生部門の)していったかを、歴史的に整理したレポートです。利用状況の変化のみならず、ORの在り方をめぐる両国の学会を中心とした、思想・規範闘争の歴史も記述されています。その点では、Ackoffに関する前論文と重複する部分もあります。
構成は5章からなり、第1章は第二次世界大戦中の活動の紹介で著書「Operational Research in War and Peace」と重複。違いは、ドイツやロシア、そして日本に言及(意思決定構造の違い;意思決定者と科学者の関係;ヒトラーは占星術師に頼った)しているところや、前著では触れられていない陸軍におけるOR関連活動(活動場所・部隊が海外中心のため積極利用が図られなかった;高級将校の無関心)を解説しているところにあります。戦時中の効果的な利用とその戦後へのつなぎを意識してまとめている。
第2章は戦後早期に行われた、英政府関連のOR利用活動とアメリカの動きを解説している。一言で言うと“英国はスロースターターだ”。ここではAckoffがそれに対して素早く反応し、アメリカにおける利用促進に貢献しているとしている。しかし、やっと非軍事部門で利用が始まりながら、キャリア官僚(Civil Servant)の抵抗や“(計画主導に対する)全体主義批判”が起こり、英国での非軍事部門利用展開に急ブレーキがかかる。ごく限られた公共部門;石炭・鉄鋼・電力での適用に集中。ここに優れた専門家が結集する結果になる。その代表者は、Charles Goodeveである。彼が中心になって急速な利用展開が再び始まるが、民間企業での利用は小規模なものに留まる。
第3章は60年代の利用展開で、この時代英企業経営そのものが米国型経営に変わると供に厳しい競争にさらされる。アメリカ企業はこの時期になると、LPや統計を経営に駆使した新科学経営を推進し、OR利用展開が一気に広がる。この最大の因子は、マネージメントスクールの伝統があり、ORを正規の学問としてカリキュラムに組み込むことが早かったことにある。これに反してイギリスでは、ORを学問として位置づけるのに時間がかかった(初めてこれを教育体系の中に組み込んだのはランカスター大学(1964年設立だとMauriceは言っていた)。また、職業資格としての権威付けにも論争が起こっている(前出)。それを象徴する例として、両国を代表する二人のOR始祖、ブラケットとモースの話をここにあげている。ブラッケ;一旦学問(物理学)の世界に帰り62年のウィルソン政権までORと関わらなかった。これに反し、モース;本来は化学者だがその世界を捨ててOR普及に邁進した(出来た)。
第4章は前論文で紹介した、ORの思想・規範闘争に関する英米の経緯で、ほぼ前論文の内容と同じである。この時期(70年~90年)を“The Crisis of OR”と呼んでいる。ブラケット、モースとも“ORの高度数学化”を批判している(ブラケット;a narrowing in outlook of many operations workers)。その結果、いまやORは戦術問題に留まり、経営上の位置づけを低くしてしまていると。
第5章はこの研究のまとめである。特に、第4章を意識してまとめられている。思想・規範闘争の根底に、当時の学者の左翼思想があり権威を認めたくない若者の批判精神と相俟って、過度にハードサイエンスを批判する風潮がはびこった面があることは否めない。
最後にハードサイエンス批判に対する個人的な考えを述べておきます。
●社会的・政治的問題では、確かに“ゴールが一つで無く”数理だけで納得感のある答えは出ない(ソフトサイエンスの必要性)。
●最近は企業経営も社会的責任などが大きな重みを持ち、その点では上記に近い環境が増えている。
●数理が対象問題を制約する(解ける問題だけを扱う)のは確かだが、これは“数理そのものの”が悪いわけではない。
●ソフト論争が起こった当時(60~80年代)に比べITの発達は著しく、経済的にも適用環境は大幅に改善されている(ハードばかりでなく、データ・マイニングや表計算ソフトの機能などを含む)。
●むしろ問題は、OR専門家が問題の本質を理解しているか?理解する場を与えられているか?にある。
●また、本質が掴めたらそれに合ったより分かりやすく簡単な解法が無いかを考え、提言する習慣が必要である(自分の専門技術や最新技術に拘泥しない)。
●もう一つ、経営者・上級管理者が日常的に経営課題に対する仮説(論理・手順・数理に基づく)を作り出し、それ検証する習慣を身に付けているか?がある。経営における数理利用に関しては経営学的素養が欠かせない。
以上