2009年6月11日木曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(2)

2.友の死
 2月25日夕刻、大学時代の親友MNの子息J君から電話があった。それは施設で介護の日々を送っていたMNの死を伝えるものであった。2002年の暮れ大学同期有志の忘年会が新宿の中華料理屋で開かれた。十数人が集まり二つのテーブルが用意されていた。少し遅れた私は空いていた彼の隣の席に座った。目が合った彼の発した言葉に我を失った「君、誰だっけ?」いっとき置いて「MDだよ」と答えると、(手帳を取り出し)「MD君か!ちゃんと住所書いてあるよ。年賀状もう出したよ」この日宴会の終盤、気分を悪くした彼を近くに住む友人の一人が送っていった。これが彼と会った最後である。病名は難病のピック病(アルツハイマーと症状が似ているが別の病気;原因が分からず介護しか対処法はない)、死因は脳梗塞であった。3月1日の告別式に愛車、ボクスターで出かけた。「(一緒に走る約束だったじゃないか!乗ってくれ)」と。
 2000年彼が外資系エンジニアリング会社を、技術部長を最後に定年退職した時、二人だけの慰労会を当時私のオフィスの在った恵比寿のパブレストランで持った。「俺ももう直ぐ一線を退く。そうしたら昔から語り合ったヨーロッパ・ドライブを実現しようじゃないか」こんな話に花が咲いた。その時の彼の所有車は、世界ラリー選手権で活躍していたインプレッサWRX、定年間近の男が乗るような車ではない。熱いオイルが血管を駆け巡っているのは若き日と何も変わらない。
 大学の専攻が機械工学であったから、自動車好きは多かった。ためらうことなく、入学すると彼も私も“学生自動車工学研究会”と言うサークルに入った。このサークルは自動車部とは違い専ら工学部の学生が対象で他大学(何故か東京女子大もメンバーだった)の同種のサークルと学連を組んで工場見学や自動車の性能試験などを活動の中心にしていた。当時の若者は誰も自動車に憧れていたが、自分で所有することは無論、自家用車のあるような家庭も稀だった。こんなサークルで身近に車に接するだけでも興奮したものである。
 しかし、彼の家にはこの稀有の自家用車があった!雪ヶ谷の貨物線(今の新幹線)を見下ろす傾斜地にあった彼の家は、戦前の帰国二世であった父上の建てた家、白いペンキ塗りのモダンな家だった。南に傾斜した芝生の庭の端を通る道の奥は半地下式のガレージ。そこにフォード・タウヌス(ドイツ法人のフォード)が納まっていた。このタウヌスが私の免許取得後初めて運転々した車である。この車でもう一人の親しい友人MT(今は専らイタリア旅行を楽しんでいる。“篤きイタリア”に登場)と3人で1961年の連休、榛名山に出かけた。卒業の春休みには、買い換えられたヒルマン・ミンクス(英国車;当時いすずがノックダウンしていたが、彼の家のそれは英国製であった)で伊豆半島を一周したのも忘れられない思い出である。日立造船に就職した彼は一足先に結婚し大阪に住んでいたので、入れ違いで本社勤務になった私は、万博見物の時には新婚家庭に泊めてもらったりもした。東京勤務の時は借り上げ社宅が金沢八景にあり、戸塚にあった我が家(会社のアパート)に彼とMTの家族と三家族で集まり楽しいひと時を過ごしたこともある。造船会社の景気浮沈は激しく、一時は辛い時期もあったようだが、提携していた米国の重工会社シカゴ・ブリッジに転じて力量発揮、技術部長まで務めるようになった。彼の息子、J君は私の息子同様機械屋になり輸送機器メーカーに就職、ヨーロッパ・ドライブ旅行は正夢にならんとしていた。通夜の晩J君と語り合ったのも車の話だった。

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