2010年1月31日日曜日

決断科学ノート-28(迷走する工場管理システム作り-2;生産管理論争ー1;和歌山工場の考え方)

 このプロジェクトが迷走することになる背景には、種々の因子があるのだが、その中でも最大の問題点は“新しい生産管理方式”に関する考え方であった。
 生産管理とは、原料手当・保存方法、市場における製品需要・価格動向、プラント装置の性能や保全状態、製品の受注・出荷状況などを考慮して、日々のプラント運転に指示を与え、生産状況を把握・分析する機能である。当に製造業の経営を左右する最も重要な機能といえる。本社では製造部が、工場では製油管理課がこの経営管制塔とも言える役割を担い、効率的なプラント操業を実現する。当時既にこの分野へのコンピュータ利用は行われていたが、本社における大まかな方針設定(月次)が限度で、工場操業の細部はプラント運転や需給調整に精通したヴェテランが経験に基づいて決していた。そうして作られた月次生産計画(前月の実績分析を含む)は工場長や製油部長(石油化学では製造部長)などが同席する生産会議で最終決定される。
 高度成長の時期、1960年代後半、和歌山工場は第二工場とも言える有田計画を進めていたが、それに先立ち拡張後の生産管理方式について上層部に“将来の生産管理に対する不安”が持ち上がっていた。「更なるヴェテランの管理要員の確保をどうするか?」「新設備が旧に倍する工場になった場合、ヴェテランの経験が生かせないのでないか?」と言うものであり、それは「コンピュ-ターを使って新しい方式が出来るのではないか?」と言う声になっていった。
 これに応える形で、本社製造部・情報システム室と工場製油部の間で調査・検討チームが作られ(後に作られる制御システム課もこれに加わり、最終的には推進母体となる)、新方式案出、プロトタイプ作りやその試行作業が行われていく。根幹を成すのは、本社で大まかな生産計画を作成する際使われている“和歌山工場線形モデル(LPモデル)”である。工場のプラントを数千行の一次式で表記するモデルで、当時本社に在ったIBMの大型コンピューター(360)で数時間かけて解くような規模のものである。
 試行システムは、月一回の計画ばかりでなく、更に期間の短い計画検討にも和歌山からリモートでこのモデルを動かして、最適解を得て工場計画担当者の判断を支援し、更に短期の詳細なスケジュール作成に役立てようと言う試みである。
 1971年頃までには、これらの試行作業に基づいて、新しい生産管理システムの姿が見えてくる。その骨格は、①ひと月を三期(上・中・下旬)に分けて作る月次計画、②その計画を個々のプラント運転を日々の指示に具体化するスケジューリング、③プラント運転実績の収集・分析の三機能から成る。
 ①は前述のLPモデルが使われ、そこでは経済的な最適解(コストミニマム)が求められる。これを受けて②ではプラントと物の流れ(パイプラインやタンクを含む)のシミュレータを用いて担当員がその実現を図る。③ではプロコンや運転記録シートデータを収集し、データーの検証や計画との対比を行い、運転効率のチェックを行い、必要ならLPモデルやシミュレーションモデルの修正に反映する。これを、工場管理用汎用コンピュータで行う。基本的な考え方は従来方式と変わらず、あくまでもシステムは“支援する”位置付けであり、現場に受け入れ易い構想と言えた。
 これによる経済効果は、市場環境に合わせた原料(原油)利用の最適利用、エネルギーのコストの削減など運転効率改善と、ヴェテラン管理員やテータ収集・分析要員の増加抑制にあった。
 開発要員(主として社員)に関する費用を除けば、最大のコスト要因は工場用汎用コンピュータにあった。コストパフォーマンスの向上は著しいものの、大型LPモデルを扱える規模の高価なコンピュータを導入する例は当時エクソン・グループにも無く、工場トップを除いては、計画推進へ一歩踏み出す決断がなかなか下せない。更なる実現性(経済効果を含む)検証要求が次々と起こってくる(多くの関係者は先送りしたいのが本音)。
 和歌山工場がこんな状況にある時スタートしたのが川崎の工場管理システム計画。そして、そこで考えられていた生産管理方式は、和歌山案とはまるで異なるものであった。

2010年1月24日日曜日

決断科学ノート-27(迷走する工場管理システム作り-1;パートナー選びの裏面)

 1972年秋、川崎地区における石油精製・石油化学にまたがる大プロジェクトの終焉が見え始めた時期、私は子会社である東燃石油化学(当時の名称;通称TSK)へ出向を命じられた。出向先は新設される工場長直轄のシステム開発室である。目的は、石油精製・石油化学を一体化した革新的な工場管理システムを、今で言うITを用いて実現すると言うことであった。当時の川崎工場は、石油化学進出のための新工場としてスタートしたので、工場長始め組織はTSK中心に作られていたので、新組織もそこに設けられたわけである。
 唐突に立ち上がったこの工場管理革新構想が、どのような経緯で具体化してきたかについては、現在でもはっきりしない(当時、“工場長の意向”と説明は受けたが)。この真実を知る人は二人、工場長とシステム開発室長である。二人とも東燃入社ながらこの時はTSKの役員であり、管理職であった。“石油精製・石油化学一体管理“が決め手であるので、私も含め東燃側でシステム構築を担当していた者をこれに加えることになったようだ。
 組織発足に当たって開発室長が言ったことは、「これは単なる“生産管理システム”の構築ではなく、工場のあらゆる業務を根本から見直し、革新的な業務システムを作り上げることである、そのために最新の情報技術を調査・研究し積極的に利用を図っていく。効果の狙いを“大幅な省力化”と“一体化管理による原料活用・製品生産の最適化”に置く」と言うことであった。今ならば全社・全工場総力を挙げて取り組むBPR(ビジネス・プロセス・リエンジニアリング)である。苦難することになるプロジェクトは、こうして始まった。
 室長はTSK川崎工場技術部システム技術課長を兼務しており、その課員の一部も兼務となった。室長の下には東燃管理職の副室長が居たが、この人は学究肌で専ら数理技術の実用化に努めていたので、このプロジェクトの実質的な推進役は、TSK側の係長職と私の二人が主に分担することになり、コンピュータ・通信技術関係(メーカーを対象にする業務)は私の担当となった。面白くもあるが、外乱が加わるややこしいポストである。
 室長の業務推進手順は、まず徹底的に最新情報技術(市販されていないものを含む、場合によってこちらから開発提案も行う)を調査し、それらの利用を前提に改善・革新策を考え、そこから経済効果を算出し、最後にプロジェクトの実現方法を描く、と言うものだった。手順としては真っ当なものと言える。
 メーカーの持つ最新技術を引き出す、こちらの要求(夢に近いもの;今ではそれらはほとんど実現している;例えば、LAN通信)の実現性を質す。これは極めて困難な仕事である。長い付き合いのある計測制御機器メーカーはともかく、コンピュータ・メーカーが研究開発段階の先端技術情報を簡単に開示するとは思えない。しかし、室長には既に腹案があった。双務的な機密保持契約を結んでそれを実現する。具体的には、東芝(GE)と山武ハネウェル、富士通と横河電機の2グループをそのパートナーにしようと言うものであった。コンピュータ・メーカー、計測・制御機器メーカーそれぞれ2社は東燃グループに実績のある会社なので、一見この選択・組合せはフェアーなように見える。しかし、この時代突出したコンピュータ・メーカーであるIBMが外れているのは、明らかに不自然であった。
 本社の情報システム部門(この時代プロセス制御用コンピュータを除いて、情報システムに関しては東燃本社がグループ全体を主管していた。このプロジェクトが実現した時に導入されるのは、プロコンではなく汎用コンピュータ、言わば工場の“連隊旗”である)は当然これを問題にしたし、私自身精製工場用に2台のIBMシステム導入に関わってきたので納得できなかった。
 室長の主張は、「これは技術に関する適用可能性スタディであって、メーカーや機種選択ではない」「機密性の高い情報交換をするので、パートナーをそれぞれの分野2社に絞りたい」と言うことであった。ならば、IBMとその他一社(汎用機ではマイノリティの東芝を問題にした)にすべきと主張したが聞き入れてはもらえなかった。
 実はIBMが外されたのには、それに遡るTSKにおけるコンピュータ導入の歴史から来ていたのだ。最初のオンライン・プロセス制御やラボラトリー・オートメーション構築に関してIBMにも声はかけられていた。しかし、IBMは国産メーカーとは異なり、システムの一括受注はしなかった。ハードもソフトも自社標準製品を納め、あとは顧客の責任でシステム作りをしなければならなかった。製品化されていない技術情報開示で顧客の関心をひくことは、独禁法で硬く禁じられていた。これに対して国産メーカーは、アプリケーションを含めた一括請負はするし、標準品の改造も厭わなかった。明らかに、IBMは顧客の要求仕様にそのまま応えられる経営環境には無かったので、受注に至ることはなかったのである(これら先行プロジェクトの受注者は東芝(GE)であった)。
 建前として理屈は通るものの、釈然としないパートナー選びであった。
 二つのグループをパートナーとする調査研究は約一年かけてまとめられるが、その途上やってきたのが1973年10月に発した第一次オイルショックである。全ての前提条件が狂い、計画は全面的見直しを求められ、パートナーにとっても選ばれたことのアドバンテージは失われてしまう。次のステップへの“決断”は取り敢えず先送りされるが、この時のIBM外しは、その後もこのプロジェクトに様々な問題を生起することになっていく。

2010年1月17日日曜日

決断科学ノート-26(決断の要点-3;政策決定)

 最近の新聞に、“似ているオバマと鳩山政権”と言う記事があり、その中の類似項目に“遅い決断”が挙げられていた。
 民主的な政治が行われている社会の、意思決定の要点は“合意”にある。言い換えれば「政治とは利害関係者の合意点を見つけること」と言っていい。これに関しては、案件の“利害関係者”をどの範囲までとするか、直接議論に参加できない関係者の“参加感(ある種の同意)”をどう満たすかなど、前提とする問題も解決しなければならない。予算作りで見せた“仕分けショー”はこの“参加感”醸成の一こまと言える。
 合意点を見つけると言う行為は、企業経営や軍事行動にも必要であるが、判断基準や権限・序列などが比較的明確なので、時間的に素早い対応が可能になっている(出来ない会社は倒産し、部隊は敗北する。結果も分かり易く早く出る)。
 政治・政策の場合も、意思決定・実施システムは出来上がっている。議員を選び、議会で表決し、行政府がそれを実行する。大統領・首相・首長や党首は、それぞれの組織における最高意思決定者と位置づけられているので、形式的には、一朝有事の際は、限られたスタッフの同意(場合によっては独断)で行動が起こせるようにもなっている。しかし、現実には、実行をスムーズに進めるには、形式的なやり方で、即断出来ないのが政治である。
 国の安全保障政策、空港整備、原子力発電所建設、環境対策からゴミの分別収集まで政治案件は、短時間に合意点に達するのは難しい。その最大の理由は、関係者の判断基準が、置かれた環境・立場や心情・信念によって異なるため、“最適点”を簡単に絞り込めないことにある。
 主義主張の異なる(資本主義と共産主義、民主主義と全体主義)政治的対立はともかく、経済的な対立が主体の場合は、“足して二で割る”や“三方一両損”方式が、
妥協点(合意点)に達する早道だが、経済的な制約(財源)の下で“参加感を満たす”必要もあり、一気にゴールを目指すことは得策ではない。そこに反対者・少数者の気持ちを慮るプロセス(時間)が必要になる。
 わが国の広義の政治システムに、あれこれ(だらだら)意見や考えを語らせる、“村の寄り合い”スタイルがある。不平不満や意見が出尽くしたところで、村の有力者が“落とし処”を提示して全員の合意を得る。決めた者に対する恨みはなく、責任は皆が共同で負う。
 四方が海で囲まれ、気候温暖で、長く外敵に侵略されたことのない上に、鎖国政策(外乱の無い)を採ってきたわが国に最適の意思決定方式ともいえる。小さな村社会だから出来たことだが、近代日本の政治システムにもその遺伝子が今に引き継がれ、依然としてリーダーは、“不満(恨み)ミニマム”の合意形成を目指す傾向が強い。決断に時間がかかる所以である。
 このような環境下に適応する意思決定科学としては、数理手法中心のハードサイエンスより、ゲーム理論やドラマ理論のようなソフト手法(話し合い中心)が適すると言わる。しかし、政治・経済環境変化のスピードは速く、小さな地方政治的課題もグローバルな変化が直ちに影響する時、「よく話し合えば分かってもらえる」「誠実に対応する」ことも重要だが(それにこだわりすぎると、変化に追いつかず、国を誤ることになりかねない)、真に求められているのは、“一部の恨みを買ってでも”決然と断を下し、法令でそれを断固実施する、自らにも強いリーダーシップではなかろうか?
 乱世の政治家の典型、チャーチルは当にこのような人であった。

2010年1月10日日曜日

決断科学ノート-25(決断の要点-2;軍事作戦)

 企業経営の場合、判断基準が利益、売上、シェアーを決め手とするのに対して、軍事作戦の場合、なんといっても“勝敗”が決め手である。ただ、近代の国運をかけた戦争の場合、一度の会戦で全てが決まるわけではない。総力戦では直接的な戦闘力に加えて、戦争資源やロジスティック(補給力)が戦いの趨勢を決する。従ってこの“勝敗”の評価ポイントをどこに置くかによって判断は変わってくる。
 軍事作戦における決断の特徴は、状況変化が早いことである。計画通りいかないのは常なので、断を下すタイミングがきわめて重要になる。拙速・独断専行、柔軟性とスピードがもう一つのカギとなる。
 この評価ポイントとタイミングは決断者の立場によっても変わる。軍人ならばやはり時間的に短期の戦闘そのものにウェートが置かれるし、政治家なら個々の戦闘より長期的視点からの、財源や国民生活あるいは外交関係ということになる。
 純然たる軍事作戦は軍人が、国家戦略は政治家が決めるというのがバランスのとれた役割分担であろう。大局を見なければいけない人間が最前線の小事に惑わされたり、戦闘に集中しなければならない兵士が後方を慮るようではいけない。軍人が政治家になってしまった日本、政治家が軍事作戦を指導したドイツはこの点で、作戦目的や勝敗の判断基準があいまいになってしまった。
 1941年6月22日ドイツはソ連に攻め込んだ。バルバロッサ作戦、北方・中央・南方三軍集団、兵力は約300万人。北方軍集団はレニングラード、中央軍集団は一気にモスクワを目指したが、激しい抵抗に遭うと8月中旬ヒトラーはこの中央軍集団から第2装甲集団をキエフ占領のため南方軍集団に転用する。当初の計画には無かったことである。これには成功するが、それだけモスクワへの進軍が遅れ、その間に防御が固められていた。12月冬将軍の到来、モスクワを眼前にしながらその攻略作戦は中止される。
 ウクライナ、さらにはその先カフカスの油田地帯を抑える役割を持つ南方軍集団に装甲軍集団が割かれた時、装甲軍生みの親、グーデリアンはヒトラーに異を唱え解任される。反対したのはグーデリアンだけではなかった。この判断で国防軍首脳の一部とヒトラーの間に修復できぬ亀裂が生じた。軍人たちは首都陥落こそ勝利と考えていたからだ。

 ヒトラーの、このモスクワ攻略の変心、その1年前英仏連合軍をダンケルクに追い詰めながら、最後の殲滅戦を躊躇したことは現在でも史家の関心を惹き続けているが、一人の人間が、政治家・軍人の二役を兼ねたところに判断の混乱があったとしか考えられない。軍人ならば、ダンケルクで一呼吸おかずに一気に英仏海峡まで攻め落し連合軍の反攻の余力を絶っていたに違いないし、モスクワ陥落で侵攻作戦に一区切りつけていたであろう。一方政治家ならば、最後まで追い詰めず英仏と休戦の余地を残そうと思うだろうし、戦争継続のためにカフカスの石油を優先する考えも分からぬではない。
 “勝敗”という一見分かり易い判断基準も、一段上・数段上の視点ではまるで変わるところが軍事作戦決断の難しいところである。資源・兵力(兵器を含む)の配分問題もどのレベルで評価するかによって解は異なるということである。
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2010年1月6日水曜日

今月の本棚-16(2009年12月)

<今月読んだ本(12月)>
1)ランチェスター思考(福田秀人);東洋経済新報社
2)ランチェスター戦略入門(福田秀人);東洋経済新報社
3)金融工学は何をしてきたのか(今野浩);日本経済新聞出版社
4)たまたま(レナード・ムロディナウ);ダイヤモンド社

<愚評昧説>
1)ランチェスター思考および2)ランチェスター戦略入門  ランチェスターは20世紀初頭の英国人自動車・航空技術者であり、特に航空機軍事利用に触発されて、兵器と戦闘に関する歴史的・数理的分析を行い、その結果をランチェスターの法則として確立した。それは、①一騎打ち(古代・中世)の法則と②集団戦(確率戦;近代)の法則からなり、兵器の効率を同じと仮定した場合、戦闘後(M軍とN軍)の残存兵力差(生き残り)は、①では(m-n)と一次だが②では(m2-n2)と二乗で効いてくる、と言うものである。つまり弱者側は正面からの集団戦を避け、強者側を分断して戦うことの必要性を説いた(兵器性能に差がある場合、弱者はより優れた兵器を用いることの必要性も導かれる)。このことからランチェスターは“ORの始祖”と称され、米国OR学会論文賞(ランチェスター賞)のタイトルにもなっている。また当然のことだが軍事科学の面では今日でも、ここから発した数理的兵力評価の研究が行われている。
 この法則を独自の視点から発展させ、1960年代後半から企業戦略、特にマーケティング戦略に利用推進したのがわが国の経営コンサルタント田岡信夫氏と統計学者の斧田太公望氏で、その戦略、“ランチェスター戦略”は経営学やORに馴染みの無い人にも広く知られている。ただこの戦略適用の普及過程でランチェスター法則と田岡・斧田両氏の考え方を寸借した、様々な活動(出版、セミナー、コンサルティングなど)が派生し(宗教の宗派のように)、「我こそは直系の・・・」とその正統性を主張するようなことも生じて、“ある種の胡散臭さ”を漂わせていたことも事実である。
 著者は慶応義塾大学大学院で経営学博士課程まで学び、その後経営コンサルタント、さらにはその延長線で数社の会社経営(特に再建)にも参加、現在は立教大学大学院教授として危機管理を講じている。つまり理論と実務両面に精通した経営の専門家である。1990年頃から経営に関する勉強会を主宰しており、その当時から友人として、また経営指南役としてお付き合いいただいている。その勉強会では田岡氏の遺志を継いだ田岡夫人にも何度かお会いしている。また軍事関係の造詣が深く、自衛隊幹部学校などでもしばしば講演を行うほどである。従って“その戦略論”は玄人に充分太刀打ちできるものである。つまり、ランチェスター戦略を経営学・経営実務・戦略論と多面的に語れる人である。
 低成長、ビジネス競争激化の時下、最も求められる経営戦略は“生き残り戦略”である。その先駆たるランチェスター戦略をきちんと見直し、正しい姿を理解してもらい、企業経営に役立てよう!こう言う意図で書かれたのがここに取り上げた二著である。当然オーバーラップするところ(基本、重要点)もあるが、1)は理論編、2)は入門編と言う位置付けになる。
 従って、1)では“戦略”の意味から始まり、ランチェスター法則が導かれる背景・過程、それに基づくランチェスター戦略の骨子、各種経営戦略論(マイケルポーターの競争戦略論など)と“ランチェスター戦略”の違い、ランチェスター戦略を進める上での留意点などが、著者の体験や実例を含めて、体系的に分かり易くまとめられている。この本によって松下幸之助がランチェスター戦略を高く評価し、量販店が普及する前、系列販売店の研修プログラムとして採用していたことを知った。地域密着型のサービスは確かに松下の差別因子だった。
 この際、確り経営戦略を見直したい、“ランチェスター戦略”を学びたいという方にお勧めする。
 2)は「ハードカバーはチョッと時間が・・・」と言う人やビジネス経験の比較的浅い人に向いた本で、単にランチェスター戦略ばかりでなく、経営に関する哲学や思想を多角的に眺める入門書としても適している。興味深い事例や逸話あるいは格言が多数取り上げられ、そこに何気なく経営論の一コマが登場したりするところが肩を凝らさず読める助けとなっている。

3)金融工学は何をしてきたのか
 何度かこの欄にも登場した、わが国金融工学の開祖(元横綱)、今野先生の最新作である。
先ごろ亡くなった米国人初のノーベル経済学賞受賞者、ポール・サミュエルソンは「今回の混乱(サブプライムに発する金融危機)の責任は“悪魔的”フランケンシュタイン的、怪物のような金融工学にある・・・」と述べたと言う。真摯なエンジニアが強欲なヘッジファンドの運用者と同類になってしまった。これに対して正面から反論するのが本書の肝である。
 長く規制の下護送船団方式でぬるま湯の中に在ったわが国金融業は、1980年代から始まったグローバルマーケットにおける金融商品多様化の中で商品開発・運用に遅れをとってきた。貿易不均衡を解消すべくアメリカは金融市場の自由化を迫ってくる。狙いは1000兆円を超える個人金融資産だ。これに少しでも対抗できるよう、さらには金融業でも世界でイニシアチブを取れる体制を作るべく、1980年代末から、理工学系のファイナンス関連講座や学科、研究会や学会が生まれてくる。本書はわが国金融工学の揺籃期から現在まで、周辺(文部行政や伝統的な学部運営)から白眼視されながら、学問として世界に太刀打ちできるところまで達した、その苦難の道を紹介する。
 ブラックマンデー、金融自由化と伴にやってきたわが国バブル経済の終焉、二人のノーベル経済学賞受賞者が経営に関わるヘッジファンド、LTCMの破綻など金融工学が関連する負の側面に“金融工学悪玉論”への燻りが臭い出してくる。
 筆者らが目指すのは適正なリターン(市場平均+1%)を目指す“防衛的金融工学”だが、米国では、リスク評価(市場リスク、信用リスク)の難しい金融派生商品が次から次へと売り出され、ヘッジファンド・マネージャーはこれを世界に売ることによって巨額な報酬を得ていく。格付け機関の責任者がその格付け基準を問われ「半分アートだ(残りがサイエンス)」と答えるほど主観に頼る部分が多いもの。複雑な仕組みの商品は評価・格付けの方式はあっても数学ではなくギャンブルと言っていい。商品の仕組みを投資銀行のトップ(MBAが多く、彼等の数学の知識はかなり“ミゼラブル”であることを本書で知った)はまるで理解できていないし、監督官庁(FRBを含む)も分かっていない。こんな訳の分からないものが世界中出回り、それが破綻したのが今回の金融危機なのだ。
 核物理学を研究していた者が、原子爆弾開発・投下で全て悪者にされるようなことがあってはならないように、金融工学が金融危機の根源のように言われるのは不本意だと主張する筆者に全く賛成である。
 資産運用(金融機関が売買する商品で)を自分で行う人、住宅ローンを借りる人・返済方式を変更する人に実務的に役に立つ情報も多い。

4)たまたま
 原題は「Drunkard’s Walk(千鳥足)」、確率・統計(ランダムプロセス理論)を解説した本である。とは言っても難しい数学が出てくるわけではない。カバーの見開きに“なぜヒトは「偶然(たまたま)」を「必然(やっぱり)」と勘違いしてしまうか”とある。この本はそのこと(偶然の人生における役割;確率を支配する原理や概念の発達)を日常生活や有名人(主として数学者、科学者)のエピソードを利用しながら説いてゆく、愉快な数理科学読み物である。
 筆者は元々は理論物理学者、マックス・プランク研究所フェローであり、現在はカリフォルニア工科大学で物理学者の卵に“ランダムネス”を講じている。一方でホーキングやファインマンとも親交があり、難しい科学を分かり易く解説する著作を多数ものにし、ハリウッドSF映画「スタートレック」の脚本も書く科学ライターでもある。
 有名作家が別名で書いた作品に対するクソミソの批評、九九を間違えて買った当たり籤、ローマ人が一人の数学者も生み出さなかったこと、ジャガーと言うイギリス人のモンテカルロにおけるルーレット勝負、O.J.シンプソン裁判における陪審員ミスリード(無罪)、ワインの格付けなど身近な話題をふんだんに使って、確率・統計の技法、重要性と限界を教えてくれる。
 “たまたま”ダイヤモンド社のHPで見かけ購入した本だが、最終章にある「ランダムプロセス理論の理解によって意思決定の技術を改善できる」と言う結びは、決断科学を模索する者にとって“偶然”見つけた宝物であった。
 この種の(科学)本は、訳によってまるで価値が変わるものであるが、本書の訳は素晴らしいものである。

 今回は珍しくビジネス関連の本、それも数理と深く関係するものばかりになった。これも偶然?
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2010年1月3日日曜日

決断科学ノート-24(決断の要点-1;企業経営)

 組織における決断は何が決め手となるか?何を決め手にすべきか?これを企業経営、軍事作戦、政策選択で考えてみる。いずれも時間的なスパン、波及効果などが影響し、なかなか一義的には“何が決め手”か?を決するのは容易ではない。
 まず企業経営上の支配的な因子は、利益・売上・シェアーなどがその代表的なものとして挙げられる。これらが諸制約条件の下で、期待レベルを超えるか、さらには最適化することで選択肢の採否が決まる。その点では数理的な手法を適用し易い分野と言える。
 しかし、将来の予測が完全に出来ることは少ないので、制約条件の与え方が問題になる。例えば石油・石油化学の場合、省エネルギー投資で将来の原油価格がどうなるかは経済計算に大きく影響するので、企画(長期)・製造(短期)経理部門が予算編成に先立ってその予測を行い、計算のベースを定め、個別案件を検討する工場や技術部門はこれに基づいて予算計上可否を決する。
 新製品の開発や新規プラントの建設などでは特にこの将来予測が決定的で、計画そのものとそれに関するリスク分析やそれ等リスクに対する対処策(オプション)が併せて検討されるので、数理モデルに比べ経験やある種の感性の重みが増す。その一つの例は、東燃が原油処理量に比して潜在的に過大(部分能力増強可)と思われる重質油分解装置(FCC)を有していたことである。直近の市場環境からの予測ではそれほど処理量の大きなFCCは必要なかったが、将来の白物(ガソリン、灯油、軽油)製品と黒物(重油系)製品の需給バランスに対する見通しから、建設時に製造・技術・建設部門が設計処理量を決めているが、その背景には長年大株主であるエクソン・モービル(当時は別の会社)との交流を通じて、経済成長と供に白物需要の比率が高まることと原油の品質と価格動向(ガソリン溜分の多い原油は高くなる)について身近に見聞きしてきたことが影響したに違いない。
 経営における判断、決断もいろいろある。やるか・やらないかは基本的課題だが、それより難しいのは、始めてしまったことを、状況・条件が変わっても継続するか、途中で撤収するかである。これは軍事作戦にもあるが、“ノー”と言う方が“イエス(取り敢えず続ける)より辛い。なかなか常人には言えない。そんな局面も体験した。
 第一次石油危機のしばし後であった。当時の高度成長は更なる石油エネルギーを必要とする趨勢にあり、石油各社は製油所の増強計画を進めていた。東燃も和歌山工場において既存製油所に倍する、新製油所建設計画、有田プロジェクトを進めていた。用地は既に埋め立てが出来上がっており、主要設備はコンピューター、計装設備を含めて発注済だった。そこへ起こったのが1973年10月第四次中東戦争勃発による石油ショックである。原油価格は3倍になり、消費は急速に冷え込んだ。計画の前提条件は根底から覆った。継続推進すべきか否か?
 およそ半年後計画中止が決まる。この間にも機器・設備の製作は継続されており、一部は納入・検収さえされていた。脱硫装置用の高度な特殊加工を要する(従って高価な)高圧反応容器も出来上がっていた。しかし、経営陣は膨大な違約金を払ってこれらを全て(転用の利くものは除く)キャンセルすることを決した。
 ここに至るまで無論社内では甲論乙駁あり、主として経理財務面から種々のケーススターディが行われたが、最後の決め手は経営者の感性・感覚である。
 その後の石油製品需給、さらには会社の収益状況の推移を見てもこの時の決断は正しかったと言える(一部に計画を継続、完成させていれば最新鋭設備を駆使してさらなる競争力強化を図れたという意見もあるが)。
 企業経営には“収益(利益)”と言う広く理解し易い、上位決定基準が在ることが、他の組織が抱える課題に比して、決断をし易いものにしているのではなかろうか。