1972年秋に立ち上がり、第一次石油危機を経て凍結事態になった川崎工場の工場管理システム構想は、和歌山計画も巻き込んで、5年間に渡る迷走を続けたことになる。しかし、この5年間は決して“失われた5年”ではなかった。この間、ITによる工場経営革新(その後の全社的な経営革新)推進の抑えどころ、生産管理の在り方、情報技術の進歩と適用限界、当該プロジェクトの経済・経営効果の把握などを当事者もその周辺も学ぶいい機会となった。
計画のベースとなる経済効果は、製品の収率改善(重質油から少しでも付加価値の高い軽い溜分を回収・増産する;この時一番経済性向上に効いたのは軽油の増産)である。ただし、生産計画の基となる製油所LPによる月次生産計画は工場生産管理機能から外したので、それはスケジューリングと運転実績解析から実現できる分に留まる。和歌山ほど投資するのは難しい。自ずと導入候補のコンピュータは限られてくる。幸いこの時期から半導体技術が急速に進み、小型コンピュータ(いわゆるミニコン)に下位の汎用コンピュータと遜色のない、高性能のものが出始めていた。
システム開発室発足時、二つのグループ(東芝-山武ハネウェルと富士通-横河電機)との共同研究に着手した時は、東芝、富士通ともにそれぞれの旗艦となる汎用機を担いでいたが、プロジェクトの凍結時この関係も解消され、汎用機に縛られることもなくなっていた。
こんな時期、ミニコンの雄、DECは産業用コンピュータとして世界を席巻した、PDP-8の後継機PDP-11を発売していた(32ビットのVAXは日本では未発売)。“スカンク・ワーク”なる語を知らしめた、新興のデータゼネラル(DG)はNOVAシリーズが話題を呼び、高周波分析機器から新規分野に挑戦したHPはHP-1000で大成功、より汎用性の高いHP-3000を送り出したところ。どれも魅力的な製品だった。この中でチョッと特異なポジションに在ったのはDGである。
国産メーカーもこの動きを必死で追っていた。東芝は産業用ミニコンでは先行しており、既にPDP-11を意識したTOSBAC-40シリーズを生産、CモデルがTSKで採用されていたし、富士通もFACOM-Uシリーズを市場に出していた。
しかし、ITではいつの時代も同じだが、特にこの時代のミニコンはアメリカを追いかけるのが精一杯、通産省はこれに危機感を抱き、その技術をいち早くキャッチアップするため、合弁会社(日本ミニコン)設立に動いた。その相手として選ばれたのがDGである。日本側の企業ではオムロンや構造計画研究所が加わり、工場が熊谷に建設され、構造研の創始者服部さん(現社長の父)が社長を務めていた。
問題はIBMである。コンピュータ業界の帝王だけに、新機軸のアーキテクチャー(基本構造)の製品は出し難く、辛うじてオフコン分野でS-30シリーズを出していたものの、その用途は事務分野に限られていた。工場での利用は、あくまでも旗艦、S-370を頭に持ち、その手足となるS-7やS-1しかなかった。スタンド・アロンで動く、ミニコン御三家の製品とは比ぶべくも無い。のちに大ヒットする、中型高性能機S-4300がベールを脱ぐ寸前であるのを我々(日本IBMの社員を含む)は知らない。(つづく)
2010年4月5日月曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿