<今月読んだ本>
1) 紳士協定(佐藤優):新潮社(文庫)
2) 高木貞治とその時代(高瀬正仁):東京大学出版会
3) アデナウアー(板橋拓己):中央公論新社(新書)
4) アジア特電(ロベール・ギラン):平凡社
5) スナイパーの誇り(上、下)(スティーヴン・ハンター):扶桑社
6) 朝日新聞(朝日新聞記者有志):文藝春秋社(新書)
<愚評昧説>
1)紳士協定
この人の書いた本の広告を見ない日が無いほど多作だが(あとがきに平均月70本の原稿を書いているとある)、私が今まで読んだのは2005年に出た処女作とも言える「国家の罠」だけである。背任事件が話題になった時期(2003年)丁度ロシアビジネスに関わっていたこともあり手にした。
姦しい親中派の田中真紀子外相が駐露大使人事に介入、矛先がロシア通であった鈴木宗男代議士に向かい、さらに駐モスクワ大使館の影の実力者である著者を巻き込み、事実上の「国策捜査」で有罪判決(執行猶予)を受けた顛末を記したものである。専門官と言うノンキャリアが何故そんなことになったかを克明に明かしたその著書は、外務省という大奥(あるいは伏魔殿)の内実を白日の下に曝す興味深い本だった。父親角栄が日中国交回復の立役者ゆえに親露派(ロシア・スクール)の力を削ごうとした愚行がどれだけ国益を害したかよく理解できた。著者がとばっちりを受けるのは、実務の急所を握っているのは、次々とポストを変えながら昇進を続けるキャリアではなく、その国の言葉に精通し、長期に滞在して人脈を築き上げ、地道に活動を進める専門官だからだ(ただ全ての専門官がそうなるわけではなく、彼も当初は地方の領事館廻りで終わることを覚悟していたことが今度の本に何度か出てくる)。
前作を読んだ時残った疑念は、「何故神学を大学院まで学んだ人が、こんな仕事(宗教学者ではなく外交官)に就いたんだろう」と言うことだった。そして本書を読んでその疑念は解消した。
書店で本書の副題“私のイギリス物語”を見て「ロシアの専門家が何故?」と新たな疑問が沸いてきた。両国とも通算滞在期間の長い国だったから両者をつなぐ内容を期待して購読することになった。中身は、現在の人を威圧するような体型・目つきからは想像もつかない、ナイーヴな20代半ば語学研修生時代の自伝であった。
“紳士協定”これは入省後最初の海外語学研修でロンドン郊外の中流(の下)家庭にホームステイした際、その家の長男(グレン;中学生)と交わした相互援助協定である。著者は彼から英語を教わる一方、数学や歴史の宿題を指導する傍ら人生相談にも乗ってやるのだ。本書の過半はこのことに費やされるが、そこには浦和高校と言う代表的な進学校で校風に馴染めず苦悶し神学の道を志すことになること、失恋の痛手もあり首都圏から離れ関西(同志社大学)に向かうことになったことなど、自らの過去を今のグレンに重ねながら、親身になって助言し、それを多感なグレンが受け入れていくプロセスが心温かく描かれている。
この二人の交情に重なるのが外務官僚としての初期研修課程と神学の話である。ロシア語研修は本来ならばソ連が適当なのだが、入省時(1985年)は末期とは言え冷戦下、レーニンが共産革命を成就して以来、ソ連は(敵対する)外国人にロシア語を学ばさせることを忌避し、この時代でもその考え方は継続されていた(外交官がロシア語を学ぶことに厳しい制約)。従って正統で高度なロシア語を学ぶには米英の軍学校が代替手段となっていたのである。ただし授業は英語で行われるので、先ず英語学校にしばらく通いそこを無事卒業すると軍の語学校で徹底的に扱かれる(落第もあるが著者は優秀な成績で卒業)。この語学研修はキャリア組も一緒で、のちにロシア課長(現欧州局参事官(大使級))を務める武藤顕(著者と同じように進学校湘南高校出身、中学生時英国在;英国生活ではもろもろの助言を受ける;「少年との関係を大事にしろ!」)と同期で仲の良かったことを懐かしげに書いている(外務省は二人の仲を知りながら、鈴木宗男事件では武藤を著者の身辺調査の主務者にする)。
さて、神学である。実はロシア語の専門官を目指すことになったのは、大学院時代チェコの神学者に傾倒し、その人物を研究するためにチェコに行きたかった。しかし、チェコには宗教研究者を受け入れる態勢は全くなかったので、取り敢えずロシアに居ればやがてチェコで研究する機会も出来るに違いないと考えたからである。つまりロシア語専門官は方便だったわけである(ロンドンでチェコ神学関係書籍を買い漁り、冗談ではあるが、書店主に「店を引き継がないか」とまで言われる)。この目論見は冷戦崩壊やロシアでの有能さゆえに実現しなかったものの、若者が何かを目指して懸命に模索・努力する様は、この人がただの通訳で終わる人ではなく、現在の多作につながる下地が若き日着々と築かれていたことうかがわせる。
専門官と言う、組織の中では差別される側に居り、若干外務省に関するシニカルなシーン(実名を挙げての大使・公使批判など)もあるものの、全体に真摯でエネルギッシュな著者の青春の日々が活写されており、将来の生き方を模索する中学生・高校生にお薦めの書と言える。
2)高木貞治とその時代
数学史や数学者の伝記は好きな読書ジャンルの一つである。本欄でもチューリング(英;計算機概念)、ノイマン(ハンガリー→米;プログラム内蔵式電子計算機)、ナッシュ(米;ゲーム理論)などを紹介してきた。しかし振り返ってみると日本人に関しては“工学部ヒラノ教授シリーズ(応用数学)”くらいしか取り上げてこなかった。最大の理由はその種の本がほとんど出版されていないからである(和算から始まる日本数学史関連の書物はいくつか出ており、書店で目を通す機会はあったが、“読み物としての面白さ”を欠くし、世界近代数学史の中での関連付けが薄い)。本書を新聞の書評で知り、その“読み物としての面白さ”に高い評価が与えられていたので手に取ることになった。
本書の中心人物、高木貞治の名前は高校2年の数学、解析Ⅱの授業の際、ときどき教科書から脇道にずれて面白い話をしてくれる先生から初めて知らされ、その後大学の授業や仕事で数理に関わるようになってしばしば耳にしていた。本書を読む以前出来上がっていたイメージは“日本近代数学の祖”である。しかし本書を読んで“祖”は菊池大麓・藤澤利喜太郎(両者については後述)の二人がそれに相応しく、彼らの薫陶を受けた高木は“我が国の数学者として<学問的業績が>国際的に初めて認知された人”がより正確であることが分かった。
タイトルに“その時代”が付されているように、本書は高木の伝記ではなく、彼の周辺に在って、近代西洋数学に心を寄せ、それを我が国に導入・普及した様々な人々が登場する“本邦近代数学の夜明け”と言っていい内容である。高木以外で多くの紙面を割かれているのは前出の菊池大麓と藤澤利喜太郎である。菊池は東大理学部数学科最初の日本人教授、藤澤が二人目である。
菊池(1855年生)は幕府の蕃書調書(東大の源流)で英語を学び1867年に英国に留学、幕府瓦解で一旦帰国、1870年再度渡英ケンブリッジ大学で数学と物理を学び1877年帰国後東大教授となっている(22歳!)。その影響で爾来日本の数学教育は教科書も含め英国流になる(当時の最先端数学研究はドイツが最も進んでおり、本人もそれは承知していたが)。のちに東大総長、文部大臣、その後も学習院院長・京大総長を務めているところからも研究者と言うよりは教育行政に優れた人であったようだ(ケンブリッジでの数学の成績は極めて良かったが)。
藤澤(1861年生)はオランダ通詞の息子、東京外国語学校から大学予備門(のちの第一高等学校)に進みさらに発足間もない東大理学部に入学(1878年;菊池の帰朝1年後)。この時は数学・物理学・星学(天文学)が1科になっており同級生は本人も含め4人であった(物理学者の田中館愛橘はその一人)。1882年卒業、翌1883年英国を経てドイツに留学している(ベルリン大学→ストラスブール大学)。1887年に帰国し東大教授に任ぜられる(26歳!)。藤澤はドイツの大学で行われていたゼミナール(少人数輪講)方式を初めて日本に導入、高木はここ(藤澤セミナリー)で鍛えられていくことになる。
高木の東大入学は1894年、その前年から数学科に講座制が敷かれる。数学第1講座;菊池大麓、数学第2講座;藤澤利喜太郎、応用数学講座;菊池大麓(これは3年後長岡半太郎が担当)の3講座である。明治中期における我が国大学数学教育において、如何に菊池・藤澤の役割が大きかったかがこのことからもうかがえる(因みに、京都大学の創立は1897年、高等数学を学び研究するところはそれまで東大しか無かった)。
高木は1875年(明治8年)岐阜県大野郡数屋村(村名が良い!)の農家の子として生まれるのだが、出生前後の家庭環境は些か不可解で、本書でも明らかにされない。高木姓は母方のもので父方は木野村なのだが、母が出産で実家に戻った後そのまま留まり、母の兄が養父となって彼は高木姓を名乗るようになるのだ。小学校では成績抜群、飛び級を重ねて岐阜中学を経て第3高等中学校(のちの三高)に進む(16歳)。ここで河合十太郎と言う数学教師に出会うことによって数学者高木貞治が誕生する。この師によれば、高木は怖いくらい優れた数学の資質を持っていたようで、その指導に自ずと力が入っていく。河合は金沢の人で1865年生れ。中学では関口開(和算家としてスタートするが洋算に転ずる)という人に数学を学び、東大数学科では藤澤帰朝後の指導を受けて1889年に卒業、大学に残りかったが藤澤と反りが合わず三高の教員になっていたのだ(後京大教授、岡潔も晩年の教え子)。また同期生として大学からさらには研究者としても同じ道を歩むことになる吉江琢児と知り合うことになる。
三高理科を首席で卒業し東大数学科で待っていたものは“藤澤セミナリー”である。3年生時与えられた課題は「アルベール方程式につきて(17世紀の仏人数学者;n次方程式の解と係数に関する基本定理;証明は19世紀になってガウスによってなされる)」である。この報告が藤澤に高く評価され、大学院進学、ドイツ留学(23歳;1898年~1901年;ベルリン大学→ゲッチンゲン大学;ヒルベルトに会い大いに感化される。留学中の1900年東大助教授に)のチャンスが与えられ、学位論文(1903年)の「類体論(数論の一分野、1930年代に発展していく)」につながり、ヒルベルトの23難問の一つ“クロネッカーの青春の夢(問題)”を解いて国際級数学者として認知されることになる。帰国後1904年(29歳)教授に昇進、1936年停年退官、その後1940年文化勲章受章、1960年没(享年85歳)。
この本の面白さは、上記の高木を取り巻く人間模様と併せて、日本の学制の変革(特に明治初期は頻繁に変わり、意図せぬ飛び級などが起こる)、世界(特に西欧)数学界の動向、和算から洋算へ変わることによる悲喜劇などが語られるところにある。これらの挿話の中で最も括目させられたのは、金沢と言う土地と近代数学の関わりである。話は高木の師であった河合十太郎(加賀藩士の子)から始まるのだが、その師である関口開の薫陶を受けた黎明期の数学者が如何に多かったことか。東大数学科が単独の学科となるのは1881年(明治14年;卒業生が出るのは明治17年)、それから15年間(明治29年)に12名が卒業するが河合を含めその内7名が石川県士族、すべて関口門下なのである。また哲学者の西田幾太郎(実家は河北郡の大庄屋)も関口の弟子であった北条時敬(7人の一人)に師事し数学者を一時期志している。著者はこの特異な歴史に注目“関口開と石川県加賀の数学”に1章(全6章)を当てているほどである(さらに西田に1章を割いている)。
著者は九州大学基幹教育院教授、多変数関数論と近代数学史が専門である。情報技術の飛躍的進歩発展、金融工学やビッグデータに代表される応用数学の広がり、政治も経済も軍事も今や数学なしでは済まされぬ環境下にありながらそれへの関心は決して高くない。難解な理論が理解出来ないのは当然だし、多くの人には必要もないが、数学の重要性とそれに挑む人々の姿はもう少し知られていいだろう。日本を代表する数学者を題材にし、数式を一切使わず、人間と歴史(数学史と言うより維新史)に着目して書かれた本書は、それを身近なものにしてくれる。座右の書が一冊増えた(読み出しから予感があったので一切書きこみ、赤線引をしなかった)!
蛇足1:石川県出身者7人の侍の中に森外三郎という人が出てくる。高木が卒業した後の三高校長である。私が正式採用になり東燃和歌山工場計器係に配属になった時の係長は森外夫(故人)と言い外三郎の息子である。元三高校長の息子であることは聞いていたが、本書でその父親が数学者であったことを初めて知った。
蛇足2:菊池大麓の長女の嫁ぎ先は美濃部達吉(天皇機関説)、孫は美濃部亮吉(東京都知事)である。
3)アデナウアー
ドイツと言う国にほとんど縁が無いのだが興味は強く愛憎半ばする。黄禍論やユダヤ人迫害など人種差別がはなはだしく(最近のアンケート調査でそれぞれの国がどの国に好意を持っているかでも西欧国家で突出して東アジア(日本・中国・韓国)に対する評価が低い)、その東アジアに関しても歴史的に、三国同盟時以外は、相対的には中国贔屓である。一方で第二外国語はドイツ語を選択したし、彼の国の高い工業技術(特に広義の機械技術)に対する敬意は機械工学を専攻した一人として初学者以来今も変わらない。さらに趣味となっている二度の世界大戦における軍事技術(特に航空機・戦車・潜水艦)に関する興味はこの国を中心に回っていると言ってもいいほどである。例えてみれば“アンティ巨人と言う巨人ファン”が近いところか?“憎”の部分は、この国を訪れたことが無いこと、知人も全くいないことからくる偏見であることは自覚している。「科学技術と戦争以外のドイツを少し勉強しよう」こんな動機で手に取ったのが本書である。
敗戦からの経済復興、反共と言う視点で日本とドイツ、吉田茂とアデナウアーはよく比較されてきた。’90年代に入るまでに世界経済の機関車役を担うほど両国の世界における存在感は高まったのもこの二人の力に負うところが大きいと言うのが私以前の世代の総意と言ってもいいだろう(実際には吉田・鳩山・岸・池田の役割を一人で担った)。ただアデナウアーには国家の分断が在っただけに外交面での苦労は、専ら対米依存一本槍で行けた我が国とは大いに異なることは推察できた。本書の内容はこの外交に焦点を当てたアデナウアー評伝である。
先ず我が国ではあまり知られていない(無論私も知らなかった)第2帝政からナチス誕生までのアデナウアーとそれを巡る人々が語られる。ポイントになるのは、熱心なカソリック教徒の家庭に育ったこと(プロテスタント中心のプロシャに対する反発)と姻戚関係(父は地方裁判所の書記官で貧しいが、妻の家はケルンの名門)によって強力なバックを得てケルン市(自治の歴史が古く、反プロシャ、反プロテスタント、反ベルリンの風土)の助役・市長を務めていたことである。市長になったのは第一次世界大戦末期の1917年、革命の混乱を見事に抑えてその指導力を認められるが、敗戦でケルンは7年間(1926年まで)英国占領下に置かれる(そのほか周辺ラインラントも、フランス、ベルギー、アメリカが占領)。著者はこの時のアデナウアー市長の言動を掘り下げて、第二次世界大戦後の分割統治下のアデナウアー外交との関連付けを試みる。
ワイマール共和国時代市長として“ケルンの君主”と呼ばれるほど傲岸・独善的な手法でケルンの近代化に当たり市の財政は危機的状態になるが任期は12年「政治で成功するのは長く座っていること」を信念に1929年まで居座り、世界大恐慌による歴史的なインフレの混乱の中で再選を果たす。
次いでナチスとの対決である。フランス贔屓でユダヤ人の友人が多かったことから「民族への裏切り者」とのレッテルを張られる。一方首相となったヒトラーがケルンを訪問すると出迎えもしないし、市道に飾られたカギ十字旗を撤去させてしまうほど反ナチスの姿勢を示す。ついに1933年4月中央政府はケルン市長を罷免、職業活動を禁止され、年金支払いも認められず、一家は地方を転々とするが、1937年年金支給が認められライン地方のレーンドルフで隠居生活に入る(61歳)。ナチ支配下での最大の危機は1944年7月のヒトラー暗殺未遂事件、ワイマール時代の主要な政治家が一斉に検挙・拘留される。収容所からの逃亡まで企て、再逮捕ののち11月に保釈されている。この時期の反ナチ行動は米国に確り調べ上げられており(ホワイト・リスト)、戦後の首相候補の最有力者として彼をノミネートしている。
米軍がレーンドルフに達したのは3月半ば、5月4日(ドイツ降伏の4日前)彼をケルン市長に任命する。荒廃した国土の再建は第一次世界大戦後に経験している。「深く屈すれども折れたにあらず」アデナウアーは馬車馬のように動き始める。しかしこの地区が英軍管理下に移ると英労働党政権は社民党支持ゆえに両者の関係は厳しいものになっていく。ついに10月市長解任。この時の英軍に対する反感がその後の大陸ヨーロッパ中心のアデナウアー外交に反映されているとの見方が研究者に多いことを著者が指摘している。
しかし、この市長解任こそ、政党政治の世界に入り、国政へ向かう機会を作りだすことになるのだから“人間万事塞翁が馬”である。
この後本書は彼の政治理念、特に世界像を深耕していく。プロイセン流の国家中心主義への批判、共産主義・ソ連観;全体主義と無神論、アジア的攻撃性(ソ連軍の暴虐はモンゴルと重なったのだろうか?ドイツ人のアジア嫌いは帝政ドイツ、ナチス、それに戦後のドイツも変わらない)の嫌悪、キリスト教(特にカソリック)倫理(反物質主義)に基づく民主主義、それに西欧の一体化(独・仏・蘭・ベルギー・ルクセンブルグ)がそれらである。
州議会議員(キリスト教民主同盟;CDU)を皮切りにやがて首相とし上記政治理念に基づく新生ドイツ(ドイツ連邦共和国)建設に邁進していく姿を、節目となる外交活動をテーマとして描いていく。特に4国管理下からの主権回復(中立国化の徹底排除)、フランスとの和解と信頼関係の醸成、現在のEUにつながる欧州石炭鉄鋼共同体の設立、NATO加盟と再軍備、イスラエルとの和解(秘密軍事援助を含む;辞任後明らかになる)などそれらだが、こうして整理されて書かれてみると、アデナウアー外交の巧みさ(老獪さ)が際立って見えてくる。
本書ではアデナウアーの負の面にも触れている。「独善家」「外交ばかりであとは所轄大臣任せだった」「戦争責任をすべてナチスに押し付けた」「金権政治を厭わなかった」などなど。しかし、実質的に今やEU第一の強国となったドイツを見る時、それが外交に傾注したアデナウアーによってもたらされたことは確かであり、これら影の部分はあとに残るほど暗いものではないとの感を強くした(特にナチス問題を“上手く片付けた”ことは評価していいだろう)。
著者はヨーロッパ政治史が専門の北海道大学法学部准教授。巻末の文献リストはドイツ語のものが多々あり、若き(1978年生れ)研究者の意欲が本書著述に生かされていることをうかがわせる。「ドイツについて学ばねばならぬことは、好き嫌いはひとまず置いて、まだまだ多そうだ」
4)アジア特電
第二次世界大戦における日仏関係は微妙なものであった。三国同盟の視点に立てば敵国であるが、互いに宣戦布告をせず、ドイツ占領後仏政府は休戦によってヴィシーに存続し日本もこの政府を認めた。仏領インドシナ(仏印)への進駐はこのヴィシー政府に認められ平和裏に行われる(米英はこれを非難したが)。交戦国となるのは1944年連合軍がパリに入りド・ゴールの臨時政府がそこに居を移して以降である。ド・ゴールはヴィシーの認めた仏印進駐を無効とする。この時まで日本に滞在したフランス人はドイツ人同様大きな制約を受けずに活動・生活ができた(敵国になってからは軽井沢に拘束されるがかなりの自由度があった)のである。本書の著者は著名な知日派のフランス人ジャーナリスト(1908年生)、1938年上海経由で来日、日本で終戦を迎えことになる稀有な西欧人の一人である。
この東アジア(最初は短期間だが中国でも活動)滞在経験は著者のアジア専門家としての存在を際立たせることになり、国民党・共産党による中国内戦と共産中国の誕生、東南アジアの独立戦争(特に第一次インドシナ戦争)、英領インド独立、朝鮮戦争、ヴェトナム戦争、日本の復興、文化大革命、米中国交樹立、経済大国日本の出現、と激動するアジアのホットスポットを駆け巡る記者人生をおくることになる(この間日本女性と結婚、2児をもうける)。本書はこれらアジア現代史と自伝をミックスしたもので引退後の1987年に上梓されたものである(日本版は1988年出版;古書)。東アジアにおける“歴史認識”が喧しく論じられる昨今、“あの時代”とそれに続く時代を西欧人はどう捉えているかを知りたく本書を求めた。
1937年秋、アヴァス通信社(のちのAFP通信社)に勤務する著者は日中戦争取材のために中国行を命じられる。7月の盧溝橋事件に続いて8月に起こった上海事変(第2次)が拡大の様相を見せていたからだ。当時空路は無く最も早い交通手段は鉄道である。パリからベルリンを経てモスクワに至り、そこからシベリア鉄道で一週間かけてウラジオストックを目指す。ただ彼の目的地は上海だから、ソ満国境(満州里)で東支鉄道(満鉄)に乗り換え大連に出、そこから海路上海に向かう旅程である。しかし事変の影響で大連への立ち入りは禁止になっており、やむを得ず奉天経由朝鮮半島を通り釜山から船で下関に出て汽車で長崎に移動、そこから上海に向かうことになる。予期せぬ日本への寄り道は若いフランス人に強烈な印象を与える。木々の緑の量と美しさ、清潔な家屋、開化された人々、整った服装。「文明は緑という色彩と相たずさえて発展するものだろうか」
上海ではフランス租界に拠点を置いて取材に当たる。至るところで展開される市街戦。戦況打開を図るために陸続と遠征してくる日本軍、遥かな戦線から伝わってくる悲惨な戦禍の風聞(南京事件など)。一方で、饗宴とカネと歓楽の上海がこんな状況の中に併存する矛盾も見逃していない。戦線が拡大し遠のいた翌年3月、全体状況の把握は日本の方が良いとの判断で6か月滞在の予定で東京に移動するが、結局これが終戦まで続くことになる。この間1940年に東京から北京を訪れ日中戦争のその後の取材を行っている。これらから得た彼の日本軍評価は「暴力と残虐の一大訓練所」「武士道はどこへ行ったのか?」である。
日本滞在中の最大トピックはゾルゲ・スパイ事件である。ゾルゲはドイツ人ジャーナリストだがそれは隠れ蓑、ドイツ共産党員でソ連のスパイだったのだ。もう一人1933年かスパイ目的で日本に派遣されていたブランコ・ド・ヴィーケリッチ(ユーゴスラヴィア人)がアヴァス東京支局で現地採用されており、これが著者の部下となるのだ。そんなことは全く知らない著者は、枢軸国きっての記者と評判の高いゾルゲを頼りになる存在として親しく付き合っていく。従ってヴィーケリッチにもゾルゲと会うことを積極的に奨励していた。1941年真珠湾攻撃の少し前、ゾルゲ事件が報じられ、一般の日本人と同時に著者もこれを知ることになる。ここで分かったことはヴィーケリッチがゾルゲの助手でもあり、短波無線による通信が彼の家から行われていたことである。幸い彼への嫌疑は直ぐ晴れる。
終戦。著者は米国経由で8年ぶりの帰国を果たす。この後もアジア通として仏印植民地解放戦争、インド独立、中国国共戦、朝鮮戦争、中華人民共和国誕生、ヴェトナム戦争、文化大革命などの取材で頻繁にアジアを訪れ(1947年以降はル・モンドに所属)、それぞれを章立てて本書の中で詳述する。
印象に残ったことは2点。一つは共産中国の報道である。報道管制が厳重かつ巧みなので、“お客さん”には表(建て前)しか見えない。著者は何度も滞在し近しい友人(愛人を含む)が多く居るので裏(本音)の取材も併せて記事・著作を発するが、お客さんの有力者がこれに異議を唱える場面が紹介される。代表的なのはサルトル、ボーボワールで、著者の報道を「偽報」と広く喧伝する。我が国の左翼知識人の多くも
この“お客さん”扱いだったのだろう。
第2点は、日本に関するニュースがなかなか採用されないことである。日本に対する関心の薄さ、認識不足に著者がイライラしているシーンがたびたび見られる(日本ばかりではなく自国の植民地仏印事情もさして変わらないが)。これは一般大衆だけではなく、国家指導者に至るまで並べて同じようだ。その例の一つはフランス大統領の訪日、何度も招待されてきたにもかかわらず、1982年サッミト参加のミッテランまで無かったのだ。著者はアジアの二面性(伝統;中国と近代;日本)の理解が必要と訴えるのだが、トップの関心は専ら中国に向いている。
このようにアジア現代史を整理し身近な体験を交えて語られると、大きなうねりの中における日本の存在が浮かび上がり、良し悪しはともかく、その影響力の大きさを実感させられる。本書は日本の経済力が絶頂期を迎えた時期で終わる。経済力(GDP)では既に中国に追い越されているが、別の力でアジア先導の役割を維持できるか?その力は何か?読後に去来したのはそんな懸念であった。
5)スナイパーの誇り
30歳過ぎから読んできたフィクション(小説)の8割方は外国人(ほとんど英・米人)の書いた軍事サスペンスである。第一のジャンルは兵器が中心となる航空戦、海戦、戦車戦。第二はスパイ・諜報戦、第三はスナイパー(狙撃手)が活躍する暗殺物である。第一のジャンルは対称型の大規模な戦争が行われなくなって久しく絶滅分野に近い(SFもどきはあるが好みでない)。第二も冷戦崩壊以降仕掛けが小さくなり、今一つ面白味を欠く。その点ゲリラ戦やテロが頻発する昨今スナイパーの活躍の場はいくらでもあるのでリアルな作品が多い。
本書の作者、スティーヴン・ハンターは元ワシントンポスト記者、映画評論なども書き批評部門でピュリッツァー賞受賞もある、世界的なベストセラー作家である。特に有名なのが、本書でも主役を務めるヴェトナム戦争の伝説的狙撃手、ボブ・スワーガー物で、本編がその14作目になる。1998年発表の“極大射程”以来のファンで1作(日本が舞台;四十七士にイマジネーションを得たもの)を除いてすべて読んでおり、本欄でも何作が紹介している。ただシリーズ物はどうしてもマンネリ化しやすく、それを打開するためにエキゾティズムやカルト集団を目玉にする傾向が強まってきており、現実社会との乖離が気になりだしていた。従って最近は直ぐに購入せず、あとがきや解説を丁寧に読んで内容を確かめてから購入するようにしている。舞台はウクライナ、背景は1944年の独ソ戦。謝辞から現地調査が綿密に行われたことがうかがえる。「これなら間違いない!」
冒頭のシーンはスターリングラードの廃墟で対峙する独ソの狙撃兵。一瞬の隙を突かれ右肩を撃ち抜かれた独軍曹がスコープを通して見た相手は“白い魔女”リュドミラ。ドイツ軍に恐れられていた凄腕の女性スナイパーだ。
70年後ワシントンポスト・モスクワ支局員の女性記者キャシーは“白い魔女”の回顧記事を書くため、狙撃に詳しい旧友ボブに助力を求める。しかし、リュドミラの経歴はロシアのあらゆる機関、そしてドイツの戦闘記録からも完全に消されている。「何故か?どこかに過去を明らかにする情報はないか?」 調査を進める二人はある日ロシアマフィアと思しき連中に襲われる。「何故?何者だ?」これが物語の骨子である。
時間は再び70年前に戻る。ドイツ軍は既にスターリングラード、クルスクで敗れ前線はウクライナ、ベラルーシへと後退している。リュドミラがクレムリンに呼ばれ与えられる密命はその地域のナチス上級指導者クレドゥル博士暗殺である。だがパルチザンの助けを借りた隠密裏の作戦は事前に漏れており、ドイツ軍の急襲をうけて彼女を残して全滅し、狙撃銃も失ってしまう。
ストーリー展開は現在と70年前を行きつ戻りつして、謎を少しずつ解明していく手法をとるのだが、その切り変わりが絶妙で、読んでいて抵抗なく話がつながっていく。幕間劇として入るイスラエル・モサドのデータ解析(わずかなプラチナ価格の変化)が“今そこに在る危機”をあぶり出す。過去と現在を結ぶカギはここにあったのだ。
狙撃物のポイントは何と言っても銃である。リュドミラが常用していたのはモシン・ナガンと言う銃で設計は何と日露戦争時。銃身が長く弾の直進性が良い。これに照準器を装着すると一流のスナイパーは500mの距離から標的を撃ち抜ける。しかし、これは失われてしまう。リュドミラを始末し損ねたドイツ軍はクレドゥル博士が狙わる可能性のある場所周辺500mを完全に見通せるよう草木を焼き払う。リュドミラは銃を入手できるか?それはどんな銃か?500mを超す狙撃が出来るのか?
今回はエキゾティズムもカルトもなく。正当なスナイパー物を堪能できた。無論ボブの狙撃シーンもある。それにボブも一杯食わされる最後のオチが良い!
6)朝日新聞
20年くらい前ヴァンクーバーから成田に向かうフライトで台湾人のビジネスマンと隣席した。私よりはやや年輩で日本語も達者、生活拠点は高雄・東京・トロントの3カ所にある自営業の国際人である。会話が進む内に「日本の新聞と言うのは何故あんなに政府の悪口ばかり書くんですかね?あんな論調では国に利することはなにもない。酷いもんですねー。他の国では考えられない!」という。それまで海外のホテルで無料の新聞が配られてもほとんど読むことのなかった私は、「新聞の政府批判は同じようなものだろう」と思っていたので意外な話だった。
子供の頃から我が家は朝日だった。両親(特に父;国家公務員、阪神ファン)の見方は、毎日は朝日と変わらなく、かつ人材が一段下。読売は“スポーツ・芸能”新聞、日経は役に立つ新聞だが一般向けではない、である。ある時読売の販売促進員がやってきた。母(熱烈な巨人ファン)がウンと言わないので「あれはインテリの読む新聞だ!」と捨て台詞を吐いた。すかさず母が「私は高等女学校を出ています!」とやり返した。こんな家庭に育ったので朝日が知識人のスタンダードと言う考え方がすっかり刷り込まれていた。
自分の家庭を持ってからは朝日と日経である。台湾人と会話を交わした時は「台湾は特異な国際環境下にあるので政府批判に限界があるのだろう」という程度の受け止め方だった。しかし、それ以来朝日と日経を意識的に比較して読むようになっていった。先ず気になりだしたのは朝日の姦しさである。針小棒大、羊頭狗肉「何故こんなに騒ぎ立てなければいけないのか!(火に油を注ぎ、騒ぎを大きくしたいのが見え見え)」 次いで反政府色が強烈な持論への執拗な誘導(洗脳?)である(ほとんど建設的な批判ではなく“反対”である。これを“リベラル”と思い込んでいる)。やがて日経の政治・社会記事の方に共感を覚えるようになっていった(日経の経済記事は景気浮揚、株価アップを煽る傾向を強く感じるが)。それもあってここ10数年朝日は依然とってはいるものの私はTV欄以外見ない(“家庭の事情”で止められない)。そして昨年の「従軍慰安婦」「原発事故吉田調書」誤報“事件”である。
本書は現役・OB記者によるこの事件の内幕・背景を記したもので、週刊誌のタイトルのように煽情的でないので読んでみることにした。確かに内容は分析的で朝日新聞および新聞業界の実情がよく理解できたが、あの事件の謝罪に至る経過と謝罪そのものが歯切れの悪いものだったのと同じで、本書も他人事のような解説(および言い訳)に終始している。これは朝日の特質なのか、あるいはジャーナリズム全体に自らの責任追及に甘いのか、とにかく不満が残った。
長いことビジネスマンをやってきて最も許しがたいのは、事件の根本原因が“日本型組織”(手あかのついた陸軍参謀本部や官僚組織を持ち出して)にあるとしているところである。日本型組織は、企業経営においては長くその強みを活かしてきたし、厳しい環境変化にさらされそれに適応すべく自己変革して生き延びている組織は多い。一括りに“日本型組織”ゆえにあの不祥事が起こったなどと言ってもらいたくない。経営を云々する前にむしろ記者自身の問題を掘り下げるべきだろう。工場の事故で朝日の記者に取材を受けたことがあるが「何様だ!」と言いたくなるような態度が第一印象である(エリート意識には触れているが、それを正そうとする具体策は何もない)。
いたるところで腹が立つが面白い情報も多い;
・読売は“大衆紙”だから朝日とは別物(エリート意識)
・産経・毎日の給与は朝日(業界一;45歳平均年収1300万円)・読売の6割、だから早目に独立を目指す。
・2000年代前半まで役員年金月額80万円!(役員を目指す熾烈な戦い)
・読売の記者が3人集まれば、事件の話をする。毎日の記者が3人集まれば、給料の話をする。朝日の記者が3人集まれば、人事の話をする。
・政治・経済・社会部と他の部(文藝・科学・運動など)は給与体系が違い、昇進も違う。政・経がさらに強まる傾向があり焦った社会部が特ダネを狙う(事件は社会部関連)。
・事件前後の販売部数;720万部→702万部(たった18万部しか減っていない!)
・新聞を毎日読む人(2012年):全体;57.8%、30代;30%、20代;18.2%(朝日に限らず、新聞に未来はない)
・営業利益は読売の3分の1
・現金+預金:約600億円、無借金経営。盤石の優良不動産(新聞事業がダメでも生き残れる)
これが“朝日新聞”である。
新聞メディア批判急先鋒の文春から出ているのも一興だ。
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