<今月読んだ本>
1)語り継ぐ横浜海軍航空隊(大島幹雄);有隣堂(新書)
2)冗談音楽の怪人・三木鶏郎(泉麻人);新潮社(選書)
3)情報と戦争(ジョン・キーガン);中央公論新社
4)機密費外交(井上寿一):講談社(新書)
5)キャッシュレス覇権戦争(岩田昭男);NHK出版(新書)
6)B29(カール・バーガー);サンケイ新聞出版局
<愚評昧説>
1)語り継ぐ横浜海軍航空隊
-身近なところに在った、日本海軍飛行艇部隊誕生から終焉までの地-
私の住まいは横浜市金沢区に在る。市の最南端、隣接するのは横須賀市・鎌倉市・逗子市、文明開化のハイカラ文化イメージの強い“横浜”とはかなりかけ離れた雰囲気の土地である。江戸時代は六浦藩(小漁村であった横浜もこの藩の内)、鎌倉時代の湊を中心に栄え、付近には往時の景勝地や有力者(北条実時)の私設文庫の存在を今に伝える、金沢八景や金沢文庫が地名・駅名として残る。つまり港湾と海岸から成る一帯なのだ。そしてその代表が横須賀の軍港である。首都江戸・東京への入口を扼する天然の良港の存在意義は大きく、かつては帝国海軍の、そして今は自衛艦隊と米第7艦隊の基地として我が国のみならず、アジアからインド洋にかけて、安全保障の大役を担っている。軍港から北に上る海岸線は次第に遠浅となっておりそこは早くから埋め立てられ、海軍航空技術廠や飛行場(横須賀航空隊;横空)として使われ、現在は日産の追浜工場となっている。この更に北は戦後の復興期に埋め立が始まり、工業団地や住宅団地、国、県や市の施設が本牧方面に向かって延びていく。その一画に在ったのが横浜海軍航空隊、通称浜空である。この航空隊には格納庫はあっても滑走路はない。部隊が運用していたのは大型飛行艇だったからである。本書はこの基地に近い京浜急行富岡駅近くに在住する元朝日新聞記者が書いたその歴史である。
1927年のリンドバーグに依るニューヨーク・パリ間無着陸飛行成功をうけて、大洋横断飛行への挑戦が活発化するが、給油地点や非常時の着陸場所確保に難点があり、なかなか実現しない。これに代わって登場したのが多発飛行艇、1930年代にその黄金時代を迎える。1922年のヴェルサイユ条約により赤道以北のドイツ領信託委任を受けた我が国海軍も、長距離洋上哨戒/偵察用飛行艇開発に注力し始める。最初に手本となるのは英ショート社の「カルカッタ」3発機、この発展型として90式飛行艇が1932年制式採用される。そしてこの機の運用経験に基づき国産一号艇として開発されたのが1936年7月に初飛行した97式大型飛行艇(97式大艇)である。全長:25.6m、全幅:40.0m、エンジン:1300hp×4基、航続距離: 4940km、最高速度:385km/h。世界に誇れる性能(上記諸元は最終23型)を有した本機は181機生産され、太平洋戦争開始時は主力機、一部は民間航空大日本航空の南洋路線に使われる。製作会社は川西航空機(現新明和工業)。浜空はこの97式大艇運用のため初飛行と同じ年1936年に開隊した我が国初の飛行艇実戦部隊である。開戦時の任務は南洋方面の哨戒/偵察それに奇襲攻撃。海戦に先立つ9月、搭乗員以外は飛行艇母艦「神威」で、搭乗員は24機に分乗してマーシャル群島のジャルート島に進出、ここで夜間索敵訓練や魚雷投下訓練に励む。開戦を知らさるのは3日前の12月5日、任務は真珠湾攻撃と時を同じくする、米領ハウランド島・ベーカー島攻撃。通信連絡トラブルで遅れたものの任務は達成している。これが浜空としては初陣だが、真珠湾攻撃大ニュースの陰で話題になることはなかった。
次の任務は3か月後にやってくる。なんとハワイ攻撃である。大本営の狙いは一応真珠湾基地復旧活動の妨害にあったが、別の目的もあったようだ。ジャルート島からオアフ島までの距離は往復7400km、戦闘(搭載爆弾、現地作戦時間)を考慮すると97式大艇の航続距離では実施不可能な作戦である。実は、97式大艇の後継、2式大艇が実用試験段階に入っていたのである(1942年2月制式採用)。全長:28m、全幅:38m、エンジン:1850hp×4基、航続距離:7050km、最高速度:470km/h。この性能は第2次世界大戦で戦った飛行艇として抜きん出たもの、新鋭機の力を試してみたい。これが海軍中枢の本音だったのではなかろうか。燃料補給のため途中に潜水艦を配備してまでこれを強行しようとする。1942年3月4日2機の2式大艇は基地を飛び立ち、潜水艦からの給油も受けて夜間作業中の海軍工廠爆撃に成功する。しかし、この偉業もほとんど報じられることはなかったばかりか、わずか4日後の3月9日、2機はそれぞれミッドウェー島とジョンストン島偵察を命じられ、2式大艇実用化の指導者橋爪大尉機が失われる。両作戦ともたった2機、ミッドウェー作戦までには3カ月もあり、とても意味がある作戦とは思えない。
ミッドウェーの敗戦後浜空主力はガダルカナル島の対岸に在るツラギ島に移動していたが、1942年8月7日ここに連合軍が艦砲射撃と空爆の後上陸作戦を敢行、飛行艇(主に97式大艇)全機爆破、司令以下380名の隊員ほとんどが戦死し、隊は壊滅する。
再編成されるのは同年11月、第801海軍航空隊横浜派遣隊としてである(開戦時飛行艇部隊は浜空の他に台湾東港にあり、更に1陸上偵察機部隊が飛行艇隊に改編され3隊構成になる)。浜空の装備は97式大艇16機に過ぎないが、翌1943年5月2式大艇への全面移行が進められる。また旅客輸送用に改造された「晴空」も就役し、本土と戦域を結ぶ役割を担う。しかし、戦いは守勢に回り、分散配置されていた飛行艇隊の機材/兵員の漸減に伴い、1944年11月801空に統合され、最終的に本部は香川県の詫間に移され、横浜基地は補給基地に転ずる。戦争末期になると偵察/哨戒任務の他に特攻隊の誘導に当たることも多く、撃墜されたり空爆で失われたりで、170機生産された2式大艇も終戦時飛行可能なものは3機のみとなる。敗戦後の10月末復員していた一部隊員に原隊復帰を乞う連絡が入る。1機を飛行可能状態に戻して、米軍に引き渡すためである。この作業は詫間基地で行われ、そこから米軍パイロットを同乗させて速成訓練、横浜基地まで飛ぶ。この機は空母で米国に運ばれ、米海軍実験部隊でコンソリデーテッドコロネド飛行艇(4発)との比較評価試験が行われ、2式大艇がはるかに優れているとの結論を出している。この機は長くノフォークの米海軍基地に保管されていたが1979年日本に返還され、船の科学館の外に復元展示されたのち2004年以降海上自衛隊鹿屋航空基地資料館に収まっている。
私の本書に対する最大の関心事は大型飛行艇(特に2式大艇)の兵器としての有効性であった。と言うのも前記米コロネド飛行艇の評判は芳しくないし(専ら輸送機として使われた)、英軍のショートサンダーランドは対潜哨戒攻撃機に特化したことで高い評価を得ているからである。では我が国の飛行艇はいかがなものだったか?ここが知りたいところであった。しかし、読んでみるとその点はあまり深みがなく、ツラギでの部隊壊滅や特攻隊誘導などにかなりの紙数が割かれ、それも下士官兵の体験談から構成され、期待する飛行艇の作戦/戦術は置き去りになってしまっている。別の喩えで言えば、郷土史家の作品に近い感じであった(細部がやたら詳しく大局観を欠く)。横浜の書店が出す出版物の限界と言ったところだろうか。それでも基地跡を散策してみようかと言う気にはさせてくれたが・・・(大格納庫は現存し“一部”が県警機動隊の車両/機材倉庫として使われているとのこと)。
2)冗談音楽の怪人・三木鶏郎
-“寸鉄人を刺す”痛烈な時事風刺放送番組を自作自演した怪人の人生-
私の小学生時代、家族団欒の楽しみはラジオくらいしかなかった。民放はまだ存在せず、NHKの第1放送(JOAK)と第2放送(JOBK)がそのすべてだった(この他に占領軍向けの英語放送があった)。第2放送は英会話やスポーツ実況放送など今のEチャンネルに近い性格、第1放送がメインと言ったところである。夕刻の子供向け連続ドラマ「鐘の鳴る丘」、夜のクイズ番組「話の泉」「二十の扉」、日曜日昼の「素人のど自慢」、そして全国の銭湯を空にしたと言われる菊田一夫原作のメロドラマ「君の名は」などが、第1放送の人気番組だった。そんな中に日曜日夜「日曜娯楽版」と言う、時事コントと風刺の効いた音楽(冗談音楽)を組み合わせた、辛口おふざけ調のプログラムがあり、小学校高学年にもそれなりに楽しめる内容だった。東大法学部卒業者が公務員の世界で特別な存在であることは父から聞かされていた。それ故に、言わば主役格の三木鶏郎がその一人と知ったときの第一印象は「まさか!」「どうして?」であり、番組への興味がいや増した。本書は、この「日曜娯楽版」の放送作家・作曲家・出演者であった三木鶏郎の伝記風読み物である。TV時代が到来するとCMソングで売り出し、近年あいつで亡くなった野坂昭如、永六輔が門下生であったことを考えると、まさにメディア業界、広告業界の“怪人”である。書店で懐かしい番組と人名を目にして、あの時代を辿りたく、即購入した。
伝記と書いたが、一般的な手法である経歴を追う形式ではなく、時系列とは関係なく、テーマは脈絡もなく並べられ“三木鶏郎イヴェントエッセイ”と言っても良いような構成になっているので、「いかにあのような怪人が世に出てきたのか?」が分かり難い。
かいつまんで生まれ育ちや怪人誕生の背景を要約すると以下のようになる。父親は弁護士(判事出身)、母は市ヶ谷に在った有名料亭の娘。1914年(大正3年)麹町区飯田町で生まれる。本名繁田裕司。家は裕福(戦前一時期千駄ヶ谷に千坪の土地を所有している)で子供の時からオルガンやカメラを買ってもらえる。学歴は、小中学校は徒歩でも通える暁星学園(フランスカトリック系)、ここで本格的な音楽仲間が出来る。成績もよく中学4年で旧制浦和高校に入学(入学祝いに父が「なんでもいいから買って来い」と100円を渡す。当時の帝大卒の初任給が30~40円)、ここまでは順風満帆の人生だ。しかし東大法学部の卒業は1940年(昭和15年)、生年から計算すると26歳、当時の学制から考えて4年くらい余計にかかっている。学内イヴェントや音楽に入れ込み過ぎて浪人(東大合格まで2年)や留年(大学で2年)を繰り返した結果である。司法官試験や外交官試験に不合格、日産化学に就職して半年後には召集(1941年)。近衛第3連隊(麻布)に入営、幹部候補生となり経理見習士官を経て習志野の部隊に1944年まで勤務し中尉で除隊する。このあと日産化学には戻らず、演奏会のマネジメントや音楽誌の編集など言わば自営業で過ごす。さらに終戦直前の1945年6月には千葉の部隊勤務時下宿していた家の娘と結婚。戦争末期こんな生活が出来たのは実家の存在が大きいと推察される。ここまでの段階で、オルガン、ピアノ、ヴァイオリン、アコーディオンを演奏できるようになっているし、作曲も手掛けている。戦後の軽音楽人の話は米軍キャンプから始まるが、鶏郎もそれは同じである。1946年焼け跡を主題にした「南の風が消えちゃった」をNHKに売り込みに行ったことから冗談音楽の前身「歌の新聞」制作のチャンスをつかむ。“南の風”は日本の南洋雄飛を賛美した獅子文六の小説の題名。自作の歌は自虐的内容でそれを暗に批判する歌詞、冗談音楽の胆とも言える時事風刺に確り通じている。そしてこの時事風刺が時にGHQや政府の怒りを買うことになるのである。つまりそれほど辛辣な内容ゆえに、聴き手に訴えたのである。当に“寸鉄人を刺す”、この感性が数々のCMソング誕生につながっていく。以上のように展開してくれると鶏郎の人となりを理解しやすいのだが、著者はその手はとらない。私には気に入らない。
導入部は著者(1956年(昭和31年)生れ)の知るTVアニメ番組「鉄人28号」の主題歌作曲者としての三木鶏郎である。ここはそれほど違和感なく入っていけるのだが、次いで「アスパラでやりぬこう!」の弘田三枝子の話、「ジンジン仁丹」、「僕はアマチュアカメラマン」と作曲者(時には作詞者)は三木鶏郎であるが、話の内容はスポンサーや歌い手、あるいはCMの狙いや効果などに紙数を割き、さっぱり鶏郎の人物像が浮かび上がってこない。ページも半ば近くになり、著者も気づいていたのだろう「話の流れで、“出生”の話が後回しになってしまったが」と言い訳をして、やっと正統な伝記風記述が始まる。こんな構成になった理由が分かるのはかなり読み進んでから。雑誌の連載を一冊にまとめたものだったのだ。
そうはいってもつまらない本ではない。個々のテーマを通じて、当時の社会情勢を知ることが出来るのだ。CMソングにまつわる裏話(歌手(楠トシエ、宮城まり子、デュークエイセスなど)、スポンサーに製薬会社が特に多い(ルル、ポポン、チオクタン、ビオタミン、パント錠)背景、商品と歌詞の関連、軍隊における友人関係(東急の総帥五島昇と幹候同期)、ディズニー映画の吹き替え(「わんわん物語」日本語版音楽監督として吹き替えの担当者を選ぶ。音質にこだわる米人担当者はブルドッグの声に浅沼稲次郎を希望する。挨拶に行ったものの実現しないが、のちに同名の連続ラジオ放送で何回か出演する)。芸名三木鶏郎の由来;ミッキーマウスが好きだったのでキャンプ廻りの際Mickey Mouse
& His Orchestraとバンド名を付けようと思ったがMouseはおかしいとの意見が出て、Triller(巻き舌のrの発音の意)と置き換え、ミッキー&トリラー→三木鶏郎になった)、ヒット曲に関するよもやま話(例えば、「僕は特急の機関士」「田舎のバス」、この二つはそれぞれ1章を割いている)、タレントたち(特に日曜娯楽版のレギュラー;三木のり平、河井坊茶、丹下キヨ子、有島一郎、千葉信男)との関わりやそれぞれの略歴、コントの材料収集(郵便で応募し、才能が認められスタッフに加わった人もいた。永六輔などこれに近い)。
占領軍の放送検閲で没になったコント;1950年年頭にマッカーザーが再軍備に触れたことがテーマ;マッカーサー「日本人はまだ12歳の子供である」、日本人一同「恐れ入ります」、マッカーサー「日本は再軍備すべきである」、別の声「へえ、子供の兵隊ってはじめてだね」
伝記としてはともかく、放送文化や広告業界に関心があればそれなりに役立ち、面白く読めるかもしれない。
著者は放送(TV、ラジオ)情報提供(週刊TVガイドなど)に特化した通信社の記者を経たフリーのエッセイスト、TVコメンテーター。街歩きのガイドブックなども著している。
3)情報と戦争
-現代を代表する戦史家が分析する情報・諜報と戦い。「決め手は戦闘力だ!」-
ほぼ半世紀にわたるビジネスマン人生を手短にまとめると“情報と経営”と言うことになる。最初の10年は工場でプラント運転のためのリアルタイム情報を扱い、次の10年は工場全体の操業管理情報システムの構築・運用に従事した。次いで5年ほど本社主体に会社全体の経営情報システムに取り組んだ。ここで利用者としての立場から供給者に転じ残りの25年を過ごすことになる。プラント運転では単純ではあるが正確なデータをリアルタイムで処理する。工場の操業管理では時間あるいは日単位でプランの運転のみならず設備保全や受注出荷、環境など多様な情報を扱うが、基本的に工場内のデータがその対象となり、管理情報は概ね定型的なものである。それに対して、本社経営情報は各事業所データのみならず外部データを含む高度に加工された情報を経営判断に供するため、管理者・経営者の考え方や経営環境に応じて柔軟な対応が求められる。つまり、当然のことながら利用者に提供される情報は目的に応じて内容や処理方法が異なる。昨今ビッグデータ・IoT・AIが喧伝され、現場生データ重視が強まっている。しかし、生データをそのまま経営に直結するとかえって混乱を起こすこともあるし、誤った(あるいはねつ造された)生データが現場から上げられ経営危機に陥ることもある。“情報と経営“の関係は奥が深く、ICTの発展普及に伴って、まだまだ利用法研究の余地が多い。経営を戦争に置き換えた時、情報(あるいはデータ)は如何様に扱われてきたか?相違点はとこか?学ぶべきは何か?それを知るべく本書を手にした。
著者サー・ジョン・キーガンは、ヘブライ大学教授マーチン・ファン・クレヴェルト(訳書「補給線」、本欄でも紹介した「Technology and
War」など)と並ぶ現代を代表する戦史家である(2012年死去)。サンドハースト王立陸軍士官学校戦史教官を長く務めたのちディリー・テレグラフに転じ国防担当記者、「戦争の素顔」「戦略の歴史」など数々の名著を残している。
本書の“情報”はIntelligenceでありいわゆる情報(Information)の他、諜報(スパイ活動など)や通信、地図情報などを含む。時代は18世紀末のナイルの戦い(アブキールの戦い;ナポレオンのエジプト遠征とそれを阻止しようとしたネルソン提督を指揮官とした英海軍との戦い)から1982年のフォークランド戦争、更には9.11以降のアルカイダとのテロ戦まで2世紀強のスパンを持つ。そこで九つの戦争/紛争を事例に採り「インテリジェンスは戦争の帰趨にどれだけ役立ったのか」を分析究明し、その総括を試みる内容である。九つの事例は;①ナイルの戦い、②シェナンドア渓谷の戦い(南北戦争)、③コロネルの戦い(第一次世界大戦におけるドイツ東洋艦隊追撃戦)、④クレタ空挺作戦(ドイツ空挺部隊のクレタ島攻略)、⑤ミッドウェー海戦、⑥大西洋の戦い(護送船団とUボートの戦い)、⑦ドイツ秘密兵器に対する諜報戦(V-1/V-2)、⑧フォークランド戦争、⑨対アルカイダ戦である(ただし、⑧、⑨は「1945年以降の軍事インテリジェンス」として括られ、簡単な解説に留まる)。
戦争に限らず、複数の事例から一つの結論を出すには、分析対象を出来るだけ共通項で括り、それぞれを対比し相違性をチェックして類似性が高ければそれを総括して結論に導く手法をとる。例えば、作戦の動機、作戦策定の前提条件、それに基づく作戦計画策定、作戦実施、刻々変わる戦況と計画のずれ、修正対応、戦闘結果を並べてみて、どこでどんな情報が使われ、それはどの程度有効であったか、と言うような手順を踏むのが常道であろう。しかし、本書はこれとは違い、各事例それぞれに異なる角度から焦点を当てる。①では通信手段が皆無(無線も有線もない時代、海上ゆえに光も煙も使えない。おまけに本国から遠く離れている)の中でいかにネルソンは行動を決めていったか、②では地理情報を熟知したものとそうでない者の行動が如何に戦局に影響するか、③では実用化まもない無線技術は如何に両海軍で使われ、勝敗に影響したか、④では暗号(エニグマ)解読が出来ていたのに、何故英軍は侵攻を阻止できなかったのか(空挺は奇襲陽動ととらえ、海上からの上陸に備え兵力を分散させた)、⑤では日本海軍(そして外務省)の暗号(ウルトラ)解読が米軍大勝利になったと言われるがそれは真実か(確かに、攻撃目標がミッドウェー島であることは暗号で特定できていたが、機動部隊発見は極めて偶発的だった。勝機は日本にもあった)、⑥では大西洋の戦いは真に英国の危機だったのか、インテリジェンスで救われたのか(英独の活発な諜報活動を紹介しながら、戦時中大西洋を横断した船舶の内99%が無事目的地に着いていることを明かす。これは信じ難い数字だ!)、⑦では新兵器に対する科学技術インテリジェンスは如何に進められ最高意思決定機関にどのように受け取られたか(早くから、ポーランド人労働者などからロケット兵器の開発が諜報機関を通じて伝えられていたのに、チャーチルの科学技術顧問がこれを否定し続ける)、と言うようにである。
インテリジェンス効果を中心課題にしつつも、戦いの詳細や背景説明(戦略、情報機関の歴史、国家指導者の言動、技術解説など)にかなりの紙数を割いているので、今一つ“情報”を共通項として把握することに集中できない。ただ読み進むうちに、インテリジェンスの効用を認めつつも、「戦闘の勝敗は運と戦力」の感を強くしていった。結言はその感にとどめを刺す「先見の明は大難に対して何の防御にもならない。リアルタイム情報ですら、十分にリアルであるとは決して言えない。最後にものをいうのは力である」と。ここでの “力”は戦闘力。近頃盛んなソフトパワー(インテリジェンスを中心とした)重視論(軍事に限らず)に対する強烈なカウンターパンチ。経営とICTの見方について、あらためて見直してみなければ(反論も含めて)との気を起こさせた。
4)機密費外交
-些末な飲み食いの領収書があぶり出す日中戦争への道-
昨今公私の別なく“情報公開”を求める声が高くなってきている。「何でもオープンにしてみんなで決める」は一見“民主的”である。しかし、一方で意見集約に時間がかかり、愚かな方向に物事が進む恐れも多い。また、情報が商売のネタで、公開要求の急先鋒に立つメディアは都合の悪い身内情報にはほっかむりする。公開情報をつまみ食いする自己中心の情報操作ほど恐ろしいものはない。「公開もそこそこに」が私の考えである。特に外交に関する“細部”は、当面(半世紀くらい)論語にもある「民は由らしむべし、知らしむべからず」の非公開で良いと思っている。その時公開されてもほとんど誰も関心を示さず、四散五裂したかもしれない“細部”情報が80年ほど後に公になり、そこから昭和史の中心課題である満州事変・支那事変を明らかにしようと挑戦したのが本書の内容である。時間がたち熟成したからこそ、歴史研究にも役立てた、と言うところである。“機密費”とタイトルに書かれるといかにも謀略工作費めいてくるが、実は領事館が使った交際費の領収書の類である。
先ず感心したのは官僚機構が公費の支出にはかなりしっかりしたチェックを行っていることである。本書の冒頭1927年首相になった田中義一陸軍大将はその軍資金(3百万円)を軍事機密費から捻出していたと言う松本清張の推論で書かれた「陸軍機密費問題」を否定して見せる。陸軍機密費は陸相が代わるたびに、次官立ち合いの下で現金や公債額を帳簿と照合し内容を精査して引き継いでいたから流用など不可能、と。本書(研究)の基となるのは2014年~15年刊の「近代機密費史料集成Ⅰ 外交機密費編」(全6巻+別巻)、さらにその原典は外務省外交史料館所蔵「満洲事件費雑纂」である。公費支出明細としてこんなものが保存されていたのだ。主に援用されるのは、奉天総領事館、ハルビン総領事館、吉林総領事館、新京総領事館、満州事変後紛争域が長城の南へ移ると上海公使館(のちに大使館)・同総領事館、天津総領事館、青島総領事館などが顔を出す。またリットン調査団の訪満ではチチハルや満州里、鄭家屯の各領事館の機密費領収書も参照する。
先ずそれぞれの領事館における機密費予算と使途、また臨時予算増額を巡る本省と交わした文書などから、機密費外交の活動内容を推察する。分類すると、インテリジェンス外交、接待外交、広報外交がそれらだ。ソ連との関係が悪化するとハルビンのインテリジェント関連費用が増す。関東軍が動き出すと軍との調整に接待費が増える。中国人や満人、場合によって居留民の世論が不穏になるとその宣撫のためや外国メディア対応に広報費を使う。
領収書の多くはチョッとした会合費や事務費(第1次上海事変時日本人租界を守るのに日本兵ではかえって拡大の恐れがあるのでフランス軍に頼む。その食事代の領収書まで残っている!)に近いものだから、それほど意味のある情報が読み取れるわけではない。そこに記された個人名や組織名(料亭などを含む)あるいは使途、金額、更には他の史料も交えながら、仮説とその検証を進めていく。辛気臭い作業の積み重ねから、大筋では既に語られてきた昭和史と違わないものの、細部では「そうだったのか!」と知らされる場面が決して少なくない。例えば、軍の意図や動きを少しでも事前につかむための官々接待、あるいは行動を抑えるための工作(これも実態は接待)にかなりカネが使われていることである。加えて接待外交で目立つのはリットン調査団への饗応、本省や中国もせっせとこれに励む。広報費では得体の定かでない現地マスコミ抱き込み工作費なども含まれる。肝心の対外インテリジェンスはハルビン、上海で具体的なところに踏み込むが、全体としては今一つその実態や効果が明快でない。何度かあったはずの戦争回避が出来なかったのは、このあたりに要因があるのだろうか?しかし、機密費を含む満洲事変費は外務省;983万円に対し陸軍;1億8千3百万円、1:20では勝負にならなかった(単純比較で論じられることではないが、結果は完全に陸軍に引きずられたと言う点で、それなりの意味は持つ)。
歴史を研究し、それに学ぶのはそこからの成果を現代に生かすためである。著者は導入部で内閣官房機密費が公開されぬことに批判の目を向け、「あの時代でさえここまで公開されているのに」と訴える。しかし、それはいささか焦点がずれているのではないか。つまり、今回の史料は、監査のためにきちんと残しても、直ぐに公開する意図は無いものだった。それが何かの手違いで今日まで保存され日の目を見ることになったのである。従って、官房機密費も、本例と同じように何十年後かには公文書館で閲覧できるかもしれないのだ。今すぐ公開しても混乱を増すだけだ。
著者は学習院大学法学部教授(法学部長、学長)、専門は日本政治外交史。内閣府公文書管理委員会委員、特定歴史公文書等不服審査分科会委員などを務めている。昨年4月本欄で「戦争調査会」を紹介したが、本書はその姉妹編の位置付けとあとがきに記されている。
5)キャッシュレス覇権戦争
-クレジットカード・電子マネー・スマフォ決済、利便性の裏に潜む超監視社会-
私がクレジットカードの実物を見たのは20代の半ば(1964年頃)だった。勤務先の和歌山工場から出張で上京しており、自動車好きの大学時代の親友と、当時は毎年晴海で開催されていた東京モーターショーを見物した後、夕食のため銀座のレストランで食事を摂った。精算の際、割り勘のつもりで現金を出そうとする私を制して「これで払うから精算は後で」とプラスチック製のカード(たしかAmexだったように記憶する)をレジの担当者に渡し、サインをするだけで支払いを済ませた。店を出るとそのカードがクレジットカードと言うもので、彼の父親のものだが家族で利用できるのだと説明してくれた。彼の父親は戦前米国の大学を出ており、ドイツフォードのタウヌスと言うクルマを所有するほど豊かでモダンな家庭だった。現金払いしか知らない私にとって、何ともかっこいい世界だった。
1970年初めて海外出張の機会が与えられた。まだ為替は固定相場制で360円/$、現金とトラヴェラーズチェックで支払いを行っていたが、米国人の多くはクレジットカードを利用しており、「なるほどこれは便利だ」と思う反面、「預金残高をいつも確認しておかなければ」のわずらわしさも同時に感じた。最初に持ったカードはダイナース、管理職になって、カード会社から勧誘があったからだ。しかし、使えるのは有名ホテルやレストランばかり、ほとんど利用しなかった。その後、必要に応じいく種類かのカードを持つようになり比較的高額のものの購入や通販はカード決済が中心になっていった。1991年米国の学会参加のため少人数のツアーが組まれそれに参加した。大学町の小ホテルの宿泊費や食事代はツアー料金に含まれていたがそれ以外は個人負担。チェックアウトの際カードを渡したら「細かい現金はないの?」と問われた。5$に達しない電話代だけだったのだ。「やっぱりすべてクレジットカードというわけではないんだ」と妙に納得した。
クレジットカードは言うに及ばず、一時期流行ったテレフォンカード、SUICAのような多用途電子マネー、更にはスマフォによるQRコードを利用した決済システム。年々キャッシュレス化が進んできているし、政府もその普及啓蒙に余念がない。一方で自己破産の増加、プライバシー侵害、セキュリティー絡みの犯罪も多発している。非常用のガラ携しか持たない私にとって、これから先の社会で自律していくために、少しはキャッシュレス対応の備えが必要ではないかと本書を手にした。
著者は、付された紹介によれば、消費生活ジャーナリストとあり、本書の中でもカード関連(30年間関わってきた)の講演や電子決済に関するコンサルティングの話題が取りあげられる。一応この世界の先駆者と見ていいだろう。
一般消費者の商品やサービス支払いにおけるキャッシュレスの割合は、2015年の時点で、我が国は18.4%に留まるのに対し、韓国;89.1%、中国;60.0%、米国;45.5%と比較して極端に少ないことを示し、これが経済活動の効率化を阻害していると説く。第1は、国策としての観光立国(インバウンド消費;特に地方におけるキャッシュレス環境の遅れ)、第2は現金ハンドリングのコスト(ATMの設置/運用、紙幣/貨幣発行など)、第3はカネの流れの捕捉(特に徴税)。ではキャッシュレスが進むと消費者にどんなメリットがあるのだろう。①小銭の扱い不要、②現金保持の危険回避(私の体験でも、米国人は先ずこれを言う)、③記録保持に依る使途管理、④ポイントサービス。一方でディメリットは、①カードの紛失/盗難/悪用、②ルーズになる消費行動(使いすぎ)、③現状での制約(零細/個人商店での利用環境)、④資産やカネの動きが企業や国に筒抜けになる。本書はこのようなキャッシュレス経済活動の諸課題について、歴史も含め、体験的な具体例で分かりやすく解説する内容である。
私が強く関心を持った点は二つ。一つは、ペイパル(米)、アリペイ(中)、そして昨年末から本年年初にかけて話題になったペイペイなどの、電子決済システム。特に、我が国のそれである。ペイペイはソフトバンクとヤフージャパンの共同出資により昨年末スタートしたスマフォによる決済システムだが、「100億円あげちゃう!」キャンペーンでひと騒動起こしている(登録者に対する多額の還元;有効期限遥か以前に締め切りになり不満続出)。このキャンペーンはかつてソフトバンクがネット接続主導権を握るべくモデムを無料配布した戦略と同じで、一気にシェアーを獲得する狙いは明らかだ。しかし、著者は今回この方策が必ずしも成功したとは見ていない。100億円還元は限られた先駆ユーザー(新しものがり屋)と量販店(特に金額のはる家電品)に集中、アリペイなどに見る“薄く広く”の方向に動いていないからである(アリペイの場合、露店ですら使える!)。楽天、ドコモ、au、LINE、コンビニ各社も同様のシステムを提供し始めており、まだまだ我が国における利便性の高いシステムがどこなのか見えてきていない(複数加入する必要がある)。
第2の関心点は、利用者の「信用スコア」に関することである。銀行(信用金庫などを含む)やクレジットカード会社は長い歴史の中で共同の利用者信用情報機関を運営しており、伝統的な与信評価(資産、収入、家族構成、支払いが滞りなく行われているか?それなりの利用頻度はあるか?など)を定期的に行い、外部にもその情報が提供されてきた。しかし、携帯電話の普及、特にその割符販売、が進むと個人信用情報が変わり始める。キャリアー(携帯電話会社)の加入者数と利用頻度が桁違いに多いのだ。ここで既存の金融系情報とキャリアーの持つ個人情報(例えは位置情報)が合体すると、新たな個人信用情報が構築可能になる。そしてそれが単なる決済の与信ばかりでなくポイントに加算され、個人の行動(決済ばかりでなく。通信内容)を明らかにすればするほど点数が高まるシステムに発展していっているのだ。アイペイの裏には「ゴマ信用」と言うこの種のシステムがあり、それは政府に筒抜けになっているらしい。つまり、究極は電子決済利用者の格付け(ポイント)が国民としての格付けになり、種々の面で差別を受けることになりかねないのだ。キャッシュレス社会の先に、電子版「1984年」(英作家ジョージ・オーウェルが1949年に出した超監視社会を描く小説)が現れる。
一見軽くて読みやすい本だが、なかなか近未来社会に対する示唆に富む内容である。不満は欧州の状況に全く触れていないことである。本書にはないが、ドイツもキャッシュレス化比率が極めて低い(2016年;15.5%と言う数字がある)。何故か?日本との共通点は?家計のやりくりの堅実性ではなかろうか?それならキャッシュレス化後進国はむしろ誇るべきことかもしれない。
6)B29
-原爆と伴に“地獄の劫火”で日本を焼き尽くした戦略爆撃機の全容-
小学校(国民学校)」から大学まで、同級生自身の戦争体験談になると、ほとんどがB-29を話題にする。世代を違えば、兵役体験、近親者の戦死・戦病死・負傷、沖縄戦や広島・長崎への原爆投下がより強い印象事なのかもしれないが、やはりB-29を語る人は多い。おそらく一般の日本人が唯一記憶にとどめる具体的な敵国兵器名と言ってもいいくらいの存在だ(時に「グラマンの機銃掃射」などを挙げる人も居るが、“グラマン”は単なる会社名;多分艦上戦闘機のF6Fヘルキャット)。あるICT企業の連載コラムを書くためにこの日本人にとっては疫病神とも言えるB-29を調べる必要があり、半世紀前に入手した本書を再読することになった。
大型爆撃機で長躯敵の政治経済あるいは軍事中枢機能を叩き、戦争を早期に終わらせると言う“戦略爆撃思想”はライト兄弟の初飛行からそれほど時間を経ずして、イタリア陸軍のドゥーエ将軍によって唱えられ、英空軍初代参謀長トレンチャード、さらにその感化を強く受けた米陸軍航空隊のウィリアム・ミッチェル准将(除隊時;のち死後名誉回復少将に進級)へと引き継がれていく。しかし、思想と技術のギャップは大きく、第一次世界大戦時形だけの長距離爆撃がツェッペリン飛行船を含めたドイツ機によって試みられたにとどまっている。技術以外、三者共通の盲点は想定する戦場を欧州中心に考え、広大な大洋を隔てた戦いにおよんでいないことである。三者の経歴はいずれも陸軍が出発点。海軍からこのような発想がなかったことと併せて、その後の航空機主戦力化発展過程を考察する上で興味深い。
第一次世界大戦を戦ったミッチェルの考えは、大艦巨砲も今後は航空機に抗せないと言うもので、海軍のみならず陸軍内部からもラディカル思想として排除され、退役を余儀なくされる(1926年)。この意思(かつ遺志;1936年没)を継いだのが愛弟子(陸軍航空隊の後輩)ヘンリー・“パップ”・アーノルド(戦後新設される米空軍初代参謀長、元帥)。B-29の前史、開発、運用、主要作戦がこの人物と伴に語られるのは本書の内容である。
第二次世界大戦直前米陸軍航空軍(独立軍種に近い位置付け)が保有していた大型4発爆撃機は、ボーイングB-17フライング・フォートレス;空飛ぶ要塞)とコンソリデーテッドB-24 (リベレーター)の2機種。航続距離(空荷))はB-17;3000km、B-24;3500km。欧州戦線で猛威を振るうことになるこの2機だが、爆装や空中戦闘行動を考慮すれば、フィリッピン、グアムから東京往復は叶わない。1939年の年頭教書で、ナチス空軍の脅威に対抗すべく、ローズベルト大統領は航空兵力の大幅増強を訴え、議会はこれに応えて大型機3000機の生産を認める。12月に発注仕様書検討、それに基づくメーカーからの製作仕様書が1940年5月に提示され、試作機の発注がボーイングとロッキードに出されるが、ロッキードは戦闘機など他機に専念することになり、ボーイング345(社内名称)が最終的に残る。全幅;42.3m、全長;27.9m、高度7500mで最高速度650km/h、航続距離;11200km(空荷)、爆弾搭載量;約1t、乗員;10~14人。爆弾搭載量こそB-17やB-24 に大差ないが、航続距離は3倍、速度は戦闘機並みである。おまけに高度1万m飛行が可能なように乗員室(操縦室と尾部機関砲座)は与圧室で暖房付。これがX(試作機の意)B-29の仕様である。従来と桁違いの性能ゆえ開発は難航、初飛行は1942年9月、運用開始は1944年5月までずれ込み、エンジン性能が最後まで計画レベルまで達せず、航続距離は7000km(空荷)に留まる。
ケベック会談(1943年8月)おける米英確認事項、テヘラン会談(1943年11月)におけるスターリンとの約束、カイロ会談(1944年1月)での蒋介石との合意(中国奥地からの本機に依る日本本土爆撃)、いずれにもB-29が取り上げられる。ローズベルトはその都度アーノルドに発破をかけるが、計画は順調に進まない。開発責任者を更迭し、自ら現場に乗り込んで問題解決に強権を振るう傍ら、乗員訓練や戦術の準備・検討に奔走する。何とか生産が軌道に乗ると、今度は運用トラブルが次々と発生する(特に中国成都基地進出における燃料と爆弾補給、インドの中継基地建設など)。成都からの爆撃行は八幡の製鉄所や大村の飛行機製造工場あるいは満洲鞍山製鉄所が限界、稼働機数も少なく、司令官まで変えてみるが実効は上がらない。大きな転換期は1944年6月のサイパン島占領、次いでグアム、テニアン(いずれも7月)を落とし、5カ所に基地を設けてからだ。11月中島飛行機武蔵野工場爆撃から、本土空襲が本格化する。しかし、昼間精密爆撃の効果は依然限定的で、日本の抵抗力が減ずる兆しは見えない。
B-29専任航空部隊は第20航空軍、マリアナはその下部である第21爆撃兵団、司令官のハンセン少将は伝統的な昼間精密爆撃信者、夜間無差別爆撃には強く抵抗する。アーノルドはここでハンセンをカーチス・ルメイ少将(爆撃手出身)に置き換える。あの1945年3月10日の東京空襲は彼によって決せられ、その効果は絶大。出撃機数385機、投下された爆弾2千t。「地上はダンテの「神曲」にある地獄より、もっと酷かった」と報じられたほどだ。引き続き、名古屋、大阪、神戸から地方の行政・軍事都市まで次々と焼夷弾爆撃で炎上されていく。最後のとどめが2機のB-29 ;エノラゲイ(広島)、ボックスカー(長崎)による原爆投下である。生産機数3970機、朝鮮戦争にも一部使われているが、ほとんどが対日戦用と考えていい。
多くの人がB-29 を記憶するのは、破壊の激しさにあるが、2000~3000mからの低空夜間焼夷弾爆撃によって劫火を反射するその機体を目の当たりにしたからではなかろうか?この低空夜間爆撃もルメイのアイディアである(前任地ドイツに比べ夜間爆撃に対する防御が極めて脆弱であることを知ってのことである)。ルメイは後に第5代空軍参謀長(1961~65年;大将)になり、1964年(佐藤首相、小泉純也防衛庁長官)勲1等に叙せられている。理由は航空自衛隊育成の功、本来天皇が親授するものであるが、それはなかった。
本書は米バレンタイン社が1970年から出版した「写真・図解・地図入り第二次世界大戦史(全50巻;監修リデル・ハート)」を邦訳したものの1巻。著者は第2次世界大戦を欧州で戦った経験を持つ米戦史家。
あと味の悪い本だが、B-29の全容(開発の背景、数々の新しい試み、試作機開発の苦難、製造過程の隘路、運用や作戦内容や問題点)を理解するにはコンパクトにまとまった本である。