<今月読んだ本>
1)レオナルド・ダ・ヴィンチ(上、下)(ウォルター・アイザックソン);文藝春秋社
2)外国人が見た日本(内田宗治);中央公論新社(新書)
3)ジャパン・ストーリー(ジェラルド・L・カーティス);日経BP社
4)訴訟王エジソンの標的(グレアム・ムーア): 早川書房(文庫)
5)不思議で面白い陸戦兵器(市川文一);並木書房
<愚評昧説>
1)レオナルド・ダ・ヴィンチ
-膨大なメモから浮かび上がる稀代の天才像。モナリザの微笑みは解剖学の成果だ-
ANAの前身の一つは昭和20年代半ばに生まれた日本ヘリコプター輸送(株)、ローマ字綴りではNippon
Herikoputa Yusoと記していたので、航空便としての略号はNH、今でもANA全便に適用されている。この当時のロゴマークは先端が尖った板ネジ状の錐が空気を切り裂いて上昇するものでヘリコプターの元祖、1980年代までジェット機の尾翼にも描かれていた。これはレオナルド・ダ・ヴィンチのスケッチ帳から拝借したものである。
ダ・ヴィンチ(“ヴィンチ村の”を意味し、著者は“レオナルド”を専ら使うが、なじみのある通称を以下用いる)を知ったのは中学の美術の授業だったと記憶する。教科書に「モナリザ」の絵が載っており、先生が「この微笑みが意味深長なのだ」とその“意味深の意味”を語ってくれたからだ。後年欧州旅行をするようになり、この「モナリザ」もルーヴルで観ているし、ミラノサンタマリア修道院の「最後の晩餐」も解説付きで見学したが、私にとっては画家ダ・ヴィンチよりは、軍事技術史から知った技術者・科学者としてのダ・ヴィンチがより印象深い。それは多分画家としては寡作であった反面、膨大な数のメモを残し、先のヘリコプターを始め、戦車・潜水艦・機関銃・攻城兵器あるいは植物学・化学・地質学・水力学・光学・天文学や医学(特に解剖学)など科学技術に関する情報が、戦史や技術史に多く援用されているからに違いない。フィレンツェである程度画家として認められていながら、ミラノ公に自分を売り込む際「絵も描けます」と記しているところから、自分でも単なる画家とは思っていなかったことが窺える。
それにしても本書を読んで“運命”を感じせざるを得なかった。この天才は非嫡出子(私生児;貧しい農家の娘と独身時代の父との子)として生まれたために、伝統的な家業である公証人に就けないことから、父は彼の画才を認め、著名なフィレンツェの工房に弟子入りさせるのである。父は正式な結婚後も長く子供に恵まれなかったので(3人目の母との間に、レオナルドと親子ほど歳の違う兄弟が生まれる)、もしかすると公証人になる機会があったかもしれない。そうなっていれば歴史的逸材が出現することは無かった可能性が高いのだ。
本書では、奇跡的に残った7200枚のメモやスケッチすべてに目を通し、スーパー・タレント、ダ・ヴィンチの全容と作品の見所を明らかにするものである。つまり、このメモから彼を追うところが、中世以来発刊されてきた多くのダ・ヴィンチ伝記と最も異なる点であることが、読み進める内に分かるとともに、メモ解読が著名な作品類の鑑賞に新たな視点を与えてくれる。それもまるでミステリーを読み解くような不安感と期待感を交錯させながらである。
重要なのはスケッチなどの端に無造作に残されている“やることリスト”。例えば、人物画を描くに際し、口・唇や瞼の動きあるいは肩や腕・肘の動きを、皮膚を剥いで下にある筋肉や骨がどう影響してくるかを調べる。また、目でモノを見るとき映像は眼球の中でどうとらえられているかを知ろうとする(脳の働きとの関係まで仮説を立てている)。さらに、眼球の構造を正確に把握するための解剖法を考案する(死体から眼球を取り出し、卵の白身の中に落とし正真正銘の“眼玉卵焼き”にしてから切断する)。光の強弱・方向や種類の違いによる、陰影の変化を光学的な視点から探求しようとする。こんなことが“やることリスト”に記されているのだ。これでは寡作になるのは当たり前だが、だからこそあの「モナリザの微笑み」が生まれたことも理解できる。この探求心・好奇心は人物に留まらず、自然にも向かう。水の流れ、植物の植生、地形の成り立ち。美術と科学を合体させるのが彼の基本的な姿勢なのである。同時代に活躍したミケランジェロやボッチェリとの決定的な違いはここにある。
ところで、当時のダ・ヴィンチのスポンサーたち(ボルジア家、ミラノ公、ローマ法王、フランス王)はどう見ていたのであろうか?実は“舞台演出家”の評価が最も高かったのである。権力者は取り巻きや大衆の関心を惹くため、しばしば催し物を開催した。この出し物(特に舞台装置作り)に観衆をアッと言わせる奇抜な仕掛けを考案するところに彼の才能を認めたわけである。冒頭紹介したヘリコプターもどうやらその一つだったらしい。
著者は本書のベースとなる“やることリスト”を「史上最も貪欲な好奇心の持ち主」を知るための最高の手引きと位置付けているが、7200頁を読破しここまでまとめ上げた著者の執念と努力も尋常ではない。他の伝記対象者以上にダ・ヴィンチに入れ込んでいたからこそ出来たことと推察する。著名は伝記作家として前作「スティーブ・ジョブズ」を大ヒットさせ、本欄でも2011年11月それを紹介しているが、本作は遥かにそれを上回る深さがある。特に美術評論においてジャーナリスト(Time編集長、CNNCEO)や伝記作家の枠を超える知見を披歴、著名な美術史家(例えば、故ケネス・クラーク(英))の見解にも異をとなえる場面にその一端を見る。
いつもとは異なり、本書には赤線引きも書き込みも一切しなかった。読み始めから「これはぞんざいに扱うべき本ではない」と感じたからである。凡人のメモなど価値を減ずるだけだと。
2)外国人が見た日本
-幕末から現代に至る訪日客の軌跡。日本への関心はどこにあるかが見えてくる-
私が昭和37年に就職したのは外資系石油会社である。最初の赴任地は和歌山工場。和歌山市からさらに汽車で30分ほど南に行った初島(有田市)に在り、有田市全体で日本旅館は数件あるものの洋式ホテルは皆無。プラント建設が盛んな昭和30年代前半には多くの外国人技術者がやって来たのだが適当な宿泊先が無い。そこで工場の外れで景観の良いところにゲストハウスを設け、専任の従業員を置いてそこで彼らが過ごせるようにした。ベッド・洋式水洗トイレとバス、食事は無論洋食である。入社した時期には既に外国人の往来もあまりなく、昭和40年代半ばに取り壊されることになるのだが、当時は和歌山市にもない完全な洋風施設で、ここで歓待を受けた日本人(大学の先生など)は一様に感激していた。
それから50余年、今や訪日外国人の数は3千万人を超す。和歌山は関西空港が近いこともあり、高野山や白浜あるいは熊野古道は言うに及ばず、鄙びた温泉地にも外国人が訪れるようになり、それに対応できる施設も整い昔日の感がある。山がちで農地は少なく、大企業進出の数も限られた所ゆえ、今では観光が主要産業になってきている。
本書は、幕末から今日に至る訪在日外国人の旅の歴史(主として観光・保養目的の行動)を辿る小史で、昨今の“観光立国論”を、少し深みをもって考えるのに適当な教材である。ポイントは帯にもある「外国人が見たい日本と日本人が外国人に見せたい日本」のギャップである。
先ず幕末、外国人は外交官を除き居留地周辺しか動き回ることが出来なかった(散歩程度)。ビジネスは居留地内のみ許可、居住者の閉塞感は相当なものだったことが窺える。これは明治中期まで続き、学術研究と病気療養以外は依然として制約が加えられている。有名なイザベル・バードの「日本奥地紀行」(明治17年;1884年刊)は学術研究だったのである。これが解かれるのは明治32年(1899年)のことだが、明治政府の考えには深謀遠慮があった。幕府が結んだ不平等条約(安政5カ国条約)の改定である。それでも外交官のラザフォード・オールコック英総領事やアーネスト・サトウ(英公使館通訳→書記官)あるいはお雇い外国人官吏にはある程度の自由度があり、当時の事情は主にこれらの人々の残したものが本書では引用される。中でもサトウは在日期間通算13年、35回延べ450日も全国を観て廻り1882年「明治日本旅行案内」を発刊、外国人向けガイドブックの嚆矢となっている。割かれたページ数で見所の順位を付けると;東京、京都、日光・中禅寺湖、箱根、富士山・富士登山がベスト5。これを現代のミシュランと比べると1、2位は変わらず、3位に奈良・法隆寺(サトウでは7位)、4位に大阪(同10位)、5位に日光・中禅寺湖、と140年経たのちもあまり変わりのないことが分かる。反面全く評価されないのが鹿鳴館に代表される表層的な近代化である。
旅には飲食と宿泊が伴う。蚤と蚊の悩みは随所で体験したらしく「キーティングの防虫パウダー必携」とまで書かれているが、一方で料理に関しては嗜好上の注意はあるものの(例えば肉類は乾燥肉や缶詰の携行)、水も含めて食品衛生上の問題は一切出てこない(治安を含め、これは「日本奥地紀行」も同様)。
外国人の国内旅行自由化の少し前、観光による外貨獲得を唱える有力者(政治家や財界人;渋沢栄一、益田孝ら)が出て、喜賓会なる旅行サービス団体が設立されるのだが、「国が宿屋の客引きをするなどもってのほか」「乞食外交」などと言う声も高く、国がそれを積極的に支援するようなことは無かった。しかし、外国人には評価が高くやがて現在のJTBにつながるジャパン・ツーリスト・ビューローが鉄道省の下に大正3年(1914年)発足する。このあたりから第一次世界大戦終了以降、好不況はあるものの概ね年間2~3万人の訪日客があるが、常時不足しているのが洋式ホテル。これは今に続く現象である。そして世界大恐慌の到来、我が国貿易収支は大幅赤字に陥り、外貨獲得のため総合的な観光政策推進機関として昭和5年(1930年)鉄道省国際観光局設置法案かかるのだが、そんな非常時にも拘らず大蔵大臣は「外国人から金をとって国際貸借改善をはかるという“さもしい”考えはできない」と反対したようだ。
前後するがアーネスト・サトウの時代来日した外国人の最大関心事は伝統文化と日常生活(特に地方の)だが、大衆化するにつれ「サムライ」「ハラキリ」「ゲイシャ」「ヨシワラ」「キモノ」などがガイドブックに現れるようになり、米国人旅行者が人力車を連ねて吉原に出かけたこともあったようだ。無論日本人は見せたくないものであったが、浅草(浅草寺)がサトウの案内書で2位(1位芝増上寺)にあり、ミシュランでも2位(1位上野)に留まるのはその影響だろうか?
日光・中禅寺湖や軽井沢の別荘開発、北アルプスを始めとするスポーツ登山の啓発・普及、皆外国人(主として英国人)が着手したものである。それが大きく変わるのは敗戦後米国人が主役となってからだ。米国人ジャーナリストのマーク・ゲインは1945年12月から約1年滞在し「ニッポン日記」をものにし広島の状況を克明に報告、進駐軍も広島旅行の英文案内冊子を発行、兵士たちの便に供している。しかし、一方で昭和21年10月日本交通公社発刊の「Japan The Pocket Guide」(英文)には宮島に2頁が割かれるだけで市内は一切触れていない。これは昭和37年運輸省観光部が発行した「Japan
The Official Guide」まで同様。やっと原爆資料館の展示内容に数行割かれものが平成3年(1991年)改訂版として出るがそれ以降発行されていない。こんな事情でありながらトリップアドヴァイザー社が独自のアルゴリズムに基づいてまとめた「日本観光スポットランキング」では原爆資料館が伏見稲荷大社につぐ第2位(第3位厳島神社)になっている。一体誰に忖度して国策周辺は原爆被害を軽視しているのであろうか?これが著者の問題提起の一つである。
最後の章は、政府の強気のインバウンド見通し;2020年4千万人(8兆円)、2030年度5千万(15兆円);に対し人数は無論、消費金額など、観光先進国フランスやスペインとの比較や訪日国分析(中国、韓国の多さ)も含めかなり厳しい見方を示している。要は、如何に多くの欧米人を呼び込めるかだと。本書の出版は1年前、既に韓国頼り(カネを落とさないことを注視している)に批判の目を向けているところは、「さすが」と言って良いだろう。
著者は経済誌記者、旅行ガイドブック編集者を経たフリーランスのジャーナリスト。地理・地図や旅行に関する著作が多い。
3)ジャパン・ストーリー
-米国人政治学者が体験を素に記した、昭和後半から平成末に至る日本政治秘史-
私が住むのは横浜市の南端金沢区である。所属するスポーツクラブから川一つ越すとそこは横須賀市。だからメンバーに横須賀市民が多い。中には元首相小泉純一郎と親しかった高校(県立横須賀高校)の同級生(故人;葬儀では純一郎が弔辞を述べた)も一時居り、総選挙になると地元選出の若きスター、今や環境大臣である小泉進次郎が専ら話題となる土地柄だ。率直に言って、私個人は彼の政治的力量を疑問視するが(若いのに失点を恐れる傾向が強すぎる)、総じて地元有権者の評判は良い。進次郎の出身大学はこれも近くの関東学院大学(経済学部)だがその後コロンビア大学大学院に進み、政治学の修士号を得ている。その時の指導教官が本書の著者、ジェラルド・カーティスである。普段政界裏話に全く興味の無い私が本書を読むきっかけは、本欄に眼を通していただいている会社の大先輩から「面白かった」とのコメントがあったからだ。
昭和39年(1964年)コロンビア大学大学院博士論文テーマに戦後日本復興の祖「吉田茂」を選んだことから奨学金を得て調査のために初来日、ひょんなことからそれが選挙運動のフィールドワーク(大分;佐藤文生の選挙区)に転じて日本の政治に深くかかわるようになる。昭和30年代末期から平成末期に至る50余年、高度成長から停滞の20年余、さらには冷戦構造の崩壊など政治的激動期にあり、その間の我が国政治システム(選挙、政権交代、組閣人事、重要政策案件の決定など)はある意味世界の耳目を集める研究対象でありつづけ、頻繁に日米間を往復、結局日本政治に関する研究者としての地位を確立。歴代首相や重要閣僚、党役員、派閥の領袖のほとんどと面談し、時には助言者として意見を求められるまでになる。本書の内容はそれらの体験談をベースにしていながら、渦中から一歩距離を置き、客観的に考察する姿勢が貫かれ、週刊誌的な俗悪感を全く感じさせない筆致で、日本政治の内奥に迫る。「面白くない」はずはない。旭日重光章受章も納得である。
先ず長期的な我が国政治情勢変化を俯瞰する。初来日前、著名な日本政治研究者であったエドウィン・ライシャワーハーバード大学教授は「やがて革新勢力が日本の政治中枢勢力になる」と予測、来日しても自民党幹部が寄稿した「1968年には自民党・社会党の支持率は逆転する」との見解を目にする。にも拘らず、短期間日本新党・新進党や民主党政権が樹立したり、政治信条を異にする社会党との連立まであったりしたものの、基本的に自民党一強時代が今日まで続いてきた。その理由は、掲げる政治理念はひとまず置いて、プラグマティズムと日和見主義で事に当たり「握った権力を手放さないことをすべてに最優先させる」党運営にあったと、時代々々の党実力者の言動を基に喝破する。しかし、これはいつまで続くのか?経済の低成長、少子高齢化、これからの政治が求められるのは不人気確実な「大幅な政策改革」である。著者が期待するのは「リスクを取りたくない、苦い薬を飲まないで何とかなると思いたい人たちを説得する政治家」であるが、従来の自民党リーダーは概して安全パイ選択志向、これからも中途半端なアプローチをとる人物が権力を握る可能性が高い、と危惧する。果たしてこの考えは進次郎に伝えられているのだろうか?
個々の政策については、小選挙区制、省庁統合、内閣府の強化あるいは憲法問題などに焦点が当てられ、著者(時には米国)の視点から長短が論じられ、なかなか含蓄のある内容となっている。例えば、第二次安倍政権下における内閣府と各省庁あるいは党との力関係を考察、意思決定の速さや従来の過度に官僚依存であった政策立案への改善効果を認めつつも、相互牽制機能のバランスを欠く現状に批判の眼を向ける。
何と言っても面白いのは、実力政治家との面談や交流に関するトピックスである。田中角栄、三木武夫、中曽根康弘、竹下登、海部俊樹、橋本龍太郎、小泉純一郎などがそれらだが、それぞれに対する評価が“寸鉄人を刺す”感がある。例えば、橋本龍太郎を「ひねくれて近寄りにくい人」と難じながら、一方で「首相として多くのことを成し遂げてきたのに過小評価されている」と持ち上げる。また、小泉純一郎とは親密な付き合いを窺わせながら「官邸主導の成果がどれほどあったのかは大いに議論の余地がある」とその政治手腕のほどに疑義を呈する。更に、中曽根とは若い時から現在まで交流を続けており、憲法改正に関する心の内の変化を最近の対談を含めて引き出している点や海部内閣組閣に際し、竹下が裏で動いている現場に居合わせるシーンなども興味深い。このあたりの情報は、著者が“流暢な日本語を話す外国人の学者”と言うことが実力者の警戒心を緩める効果があったように感じられた。
本書は、長期にわたる研究活動の時々の見聞録を2008年「政治と秋刀魚」(日本語)として発刊したものを、その後の活動も加えて大幅に加筆修正し英語版として本年出版されたものの日本語訳である。従って体系立てた昭和・平成政治通史ではない。その点では少々理解し辛いところもあるが、反面政治エッセイとして楽しめる。
読み終わり、昭和の政治家が懐の深い大物に見えるのは歳のせいだろうか?
4)訴訟王エジソンの標的
-GEvsウェスティングハウス、直流vs交流。電気技術法務闘争は如何に戦われたか-
2008年東芝がウェスティングハウス(WH)の原子力事業を買収した時にはチョッと驚いた。それまで東芝はGEと長く緊密な関係にあったからだ。マツダの白熱電球から始まり、私も一時関わった工業用コンピュータ(1970年アリゾナ州フェニックスに在った工場を見学もした)そして東電福島第1号原発。いずれもGEの技術が基になっているからだ。それがライバルのWHを何故?がその時の衝撃である。一方のGEはもともと発明家トーマス・エジソンが設立したエジソン・ゼネラル・エレクトリック(EGE)が起源、その後他社と合併してエジソンが取れゼネラル・エレクトリック(GE)と名乗ることになる。本書はまだ両社とも黎明期の頃の、特許を巡る技術法務サスペンス小説である。とは言っても巻末の著者注にあるように限りなくノンフィクションに近い内容である。
子供向けの偉人伝で知ったエジソンは少年時代の憧れの人。1982年ニュージャージー州に在ったExxonの技術センターに出張した折には休日を利用して北へ1時間ほどクルマで走ったウェストオレンジに残る彼の研究施設(現在国定技術遺産)を見学に出かけたりもした。しかし、後年「エジソンの生涯(マシュウ・ジョセフソン)」「エジソン発明会社の没落(アンドレ・ミラード)」「電気革命(ディヴィッド・ボダニス)」などを読み、人物評は反転した。“極端なエゴイスト”“技術盗用者”“悪辣な電気・電力産業普及阻害者”が改められたエジソン像、本書はさらにそれを裏打ちする内容である。
サスペンス物であるので筋は紹介しないが、テーマはジョージ・ウェスティングハウスとエジソンの白熱電球に関する特許紛争、さらに進んで直流(EGE)と交流(WH)の主導権争い。主人公はWHに採用された、技術には全く疎い若い弁護士。技術面で重要な役割を果たすのは、英語もろくに話せないセルビア移民の天才技術者二コラ・テスラ(イーロン・マスクの電気自動車名はここからきている)。既に実績のあるエジソンにはウォール街の支配者J.P.モーガンもEGEの投資家としてついている。長距離伝送に優れた交流普及を阻止するためにエジソンが仕組んだのは交流電気を用いた世界初の電気椅子に依る公開死刑。いかに交流が危険であるかを喧伝するためだ。ここが一つの山場である。エジソンが前面に出てこないところが彼の狡猾さを際立たせる。そしてもう一つの事件がテスラ爆殺未遂事件。一体誰が仕組んだのか?紛争解決策を若い弁護士に授けるのは電話特許でエジソンと争ったグラハム・ベル。弁護士を除けば、皆実在の人物。結末はEGEから頭のEが無くなりGEが現存することに暗示されている。
著者は、アラン・チューリングを描いた「イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密」でアカデミー賞を受賞した脚本家。
5)不思議で面白い陸戦兵器
-元武器学校長が著す陸上自衛隊現有兵器解説書。単純に見える武器・弾薬もハイテック化が進んでいることに驚愕-
新聞広告で本書を知った。“不思議で面白い”が如何にも軽薄な印象を与えたが、“元陸上自衛隊武器学校長”に惹かれ、Amazonで口コミを調べると、数は少ないが高い評価だったので求めた。読んでみて“不思議”はともかく“面白い(役に立つ)”ことに間違いなかった。
第二次世界大戦終結までの戦車を中心にした装甲兵器に関しては相当な数の書物を読んできたが、実はその戦車も含めて分からぬことが多々あった。例えば戦車砲を撃ったあとの反動を吸収する制退機のメカニズム、薬莢を排出する際砲尾を開いたときの煙の処置、随伴歩兵との連絡方法。また時として目にする最新型戦車の砲身が従来のライフルを切ったものでなくスベスベの滑空砲が主流になってきているが直進性に問題は無いのか?さらに最近は装軌(キャタピラ)装備の戦車より戦車砲を具えた装輪型装甲車が増える傾向にあるが、タイヤの強度に問題は無いのか?などなど。これらの疑問は読後すべて解消した。と言うより普段あまり目にしない兵器(例えば弾丸)のハイテック化に驚かされた。対戦車砲弾には成形炸薬弾、粘着榴弾、装弾筒付翼安定徹甲弾などがあり、いずれも材料科学・熱力学・冶金学・化学を駆使した最先端技術の塊り、攻撃目標によってこれらを使い分ける。ライフルを切っていない砲から発射された弾が直進するのは尾部の小翼があるからなのだ。
本書は現在陸上自衛隊が保有し使用している直接戦闘に関わる(主に歩兵・砲兵・機甲兵・航空兵用;工兵や補給部隊が運用するものは含まない)兵器大全(小銃弾から弾道弾迎撃ミサイルまで)である。図解が多く大いに理解の助けになる内容、辞典としての価値がある。
主体は技術解説であるが、昨今厳しい国家財政事情もあって、本来優れた国産技術力を持ちながら、グローバル市場を対象に出来る一見安価な海外製品輸入が増えていることに強い危機感を持つ著者なりの考えも反映され、むしろこの点が本書の胆ではないかとの読後感を持った。安いのは調達コストだけで長期の運用コストが軽視されている;数量や品質管理のための受け入れ検査費用(国産品ではありえないような不良品が含まれる。民間に受け入れ検査を委託している)。あるいはチョッとした改造で延命を図れる国産品のライフサイクルコストの無視。実戦になった場合の兵站コストは海外からの輸送費を含めると輸入品より国産品の方がはるかに安い。日本陸軍創設者大山巌元帥いわく「兵器の独立なくして、国家の独立なし」。至言である。
著者は防衛大学校卒業後陸上自衛隊で武器科職種の経歴が長く、最後は武器学校長(陸将補)で退役。