2020年1月31日金曜日

今月の本棚-138(2020年1月分)



<今月読んだ本>
1)あの映画に、この鉄道(川本三郎);キネマ旬報社
2)地名崩壊(今尾恵介);KADOKAWA(新書)
3)絵を見る技術(秋田麻早子);朝日出版社
4)ドリーム・マシーン(リチャード・ウィッテル);鳥彩社
5)負ける建築(隈研吾);岩波書店(文庫)
6)上野新論(五十嵐泰正);せりか書房

<愚評昧説>
1)あの映画に、この鉄道
-興味深いタイトルだが主役・脇役が不明確であぶはち取らず-

9月の硬膜下血腫(脳出血の一種)で最大の趣味であった長距離ドライブをやめることにした。まだまだ走りたい所は多々あるのだが、1月末(本日)で運転免許証返納、クルマも処分した。もう一つ長く(10年)楽しんできた東宝の「午前10時の映画祭(名画)」もこの3月で終了する。映画は中学生時代から大学卒業まで二本立て洋画を中心に小遣いがあれば観てきた。同時に二つの楽しみが消えてしまうのだから、出来るだけ早くそれらに代わるものを探さなければならない。乗り物はクルマから鉄道に変えようと思っていた矢先、映画とそれを結びつける本書を見つけた。“鴨が葱を背負ってきた”のだから食いつかないわけにはいかない。
著者は私より若干若く、多くの賞を受賞している文藝・映画評論家。 “ロードショウが150円だったころ”を読んでおり、同世代として観てきた映画も重なることが期待できた。
取り上げられた作品は北海道から九州まで272(重複あり)本、すべて邦画、それも戦後の国鉄(JR)に集中する。作品数が最も多いのは中部地方で64本、少ないのは四国の13本だが東京は1本もないし京阪神も9本と少ない(ここだけは阪急、京阪、京都市電、阪堺線と非国鉄が目立つ)。都会の鉄道は絵にならないと言うことであろう。何と言っても多いのは“寅さんシリーズ”全地方に登場するが柴又は出てこない。次いで松本清張作品が広く取り上げられている(点と線、砂の器など)。山田洋次監督は知る人ぞ知る鉄チャン、考証にかなり凝っていることが本書を通じて分かるし、清張はトリック・謎解きに鉄道をふんだんに使っている。
本書の内容は、映画の一シーンと鉄道を絡めて語るのだが、描き方は必ずしも作品と鉄道を一対一としてまとめる形式ではない。ある路線を語りながらいく本かの作品を紹介することもあれば、車両、駅舎やプラットフォームの今昔を比較して撮影の苦労話を披歴したりする(往時の駅舎に近いものを探し出し、駅名表示板などを一時的に置き換える)。時には著者自身がそこへ出かけ現場検証をした上でまとめた話もある。つまり、一話一話が異なる視点で語られることと地域で区分したため、読み切りエッセイとしては面白いのだが、切り取られた場面だけでは筋が理解できず鉄道の果たす重みも分からない中途半端な状態に置かれ、映画も鉄道も今一つ印象が薄くなる。さらに不満だったのは鉄道主役の映画が一本もないことである。これは洋画だが、パリから撤退するナチスが名画を奪いそれを特別列車でドイツに持ち帰るのを阻止する“大列車作戦”のような痛快な鉄道作品が邦画には無かったのだろうか?(“点と線”は何度か取り上げられているが話が地方々々でぶつ切りになっていて“鉄道主役”として浮かび上がってこない)。全体を路線別か映画別にまとめた方が良かったのではないか?そんな疑問も起こり“二兎を追う者は一兎をも得ず”の感が拭えなかった。
それでも日本全国を網羅しているので、これからの鉄道旅行に参考にはなりそうである(封切時以降廃線になっているものも多いが)。

2)地名崩壊
-歴史を抹殺する行政、商売最優先の鉄道会社と不動産屋。こうして地名は消えてゆく-

初めて自分の家を持ったのは横須賀市ハイランド町、確かに丘陵地帯を均して作られた造成地だからそれほど見当違いの地名ではないが、何か安っぽく気恥ずかしい名前だった。英国の友人に手紙を出す際はHighlandとせずHairandoと記した。何故ならばHighlandはスコットランド北部一地方の呼称だからである。本書によればカタカナ地名の始まりはたまプラーザ(スペイン語;広場)にあるらしい。現住所は能見台、これも電鉄会社が駅名まで変えて売り出した造成地だ。また本籍地は兵庫県たつの市だが親に教えられたのは龍野、その後竜野となりさらにひらがなのたつのに改まって現在に至る。これは当用漢字適用と平成の大合併の結果である(合併される周辺の町村に配慮)。本書によれば、最寄り駅姫新線本竜野駅の地番はたつの市龍野町であるとのこと。卒業した小学校は台東区立黒門小学校、在校当時の地番は黒門町だったが今は上野一丁目に変わっている。旧町名は因州池田家江戸藩邸の門(黒門)が上野公園内(現国立博物館の一画)に移設されたことに因む。昭和30年代から始まった全国規模の地番整理で、門と学校名は現存するが、黒門町の親分(伝七捕り物帖)や黒門町の師匠(8代目桂文楽)と代名詞になるくらい知られた地名は消えてしまった。
本書はこのようなカタカナ名(キラキラ名)の氾濫や地形あるいは歴史に基づく本来の地名が行政や商売(不動産業)の都合で名付けられたり無味乾燥なものに改変されたりしている経緯・背景を探り、「これで良いのか?」と問うものである。
だからと言って、最近はやりの軽薄な地名付けを難ずるような内容ばかりと言うわけではない。民俗学者柳田國男の「地名は二人以上の人の間に共同に使用せらるる符号である。俗物がなるほどと合点するだけ十分に自然なものでなくてはならぬ」から説き起こし、我が国地名の起源と変遷を広く深く辿る。地理・自然の特質から始まり、産物や職業におよぶそれは当に地名入門であり、数々の事例は俗人である私に「なるほど」「そうなのか」と納得させられるものばかりだ。例えは、大曲(おおまがり);秋田県大曲市(現大仙市;雄物川)、文京区大曲(神田川)、いずれも川の蛇行部に在る。赤坂は赤茶けた土の傾斜地からきており、都心ばかりでなく高崎市、越前市、福山市などで同名の地番が使われている。職業で知名度抜群なのは何と言っても銀座、その近くには木挽町(製材)、鍛冶町、具足町、紺屋町(染色)も在った。しかし今では皆銀座X丁目、京橋Y丁目として括られてしまっている。銀座など本来の地域が現在では12倍まで拡大しているのである。ただし、これは不動産屋や鉄道会社の浅ましいブランド志向命名とは異なり、大震災や戦災後の区画整理、住居表示法(昭和37年)により歴史に残る名が消えていったのである。つまり上から(行政)の改名である。
新開地・造成地命名で中心になったのは鉄道会社と不動産屋である。白金台、駿河台などは台地にある古くからの住宅地で山の手イメージが強い。高度成長期雨後の筍のように各地にXX台が出現、ほぼ同義のYYヶ丘と双璧を成す。さらに、田舎臭い“ZZ新田”などをつぶしていくのである。究極はカタカナ名、たまプラーザ(五島昇東急電鉄社長がじきじきに命名)、旧名は元石川町であるが、田園都市線沿線では旧来の小字(こあざ;明治期地番制定の最小単位)はほとんど残っていない(地名ジェノサイド;虐殺)。直近の悪例は山手線の新駅高輪ゲートウェイ、若者に「ダサい」と言われるのももっともだ。著者が“崩壊”を難じるのはこの手の地名変更である。星野リゾート社長が「福島」を改名すべきと主張しているのも地名ブランド化の一環と見ていいだろう。「福島」のままではインバウンド客が来なくなると(この人の商法にはこれに限らず、何かあざとさがつきまとう)。
明治初期に発足した地番命名法、同じ文字の読み方の地域に依る違い(谷;関東ではヤ;渋谷、四ツ谷、入谷、関西ではタニ;梅ヶ谷、大谷、六十谷(ムソタ))、震災・戦災の影響、昭和の大合併、平成の大合併(政令都市の増加を含む)による地名の変化、鉄道の駅名と地名の関係、諸外国の地名とその変遷、最近の旧名回復活動など、地名に関する雑学知識満載、“崩壊”は忌々しきことだが、歩んできた人生と地名が身近なものになった。
著者は在野の地理研究家。地図、鉄道に関する著書多数。

3)絵を見る技術
-絵画鑑賞入門(技術編);名画はどのように構成されているか-

3年前補聴器をつけ出してから音程がどうもおかしい。時間とともに悪化し楽しみだった東フィルの定期演奏会会員も2年前退会した。興味のある芸術分野で残るのは絵画鑑賞だけ、絵を見るのは好きで、現役時代は海外出張などで機会があれば名画を求めて美術館を訪れていたし、なん点か版画・油絵を中心に作品も購入して飾っている。しかし、私の絵画鑑賞はただ順路に従い観るだけ(最近はイヤフォーンガイドを利用することが多いが)、有名作品の前でしばし足を止め「ア~見た見た」、あとは好きか嫌いかで終わっていた。鑑賞と言うより体験で留まっていることにいささか負い目を感じ、少し絵画鑑賞の基礎を学びたいと本書を手にした。
本書の読後感を一言で表せば「目から鱗が落ちる」である。「一体全体今まで何を見ていたのだろう?」の反省しきり(二度と見ることの出来ない作品が多い)。遅れ馳せながら展覧会に出かける心構えから学んだ。
本書は6章構成になっている。序章で投げかけられる課題は「見た絵を言葉で説明せよ」、言葉で語ることの重要性を教えられる。第1章は絵の主役(静物や風景では主題)がどう描かれるか。第2章は人の目をとらえて放さない画家の創意工夫、第3章はバランスの重要性、第4章は色の選択や色調、第5章は構図そして第6章は全体の統一感と学んだことの総合演習。いずれもが時代や流派によって違いがあることも解説される。当に絵画鑑賞の教科書である。
例えば主役;主役は必ずしも中央に位置したり大きく描かれるわけではない。光のコントラストや人々の視線、遠近法あるいは脇役たちの身体の動きなどで作り上げられたリーディングライン(指向線)が結ぶ点(フォーカルポイント)に在る。指向線をはっきり認識できることが鑑賞者に求められるし、それが曖昧な絵は名画とは言えない。第1章ではこの指向線のとらえ方をいくつもの事例で教えてくれる。
例えば画家の創意工夫;狙いは主役にあるものの画家は全体も見てもらいたいと思って描く。一方人間の眼は角や端を見よとする傾向があるので、目線が画面全体にまんべんなく動くよう角や端には陰影などで眼が留まらぬように工夫したり、目の動きを誘うリーディングラインが隠されている。このラインは周回方式、ジグザグ方式、放射方式などあり、「絵の見方を知っている」とはこの「経路を分かること」と同義だと、アイトラッカーと言う目線を追う装置で、普通の学生と美術の専門教育を受けた人の違いを図示する。確かに普通の学生は主役に集中している。
例えばバランス;これはが取れているかどうかは名画の絶対条件としたうえで、縦・横・斜めあるいはカーブする構造線があることを先ず述べ、シーソーや天秤を例にバランスについて語る。ここでは大きさばかりでなく陰影や色も影響することが名画の事例で示され「言われてみれば確かに・・・」となる。
色の話が面白い。原料の違いから色によって絵具の値段が大きく異なっていたのだ。特に青が高かった。ウルトラマリンと言われる色の原料は貴石を砕いて粉末にしたもの。価格は金と等価だったのでむやみに使うことが出来ない。だから青は限られたところ(例えば聖母マリアの衣服の一部)にしか用いられていないのだ。その点でフェルメールの「真珠の首飾りの少女」は頭巾に青と金色に近い黄を大量に使っており当時はそれだけで極めて高貴な雰囲気を醸し出していたのである。また当時の絵具は変質しやすかったので、残された文献などに基づいて修復すると印象が修復前と大きく違ってくることもある。
タイトルにもあるようにこれは“技術”的視点からの鑑賞法である。当然描かれた時代やテーマを歴史や宗教の角度から考察するための知識が必要なことは言うまでもない。
「絵画は理屈ではない」との声も聞こえてきそうだが、著者は「好き嫌いを感じることと造形が成功しているか否かを理解することは別」と述べ、それを踏まえて「作品の客観的な特徴を理解できるようになろう」と結ぶ。私にとって、これからの絵画鑑賞が今までとは異なってくるのは確かだし楽しみだ。
著者は米国テキサス大学オースティン校美術史学科メドポタミア美術専攻修士。名画鑑賞に関する啓蒙活動(セミナー、執筆)が主務のようである。

4)ドリーム・マシーン
-画期的航空機オスプレイ(みさご)はフェニックス(不死鳥)だった。半世紀を超すその道のり-

海兵隊はスペインが起源、水兵とは別兵種で敵船に乗り移ったり、敵地・未開地に強襲をかけ橋頭堡を確保したりするのが役目だった。世界最強を謳われる米海兵隊も当初の役割はカリブ海や太平洋における米植民地獲得の先兵。これが本土防衛の任務を負わない外征専門部隊として独特の位置を占め、海軍省の管轄下に在りながらやがて独立軍種となり現在に至る。この海兵隊が広く米国民に存在意義を認められるのは何と言っても太平洋戦争における島嶼上陸作戦、硫黄島のスリバチ山に打ち立てられる星条旗は今でもその象徴である。しかし、兵器の進歩や戦争形態の変化は大規模な上陸作戦の機会を著しく減ずる方向にある。敵前上陸が無ければ陸軍と何も変わらない。幾度となくくりかえされてきた陸軍への統合案がヴェトナム戦争以降喧しくなる。これに抗すべくヴェトナム戦争の戦訓も踏まえ、海兵隊は新たな主務を、海上遥か遠くから内陸部へ一気に攻め入る敵地侵攻策に求めた。空挺では兵力が分散する。ヘリコプターでは爆音が大きく、速度も遅いため敵に感知され撃墜される確率が高い。新戦術教義(ドクトリン)に合致する新しい兵器を探る内に見えてきたのがティルトローター式航空機である。ティルト(Tilt)とは「傾斜、傾ける」の意。ローター(Rotor)は回転翼。つまり、ヘリコプターのように垂直に離着陸でき、そのローターを90度傾けるとプロペラ機に変じる画期的な航空機。そんなものは実現するはずはない!ドリーム・マシーンだ!しかし長い時間と幾多の苦難を乗り越えて、その夢がかなったのである。オスプレイとして。本書は、前史としてオートジャイロやヘリコプターの誕生から説き起こし、初期のティルトローター実験機を経てオスプレイが制式採用されるまでの長い長~い物語である(70年、7百頁超)。
本書の訳者は陸上自衛隊補給統制本部でオスプレイ導入に関係した人(整備関係、最近退役)。米国におけるオスプレイ・プロジェクトの中核であったNAVAIR(米海軍システム・コマンド)と密に関わり“必読の書”と言われて本書を訳出した。我が国ではメディアを中心にオスプレイのネガティヴな面ばかりが強調されているが、2000年代の米国におけるオスプレイ開発トラブルをなぞっているだけだ。確かに、技術的に難しい挑戦で、30名の犠牲者を出しているが、安全問題は原書出版(2010年)前に解決し、既に制式採用・量産され実戦にも投入されている画期的な兵器、問題にするならば別の角度から行うべきだ。海兵隊と陸自は同じ作戦を行うことがあるのか(水陸機動団の任務は似ているが領土内なら長大な航続距離(巡航で4400km)は不要なのではないか)?それに11億ドル(100億円、最新のジェット戦闘機とほぼ等価)を投ずる必要があるのか?と言うような視点からである。試作段階はともかく、制式採用後の事故率はヘリコプターを含め最新の軍用機と大差はないのである。
ティルトローター機開発の嚆矢は1951NACA(のちのNASA)と空軍の仕様に従ってベル航空機会社(以下ベル)が製作した実験機XV-3である。これは2機製作され、1機は大破したものの1960年代まで実験が続けられる。しばらく中断の後1973NASAと陸軍は2座のXV-15 開発をベルに発注、これは1980年進空、1981年のパリ航空ショウでデモフライトを行い注目され、海兵隊が新ドクトリンに相応しいと関心を示す。強力な後ろ盾はレーマン海軍長官(38歳、予備士官として艦上攻撃機A6イントルーダの航法・爆撃手の経験あり)。(4軍)統合次期先進垂直離着陸機JVX開発がスタートする。要求仕様は、巡航速度250ノット(460kmh)、最高速度300ノット(560kmh)、輸送量は完全武装の兵士24名、無給油での航続距離2400マイル(4400km)、4軍の異なる10種の任務に対応できること、寸法の制約は強襲揚陸艦のエレヴェータに乗ること。全体計画は陸軍主管だがプロジェクト推進の中核は海軍のNAVAIRが担う。調達予定数:陸軍288機、海軍50機、空軍200機、海兵隊552機。見積りは400億ドルに達するビッグプロジェクトだ。1983年基本設計の応札が行われボーイング・バートルとベルのジョイントヴェンチャー(JV)が選ばれ、1985年設計をパスした機は試作番号XV-22 を与えられ、レーマン長官がオスプレイ(みさご)と命名する。
本書の読みどころは、1985年の試作機開発開始から2005年制式採用(実験の意であるXが取れてV-22 となる)量産、2006年の運用部隊創設までの20年間、政治と軍産複合体それにメディアが絡む魑魅魍魎の世界である。JVからくる設計製造上の齟齬、党派を超えた推進派と反対派の戦い(もともとレーガン政権下でゴーサインがでるのだが、ブッシュ父政権下でチェイニー国防長官が反対、民主党のクリントン政権が誕生すると推進派が再起)、軍部の主導権争い(主管部門の陸軍は途中で下りる)、政権・軍部の国防政策の違い(特に財政と予算の分捕り合い)、各評価段階における担当者・部門の見解、それに影響する試作・試験段階の事故(特に大きい三つの事故を詳細に解説する)。驚くのは海兵隊の政治力である。実戦以上にタフなのだ。何度も存亡の危機を乗り越えてきただけのことがある。オスプレイ(みさご)よりはフェニックス(不死鳥)が相応しい。
著者はダラス・モーニングスター紙のベテラン軍事関連記者。本書の執筆に4年を要し、インタヴューした人の数は200人以上、文献目録は7頁におよび綿密な取材活動がうかがえる。そこから書かれた内容は、オスプレイを技術や用法だけでなく全方位的に理解するのにこれに勝る著書は無いのではないかと思わせる充実したものであった。またアイゼンハワー大統領が退任時に警告した軍産複合体の暗部を具体的に知る点においても適材である。

5)負ける建築
-成熟社会における建築家は如何にあるべきか?自問自答する時代の寵児-

工学部でも建築学科だけは“工学”が付かない。彼らはそれを誇りにすらしている。伝聞によれば「我々は技術者ではなく芸術家なのだ(そこには一段と技術者を見下す芸術至上主義が感じられる)」と。友人・知人に建築学科の卒業生は何人も居るのだが皆構造専攻でデザインを生業としている者は皆無だ。それ故に建築デザインの何たるか、見所は何処かを深く知る機会はなかった。病により自動車運転の楽しみを断たれ、聴力低下で音楽鑑賞をあきらめた身として、絵画や建築に興味を向けてみようと本書を手に取った。新国立競技場を完成させ今や我が国建築家の頂点に立った著者だからであり、一度だけこの人の設計になる温泉旅館に宿泊する機会があったからである。
タイトルの“負ける”が気になる。あとがきによれば勝ち負けの負けではなく「えばっていない建築」の意であり、“えばった建築家”“ふんぞり返った建築家”を批判する意図で採用したと書かれている。内容はまさにその通りで、丹下健三や磯崎新を始め、はてはル・コルビュジェまで著名建築家の数々を俎上に上げて自己の建築哲学を披歴するとともに、戦後我が国建築史の面も兼ね備え、さらにこれがマクロ経済政策と密接に関連付けられ、ただの芸術論に終わらなかったところはさすがだ。
内容の骨子は世代論である。第一世代(戦後の復興期)、代表的な建築家は;丹下健三、前川國男、村野藤吾、第二世代(高度成長期、黄金時代);槇文彦、磯崎新、黒川紀章、第三世代(バブル崩壊まで);安藤忠雄、伊東豊雄、そして第四世代がバブル崩壊後の著者らの世代となる。
建築家の主流はモニュメントあるいはランドマークとなる大型建造物など、大半は公的施設の設計者である。バブル崩壊前までは巨額の公共投資が行われ経済成長の要に土建業があった。ある意味建築が日本経済を牽引していたとも言える。そこでは政治とこの業界に受け入れられる者がチャンスをつかむ。建設された記念碑的な建造物は国際的にも注目を浴び、我が国建築家の評価も高まり、海外でのビジネスチャンスも増える。一方で、ここには利用者や周辺環境(自然、住民を含む)への配慮を欠く傾向が強く見られる、と第一、第二世代の代表的な建築家の活動を具体的に追いながら、彼等の姿勢や思想に批判を加える。ここでは、欧米の建築変遷史との関係も取り上げられ、彼等に影響を与えたル・コルビュジェやフランク・ロイド・ライト等の作品や言動が援用される。要するに海外の著名な建築家は何度も壁にぶつかり、軌道修正を重ねながら名声を確立して行ったが、我が国の第一・第二世代は時代に恵まれ、苦労を知らない(社会における建築のあるべき姿を自身でとことん考え抜いていない)と。
第三世代は第一・第二世代への反逆者、在野でユニークな建築に挑むが、まだバブルの余韻が残り、世間や業界に評価される建物を作り、名を成すことが出来た。そして主流になると前世代と同じような軌跡をたどるようになる。しかし、バブル崩壊後やっと一人前になった第4世代には、その機会は著しく減じられている。もうケインズ経済論はそぐわない。建築が経済の中心となる時代は来ない。ではとどうすればいいのか?民間の建造物、個人住宅、あるいは既存建造物のリノヴェ-ションに、利用者や周辺住民の考え方・要求、自然や街の環境との整合性を積極的に配慮した建築・建築家を目指すべきではないか。今の自分の仕事の大半はその種のものだし、それはとてもやりがいのある仕事だ、と結ぶ。
一見真っ当な結論だし、私も一応納得した。本書の単行本発刊は2004年、文庫本は昨年だが、中身は15年以上前のこと。今や東大建築学科教授で何かと問題になり再公募された新国立競技場の設計者、かつての丹下健三と同じ立場にある。果たしてこれから本書の結言のように生きられるかどうか、興味津々である。
蛇足:私の泊った旅館は山形銀山温泉の藤屋旅館。銀山川の両岸に古い日本家屋の旅館が軒を連ねる。川の一番奥には能登屋と言う木造4階建ての旅館があり、朝ドラマの“おしん”にも登場している。藤屋も著者の設計になる3階建てのモダンな建屋に変わるまでは、多と同じような建物だった。「街の調和を乱す」と反対運動もあったようだが、何とか新築が叶った。私見では、一軒だけ違和感はあるものの、まずまず調和させる努力は認められた。しかし、後で知るのだが私が泊った時(2010年)既にここは経営破綻し、オーナーは変わっていた。外だけでも他と同じようにしていれば倒産は免れたかもしれない。

6)上野新論
-今やエスニックタウンに転じたアメ横、ここから新しい繁華街の在り方が見えてくる-

「お国(あるいはご出身地)はどちらですか?」と問われるとしばし返答に窮する。出生地は満洲、本籍は兵庫県たつの市、就学時長く住んでいたのは千葉県松戸市だが学校は小学校から大学まで東京都心部。入社時新入社員紹介の社内報に本籍の兵庫県が記載されると県人会からお誘いが来たが、住んだことがないので丁重にお断りした。ふるさとに近い感覚は小学校から高校まで通った上野・御徒町界隈である。
本書は1974年生まれの都市社会学/地域社会学の研究者(筑波大学大学院人文科学科准教授)が2001年から行ってきたその地域に関するフィールドワーク研究を一般向けに書き改めたものである。新聞書評の片隅に本書を見つけ、知られざる郷土史を学ぶような思いで本書を手に取った。
凡その研究対象エリアは、北は東京国立博物館の前の通り、南は上野広小路から東大方面へ向かう春日通り、西は動物園から公園内西端を広小路方面に向かうライン、東は昭和通り、に囲まれた南北に長い変形逆台形の一帯である。この中に、寛永寺、国立博物館、科学博物館、都立美術館、国立西洋美術館、文化会館、動物園、西郷像、鈴本演芸場、広小路、アメ横が収まっている。基本的に江戸時代の寛永寺門前町である。門前に至る道路は今の中央通り。
何故ここを研究対象に選んだのか?理由は二つ。第一は、江戸時代からの繁華街として長い歴史があり、現在も“下町(したまち)”として浅草と並んで最も知られていること。第二は、商店街としては極めてユニークな“アメ横”が存在することである(このユニークさを浮き立たせるのが研究の胆)。下町とは何か?アメ横の誕生と変遷はいかに?そして旧来からの老舗とアメ横の関係は?さらに、山の上の文化・文教(枠内からは外れるが国立博物館に隣接して東京芸大が在る)地域と山下の猥雑な商業地区との関係は?研究実務面でのゴールは、山の上に集まる人々を繁華街に取り込むための策を探ることである(本書の段階でそれが明確化に示されているわけではない)。
山の施設群への入場者数は記録が公開される所だけで2016年度1200万人(ワシントンDCのモールは2700万人)、非公開の文化会館や上野の森美術館もあるのでこの数をはるかに上回る人々が上野を訪れているのだ。また花見シーズンにはこれとは別に1週間で200万人程度が公園にやってくる。しかし、商業地区まで足を延ばす人はそれほど多くない。この理由はいくつかある。先ず、文化地区と商業地区を訪れる人の“人種”が違うこと。上野駅の果たす役割の変化;かつては東北・上信越・北陸方面の玄関口であったが、新幹線の始発・終着駅が東京駅に変わり、さらに東京上野ラインの開通でここがターミナル駅としての機能を失ったこと。都を始めとする上からの“下町”売り込み策が必ずしも地元商店街の現状や考えと一致していないこと。更に特色のある古くからの店が風俗業や量販店などに依って駆逐され、オーナーが不動産管理業(貸店舗業)などに転じていること、などが挙げられる。結果として商業地区の下町としての魅力が減じているのだ。その点で浅草は依然として歴史のある店舗が頑張っており、外からの人が期待する“下町”らしさを留めている。また対象エリア外北西に位置する谷中・根津・千駄木は戦災をまぬがれ、本来繁華街ではなかったにもかかわらず、古い街並みを残しているので今や人気の観光スポットになっている。この点でも“下町”として周辺に負けているのだ。
しかし、この劣勢を大逆転する可能性を秘めているのがアメ横ではないか、と言うのが著者の仮説である。キーは“多様化(Diversification)”。小学校時代からアメ横は馴染みの場所だが、本書で終戦直前から今日に至る変遷をきちんと整理、あらためてこの地の特殊性を教えられた。
戦前ここは零細な商店や民家が占めていたが、ガード下に国鉄の変電施設が在ったため、空襲に依る火災でその施設に害がおよばぬよう強制立ち退きさせられ更地になっていた。ここに戦災で家を失った人や行先の無い復員軍人たちがバラックを建て商売を始めた。いわゆるヤミ市である。そこには当時第三国人と呼ばれていた旧植民地出身者(朝鮮・台湾・中国)も含まれていた。甘味料が不足していた時代、よく売れたのが芋飴、やがて菓子問屋の街に変じていく。“アメ横”は芋アメが起源である。その後朝鮮戦争で米軍の放出品を扱う店が増え、飴がアメリカに変わるが発音が同じなのでアメ横はそのまま残る。アメ横商法の特色は売り手と客のコミュニケーション、値段はあってもこの掛け合いが他との差別化の一つだ。商う人はよそ者・外国人、扱う商品は儲けになる物にどんどん変わる。年末の鮮魚など有名だが短い期間だけ靴屋が魚屋に変わったりする。外国人の国籍も旧植民地から東南アジア、中東(一時期イラン人が多かった)、そして今はアフリカ出身者も進出。ガードの東側昭和通りとの間ではケバブの露店なども出現。御徒町駅周辺の宝石店はインド人が経営しているところもある。つまりアメ横近辺はエスニックタウンに変じ、来日観光客に独特の雰囲気を持つ商業地区として人気が高まっている。
加えて、国立博物館がミシュラン三ツ星(必見の場所)と格付けされ、その周辺に多々見所があることがガイドブックに紹介され、そこを目指すインバウンド客も増加の傾向にある。さらに、京成上野駅は公園と商業地区の接点、中央通りの中心部に在る。成田空港と結ぶのに便利なこともあって、海外との玄関口の役割を果たす。日本人訪問者は文化地区と商業地区二種に分かれていても、外国人は双方に関心があり回遊性が高い。
作られた下町像(池波正太郎のエッセイ、沢村貞子の「お貞ちゃん」)よりも、変化に逞しく対応し今やエスニックタウンと化したアメ横とその周辺が、老舗が残る中央通り、お上りさん相手の飲食店や洋品店が多かった中通り(アメ横と中央通りの中間)、仲町通り(公園下から湯島方面に向かう道、かつての花街)を巻き込み公園の文化・文教地区と一体となり新しい上野が生まれつつあるのではないか、これが著者の“新論”である。ここを“心のふるさと”としてきた者として、是非そうなってほしいものである。

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