2020年6月30日火曜日

今月の本棚-143(2020年6月分)



<今月読んだ本>
1)地政学の思考法(ペドロ・バーニョス);講談社
2)旅のつばくろ(沢木耕太郎);新潮社
3)書評の仕事(印南敦史);ワニブックス(新書)
4)漱石と鉄道(牧村健一郎);朝日新聞出版
5)美術展の不都合な真実(古賀太);新潮社(新書)
6)ブルックリン・フォリーズ(ポール・オースター);新潮社(文庫)
7)気象と戦術(木元寛明);SBクリエイティブ(新書)

<愚評昧説>
1)地政学の思考法
-大国は大きさゆえに利権拡大に追い込まれる。小国はこれをいかにかわすか?16の戦略で生き残り策を示す-

最近“地政学”をタイトルに含む出版物をしばしば目にする。いわく“エネルギーの地政学”“テクノロジーの地政学”“AIによる地政学”のように。そして本欄でも4月に“宇宙の地政学”を紹介した。私がこの言葉を知ったのは1970年代末期、正統な地政学入門書を通じてである。地政学の祖とも言われる英政治家のハルフォード・マッキンダー、ヒトラーに影響を与えたと言われる独軍人(第一次世界大戦時)のカール・ハウスホーファーあるいは日本海海戦作戦参謀の秋山真之も会っている米海軍戦略家アルフレッド・マハンなどが唱える、世界規模の地理学と深く関わる軍事・外交覇権論としての地政学である。大陸国家対海洋国家、ハートランド(中核地域)とリムランド(周辺地域)などがキーワードとして記憶に残る。その観点から“宇宙の地政学”はこれら地政学理論の延長線上に在る内容だったが、資源や技術となるとその多様性や発展段階からして、せいぜい主導権や先陣争いの範疇、スケールや支配力に違和感がある。そんな時欧州合同軍で防諜部門の長(大佐)であった著者の著した本書を知り、「これは本来の地政学を論じているのではないか?」と読んでみることになった。一番注目した点は著者がスペイン人であり、かつて世界に覇を唱えながら英国ついで米国にその座を奪われた歴史観が反映されていると紹介にあったからだ。
確かに本格的な地政学である。それだけに論じられるのは現在もその力を維持する歴史的な世界帝国が中心であり、いくら経済力があっても、残念ながら今の日本は本論の対象外(広義の経済力が地政拡大に深く関係することを縷々述べながら)。先ず必須条件は核兵器保有にあるとして潜在的覇権国と見做さない。また核兵器を持つからと言って孤立した小国、北朝鮮やイスラエル、南アなどにはほとんど触れない。インドはその人口と地理的位置、パキスタンはイスラム教との関係で無視できない国家となっている。かつての大帝国英国、フランスもその点では今や昔日の勢いは欠くものの、旧植民地への影響力は残しているし、EUと言うまとまりに留意すべきとの見解だ。ただし自国スペインについては過去を振り返るばかりで、将来を語ることはない。つまり著者は現代地政学上覇権を争う国家・地域・集団として、米国・中国・ロシア・EU・イスラムに注目する。だがこれだけでは汗牛充棟する地政学物の一冊に過ぎない。読んで感じ入ったのは、人間、社会、国家、民族の本質をズバリと言い切り、それを歴史的に展望し、弱者・小国の生き残り策を種々の角度から論じる点である。ここに“思考法”と名付けたタイトルが生きてくるし、日本の将来について考えさせられることが多々見出せる。
本質をズバリの例;先に挙げた「核兵器を持たぬ国は所詮大国ではない」、「国家は大きく育ちたい生き物」「地政学の大原則は『偽善』」「自分の力だけを信じろ」「同盟は損得勘定だけで決まる」「隣人だから信用するな」など決して心地の良くないこの種の独断が随所に用いられるが、歴史も現実もその通りなので、問題点をはっきりとらえることが出来る。
“思考法”は、大国支配力拡大の背景と経緯を歴史(ペロポネソス戦争<アテネ対スパルタ>・ポエニ戦争<ローマ対カルタゴ>からアフガン・イラク戦争まで)をたどり解説した後、大国の侵略動機と進め方、それに対する弱小国の抑止・回避策あるいは逆転策を16の戦略として整理分類するところにある。
現代の地政学上の問題は米中を中心に語られるが、特に中国の動きに著者は警戒感を募らせる。14の国と国境を接し、日本を含む4カ国と経済水域を分ける、世界一“隣人”の多い国。加えて14億人の国民を抱えることで自身緊張の続く国家運営。経済利権拡大に余念がない国には紛争の種が尽きないのだ。ここで著者は本欄-14020203月)で紹介した喬良・王湘穂著「超限戦」を援用し、あらゆる手段(違法・不法を含む)を駆使して覇権獲得を目指す姿を繰り返し示して中国の覇権主義に警鐘を鳴らす。無論本書に記されていることではないが、直近の香港統治強行策やコロナ禍とWHOの関係など、著者の警告は現実のものとなっている。
日本に関しては中国との関係以外、北朝鮮をめぐる情勢に関し、日米関係あるいは統一朝鮮半島国家出現の可能性が語られるが、ロシアを含め周辺国との問題が多いだけに、法整備を含めた強固で多角的な同盟関係構築をせねばと本書を読みながら痛感した。
本書は古今東西の覇権争いが援用され、言わば“地政学大全”と言った内容だが、書下ろしではなく、著者の多数の著作や講演録を編纂したものであり、重複や歴史・事例の切り取りが気になる。また、スペイン帝国盛衰に関しては当然ながら英国や米国の狡猾さや強引さが強調され明らかにバイアスがかかっている。しかし、全体的に事例中心の分かり易い書き方であり地政学入門書としてばかりでなく、読み方によって中小・中堅企業の生き残り策参考資料としても役に立つ。

2)旅のつばくろ
-老境に入った半世紀前のバックパッカー教祖が綴る心が落ち着く国内旅行-

ノンフィクション作家として「テロルの決算」(社会党浅沼書記長刺殺事件)や「一瞬の夏」(ボクサー、カシアス内藤)で大宅壮一賞や新田次郎賞を受賞しており、名前は以前から知っていたのだが、私が著者の作品を手にしたのは1986年発刊の「深夜特急」が初めてである。第2巻までは同時に出たのだが第3巻は1992年、まさに一日千秋の思いでそれを待つほど興味深い内容だった(現在は文庫本化され全6巻。2008年「最終便」と銘打って取材ノートも出版されている)。香港から路線バスを利用してポルトガル最西端に至り、そこからゴールのロンドンに達する1年余の貧乏旅行。実施した時期は1970年代半ば、著者が278歳の時のことである。この本はバックパッカーのバイブルとなり、韓国版や台湾版も出るほど東アジアの若者に人気を博し、著者の代表作となった(文庫本化されたものだけで5百万部!)。作品が高い評価を受けているのは、土地々々の人間と社会表現に優れていることにあるのだろう。特に上から目線を全く感じさせないのが良い。これはある意味貧乏旅行の特典かも知れない(人柄にもよるのだろうが、嫌味・卑しさもまるで感じない)。そんな好みの作家が初めて国内旅行をテーマにした本書を出版、コロナ自粛で巣籠りの憂さを晴らすには持って来いのタイミング、早速紙上旅行に出かけた。
41話から成る旅行エッセイ集、あとがきを含めた頁数は213、一話がきっちり5頁に収められ、訪ねる土地は東日本(都心を含む)に限られる。この本の基となるのがJR東日本の広報誌「トランヴェール」に連載されたものだからだ。ただし、これを書くためにわざわざ旅をしたわけではなく、取材や講演で訪れた土地に関する思い出話が多い。だから書き出しは旅に関係のないこところから始まり、題名によっては「これからどこへ出かけるのだろう?」とミステリアスな気分を味わうものもある。風景や乗り物それに食・酒も適度に描かれるが、主題は人、それに文学である。そして人を見る眼は「深夜特急」と変わらず、鋭いが温かい。
例えば津軽の旅。これはタイトルを変えて何回か続くのだが、高校1年の春休み、初めての東北周遊一人旅の想い出から始まる。この地とかかわりの深い、太宰治、寺山修二、高倉健(映画「海峡」に関してインタヴューしている。「龍飛岬はどんな所ですか?」の問いに、口数の少ない高倉が「風は強いところだったけど・・・」と答えただけであとが続かない。今回の旅で著者もその強風に見舞われる)、フォークソングシンガーの三上寛(小泊出身。著者が駆け出しのルポライター時代、新宿のバーで働いていた三上と親しくなっている。三厩(みんまや)から太宰の生家がある金木に向かうタクシーの運転手は三上の小学校の後輩で実家も近い。地元での三上の評判で話が盛り上がる)を話題にしつつ、高校時代の旅との違いなどを語っていく。鉄道の三厩から龍飛岬までは町営バス、同乗者は運転手の他に地元の老人が一人、高校生時代の旅では皆目理解できなかった津軽弁だが、今回は完全に運転手と老人のやり取りが分かり、方言が消え失せ標準語普及に驚く。何となくがっかりしながら「いやいやこれで良いのだ」と。
この津軽の話に限らず、本書を読んでいるうちに私も高校時代に戻された。それは、当時惹かれた小説、O・ヘンリー短編集を思い出したことである。「最後の一葉」に代表されるような“哀歓”が強く伝わる筆致ではないのだが、短い文章の中で心を揺さぶる絶妙なストーリーが展開され、そこに両者の共通性を感じたのである。つまり、本書はエッセイとしてばかりでなく、短編小説としても楽しめる作品だったのだ。これからの旅の中心と据えている鉄道旅行案内書としても役立ちそうだ。
「トランヴェール」の連載はまだ続いている。「深夜特急」とは違い目的地のある旅ではないのだから、続編が出版されることを願っている。出来れば東日本に限らず全国をと。

蛇足;著者は横浜国大経済学部出身、卒論指導は長洲一二教授、著者が卒論テーマとして「カミユを取り上げたい」と願ったところそれを許す。教授の推薦もあって富士銀行(現みずほ銀行)に就職するが入社式翌日退職、「物書きになりたい」と報告すると、これも許し編集者まで紹介してくれる。本書の中の旅の一つに鎌倉霊園に眠る恩師の墓に参るシーンがあり、著者の師に対す敬愛が率直に伝わってくる。
長洲教授はのちに神奈川県知事を務め、広域防災訓練で私の勤務していた川崎工場に来場、訓練後講評を受けた。尊大さを感じさせないその話し方が印象に残る。長洲の前半生(知事就任前;旧制商業学校(現商業高校)→日銀→横浜高商(現国大経済学部)→東京商科大学(現一橋大学)→三菱重工→短期海軍現役士官→連合軍総司令部翻訳部→横浜国大教官→経済学部長、この間戦後一時期共産党員)を知ると、「深夜特急」の異次元体験をものにした著者が重なり、読後「この師にしてこの弟子あり」の感を強くした。

3)書評の仕事
Web向け新書評スタイル、存在の耐えがたき軽さ-

本欄<今月の本棚>は本格的な書評を目指すものではなく、“この本と私”とでも名付けた方が適当な、読書エッセイ(あるいは読書自分史)のつもりで書いている。それ故に、評者としての視点より、何故この本を読むことになったか?題材や著者に関する知識・関わりは如何様か?何を得たか?に重点を置いている。また読み手の立場では、どんな中身(読んだ気になる)か?が大事なので、この部分は必ず書くようにしている。しかし、この要約もあくまでも自分の関心事が中心の “リーダース・ダイジェスト”である。そんな本欄だが閲覧者諸氏の中には“書評”と受け止めている方もあり、私自身それは意識している。そこで“書評”に釣られて読むことになったのが、フェイスブック友達の投稿で知った本書である。
著者の存在を今まで知らなかったので経歴をネットで調べると、1962年生れ、イラストレータ、DJ、音楽誌編集者などを経て、現在売れっ子の“書評家”であることが分かった。新聞や雑誌の書評担当者は本業を持ち、その専門分野を基に評するのが一般的であるから、これを生業とするのはかなりユニークな存在だ。月間40冊(年間500冊)程度の書評をWebや雑誌に寄稿と記されているから、確かに本業と言える。一般の書評者とは別世界の住民であることが、この数から明らかだ。
内容は、書評家としての日常生活から始まり、本の入手法・選別法、読み方・書き方、書評に関する著者の考え方、掲載メディアに依るそれらの違い、などタイトル通り著者を取り巻く“書評の仕事”の全容を紹介する。
一言で評すると“軽い”。この“軽さ”は読書・書評に対する私と著者の考え方の違いからきている。著者の目指す書評は「読者が読んでみようかな~」と思えるように本を“紹介”するところにある。従って「批判的なことは書かない」し、従来型の書評は「書き手の主観が反映され過ぎている」と批判。「個を出すのは書評ではなくエッセイ」と決めつける。また自ら“楽しむための読書”は書評対象ではないとしている。私も「面白そうだな~」を伝えたい意思はある。しかし、本の選択は先ず自分が読んでみたいと思うところにあるし、内容紹介も購入動機と深く関わるので主観的なものになる。私好みの書評は丸谷才一のそれで、先ず主題や著者に関する評者の蘊蓄を傾け、次いで読んだ気にする内容紹介、最後に寸鉄人を刺す評で締めくくる。まさに“従来型書評”の典型である。著者は自ら目指す書評を“情報系”書評、従来型を“オピニオン系”と呼んでいる。賛否はともかく著者の立ち位置は明快だ。
本の読み方もこの書評観(情報系)に基づく。最初から最後まで丁寧に読んだりしない。対象とする読者層が興味を持ちそうな部分を、目次やまとめから見つけ出し、それらをクローズアップして評(と言うより紹介)として仕上げる。確かに一日12冊読んで月20本を超す評を寄稿するにはこんな蚕食型読書法になるのだろう。
書評の書き方は、導入・ファクト(事実の紹介)・まとめ、の三段階で構成する。これは形として丸谷方式と同じだが、ファクトに重点を置く点、まとめに批評が無いことで、従来型(オピニオン系)とは異次元の書評になる。寄稿する書評欄の性格と対象読者を考慮し「面白そうだ」「役に立ちそうだ」と買い気を誘う(帯に、「(取り上げると)“Amazonの売れ筋ランキング急上昇”」とある)。提灯記事ではないが、書評家よりは“書籍販促屋”としての手練手管が見てとれる。キャッチコピーの“秘密も技術も大公開”はその通りだが、仕事には経費も要するし報酬もある。書評ビジネスの経済性について「大方の本は見本・寄贈本」「原稿料は安い」以外に何も触れられていないのは画竜点睛を欠く。
試みにWebアクセス可能な著者の書評をチェックしてみた。“ライフハッカー”と言う米国発の生活・仕事情報サイト(日本語版)の書評欄にほとんど毎日寄稿している(23日までで21)。取り上げられる本はいずれも生活術・仕事術のハウツー物(623日「「いい人」のやめ方」、622日「コロナ危機を生き抜くための心のワクチン」)。簡単な導入の後に、着目点の部分をそのままコピーし、それをフォローする解説を加え、最後にお薦めの言葉で終わる。タイトルだけで私には全く読む気の起こらぬ本ばかり。他にニューズウィーク日本版、週間東洋経済などの記事もアクセスしてみたが、そのスタイル(部分コピーとその解説、お薦め)と“軽さ”は時事トピックスやビジネス分野でも同じだった。
Web時代に受ける新書評を知る点で読んだ意義はあったが、「これを書評と言っていいのだろうか?」が読後感、「是非お読みください」とはならなかった。

4)漱石と鉄道
-名作の数々に登場する鉄道、そこには持病の胃潰瘍と急速な近代化への苦痛が反映している-

運転免許証返納から5カ月、さほど日常生活に不自由は感じていない。運転そのものが趣味だったことから、後悔するのではないかと案じていたが、最近視力の低下を自覚させられることも多く、「あれで良かったのだ」と安堵感さえときに持つ。乗り物好き・旅行好きとして、「ジパング倶楽部の会員になり、これからは拠点逗留型の鉄道旅を」と期していたが、コロナ騒動で当面それも叶わない。そんな閉塞感を解消しようと、明治・大正の鉄道旅に漱石とともにBack to the Futureすべく本書を紐解いた。
著者は1951年生れ、元朝日新聞記者で校閲部や学芸部など地味な部門を歩いてきた人。子供の頃から鉄道に興味を持っていたが、いわゆるオタク的鉄チャンではない。一方漱石については他にも著作があり、タイトルの重みは圧倒的に“漱石”にある。漱石自身の対人関係・言動・作品から彼の鉄道との関わりを追うのが本書の内容、見えてきたのはその複雑な思いである。
構成は終章を除き、路線あるいは地域に基づく。第一章は東海道本線、第二章はこれと接続する横須賀線・御殿場線(当時の東海道本線の一部)、地域では東京市の市電や地方の軽便鉄道、外国では英国留学中のロンドンの地下鉄や作中人物が利用することになるシベリア鉄道、東京大学予備門(のちの旧制第一高等学校)同級生中村是公(よしこと;漱石は“ぜこう”と呼ぶ。当時満鉄総裁)に招かれての満州旅行もカバーされている。最終章は“胃潰瘍と汽車の旅”、漱石の持病であった胃潰瘍と鉄道の関わりをあれこれたどり、鉄道観との関連を推理する。
切り口は多様だ。先ず漱石自身の旅、これは鉄道以外も含む。作中人物の旅あるいは鉄道との関係。正岡子規、是公、虚子や寺田寅彦、小宮豊隆のような友人・弟子たちにまつわる話。伊藤博文をはじめとする同時代の著名人と漱石の鉄道を通じての接点。鉄道を始めとする近代化(科学技術)に対する漱石の考え方。これに「汽笛一声」から始まる鉄道発展史、さらに政治史・戦史が絡む。
例えは作中人物;東海道本線。「三四郎」は一高入学が決まり初めて九州を出て東京に向かう。当時の出発最寄り駅は何処か?福岡県筑豊地方の犀川駅(現東犀川三四郎駅)。何故そこが選ばれたか?小宮豊隆の出身地だから。何時の汽車に乗り、何処で乗り換えたか?その時代の時刻表(明治35年復刻版)から推理する。京都で同席し名古屋で同宿することになる女とどこに泊まったか?場末の商人宿、これを著者は当時の地図を頼りに現地調査する。翌朝名古屋駅で別れ際に、女が三四郎に向かって「あなたはよっぽど度胸のない方ですね」と言うのをしっかり引用する。ただの鉄チャン物でない面白さの一端だ。
「坊っちゃん」では作品中の鉄道話はほとんどなく、この小説の基となる漱石の松山までの移動ルートの解明に注力する。漱石の旧制松山中学赴任は1895年(明治28年)、「坊っちゃん」出版は1906年、11年の差があるが、時代背景は赴任時に違いない。1984年に集英社から出た「漱石研究年表」に依れば、新橋→東海道本線→山陽鉄道→広島→宇品港→三津浜港→軽便鉄道→松山としているが、著者は神戸港から山陽航路で三津浜港へ向かったとする。その根拠は「坊っちゃん」の三津浜港上陸シーンにはしけに乗り移る場面があるからだ。宇品からそのような大型船は運用されていなかったのである。当時の「汽車汽舩旅行案内」で出着港時刻と小説に描写されている“海面の輝き”で裏をとってのこと。著者の漱石とその作品への思い入れが伝わってくる。
伊藤博文との関わりでは「門」にハルビンでの遭難の一コマが記されている。「伊藤さん見たような人はハルビンに行って殺される方がいいんだよ」「あら、何故」「何故って伊藤さんは殺されたから歴史的に偉い人になれたのさ。ただ死んで御覧、こうは行かないよ」とあまり好意的でない。これで終われば鉄道とは無関係。しかし、事件前の19091014日博文は大磯に急行列車を臨時停車させ下関経由でハルビンに向かい、漱石は満州旅行から14日釜山を経由して下関に上陸、帰京の途についている。両者はどこかで行き交っているはずだ。著者は清張ばりにその地点を追い、15日午前7時前大阪と神戸の中間点と特定する。読み始めた時思った以上に著者は鉄チャンだった。
本書を総括すると、漱石は頻繁に鉄度を利用し、それが作品群に反映されているものの、何処にも楽しんでいる場面が現れない(著者は「景観描写がほとんどない」と指摘)。第一の要因は胃潰瘍にあり、この苦しみが鉄道で増幅する。満洲旅行ではそのために行程が狂うし、“修善寺大患”として漱石伝に残る大病も、同行者が遅れたために乗換駅の御殿場で長時間待つたことが原因だと言われている。第二は産業革命・機械文明に対する両義性を、英国留学などを通じて早くから気づいていたことである。前者は個人的な問題だが、後者は現代にも通用する文明批判、今漱石を読む価値はここにあるのではないか?

5)美術展の不都合な真実
-人気沸騰の美術展。メディア事業部門が手を引いたらどうなるか?企画担当者が内幕を暴く-

小・中・高と上野で過ごしたので上野公園に在る美術館・博物館は身近な存在だ。とは言っても駅公園口に接した西洋美術館と文化会館の完成はいずれも高校卒業後だし、国立博物館は厳めしいばかりで興味のある場所ではなく、科学博物館や旧都美術館(現在のものは1975年竣工の新館)とは親しさの度合いが違う。科学博物館は子供心に楽しい所だったし、あの前に在る野口英世像の除幕式(1951年春)には幕引きの一人として参加した。また、都美術館は夏休み明けの小学生作品展に手作りの鉄道模型が学校代表として選ばれ展示された。いずれも忘れ難い想い出だ。しかし、この二つには大きな違いがある。美術館と博物館の違いではなく(英語ではどちらもMuseum)、自館所蔵展示物の有無である。都美術館にはそれがなく、ただの貸しホールである。大英博物館、メトロポリタン美術館、ルーヴル美術館、台北故宮博物館など諸外国の代表的な美術館・博物館は世界的にもよく知られた展示物を多数所蔵し常時それを鑑賞することが出来る。一応これらと比肩しうるのは国立博物館だが、所有する美術品は知名度が今一つで集客力を欠く。我が国美術館・美術展の“不都合な真実”は、国を代表する大規模な美術館に自館所蔵の人気作品が存在しないことにある。何故そうなったか?そこからどんな問題を生じているか?それが本書の内容であり、出版の意図である。
著者は1961年生れ、九州大学文学部仏文科で学んだ後、国際文化交流基金、朝日新聞社で美術に関わる仕事を担当(事業企画部門、学芸部)、現在は日本大学芸術学部映画学科教授である。最近の論文や寄稿はすべて映画関係であり、美術に関する一般向け著作は本書が初めてではなかろうか?生年、卒業年度、就職の年を追い、文中の経歴を注意して読むと、どうやら大学時代か学部卒業後フランスに遊学したと推察する。そしてこの滞仏経験が交流基金への就職につながり、そこでの経験が朝日新聞社への転職動機となっているようだ。さらにこの間早大大学院で映画研究を究め現職に落ち着く経歴が見えてくる。本書は、その間の国際文化交流基金(在籍1987年~1993年)および朝日新聞(在籍2003年~2009年)に勤務、1987年~200720年間の著者の美術展企画者としての活動実績に基づいて書かれたものである。
“不都合な真実”の根本の原因は、美術館・博物館設立時の考え方とその後の運営行政にある。公的美術館・博物館の嚆矢は明治期上野公園で開催された内国勧業博覧会。この時の展示物はすべて借り物。その後の政策は入れ物主体で、高価な美術品を所有できるような財政的処置を講じてこなかった。これが現状につながってきている。ただ本書でその点は掘り下げられていない。専ら焦点は企画展に当てられる。
我が国で催される企画展(期間限定、テーマに沿ったコレクション展)は世界的に見ても集客数が高い。2018年度全世界実績(入場者数/日)を見ると、入場料無料の展覧会を除き、<東山魁夷展>(国立新美術館;6819人;3位)、<縄文-1万年の美の鼓動>(国立博物館;6648人;4位)となっている。因みに1位はメトロポリタン美術館の<天国的身体展>(1919人)、第2位も同館の<ミケランジェロ展>(7893人)である。これに対し、年間を通しての入場者数は、1位ルーヴル美術館(1020万人)、2位北京故宮博物館(861万人)、3位メトロポリタン美術館(695万人)、4位バチカン博物館(676万人)、5位ロンドン・テート モダン(578万人)、我が国美術館は10位までに顔を出さず、前年度実績で新国立美術館(299万人)が17位相当にランクされるくらいだ。つまり、企画展は大混雑、常設展は閑散が実態なのである。
では企画展とはどんなものか?海外の場合、美術館自身が学芸員を中心に企画・運営し、展示物は一部借り物もあるが、自館の所蔵品が大部分である。これに対し我が国の場合、主催者はマスコミ(伝統的に新聞社中心だったが、最近はTV局が進出してきている)。企画のみならず、貸出先との交渉から入場券の印刷、観客動員まですべてマスコミが取り仕切る。印刷物やTVコマーシャルで主催・共催・協賛・協力・後援などの組織・団体名を見ればその企画展への役割(費用負担額が決め手)が分かるのだが、主催は先ずマスコミ、そこに美術館名があっても単なる場所貸しのケースがほとんどなのである。上野の国立博物館でもにぎわっているのはイベント会場とも言える平成館だし、新国立美術館も常設展示物は無く、専ら外国を含めた外部の作品で人を集めている。結果として学芸員は育たず、海外の美術館との格も自ずと低いものになる(国際的な美術館ネットワークに入れてもらえない)。
企画展は大別すると2種ある。ルーヴル展のように借り出す対象を特定の美術館に限るものとフェルメール展のように作者を限定するものである。後者の場合は作品が分散していることもあり実現の難度が高い。従って特定の美術館から借り出すケースが多いのだが、ここにも日本独自の問題が生じている。本来美術館同士の文化交流であれば、それぞれが要する経費はそれぞれが負担し、賃貸料は発生しないのが原則である。しかしマスコミが介在することでこの原則が崩れ、海外美術館にはいい金づる(カモ)になり、高い賃貸料・輸送費・保険料・ビジネスクラス・一流ホテル利用の学芸員(会場を点検し、展示方法を指示する。本来なら開催場所学芸員の仕事)の派遣費すべてこちら持ち、逆に日本文化紹介のために外国で展示会するときはすべて日本側の負担で文化交流基金(国費)が投入される。著者はこれを“土下座外交”と嘆く。そして先方が送り出す展示品は12の目玉作品を除き、大方は倉庫に死蔵されているものが大部分と内幕を暴露する。そんながらくたでも企画展は大混雑、入場料は高騰を続け今や3千円に迫ろうとしている。これでいいのか?!悲痛な叫びが伝わってくる。美術ファンは是非読んで、美術展に臨んでほしい。

6)ブルックリン・フォリーズ
-病気・退職・離婚・独居、米国ビジネスマン第二の人生も苦楽こもごも、大変です-

数年前から新潮社のメールによる新刊案内を受け取っている。大部分は書名と著者名を見ただけで削除するのだが、たまにお試しを読んでみることがある。本書はそれで取り寄せ読むことになった、極めて珍しい一冊である。何が珍しいか?スパイ小説でもない、旅行記でもない、エッセイでもない、乗り物も戦争も関係ない、先ず読むことのない普通の小説。それも引退した米国人の日常を題材にしたものである。お試し部分は、長く保険会社(損保・生保)の外交員として勤務し定年少し前に肺がんが発見され早期退職した男、ネイサンが、第二の人生を始める場面だった。既に13年を経た私にとっては遥か昔のことではあるが、引退者と言う共通項に惹かれた。それもブルックリンと言うマンハッタンの川向う、労働者階級が住む町、そこにも親近感を感じたからだ。加えて翻訳者の自伝的エッセイ「ケンブリッジ・サーカス」を20189月の本欄で紹介しているが、そのチョッと変わった経歴(東大文学部名誉教授かつ翻訳家;その時々の米国大衆文化を的確に紹介してきた植草甚一や常盤新平に通じるものがある)が記憶に残っており、「この人が現代米国作家の作品を訳したものなら、面白いかもしれない」と思った次第である。著者ポール・オースターと交流のあることはそのエッセイにも描かれているし、ほとんどの翻訳はこの訳者が手掛けている。
フォリーズはFollies(単数はFolly)、愚かさ・愚行の意。“ブルックリンのバカ話”と言ったところ。試し読み部分で、主人公である退職者の愚行を面白おかしく綴った内容を予想したのだが、これは外れであった。確かにネイサンが余った時間を今までに体験したり周辺で起こったりしたことをまとめて「愚行の書」なるものを書き上げようとしていることがタイトルと関係するのだが、実際には最後までその作品は形にならず、彼の親族が何人も絡む、かなり真面目で不安感と安堵感が交錯する、ある種のサスペンス小説なのである。時代はビル・クリントン大統領第2期後半から2001911日まで、当時の米国社会・政治環境や事件がストーリーに反映される。例えば、同性婚問題、モニカ嬢事件、薬物依存、カルト宗教、格差社会(学歴、人種、職業)、結婚や離婚に伴う諸問題(夫婦・親子関係、財産)、ゴアとブッシュの大統領争いなどがそれらで、この世相と登場人物の言動の組合せが、小説の中でリアルな米国社会を浮き立たせる。他の作品を読んでいなが、訳者あとがきなどから、これが著者創作活動の狙いではないかと推察する。
ネイサン(推定年齢60歳直前)はもともとブルックリン育ち。しかし結婚後はウェストチェスター(マンハッタンの北東部、中級クラスの居住圏)に戸建て住宅を持ち、娘はバイオ研究者、既に結婚してニュージャージーに住んでいる。退職を機にお互い我慢を重ねてきた生活に区切りをつけるため妻の求めに応じて離婚、持ち家は処分して等分に分け、古巣のブルックリンのアパートに移り気楽な一人暮らしを楽しんでいる。やることは「愚行の書」の材料探しくらい。ある時古書店に立ち寄った時、長く音信が途絶えていた甥(トム;妹ジューンの息子)とばったり会う。店員をしていたのだ。コーネル大学を最優秀で卒業しミシガン大学の博士課程に進んだが博士号取得に失敗、その後行方が知れなくなっていた。再会を喜ぶ二人だがトムの周辺は問題だらけ、タクシードライバーを経て今の職にありついたが、経営者のハリーは詐欺(偽作画)で服役経験もあるホモ、同僚店員のジャマイカ少年がその愛玩物だ。トムには3歳違いの妹オーロラが居るのだが、彼女は母(ジューン)の再婚後家を飛び出しパンクな音楽仲間と各地を転々。ジューンはその心労もあって49歳で亡くなっている。そのオーロラの娘ナンシー(トムの姪、9歳)が一人でトム叔父さんを訪ねてくる。「お母さんは何処に?」と問う大人たちに「決して言ってはいけないと言われた」と答えない。こんなややこしい環境下、大人たちが頭に描くのはハリーが言い出した“ホテル・イグジステンス(実存ホテル;日常の嫌なものから守ってくれる砦)”と言う心落ち着く場所。果たしてそれは実存するのか?本書はそれを求めての、老後の安楽とは著しく異なる、ただし愚行は山ほどある、時空と心の旅路である。
訳者はあとがきで、「人生が終わった」「中高年」を巡る作品群のただなかに位置しているにもかかわらず、オースターの全作品のなかで最も楽観的な、もっとも「ユルい」語り口の、もっとも喜劇的要素が強い作品、と評している。見事な翻訳(言葉遊びや訳注)と相俟って、その持ち味を十分楽しんだ。ただ、この評からすると他の作品はより悲観的で厳しい内容とも解釈できる。別の作品を読んでみるかどうか、それが問題だ。

7)気象と戦術
-勝利の女神は気象を味方につけた者に微笑む。ナポレオンから湾岸まで-

神話時代、東征に上る日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が相模から上総(かずさ)に渡る際海(東京湾)が荒れ、后の弟橘姫(オトタチバナノヒメ)が入水し海神の怒りを鎮め無事対岸に上陸を果たす。鎌倉時代、二度にわたる元寇は神風(台風)によって水際で食い止められる。戦国時代、長篠の戦(梅雨と火薬の湿りを考慮した戦機)・桶狭間の戦い(豪雨)・関ヶ原の戦い(濃霧)において勝敗を決した天候の記録が残る。そして明治38年(1905年)527日の日本海海戦開戦に際して発せられた「天気晴朗なれども波高し」はあまりにも有名だ。このように日本史を紐解くだけでも、戦いと気象の関係が見て取れるくらいだから、1812年冬季厳寒に依るナポレオン軍モスクワ撤退を始め、世界史にもその例は枚挙に暇がない。従って“戦争と気象”に関しては、内外で多くの著書が著され私も既に56冊持っているのだが、 “戦術”を書名に取り上げているものは皆無、著者が元陸将補であることから、「何か新しい知識が得られるのでは」と期待して読んでみた。
既読の“戦争と気象”ものは、おおむね雨・風(台風)・雪(温度)・潮の干満で語られてきた。本書もそれらが主役を演ずるところは大差ないのだが、かなりの紙数を割いているのが“視程”。これは確かに“戦術”と関わりが深く、新知識獲得に大いに役立った。“距離・靄や霧・砂塵・雲底(地表から雲の底までの高さ)・明暗度、これらが攻守に及ぼす影響、視程を改善する訓練や技術を、事例で具体的に解説されると納得感が違う。
人間の視力とレーダー探知による転換点はサボ沖海戦(194211月、ガダルカナル北東)。夜戦を得意とした日本海軍見張員の視力は8千~1m、酸素魚雷の最適射程は5m(航続距離2m)、これは米水上艦艇攻撃の射程外、大戦果を挙げるが夜間肉薄攻撃の最後だった。米海軍は索敵距離23mのレーダーを装備し、日本海軍の視程と魚雷の射程圏外から攻撃するようになる。この例は天候と直接関係ないが、“視程”の重要性を理解するには分かりやすい。
地上戦においても視程確保は最重要事項。著者は1968年防大卒、1969年機甲(戦車)科に配属される。戦車戦では1500m程度の視程が欲しいのだが、この当時の潜望鏡型暗視装置は視認距離僅か30m!全く使い物にならない。ヴェトナム戦争のさ中、東富士演習場に現れた米海兵隊戦車の投光器が羨ましかったと述する。 それが現在のパッシブ型暗視装置は3000m先の目標を昼夜明瞭に認識できると言う。最新の電子光学兵装システムの解説は、それらが不適な場面も含めて、大いに得るところがあった。
事例では、ワーテルローの戦いにおけるナポレオン軍の敗因(豪雨に依る泥濘で当時の戦略兵器であった重砲の移動が遅れた)から、193912月の冬戦争(ソ連のフィンランド侵略;フィンランドは積雪を利用した進路誘導策でソ連軍を翻弄;戦車は縦列でしか移動不可、人も兵器も白色迷彩を施していなかった)、独ソ戦におけるモスクワ攻略失敗(記録的な厳冬)、朝鮮戦争における仁川上陸作戦(潮の干満差;平均7m、最大10m)、ディエン・ビエン・フーの仏軍敗北(雨季と豪雨)、第3次中東戦争におけるイスラエル軍戦車戦(砂塵を避けるため戦場近くまで戦車を特殊トレーラーで移送)、ヴェトナム戦争における枯葉作戦、さらに湾岸戦争(100時間戦争と言われるがそれを可能にした暗視装置開発には15年かかっている)まで数多く取り上げているが、戦闘状況は既刊書物で語り尽くされているし解説もごく簡単で、特に目新しいものはない。
一方“気象と決断”と言う視点で読むと全体の作り(190頁で図や表が多いので簡単に読めてしまう)のわりに深耕されており、「そうだったのか!」と教えられるところが多々ある。その一例として戦時日本海軍の気象担当者の経歴が分かった。兵学校出身者も多少居たが、多くは中央気象台付属気象技術官養成所(現気象庁気象大学校)からの予備学生出身士官(兵科;指揮・作戦に関われる。第一期19421月採用400名;気象は14名で養成所13名、九大地球物理1名)が大多数。少尉任官と同時に艦隊気象長、キスカ島からの撤退作戦では海霧発生予測がその成功に寄与する。
現在の米陸軍や海兵隊の戦闘マニュアルに記された気象・気候関係情報も多々引用されており、現代戦を知る一助ともなる。

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